あーめ、あめ、ふーれふーれ、かーあさんと、

じゃのめでおむかえ、うれしいな・・・・・



綾波レイは雨降る通りの中、傘も差さずに、先をゆく「ある親子」を見ていた。
降る雨は少女を濡らすことはない。これが現実の光景ではないからだ。



碇シンジの心象風景。分かりやすい記憶のイメージ。人は心の中に自分だけの文字をもっている。大体において、その文字に変換されて、過去を保存している。奥にいけばいくほどくせ字になり、挙げ句の果てにはその当人でも容易には解凍できないほどに圧縮し歪んだ暗号文字になっていたりする。その逆に、ごく易しい、形象文字になっていることもあるが。心象風景というのは、大きなイメージを内包しながらも、記憶の解凍がさほど困難ではない。いってみれば、その人間の看板だ。・・・とはいえ、人間という商売、人間屋は何枚もそれを持っていたりするのだが。



綾波レイは碇シンジの心を、読んでいる。昔風にいえば、さとり、だ。



任務、という言葉で許される(・・・か、どうかは分からない。どのみち、綾波レイには力を用いる躊躇いも罪悪感もない。碇シンジには任務を果たした後で、ありのままを話す気でいるし、それで碇シンジに嫌悪されようが恐怖されようが激情のままに殴られようが一向に構わない)範囲を越えて、綾波レイは碇シンジの心を読んでいた。

結果、碇シンジがこの先、同じように接するかどうかなど、埒の外である。



だが・・・・

目的遂行のためならば、時間軸はあくまで使徒との戦闘のそれにおかれるべきで、原因もそこから探るべきであった。



手始めとして、そこからスタートはしたのである。





その部屋は、平穏だった。

緑灰色の壁に留められた十一枚の写真。使徒との戦闘時のもの。おそらく。
二列に並べられ。五枚と、六枚。その全てが十字に切り裂かれている。


写真・・・・・・それは、凍りついた記憶のイメージ。


黒い虚無がそこから口をあけていた。感じ取れるものはなにもない。


別口のルートを考えていると、後ろから「クスリ」と笑い声がきこえた。
振り向くと・・・・・・そこには、幼い頃の自分が立っていた。
目が合うと、赤い月のように笑って、駆けていってしまう。




その後、どのようなルートを用いたのか、覚えていない・・・・・
その小さな背を追跡する誘惑を払いのけることができなかった。どうしても。



ほんとうは そうしたかったくせに・・・・・



目的の時間軸。その扉である心象風景にいま、辿り着いた。



雨の通りを傘さしてゆく親子。母親と、幼い息子。二つの傘。



・・・・・表情こそ普段通りだが・・・・・確実に綾波レイは何かにとりつかれていた。赤い瞳の光が尋常ではない。これだけ心術に長けていながら・・・・・半ば我を失っている・・・・・・その証拠に、ぽつ、ぽつ、と雨に濡れ始めていた・・・・それは心象風景に溶化する兆候。



それに気づかないほどに・・・・・没頭していた。待ち望んだこの時。



「碇シンジが分からない」・・・・・・・葛城ミサトや惣流アスカあたりにいわせると、そんな当たり前、のことが綾波レイにはずっと重くのしかかっていた。そのことが喚起させる感情も分からない・・・・。
碇シンジと話していると、もうひとり自分がいるのではないか、という気さえしてくる。


子供が、「月にはウサギとカニとインディアンと怪獣モチロンがいる」と信じ切っているように・・・・・子供でなくとも「写真に写らない月の裏側には、街がある」とでもいうように・・・・・。別の姿を・・・・・その目に映して話しかけてくる・・・・。


自分と同種の人間である・・・・・と渚カヲルにはその認識が持てる。
事実、フィフス・チルドレンは、綾波レイにも判然としない、不可思議さを隠し持つ。

力の対向・・・・・そちらの方が、まだ「安心」できるのだ。綾波レイにとっては。

自分が心を読めない、ただ一人の人間。唯一人、完全に心を読ませてくれた人の子供。


力が通じない・・・・生まれてより、二度目の「全力」を用いても、平然と「五面なさい」とか
言っていた・・・・・碇、君



それは・・・・


逆に言えば・・・・・「いくら力を使おうが、代償を支払わなくてもいい」ということだ。
碇シンジの中には、自分が力と引き替えに支払う、”代償”と同質のものがある、ということに・・・・・気づいてしまった。気づくべきではなかったのかもしれないが・・・。



