そこは世界という家の地下室、黄昏の府
生者が下りてゆける螺旋階段の終わる場所
暗黒の円盤にコバルトに輝く水路が神々を誑かすための紋様を刻んでいる。
その中央部
九つの約束された対比で造られたモノリスが環状に並ぶ

ゼーレの御座

おそらく世界はここを中心に回っている。いずれ12体の巨人がその幻想を現実にする。
頭部がこの闇の中に存在するというのは、終わりのない井戸の吊られ男を思わせる。
その皮肉に気づいているのはこの場には一人しかいなかった。


「今回の事件はシナリオと大きくかけ離れた」
「この修正は・・・・・・容易ではないぞ」
「S2機関を取り込むこともなく起動時間を五分から無限大か。突飛な話だよ」
「早過ぎるな・・・・エヴァはまだ6体しか完成しておらん」

「新たなシナリオを組み直す必要があるやもしれん」

「碇・・・ゲンドウ」

御座の中央にネルフ総司令碇ゲンドウの姿が浮かび上がる

「君の意見はどうだね」

「その必要はないでしょう。修正可能の範囲内です」

「本当にそうかね」

「ならば初号機パイロットを我らが”同志”碇ユイに会わせたのはなぜ」

僅かに、眉を潜める碇ゲンドウ

「今回の召還の主旨はその件について君の説明をきくことにある」
聞き覚えのある声だった。
「ネルフをマルドゥックの二の舞にしたくはあるまい」

ゼーレの老人の突き上げはいつものことだが。
冬月の隠蔽工作を見破れるほどの能は連中にはない。
今までならば・・・・席次が変わったらしい。
女の声だ。知っていた。かつての・・・。






ネルフ本部付属総合病院 綾波レイの病室

しゅりしゅり・・・・綺麗な白い指が器用にりんごをむいていく・・・・。
渚カヲルだった。
籐のかごにおちてゆく紅白のらせん。しゅりしゅり・・・。とん、とん。

「どうぞ」
小皿に切り分けて綾波レイに差し出す。フォークにはなぜか子供アニメの絵柄がついてた。
綾波レイはゆっくり体を起こした。しばらく、そのままでりんごを見つめていた。

「なぜ・・・」

「病人にりんごをむいてあげるのには理由はいらないとおもうよ」
そう言って自分のはうさぎにむき始める渚カヲル。しゅり・・・・・しゅり。

しばらくそのままで。
音だけがながれゆく。

とすっと刺して。りんごをかじる綾波レイ。しゃく、しゃく・・・。
「蜜が入っている、いいりんごだよ」
うさぎの出来具合を眺めている渚カヲル。

その光景を見たものがいれば、おそらく、切り絵のような・・・と形容しただろう。
それは完成されていて、あまり多くの言葉がいらない。色紙のうらに漢字がひと文字だけ
隠されている・・・かすかなひびき。蒼。

「シンジ君はこのまま帰ってしまうと思うかい」

「わからない」

「そう」

あとはふたり、何も問わず何も答えず。夕闇に赤い瞳。ゆらいだ。






赤木研究室
「ホップ分岐が・・・・、リュプノフ指数関数が・・・・・ブリュッセレーターを」
「先輩、頼まれていたデー・・・・けふ、けふ、・・・」
「あ、マヤ。ごめんなさい。今、換気するから」
開けた途端に、ぼわんっ、とアラビアの魔人でも呼び出したような煙。
よくもまあ、これで前が見えるな、というくらいの煙だ。
もしかして、先輩の体内には、ニコチンを即座に分解する特殊な内臓が機能しているのかもしれない・・・・。聞こえないと思って伊吹マヤ。
「そこに・・・おいておいて」
やつれてはいるが、目の色の輝きは別種の美しさを醸し出している。
知性の美に、もうひとつ、「いって」いる感じの美しさだ。言うなれば現代の魔女。
それを前にして、伊吹マヤももはや、「先輩のお体も大事です。少し、休んでください」などと小賢しいことは言わない。
エヴァ四体の修復作業の激務はもちろんのことだが、今回のことで先輩は大分ショックを受けている・・・。私には分かります・・・。初号機のことにとどまらず、エヴァ全体について。・・・E計画担当博士として、エヴァの技術面で全責任を担ってらっしゃる赤木先輩・・・。でも、今回のエヴァの行動は分からないことだらけ・・・。
私でも「エヴァってなんなの?」って言いたいくらいだったし・・・。
それに答えなければならない立場にある先輩の辛さ・・・・分かります。
なんとか解明しなければならない・・・・それは天才である赤木博士、先輩にしかできないことです。私に出来るのは、誰でも出来る、サポートだけですけど・・・。
「いくとこまでいってください!それが先輩の願いなら!」と、ストッパーにならなかった。赤木博士の背中を見ている・・・。
「ふう、マヤ、あなたも食事はまだなんでしょ。一段落ついたし、一緒にいく?」
先輩のお邪魔になってはいけない、と済ませていた伊吹マヤ。もちろん、そのときに気を利かせておいた。
「いえ。もうすませました。先輩の分も、はい」
「?」
振り向く赤木博士の目の前には粉の散らないカロリーフレンドと栄養剤コーヒーと消化の良いカップうどんが差し出された。キャリアな独身女性、三種の栄養神器だ。
ちなみに男は葡萄パンと牛乳とカップラーメン。
便利なことは便利だが、こういう生活を続ければてきめんに目つきにくる。
「これ・・・」
カップうどんに魔法瓶からお湯をそそぎ、すでに体勢にはいっている伊吹マヤ。
「冷房で体が冷えているでしょうから、あったかいうちにどうぞ」

うれしいのかかなしいのかよく分からないフォークな気分でそれをすする赤木博士。
便利でいいはずなのに、ちょっとむなしさを感じるところだが、伊吹マヤがいるので、ちょっと、笑えた。

「そういえば・・・シンジ君はやっぱり、先輩のお家で暮らすんですか」
「・・・それが一番でしょうね。渚くんもいるわけだし。丁度いいでしょう」
既に手続きも完了している。碇シンジはああ言ったものの、現実問題として貴重なパイロットを予備にしておく余裕など無い。碇司令が説得なさるでしょう。
それに・・・・・・。
「若いツバメが二羽・・・・」

「ぶっ!!・・・ごほごほっ・・・・・げへげへっ」
むせる赤木博士。慌てて背中をさする伊吹マヤ。
「大丈夫ですか、先輩」
「あ、あな・・・たが急に変な・・・ことを云うから」
「そんなことを言うひともいるかもしれませんが、私は先輩のこと信じてますからって・・・言おうとしたんですけど・・・」
「そ、そう・・・・」
伊吹マヤの瞳は澄んでいる。そうでもなければ赤木博士をこうまでは慕わないだろう。
赤木博士は基本的に面倒見のいいタイプではない。
「でも、大変ですよね・・・・中学生二人を預かるなんて。さすがは先輩」
「・・・え、まあ、あの歳で一人暮らしというのもセキュリティの面からみても・・・ね」「先輩。うどん、終わってます、けど」
「え」
「おかわり、いります?」

「いいわ」
「それじゃ、頑張ってくださいね」


赤木博士はふと、時計を見た。今が昼なのか夜なのかも地下ならば関係ない。
今の自分が昼にいるのか夜にいるのか。そんなことはすでに関係ないのか。
自分が今、どこにいるのか、それを定める導を一つ失った。昼の道、夜の道。
今さっきまでは伊吹マヤの近くに、伊吹マヤが近くにいた。

「・・・疲れがたまってるのかしらね・・」
冷めにくいネルフのカップに入ったコーヒーに口をつける赤木博士。
ラックに挟んであるノート型をひらく。電源をいれて、かたかたっ・・・と指が閃く。
PURANETA・・・・・ぷらねた
画面に寝ころぶ四つの流星のような尾をもつ黒い猫・・その体には星天が・・名の由来。
星猫とでもいうべきか。
しばらく、それを見ていた。・・・・母親の飼い猫だ。






展望台。第三新東京市の光はいまだ休まず眠らない。

「うーん・・・」

「うー・・・ん」

二人の子供が悩んでいる。碇シンジと惣流アスカだ。
どちらが先に答えてくれるのかな、と興味深げにしながらも視線は星天にある葛城ミサト。

子供の方は悩んでいる格好は同じだが、その内容がちがった。
碇シンジの方は真面目に、言葉を探しているふうだったが、惣流アスカの方は、こんなことなら先に好き勝手なこと、言っとけばよかったなあ・・と後悔していた。
頭のいい少女はとくに言葉を探すこともなく、端的に答えを表現できる。
ただ、言え、と言われれば言いたくなくなるのは人情というもの。
言って恥ずかしいような、それほどたいそうな感情のこもった言葉ではないが、それだけに先手を打たれたことがしてやられた感じで面白くない。

これはウサギとカメの競争だったのかもしれない。

うさぎとカモかもしれないが・・。

「好きか嫌いかと言われれば、・・・きらいです」
碇シンジが先に答えた。

「なんで?って聞いていいかな」

「好きになる・・・・理由がないから」

嘘の下手なやつ・・・・子供でももうちょっと巧い言い方するわよ・・・。
でも、こいつの場合、きらい、というより嫌、なんでしょうね。
質問も下手だわ・・・・。わざとだろーけどさ。
惣流アスカはその端的な答えを変更することにした。

