白い翼をもったものが爆撃機の黒影を追い払っていく
無敵の炎を腹の中に詰め込んでいるとはいえ、所詮は豚がむりやり空を飛んでいるようなもの・・・・空を飛ぶもの・・・天空を翔るものとして生まれた白い・・・・「それ」に敵うべくもない。先に墜とされた偵察機は一度のみの警告。
「それ」にはなんらかの意志があったのか・・・・・それともただ・・・・豚が空を飛ぶことが気にくわなかっただけか・・・・・
いんいんいんいんいんいんいんいんいん・・・・・
舞い降りてくるその姿は黄色い太陽を背にして黒く染まる。
いんいんいんいんいんいんいんいん・・・
そして、目の前に姿を現す。白の異形。その名は。
エヴァンゲリオン伍号機
何の予告もなく天より降臨したエヴァシリーズの最新型。
スペックでいうならば、現時点で最強のエヴァンゲリオンである。
その外見は、ぬっぺりと白い肌をさらした人造翼人間、と云ったところだ。
ただし、顔がなかった。
のっぺらぼう。目玉がついていなかった。鼻も。口も。無貌。
なんのためにこのようなデザインにしたのか・・・・・真昼であっても気味が悪い。
しゅるるるる・・・・・・背を丸め気味にして翼を折り畳み収納する。
突然にすぎるエヴァの降臨で現場は容赦なく混乱状態になる。
偵察機を墜落させたのは、おそらく、いや、どう考えてもコイツだ。
空のことなど地面に、ましてや地下に神経を集中させていた人間に分かるわけもないが、
罪悪を嗅ぎつけるカンのようなものが間違いなく決めつけていた。
その、撃墜理由が分からないことがなんとも不気味だった。
顔がないことも、その不気味さと恐怖に拍車をかけた。目玉がないからフメーイ。
「な、なんなのよ、これは・・・・・」
現場の責任者が云うのだから、他の誰にもこの白い無貌の来訪者の意図が分かるわけもない。すぐさまネルフ本部に連絡を・・・
それにしても・・・・唐突すぎる伍号機。
おっとり刀で助力にやってきたわけでも・・・・いや、そんなことより大体、あの伍号機には誰が乗っているの?新しいパイロットなんて・・・・
くっ、リツコがいれば・・・・・・!!
ぬっさ、ぬっさ、ぬっさ
エヴァ伍号機が移動を開始した。なんの通達も連絡も無しに割り込んできた挙げ句にこの上、こっちを・・・・現場責任者の自分を無視して勝手に動こうとしている。
あまりといえばあまりの無法ぶりだ。こっちゃ危険な作業をようやく終えて、温泉で一風呂浴びようとしていたところだっつーのに。アスカのことを考えるとそれこそブクブクと脳天が沸騰しそうになる葛城ミサト。
「ちょっと!なにやってんのよ!!」
聞こえるわけもないが、弐号機の方に歩み寄る伍号機に向かって怒鳴りつける。
その時。
エヴァ伍号機の歩みが止まった。
誰しもその巨体に本質的に怯えのようなものを感じてしまうが、葛城ミサトの煮えたぎった脳天はそれを受けつけない。この無礼な白ネギボーズを睨みあげる。
後ろからならばまだしも、前からこれである。無茶苦茶な度胸だ。
ぎょんっ
イキナリ首が百八十度回転した。なんの前ぶれもなく。これにはさすがの葛城ミサトもびびったが、それ以上の生理的嫌悪感を味わう羽目になった。
こちらが「顔」だったのか、それはよくわからないが、とにもかくにも、頭部のそちら側には「口」がついていた。それも顔の半分を占める、不気味に大きな、趣味の悪い赤色のクチビルで彩られた「大口」が。それがまた・・・・
ニヘラア
と形を歪めて見せたところなど、背筋に毛虫の一個師団が駐屯し、力づくの宴会を始めたかと思うくらいの気持ち悪さだった。
「じょ・・・冗談じゃないわ・・・・・」
葛城ミサトは悪寒と拒否反応からくる吐き気に耐えながら、かろうじて、呟いた。
自分のためと・・・・マグマの熱に耐えきったアスカのため、家で待っているシンジ君のため、己が勤めている職場としてのネルフのために。
あんなのがエヴァであっていいはずがない・・・・絶対に認めるものか・・・
今までエヴァに感じてきた不安や違和感がいきなり、デフォルメされてはいるが、現実の重量をもって現れてきたのだ。それを瞬時に受け入れるようには人間の心は出来ていない。
兵器は・・・わらわないものだ。
いくらなんでも・・・・これでは・・・・まるで・・・・・
「まるで・・・ダイエットしすぎたオバQですね。これは・・・・」
日向マコトだった。守秘回線使用のネルフ印携帯電話を緊迫した表情で差し出す。
信頼の置ける香港ソースの情報・・・・では、無論、ない。
葛城ミサトは何も言わず、それを受け取る。
「はい。葛城です」
「私だ。そちらに伍号機は到着しているかね・・・」
相手は副司令冬月コウゾウ。言葉が苦みでくすんでいる。
「はい」
限りなく敵意に近い声色。副司令、ネルフ本部からかかってきた、という時点で伍号機の目的は察した。ほぼ当たりだろうが・・・。怒りというには鉛のように冷たく硬い感情。
「捕獲した使徒は伍号機に引き渡す。エヴァ弐号機はそのまま帰還、だ」
鳶にあぶらげさらわれて、手ぶらで帰ってこい、と・・・・・・・いうわけだ。
「はい」
伍号機が笑ったのもこれで納得がいく。そりゃ、おかしいわねえ・・・・。
葛城ミサトの唇も、うっすら笑みの形を浮かべた。それが幽火のように揺らめく。
上には、逆らえないか・・・・宮仕えの辛いとこよね。
葛城ミサトの内心などおかまいなし、むしろ、嘲笑うかのようにエヴァ伍号機は首を戻すと再び、ぬっさ、ぬっさ、とエヴァ弐号機、いや。それが捕獲した使徒胎生を取り上げるべく移動した。結果さえ自分のモノにしてしまえばさっさと天に戻るつもりか。
「隊長、あれは一体なんなんスかねえ」
望遠鏡を覗いていた戦自の隊員が云う。一応、「住民の避難」は終了した。
「俺が知るか・・・・」
ああして見ると、エヴァというやつは使徒とどう違うのか・・・さっぱり解らんな。
毒をもって毒を制するというやつか・・・・それにしても・・空を飛ぶ人型兵器か。
いい時代になったもんだ・・・
「仕事は終わったってえのに、今頃何しに来たんスかねえ」
「俺が知るか・・・・」
「・・・今日も暑いッスねえ」
「俺が知るか・・・・」
弐号機 エントリープラグ内 惣流アスカ
しぃ・・・・ん
体の中に沁みとおっている、音。
灼熱地獄からようやく娑婆に戻ってきたとは云え、熱気はまだ残っている。が、それもだんだんと引いていき、平熱の有り難さを知り、有史以来、惣流アスカ一人しか感じたことのない、機械では決してつくれない、特別な涼しさを感じ始めていた。
あたりまえの暑さを感じること。自分の普段、保っている体温が実際、どれほど心地いものなのかを冷えた抱きまくらをかかえるようにして体験している・・・・もしかしたら、あまりの熱さに、半分、魂が浮いていて体の中に戻りきっていないのかもしれないが。
そんなせっかくの快冷の中にいた惣流アスカをグラグラに沸かしてしまう白い招かれざる客・・・・エヴァンゲリオン伍号機。
「なにこれ・・・・」
見たことのない・・・・だが、このサイズの人型生物、機械がほかにいるはずもない。
エヴァだ。
