「・・・・・・・・・・」



ガタッ。


乱暴な音を発てて、デスクから葛城ミサトが立ち上がった。
作戦草稿はあがっていない。考えもまだ纏まっていない・・・・どころか、千々に乱れまくっている。思考する行為自体を支える気力がなくなっていた。どんなに悩んでも、気力と使徒に対する復讐心が呼び覚ますエナジーが失せることだけはなかった。気力が万全であったとしても、多々の悪条件を課せられ、今回の戦闘は困難を極めるというのに。
集中、できない・・・・・。深く、深く、戦術思考の砦に立て籠もろうとしても。



どこまでも・・・・・どこまでも。

碇シンジと惣流アスカの面影が、ついてきて、頭を離れない。



「葛城一尉・・・・・よろし・・」
いでしょうか、と、それとも、どのように切り出すべきか、と入り口で悩んでいたらしい日向マコトに「少し、出てきます」と無表情に言い放つと葛城ミサトは出ていった。
追いかけるには、彼は上司を尊敬し、信頼しすぎていた。・・・・・・その、面影を。







エヴァ弐号機ケージ

そこに、惣流アスカはいなかった。待機室にも更衣室にもいなかった。加持の所でもなかった。本部の外に出ていないのは分かっている。と、なると・・・・・・あちこちふらつく碇シンジと違って本部内には惣流アスカの居場所はさほどない。行動が明確である分、所在も明確なのだ。どこにいようと、「其処に立っている論旨の明確な原理」のようなものが惣流アスカにはある。それはよいとして・・・・・惣流アスカに話があった葛城ミサトには困ったことになった。あの子の居場所が分からない・・・・。


どこでたそがれているのやら・・・。



残る場所は。



地底湖に寄ったのは、そこに作戦顧問、野散須カンタローの姿を認めたからだ。

思いついた最後の場所は、そこしかなかった。作戦顧問の家だ。
なるべくなら、歳とギョロ目をかさに着て人の内心を見透かすようなあのハゲには会いたくないのだが・・・。あろうことか、こんな時に釣りなどしている・・・・。
夜釣りならぬ、夕釣りか・・・・・そんなことはどうでもいい。



「おう、作戦部長。どうされましたかの」
竹の釣り竿。たらした糸から振り向こうともせず、気づいたらしい。
「・・・・・あっ・・アスカを・・・・・見ませんでしたか」
噴き上がってくる感情を抑えたため、声がからんだ。努めて、冷静に振る舞おうとする葛城ミサト。どんな時であろうと、隙は見せたくなかった。



「さて・・・・・・知りませんのう」

その声色は、「知っておりますが、教える気はないですのう」と言うにほぼ等しい。
大体、振り向きもしない。太公望でも気取っているのか、このハゲは。こんな釣れもしない湖で糸なんかたらしちゃって・・・・・・この忙しいときに・・・・・・。



ぱちゃんっ



「ほい、釣れた」
作戦顧問は魚などいないはずの湖からニジマスのような魚を釣り上げた。
よく見てみれば、脇に置いて在るバケツにはびしゃびしゃと釣果がうるさい。


「・・・・アスカはどこです」


「知りませんのう」
手際よく魚をバケツに放ると、再び竿を投げる。相手にする気はないようだ。



「・・・・よしんば、知っておったとしても、教えられんのう。作戦の草稿一つ書きあげられない作戦部長殿にはのう」

葛城ミサトの顔色が、朱色にひきつり歪んで、表情も危険なものに変わった。
本人も百も承知の地雷を、思い切り踏みつけられたようなものだ。爆発させる気などなくとも・・・・・強可燃性のストレスは溜めに溜め込んで・・・・・・とうとう。



「・・・・・こんなところで呑気に魚釣りしてるアンタにいわれたかないわ」



「・・・・ほう。アンタときたかの」

「人の苦労も知らないで・・・・・・・・アドバイスだけくれる楽なトコロで高みの見物・・・・・さぞ、楽しいでしょうねえ」





「愚痴りにきたのかの・・・・・・・・・・・・・小娘」


相変わらず、振り向きもしないが、声の様相が一変した。閻魔もかくや、という凄みだ。

葛城ミサトが・・・・・・・・・・・怯えた。
人間を怖い、と思ったのは・・・・・いつが最後だったか。



「そんな時じゃあるまい・・・・・・・・この・・・・戯けがっっっっ!!」
葛城ミサトが怯えようが何しようがおかまいなしに、野散須カンタローは振り向くと真っ赤に染まった恐ろしい形相で大喝した。葛城ミサトの喉がひい、と鳴った。

