あの事件より一週間ほど経過した・・・・




コンフォート17マンション

葛城さんとこの碇くん、つまり、碇シンジ君がこのごろ少し、へんだった。
へんだと思うのは、当然、本人ではなく、周りの人間。
それも、ごく限られた範囲の、葛城家の中でのこと・・・・・約、二名。

葛城ミサトに惣流アスカ。
一つ屋根に暮らしているだけあって、少年の微妙な変化に気づいていた・・・・とかいう大層なものではなかったが。

なぜか、浮かれている・・・・・・ように見える。環境に慣れて、明るくなった、とか、そういうことではない。表情に、ほのかに、何かを知り染めたような香りがたち昇って・・・前髪のあたりをゆらしているような・・・・・そのようなものだ。

本人に尋ねてみれば、おそらく、そんなことはありませんよ、とにこやかに否定するだろうが・・・。今は風呂に入っている。

「・・・・ぜえっっっっったい、なんかあるわ」
先日の「危険作業」のボーナスとして、クーラーがとうとう部屋にやってきて、ようやく涼しく眠れている惣流アスカは言う。

「・・・・んー、まあ、幸せな気分なのはいいことだけどね」
保護者の役をようやく長い「出張」より戻ってきた碇司令より「正式」に一任され、エヴァ初号機も凍結封印措置が解かれ、浅間山の「アレ」も調査により死滅が確認され、連絡を受けた当時はどうなることかと思った渚カヲルの件もそう大したことはなく、パイロット、機体共に四号機も起動可能の状態にあり・・・嵐の前の静けさにいつも決まっているとはいえど・・・現在、多少の平穏の中にある葛城ミサトも応じる。
ついでに言うなら、碇シンジの秘密の箱にだまされて、多少くやしい思いもした。

それで作ったナスの塩漬けをいまつまんでいるのだが。
このまま惣流アスカに同調するか、それとも何故、碇シンジが気になるのかそのあたりをくすぐってみたくもなる・・・・そのため、どっちつかずのことを言う葛城ミサト。

なにかいいことあったのかしらね・・・・・
ふと、ぼんやりとしてしまう。

やはり、伍号機のことはショックだった。それが胸に残っていて、重い。
あれは、やはり無人機だった。ATフィールドも張れない・・・どういうわけだか、正式スペックはまだ発表にならない・・・・機械のエントリープラグを搭載させたまがいもの・・・・いわゆるパチもんだ。パイロットも見つかってないくせに使おうとするから結局余計な散財をすることになる。しかも焼失だ。勿体ない。
使徒と戦えないエヴァ・・・・機械はただ起動させただけ・・・エヴァの血肉に備わった
本能で戦ったのだろうが・・・・あれは・・・・・・・・・・・・・・・相討犬死だ。
ネルフの手綱を締めるつもりだったのか、それともデモンストレーションか実戦訓練か・・・・・意味のない投入。使徒を舐めていた。

おかげでこちらは骨折り損のくたびれもうけ・・・・・ひとり灼熱地獄の孤独と熱さに耐え抜いたアスカの苦労を考えると、ほんとにやり切れない気分になるが・・・・

その代償として・・・・おそらくは・・・初号機の封印解除がある。

エヴァを一体失ってしまった、という以上に碇司令の押しがあったはずだ。どれだけの譲歩を引き出してきたのやら・・・とてもクーラー一台では済まないだろうけど。

「へっへっへー。でも、アスカはなんでそんなにシンジ君のことが気になるのかなあ」

「べっ、別にい。も、問題はそういうことじゃないわっ。初号機も復活してくるんだし、パイロットとしての心構えというか気の弛みとか、そういうことを心配してるだけよ!」「なるほどなるほど」

綿菓子のようにどこかとらえどころのない碇シンジを相手にするのが面白いときもあればはっきりとしたリンゴのような歯ごたえのある惣流アスカを相手にするのが面白いときもある。面白い、というのもなんだが、情愛の発露、というにはちょっちひねくれている。

そこには、隠し味のように、尊敬の要素が入っていたから。 一番、先の事件でショックだったのはアスカのはずだが、それを外側から伺わせないように・・・気丈に振る舞っている。もちろん、それ相応に噛みつかれはしたが、落ち込まれるよりは遙かによかった。
アスカがどのように心の整理をつけたのか・・・完了はしていないにせよ、ひとまず・・・・葛城ミサトには分からない。ただ、カン、で云うならば、JAのことがあるのではないか・・・無人の機械でも使徒は倒せないこともない、という点において・・・パイロット・・・・・チルドレンが搭乗していないことを聞いたときのアスカの表情から察して、そのように思える。過去の苦痛を踏み台にして今の苦痛に耐える・・・・攻撃的になるのは誰でも出来るけど、耐えるのは・・・・むつかしい・・・。