「そう。・・・・じゃ、アスカは?パスは認めないわよ」

「ちっ。言おうと思ってたのに。シンジをどう思うか、ね。はっきり言っていいの?」
「どうぞー」

惣流アスカは碇シンジの前に立った。しっかり目をみて。
「アタシはアンタのことが嫌い」

「アンタがアタシのことを嫌うから」

「な・・・」

「アタシも・・・ミサトも・・・使徒が来なくなる日まではこの街に住むことになる。
それを嫌うってことはアタシたちを嫌うってことでしょ」

「そ・・・」

「・・・・アンタが初号機に乗らなきゃそれだけ使徒に負ける確率、出なくていい、無駄な犠牲を出す確率が高くなるわ。でも、この街が嫌いならそれもいいのかもしれないわね。・・・・いつか滅びの都・・・亡くならない、滅びないものはないんだし」

「僕は・・・」

「だけどカン違いしないでよね。ほんとーははり倒してでも、アンタをエヴァの操縦席に放り込みたいところだけど、正直、アンタにもアンタの事情があるわけだし、痛い目みるのはアンタ自身だし、ホント、好きにしたらいいんだわ・・・・」

好きと嫌いの二重螺旋。人のこころの散逸構造。ほろんほろん、と涙を流す。

惣流アスカも疲れがとれているわけではない。若いとはいえ。
荒っぽく動くと、平静が保てない。
聞いていなけりゃ、もっと軽くに動けたのにね。

「嫌いじゃないよ」
碇シンジは来た道を戻る。途中ですっころんだ泣き声がきこえる。
「僕が嫌いなのは、・・・この街にある僕の記憶・むかしなんだ。嫌な・・・・」

「言い訳なんてしなくていいわ。嫌い、でいいじゃない。ほんとは分かってたんだ。
・・・・話、聞いてたんだし。ちょっと、今のはフェアじゃなかった」
もうちょっと言い方があったはずだ。冷静になりきれていない・・。
正直な話、あれだけの才能を示した初号機パイロットを周りがほうっておくはずがない。だから自分もついていったはずだ。西に北に。そして、初号機の中まで。
碇シンジにはなんらかの秘密がある・・・いわば規格外の存在であるとしても、使徒に街をぶち壊されても引き替えにされるほどのものがあっていいはずがない。
世界がどんな力で動かされているのかは知らないが、それだけは確かな・・・・正義。

正義の名の下に、私情はたやすく刈り取られる。
碇シンジは今や、私人ではあり得なくなった。世界中でも指折りの公人だ。
十四の・・・それも平均よりかなり子供が残っている碇シンジが。
エヴァのパイロットは公人だ。だが・・・碇シンジは・・・・そして、自分は・・・。
人の意志を認めない者は自らの意志も認められない。意志は通じることでようやく形をなしてくるほどに幻にちかい・・・・べつにそれが怖いわけではない・・・ただ・・・。

「シンジ君・・・アスカ・・・」
硬くなった空気をこりほぐすような葛城ミサトの声。
「今、あなたたちの目にはどんな風に見えてるんでしょうね」

独白・・・ひとりごと。なのだろうか。
答えは期待していない声だ。答えよ、と言われても無理だった。
そもそも質問は、この街のこと・・・・なのだろうか。子供たちには分からなかった。
葛城ミサトは缶コーヒーを一滴まで飲み干していた。





その次の日。午前。
ネルフ本部。
碇シンジは総司令執務室に呼ばれた。葛城ミサトが伴った。
「失礼します」
「うむ・・・」
陽光にセフィロトの樹が繁らせるその広い室には、副司令冬月コウゾウの立ち姿のみ。
総司令碇ゲンドウの姿はなかった。
はて・・と思いつつも神妙な表情を変えぬ葛城ミサト。
碇シンジの方は声には出さないが、相当不審気な顔をする。
「ご苦労だった。葛城一尉」
「は・・・。では、これで」
「いや。君もここにいたまえ」
「は・・・」
珍しいこともあるものだ。副司令のみとはいえ。なにがあるの・・・。

「あの・・・・父さんはまだ、戻っていないんですか」
「なかなかに忙しいようでね。もうしばらくかかるらしい」
なんかあるわ・・・副司令がこんな好々爺みたいな表情するなんて・・。
いつもはもうちょっと銀面皮みたいな・・・・上品なんだけど平気で人を騙すようなあれなのに・・。聞こえないと思って腹の内で勝手なことをいう葛城ミサト。
腹の皮が勝手にしゃべりだしたら、ちょっとやばいぞっと。

「そうですか・・」
「今日、来てもらったのは他でもない。碇・・・お父さんから、伝言がある」
「!」
それだけのことに驚く碇シンジ。
「なんですか・・・父さんはなんて・・・」
「君が望むなら、お母さんのところへ戻っても良いそうだよ」
「え!本当ですか」
「無論だよ。ただし、今まで君が生活していた場所へはもう戻れないが・・・これは君の現在の立場を考えると仕方のないことなのだが」
それには殆ど構わない、と碇シンジの顔には書いてあるわけだが、その注意が副司令の言葉に真実味をもたせていた。さらに、言いくるめた当人なのだ。
信用しない理由はない。
だが・・・・表には出さぬものの、不審そのものの葛城ミサト。
目の前で幼子の魂の取引でもされているような危うさを感じる。
「今回の君の活躍があればこそ、使徒が倒せた。しかし、それだけにせっかくのユイく・・・お母さんとの再会がせわしないものになってしまった。お父さんもそのことを気にしていたようだよ。外見はあのようだがね」
司令が・・・・・これは怪しさ対消滅だわ・・・・・。
「父さんが・・・・」

「君には特殊な才能がある。そして事情も知らぬままに我々の無理を聞き入れ、大変よくやってくれた。おそらく初号機をあそこまで操れるのは君しかいない。
使徒との戦闘はこれからも続く。君の才能はそれを考えれば非常に惜しい。
しかし、我々にはこれ以上君にエヴァの操縦を強制する権利はない。
そして君には帰る場所がある。君がそこに戻る、というならば引き留める言葉もない」

・・・・!?これはなんなの?プレッシャーをかけているわけでも詐術の一つでもなし。副司令は・・・いや、司令は何を考えているの。

「は、はい・・・」
そう言われたら、本当に帰ってしまうのが碇シンジという少年だ。
副司令さんみたいな偉い人が言うんだから・・・いいのだろう。
ひどく尤もな考えで、素直な碇シンジはそれを額面通りに受け取った。
それが分からぬ副司令でもあるまい。



「副司令・・・・!これは一体・・・・?」
碇シンジのみが退出し、葛城ミサトは残された。少年が消えたと同時に詰め寄る。
副司令冬月コウゾウの顔から笑顔が消える。苦い顔だ。
「委員会からの通達だ。エヴァンゲリオン初号機はしばらくの間、凍結封印措置がとられることになった」
「!・・・・しばらくの間・・・とは・・」
そんな・・・・バカな話があってもいいのか・・・・なんのための・・・。
「話はそれだけだ。葛城一尉、退出してよろしい」



鬼女の表情で通路をゆく葛城ミサト。すれ違いゆく者皆、端に寄る。



赤木研究室

「あんた、知ってたの?」
「唐突ね」
振り向きもせず赤木博士。
「初号機の凍結封印措置・・・・」
カタカタカタ・・・・・タ。指が止まった。

「開封したばかりだというのにね・・・・」





碇シンジの本部内に与えられた個室。
昨日から住み始めた。しかし、ホテルのような馴染みである。
父親が司令を務めるネルフ本部そのものは、家、なのだろうか。
そう考えると、家、に住んでいるわけだが。かなり無理がある・・・・・。

子供用に揃えられた机やベッドなど・・・新品である。

碇シンジは机に座り、これも揃えられていた、机の引き出しから便箋を取り出す。
筆記道具事務用品も新品が一揃えあった。ご丁寧に習字の道具まで。
教科書などもおそらくはこちらの中学にあわせた新品が並べてあった。

碇シンジはボールペンで便箋に、かりかり・・と書き始めた。
途中で頭をひねりひねり、時に辞書などをひきひき、手紙をかいていた。

昼食もとらず、一心不乱に。何枚も何枚も書きつづっていた。

書き終わったのは午後三時。それを封筒にいれて封をする。バツ。
八十円切手を貼る。今や四季はこの中にしか残っていない、せめてもの桜。

「ふう・・・・・・、これでいい・・・・のかな」

しばらく目を閉じて考えるようにする碇シンジ。自分のこれからの行動に・・・・・・・後悔はないだろうか・・・・未練は残っていないか・・・・・・。
もやもやとしたものは何も定まらず。碇シンジはその中にそっと手をひたして、両手分だけ掬いあげた・・・。それを飲み干す・・・・とくん、とくん・・・・・