それは綾波レイの弱点だったのかもしれない・・・・・「好奇心」



シェイクスピアの「オセロ」は、嫉妬心のゆえに引き裂かれてしまったが。

人間の根元に根ざす心は、げにおとろしい。

命を九つも持っているほど生命力の強い猫をも殺してしまうそれに、なんの抵抗も免疫もなく、取りつかれてしまった。黒曜石槍めいたそれに後ろから貫かれ縫いつけられてしまった。抜きとられるまで、熱病のようにうかされるはめになる。誰も気づく者はなく。


分からないから、知りたくなる・・・・・・単純な道理だが、それだけに強い。



髪に滴るほどになってきた・・・・・・それでも、綾波レイは眼を離さない。
完全に任務を忘れていた・・・免罪符を置き捨てて




あーめあーめ、ふーれふーれ、かあさんと、

じゃのめでおむかえ、うれしいな



ばかのようにそこまでしか歌わない子供だ。ほんものではなかろうか。
と、綾波レイが考えたわけではない。ひたすらにその親子の姿を眼で追う。
どんなに差を開けられようが、これは現実ではないので距離はない。視線さえ外さなければよい。



てるてるぼーず、てるぼーず、あーしたてんきにしておくれ



足を止めて、急にうたが変わった。どこかの家の軒にさがっているそれを見つけたせいだろう。

テルテル坊主・・・・「晴天を祈願するためのまじない人形」。もちろん、綾波レイには、好きになる理由はない。



あーめあーめ、ふーれふれ、かあさんと・・・・・・



歌が続けられた。しかし、前の親子は足を止めたまま、テルテル坊主を見上げてなにか楽しそうに話している・・・・・・だが、この後ろから聞こえる歌は。

ふりむく綾波レイに、傘さす親子。



じゃのめで、おむかえ、うれしいな・・・・・・



フィルムを追い越してしまったかのように、先ほどと同じ光景がこちらへ来る。
綾波レイがいつもの通り、冷静ならば「してやられた」事に早々に気づき、すぐさまここから立ち去ったであろうが・・・・・ただ、濡れながら立ちつくしていた・・・・・


小さい碇シンジがこちらへやってくる。その目には確かに綾波レイの姿を映して。
見えるはずのない・・・・・しかし、その子は懐っこく近づいてこう言った。

「おねーちゃん、だれ?」




ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らん、らん、らんっ・・・・・・・・







ネルフ本部内総合病院 脳神経外科棟 碇シンジの病室


術式が、終了。その目はすでに黒い風雲を宿すでもなく、ほの赤く照らされてもいない。通常の碇シンジの変哲もない瞳の色に戻っていた。まだ、ぼんやりとしている。
意識は沈んだままのようだが、直に浮かび上がってくるだろう。

これだけでも・・・・成功といえるだろう・・・・・・渚カヲルはそう思った。

叫び声をあげるでも暴れ出すでもない、そういう点のサポートは必要とせずに終わった。瞬時に異変に対応できる意識を残しながらも、渚カヲルはずっとこの現象について考えていた。もう、外は夜になっている・・・・・。

エヴァ初号機にシンクロしている碇シンジ君にあれだけの痛覚、ダメージを与えうる存在、について。使徒について、ではない。その思考の網にかかるすべてについて、だった。



「おつかれさま・・・・首尾はどうだい」

あれだけの苦痛だ。心の中には、クレバスのような目立つ傷跡が残されているはずだ。
完全に解明はできなくとも、手掛かりくらいは掴めたのではないかと期待していた渚カヲルであったが、それは裏切られることになる。