その代わり・・・・なんかシンジ君に対する態度がなんか・・・「こなれてきた」ような。
シンジ君・・・・・・耐えてね


「そういえば、アタシ達がシンクロテストをやってるときにシンジの奴、どこにいると思う?」
「霧島教授の研究室にいるって聞いてるけど」
そのおかげでリツコがシンジ君に呼び出しをかけづらくなったとか言ってたっけ。
もしかして本能的に身を守ってるのかしらね。
ともかく、遊んでいるわけでもない。シンクロテストなど見学させたところで退屈なだけだろうし、プラグの中にいる同じチルドレンをモニターから見つめるなどさしていい気分のするものでもなかろう、と初号機開封までは自由意志に任せている。
使徒を研究分析する、霧島研究室に入るというのは、よくわからんが、それなりのやる気を伺わせて、葛城ミサトとしては、それなりに結構なことだ、などと思っていた。
それがなんでこの話にあがってくるのかが、よく分からなかったが。

霧島教授という人も・・・・この呼称が定着していた。イメージというものか・・・・・随分、変わったひとというか・・・・科学者とはこういうもんかと認識を新たにするというか・・・・自分とはまるで違う目で世界をみている。

殲滅はしたものの、使徒胎生の捕獲は結局、失敗した。
貴重なサンプル、初の大仕事、生物学者ならば誰しも夢に見るような、謎の生物を己の手で調べられると云う歓喜を伴う栄誉(赤木リツコ談)が消えても、まるで残念な様子のない霧島教授。やる気が無いのかと思いきや・・・・
数日前に作戦会議室で行われた作戦報告の時だった。

持ち帰った例の映像がモニターに映し出される。誰しも言葉が無く、さすがの赤木博士も
眉間に皺を寄せる。これは現実の光景。しかし・・・・
柔な神経では正視に耐えかねる阿鼻叫喚の有様。それを見ながらまず云ったのが

「鳥、ですか」
この一言。
「エヴァ伍号機からは方向性を変えたようですね」

それまで黙ってモニターを見ていたのが、声色もまるで変えずに平然と。
骨格図や化学式でも映し出されているかのように、動きの感じられない感想。

「しと、の方は・・・・アノマロカリスとカレイを組み合わせたような・・・・胎生状態から納得のいく変化ですね」
人類の敵性体、使徒!、という戦闘的な響きのない言い方だった。
それでいてモニター映像からは目を離していない霧島教授。

逆に霧島教授の方に視線が集まってしまう。もちろん、その発言内容に関して。
いくら新参とはいえ、伊達な資格でこの場にいるわけではないのだ。
この場で最も偉く、なおかつ霧島教授を招聘した張本人、冬月コウゾウ副司令はその内容を勿論、汲んでいるのだろうか。葛城ミサトなど、ちょっと見てしまう。

「どういうことなのでしょうか」
かなり戦闘的な響きの赤木博士。オペレータ連中が感じる疑問では当然なく、霧島教授がその専門の使徒についてのみではなく、エヴァ伍号機についても考察を加えてしまったからだ。
自分より先に・・・・。
云おうとしていたことを先に云われるのを嫌うのは科学者の本能・・・・又は悪癖か。

しかし、それはいうべきではなかった。おかげで、そこから先は霧島教授の独壇場だった。

「じんぞうにんげんエヴァンゲリオンと人類の天敵かもしれない使徒、という存在。生物なのか無生物なのか今一つ判別しがたい・・・・いわば「門」をくぐり抜けたものなのかもしれません。大いに興味のわくところですが、哲学めいた語句の使用はなるべく控えたいので、ここでは生物、ということにしておきます」

冬月コウゾウ氏の微苦笑。他の者は突如始まった、講義の調べにあっけにとられた。
休みだったはずの教師が急に教室に姿を現したときの学生のように。
ちなみに、ここでいう「門」とは生物分類学で、最も大きな分類単位のこと。
おおよそで39ある。その門の全てがなんらかの形で、海を生活の舞台にしている。
海ではなく川や湖にすむのが14門、陸上にすむものは5門しかない。
葛城ミサトもこれくらいは知っているのであった。

しかし、その「門」をこえる、というのはなんとも哲学というか宗教的なものを誘うが、霧島教授にはその気はない、ように見える。実際、ないのだろうが。
その折り目正しい理知に暗さを好む怪しさの近づく余地はないのだろう。

「じんぞうにんげんと使徒。これは以前に作成された詳細なレポートによると、固有波形パターンが、構成素材の違いはありますが、人間(ひと)の遺伝子と99.8%の割合で酷似している・・・のは皆さん、ご存じですね」
使徒の分析研究を依頼されただけあって、ほとんどエヴァに目がいっていないような。
それがいいことなのか、悪いことなのか。葛城ミサトには分からない。