優先順位も何もなく、ただその時その手の中にあったもの・・・

正しいのかどうかは分からない。ただ、そうしなければ目も開けなかった。
そのあとに碇シンジは自分なりの優先順位をつけて、自ら納得した。

碇シンジは部屋を出た。






赤木研究室

「これでシンジ君も帰ることが出来るわね。望み通りに」
「随分あっさり言ってくれんじゃないのよ」
「母子の絆には勝てない、と言ったところかしらね。残念だわ」
「・・・・・・」
初号機凍結封印措置により、どこか投げやりな赤木博士。
凍結だけならまだしも・・・封印とは。研究すらも許されない、ということだ。
科学者に研究やらせないでなにしろってのよ!!・・・・目の前に葛城ミサトがいなければそう喚きたかった。もう博士号は持っているから、論文を発表できない程度ならばまだしも研究調査を止めさせるとは・・・・密かにやればいいとはいえ、余計な手間がかかることになんとも頭に来る赤木博士であった。明日、アバドンから歓喜しながらやってくる連中に神聖な仕事場を弄くられることには、この身をどうかされる以上に陰鬱になってしまう。碇シンジ君も惜しいとは思うが・・・・今はそれどころではなかった。

エヴァの修復作業もそれはそれで重大な責務ではあるが、元に戻すだけでは面白味にかける。それにそれは設計基とプランさえできていれば職人の仕事だ。
万能科学者赤木リツコが肌の荒れにも目もくれず没頭したいのは、やはり初号機のことだ。
科学者が研究をしたい欲求というのは、葛城ミサトにはいまいち理解しかねる。
演奏家が楽器を弾こうにも楽器がないような状態かしら・・・ね。
さすがに親友が苦しんでいるのをみて、アルコールに喩えるような無粋なことはしない。
ただ・・・・まあ・・
これはどうしようもない。E計画担当博士でも作戦部長でも。その権限の上のこと。
さらに、碇シンジのことは、少年自身の問題だ。・・・こちらは問題にもならないかもしれない。なにせ少年は明言しているのだから。

なにはともあれ・・・・母親のために。

もし、自分に男の子がいたらあれくらい慕ってくれるかしらね。・・・冗談。

なにはともあれ、初号機のことだけ悩める赤木博士はまだいいのかもしれない。
初号機とシンジ君。どちらが欠けても意味はない。作戦部長として。
エヴァを三体も持っているくせに・・・・まだ必要なのか?嫌がる子供をだまくらかして乗せてまで・・・。もう少し、指揮がしっかりしていれば必要ないんじゃないか?え。
心の声。虎バサミのような軍人葛城ミサトの声だ。
しかし、青狼のように駆け抜ける葛城ミサトのカンは一秒たりとそれに足を捕られることはない。果てない草原に広がる視野。遠いところになにかが見えている。
誰も見ようとはしない、何かが。
エヴァ初号機と碇シンジの関係・・・・。今はまだ雲に霞むほどに遙かな・・・・・。

「たぶん、碇司令がなんとかしてくれるわよ。息子があれだけやってくれたんだもの。
父親がここでやんなきゃ、沽券にかかわるでしょー」
目の前でいつもすかし・・・・いや、冷静な赤木博士が落ち込んでいると、なんとかしてやりたくなる天性のサービス精神をもつ葛城ミサトは明っかるく言った。
単に自分が落ち込みたくないだけかもしれない・・・・などという、か細い神経の持ち合わせはない。
「そういえば、碇司令の応援をしたくなる気分てのも十年ものの蟹みそみたいでおつなものよね」
「蟹は腐りやすいのよ・・・・」





その夜のこと。
惣流アスカは葛城ミサトより、渚カヲルは赤木博士より、碇シンジの里帰りを聞いた。
初号機の凍結封印は聞く権利として教えられた。
同時に、それゆえに碇シンジのことについては何も言えなかった。

初号機に乗るためのサード・チルドレンであることは肌で感じている。

それが動かすことを許されないというのであれば、碇シンジがここに「残る」理由はない。帰る場所は他にあるのだから。チルドレンは家に帰った・・・・。

「残念です・・」
とフィフス・チルドレン、渚カヲルはわずかに目をふせた。

「そう」
惣流アスカはつとめて明るく返答した。なんでもない。自分は納得している。
これでアイツを引き留めるものはなにもない。当然の帰結だ。
乗れ、といったり乗るな、と言ったり・・・・勝手なもんよね。高度な判断だかなんだか知らないけど・・・・元々やる気のないところにこれはトドメだ。
自分とはまさに逆。すれ違いゆく。初号機の代わりを弐号機で務めるほかはない。
それが自分の仕事だ。明白なこと。自分は納得している・・・・。

だけど・・・・。

この胸の内のざわざわする不安はなんだろう・・・まるで強い風吹く森の木の葉のざわめき・・・失望感?にしては騒がしい・・・・・。もっと戦力的な・・・・計算・・・か。
あの圧倒的な力に頼ろうとしている・・・・?少し、違う。頼ろうにも使用禁止だ。
言葉にならない・・・・あえていうなら・・・・不幸の予感・・・。
不吉・・・などではすまない・・・・もっと強い暗さ・・・・。
べったりと胸の内にはりついて拭えないほどに重い色・・・・・。
初号機から肩代わりする、第三新東京市・・・ひいては人類の未来の重さ・・・?いや、これはそんなマトモなものじゃない。黒い炎がチラチラとワルプスギスの踊りを踊ってる。

たかがサード・チルドレン一人がいなくなったくらいでっ・・・・。

惣流アスカはその夜、眠れなかった。
明日からはまた学校にいかねばならないのに・・・






夕暮れの電車の中。がたん、ごとん。

「たっだいまー、えへへ、寂しかった?」
同じ顔をした綾波レイ。向かい合わせに座っている。

「・・・・・・・」
またこの夢だ。それで、本人が言っていたようにどこへやら行っていたのか、また戻ってきた。唐突に。

「はい、おみやげ」
いつものようにカバンから何やら取り出してくる。焼きトウモロコシだった。
トウキビというのかもしれないが。綾波レイにはどちらでもよい。
ビニールに包まれているがくもっている。温かいらしい。醤油の匂いが香ばしい。

「どうしたの?いらないの」

「あなたは・・・嘘をついたわ」

自分と同じ顔に告げる。それはある種の勇気がいるのかもしれないが綾波レイの表情は、変わらない。トウキビレイも同じ表情をした。

「そう、うそ」

「・・・・・」

「上からよんでも下からよんでも同じ。こういうのを回文っていうの。知ってた?」
おちょくっている。自分と同じ顔で。常人ならばとっくに辛抱たまらんだろうが、綾波レイはひっかからない。単に興味がないだけかもしれないが・・。

「ごめん、ごめん。でも、いきなり嘘つき、だなんて人聞きの悪い」

「碇君は戻ってきたわ」

「ああ、あれねぇ・・・・。うふふふ・・・・・」

うわんっ

急にトンネルに入った。闇に輝く赤い瞳。含み笑いが反響し続ける。

らんっ

トンネルを抜けた。目の前の綾波レイはにこにこと笑っていた。

「あの子さえいなければ・・・と、まあそんなことはどうでもいいか。
レイが知りたいのは、シンちゃんのことなんだもんね」

「・・・・・」
正体を問うても無駄。だから黙っていた。

「もしかしたら・・・って上につけといたじゃない。予定はあくまで、み・て・い。
それに、また帰っていっちゃったんだから同じコトよ」
かじかじ。
「・・・・」
赤い瞳が細められた。わずかに。

「あれ。聞いてないのー。シンちゃんはお母さんの所に帰っていっちゃったんだよ」
かじかじ。ひどく当然な、来週の掃除当番でも教えるかのような口調。




赤い瞳が開かれる。そこは病室。夕暮れの。一人きりだ。
しかし、確かに耳に残っている。帰っていっちゃったんだよ・・・・・・。
彷徨う視線がインターホンをとらえた。・・・・なにをするのか・・・・・
なにをきくのか・・・・きいてどうするの・・・・・・・これは・・・・
もしそうなら、それは碇司令の決定。何も言うことはない・・・・・

今は少しでも早く体力を回復させておくべき・・・・余計なことは考えず・・・・
それなのに・・・・・
なぜか耳に残ったそれが、いつまでも消えない。

夜が来ても赤い瞳は天井を見上げたままに。閉じられることは、なかった。





その次の日。

ネルフ本部。
エヴァンゲリオン初号機の凍結封印作業が行われる。
それをネルフのスタッフにまかせるほどゼーレの命を受けた委員会は甘くはない。
対応も凄まじく速い。
「泥棒の迅速ね・・・」
赤木博士が危惧していたように、アバドンからやってくる者たちが彼女、彼らの仕事場を完全に奪ってしまった。知の蹂躙。内部は非公開だ。
どのレベルで「封印」されるのか、赤木博士にすら知らされることはなく、作業は進められていく。


「冷蔵庫の裏でゴキブリが運動会やってるみたいで・・・胸が悪いわっ!!」
モニターを一部切断された発令所で葛城ミサトが吐き捨てる。
誰もそれに異議を唱えようとはしない。潔癖性の伊吹マヤでさえ。
表現こそ違うものの、気持ちは皆同じだった。いや・・・・
まだ、作戦部などはいいのかもしれない。技術部に比べたなら・・・・。



E計画担当博士・・・・赤木リツコ。

気分がすぐれぬと研究室に籠もっていた。珍しく、煙のない澄んだ空気。
電源を入れていないディスプレイに顔が映る。研ぎ澄まされた鋭利さからユラユラと霧のように立ち上るものがあった。悔し涙・・・が絶対零度に凍りつき、改めて怨念の焼きを入れられ、ようやく体の外に逃れることを許されているような・・・・感情そのものが、赤木リツコを恐れて逃げている・・・・他人は絶対に見てはいけない表情、などというものがあれば、まさしくこれがそうだ。