もしかして・・・伍号機・・・・?なんで・・・・・ここに・・・・。
ぬめっとして白い其奴は、近づいてくる。その遅さが悪夢の使者を連想させる。
「なにしにきたわけ・・・・今頃」
疲れ切った少女には怒る元気もない。正直な感想を述べるにとどまる。
少なくとも、エヴァなら敵じゃあないわけだ。ノタクサ来たのも連絡の手違いか、調子が悪かったのか・・・・サポートならもういらないのに・・どんな子が乗ってるんだろう・・・・・
近づいてくる。エヴァ弐号機の手前まで。そして・・・・
ムンズッ
使徒胎生が捕獲されている電磁柵を手に取った。そして、そのまま持って行こうとする。
「ちょ・・・・ちょっと、待ちなさいよ!!ミサト!、何なのよコイツ!」
あまりといえばあまりの態度と行動に、ぼんやりと挨拶の一つも期待していた惣流アスカを逆上させる。いくら元気が尽きていようと、目の前でこんなことされて黙っていられるわけがあない。ほぼ事実だが、惣流アスカの感覚でいえば、これは泥棒のようなものだ。
DK特殊装備でなければ、即、飛びかかって二、三発ブン殴ったことだろう。
が、そうもいかず、葛城ミサトにこの事態の説明を求める。
巨大な壁に押し潰されそうな、なんだか悪い予感がする・・・・。
モニターに現れた葛城ミサトの表情で、それが当たりだと分かった。
「アスカ・・・・よく聞いてね・・・」
「・・・・了解」
ぺしゃんこに踏みつぶされ、さらに鋳型に入れ込まれたような気分。口の中に苦い鉄の延べ棒でも噛まされた味がする。泣くにも水分もない。悪態をつき喚くにも、もう掠れたような声しかでない。自分の中の、せめて誇りに思っている、真っ新でしわ一つない部分をクシャクシャにされたような・・・べつに人に誉めてもらうためにエヴァに乗っているわけではないが・・・・自分の作業は完遂したわけだし・・・・・割り切れないわけでは・・・・理解出来ないわけでは・・・・上には上の事情があるんでしょうし・・・・わたしは・・・アタシは・・・・・それを受け入れることが・・・できる・・・。
せっかく・・・
どこが研究しようと、アタシたち戦闘シフトにある人間には、関係ない。
使徒の弱点なり生態なりが明かされて、多少でも有利に戦えればそれでいい。
有利に戦えればそれだけ犠牲が少なくなる・・・・いつかシンジにいったっけ。
やったのにな・・・・
あの趣味の悪い大口に一撃食らわしたくなる感情を必死に堪える惣流アスカ。
マグマダイブですっかり磨り減っているはずの精神力の残りをかき集めて堪える。
ならぬかんにんするがかんにん。
堪え難きを堪え、忍び難きを忍んでいる。・・・・・・・・・・・・・・・ちきしょう。
俯いて、呟きを噛みつぶす惣流アスカ。
ばさっばさっばさっ
翼を広げるエヴァ伍号機。電源ケーブルをつないでいないだけに行動時間は知れている。
アンタらの感傷などにつき合っているヒマなどないね、といわんばかりの引き際。
はっきりいって、あざとい。
それを灼けついた樽の中で見上げるしかない惣流アスカ。無念である。
くそ・・・・さっさといって目の前から消えなさいよ!どこのどいつが乗ってんだか知らないけど今度顔会わすことがあったら・・・・・え・・・・ちょっとまって!!
これには「誰」が乗ってるわけ・・・・・・・!?
ようやく頭が本来の調子を取り戻してきた。最新型らしいのは飛行能力があることから察せられるけれど、それとエヴァとのシンクロや操縦はまた別のことだ。いや、飛行能力なんてものが加われば、脳波シンクロで動かすエヴァにはコンパスや計器などはないのだ、空中で己の位置を確認する、鳥のような本能を自前で持っていないと・・・・訓練でもそうはたやすく獲得できるとは思えない。・・・・つまり、自分が云うのもなんだが、ギルで育てられたような、ぽっと出の適格者・チルドレンにはまず、無理だ。
自分が知る限り、それほどのタマはいなかった。
わずかな例外・・・碇シンジのような・・・・を除いて、エヴァの操縦というのはそんな簡単なものではない。脳波シンクロ、イメージ通りに動くからこその難しさ、というやつがある。人間はそうそう、鳥になれるものではない。
「誰なのよ・・・・アンタ」
エントリープラグが差し込まれている限り、そこには「誰か」が中にいるはずだ。
エヴァが勝手に動いているのでもなければ、だ。
ニヘヘヘヘヘ
「ぶっ!」
後頭部、といってよいのか、についている大口がその考えをちょうど読みとったかのようにぶよぶとと蠢いた。嘲笑。少なくとも、惣流アスカにはそう思えた。
「こ、この・・・・・」
楽チン・ポーンのザマアミソスープ
「こここ・・・・・・・・・・・」
アスカ惣流守、ここは殿中でござる。根流布藩百二十万石のためになにとぞ、ここはなにとぞ、ご辛抱のほどを・・・ひらに、ひらにー、という一幕だが・・・・・。
せいぜいボクチンたちのために励めよ、カニ侍
ウヒウヒウヒウヒ・・・・
伍号機も、さっさと飛び立てばいいものをなぶる様にその場に浮空したままだ。
事実、なぶっていたのかも知れないが。あの設計はもしかしてこのためにそうしたのでは、と勘ぐりたくなるイヤな飛行能力だ。実際はどうだか、葛城ミサトにも分からないが、単に飛び立つには時間が必要なのか、それとも予想外に電磁柵が重かったのか・・・・・。
が、惣流アスカには関係なかった。年中夏の日本ではもはや知りようのない忠臣蔵のことなど無論、知らないし、よしんば知っていたとしても手本にはならない。
「こここ・・・・・・この・・・・・・・・・・・・・この野郎!」
ぶちんっ
三秒七伍
惣流アスカがブチ切れるまでにかかった所用時間
ガキン、ガキン、ガキン、ガキン。
K型装備の四肢のカバー部分が次々と内部から強制除去されていく。
ジャキ、ジャキ、ジャキ、ジャキ。
手足が伸びてくる。往年の変形合体ロボットを思わせるが、別に内実は元のままだ。
ただ、この時のエヴァ弐号機がいったい何によって動いていたのかは多少、想像の余地があった。
怒りの変形を終えたエヴァンゲリオン弐号機。真紅のその姿はまさしく・・・・・
運動会のダルマ競走。
おそらく、笑った奴はころされる。
「うおりゃああああああああああーーーーっ!!」
そのままの姿で怒りを込めて突進するエヴァ弐号機。エヴァは足が長いからなんとか走れるのであった。
「アスカッ!!、気持ちはわかるけど、やめなさいっ!命令よ!」
惣流アスカの気持ちは分かるが、ここでエヴァ同士でやり合えばどうなるか。
子供でも分かるが、普通の大人でも想像もつかない悪夢が待っている。恥では済まない。大体、その衝撃で使徒が目覚めでもしたらどうするの・・・・とてもじゃないが、エヴァが二体あっても、こんな所じゃ戦えるか。いくら汎用といえど限度がある。
そして、何より・・・・・このパターンは厭だった。同じ過ちは繰り返させない。
岩でも砕く巨大な鞭が唸って叩きつけるほどに烈しい制止。
打たれた部分はバックリと、ザクロのような傷跡みせて弾けるだろう。
くそったれ・・・・・・・なんでこんなこと云わなきゃなんないのよ・・・・・・・!