「生物の発生には、個体発生は系統発生をくりかえす、というルールがあります。
これは、人の場合でも最初の卵のときは、単細胞生物であり、発生が進んで胞胚や嚢胚の時代がクラゲやイソギンチャクの腔腸動物に相当し、それからさらに発達してジストマや吸虫などの扁系動物の形態をとり、やがてミミズやゴカイなどの環形動物に相応する形態をとり、さらに変化して脊椎動物らしくなるとこれは・・・・魚類ですね。
そして長い尻尾と四つ足を持った両生類から爬虫類へと変化して・・・・ここが大事なことなのですが・・・・・最後にひとの形になって生まれてきます」

このひとは・・・生まれたときから教授、だったのではないか・・とそう思わせるほどの語り口だ。声がまたいいのだった。俳優になっても十分やっていけるだろう。

「受精卵になってから生まれ出るまでの十ヶ月間に、これだけの変化を遂げるということは、まさにひとは母親の胎内で地球上に生命が発生してからひとになるまでの大変化を我が身をもってもう一回演じているということになりますね」
演じなくともロマンスグレー・・・。怪獣映画の前に立つ名画の俳優。絵になりすぎる。

「こうしたいくつかの変化の中で、その時その時の典型的な特長をひとになってからもこの形態の上にとどめています。たとえば、われわれの毛髪や爪の表面を形成しているキチン質は、われわれがよく知っているミミズの表皮の紫色にキラリと光る薄膜・・ガラス膜とも呼ばれますが、このガラス膜とたいへん似ているものなのです。
または、われわれの眼球の表面を覆うキョウ膜という薄い丈夫な膜は海水に対して非常に強い。海の中で裸眼で泳いでいても、せいぜい目が赤くなる程度で済むのはこのおかげなのです。この膜がなければ、眼球表面のような薄い粘膜は塩分にやられてしまうでしょう」

こういう場でなければ、誰か指名していたかもしれない霧島ハムテル教授。
ともあれ話はまだ続く。
「陸上に発生し、陸上で生活しているわれわれの目が塩水に強いというのはなぜなのでしょう。それはわれわれの祖先が海水の中で大きな目をあけて泳いでいたことを示しています」

さっきから「われわれ」ってのがずいぶん多い気がするけど・・・伏線なのかしら。
不機嫌そうだが口を差し挟まない赤木博士を横目で見ながらそんなことを考える葛城ミサト。ほとんど、一番後ろの席で教科書に隠れて早弁している天の邪鬼なスケバンだ。
ほとんど聞いていない、というか我関せずの作戦顧問は用務員のおじさんか。

「もうひとつ、耳から喉に通じている「ユータキシス氏水道」と呼ばれる細い管があります。これは耳にかかる気圧をのどへ逃がす重要なパイプなのですが・・・」

ここで、伊吹マヤが学生時代の昔に戻って、手を挙げて「列車がトンネルに入ったとき、耳がつーんとするのがごくりとつばをのみこむと直るってあれですね!」
と、云いそうになったが先輩である赤木博士の表情をみて慌てて自分の手をひき止めた。あぶないところだった・・・・

「魚の鰓と鰓の間にある、鰓裂(さいれつ)という鰓を洗った水が外へ出ていく通路があるのですが、このU氏管というものはこの鰓裂の何番目かのものが変化してできたものなのです」
ずいぶん長い一人話だが、それで飽きさせず、疎ませないのが独壇場。
身近な、文字通り、身近な話になっていったが、これが使徒とエヴァ伍号機とどう関係があるのやら。ここまでひっぱっといて、落ちはなし、とか云ったらさすがに・・・・。

霧島教授はここで始めて移動した。ほんの数歩あるいただけだが。場面の展開をそれだけで知らしめた。モニター前。ある一点を指さす。視線は流星のように引かれる。

使徒の、福引きの箱を思わせるビロビロのついた口。そこに。

「この特長のある、口。これがポイントです。それは、目や口の配列による顔というものの種的特長が生物の間にはじめて登場するのが魚類だからです。昆虫などは頭部がはっきり独立した部分が、脊椎動物などとは本質的に異なります。
二つの目で物を見、その結果、狙いのはずれない位置に口がつく、という部分配置は、たえず触覚で触り、確認しながら食物をとるという昆虫と比較して、口器を中心とした顔面の構造や筋肉の動きがまるで異なってくるのです。顔がその持ち主の生活を端的にあらわすようになるのは実に魚類からなのです」

だから、使徒とエヴァはどのあたりででてくるのでしょう?