「母さん・・・・・・まだなの・・・」

時計だけがそれを終わらせることができる。





きーん、こーん、かーん、こーん。

「やったー、メシやメシや。うー、ハラ減ったのう」
鈴原トウジが相も変わらず鈴原弁でわめく第三中学校二年A組の昼休み。
「なんか久しぶりだよな」
「お、気づいてくれたんか。心の友。そうそう、このうー、ハラ減ったのうバージョンはひさし・・・ぶりやって!こらあ、ツッコんでくれやあ!」
「そうだね、ケンスケ君」
渚カヲルである。今日から登校してきた。向こうの方で洞木ヒカリとお弁当を広げている惣流アスカと同じく。綾波レイはまだ、病院である。
「お、おまえらなあ・・・・」
「トウジ君もいつも元気で・・・・なんだか・・・心が暖まるよ」
一万ボルトの渚スマイル。しかし、鈴原トウジには通用しない。
「心もええけど、ハラが暖ったまらんとな。・・・・ほれ、これやるで」
メロンパンであった。・・・・ほんとは通用していたのかもしれまへんなあ。
「ありがとう、トウジ君」
いつものサンマ弁当ですらなく、今日は白弁当の渚カヲル。そして、のりたまだ。
「メロンパンとご飯かあ?そりゃないだろ。トウジ。しょうがない。ここは私の本日の秘蔵の一品、カツカレーパンを君にあげよう。これで少しはマシになるだろ?」
「ありがとう、ケンスケ君。・・・ではぼくも君達にご飯を少し・・」
分けようとする渚カヲル。
「いらん!」「いい!」即答する二人。
「そうかい?ではのりたまを・・・」
「いらん!」「いい!」また即答する二人。



「リハビリ、すんだんだね」
「・・・え、うん」

朝、学校に行くまでは気分が重かった。学校に来ても気分は重かった。クラスの引き戸を開けて中に入っても気分は重いまま・・・。

洞木ヒカリ・・・ヒカリが黒板を拭いていた。ほんとは他の誰かがやるようだったけれど・・・・気づいて、目があった。何、言われるんだろう・・。少し、今、気分が重い・・・・・。
「おはよう、アスカ」
「おは・・よ」

そのまま黒板消しを叩きに行ってしまう。なぜかひどく楽しげだ。
そして、午前中の授業が終わり。昼休み。鈴原トウジのわめきが響き、渚カヲルの方と、綾波レイの空席を見ていた。ぼーっとしてた。眠くはないが、視野がぼやけた感じだ。
その時、洞木ヒカリの声。

「リハビリ、すんだんだね」
「・・・・え、うん」
反射的に答えていた。間がぬけている。らしくない。
「良かったね」
耳に心地よい・・・。気持ちがほんとうにこもっているからだろうか。
ただ今までの状態を取り戻しただけ、そして現在の状況はさほど良いわけではない。
それなのに・・・・・自分はリハビリに行っていたわけでもない・・・誤解だ・・・。
誤解なのに、気持ちがほんとうにこもるってことはあるの・・・・。
「お弁当、一緒に食べよう」
「うん・・・」

味が良いのは気のせい、だろうか・・・。おいしい、と思う。
それどころではない・・・・はずなのに。ちろっと渚カヲルの方をみてしまう。

一年生の女子にお茶を汲ませている。表情はいつもの通りだが・・・朝より明るいような。それに・・・白米の上にパンをのせているのは一体なに?へんなの。

ファースト・チルドレン、綾波レイの席も見てしまう。
ここにはいない。明日には登校してくるだろうか。その時、どんな顔をして・・・・・・いや、多分、変わりそうもない。あの表情のままだ。
でも、そこにいるだけで何か変わることもあるのかもしれない。渚のように。

サード・チルドレン、碇シンジ・・・。もし、ここに・・・・、ツッ、やめとこう。
惣流アスカは唇をかんだ。






ネルフ本部

エヴァンゲリオン初号機凍結封印作業 終了

総司令執務室

「ご苦労でしたな」
副司令冬月コウゾウが蛇を縄で縛り丸めたものを放ってよこすように言った。
壮年の白人科学者と修行者を思わせるインド系の技術者。今回の作業の現場責任者だ。
おそらくは前々から計画を練っていたことを匂わす手際の良さだった。二日かからずだ。
技術力もネルフのそれを上回っていることを差し引いてもこの速さは異常だ。

ま、泥棒が後始末までやるはずもないのだがな・・・。

いざ凍結を解かれた時点で即座に使用できるようでなければ兵器としての意味がない。
いくら人造人間とは云え・・・牢獄の中でのたれ死二を待たれる政治犯ではないのだ。

「これにサインを願います。ネルフ副司令殿」
嫌みなど言っている時間はない。すぐさま赤木博士と開封作業を取り計らわねばな。
ざっ、と書類に目を通す。ゼーレも委員会も自分の命は惜しかろう・・・これはあくまで
ネルフに対する脅迫操作に過ぎ・・・・!!
「なんだこれは」
「サインを・・・願います。ネルフ副司令殿」
白人科学者はそれには答えず言葉を繰り返す。ロボットのように。
「左腕部を硬化ベークライトで固めただと?これは何のためだ」
「お答え致しかねます」
「しかもわざわざ切断し直してか・・・」
「委員会の命令です」
「頭部装甲を剥ぎ、素体に封帯を巻き、なおかつルシ13札を貼りつけた・・・その意味を是非とも聞きたいな。・・・この場でね」
「我々に手を出すと、ゼッ・・・ゼーレが黙ってはいませんぞ!!」
「何を勘違いなされているのですかな?ただ、今、あなた方から聞きたいというだけのことですよ・・・」
時間の無駄だとは思いつつも、さすがに腹に据えかねた。早々に追い返して作業に移るべきだな・・・。


「マギ、というのは随分扱い難いですな・・・」
インド系の技術責任者が口を開いた。刹那、念仏かコーランかに聞こえた。
「レコーダを調べさせてもらいましたが・・・・嘘ばかりついてくる。まるで・・・仏陀を迷わす性悪女のようですな。とても東方の三賢者とは思えない・・・」
冬月コウゾウはその言葉の裏にあるものを即座に見抜き・・・・戦慄した。
なぜそれがわかる。




「なによ・・・・・これ・・・」

凍結封印されたエヴァンゲリオン初号機の姿を見て、葛城ミサトは絶句した。
他の者たちも同じく。その無惨な姿に言葉がない。

発令所のモニターが接続を許可され、即座に映し出されたその映像。

血染めのミイラ。

あの厳ついが蒼武士の勇将を思わす頭部を頭に入れていただけに衝撃は強かった。
深い眠りを襲われて寝首を晒されている・・・・。緑の目玉が怨みをためてドロリと光っていた。むき出しの歯が無人のケージに虚空の唄をうたっている。

「・・・・・・」
角度を変えたモニターの一つに赤木博士の視線が凍っている。
初号機左腕部。つけ治したはずのそれが無かった。

「あ・・・・あれ・・・・」
初号機の足下に転がる長方形の固形物・・・・・それは。
「硬化ベークライト・・・・ここまでやったの・・・」
初号機左腕が固められ閉じ込められていた・・・・。実験室の標本のように。


「こんなもん・・・・見せらんないわよ・・・」
葛城ミサトが呟く。ゴキブリの運動会程度では済まなかった。
目的のない人体実験を思わせる光景。いや、そのものか。
使徒来襲という脅威に対抗するために造られた人造人間エヴァンゲリオン。
使徒を倒す、その恐るべき力ゆえに今度は人の手で封印される・・・・。
目的・・・・存在意義が壊れている。
ナンノタメニ

自分が・・・自分たちが見る分にはいい。歯ぎしりしてこの悪寒に堪えよう。
だが、これに乗る子供たちは・・・これに乗って散々な目にあってきた、別に選ばれても大して嬉しいことも楽しいこともない、チルドレンには・・・・。


だが・・・・心の片隅で、ほっと安心する自分がいる。確かにいる。絡まっていた、重く錆びた恐怖の鎖が外された。
そして、いつも隣にいた恐怖から離れられる。檻から出られた・・・・。
もしや、と思って振り返る。もしや、それとは一生つきあっていかなければならないのではないか・・・。それは歯を剥き出して問いかける。
ナンノタメニ


ネルフの胸の悪い不機嫌な一日は、時刻により強制的に終わらされた。




その次の日。

皆が皆、胸焼けをおこしたような顔をしていた。最も穏やかな気性の者でさえそれなのだ。整備員や技術部の人間などは朝から悪鬼羅刹の面構えでケージを徘徊していた。

体力的精神的な疲労がようやく抜けつつあった所に、この煮え湯を飲まされるような措置である。誰しも機嫌の良かろうはずがない。気が荒れて喧嘩乱闘などが起きても不思議ではないがさすがにそこはネルフであった。