綾波レイは、ゆっくりと首をふった。

「わからない・・・・・・」

「わからない・・・・・・きみが?」

と、なると誰にも分からない、ということだ。困ったことにシンジ君本人にも。
少し、声のトーンが高くなった渚カヲル。少年には、あまり時間がない。



綾波レイは自分の術式を、余すことなく隠すことなく、渚カヲルに話した。

気に掛けていたことが的中したことに、さすがに苦しい顔になる渚カヲル。
心底を見抜けなかったことは自らの不明というべきだが・・・・・・こんな時に。


「つまり、失敗した・・・・・ようだね」
こんな悪の組織のボスのようなことはこの少年も言いたくないのだが、話を聞くに、それはどうも成功したイメージではない。ひどく悪い予感を内包させている。

ここ二、三日で作成された「視界対応表」も無駄になるかも知れない・・・・
あの二人と同じくして・・・・・眩暈の中に、ぼくらも消える可能性が・・・・・



四号機とエフェソスさえあれば・・・・・・・・

流儀を捨ててでも、渚カヲルは呻く。





「ふわーあああぁ・・・・・・・よく、寝たなあ・・・・・・」
深催眠をかけられた後のように、碇シンジは熟睡した気でいる。意識が、戻った。
その目に「綾波レイ」と「渚カヲル」が映る。



ぱちくり



そんな音が聞こえるほどの、碇シンジのまばたき。その後で・・・・・碇シンジの声が。潤んだ・・・・・「きて、くれたの・・・・・・・・・?」目を見開いて。



「父さん・・・・・・・・・・・・・・・・・母さんっっっ!!」











「最悪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

惣流アスカは他に言いようがない気分だった。葛城ミサトもその話を聞き、ガリガリとこめかみの辺りを掻いた。なんとも事態は救いようのない所まで来ていた。


軽いところからいこう。


まず、碇シンジが綾波レイを押し倒した・・・・・・母親に見えたらしく、あわててベッドから起きあがり駆け寄ろうとしたら、その必要もないくらい近くだったため、すっころんで押し倒してしまったらしい・・・・幸い、綾波レイには怪我はなかった。
が、一瞬にして青ざめるほどのショックを受けた碇シンジは、碇ゲンドウ(に見える渚カヲル)がうまくことを収めるまで、激しく取り乱した。あまりの激しさにかなり強力な鎮静剤を投与された。・・・・・・碇シンジの母親は、妊婦なのだ・・・・・・・



そして、JA復活・・・・・・あのJAが、今まで鳴りをひそめていた日本重化学工業連合が極秘裏に開発を進めていた「JA二世号」として復活を果たしてしまった。エヴァに再び挑んでくるようなまどろっこしいマネはせず、直接使徒とやり合う腹で、既に最終調整に入っているという情報が入った。加持リョウジはそちらの方にかかりきりだ。
なにせ、日本政府もゴリゴリに後押ししている。実力の程は未知数だが、厄介なことになりそうだった・・・・



さらに、箱根温泉を牛耳る使徒。温泉の効能があったのか順調に回復しているという霧島教授からの報告。出来うる限りのデータは集めてくれるそうだが・・・・JAの影響か、戦自が動き始めたらしい・・・・人家さえなければ、新型N2爆弾を試してみたくてウズウズしているのだろうから・・・・柳の下のドジョウは期待できまい。



トドメに・・・・委員会からの「初号機を使用しての使徒殲滅」命令。ここまで来ると、苛めである。ネルフに務めている人間を、菜種油とでも思っているのだろう。ここまでコケにされると「やってやらあ!」というのが人情だが、さらにえげつないのはそれが適わぬのなら「参号機と後弐号機を配置する」というものである。人心のツボをついている。
二体もよこす気があるなら・・・・「まあ、いいか」というバカはネルフにはいない。地下食堂のオバチャンでもそんな話には納得しない。「それなら最初から送れよ」というのは通常の人間だ。ほんとに人類の命運かけてんのか、やる気が失せてくる。ひでぶ。



さすがに、この思惑調子では「初号機とそのパイロットが、異人の地に送られてしまう」という事実が知らされたのは、ネルフの中でも限られた面子であった。
作戦部長葛城ミサトと弐号機パイロット惣流アスカがその中にあるのは言うまでもない。