さらに、作戦顧問は手加減しなかった。ズカズカと歩み寄ると、葛城ミサトを・・・・・




どぼーん




湖めがけて放り込んだ。背負い投げだったのか、なんなのか、電光石火、とにかく恐ろしい腕力だ。五メートル以上は飛んだ。足はつかないので、ここで葛城ミサトがパニックを起こしていたら溺れ死んでいたかもしれない。だが、作戦顧問は

「しばらく頭を冷やしておれ」

と言い捨てると、さっさとバケツと竹竿を自転車に積みその場から去ってしまった。





「ぷわっ、はっ、は、はっ、げほっ、げげほっ、げはっ・・・・はあっ、はあっ・・」
荒い息でずぶぬれの葛城ミサトがなんとか這い上がってきたのはしばらく経ってから。


冗談抜きで殺されかけた。カナヅチではないが、なんせ服のままだ。予告も無しにあんな真似されるとは・・・・しかも銃も財布もカードもパーになってしまった。岸まで立ち泳ぎくらいは安いが、この足場に登るのがまた一苦労だった。


「はあっ・・・・・はあっ・・・・・・はっ、はっ、はっ、は・・・・・・あ」
息を調えるのにしばらくかかる。体力はあるが、完全に虚をつかれた。水も呑んだ。


なんで自分がこんな目にあわなけりゃならない?湖に放り込まれて。



「は、は、は、は、・・・・・・・・・ふうっ・・・・」

ここからどうするか。水の滴る髪でよく考えねばなるまい。湯気が立ちそうだが。






「遅かったのう。溺れ死んだかと思った」

葛城ミサトはずぶぬれのまま、作戦顧問の家に辿り着いた。瞳に強い光を宿して。
そして、平然として迎えられた。
「言いたいこともあるじゃろうが、風呂を沸かしてある。裏から回ってくれ」


葛城ミサトは濡れ髪の間から刺すように睨みつけながらもその言葉に従った。


「こんなものしかありませんけど・・・・・これを」
脱衣場から、野散須夫人の声がかかった。着替えのことであろう。怒り狂ったアルキメデスのような今の葛城ミサトはそんなこと、考えもしなかった。現実は不便なのである。


「あ・・・・・どうも」
坊主にくけりゃ袈裟まで・・・・・というほど錯乱はしていない。声が硬いのは仕方がないにせよ。磨りガラス向こうの気配はすぐに消えた。



「アスカ・・・・・ここにもいない、か」

それとも、顔を合わせたくない・・・・・か。ざばん・・・・・湯船からあがる葛城ミサトの体に、傷跡が浮き出ていた。古い、傷だった。




おかれていた浴衣に袖を通し、細い廊下をゆくと、頼りなげな電灯に照らされているちゃぶ台には冷えた瓶ビールがおかれていた。エビチュにして枝豆。そして、てんぷらだった。


「お湯加減はどうでした?」

「ええ・・・丁度よい、具合でした」
野散須夫人とは初対面だった。が、それを感じさせない柔らかな、笑顔。
それに、十分にこちらのことを知っているような・・・・・聞いているのだろう。
「浴衣も・・・・・丈も良かったようですね」
「急に押し掛けてしまって・・・・色々と、すみませんでした」
葛城ミサトは頭を下げた。



「ところで・・・・・アスカは」

これがために、ずぶぬれのまま、ここに来たのだ。ならぬ堪忍押し込めて。
確かに・・・・頭は冷えたが、このハゲ親父を許す気は毛頭ない。奥歯を噛みしめている。



「多少は・・・・ましな顔になったかの」
そう言うと、野散須カンタローはガラスのコップにビールを注いだ。

「まだ・・・勤務中ですが」
風呂上がりのノドの奥は欲しがっているが、相伴する気はない。と、思っていたら焼酎党の作戦顧問は自分の分を構わず注ぐ。つき合いではないらしい。

「全くもってその通り。じゃが、ここは仕事場でもない。ソノ、今日はお前も飲め。
祝いだ」
「・・・・祝い?とは」
夫人は全てを理解しているようで、コップをそっと前におくだけ。
「儂の退職祝いじゃよ」


「ええっ!?」


「・・・・何を驚く。さっきまで喰い殺しかねん目つきをしておったくせに」


「そんな話は聞いていません」

「そりゃそうじゃろうな、儂も今さっき決めたばかりじゃからのう・・・・っとと」
夫人のコップにビールを注ぎながら淡々と言う。



「なぜ・・・・・」

「作戦部長殿を湖に投げ込んでおいて、のうのうと顧問などやっておれんからの」
確かに、言われてみればその通りだ。この人は自分の教官ではないのだ。
ここにくるまで、三百回はブチブチと唱えてきた甲斐があったわけだ。
ようやくいなくなるか・・・・・・・清々する・・・・・・・・