総司令官執務室
「出迎え・・・ですか」
その中でもとりわけ凶悪な眼の葛城ミサト。この眼に直接晒されて恐れないのは今のネルフでも数えるほどしかおるまい。これでも抑えているのだった。
「そうだ。霧島ハムテルという人物だ。研究部の部長として招いたのだよ」
こんな気分でなければ笑ったかもしれないが葛城ミサトの眼の色は変わらない。
「前々から打診していたのだが、ようやく引継が終わったというのでね・・・」
今、使徒が来襲してきたらどうするのやら・・・。冷ややかに考える。
優秀な人材なのですね・・・副司令。作戦部長が直々に出迎えるほどに・・・。
なんらかの「必要」があるんでしょう。いいでしょう、いきましょう。



カートレイン駐車場。
青いルノーに乗り込もうとした葛城ミサトの背に男の声が走りこむ。
「おおーーい、待ってくれえーっと」
シカト。職人芸を思わす早さでシートベルトを掛けてしまうとさっさと出してしまう。
と、それ以上に走ってきた男は素早く、スタントのようにドアを開けると乗り込む。
スパイ映画のような一シーン。綿密な打ち合わせがなければこうはいくまい。
ただし、俳優ならば。乗り込んできた男は本物だ。加持・・・
「ソウジ君。乗っていいって誰が言ったの?」
「その口調、赤木に似てるな。しかし、よく見分けがつくな」
特に悪びれた様子も息を切らせた様子もない加持ソウジ。
カートレインが動き出す。
「見りゃ分かるわよ。そんなの」
「見りゃねえ・・・」

「それで、どこまで」
「駅まで頼むよ」

「機嫌が悪いな」
「いいわけないでしょ・・・」

「その内、いいこともあるさ」

地上に出た。タイヤに摩擦の悲鳴を上げさせ、突っ走るルノー。

「・・・あのさ」
「なんだい」

「こんなついでに言うことじゃないんだけどさ。・・・シンジ君と・・・アスカの面倒みてくれてありがと」
「ついで仕事・・・・と言っちゃあアスカが可哀想だな」
もうひとり可哀想な兄弟については黙っている加持ソウジ。

ルノーは速いが、それでも二言三言で到着はしない。

「・・・・シンジ君ってどんな子なの」
機嫌の悪い顔は変わらないが、切り出したのは再び葛城ミサトだった。
ただ、その名前を口にするときは壊れやすい卵を手にするような繊細を用いて。
「碇司令のご子息にしてサード・チルドレン、そしてエヴァ初号機のパイロット」
びゅんびゅん流れ飛んでゆく景色を見ながら加持ソウジは答える。
「それを忘れてはいけない・・・・この先もな」
それを踏まえた上で、と加持ソウジは自分の心証を伝えた。



「この先・・・・」
新箱根の駅に到着し、加持ソウジは構内に消えてゆく。
霧島ハムテル教授・・・・いや、部長の肩書きになるのか・・・それを待つ間、葛城ミサトは先ほどの会話で引っかかる部分を反芻していた。
何か含みがあるのは分かっている・・・・安易な期待に寄らぬよう・・・考えた。

特別臨時急行列車が入ってきた。

足が進んでいた。ネルフのカードが閃き無人改札口を開かせ、ホームまで。
自分を迎えに行かせたのは・・・何故か。加持ソウジの言葉の意味は。
凍結封印された初号機。約束を果たすためにエヴァに乗った少年。
雨の電話。紫の電光。雪のエントリープラグ。コーヒーの宴。使徒を見た発令所。
記憶が渦を巻く。思えばそんなに昔のことじゃない。しかし、あまりに奇妙で鮮烈な時間。


それらが足を進ませる。葛城ミサトの足は、いま、現実を踏んでいなかった。
「霧島・・・ハムテルです。よろしく、葛城一尉」

「こちらこそ」
理知的だが上品の香気を漂わせる笑顔。それに対してマネキンの硬さで応対する葛城ミサト。
とっくに去った特別臨時急行列車。降ろしたのはただ一人。この紳士だけだ。

軍人葛城ミサトは、丁重にネルフ本部まで霧島教授を案内した。
総司令官執務室までの取り次ぎを終え、任務を完了した。一礼して部署に戻る。
惚れ惚れするような凛然とした軍人ぶりだ。瞳の色さえ見なければ。



作戦部長室。また、昨日と同じ時計が回っていた。
のろのろと回ってきた書類に眼を通す。片づけるべき仕事は多い・・・。
どっと疲れが出てきた感じだ。ひどく億劫に感じる・・・元々、面倒といえば面倒だったが今日のそれは・・・なんだか空しい。積み上げてきた物が実は頑丈な煉瓦ではなく、風にも吹き飛ぶ発泡スチロールに色塗っただけのものだと気づいてしまったような・・・。不安のむなしさだ。
水晶の使徒を一撃で粉々に打ち砕いたエヴァ初号機。それを使えば使徒に勝てる。
そのエヴァ初号機を操る力を持つサード・チルドレン、碇シンジ。使徒に勝つにはこの少年も必要なのだ。こそ、と言うべきか・・・。
エヴァを起動、制御出来なくとも、それを操る少年を「制御」すればいい・・・・。
自分たち・・・いや、自分に出来るのは結局の所、それしかない。
そのエヴァ初号機は委員会の意向により凍結封印。動かせない。
だから、エヴァ初号機を動かせるサード・チルドレン、碇シンジの不在・・・手元に無いことに不安を覚えるのか・・・・最も使える「仕事道具」がないから・・・・落ち着かないだけなの?ねぇ・・。

時計の針の音がジャクン、と気刻む。・・・・神経がささくれ立っている証拠だ。

こーゆー時は風呂に入って命の洗濯をするのが一番なんだけどねー。
葛城ミサトはしたたかだ。伊達に弐拾九年生きていない。

さすがに風呂に入るわけにはいかないが、食事くらいはいいだろう。気分転換だ。

「葛城一尉!おられますか!」
「日向くん?」
ちょうどドアを開けたところで日向マコトが何やら慌てたように立っていた。
まさか・・・・次の使徒がもうきたのか!いや、それなら警報が鳴る。
「あの・・お話したいことが」




研究室に籠もりっぱなしの赤木博士に極秘書類を届けにゆく伊吹マヤ。
これだけ基地の規模が大きいと、一番信用できる伝達手段はやはり人間であった。
これが地上ならば伝書鳩、とかいう方法も使えるが、地下だ。伝書モグラなんてものは使えないし・・・・やはり人間が一番。そして、赤木博士の結界に立ち入りを許可され、なおかつその危険を望むのは伊吹マヤくらいしかいなかった。
通路をわずかに急ぎ足ですすむ。昨日のショックが残っており、彼女も気の憂く顔だ。

向こうの通路を碇シンジがてくてく歩いていく・・・・・。

「え・・・渚・・くん?」
中学生の制服姿をこの本部内でそうそう見られるはずがない。黒と白の。分かりやすい。それで本部をうろつくのは渚カヲル君と・・・・碇シンジ君しかいない。だけど・・。
消去法で渚カヲルの姿だと頭では答えをだす。髪の色は遠かったから・・・そう見えた。眼が疲れているのだろうか・・。

ネルフ職員D級勤務者 習志野ワタリ
「こんなところに子供が・・・・・パイロットか。道に迷っているふうでもないな。
しかし、学校にいかなくてもよいのかな。」

ネルフ地下食堂 栄養士と調理師の資格を持つ40代の女性。平たくいうのは禁止。
「カードは持ってるから、いいんだけどさ。あの年齢で食堂の味なんかに慣れちまうのもなんか不憫だねえ」

本部警備員 大橋ジョウゴ
「こらこら、カードを見せなさい。よし。確認。・・・・・この間はよくやってくれたね。これからもがんばってくれよ」




作戦部長室
「はあ?シンジ君が本部にいるう?」
「はい。どうも帰ってきてるみたいなんですよ」
「みたいって・・・確認は。らしくないじゃない」
「カードがそのままなものですから・・・。」
ちゃんと体があるなら、本部内で怪しい人物は即座に捕まる。本部内で中学生。
これは怪しい。機械的なチェック機能にもひっかかっているはずだ。
だが、認識カードがあるというならば・・・・。

副司令に直接尋ねるしかあるまい。

ほんとに・・・碇シンジ君が帰ってきた?