ほんと・・・誰が命令したんだか知んないけど・・・首根っこひっつかんで火口に突き落として丸焼きにしてやりたい気分だわ・・・・。葛城ミサトは内心、呻いた。
エヴァ弐号機も制止に込められた気合に打ちのめされたように突進を直前で止めた。
モニターの中の疲れ切った惣流アスカが、びくっと震える姿には全員、胸が痛くなった。
「あ・・・・・」
すぐに感じる悔恨と慚愧の念に泣きそうに顔を崩す惣流アスカ。
頭に血が昇って自分が何やらかそうとしていたのか、すぐに気づいた。その、影響を。
「あたし・・・・・」
「撤収準備」
現場の責任者として、ここで甘い対応は見せられない。軍人の鉄面皮をもって命じる。
「復唱は。アスカ」
「はい・・・・・」
うなだれて、従う。と、その時。
「あいたっ!!」
惣流アスカの方が、かえって自分の身に何が起こったのかを知るのが遅れた。
周りの者たち・・・たしかにネルフに所属している者たちでさえ・・・・目を剥く。
エヴァ伍号機が・・・・・弐号機に・・・・・その手に
噛みついている
にゅー、と首を伸ばして、突進してつかみかかってこようとした弐号機の右手に。
がぶりと
「イヤアアアアアアアアア・・・・・ッッ!!」
噛みつかれて気分のいい者などいない。しかも腹立ち気色悪いエヴァ伍号機に、だ。
おまけに、痛い。噛み千切られたわけではないが、歯加減無しで噛みついている。痛い。痛いわ、気色悪いわ、で、なんで自分がこんな目にあわなきゃならないの!と腹の底から逆流するような思いに悪酔いしそうだった。うえっ・・・・吐きそうだ・・・。
「痛い、いたい、離せ、離しなさいよ!!、コイツ!あっち、いきなさいよ!!」
反射的に手を振り回し、左手でぶん殴ろうとしたら、さっさと逃げる伍号機。
スッポンにも似ているが、別に雷が鳴らなくとも自分の身がやばくなれば離すらしい。
「ほんとに人が乗っているの・・・これには・・・・」
葛城ミサト、惣流アスカ、この場にいるネルフ関係者はほぼ同時にそう思った。
チルドレン・・・・子供とかなんとかいう以前に、人間離れしている・・・・。
そこそこの知能はあるようなのだが・・・・知性は・・・まるで感じられない。
バサッ、バサッ、バサッ
遊ぶのにも・・・そう、遊びだったのかも知れない・・・・飽きたのか、エヴァ伍号機はようやく飛び立った。使徒捕獲用電磁柵もその翼に負担になるものではないらしい。
ほとんど重さを感じさせることがない。垂直に上昇するのだから恐ろしいパワーだ。
しかも・・・内蔵電源のみで動いているのに・・・・・五分を過ぎていた。
戯けた行動ばかりに・・・・というのは、こちらの僻目か・・・・気をとられていたが、もっと詳しく観察しておくべきだったのかもしれない・・・とても直轄で使う気にはなれないが。航空機を追い払ったのは、その意味では正解といえる。
エヴァシリーズの最新型。初めて・・・・見た。制式タイプの弐号機とは形状が異なるのは・・・・・・。
惣流アスカにかけてやる言葉もみつからないままに葛城ミサトはそんなことを考えていた。ふつ、ふつ、と煮えくり返る頭を冷静に保つにはこれしかなかった。
撤収の命令は出ているため、日向マコトらがてきぱきとその準備を開始する。
「冷たかった・・・・・」
エントリープラグの中で惣流アスカは自分の右手を見る。シンクロしている以上、弐号機の感じる苦痛は自分も感じるわけで、噛まれた苦痛も当然、感じる。
だが、惣流アスカが今、感じているのは、冷たさ、だった。
まるで蛇に噛まれたように、ヒヤッとしたのだ。あの時。・・・・・なんで・・・。
噛まれたことのショックや怒りなども、無論、あるのだが、葛城ミサトの場合と異なり、
疑念が強すぎて、一時、他のことを忘れさせていた。
「エヴァは・・・・変温生物じゃないわよね・・・・・・・たぶん」
「え・・・・?誰」
うわーん、うわーん、うわーん・・・・・
一瞬、誰かが泣いたのかと思った。その場にいる者全員が等しく、やけに耳に残るその声を聞いた。身の覚えのある疎ましさを引き起こす、鼻の奥がキナ臭くなってくる感情。
「誰か、泣いてる?」
うわーん、うわーん、うわーん・・・・
耳障り・・・・でありながら、ねっとりと心に侵入してくる何処からともない泣き声。
不安を掻き立てるということで、耳に障るのだが・・・柔らかくもちもちしている感じだ。
なぜか抵抗しきれない・・・・うす気味が悪いのだが・・・・そこから心が離れない。
うわーん、わーん、わー・・・・・ん
天を見上げる。泣き声は・・・・・そこから響いている。
空の色は魂吸い上げるような朱を透かした、なめらかすぎる紫が橙と墨浮をおどらせる。
いつのまにこんな色に染まっていたのか・・・・・・見ているだけで胸が締めつけられる。一日は終わりをつげようとしているのにもかかわらず・・・・・いい年こいて、こんなことを想っていいのか・・・・・・時計が運ぶ真っ当な夜、ではなく、招かれるままについてきてしまった夕方の、隠された奥、を前にして・・・・・・・・惑う。
マダ、オワッテイナイ
耳の奥で囁く声。それが惑いの正体。この場にいる者全員が、同じ結論に辿り着いた。
ゆらめく、放射線を辿っていくようにして。どの場所でも中央にたどり着く。
誰もが・・・・「そこ」からやってきた。
それは、赤子の声だった。
既謀の空から突然に
エヴァ伍号機が墜ちてきた・・・・・・
古生代ダヨーン紀に棲息していたような、魚のカレイとダスキンモップが合体したような異様な生物を絡みつかせて。