「そういうわけでの、辞表は明日にでも提出する・・・・・ソノ、また引っ越しだ」
夫唱婦随、とはこのことか。絶滅したかと思っていたが、ここに現存していた。
それにしても、旅の浮世絵師並の身の処し方だ。これでも軍人か・・・・


「それでアスカのお嬢の居場所じゃがの・・・・・・知った風に言うてしもうたが、実は知らんのだ。すまん、すまん」
と、拝むマネをしてみせると豪快に笑った。現れた時と同じようにして去るつもりか。

「あらあら・・・アスカちゃん、晩御飯はどうしているんです」

「家に帰っておるんじゃないか。ソノ、魚のやつを包んでやれ」



「一方的に片づけないで下さいっっ!!」
葛城ミサトの金切り声が食卓にこだまする。叫んだ後で、口をおさえたほど自分でも思いもかけない声だった。頭は冷えていたはずだ・・・・・なのに。




「す・・・・すいません・・・・・・・」

「だけど、あまりに一方的すぎます・・・・・・承服できません」




「儂を、投げ飛ばしたいのか・・・・?」
かえってきた答えはとんでもなかったが、声色だけは・・・・・今まで聞いたこともないほどにやさしかった・・・・。



「いいえ・・・・・・、いいえ・・・・・」
言葉が出てこない。感情が腹の底からとめどなく湧き出てくる。ここで、この人達に・・・・・いうべきことではない・・・・他人なのだから・・・・・・だが、堤防が決壊するまで、思いはひたすらに瞳を熱くする・・・・・



「そんなことじゃ・・・・・・ないんです・・・・・」
自分は何を言おうとしているのだろうか。ここには単にアスカを探しにきただけの・・。


自分を怒鳴りつけて湖に放り込んだハゲ親父がいなくなれば本当にせいせいする・・・。

誰が他人に頼るもんですか・・・・・・これは、わたしの問題・・・・・




でも

自分でも、どうしていいのか・・・・分からないのです。あのまま・・・・・シンジ君が
自分のように・・・・・なるんじゃないかって・・・・思うと・・・・・立ってもいられないほどに・・・・へし折れそうなんです・・・・・そんな時じゃ、ないのに。



葛城ミサトは南極から唯一人生還したが、そのショックで重度の失語症になった。


父を失い・・・・・母を失い・・・・・一人になり・・・・・何年も言葉を失った。

こんどは・・・・・シンジ君が面影を失う・・・・・・・・身近な、あの子が。
あのまま、どこかへ連れられ・・・・・白い部屋に閉じ込められて・・・・・
確かに・・・・・異常の子です。ふつうじゃない・・・・・雨に溶けていたんですよ
信じられますか・・・・・?でも、それでも一緒に暮らしていると・・・・まるで・・。
私の手におえない・・・・こともわかっています。いつか・・・・・別れるときが
くるでしょう。でも、それはこんなかたちじゃあない・・・・・・



そんなことばかり・・・・・浮かんでくるんです。



野散須夫妻はじっと葛城ミサトの話に、耳を傾けていた・・・・・



虫の音が、ないていた。扇風機が、まわっていた。



「若い身空で苦労が多い・・・・・・人間の恩愛この心に迷う、哀愛禁せず無情の涙か」

「棄児行」の一節をつぶやいて野散須カンタローは腕を組んだ。

が、簡単に同情するには作戦顧問は長く生きすぎた。内心で、唸りもしていたものだ。
こういうことは、加持青年にでも話すがよかろうと思うのじゃが・・・・男と女、両方が
忙しいというのは、やっぱりいかんのう。それから、作戦部長も・・・まあ、なんじゃ、相当な「かっこしい」じゃの・・・・・女では珍しいぞ・・・・。


「話は分かりました。まあ、儂のことなぞは使徒を片づけてからにするべきですな」

いくら困難に見えても、「その他」に気をとられ、命題から目を逸らす人間はいかん。
ネルフは使徒を倒す。全てはそこからだ。



「ソノ、辞職は少し伸びたぞ。・・・・・あれをもってこい」
「はい」


「酒は憂さを払う玉箒とな。麦酒もいいが、今日は儂のとっておきのやつを出しますぞ」
ビールは一口もつけられず、とっくに気が抜けて、ぬるくなっていた。



薄紅色の小瓶と徳利が運ばれてきた。徳利の中の酒を杯に。
それから小瓶の中の一滴を杯におとす。

「蝉酒といいましてな。昔、知人にもらったもんですが。樹液を蝉の抜け殻に溜めて、満ちた月の光にさらし発酵させたものです。こいつをひとしずく酒にたらすと・・・・・
まず、一献」