綾波レイの病室

午後からは退院になる。あまり荷物もないが、帰宅の用意をしている。

こん、こん

渚カヲル・・・ではない、まだ学校のはず。それに、この叩く音には覚えがある・・・・。
「碇・・・・君・・・」




「理由は彼から直接聞いてくれ・・・・・か」
総司令官執務室から退出する葛城ミサト。主が不在であると多少は行き易い。

碇シンジはネルフに・・・・第三新東京市に戻ってきている。

理由は分からぬが、航空機で現地まで飛び・・・・しかし、わずか三十分ほどで・・・・母親にも会わず、戻ってきたのだという。・・・・本人の意思で。
「軍用機をまるで・・・タクシー扱いだ・・・クク・・さすがに碇の・・・」
副司令は苦笑していた。すぐに立場を思いだし、消しはしたが。
使徒に続き・・・同じ人間にまでぼったたかれたネルフの副司令として・・・・・・・・ 諧謔のようなものを感じ、胸が、透いたのだろう。その時一瞬だけ、とはいえ。

葛城ミサトは、苦笑している場合か・・・・と思うのだが副司令には副司令なりの思惑があるのだろう・・・。司令も何を考えているのかよく分からないが・・。
いずれ呼び戻すつもりではあったらしい。カードの抹消はされていなかったのだから。
おおっぴらに発表できることでもないが・・・特にこんな時期には。
いくら非公開組織でも、構成している内部の人間の志気を損なう。

問題は、だ。

碇シンジが自分に会いたくない、と思っているのではないか・・・。

よく考えたら、自分は碇シンジにとって鬼門のようなもの。出会ってから少年の不幸が始まった。公平に、客観的に、いや、自分贔屓目に見てもあれは・・・・不幸だ。
不幸を招く、嫌な女・・・だと思われているとしたら・・・。

なんのために戻ってきたのか・・・・いまいちよく分からない・・・加持の話を聞いても。子供の考えること・・・・・。それが。
母親にはかないっこないんだもんねえ・・・。敵する気もないけれど。


作戦部長室
・・・・・の前に子供が立っていた。


「シンジ君?」
「こ、こんにちわ・・・葛城さん」





「シンジ君が帰ってきた?」
「はい、私も通路で見かけたんですけど、その時はまさか、と思って・・。
でも、本当に帰ってきてくれたみたいですよ!」
容赦なく暗く吹き溜まっていた赤木研究室の空気に、切れ間から光が差してくるような、伊吹マヤの報告。
「で、今は何してるの」
そっけない、というより、これは予測していたのね、先輩のことだから。さすがです。
「葛城一尉と色々と話しているようですよ。やっぱり、戻ってきた理由なんかを・・・」

にゃー、にゃー、
猫電話が鳴った。反応は慣れている主の方が速かった。
「はい、赤木・・・・え?・・・・・なんですって!ちょ、ちょっと葛城一尉!?」

「・・・・切れたわ」
一瞬、キレたわ・・・・そう聞こえてしまった伊吹マヤ。
「ど、どうしたんですか・・・先輩」
「シンジ君と一緒に住むことにしたそうよ・・・・」
「ええっ!?」
手続きは完了していたのに・・・後からゴリ押しとは・・・・ミサトらしいわね。
初号機に続いて、もう一つの研究テーマを失った赤木博士がどうなったか。
伊吹マヤは早々に避難した。
再び暗黒に閉ざされてゆく赤木研究室・・・・・・。




「これで、よしっと」
葛城ミサトは内線を切った。
「・・・・あの、葛城さん」
「なあに。あ、それで葛城さんはもういいわ、ミサト、でいいから」
「なんでですか」
「そっちの方が呼ばれたとき、美人に思えるからよ」
「・・・はい、分かりました。でも、なんで一緒に住むことになったんですか」
二つの質問が同レベルなのがこの子の面白こわいところね。
と、ぬけぬけと自画自賛する葛城ミサトは思うのであった。
「まあ、いろいろあるけど・・・・シンジ君は一人暮らしの方が良かった?」
まともに答えようとして、それが結構むつかしいことに気づく葛城ミサト。
まともに答えようとしたところにすでに無理がある。碇シンジ相手に。
ちょっと、浮かれてるわね・・・。現金。
この手の問いはまともに答えられても、かえって嘘のように聞こえる。

「いえ。・・・あの、これから、よろしくお願いします」
「・・こちらこそ」
大真面目で頭を下げてくる碇シンジにあわせる葛城ミサト。
・・・今、他人に見られたくないわね・・。ちょっち・・。
もしかして、シンジ君は住み込みの弟子入りの気分なのかもしんない・・・。
それならわたしは師匠か・・・なんの家元かしらないけど。
地球防衛流 エヴァンゲリ道・・・・・うーん・・・・。


「バカシンジが帰ってきてるって・・・・・・何、してるの?・・・・」
絶妙なタイミングで惣流アスカが入ってきた。その後ろには渚カヲルもいる。
ちょうど葛城ミサトが見られたくない、と思っていた頭を下げ合う光景。
日本の礼式美、と言えなくもないが椅子に座ったまま殺風景で乱雑な作戦部長室でやるとこれはかなりマヌケだ。
「ノ・・・ノックくらいしなさいよ」
「ご、ゴメン・・・」
さすがに迫力におされてあやまってしまう惣流アスカ。2,3歩下がってしの影踏まず。
「おかえり、シンジ君」
「ただいま・・・カヲル、君」
「いつ戻ってきたの」
「午前中に・・」
碇シンジは渚カヲルの顔を見ると不思議に落ち着くようだ。見られてしまっても表情に変化はなく、ひどく当然に話をかわす。
三歩さがってしまったことで、その領域から離れてしまった惣流アスカ。
一度強く頷いて、青い瞳に意志の光をためて。いうわよ、アスカ。
ツカツカと歩み寄る。不自然に足音が硬かった。渚カヲルは一歩、ひいた。

「なんで帰ってきたのよ」

目の前に立つ。抑えた声色。感情が吹き荒れないように。己を隠すために。

「お母さんのことはどーすんのよ・・・」

「まさか適当なところで切り上げて帰ろうってんじゃないでしょうね・・・」

「中途半端で帰ろうとするなら、最初からいないほうがいい・・・。
エヴァに乗って、使徒をみんな倒して・・・・それがアンタにできんの!」

やばい・・・ここまで言うつもりじゃなかったのに・・・。もう少し・・・
こんな全力で顔めがけてぶつけにいくみたいな・・・しまった・・・・・ク・・
自分で言っておいて表情が青ざめる惣流アスカ。


葛城ミサトがフッ、と不敵な笑顔を作る。予定より早かったけれど・・・それも結構。
シンジ君、言ってやんなさい。
ガツンと一発。大切の、その言葉を。

「僕は、アスカに・・・・借りたものをかえすために戻って、きた」

碇シンジは顔面にぶっつけられても怒りも泣きもせず、言った。
「え・・・・」

よっしゃあっ!内心で喝采する葛城ミサト。渚カヲルの赤い瞳もイキと光彩を放っている。

「北海道で、あの、使徒に襲われて、初号機でたたかうことになった時、・・・一緒に乗ってくれたよね。後で考えてみると・・・・死ぬ可能性があったのに。逃げることも出来たのに・・・アスカはそうしなかった。多分、いや、絶対、アスカがいてくれなかったら僕は死んでたんだ・・・」

絶対、と言い直すあたりが・・・・シンジ(君)らしい・・・・三人とも思った。

「アスカの時間と命を借りた分だけよくなって・・・・僕は死なずにすんだんだ」

よくなる・・・というのは具体的にどのような現象なのか、碇シンジしか知らない。
渚カヲルでさえ理解不能だったが、それはどうでもよいことかもしれない。
ただ、いくら手作りとはいえ、恐ろしい言い回しであった。命を借りるなどと・・・・。
惣流アスカは何も言わなかった。

「母さんのことは・・・・生きてはいるんだし・・・今まで我慢してきたことを思えば・・・・手紙を書いて事情を説明したから・・・多分、母さんも分かってくれると思う」

あの「町」のポストに投函してきた。そのために碇シンジは一時、出ていった。

「会うと・・・辛くなるから・・・会わなかったけど・・・・いつか・・・」

「男のくせに泣かないでよね・・・ばぁか」

「泣いてなんかいないよ!・・・・アスカも・・・」

「? なんで私が泣かなきゃ・・・・え・・・・・」

葛城ミサトと渚カヲルはそれぞれハンカチを貸そうとした。

「それから・・・・」
なぜか碇シンジの話はまだ続く。
「綾波さんにも助けてもらったお返しをしてないし・・・・」

ちょっと迷ってしまう三人。いつ綾波レイが碇シンジを助けたのだろうか・・・・。
恩義を感じることは、さらに忘れないことはいいことだろうが・・・。
しかも、本人がそう思っているのに「実は助けてない」などというのも何である。
助けた、というのが何を差しているのかも分からない以上、ただ聞いておくほかはない。

それ以上、みんなに助けてもらった、などという得体の知れぬことを言いだしはしなかったが・・・どうも、思いこんでいるらしい。
恩を着せる趣味のない渚カヲルは黙って微笑んでいた。楽しんでいたのかもしれないが。


「さっ!。シンジ君の考えが分かったところで、同居生活開始祝いに焼き肉でも食べに行きましょうか。シンジ君ハウスの荷物は明日にでも手配しましょう」
葛城ミサトはサッ、と切り上げにかかった。見事な采配だ。
「渚くん、アスカ、あなたたちもいく?」

「同居お?!」
「シンジ君ハウスってなんです」
焼き肉を喜ぶより先に質問が出た。そういう問題ではないかもしれないが。

「文字通り、言葉通りのことよ」
二つの質問を一言であっさりかたづける葛城ミサト。

「ミサトと・・・シンジが?」
「なるほど・・・」
納得しかねる少女と納得する少年。

「荷物なんて大したものはありませんけど・・・あ、でも教科書とかいるな・・・」
「じゃ、行きましょうか」

「お誘いは嬉しいのですが・・・・ぼくは欠かせない用がありますので。
ほんとに残念だよ、シンジ君。でも、またすぐに会えるね・・・」
振る舞いじたいは緩やかなのだが、いつのまにか消えている渚カヲル。
「渚くんもリツコにこき使われてるのね・・・可哀想に。今度会ったら言っといってやろっと」
言いたいことは赤木博士の方がもっとあるだろうが・・。