そのまま火口の中に落っこちる。ひゅるるーー。
「な・・・・何なのよ、一体?!」
あまりに唐突な出来事が続きすぎて、ふと一瞬、自分たちはジェットコースター映画の中の人物で、さらに早回しされているんじゃないかと思えてくるが、これは現実。受け止めて、動かなければならない。格好良く対応できるわけではないが・・・・・。
「まさか・・・・あれは・・・使徒が孵ったの!」
「予定より早すぎますが、おそらく」
撤収作業中だが、運良く今の瞬間を捉えたビデオをモニターに回しながら日向マコトが答える。適当な所で画面はスチルされる。もちろん、火口の様子も同時展開される。
葛城ミサトにしてみれば、一瞬、迷うところだ。一瞬程度で済むのがネルフの作戦部長といえるか。
今回の使徒がどのような姿をして、それから察して、どのような能力をもっているのか・・・・この際、それはあまり関係がない。先に心配していた通り、こんな場所では戦えない。大体、武器もない。飛び道具はもちろん、プログナイフも特殊装備の関係で肩部装甲を取り外しているせいで身につけていないのである。深マグマ内で作動する保証もないことだ。
マグマの中で眠りこけているような非常識な奴のホームグラウンドでやりあう愚をわざわざ犯す必要なんぞどこにもない。火山は昔っから、敵を突き落とすべき場所で、やり合う場所ではないのである。熱に強い敵にはなるべく寒い場所で叩く。これは世の王道というものだ。
ゆえに、現状把握を最優先した。
孵化した使徒に絡みつかれて翼を封じられたエヴァ伍号機は、浅間山マグマ心中・・・・・してはいなかった。
なんとかギリギリの所で重力に抵抗している。そもそもの飛行原理は分からない。
この場にいない赤木博士でもなければ説明どころか予想もできまい。
とにかく、さきほどの余裕は当然なく、足掻くエヴァ伍号機。引き剥がそうとしているようだが、使徒の方もそうはさせじ、と、そのダスキンのような腕部でしがみついている。
まさかとは思うが、空中で孵化して、最初に見た刷り込みでエヴァ伍号機を親だと思っている・・・・わけでもあるまい。もしそうだったら、かなり恐いが。
「リツコがいればなー・・・・・」
今ほど親友の大切さを感じている時はない葛城ミサト。とにかく、記録をとっておけば後で解明してくださるだろう。あ、それは霧島教授の仕事だったか。
「葛城一尉・・・どうしますか」
このまま見物だけしているわけにもいかないでしょう、と指示を求める日向マコト。
孵化した以上は「使徒、殲滅」。目的、変更になるわけだが。
私情を挟む余地はない・・・・・エヴァ伍号機も救出せねばなるまい。
だが、じり貧というか焼き貧というか、戦力がほぼ溶けきっているこの状態で、どうにかせいと言われても、魔法使いでもない葛城ミサトにはどうしようもない。
アスカは使えない。あの作業だけで体力、精神力を使い果たしている。
エヴァがもう一体あれば・・と願ったが、それはあくまで、レイの零号機か渚カヲルの四号機か、この場合欲をかいてバチがあたってもかまわない・・・・・シンジ君の初号機、これらだ。いきなり上からしゃしゃり出ておいしいとこだけ持っていった挙げ句に使徒にとっ捕まっているマヌケではない。一緒にしたら可哀想だわ・・・・・・。
人間の代わりに、セカンドインパクト以前の家庭用テレビゲームでも繋いでんじゃないの。
サル乗せたってもうちょっといい仕事するわよ。
と、ボロクソ思いつつも、「クレーン移動させて、伍号機の近くにワイヤー降ろして」
一応のフォローの指示を出す。力点が出来れば多少、ナントカできるだろう。
伍号機に連絡がつけば、もう少しどうにかしようもあるのだろうが、どうせ命令系統も異なる。自力でなんとかしてもらう他はない。
「ATフィールドは?」
「使徒のみです。エヴァ伍号機からは発生していません。または、完全に中和されているのか、どうか・・・この設備では」
戦うためのお膳立ても揃っていないわけだ。こんな所でエヴァが使えるか!
「ミサト・・・・アタシは」
惣流アスカも指示を求めてきた。使徒殲滅、に作戦が変更になったのを解っている。
「その場で待機。伍号機の戦いぶり・・・・存分に拝ませてもらいましょ」
守るべきもののある、人の残酷。黄昏の笑みは、印の国の女神を思わせる。キシン、とモニター陰に響いた。
空の覇者とマグマの帝王との互いのプライドをかけた一騎打ち・・・・・といえば文学的だが。なにせ使徒の方は生まれたばかりだ。伍号機の方もこれが初陣ということになるのだろう。少なくとも、プライドも誇りも存在のしようがなかった。
絡みつかれて動きがとれない上に、翼を封じられた形の伍号機はいかにも不利だった。
まだ火口内とはいえ、中空にあるものの、マグマの中に引きずり込まれれば勝ち目はない。いかにもひ弱そうな柔肌の上に耐熱装備もしていない。溶岩面に触れるだけで焼けこげてしまいかねない。
まさに灼熱地獄に垂らされた、葛城菩薩の蜘蛛の糸、ワイヤーに気づいているのかいないのか、手には届きそうにない。それどころではなく、わずかでも気を抜けば落とされてしまうのだろう。ダスキン腕がザワザワとたかり来る亡者の群れ成すように伍号機の顔を塞ごうとする。
ガブリッ・・・・ガッ、ガッ、
手足も使えずに、残るは頭突きか噛みつきしかない。伍号機は持ち前のデカ口を生かして反撃に出た。さすがに引っ込める使徒。伍号機はそこにつけ込み、一気に首を伸ばし使徒のキノコのように出張っている目玉に囓りついた!!