葛城ミサトはそれを受けた。飲む、というより、しみる。これは・・・・・・・・確かに。
詩人の酒だ。くやしいが・・・・・この親父に注がれてなお・・・・・甘い。



人の命も桜花 生まれて夢見て いつか散る はかない時の、物語り

唇に接する杯が詠っている。酔いの中に春を映して。
よい酒は、このようにして古来より人のなかを取り持ってきたのだった・・・・。



「・・・・・ご返杯を」
確かに、頭にはくる。頭には来ているのだが・・・・・この酒に、運んできてくださった奥さんに免じて・・・・葛城ミサトが素直に杯を返す。本当の本当に絶対に、この親父に酒なんぞ注いでやりたくなんかないのだ・・・・ない。
こういうものを隠し持っていたりするから、年寄りは侮れないのだ。


「すまんですな」
とくとく徳利に照れてみせる作戦顧問。可愛げなどはとっくに枯れているゆえ。


「奥様も・・・・」

「わたしはいいですよ」
「ソノ、もろうておけ。こんなことは金輪際ないじゃろうからの」
「そうですか・・・・それなら」

神妙な顔をして野散須夫人の杯に徳利をそそぐ葛城ミサト。今だけは、完全に碇シンジのことも惣流アスカのことも、頭からとんでいた。酔いの霞にまぎれていた。


ようやくの一意専心、たかが一つだけのことを考えることができる。
葛城ミサトが子供たちへ情あるのは大いに結構なのだが、それと作戦を組み上げることとは別。邪魔でさえある。うまく仕切っておかねば、両方が混じってしまい収拾がつかなくなる。作戦家という人種は、そのため人間性を犠牲にしてきた。葛城ミサトがそれをなし得てきたのは、グンバツに仕切がうまいせいだろう。大嘘つきともいえる。
心の奥の方より、ふつふつと思考が煮えたぎりはじめている・・・・・・。
ようやく、料理のコンロに点火した。その鍋に叩き込むのは・・・・・・無論、使徒だ。
空だきして焦がしてしまった鍋はかえてしまおう。






ところで、結局、惣流アスカはどこにいたのだろうか。


葛城ミサトの予想を越えて、なんとエヴァ初号機のケージにいたのだ。




長いこと、角の修復された初号機の攻殻武士めいた面構えを見上げていた。




「あの時のカリは、返すからね・・・・」




エヴァ初号機に向かってこう告げると、葛城ミサトと話し直すために作戦部長室にきびすを返した。が、ちょうど葛城ミサトが出ていった後。惣流アスカが探すのだが、こっちの方でも惣流アスカの予想を越えて、葛城ミサトは作戦顧問の家で飲んでいたりするのだった・・・・・。大人の行動も、少女の予想を越えるときだってあるのだ。





「ふーむ・・・・・・さすが作戦部長殿。その気になれば・・・・・」
鬱積が一時的にでも晴れ、素面以上に頭の切れる状態にある葛城ミサトは、さっそく作戦行動案を弾き出した。「使えない」初号機を「有効に」使う・・・・ことさえ内包した。

既にちゃぶ台の上は片づけられ、分析部のデータ、赤木博士の所見等々、使徒に関する極秘書類が広げられていた。互いに素人ではない。モニターなどなくとも、話でイメージは掴まえられる。二人の目には、ちゃぶ台の上に第三新東京市と、エヴァ三体が見えていた。
このちゃぶ台会議で作戦の最終稿が決まると言ったら、誰も信じないだろう。

だが・・・・

「悪条件を逆手にとってきたか。・・・・実に面白い。儂の考えとはまるで逆ですがの」


「よろしければ・・・・・・」
葛城ミサトはギョロ目にむかって右と左の目を合わせるようにした。深い韻をもつ謙虚。
二心のない眼差し。冷静にして透徹な、作戦家の目。これもまた、本性なのだ。


「・・・・・・そうじゃの。こればかりは口で言うても埒があかん。ソノ、煙草の空き箱
はあるかの」
互いにイメージは共通するとはいえ、物事を説明するに目に見える事物があった方が分かりよいこともある。まるで逆、と言われればなおさらだ。



「・・・・・煙草、吸われるんですか」

「ああ、儂は吸わんのじゃが、うちのがな・・・。やめろとは言うのじゃが・・・」

ふと、どうでもいいことだとは思いつつも、間があきそうだったので問うてしまったが、返ってきたのは意外な答えだった。いかにも古き日本の母、という風の野散須夫人に喫煙の習慣があるとは・・・・・・リツコはいかにもたこにもで納得できるけど。
どのように吸うのか、ちょっと想像できない。
が、この親父にして、止めさせられなかったというのは・・・・・・・