四面楚歌・・・・・なわけだ。現在のネルフは。真に出る塔はうたれる。



ピンチなのは毎度のことで、「ああ、今回は死んだな」と思ったことも一度や二度ではないネルフの人間である。自分の街で・・・・第三新東京市でやられたなら、家族と一緒に死ぬハメになる・・・・・・「それだけはたまるかあっっ!!」と踏ん張ってきたのもいつものことだ。なんせ、ネルフには猛者も多い。ホワイトカラーの優等生でさえ、近頃はケンカ慣れしてきている。


その中の将軍格・・・・・「葛城ミサト」。
苦しい時にこそ、なお意気盛んになれ、使徒に対してガンのつけられるという、現代人には珍しい豪傑な人格を持つ、作戦部長である。使徒に対しての戦歴は無敗である。


「JAえ?白星黒星一つづつの、勝率五割で程度で出しゃばるんじゃないっつーの!!
火星にでも飛んで大王にでもなってんさい!」

そう言って、呵々と笑っていたはずだ。こんな時にも。その活気で皆を引っ張る。



だが・・・・・どうも今回は、体の具合でも悪いのか、と周りが囁くほどに意気が上がらぬ。・・・・言うこと成すことも変わらず、仕事もこなすのだが・・・・どうも違う。
真剣なのだが・・・・・本気になっていない。それが周囲には肌で分かる。熱がない。
碇シンジ君のことがあるにせよ・・・・・彼は消失していたことさえあるのだ・・・・・それに比べれば・・・・・・・だが、その点に関しては、赤木博士でさえ意見しにくい。

作戦部としても、部長がこの様では動きのとりようもない。使徒への作戦の最終稿もまだ出来上がっていないのだ。だいたい、初号機をこのまま使うのかどうかさえ未定である。

葛城ミサトも己を見失っている感があった。ひたすら追い込んで、壁を越える脚力も残っていないのに袋小路に入ってしまっていた。許容量ギリギリまで抱え込んでいるところでダークな時間設定である。余裕がなかった。弐号機、惣流アスカのケアまで・・・他に人はいないのだ・・・・やろうというのだから。加持リョウジが近くにいればまだ、どうにかなったかもしれない。なにせ気心は知れている・・・・が、彼もJAにかかりきりだ。加持ほどの腕利きが・・・・マークしている、ということがまた重圧になるのだが。

「必要とあれば、JTフィールド・・・だったか?あいつを借りてきてもいいぞ。
・・・・・・・・・・・・・・・・あまり、無理するなよ・・・・・じゃな」

留守電に入っていたその言葉を支えの一つにして・・・・・・立っている。


が、自ずと限界というものがある。人間には。


自分でも見えない、蜘蛛の糸に絡め取られたような・・・・焦厭感。
調子がおかしい、と思いながらも立ち止まれない。さらに糸が絡みつく気がして。

ひたすらに・・・・・もどかしい。






「いいわよ、もうっ!!」
顔を二の腕で抑え隠しながら、惣流アスカが作戦部長室より駆け出した。
そこには、先ほどの怒声の余韻がまだ残って痛々しく空気を震わす。


デスクでは、追いかける気力さえ根こそぎ失った、葛城ミサトが疲れ崩れていた。
走る少女のように、くやし泣く元気さえもない。目に力がなく、憔悴しきっている。
その他諸々の悪条件を抱えながら戦えるほど・・・・・・使徒は甘い相手ではない。
葛城ミサトは誰よりよく、其を知っている。弁えている。


「やっちまったかー・・・・・・・」
自分自身に向かって葛城ミサトは吐き捨てた。


朝から晩まで、終いには仕事中まで「シンジをどうする」と百回も二百回も繰り返し問われれば誰でも「うるさい!」と怒鳴りたくもなる。・・・が、それはやってはならぬこと。百も承知だったのだが・・・・・・我慢しきれなかった・・・・・・。
自分の内に答えがないと、人間こうも余裕が無く不安になるものか・・・・・