さすがに赤木博士が口を差し挟もうとした。いくらなんでもここから繋ぐことは出来まい。あとは冗長に長くなるだけだ。皆、講義につきあっているほどヒマじゃないの・・・・

と、起承、と転はすぐにきた。桶屋の娘は・・・・

「このように考えてみますと、われわれの歴史には鳥類の時代が無かったことに気がつきます。われわれの体のどちらを探しても、祖先がかつて鳥であったという痕跡は全く見られません。それは、鳥類は実は爬虫類から分化していったひとつの横道である、と考えられるからです」

たしかに・・・・鳥、はでてこなかったわね。穿った見方をしていたわりにはそれを逃していた葛城ミサト。

「ゆえに、われわれはどのように努力しても翼をもつことはできません。
万に一つの奇跡を待ち望んだとしても・・・つばさをもった子供は生まれてこないのです。それゆえに遙か昔より、天使というものは翼をもち、ひととは一線を画していたのでしょう」

目で殺す・・・・・というわけには、霧島教授の視線はあまりに柔らかい。
だが、さすがにこれで霧島教授の発言の意図が分かった。
あの光景を見ても恐れないのは想像力に欠けているせいかと思ったが・・・とんでもなかった。ようやく、冬月副司令がこの人物をわざわざ招聘してきたか分かった。
ネルフは不必要な人間を招くようなまねをするほど甘くないのだ。




「・・・・ミサト?なにぼけぼけっとしてんのよ。聞いてる?」
「え?ああ・・・聞いてるわよ。もちろん」
その霧島教授のところに通う碇シンジ。どういうわけだか、加持に紹介されたという不思議な縁。入り浸っているというわけでも・・・・パチンコ屋や雀荘ではあるまいし・・・・ない。だが、その研究室参り(葛城ミサトも初めての時はあれに驚いた)が始まってからどうも機嫌が春加減、のような気がするのだ。
女のカンだ。

年齢経て無くとも、少女のカンもそれなりに鋭い。これがあまり鋭すぎると、霊感、と呼ばれてしまうのだが。

年相応に特に勉強好きでもない碇シンジが、研究室などに顔を出して霧島教授から講義でもしてもらって機嫌がよくなる、ということは普通は考えにくい。もっと別の原因を考えてもよさそうなものだが、そこを嗅ぎつけてしまうのが女性のカンの恐いところである。

それにちょっかいだしたくなる性格・・・というのは後天的なものだろうか。

黒雲の切れ間からふいに、しばし、のぞいた光がいとしくてふれたくなる・・・・。


しかし、エビチュを片手にそんなこと真面目な顔で呟いてみても説得力はないのであった。

「あー、いい湯だった」
碇シンジが風呂からあがってきた。その次に入るべく、ペンペンがててて、と走って交代のタッチをする。見事に馴染んでいる。碇シンジには鳥類の血が入っているのではあるまいか。


「シンジ君、ちょっちいらっしゃあい」
「なんですか、ミサトさん」
もちろん、風呂までは二人の相談は聞こえないし、これからの展開が自分のことだとも思っていない。今日も碇シンジ君。湯上がりのままゆらゆらとトラバサミに近寄る。

「霧島教授のお話、面白いかな」
そろそろ扱い方を研究してきた葛城ミサト。正攻法では風圧が強すぎて、のらりくらりと
本人にはその気はないのだろうが・・・かわされてしまう。浮き上がって手に届かなくなってしまうのだ。まずは足もとを固めねば・・・などと政治家のようなことを。
周辺から埋めていって、シンジ君が自分から話すのを待つ。幸せな人間は水を向けられればそれを話さずにはいられないものよ・・・。

惣流アスカに無論、そんな芸当ができるはずもない。確かに興味はうずうずとあるのだが
正面切って聞くことには抵抗がある。それしか手だてをもたない少女は沈黙するしかない。ここらへんが年輪の違いというもの。本人は、けしかけた気でいるのだが・・・。

「はい、面白いです」
くったくがない碇シンジの返答。それはいいのだが、小学生の感想文のようにまるで展開がない。どのように面白いのかと話すところを碇シンジはそれをしない。
これは頭脳の回転と自己主張の乏しさの問題、と欧米風の教育を受けた惣流アスカは判断し、うきー、とくるのだが、葛城ミサトは単にそーゆー性格なのよ、といいかげんなところで割り切って話を進める。声色から察しても、本当に面白いのだな、と分かる。
問題は、霧島研究室で行われているのが、「それだけではない」ということだ。
これはまさに女のカン。少女のカンは及ばない、年期の力だ。

ここで押してしまうと、魚は餌だけとって逃げてしまう。うふふ・・・・。

それに大体、この年頃の男の子がぽうっとなることなんざ・・・・・・一つっきゃないでしょ。やっぱり、白衣の女の人に弱いのかしらねえ。遺伝的に。
ま、このくらいだと、どうしても年上のお姉さんに目がいっちゃうからねえ・・・。
研究室の助手で誰かいるのかしら、ね。