フッ・・・・ちょっとばかし、おかしみのわいてしまう今は吸わない葛城ミサトであった。



セブンスター(新版)の空箱を一個、台の中央に立てる。



「これが、エヴァあの発進ビルだと思うてくだされ」

頷く葛城ミサト。

「儂の考えが決定的に違うのは、使徒をわざわざ攻めて追いかける気はない点じゃな。高速で移動しようが、手元に来るまで待っておればいい。・・・・・この中でな」


説明にしてはやたら短い。勿体をつける気はないらしい。作戦顧問は空き箱を指で掴むと二つにびりと裂いてしまった。


「待ち伏せ・・・・ですか。確かに基本的な戦術ですが・・・・実際に使徒との戦闘ではタイミングの点で・・・・・・・・・まさか!?」
使徒がこちらに気づかず眼前をカモカモと通り過ぎようとしている所を襲いかかろうという野武士的戦法であるが、実際には、いざ出現ビルからエヴァが飛びかかろうとしても、どうしてもタイムラグが出来る。それでは間に合わないのだ。


が、天啓ならぬ、野散須啓があれだけの説明で、葛城ミサトの脳裏には閃いたらしい。


「ほほう・・・・もう勘づくところがありますか」

「・・・・面白い・・・・・面白いアイデアですが本当にそんなことが可能なんですか?」

「エヴァあ用の楽器を造らせた人間のせりふではないですなあ。あれに比べればなんてこたあ、ありますまいよ。費用もタダのようなものですしのう」


「え?!・・・・今の、”そのまま”なんですかっ?」


もし、ここに同じ作戦課の人間が同席していたとしても、二人の会話には入っていけまい。詳しく問い質したとしても、余計に怪異に聞こえるだろう。酒は入っていても、これは、冗談ではない、大真面目な話なのである。使徒を、いてこますための。

「別に、こんなことに金をかけることもありますまい。どうせ一度きりですしな」
「しかし・・・・・こんな誰も造ったことがない・・・・・造れますか」
「現代の建築技術をなめてはいけませんなあ。二千メートル級のビルをこさえるよりは、ずうっと簡単!。日本一の富士の山でも元を辿れば砂と小石で出来ておるのですよ」



「・・・ちょっと、酔いが入ってきたんじゃないですか?野散須作戦顧問?」
と、いいつつもビール(話の途中で夫人が運んできたもの。もちろん、冷えています)を
注ぐ葛城ミサト。言動はちょっと、重なってない。

「なんのこれしき・・・・おう、すみませんのう」

「で、ですな。兵装ビル課の人間に聞いてみると、できる、らしいですわ。これが」



「さながら・・・・・箱男作戦、といったところです、か」
葛城ミサトの眼が据わっている。ブツブツと呟きながら、最終草稿を組み上げていく。






「ミサト・・・・・葛城ミサト・・・・一尉、きています、か・・・・・って、あ!!
ミサト!」

被保護者に迎えにこられては世話はないのだが、惣流アスカが野散須家の前で、どのように訪ねたらよいものか、しばし思案しているところに玄関から葛城ミサトが現れた。
探しにきておいて、見つかってから言うのもなんだけど・・・・・
なんでミサトがここにいるわけ?・・・・・・・しかも浴衣なんて


「アスカ・・・・・・」
すう、と片手をあげる葛城ミサト。かつて見られなかった・・・・・落ち着いた、それでいて無理のない仕草だった。一瞬、どきっとするほど。包まれる気持ちの、微笑み。

「お腹、すいてんでしょ。奥様からのお土産・・・」

・・・・・それは誤解だったようだ。提げている小ぶりのお重にはおにぎりとおかず。

そんなのどうでもいいわよっ!!・・・・あ・・・・そんなことより・・・・・・・早く・・・これから・・・・・・・どうするのよ」
怒鳴りあげてから、これじゃ、さっきと同じだ・・・と思い返し、小声になって葛城ミサトの袖をひっぱる惣流アスカ。今は団らんやっている時じゃない・・・・っ。
歯あ、食いしばってでも、あいつを・・・・・・・


「使徒を倒すわ」


答えは速攻で返ってきた。世界にこれ一つしか言葉はない、というほどの鮮やかさで。
「それからシンジ君もよそに出す気はないわ。必要だもんね。ネルフにも、初号機にも、学校の友だちにも、・・・・・・・それから、わたしたちにも」



「ミサトぉ・・・・・」
これが葛城ミサトであることを、惣流アスカは知っている。



「こっちの苦労も知らないでワケわかんない・・・・使徒もそうだけどお!・・・・・・命令出してくる偉そっーで怪しいジジイ連中には、絶対に渡さないわ・・・・・」


「・・・・・・・・」
自分の中に強い決意があるとしても・・・・・誰か同じ言葉で重ねてくれたなら、その力は強さは、どれほど増すのか。惣流アスカの今の顔を見てみるがいい。