もし、わずかでも余裕があったなら、アスカが人の心配をするようになった・・・・・と心のどこかで小さい歓声さえあげていたはずだ。・・・それを否定してしまった。


しかも、相手は子供だ・・・・・・どんなに強がっても大人ぶっても。自分が厭になる。


厭になっている間にも、刻々と時間は過ぎていく・・・・・。







赤木研究室


「・・・・ジェットストリーム砲・・・・・・・・見てみたい気もするわね・・・・」
加持リョウジから送られてきた報告に目を通しながら、煙草のペースの速い赤木博士。
こちらの仕事は順調。使徒の行動解析はほぼ完了している。後はこれを作戦部長がどのように生かすか、が問題だが。



「それで、話は変わるけれど・・・・渚君」
煙る研究室には渚カヲルが呼ばれていた。身分的にはほぼネルフとは関係が切れている。

「初号機への搭乗要請ならばお断りします・・・」

「・・・・もちろん、そんなことじゃないわ。正直、喉まで出かかってはいるけれどね。
・・・・・聞きたいのはレイのことよ」



「・・・・綾波、レイ。彼女のことを」


「あれは私の責任だわ・・・・・安易に偏ってしまって」

頼った、と言わぬのが赤木博士らしい・・・・と渚カヲルは思った。




初号機専属操縦者、碇シンジはあれ以来、完全におかしくなった。
今思えば、あの視覚の異常活性も、内部の異変を抑え込んでおくためのものではなかったか。綾波レイの姿も渚カヲルの姿も、その目に映らなくなった。対応する影もなく。
母に怪我を負わせかけた、という罪悪感で、碇シンジの心は一歩も動けなくなった。
様子を一目見ようと・・・・同時に、初号機へのシンクロ可能か確認にやって来た葛城ミサトの姿を目にすると、狂ったように「ごめんなさい、ごめんなさい!」と謝り続けたことがあった。・・・・相当なショックだったようだ。
どちらにとってかは、あえて言わない。


「再発する恐れがあるしね・・・・・・・・ミサトの」


取り替え現象も、さらに悪化した。・・・・・気紛れなシャッフルを加えられて。
時間をおくか、回数を重ねるか、諸条件は分からないが、下手をすると話をしている間にも相手の姿が突如、変化する。碇シンジにはそのように「見える」。

さすがに、自分の気が狂ったかと疑い始めた。が、すぐ、それを止めた。
そのような状況では、思考もまともに働かないためだ。世界が、回り始めた・・・・・。





あまりにひどいので、葛城ミサトには知らせていないのだが、今、病室の碇シンジは病気になった養鶏場のニワトリのように、思いつくと頭をゴツゴツ壁にぶつけている。
痛みを感じないのか、モニターで監視しその行動に入るとすぐさま止めに医師と看護婦が入るのだが、それまでに血を流していることが数回、あった。多少でも緩和されるように衝撃吸収素材を巻いた包帯に挟んであるのだが・・・・・・・あまりに、異常だ。

「どうしてこのようなことをするのか」と問診しようとすると、また、面影の変化があって少年は怯えるように混乱する・・・・・手に負えない。


たった一日で、碇シンジは窶れ果てたようになった。このまま手をこまねいてほうっておけば、衰弱死しかねない・・・・・・これでエヴァに乗れるわけはない。
逆に喰い殺されてしまうだろう・・・・・エヴァはある意味、最大級の猛獣なのだ。


たかが角を折られたくらいで、どうしてここまで墜ちてしまったのか・・・・・・・


赤木博士には分からない。ただ、責任はとらねばなるまい・・・・・その為に







総司令官執務室


綾波レイは全てを報告した。自らの意志を優先させたために、任務は失敗。
サード・チルドレン、碇シンジに耐え難い精神的傷害を与え、状況の悪化を招いた。
その責任は全て、自分にあり、いかなる処罰をも受ける、と。

その静かな瞳で報告を終えた。それは透徹に澄みきりすぎ、罪悪感を刻み心が萎縮しているようにはとても見えない。実際、そのようなことは感じていなかった。
ただ、嘘はつかない。己にも、他人にも。その必要もない。
良しにつけ悪しきにつけ、感情を表さず、表情を変えない少女。
いくら綺麗でも、水晶ガラスで造られた鐘は鳴らないのだ。鐘が鳴るのは砕けた時。
事態を誰よりも正確に認知しておきながら、誰よりも表情が、心の在りようが変わらない。
冷血の極み、氷の人形。そう罵られても仕方がないほどに。