「仕事はいいの」
惣流アスカの予期せぬ棘のある口調。目をぱちくりさせる葛城ミサト。
「あたしも一応、公務員なんだけど・・・・って、ははぁ・・・ん」
「何よ」
「別にい。いいのよ。今日は記念日だからね・・・」


突っ走るルノー。とてもチルドレン二人を乗せた安全運転とは思えない。
意識の上では五秒くらいで着いた気がするくらいの早さだ。



「ああーーっっ!!」

焼き肉屋に入る直前にふいにジャケットに手をつっこんだ葛城ミサトが奇声をあげる。
「ど、どうしたんですか。ミサトさん」
「まさか、財布忘れたとか言うんじゃないでしょうね」

「・・・・・財布はあるけど中身がないわ。給料日前だから」

「別に構わないじゃない。カードで払っちゃえば。なんならアタシのでも」
「カードを使えば、本部に筒抜けよ。特にあなたたちのはね。・・・・足がつくわ」
「ネルフって・・・外で食べるのは禁止されているんですか」
「そんなことはないわ。座敷をその名で予約するのは賢い幹事のすることじゃないけど」
「・・・特務機関ネルフ様ご一行・・・・たしかにこわいですね」
「・・・・店の入り口でそういう会話ってハズいから・・・あっちいこ」



と、いうわけで結局。
コンビニ。
「焼き鳥缶と・・・ちーちくに・・・奮発してカニ缶も。あと、シーチキン、と」
「酒のつまみばっかじゃないの。食べられるもの・・・・ロクなもんがないわねえ。ここ」「アイスクリームも買っていいわよ」
「・・・聞いてない」
「ご飯があればなんとかなりますよ」
買い物が踊っている。渚カヲルはもしかしてこれを予見して、逃げたのかもしれない。
仲の良い姉、妹、弟、というには仲が悪い、というかリズムがあっていない。
まるきりの他人・・・ならば、こんな莫迦な会話をするだろうか。主婦が笑っている。

結構、買ってしまって、葛城ミサトの財布はスッケラカン。
これでルノーのガス欠、などといったら洒落にならないが、そういうことはなかった。



葛城ミサトの住まい。コンフォート17マンション。

「ま、家の様子を見てもらうのもあるし、ちょうど良かったわ」
「かなりグレードが落ちたわね・・・サギだわ」
「さー、はいって。ちょっち散らかってるけどさ」
電子鍵が開かれた。ぱち。玄関の電気がつく。そして中へ。

ぎょ。

碇シンジと惣流アスカは驚いた。これは片づけがヘタなどというレベルではない。
はっきりいって、ゴミ捨て場だ。
しかし、これが「ちょっち」ならば、葛城ミサトの「かなり」というのはどれくらい・・・完全に夢の島と化した状態をいうのだろうか。

同居にさして甘い期待をもっていたわけではない碇シンジにして、これはちょおっっっち、後悔した。
惣流アスカなど、ある種のカルチャーショックすら覚えていた。

きたない部屋に慣れている人間は、きれいな部屋に来ても、へーこんなもんかと思うくらいで恐れ入ることはまずない。それで改心するくらいならもともときたなくしていない。問題はその逆である。きれいな部屋からきたない部屋に来た人間には・・・・拒絶反応が起きる可能性がある。特に碇シンジなど、新品の部屋から来たのである・・・・。

「あ、買ってきたものはそのテーブルに並べといてねー」
「テーブルのどこにそんなスペースがあるのよ・・・」
「大事なものはないから、そこらにのけといて」

葛城ミサトはリビング隅のでかい冷蔵庫の前で屈み、ノックした。
「ペンペーン、起きてー」
「はあ?」
「なんかのマジナイ?あれ」
事情を知らない人間にとってその行動は理解不能意味不明。当たり前の顔でやられるだけに不気味だ。葛城家のしきたりなのか。
しかし、謎はすぐに解けた。冷蔵庫は開いたからだ。内から。
「ウギョウ・・・」
眠たそうなペンギン・・・だが、二連のトサカがついている。首輪のようなプレートには「PEN2」とある。ペンペン、と読むのだろう。
ぺた、ぺた、と千鳥足、いやペンギン足で出てきた。
「彼は新種の温泉ペンギンで、名前はペンペン。よろしくね」
「ウギョッ」
片手をあげて挨拶するペンペン。初対面にも関わらず臆した様子はまるでない。
「あ、碇シンジだよ。よろしく」
「惣流アスカ・・・って、つられちゃったじゃないのよ!」
「べつにいいじゃないか。挨拶してるんだし」
「悪くはないけど・・・・まるで疑問を感じないところがダメなのよ」
「そんな難しく考えることないのに・・・」
「甘いわね。アンタはこれから一緒に暮らすんでしょ。疑問点は早めに解消しておかないとあとで泣きをみるわよ・・・・ミサト、なんでペンギンなのよ」
「別に。縁があったから」
「じゃあ、なんでペンペンなの?」
「覚えやすいし、言いやすいから」
「温泉ペンギンってなんなのよ」
「そのへんにしとけば・・・・」
碇シンジは止めに入るが、葛城ミサトはにやっと笑っている。
「な、何よ。そのひっかかる笑いは」
「別にい。とにかく、ご飯にしましょう。お腹すいたでしょ」
エビスビールを取り出すついでに湯を沸かす葛城ミサト。

テーブルをざっと片づけ、コンビニで買ってきたものを広げる。
大体がすぐに食べられる代物だ。一人で食べるには実用的すぎて余裕がなく侘びしいが。
「それでは、碇シンジ君と私、葛城ミサトとペンペンの同居を祝して・・・・・」
碇シンジと惣流アスカはジュースだった。音頭に合わせようとしたとき・・・。

「と、その前に。アスカ」
惣流アスカの方に視線を合わせる。それからひどくあっさり言ってのける。
「あなたも一緒に住む気はない?」
すい、と鮮やかな音が聞こえるほど。あご先を風の女神に撫でられたように体を震わせる惣流アスカ。
「な・・・・・」

これはこの場で答えねばならない質問。答え方は簡単。ただ二通り。選択。
ない、といえばすぐに引っ込めてしまうだろう。何事もなく。
ある、といえば、これから・・・・。でも、なんのために一緒に暮らすの?
こんなきったない所で・・・ミサトとシンジと・・・おまけでペンギンと・・・。
命令ではない・・・・惣流・アスカ・ラングレー、個人の意志を尋ねている。
わたしは・・・一人でいることを望んでいる・・・はず。
でも・・・目の前のテーブルにある食事・・・・これをもし、一人で食べるとしたら、どうだろうか・・・・ヒカリと食べる昼食は味が違う気がする・・・栄養も味も変化などしない。それはただの・・・・錯覚だ。錯覚を得るために・・・他人が必要なの?
そんなのは、この惣流アスカには似つかわしくない・・・・。


「別に老後の面倒をみてもらおうってわけじゃないから安心してね。
ぶっちゃけた話、そんな長い間のことじゃない。新婚家庭に10代の若者をおいとくような気はないですし。・・・・ま、寄宿舎みたいなものね」




「5年以内に結婚宣言?は、強気なんだか弱気なんだか・・・・、分かったわ。
そういうことなら、一緒に住む。まだ教え足りなかったところだし、ね」
「なんだか、すごいことになったけど・・・・よろし・・あっ、噴いてる!」
碇シンジは沸いた湯を止めに行った。
思えば、この瞬間、少年の立場が決定してしまったのかもしれない・・・・。

「と、いうわけで、改めて。碇シンジ君、惣流アスカさん、葛城ミサト、ペンペンの同居を祝って・・・・乾杯っ」
「んっ」
「・・・・かんぱい」

今日はなんだか・・・・一気にコトが進んだ日ね・・・・あ、そうだ。
もうひとつ、やるべきことがあったんだっけ。葛城ミサトは酔ってしまう前に重要なことに気づいた。物事の段取りを図るのは、作戦の基本だ。
床にころがるマジックと広告の裏を取り上げ、なにやら書き出す・・・・。

「カレーと、ハヤシカレーもできましたよ・・・と、それはなんですか。ミサトさん」
「あ、これね。同居を始めるに当たってやっとかなくちゃならない、儀式よ」
「下手くそな字・・・ほんとに魔術的ね」
「うるさいわね・・・・さあ、できた」

生活当番表、とある。月火水木金土日と一週間が横軸。朝食、夕食の支度、ゴミ捨て、風呂掃除、洗濯とメニューが縦軸。升目で区切られたそこには・・・。

「これから、ジャンケンで決めるわよ」
当然、三人の名前が入ることになる。最初から三分割せず、勝負事で決めてしまおうというのは作戦部長らしいといえば、らしい。ただ勝負事に強い自分の特性を生かして楽ちんがしたかったのかもしれないが・・・。
「へー、面白いじゃない」
「文句があるわけじゃないですけど・・・・なんで公平に三分割しないんですか」
「そっちの方が、楽しいでしょ・・・・せーのっ、じゃん、けん、」

ほいっ、と分担表が埋められていくそのころ・・・・・。





再開発地域 幽霊マンモス団地 402号室 綾波レイ

このいえに戻るのはひさしぶり・・・・。この静けさ。ようやくほんとうに眠れる・・。外は・・狂ったような波の音が繰り返す。その音が・・・なぜやまないのか・・・・・。聞こえないせいか・・・。ここは人海の砂浜。ここまで来て、ようやく潮騒に変わる。
意味も形象も、ここに届くまでに散じてしまう。