「アスカ、ごめん・・・・・・無駄に時間つかわしちゃって・・・・・待たせたわね」
百戦に錬磨され、世界最強のオパールの輝きを放つ葛城ミサトの眼光。
怒れる熱血の保護者から、使徒を殲滅する秘策をひっさげた作戦部長の顔つきでシメる。

「遅いけど・・・・・・ゆるしたげる」
少なくとも・・・・ここにきた時間は無駄にならなかった。





「あのさあ・・・・ミサト。もし、もしの話だけど・・・・・・・・」
自転車は一台しかないため、ネルフ本部までは歩いてかえるほかない。
その途中で惣流アスカが問うてきた。珍しく、歯切れの悪い口調だ。しかも、らしくもない仮定の話・・・。
「なに?」
「もし、今回、シンジじゃなくてアタシがああなったとしたら・・・・・・・」
「うん・・・・」

「シンジは・・・・どうしてたと思う?」


なかなか・・・・かなりむつかしい質問だ。そろそろ蝉酒の酔いも醒めつつあるし。
シンジ君がどうしたか・・・・ね。ことごとく思惑はずしてくれるからねえ・・・。


「箱根に・・・・・乗り込んでいったかもしれないわねー・・・・」
だから、一番ありそうもないことを言った。その後で、もしかして・・・・・と思い返すのだが。

「そう・・・」

あら。もうちょっと別なことを言うべきだったかな?設問がよめない。



「本当は・・・・・とっくにカタはついてるはずだったのに。すぐに使徒を追撃してれば・・・・・こんなことにならなかった」


「アスカ」


「今さら、言い訳のつもりもないんだけどさ。ただ、あの時、足が動かなかった・・・」




「ほーんと、ザマあないわね・・・・・」



「え」



「使徒にやられちまうシンジ君も、使徒を追撃できなかったアスカも、うまいこと作戦をたてらんなかった私も・・・・・・ほんとに。世間様に面目がたたないわねえ」

そう言って、けたけたけ、と笑う葛城ミサトであった。かなわない。


「・・・・・そそっ、それで、作戦は出来たんでしょうね。涙目で血眼の作戦課の人間が網持って探してたわよ」
「もちのろん。でも、はっきりいって、辛いわよ。・・・・”力づくで速い”から」


「・・・・?よく分からないけど、それで使徒が倒せるなら・・・・・やるわ」

二人の影はネルフ本部の遠景に消えていく。片方は浴衣でどうも緊張感がないが、苦労はこれからだ。






赤木研究室

赤木博士は現地の霧島教授からの報告書を読んでいた。・・・・こちらも苦労されている。
霧島教授につけた護衛兼監視の報告によると、今日、戦自の部隊が現地班のテントに脅しをかけてきたらしい。第三新東京市を離れたのをよいことに、別の方向から(大学の大老クラスの教授連など)使徒の情報をリークせい、と矢継ぎ早の圧力もかかっているようだ。
人間関係圧力、というのは目にもみえないし、数値で計測もされないが、ときによっては深海三千以上の圧力がある。そちらの方も問題有りだが、「データをよこせ」などという戦自の直接的な脅しは早急に手を打つ必要がある。いつもの調子で穏やかに、追い払ってしまわれたそうだから・・・・。「事故」など起こらぬように・・・。


「ん・・・・・・・・」


報告書は通信暗号化されたものを、こちらでおこしているもので、単なるワープロ文書なのだが、最後の方に封書が挟まれていた。霧島教授の自筆によるものだ。
伊吹マヤに問うてみると、「先輩宛の私信らしいですよ・・・」ということだった。
はて。そのような面倒なことをせずとも、ネルフの暗号技術は天下一品だというのに。
最終的に秘密を守り、頼れるのは人だというのは分かるが。・・・・それほどの話なのだろうか。すこし、心臓が高鳴る赤木博士。べつに余計な期待をしているわけではない。

中身は・・・・・・・碇シンジ君の「状態」について、だった。
いろいろとこちらでも推察はしてみたのですが、何らかの刺激にでもなれば、とあり、碇シンジ君の回復を願う心情が伝わってくる。むろん、霧島教授は紳士であるから、赤木博士のプライドに触るようなことはいわぬ。

霧島教授もお忙しいであろうに、十ほど推論を挙げてきた。
赤木博士は十七ほど考えていた。その中の九つまでは赤木博士の裡にもあった。

だが、ただ一つ、赤木博士の思いも寄らない発想のものがあった。
思いもよらないはずで、それは「父親」と「母親」に観点のあてられたものだった。
万能科学者赤木博士の、あまり得意ではない分野であった。統計的心理学は好きなのだが。