ただ、人形はこのようなミスは犯さない。心を知りたいとは、おもわない。



赤い瞳は静かなまま。



総司令碇ゲンドウは、いつものように両手を組み、沈黙のまま、その報告を聞いた。





長い沈黙。






「・・・・・・・・・レイ」

「・・・・・はい」





「・・・・・・・シンジのことは・・・・・・・いずれ、話す。それでいいか」

「・・・・・はい」






「では、処罰を与える。・・・・・エヴァ初号機専属操縦者に、これを、渡せばいい・・・・・」
碇ゲンドウは巨大なデスクの抽斗より、一通の変色し古ぼけた封書を取り出した。


碇め、自分で渡せばよいものを・・・・・・冬月副司令がそれを綾波レイに手渡す。


これが、失敗の償いなのだという。表情を変えぬまま、それを受け取る綾波レイ。

「・・・・・これを・・・・・」



「これ以上、悪化するようならばサード・チルドレンを剥奪、抹消するまでだ。構わん」



どうせ初号機には連中も手に負えず、早々に突き返してくるのは明白だからな・・・・。
間に合わねば最終的にはそうするしかあるまい・・・・・まだ胃の苦みが治まらない冬月副司令であった。本人の望むや望まぬや、里帰りになるか・・・・。

シンジ君も苦労するぞ・・・・・・まあ、碇とユイ君の子供なのだから、無理もないか。




「レイ・・・・」


退室しかけた綾波レイに、碇ゲンドウが思いもかけぬことを聞いてきた。


「シンジを・・・・・・どう思う」


かつて碇ゲンドウがこのような目的不明瞭なことを尋ねたことはなかった。
が、声の温度と構成物質は変わりない。どう聞いても・・・・父親の声、ではない。
だが、他の誰が碇シンジについてこんなことを問うてくるか。



「・・・・・わかりません」

とりあえず、こう答えるしかない綾波レイであった。自分が試されたのか、一瞬、そのような気もしたが、迷い舟はすぐに赤い湖面に吸い込まれた。







第二東京 日本重化学工業連合 第二秘密実験場・・・では、


箱根での初陣に向け、JA二世号の活気に満ちた最終調整が行われていた。

その中のスタッフに加持リョウジが紛れ込んでいた。碇司令からの指令さえあれば、プログラムに細工を施し、世間へのお目見えを遅らせてやるくらいの準備も出来ている。
だが、完全にばれる心配のないレベルまで潜入しながらも、違和感があった。
企業の研究室など、入り込むまでが一苦労だが、入ってしまえば後は世間知らずの学者の群れ。ちょろいものだ。ゼーレ直轄、アバドンのような例外はあるにせよ・・・・。
赤木博士相手に満点の報告書が書けるほどの加持リョウジにして、どうも己が周囲から浮き上がっている予感を抑えきれない。部下を連れない単独潜入であるというのに。


最終調整・・・・・要するに、関わったスタッフ全てを前にしての「みなさん、ごくろうさま」会のようなものだ。ここまで来て動きませんでした、というわけにもいかない。
調整の必要もなく、完全に動くのは、確認済みだ。だが、実際、ひとつひとつのパートには知悉していようが、全体としてあの巨体にどう生かされ、どう動くのか、というのは目にしてみないと分からないものだ。映画の試写会に近いかもしれない。

社長の時田氏の一世一代に残る感動のスピーチも終わり。



いよいよJA二世号が動き出す・・・・・・・



ばー、ばばばばーん、じゃじゃ、じゃじゃーん、ば、ば、ば、ばばばばーっっん!!