カンというより経験則だった。だが、そのためにまた外れる。



「どんな話をされたの?わたしたちにも教えてよ」

葛城ミサトは焦らない。八割、当たりだと思っていたから。
大学出の惣流アスカは、碇シンジのレベルに合わせた話など聞く気にはなれないがしょうがあるまい。オレンジジュースなど飲んでいる。

「今日の話は面白かったんです。タコがイモを食べるというお話で・・・・」

チルルリリリリリリンッ

葛城家の電話が鳴った。ネルフからの非常呼び出しではない。私用だ。
「あ、僕が出ます。・・・・はい、葛城です・・・・・え!?」
碇シンジの話のタイトルに多少面食らっていた葛城ミサトと惣流アスカだったが、ふいにあげる驚きの声にネルフ関係かまたは緊急・・・!、と身を起こす。

が。

切り替えボタンを押して、そのまま受話器を話しながら持っていってしまう碇シンジ。
足音、てくてく。緊急事態・・・・ではないらしい。早足ではあるが。
それにしても・・・顔が赤くなっていたような・・・・。自分の部屋に入ってしまう。
聞かれたくないのだろう。


「なんなのよ・・・」
謎の電話に期待をハズされてしまった惣流アスカはご機嫌ななめ。

まさか、鈴原君たちからのビデオ鑑賞のお誘いってわけでもなさそうだけど・・・・それならもっと別な・・・・それに大体、この電話番号は・・・・・。
とにかく、驚くような相手だったわけだ。ジャイアント馬場さんからだったとか・・・・って、冗談。

それにしても・・・・「タコがイモを食べる話」っていうのは一体・・・・?
そちらの方も気になってしまった葛城ミサトは頭をひねる。うーむ・・・・。





次の日

ネルフ本部 総司令官執務室
ゼーレからようやく戻ってきた碇ゲンドウ。かわりは・・・いや、問題はない。
いつものポーズ。
「伍号機の消失か・・・・これは誰の責任になるのだろうな」
冬月コウゾウの嘆じたように云う言葉。これをタネに目の前のこの男がどれだけの譲歩を引き出してきたのか・・・・調整役としては、手放しでは喜べない部分もある。
棒倒しと同じく、あまり欲張れば棒は倒れてくる。じり貧よりは遙かにマシだがね。
だが、選択の幅が広がったのは良いことだ。
伍号機を失ったことで、当然、四号機を手元に置こうとするだろう。
なんやかやと下らん理由をつけて。そのあたりをうまくやらねばな・・・・。
使徒にやられておいて、その力を理解せず、自らの保身のみを考える・・・人間というのは・・・そんな予想を「知っている」己も含め・・・・厄介なものだよ。
四号機の「事故」を言い訳の種にでもしておくか。

苦労性の冬月副司令であった。どこか鈴木商店の支配人に似ている。
この人物が胃潰瘍などで倒れてしまえば・・・ネルフはやばいかもしれない。

ぱち。桂馬をうちながら頭の中の高級な算盤がはじかれている。
将棋盤の外のことに気を使い、もしくは将棋盤そのものがひっくり返されぬようにするのが、えらい人の仕事だった。ルールを作成する能力をもった者たちの目に見えぬ争い。
ルールがない、ということでその争いは本質的にえげつなく凶暴だった。

「初号機の凍結解除さえ取りつけてしまえば、あとは構わんよ。
・・・・ところで冬月先生」

ぱち。その手は止まらない。視線も合わせない。四3の銀。
息子を葛城一尉に預けたのはそう悪いことではない、と思うが。成り。と金。

・・・珍しくその予想は外れた。

「ゼーレに赤木ナオコの声を聞きました」

「なんだと?」





赤木研究室

「で、四号機の事故って結局、なんだったわけ?」
葛城ミサトが尋ねる。返答形式は予想しながら。
「報告書の通りよ」
コードナンバー606。分からないと素直にいやあいいのに云わないための魔法の言葉。「もうちょっと端的な言葉が欲しいんですけどね」
「部品自体に問題はなし。パイロットからの逆流よ。極度の緊張が慣らしていない生体部品に過負荷をかけてその結果・・・・」
「新世紀に入ったってのに、血を流すマリア像ってわけね」
「零号機の時とは違って、これは科学で説明のつくことだわ」
「ふーん・・・・」
これ以上はやめておいた。議論をやる気ではない。それよか、早いところ初号機を元通りにしてもらわねばならない。使徒はいつ現れるかわかったものではない。
零号機、弐号機、四号機、順序が違うが、トドメに初号機。
揃い踏みを早く見たい。さぞかし偉観だろう・・・・。
使徒なんぞすぐさま追っ払えるほどの・・・・。