要約すると、「父親」と「母親」の姿というのは「相反するもののイメージ」であるというのが霧島教授の考え方だ。黒と白、激しく運動するものと静止し続けるもの。

シンボル的心理学、というのは赤木博士の好みではないのだが、とりあえず、それが「錯視」の原因であるという点は頷けないでもないので先を続ける。

激しい落下を続ける滝を見続けて、ふと脇の岩壁に目を移すと、動かぬはずの岩壁の一部分が滝の大きさだけ切り取られて上昇していくように見えたり、暗い夜空に、雲の切れ間から一つの星がみえるとき、それを眺めているうちにつうつうと星が不規則に動いて見える錯覚がある。他にも、心理学の実験室では黒白の渦巻きパターンを回転させて運動残像をしたりする。相反するものを一時に見ると、目はおかしくなる。それが錯視だ。

葛城ミサトと惣流アスカの面影の対応がないことから、霧島教授は、あっさりというか、ばっさりというか、さっさと人間扱いするのをやめて、シンボル化してしまったようだ。

これは心理療法ではないから、碇シンジが両親にどのような感情をもっているかなどはまるで探らない。関知しないのだ。問題なのは、人間関係上、父親と母親ほど黒白相反しているものはないということだ。「似たもの夫婦」という言葉もあるから誤解をまねくやもしれないが、これはプラスとマイナス、といった方が正解かもしれない。ともかく、この二つを用いて人は、人間関係を読み解いていく。正負の差を計算していく。どうあがいても、人は父親と母親の間から生まれるのであるから、逃れようがない。普段、ほとんど交流もないのに碇シンジの前に立ち現れたのは、そのせいかもしれない。

「父親」「母親」でなくともよい。
少年探偵団に出てくる怪人のようだが「黒人間」「白人間」と言い換えても意味は通じる。

母親になれそうもない赤木博士は、うそ寒さを覚えてきた・・・。
よくもまあ、「自分」と「頭脳」をこれだけ切り離せるものだ。ミサトに見習わせたい。

ともかく、「相反する人間イメージ」が眼前に現出する碇シンジには、それに影響されて見る者すべてがおかしく見える。ネガとポジ。色彩反転現象だ。
なんで両親の姿がいきなり現れるのか、その点には一石を投じたと言えるが、原因が解明されたわけではない。

「脳には異常がないわけだしね・・・・・変質、という点じゃどうだか分からないけど」



赤木博士は伊吹マヤに頼んで作らせた、モニターの上でバランスをとる「やじろべえ」を指でつつく。


ゆら、ゆら・・・・ゆれる




それほどでもない昔、チルドレンの寿命について、ふと考えたことがある。



「天にも届く塔をつくったから、その罰・・・っていうんじゃないでしょうね」
今回の使徒はその為の刑罰執行者・・・・なんてね。
「昔の罰は現代にも続いているというのに・・・・・・贖えぬまま」



言い終わると同時に葛城ミサトが入ってきた。既にいつものジャケット姿だ。
「待たせたわね。これ、作戦の最終稿、目、通しておいて。二、三、あんたの意見も聞きたいから。それから、シンジ君の退院許可今すぐお願い。無理は承知の上だけど・・・・
初号機、使うわ」

まるで突風だ。
横目で作戦部長の面構えを確かめる赤木博士。ふーん・・・・・


「そろそろくる頃だと思ってたわ。遅すぎるくらいだけど」
そして、奥の方へ声をかける。



「やっぱり来たわよ。シンジ君。・・・・レイ」


「え・・・・・・・」


碇シンジは退院していた。綾波レイに手を引かれて奥から現れた。
目の周りを包帯でぐるぐると白く封じられて。





時間は遡る。






ネルフ本部内総合病院 脳神経外科棟 碇シンジの病室

綾波レイは、碇ゲンドウに命じられたまま、なんの躊躇いもなく再び碇シンジの前に立った。頭部に包帯を巻き付けたその姿にもなんの感慨も示さずに。


渚カヲルは入室はせずに、控えていた。悲しそうな瞳をして、待っていた。友人に鎮静剤をこの手で射つなど・・・やりたくないものだ。


「碇君、これを・・・・・・」
預かった古びた封書。これが一体何になるのか。もはや、興味は覚えなかった。
命ぜられたことをやるだけ・・・・それでことは終わる。



「母さん・・・・ごめんなさい・・・」

先ほどから碇シンジはそればかりを繰り返す。よほどショックだったのだろうが、繰り返される方もたまったものではない。それでも綾波レイはじっとそれを聞いていた。
碇シンジがそれを受け取らないから。本人が受け取るまで、処遇は終わらない。