ご丁寧に会社のブラスバンド部がテーマソングを演奏し、場を盛り上げ始める・・・・。
実戦となったらこうはいくまいが、これは「最終調整」だ。




よくやるよ・・・・・・第三新東京市じゃ葛城たちがどんな思いして・・・・・

潜入しているスパイの言うことではなかろうが、加持リョウジの正直な、気分だ。
エヴァ三体で痛み分けにしか持ち込めなかった、あの使徒をJA二世号だかなんだか知らないが、そう簡単に勝てるとは思えないがね・・・・。

いくぶん、皮肉の入った眼差しで時田氏を見上げる。皆、JA二世号を映すモニターをしっかと見ているはずだ・・・・・・が、なぜか時田氏と視線があった。

ニンマリ。笑ったのか?加持リョウジの背に、微量ながら戦慄が走る。



じゃーじゃじゃじゃん、じゃ、じゃ、じゃー。どんどかぶんぶんぶんっ。


「エントリーラウンジ填入」
女性の機械音声がとんでもないことを告げる。もちろん、エントリープラグのパクリであるが、機械の声は平然としている。今度のJAには操縦席がついているのだ。


円形の、レアチーズケーキのようなそれがJA二世号の背中に填入される。サイズ的に厚みがあるが、CDのようにそれは内部に填め込まれると回転を始めるのだ。中に乗っているのは人間でないからいいが・・・・


「JA10神経、接続開始」
これも、どこで聞きつけてきたのやら、エヴァのA10神経のパクリである。ただ、尋常な、怠惰な人まねではない。ある意味、革新的でさえあった。その使用方法に問題があるだけで・・・・ちなみに、外部装甲も独特な、特許申請中、「超合金JA」であった。
超合金、というのは玩具の商標らしいが、まさかこの時代になってモノホンの巨大ロボに使用されるとは思ってもみなかっただろう。みそがつきそうなら、名前を変える予定。



「JA10神経、接続完了」
エヴァのチルドレンが世界中探し回って、ほんの僅かということを考えると確かにこれは正解なのかもしれない。しかも、シンクロ失敗の・・・・”しようがない”。



だが、なぜこのような操縦形式をわざわざとったのか・・・・・理解に苦しむ。


「教えてさしあげましょうか?」



いつのまにか、隣に女が立っていた。青い薔薇の香りのする、女性科学者。
「真田博士・・・・。なぜ、こちらに?シスの方は・・・・・・・」
ありゃりゃ、こりゃどうしてだか、完全に見破られてるな、と思いつつもルパン三世のような軽薄さにはちょっち及ばない加持リョウジは演技する。


JRを壊して帰ってきた社長の時田に土下座させた女である。JRの産みの母にしてJA計画中枢の一人。ネルフのスカウトを蹴ったこともある。有能にして、怖い。


「あなたには”渇き”が足りません。だからすぐに分かります」

「・・・・渇き?」

「言わねば分からないなら、言っても分からないでしょう・・・・・それより、この操縦形式の理由、聞きたいですか。利口な鼠のような、ネルフの方」

「・・・・ロボットをロボットの中に乗せて操縦させるなんてこたあ、ネルフの作戦部長でも開発課長でも思いつかないでしょうね・・・・・ウクレレを演奏させることもね」


「人まねはきらいなものですから」




JA二世号、パワー、オンっ!!!

モニターでは、JA二世号が起動し、マッチョスパークなポーズで電圧を高めていた。
起動成功に周囲は最高の盛り上がりだが、この二人の空間だけは霜がおりていた。

「別に奇をてらったつもりでも、おたくのエヴァを参考にしたわけでもありません。
こちらの必然からそうなったまでのこと。JRをパイロットにしたのは。
ロボットに、暴走は許されません。そんなものを造る科学者技術者は首をくくるか犬小屋で暮らすべきです・・・・と、これは社長の受け売りですが。ともかく、人間の力を遙かに超える物を造った人間には、それを制御する絶対の責任があるのです。うちのにはリアクターを内臓していますしね。二系統回路・・・・・片方がおかしくなっても片方で取り返しのつくシステム。それを構築するのは、我々の最低限の義務です。その意味で、JAは未完成品だったと言わざるを得ません」

「時田氏とは意見の相違があったようですね・・」


「・・・・今では、彼女の意見に納得しているよ」
いつの間にか、時田氏までこちらに降りてきていた。その渇き、とやらのせいだろうか。しかし、正体がばれたのはまずい。ここらが引き際だ。

「ああ、そのまま、そのまま。ゆっくり見ていってくださって構いませんよ・・・。
本当はおたくにも招待状を出す予定が、手違いがありましてね。人造人間、エヴァンゲリオン、その存在がなければ、二世号の誕生はなかったわけですから。