だが、あの渚カヲルが義眼に血の涙を流させるほどの感情の高ぶりをみせた、というのは気にかかる。一体、何を見たのやら。エヴァからの浸食等ではない以上、作業を指示するほどに冷静で物事が分かっている渚カヲルが、肝心な工程で自ら台無しにするはずもない。単なる「失敗」とはわけが違うのだ。この一件は。
超絶に複雑なメカニズムの理解は出来なくとも、葛城ミサトには根幹が見える。
単純に子供の心配がしてやれない己を恥じながらも・・・渚カヲルの同居人、赤木リツコに尋ねてみた。悪いのだが、渚カヲルは他の子供とは「違う」。
第一、肩書きからして、ネルフ本部を離れ、試験場管理人のそれに戻れば、葛城ミサト、赤木博士をもってしても、よくて同格、悪くて格下だ。
四号機パイロットとして、葛城ミサトの直轄に「便宜上」おかれているだけのこと。
四号機も戦闘用ではない以上、戦闘部隊に配属される義理はそもそもないのだ。
保護者、といわず同居人、としてみるのもそのためだ。

その発言には、肩書きの重みというものがかかっている。
それだけに、渚カヲルから情報を引き出すにはまともな手段ではいくまい。
普段の会話からして、天上の雲のようにつかみどころがないのだが。

多少なりともそれが出来るのはやはり、同じ家に住んでいる者しかあるまい。

「渚君は・・・・なにをみたの?」

「目の前の視力測定盤よ。ほかになにがあるの」 じろ。葛城ミサトの魂胆を見抜いている目つきの赤木博士。
一緒に住んでいるからといって、なんでも分かるわけでもないのは・・・・・・ミサト、
あなたも同じでしょうに。・・・でも、違うところがたったひとつあるわ・・・・。

「四号機は起動可能。それは知らなくていいことよ。本人が話そうとしないなら・・・。シンジ君には・・・・・・そうしているんでしょ」

うぐっ。何も言えなくなってしまう葛城ミサト。赤木博士は美しいほどに冷静だった。
そして、その声が・・・・・めずらしく、優しかった。


ミサト、私はね、渚君が眠っているところをみたことがないのよ・・・・。






第三中学校 屋上

落日に浮かび上がるすらっとした影。渚カヲルであった。物憂い表情で瞳に落日を吸い込むように眺めている。もしかしたら逆なのかも知れない。
夕日を溶かしているから、この少年の瞳の赤はやわらかい・・・帰る人をつつむように。

赤木さんの家のカヲルくんも、じつのところ、このごろ少しへんだった。

あの義眼の事故より・・・・無論、作業自体は失敗したわけでもない。不慮の事故というべきだし、そもそも工程をチエックして批判出来るような人間は赤木博士くらいしかいない・・・・落ち込んでいる、わけではない・・・・・様子がおかしかった。
しかし、碇シンジと異なり、他者にそれを気づかせることはない。



「使徒・・・・・」




深い、深い思考の海に潜る。圧力に押し潰されてしまうほどに深い。
常識という光も届かぬ、信用・・・ひとをひとたらしめているたぐいの・・・という酸素も持続せぬほどに、深い。
深い思考・・・・もしくは祈りは、いずれ天上のネットワークにつながるかと思われたが・・・・ひたすらに孤独。分かち合い分かり合い、理解することもされるものもない。

それでも沈潜する。

赤い光・・・瞳の赤にひかれて、闇の方が浮き上がってきているのかもしれない。
つきぬけていく・・・・・・のか、
しずめられていく・・・・・・のか、
それは全方位全方向にひらかれた迷宮。みちは、すべてに。
漂っているのか、沈んでいるのか、浮いているだけなのか、進んでいるのか、わからない。
虚シの海