ギュオーーーーーー!!
これはかなり効いたらしい。全身に絡めていた力をしばし、弛めた。
「そこで、逃げる!」
ほとんど怪獣映画を見ている気分で、どちらに味方してよいものか一瞬迷ってしまうほどに今ひとつ現実感に欠けてきた葛城ミサトだが、それでも軍人としての常識が口を開かせた。指揮車の中では、このえげつなさに耐えきれずオペレータの殆どが見ていない。
逆に、日向マコトは食い入るようにして魅入っていた。既に頭の中では怪しい音楽。
このスキに伍号機は・・・・・・逃げなかった。
いける、と判断したのか、さらに噛みつき攻撃を続行する。
どう、「いける」のかは伍号機にしかワカラナイ。
しかし、それはマグマの中でも生きていた使徒の恐るべき適応能力をなめてかかった・・・・・愚かな行動だった。
ツケはわりあいすぐにきた。
ばっくん
使徒も・・・・・大きく口をあけ・・・・・・・そして、伍号機の向こうをはって・・・・その首をくわえこんだ。そして・・・・・・・
もぎゅ、ごくっ、もぎゅ、ごくっ・・・・
飲み込みはじめた!体のサイズもおかまいなしだ。カマキリの雄じゃあるまいし、伍号機も必死で抵抗するのだが、なにせ肝心の頭を抑えられているのでは力が出ない。
「!!」
振り弾くようにして弐号機へのモニター回線を切る葛城ミサト。見ていいものではない。伍号機の抵抗が・・・・・止んだ。
延髄を噛み潰されたのか、それともとうとうエネルギーが切れたか。
膝足が凝固したままに抵抗の痕跡を残す。それもどうでもいいことか・・・・。
力尽きたエヴァ伍号機と使徒はマグマの中に落下していった・・・・・・
まだ足が残っていたが・・・・ドプン・・・・漿液のように散り吹く溶岩面・・・・・・・・それを残して、影もみえない。
「ねえ、どうなったの!?ミサト?・・・ミサト!」
SOUND ONLY・・・・弐号機からの回線から悲鳴交じりの惣流アスカの声が響く。
だが、それに答えるものは誰もいなかった・・・・・・。
「撤収・・・・始めて」
赤錆色の葛城ミサトの命令が下される。ここで作戦は完結する。
マグマの中に引きずり込まれた伍号機がどうなったか・・・・想像に難くない。
だが、これ以上動きようのない。引き渡しだけは完了していた。
机上の考えで使徒を舐めてかかるから・・・・・こうなるのよ。
改めて装備を整えて、ここにこなければならない、か。せめて、四号機を・・・・。
本部への連絡のために携帯を取り出しながら、物憂く思考する葛城ミサト。
先のことを考えねばならない。先のこと・・・目の前より、二足ほど飛んでいた。
マグマの中でそのまま活動を・・・地震、噴火を引き起こすレベルでの・・・続けるのか・・・いや、多分それはない。奴にとってここは子宮にして巣のようなもの。
それを破壊するような生物は・・・・人間くらいなものだろう。
だが、マグマの道をそのまま沈行して第三新東京市にこられた日には・・・どうするか。
あの形態から、飛行や歩行といった移動手段をとるとは考えにくい・・・・・
「かっ・・・葛城一尉!・・・・あれをっ・・・!!」
伍号機と使徒との食い合いすら直視していた日向マコトが呻くような声を上げる。
モニターに目をやった葛城ミサトは一気に浅はかな考察から引き剥がされる。
引き剥がしたのは・・・・・・・
白い、手 歪んだ鈎爪の如く
まみれていた
打ち捨てられた石膏像を思わす、不自然な白さと其れを焼く赤黒い溶岩。
それでもビキッ、ビクッ、と震える指先はひたすらに生を求めている。
「使徒の腹を・・・抉り抜いてきたの・・・?」
手は使徒の腹に収められたはずだ。それが表に出ているということは・・・・・。
ふたつの巨大生命の戦いは最終的にエヴァ伍号機に軍配があがったのか。
ドリュッ・・
原始の舞踊者がその身で祈りを捧げているように限界まで反り返ってゆく、指。
生を求めるための力が漲るそれがドクドク膨張していく・・・・
そして。唐突に。
果てた。
再び沈降していく。不可視の力は拡散放出されてしまったのか、どこか安らかにそのまま。
誰しも言葉がない。禁断の秘儀を見てしまった哀れな農夫のように脳が痺れている。
そのまま日が暮れて現場は夜に覆われていく・・・・・。
夜でも浅間山
葛城ミサト邸
十時半過ぎ そろそろ十一時になろうとしている。
「遅いのなら連絡くれればいいのに・・・」
そうめんはのびてしまうので、ゼリーで固めてしまった。風呂もさすがにぬるくなってしまっただろう。
電話はない。葛城ミサトからもネルフ本部からも。大事はないのだろう。
使徒と戦うわけじゃないから心配ないよね、とペンペンに同意を求めてもまともな答えがかえってくるはずもなく。
宿題などを片づけていた碇シンジ。人がいる食卓に慣れてしまうと多少の寂しさがある。男同士で気楽なものだよ、といってもペンギン。ちょっと違う。
それを紛らすために長電話をする趣味は碇シンジにはなかった。
入り口が開く音。
出迎えに行く碇シンジとペンペン。「おかえりな・・・・・さい、あっと!」「うぎゃ!」
「ただいま・・・・シンジ君・・・」
今にもぺしゃりこ、とつぶれかかっている、惣流アスカを背負った葛城ミサト。
大急ぎで駆けつけてそれを支える碇シンジとペンペン。葛城ミサトの、これほど疲れ切った顔は昔からの同居ペンギンでも見たことがなかった。消耗しきって膝が笑っている。
それに、眠っている惣流アスカなどプラグスーツのままだ。
「いったい、どうしたんですか・・・・」
こんなに疲れたなら、いっそ一泊してくれば良かったのに・・・・。
もはや生気が枯れきって、藁人形のようになっている惣流アスカを見ながらため息をつく。
「あたたた・・・・・ま、いろいろあってね。ケガだけはせずにかえってきました」
ぎりりとしがみついている惣流アスカを下ろして、葛城ミサトは疲れた笑みをみせた。
「とにかく、アスカを運びます。ペンペン、足をもって」「うぎゃ」
おさるのかごやよろしく、惣流アスカを運んでいく。ちょっとひよわだが。
「あ・・・・いける・・のね・・」
家に帰ってきたことを感じながら、靴をぬいで電灯のともるリビングへ。
一息ついたら、すぐさまネルフ本部だ・・・。一息、つけるということの有り難さ。