ただ・・・・・・・」


時田氏は視線を見上げる我が子に戻した。


「悔しいんですよ・・・・・直接、JAの仇はとれないわけですからね・・・・。
この気持ちを持っていきようのない我々は・・・・血も涙も全て、注ぎこんだんですよ。
世界最強の存在、JA二世号にね・・・・・だから、乾いて・・・」



「社長」

「なんだね、真田君」

「もういません」



全重連の苦労話など加持リョウジは興味はない。データはすでに送っている。実地の活動を中断せねばならぬのが無念だが、仕方があるまい。JAにもこもっているのが十分に分かったのは収穫だったが・・・。情念と・・・・それを上回る怨念が。
意気消沈ぎみのネルフに比べ、こっちはグングンと意気をあげてきている。
風はこちらに吹いている、と言わざるをえない。思わぬ伏兵となるか・・・・・。


「そうか。いじめてしまったな・・・・・・そのつもりはなかったのだが」
言いつつも、おもむろに腰に手をやる時田氏。そして、大口をあける。

わっはっはっはっはっは!!
世間の常識の大体において、上の者がこうして大口あけて笑っているようなところはろくな目にあわない、と相場が決まっているものだ。時田氏はそんなタブーを吹き飛ばすべく果敢に挑戦していた・・・・・・・わけでもなく、単に愉快だっただけだろう。


「箱根決戦も近いぞおっ!!諸君!日本企業の底力をネルフと使徒に見せつけて存分にやりたまえっ!わっはっはっは!!」

社員も笑う。社長にだいぶ感化されてきていた。雄叫びをあげながらシュート・サインをかます者までいる。猪木コールならぬ、時田コールがあがるのも時間の問題だった。


悲観主義者である真田博士はそれにつき合わず、冷静にシスに戻っていった。







ネルフ本部内総合病院 脳神経外科棟 碇シンジの病室

ベッドに横にもならず、正座を崩したような形で、ずっと壁を見ている。
ほとんどまばたきもせず。見続けている。何も映らないか。いや、壁の色が見える。



「碇シンジ」



ごんっ 包帯の頭部を自ら壁にぶつける。無意識の加減もなく、力のままにぶつけられる。頭部。また、渇きかけた傷が開く。つうっ・・・・・・赤い筋が垂れる。鼻梁を、伝う。ぶつける意志があってぶつけているのか、傍目には分からない。これは・・・・平衡感覚までも狂い始めてきているのか。



ぼそぼそと・・・・・何か微かに呟いている。

「ゆるして・・・・・くれないよね。そんなはず・・・・・ないよね」




かちかちと歯の根を震わせながら・・・・・呟く。

「きて、くれない・・・・・・んだ。ミサトさんも・・・アスカも・・・・・」



おんぼろのレコードのような、飛び飛びの声。百年も前に記録されたように感情がない。
円心が、軋んでいた。かるく。触れたなら、ぽろっと亡くなりそうな、針。




ゆっくりと首をふりながら・・・・・顎の線まで伝い終わるほどの・・・・掠れた涙声。


「ほんとに、僕は・・・・・・僕なんだろうか・・・・・・・・」




「いど」と「けいど」

自らの座標を失ったとき、人は墜落するしかない。・・・・・四十二階から。

地の中には、抗しがたい力で引き寄せる、何かがある。天には星があるが、地にはない。暗闇の他には。


碇シンジはいま、墜ちてゆく浮遊感を感じ始めていた・・・・・吹き上がる風の額を切り裂く痛みも忘れて。




「縦・・・・たて・・・・横横・・・・・たて・・・・縦縦横・・・・・・ ひだ・・・・・り・・・・・縦・・・・・右右右・・・・みぎ・・・・・・
いや・・・・・違う・・・・・・・
縦縦・・・・・横・・・左・・・左・・・・・右左左・・・・・・右・・・・・」




剥がれゆく塔の石壁。眼差しを虚無に捨ててしまった少年の、唱えるテトリス。
あらかじめ、数字の抜き取られている魔法陣合わせ。



碇シンジは、まだ立ち上がれない。
「手遅れの時間」が、せまってきている・・・・・・・