未だ常識という光に照らし出されていない闇の中の赤い・・・・・蛍。

遊びながら・・・・確かに求めるそこに近づいていた。

あの時、ふいに閃いた・・・・いや、そんな生やさしいものではない、脳裏を焼いた・・・・・あの光景は・・・・・


広大な空間の一点より膨れ上がる赤い・・・・・円球・・・・ そこから先は何も見えない・・・・・・いや、自分には見えていたはずだ・・・・




「消滅」が






「夕焼けの屋上にて孤独にひたる。まさに悩めるひーろーの図よね。戦隊系じゃなくて、仮面ライダー系かなっ」

「・・・・・・」
赤い瞳が細められた。ふりかえる。その声は・・・・

綾波、レイ。
「はじめましてーっ。渚カヲルくん。綾波レイ、どえーっす!」
にかっと笑顔が赤く照らされる。その声もその顔も・・・たしかに綾波レイだった。

しかし・・・・。

その綾波レイは・・・・恐るべきことにどこで買ってきたのやら、仮面ライダーチップスをもっていた。まだカードも封を切っていなかった。


「君は・・・・・・・」



「手紙は届いた?」





だいたい同時刻 二年A組 放課後のがらんとした教室

お代官様と越後屋・・・・ではなかった、鈴原トウジと相田ケンスケとがなにやら相談をしていた。渚カヲルは個人的イベントで屋上にいるわけで、碇シンジもその中にいてもよかったのだが、よくない理由があったから、鈴原トウジなど居残るために本来、掃除当番でないところを「日頃怠けとるし、イインチョー、包丁で切って指、ケガしとんか、そりゃーいかんわ、ワシがてつどうちゃる」などと、見たまま適当にでっちあげ、洞木ヒカリを喜ばせながらも、わるだくみのじかんを作ることに成功した。
家に帰ってから電話で話せばよさそうなものだが、わるだくみというのは肩寄せ合って小声でやるから面白いのである。


さて、机の上には一枚の紙切れがある。下手な字で人名がある。

惣流・アスカ・ラングレー

山岸マユミ

イインチョー、洞木ヒカリ・・・・・・・・綾波レイ


「さて、問題はこの中から誰にするか、やな」
「それ以前に、引き受けてくれるかどうか、だろ」
紙切れの一番上には、太く、「地球防衛バンド」とある。
その下にメンバー、鈴原トウジ、相田ケンスケ、渚カヲル、碇シンジ、とあった。
男の方はすでに決定事項らしい。
ちなみに渚カヲルも碇シンジもこの事実を未だ知らされていない。
しかし、さりげなく相田ケンスケが聞き出しており、演奏可能な楽器について書き出しがされていた。抜け目がない。

これは一体どういうことやのか、説明すると、
第三中学校ではそろそろ文化祭が行われる。そこで、鈴原トウジと相田ケンスケはバンドを組んで発表することにした。なぜバンドかというと、理由はいろいろあるが、目立つしこの面子で一緒になんかやったらどうなるものかと・・・旅行などはとても無理だ・・・・・思ったからだ。遊ぶのもむろん、楽しいのだが。

祭りは参加せんと面白くない、踊るあほに見るあほう。おなじあほならっ、ちゅうわけや。どうせ何かはせんといけんのやし、部活もやっとらんあいつらはクラスで出す屋台の店番・・・ちゅうことになるのは・・シンジと綾波なんぞは・・・みえとるしの。
それもちいと、さびしいんやないか、とワシは思う。

・・・・相手に求めるのが恋、相手に与えるのが・・・・・・・・・・・愛。
あせるつもりもないし、心を開いてくれるまでまつけれど、そのための努力はするべきだろう。本は決して逃げない友達かもしれないけれど、何もしてくれないよ。
本を読んで思うことももちろん大切だけど・・・これは君が気づかせてくれたんだ・・・・・・人の間に、これはシャレじゃない、居て、思うことも大切なんじゃないかな。
立派な人の本を読んだほどには大層なことは分からないと思うけど、
トウジとか委員長とか、渚とか・・・うーん、シンジとか・・・ううーん、惣流とか・・・・朱に染まって欲しくないけど・・・も、すてたもんじゃないさ。

わりあいガキ大将的に、ぜんたいのことを考える鈴原トウジと、もはや容赦なく山岸マユミのことしか考えていない二人の世界に生きる相田ケンスケ。濃淡コンビだ。

さて、大体の企画構成は考えてメンバーに発表しようというあたりなかなかに計画的なのだが、いきなり最大の困難にぶつかってしまった。

ボーカルを誰にすべきか?

これだ。バックは男がやるから(渚カヲルならば歌わせても十分に客をひけるだろうし、絵になるだろうが、さすがにそこは男子の考えることである)いいとして、客をひく最大のファクター、それはボーカルがどのような娘であるか、による。
偏ってはいるが、一面、真実である。精神的な効果はひとまずおいといて、やるからには絶対に目立ちたいのであった。それで二人は頭を悩ませていた。

単純に考えるならば、下馬評通りにいくならば、ここは惣流アスカだ。

ぱっ、と見ただけでステージ映えするのが分かる。人気も高い。
だが、それだけにギャラ・・・じゃない、リスクも高い。引く手数多、というわけではない。高踏派の権威が多少減ったとしてもお高いことに変わりはない。
こっちの言うことなんぞとても聞きそうにない。苦労は目に見えている。
大体、歌が上手いかどうかも分からない。

「やはり、見栄えだけじゃいかん!実力も伴っとかんとな」

もちろん惣流アスカもとっくのとうに帰っている。くしゃみくらいはするかもしれないが。

歌の実力、という点でイインチョー洞木ヒカリを推す鈴原トウジ。
これは相田ケンスケも知っている。噂では小学生のときに児童合唱団かなにかでなんとか賞をもらったとか・・・・。