ほんとに、シンジ君がいてくれて良かった・・・。
今日は、ほんとうに参った・・・・・。
とりあえず、惣流アスカを寝間着に着替えさせ、エアコン効かせた自分の部屋に寝かせた葛城ミサト。そして、ぬるい風呂に入る。
その間、夜食とビールの用意をする碇シンジ。
「ほんと・・・大変だったんだな・・・・」
夜食といっても胃腸も疲れている葛城ミサトには、お粥か茶漬け位しか受けつけまい。
正直に葛城ミサトに白状させたなら、食事などしたくないに違いないが、とにかく用意だけはしておく碇シンジ。
永谷園のお茶漬けをつくる。とぽとぽと茶をそそぐ。
ふはー・・・・・・・・・・・・っ
命の洗濯のためでなく、単にみづくろいのために入る風呂。
本部は本部で、四号機になんか事故があったらしいし・・・・・あったく・・・・。
こっちはこっちで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・やめとこう・・・。
「あーああっ・・・・・さてっ!いっちょ、いきますかあ」
葛城ミサトは湯気に煙っているのをいいことに、その熱ガスのように巡っていた激しさを向かう鏡の向こうに置き捨てた。
ざぶざぶざぶ。
三口ほどで流し込む。さすがにビールは胃に痛いので、その気になれば似ている麦茶で我慢しておく。飲む気分でも場合でもないが。
「はー、ごちそうさまっ。元気でてきたわ。やっぱ人間もの食ってなきゃダメね」
「そういってもらえると・・・作った甲斐がありました」
ほとんど戦国武者と見習い茶人だ。
何かあったらしい、とは感じつつもそれを問わない碇シンジ。
使徒は結局、うまく捕まったんだろうか。それなら、Vサインつきで帰ってくるような気もする。・・・・逃げられたのかな・・・。それでこれから怒られにいくんじゃ・・・。
それを考えると口に出せないのであった。
こんなに疲れても・・・・うまくいかないことだってあるんだ・・。
聞くのはいつでもできるし・・・・・・ともかく帰ってきてくれたなら。
「ミサトさん」
玄関で葛城ミサトを送り出す。
「ん?」
「いってらっしゃい」
「ん。・・・いって、きます」
十一時過ぎ まだ灯っていたリビングの明かりに背中 押されて家を出られる。
短歌にしては字数が合わないが、葛城ミサトはそれでもよかった。
そして、ルノーは夜に消える。
「うっ・・・・・・・あつ・・・・・う・・・・・・・あつっ・・・・・・」
クーラーは効いているのに、内から襲ってくる熱さにへとへとに悶える惣流アスカ。
昼間の強烈すぎる体験は、しっかりと脳細胞に刻み込まれ、夢にまで見ていた。
「あつい・・・・・・・・・・もうすぐ・・・・・あと、すこしで・・・・・・・・」
赤い陽炎のようにゆらめく寝言。聞いているだけで暑苦しくなるほどに切実。
「あんた・・・・だれ・・・・・・ああっ・・・わたしの・・・・!とらないでよお!
あいたぁっ!」
そこで目が覚めた。この上なく不幸な目覚め方だった。世界でも確実にワースト20位以内に入るであろう。一応は、味方であるはずのエヴァに噛まれて目覚めるなど・・・。
ジグッ・・
痛みがある。まだ夢の続きなのか・・・・手を見る。暗い。明かりをつける。ない。
この位置にスイッチがあったのに・・・あれ・・・布団?ベッドじゃない?
ぐしゃ・・・・なにか踏んだような・・・薄硬い・・・プラスチック?
一体、ここはどこなのか・・・・目が慣れてきて、うっすらと輪郭がわかる・・・。
アタシの部屋じゃない!!・・・・ここは・・・ミサトの部屋?なんで?
ともかく、電気だ、電気をつけるのよ。ぱち。
明瞭な輪郭と色彩が現れる。本来は視覚に頼る人間に安らぎを与えるものだったが、今の惣流アスカには恐慌を与えた。
一つは・・・・・踏んづけて壊してしまった、葛城ミサトのモデルカー。
それはまだいい。
もう一つは・・・・痛みを感じる自分の手の・・・・・歯形であった。
これは・・・・・・まさか・・・・・・・・。
音をたてて血の気がひいていく。
始めて感じる類の恐怖に、惣流アスカは崩れ落ちた。嫌悪より恐怖が勝った。
「なんで・・・なんで・・・・」
今にも語りそうな生々しい・・・・跡。じわり、と血が滲んでいた。
悲鳴は・・・あげない。誰かに助けてもらえるとは思っていなかったから。
そして、その恐怖はそんな劇的な、動的なものではなく、もっと鬱々としてくる、静的な
ものだったからだ。骸骨の指に背中の皮がゆっくりとめくられていくような、鈍い恐怖。
長引いて・・・・なかなか捕らえた獲物を離そうとはしない。
ゆらり、と立ち上がって部屋を出る。そして、自分の部屋に戻ろうとする。
「洗わなきゃ・・・」
ふらっ、と思い出して洗面所に立ち寄る。半分、意識はない。熟睡するしかないような体力状態なのだ。まともに頭が働くわけもない。
流水に手を差しだし続けている・・・・・・・三十分近くも・・・・
鏡には自分の顔が映っているのだが、うつろな瞳にはその姿はない。
「アスカぁ・・?」
さすがに気がついたのか、目をこすりながら碇シンジがやってきた。
「あぁ・・・・シンジ・・・・」
「おかえり・・・水・・・・だしっぱなしにしてない?・・・もったいないよ」
「あぁ・・・・うん・・・・・」
どちらも寝ぼけているわりには会話がいちおう成立している。だが水の音はつづく。
意味のないそれは、どこか耳障りだった。本能的に碇シンジは止めてしまおうとした。
が、惣流アスカは止めさせなかった。ぐっと蛇口をつかむ。
「アスカ・・・・・」
さらに、さすがに碇シンジは惣流アスカの様子のおかしさに気づいた。
「邪魔、しないでよ・・・・まだ、おわってないから・・・・」
「どうしたの・・・?」
恐怖というものは伝染性が強い。そして今は、深夜。風にのっても伝えられる。
惣流アスカの目つきと声色と行動が妖しい。止まらない水音が不安を掻き立てる。
碇シンジは・・・・・
あいにく平気だった。気づきはしたものの、まだ頭は半分眠っているからだ。
「あ・・・噛まれたんだ・・・」
普段ではできなかっただろうが、惣流アスカの手をあっさりとってみた。
「離しなさいよ・・・・・・・」
妖しい目つきで睨みつけるが、手にほとんど力はない。手加減のない碇シンジの力は結構つよい。そのままじろじろと見る。