それでも満月の夜は咆哮が聞こえるが・・・・

今日はそうではない。

綾波レイはコンクリートの壁と虚ろな電灯の光を相手に火を使わない食事をする。
物思わない無機物こそが少女の話し相手・・・・

透明な水を飲んで食事を終える・・・・。無言。祈りの言葉も感謝の言葉もない。

「・・・・・」
ふと、思い出した。綾波レイは鞄から紙箱を取り出した。さほど大きくはない。
もみじまんじゅう・・・と、ある。6個入り。
碇シンジの見舞いにして土産。すでに2個、二人でひとつづつ食べていた。
残りは四個。・・・・お早めにたべてください、と、ある。

一個だけとりだして、あとは冷蔵庫にいれる。

はく。綾波レイはもみじまんじゅうをたべた。





「ええええええええっっ!?なんでえええ!?」
「・・・・アスカ」
「こういうことって・・・・・あるのね・・・」

葛城家の食卓では、惣流アスカが絶対運命批判の声をあげていた。
あっけにとられている碇シンジと葛城ミサト。
その原因たる生活当番表を見よ。

惣流アスカ・・・・・・・・全敗。七曜日全メニューを、少女がこなすことになった。

まるで大宇宙の意志が乗り移ったかのような・・・・・・半端でないジャンケンの弱さ。

碇シンジと葛城ミサトが並外れて強いわけではない。実は、後半戦に入り、さすがにこれは・・・・と思った二人は、負けてやろうとしたのだ。このままでは寝覚めが悪いし。
それでも・・・・負ける。狙い澄ましたかのように・・・・負ける。必ず・・負ける。

イースター島あたりの地元神が耳元で囁いているかのように・・・・・・負ける。

「これはある意味、奇跡かも・・・・・」
「ど、どうするんですか・・・・ミサトさん、このまま・・・」

「いいわよ・・・・・やるわよ・・・」
確率統計論を学んでいる惣流アスカはこの結果がどういうものか分かっている。
二人の表情を見ていれば、インチキしたわけでもないのも分かっている。
自分はジャンケンが凄まじく弱かった・・・・・ただそれだけのこと・・・・・。


「ま、勝負は勝負だから、しょうがないわね」
葛城ミサトは明るく笑ったが、惣流アスカの家事の腕前に期待してよいものか、多少、不安であった。自分がこんなであるから、他人に過剰な期待はしないが・・・。

「うううううーーー」
やけになった惣流アスカはビールをかっくらう。
大体の惣流アスカの気性は分かっているので、表にはださないが、かわいそうだなあ、と同情する碇シンジ。まさかあそこまで弱いとは・・・。

そうして夜はふけていく・・・・・。


朝がやってくる。
惣流アスカはソファの上で目を覚ます。タオルケットをかけられていたが、制服のままだ。酔っぱらってあのまま寝てしまった・・・・?このアタシが?油断まるだしで?
そんな・・・・バカな・・・・。
くん・・・・トーストと・・・コーヒーの匂い・・・・。

「あ、おはよー、アスカ」
「ミ・サト・・・・・・・」
「寝ぼけてんの?顔でも洗ってくれば」
食卓のテーブルに片膝で新聞読みながらトーストを囓っている。さらにラジオとテレビまでつけっ放しで流れている。時刻は六時四十五分。
なんでこんなところに・・・・・あ、同居するんだっけ・・・・え?
「トースト・・・・誰が焼いたの?まさかミサト?」
がばっ、と起きて問いただす。あれはいつから開始だったのか。
「まさかはないでしょ・・・パンくらいだれだって焼けるわよ。これ、焼いてくれたのはシンジ君だけど」
「シンジは?」
「転校手続きするから、もう出たわ。本部に寄ってね」
ふわあ・・・とあくびをしてみせる葛城ミサト。
「あ、あの当番表の開始は、当然、引っ越してからよね。アタシも一旦、着替えに帰るわ」「パンくらい食べていけばいいじゃない・・・・せっかく焼いてくれたんだしさ。それに」「なに」
「帰る、じゃなくて、戻る、よ。引っ越しなんざ、アータ引っ越しセンターに頼みゃあ、今日の夕方には終わってるんだから、今日からここがあなたたちの家、なんだからね」
「こだわるわね・・・」
「上質を知っていますから」
ニカッ、と笑ってコーヒーカップを掲げる葛城ミサト。
「よくわかんない・・・・」





「あれ」から十日後の第三中学校2年A組、ふたたび。

転校生・・・それもエヴァのパイロット・・・・このクラスには三人もいるわけだが、それでもやはり注目を集めてしまう。無理に情報を引き出そうとはせず、ただその登場を楽しみにしていた。まるで今週出たばかりの週間マンガを買ってきたような、うきうきとした表情を浮かべて・・。

そろそろご対面の時間だ・・・・・くるぞくるぞ・・・・・廊下を歩いて・・・・

異様に静かな教室。入り口の磨りガラスに老年教師と転校生の影がうつる。

ガラッ・・・・

オオオウ・・・・・意味不明の嬌声。それに対し、少し怯えたように身をひく転校生。

黒髪の・・・長く・・・肌が白く・・・眼鏡をかけた・・・・「女の子」だった。

「気が変わってやっぱり逃げたわけっ!?あンの、トンチキがっ!!」

惣流アスカの怒声がさらに転校生を怯えさせる・・・クラスの他の者もびびった。

「あ・・・・」
一度、口から出てしまったものは取り消せない。惣流アスカのトンチキ発言。
それは高踏派惣流の権威失墜を意味していた・・・。

「先生・・・・・」
沈黙の葦湖畔と化した教室に渚カヲルがゆるゆると漕ぎだす・・・。
「転校生は、彼女一人だけですか。それとも他のクラスに・・・」
生徒達の熱っぽい視線が老年教師に集まる・・・・。こんなことはもうあるまい。
「ほんとうは・・・もう一人・・・いるのです・・・ええと・・・」
べつだん、それに感激したようすもなく普段のペース。悟っているのか。教師道を。
「ええと・・・」
手帳をゆるゆるとめくる・・。それに対して表情を変えないのは渚カヲルと綾波レイのみ。ううう・・・はよせい・・・ジジイ・・・なぜか皆、トウジ弁でつっこむ。例外はあるが。「碇・・・・シンジくんですね・・・。一度、学校にきて手続きは済ませたのですが、なにか忘れ物をしたとかで・・・おうちに帰ってまだ学校に戻っていないのです・・・・・・それでは、山岸さん、自己紹介を・・・してください」

脱力する教室の空気・・・・。しかし、その中で唯一人、爛々とメガネを輝かしている生徒がいた・・・・。相田ケンスケである。

かっ・・・・かわいい・・・あの、眼鏡が・・・・

最もエヴァのパイロットに興味がありそうなこの少年が、それを脳裏から吹っ飛ばしていた。色恋沙汰の前には知的好奇心など太陽の前の大腸のようなものだ。
カメラやビデオには手がいかず。自分の目で飽きるほどに見ていたかった・・・・。
この瞬間は貴重だ・・・・まだ、ジロジロみてもその他大勢の好奇心ですむ!。
問題はその後だが・・・・あ、そいえば名前もまだ・・・・

「・・・・山岸、マユミです・・・・どうぞ、よろしく・・・」
マユミ・・・・ああっ、なんと麗しい・・中国の仙境に遊ぶ蝶々を思わせる名前なんだ!
手帳にスクワットしながら百回くらい書いておきたい気分だ。
それに声もまた・・・涼やかな・・・たおやかな・・・・
ああーっ。今日はなんていい日なんだあ・・・・・っ!!



「今日は朝から大変な日だなあ・・・・・」
バスに乗っている碇シンジは時計を見た。完全に遅刻だ。あんなに早く起きたのに。

手続きまで済ませたところは・・・良かったんだ。
それで、ガスの元栓を閉め忘れたのに気づいた。・・・ミサトさんたちはアテには出来ない・・・碇シンジは見切っていた。それに、性格上、それが気になるのだ。
予想していたより簡単な手続きだったので余った時間、学校を見学しようかと思っていたが・・・帰った。ガスの元栓は締めてあった。それはよし、と学校に戻ろうとしたら、お婆さんに道を尋ねられた。断れる碇シンジではない。手を引いて案内する。
なぜか道は頭に入っていた。交番に行くこともなく、自分で連れていけた。

転校初日から遅刻なんてかっこわるいな・・・・・
と、思いつつもさぼることなど考えもしない碇シンジであった。




同時刻 コンフォート17マンション 郵便受け
郵便配達人がやってきて、郵便をいれていく。手練の手さばきだが、ぴた、とある手紙を挟んだところで手が止まる。
「ずいぶん・・紙が悪いな・・・・それでも出すかね・・・・ま、切手は貼ってあるんだし、文句はないか」
えらく古びたような色の封筒だ。どこに保存すればこんな風になるのやら。飴色がかっている・・。この配達人は真面目だがとくに詩心はなく、封筒を傷めることはなく、すこん、とある家の郵便受けにそれを入れてしまうと、次の配達先に急いだ。
郵便受けには、「葛城」のプレート

そして、その封筒の差出人には、碇ユイ、と名があった・・・・。