「しかし、あの真面目な委員長がバンドのボーカルなんかやってくれるかな」

洞木ヒカリは「真面目な委員長」というイメージが強すぎる。それではミーハーな中学生を引き込めないのである。
それでは、転校してきてからまだ日の浅い(といっても、碇シンジと書類の上では同じ日だが)山岸マユミはどうなのだろう?
エヴァのパイロットでない転校生・・・・皮肉な話だが、あれだけ第三新東京市がぶち壊されなかったら少女も技術者の親について引っ越してくることもなかっただろう。

へんな話だが、山岸マユミは「普通すぎて」異彩を放っていた。
もちろん、少女のせいではない。転校生、という立場のせいだ。
渚カヲル、惣流アスカ、碇シンジ、とこの三人の間に挟まれてしまえば普通の子供はたまったものではない。唯一の希望、碇シンジにしても転校初日からガスの元栓を締めに帰ったエヴァのパイロットとして雷名を轟かせている。憧れていいのか畏れていいのか、よく分からないぶん、ある意味、前の二人より恐かった。
碇シンジに悪気があろうはずもないが、その波動にとりこまれた山岸マユミはクラスに溶け込むのがおそくなった。無論、本人の資質もあるのだが・・・。
ちなみに碇シンジは山岸マユミが口をきく二番目の男子だった。

さて、そんなふつうの少女、山岸マユミだが・・・どう贔屓目にみても、人前に立つのを好むとは思えない。むしろ、そんな事態をさけたいほうだろう。ゆっくりと文化系クラブの展示を見たり・・・とそれだけのすごし方を望むはずだ。
相田ケンスケも分かっている。しかし・・・・
「一度だけ、詩集を読むのを聞いたことがあるんだ。すごく恥ずかしがったけどね。
でも、それが・・・・・別人みたいに堂々としてて、いいんだよ」

「そりゃ、朗読やないか。歌を歌うのとちいっと違うんやないか?」
そりゃ、浪曲やろ!というボケをかましたくなった鈴原トウジだが、相方の目がキラキラとイっているのでやめておいた。

最後に、綾波レイ。

「仲間外れはよくないよ。たしかにさ。綾波もクラスの一員だし、おれたちも一緒に帰ることもあるんだしさ。だけど・・・」

「まーのぅ。ワシもちっとこれは無理かとは思うんやが・・・」

「これは渚かシンジの方から話をまわしてもらった方がいいだろ」

人間の想像することはたいてい叶う、とは言うが、二人には綾波レイが歌うところをイメージすることは出来なかった。惣流アスカならば簡単なのだが・・・・。

こうしてみると、候補は・・・・うーむ、ぜんぜん絞られていないぞ。困った。

前途多難な地球防衛バンドであった。

だが、希望もある。
渚カヲルと碇シンジがメンバー参加を断る、またはよそにとられてしまう、などと夢にも思わない熱い友情と信頼。
そして、山岸マユミに触発されて、意外に自分には文才がある、と勝手に拓けた相田ケンスケによるオリジナル曲がキョクキョクと作られている、ということだった。



「そろそろ、帰ろうか」
「そーやな」
クラブ活動の連中もそろそろ店じまいの時刻だ。陰謀を巡らす時間というのは早くたってしまうものだ。

「やっぱりシンジも相談に入れないと話が進まないよな。なんだかんだいっても惣流と一緒に住んでるわけだし、委員長たちにも信用があるからな」
「そやけど、アイツはなんちゅーか、悪気はないんやろうけど話を混乱さすからなあ。
もうちょい、話を煮詰めてからにせんと・・・・ん?」

話しながら階段のところまで来た二人。ふと、鈴原トウジが足をとめた。

「どうしたんだ、トウジ」
「・・・・ピアノの音がせんか」

「・・・・ああ。こんな時間に珍しいな」

「なんちゅう曲だったかいのー・・・・思いだせんな」



そのピアノは・・・おそらく音楽室から聞こえてくるのだろうが・・・・それは聴衆に聞かせることを目的にはしていないに拘わらず、中学生ふたりの足を完全に止めさせるほどの技量だった。影すらその場に縫い止めて。ここから音楽室はかなり離れているが、鈴原トウジがそれと気づいてから、少年たちの耳にはっきり聞こえるようになっていた。




その奇妙に気づく前に、ふいにピアノの演奏は止んだ。

「なんやったんや・・・・今のは」

「オレ、詳しくは知らないけど、今のはプロ級の腕だったんじゃないのか。うちの学校でそんな奴いたかよ?」

「音楽室か・・・いってみたるか」
「ああ・・・・・」
何故か、たかが音楽室のピアノの音が耳に残っていて、確かめずにはいられない。
ピアノの買えない音楽家が学校に忍び込んで弾いていた、なんてわけでもあるまい。
完全に暗くなった廊下をゆく二人。




音楽室には・・・・・鍵がかかっていた。