「・・・僕も小学生の頃はよく犬に噛まれたんだ・・・・逃げたら追いかけてくるし・・・・・木に登ればよかったのかもしれないけど・・・そんなのなかったし・・・・・・・おいでよ。薬、つけてあげる。洗ってもだめだよ・・・」
うとうとと舟をこぎながら云うわりには説得力があった。聞き手の方に判断力が欠けていたともいえるが・・・。
遠慮なくその手をつかんだまま、碇シンジはリビングにまでひっぱって行き、「我が家の常備薬・富山くん」の救急箱を取り出すと、消毒薬をぬりぬりした。
それから、包帯をぐるぐる・・・まさしくグルグルと、巻くだけ巻いた。
ガーゼも置かずにあまり意味がないのだが・・・・どちらも疑わず、納得していた。
「じゃ、おやす・・・ふぁ・・み」
朝になればおそらくは覚えていないだろう。碇シンジは片づけてから自分の部屋に戻る。いい夢でも見ていたのか、まるきり恐怖の伝染するスキがなかったようだ。
まさに、知らぬが仏の無敵状態。
目の前に会えば、相手がおそらく大根でも電信柱でも、同じコトをしてやったであろう碇シンジにされるがままにされていた惣流アスカはどうなったか。
部屋に戻る前にさすがにぱっちり目が覚めた。
「なにこれ?」
右手がグルグル巻きだ。たしかシンジが巻いてたような・・でもなんで。記憶が混乱している。自分が片手で巻いてももうちょっと上手いような・・・とにかくへただ。
手を・・・洗っていたんじゃなかったか・・・・・たしか・・・・流れる水の音。
傷跡が消えるまで流して・・・・・傷跡?・・・・他のものじゃなかった・・・・。
歯形!そうだ、歯形・・・・だ・・
少し、躊躇したが、包帯を外していく。ぐるぐると逆巻きにして。
現れる素肌。歯形は・・・・・・
無い!
肌はまっさらのまま。寝ぼけていた?・・・・・・部屋に戻る。自分の部屋に。
ベッドに倒れ込み・・・・そのまま意識は暗くなる。
「・・・・・あ・・・・あつうっ・・・・・・・・・・う・・・」
のだが、今度は純粋に暑くて目を覚ましてしまう。よく考えたら、いつもの行動パターンなわけだが、マグマダイブを体験してきていても、それで一気に耐性がつくわけでもない。暑いもんは暑い。・・・・ある深度までは弐号機の方が涼しかった気がしてくる・・。
それに加え、シャワーも浴びていないから大量の汗でべとつく。その不快感もある。
やはり、いっぺん目が覚めてしまったのがまずかった。体の方は疲れ切っているのに、そんなことが気になって眠れない。そのうえ、トドメとして・・・・
「おなかへった・・・・」
わびしい気分で時刻を見ると、午前三時。夜、食べると太ろうがかまわない。
まずは汗を流したいのだが、へとへとでその体力もあるかどうか・・・・。
エネルギーを補給せねば・・・・。惣流アスカは台所へむかった。
冷蔵庫を開けてみると、今晩もしっかり作っていたらしい食事がラップに包んであった。中にはゼリーの中に変なのが入っているへんなのもあったが、食べていると意外にいける。これで鍋一杯にカレーなどがあったらさすがに・・・・困る。
「ごちそう・・さま」
小声で手を合わす。そして、皿を洗うかどうか少々、迷った。皿を割るような心配はないが・・・・水音が聞こえるのではないか、と思ったからだ。さすがに食べておいて、ここで起こすには忍びない。かといって、夜中に起き出して食べるだけ食べて片づけもしないというのもゴキブリめいて格好悪い。結局、皿を洗う。真夜中はやはり時間がゆっくり進むものなのかも知れない。
「ん・・・・?」
はがしたラップをゴミ箱に捨てようとした時である。ふと、目に留まったものがある。
中身はすでに使われた、空のビニール袋だ。それも何袋も。印刷された文字が問題だった。
#評判のいい明礬#
惣流アスカに後ろの難しい漢字が読めるわけもなかったが、すぐ下に記してある、焼アンモニウムというのは解った。
「・・・・・なんで台所にこんなのがあるの・・・・」
六十グラム入り200円、とある。何に使うんだか知らないが、結構な量だ。
ゴミ箱をあさる趣味はないけれど・・・・視線をさらに奥にやってみると、木の棒が。
「ま、明日にでも聞けばいいわ・・・・」
それ以上は気にもせず、惣流アスカはシャワーを浴び、また自分の部屋に戻る。
ほんとうに見上げた根性だ。筋金入りである。
「あー・・・ほんとに今日は・・・疲れた」
エヴァ伍号機か・・・・・・ヘタを打てばアタシ達もああ・・・なる・・・・・
誰か乗っていたの・・・・・そんな気がしない・・・・無人のエヴァ・・・・・
エヴァだけの・・・・エントリープラグを埋め込まれない、エヴァそのもの・・・・
生物的なフォルム・・・機械仕掛けの神様・・・・管理を司る・・・・・雷の・・・・・・・・
ふわぁ・・・・・・・・・・・眠い・・・
ベッドに倒れ込む・・・・・・・・意識の目蓋がとじられて・・・暗・・・・て
ごちんっ
目の奥に火花が散り、額ががんがん鳴り響く。
「あいったああっっっ・・・!」
「うわっったったっと、地震?」
驚き桃の木西遊記、ブリキにキツネに扇風機、やってこいこい大魔人。
猪鹿蝶に月見て一杯、赤短青短、散らせましょうの三光五光のフルハウス。
遠くは八王子の炭焼きばいたんの歯っかけじじい、近くは山谷の古やり手ばばあにいたるまで茶飲み話のケンカ沙汰、相手がふえれば竜に水、金竜山の客殿から目黒不動の尊像までご存じの、第三新東京市に隠れもない惣流・アスカ・ラングレー、ま近くよって面像拝みたてまつれエ・・・・・・・・
と云う調子は当然、惣流アスカにはない。
ただ、この部屋は自分の部屋ではなく、碇シンジの部屋だった。
ベッドだと思って倒れ込んだが、間取りが多少異なっており・・・・・・・惣流アスカは
引力重力にひかれてそのまま、メテオな感じで頭突きをかましてしまったのだ。
枕、というクッションがあったために、碇シンジの方が心もち・・・あまり慰めにはならないだろうが・・・軽かった。寝ているところにいきなり頭突きをかまされた、という精神的ショックも計上せねばならないだろうが・・・・。
「あ・・・うーーーー・・・・・・ったーーーー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・いたたたた」
しばらく無言の二人。なんとも名状しがたい空気が流れていた。
その流れの中で、なんとか状況を理解しようと努めるふたり。一体、何が起こったのか。
「ここ・・・・もしかして、シンジの部屋・・・・?」「・・・・うん」
「なんでアスカがここにいるの・・・・・・」「・・・・間違ったのよ」
他人がみれば笑うだろうが、ふたりともひどく真面目な顔である。
どちらかといえば、碇シンジは怒ってもよかったのだろうが、・・・まじめだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
さっさと立ち去るには、空気が重すぎた。
どちらかといえば、部屋を間違った惣流アスカは謝るべきだろうが・・・なんといえばよいものやら分からなかった。と、いうより、頭突きのことは忘れたかった。
「・・・・一応、部屋を間違えたのはアタシのミスだから、それは謝っとく。
でも、その後のことは・・・・・お互いナシにしない?」
我ながら、人の安眠を邪魔しておいて虫のいい話・・・とは思いつつも、この辺りが限界だった。碇シンジにしてみれば、かなり譲歩をせまられる話だったが、まさか女の子に向かって、私は頭突きをしました、ときちんと謝れ、というわけにもいかない。
「うん・・・」
というほかはない。どうも世の中にはまじめに考えるほどに埒があかなくなる問題というのも存在するらしい。例えば・・・・いまのように。
「じゃ、おやすみ」
と、いいつつこれで眠れるのかいまひとつ自信が無くなってきた惣流アスカ。
疲れてはいるのだが・・・暑いし、痛いし、恥ずかしいし・・・・。
「あれ・・・でも、アスカ、今日はミサトさんの部屋で寝てたんじゃないの」
「寝かされてたっていうのよ、あれは。・・・・自分の部屋があるんだから、自分の部屋で寝るわよ」
強情というかなんというか・・・・近頃、男でもみないような根性だ。感心する。
あっ・・・・
「ちょっと待って、アスカ」
「・・なによ」
「できたから見せてあげるよ」
机の上のあの水槽模型だった。風呂敷で隠してあるが、惣流アスカ、と葛城ミサトは既に中身を知っている。・・・・知ってはいるが、せっかく見せてくれるというのだ。
(頭突きをかました責任もあるし)すこしは驚いてやるか・・・・。
「はいっ・・・・」
手品師のように風呂敷を外す碇シンジ。はっ、とさせられるほど優しい顔をしていた。
額は赤いが。手品師でもプロモデラーでもないが、少年なりに心をこめて作ったものを今、解放する・・・・・
「えっ・・・・・・」
演技ではなく、ほんとのほんとに驚いた惣流アスカ。中身を知っていながら・・・。
森の中のドイツ風の家・・・・その中は「冬」になっていた・・・・・
日本には存在しなくなった季節のひとつを・・・・碇シンジはこの空間の中にいかなる手段を用いてか、封じ込めていた。驚きは、一陣の寒風となって惣流アスカの項を吹き抜く。
どうやったのか、機械のサポートもなく、また、発泡スチロールで雪景色を作ったわけでもない。本当に結晶が出来ており、木は樹氷となっているのだから。
単なる氷細工なら、いくらエアコンがあっても部屋の中では溶けてしまうだろう。
「どうなってるの・・・・」
碇シンジはにこにこ笑っている。よっぽど惣流アスカの驚く顔が見てみたかったのか。
葛城ミサトも、もし今日が平穏な一日で、この場にいたなら「またしてもシンジ君にしてやられたわ」と、ぺしぺし額を叩いたかもしれない。
「まてよ・・・・」
台所にあったあの袋・・・結晶・・・・・そうか・・・・多分、析出だわ。
「析出ね」
「せきしゅつっていうんだ」
ベースになる知識の量はダンチでも、喋るのはドンぴしゃ同じタイミング。
析出、とは。
物質は、ふつう、温度が高いほど水に溶けやすく、低くなると溶けにくくなる。つまり、温度の高い水に物質をたっぷりと(できれば、これ以上溶けなくなる、つまり飽和水溶液になるまで)溶かしておくと、温度が下がるにつれ、溶けられなくなった物質が結晶となって現れてくる。これを「析出」という。
その際、何かしら核になるものがあると、そこから結晶が成長してくる。この場合、木の枝やドイツ風の家が結晶の核の働きをしているのである。
模型を組み上げた碇シンジ君は、その後、アルミ鍋にお湯を沸かして、かってきた明礬・・・・ミョウバンを溶かした。その際に木の棒でかき混ぜてよく溶かしたのである。
そして、水槽が壊れてない程度に湯をうすめて、そっと注ぐ。
一リットルの水を沸かしながら248グラムのミョウバンを溶かし、冷ますと摂氏六十度で飽和水溶液となり、二十度で百八十九グラムが析出する。
ちなみにテキストとしたのは、セカンド・インパクト以前に出版された、ブルーバックス「ハテナ?ナルホド実験室」である。
さらに、蛇足として付け加えておくと、碇シンジがこれを思いついたのは、テレビの時代劇で侍が涼んでいるシーンで、ナスの塩漬けを食べていたのを見たからだった。
色止めにミョウバンを使う。余ったミョウバンは本来の用途に使用されている。
れんこん、牛蒡などのあく抜きにも使えます。変わった使い方では、汗の匂いとりなどに。
・・・・まさに蛇足。
「風鈴はミサトさんにあげたから・・・・もし、よかったら、これ、アスカにあげるよ」「・・・・・いいの?」
予想外の仕掛けに気を奪われていたが、模型自体の出来もかなりのものだ。写真を見ながらでもこれだけ作るのは大変だと思う・・・模型のことはよくしらないけれど。
しかも、くどいようだが、さっきの後、である。やはりすこし、抵抗ある・・・。
同時に、自分の手の内にはいるというのは・・・・・すこし、心が躍った。
欲しい、というのとはちょっとちがう。うれしさ・・・に近いだろうか・・・・・感動なんておおげさなものではないけど。・・・・それにしても・・・・
・・・・こんなことを一体、どこから思いつくのだろうか・・・不思議におもう。
なんで、こんなことしようと思うのだろうか・・・・・その源は・・・
これが、日本人のお家芸の、サッシとオモイヤリなのだろうか・・・・。
少し、涼しくなったのは、もう朝が近いせいか・・・・それとも・・・・・。