置いて立ち去る、というのが当然の行動であろうが、綾波レイはそこにいた。

渚カヲルは室内の様子を察していたが、介入はしなかった。ただ、少年も待つだけだ。

碇シンジは幻影を見ている。封書など目にはいるはずもない。
それを見越していたのかいなかったのか・・・・



頭がゆらゆらと振れだした。また、平衡感覚がおかしくなったらしい。壁に頭をぶつける。

綾波レイはそれを止めるでなく、見続けていた。ごつ、ごつ・・・・


す・う・・・・・・綾波レイは後ろにたつと、その白い手をまわした。
「だーれだ?」の遊びのように、碇シンジの視界をてのひらで隠した。

ご・・・・・・そのためか、碇シンジは頭をぶつけるのをやめた。目が、覚めたのか。



「つめたい手・・・・・・だれ?」

「だれだと・・・・・・おもう?」

「綾波さん・・・・・・だと思う」

「わかるの・・・・・・どうして」

「なんとなく・・・・・もう、はなしてくれる?」

「はなす前に・・・・・目を、つむって」

ぬる。綾波レイの指先に赤い感触がある。痛みを感じている様子はない。



碇君は、まだ、なおらない・・・・・



「なんで?目がすうっとして気持ちがいいけど・・・・」

「なんと、なく・・・・・・」

「ふーん・・・・じゃあ、つむるよ」

それは元々の素直な気性のためか、思考能力が落ちての、単に言いなりになっているだけなのか。

「渡すものがあるから・・・・・手を」

「・・・・だまし舟みたいだね」
封書、紙の感触にそんなことを言い出す碇シンジ。綾波レイはそれをしらない。

「でも、このかさかさした・・・・・・これは・・・・・・・・・あっ!」
碇シンジは何に驚いたのか、目を開けた。綾波レイがそこにいる。
目に映るは母親の姿・・・・・・瞳にはっきりとその姿を認めながら。



綾波レイははっきりと赤い瞳で見返している。



「母さんは・・・・・・ここにいるはずがない・・・・・いるはずがない・・・・・」

「そう、おかあさんはここにはいない・・・・」

ふらっ・・・・母親と綾波レイの姿が視界のなかでだぶりながら・・・・貧血を起こしたように碇シンジはひっくり返った。
実際に貧血だったのかもしれない。倒れ込んで脳天を床に打ちつける前に、疾風のように渚カヲルが現れ、碇シンジの体を引き止めた。ナイスだ。



この時点では、渚カヲルも綾波レイも知らなかったのだが、同時刻エヴァ初号機のケージでは


ギシュ・・・・・


初号機に勝手に電源が入り、右眼に閃光めいた輝きが走ったのだという。



そして、赤木博士がすぐさま呼ばれ、綾波レイの話より、碇シンジの眼の周りには包帯がまかれ、視界を隠すことにしておいた。点滴をうたれながらすぐに碇シンジは眼をさました。奇妙な話だが、包帯をまかれているくせに、「ものがみえる」らしい。さらに、人間の見分けも「なんとなく」つくらしい。気配で感じているなら、風景が見えるのはおかしいし、単なる「眼の記憶」ではない証拠に「指が何本テスト」・・・渚カヲルと綾波レイのを足して十八本でも正解した。カンでもないらしい。元々、にぶちんであるし。

かはたれ・たそがれ状態・・・・医学的にいえばもっと難しくなるため、赤木博士が勝手に用語を造った。なんとも和風だが、診察時刻的にもそうだったのだ。
多少はましになったのかどうか・・・・いっそ視界を全て封じてしまう、というのは盲点だったが・・・・額と眼周部分の包帯が痛々しい。三分の一犬神スケキヨ状態である。

ただ、痛覚と方向感覚がほとんどないようだ。ベッドから立つと、よろろと踊りだす。

それでも、赤木博士は長年とつき合いと葛城ミサトの気性の分析から、「初号機とシンジ君を使う」と言い出すことは分かっていた。どのように使うのかまでは領域外で知らぬ。

囮につかっても、「使った」ことにはなるわけだ・・・・・・暴走しなければ。

戦術に関しては素人で常識人である赤木博士は、だいたいそのあたりを予想していた。
弐号機と零号機をメインにして、なんとかやっていくしかあるまい、と。
葛城ミサトも、その点に関しては同意見で、そこまで碇シンジに頼る気はない。

「でも、なんとかって・・・・・その”ナントカ”がむっつかしいのよねえ。何事も」
戦術に関しては専門家で、常識の通用しない相手と戦う葛城ミサトのいう。


が、碇シンジが手元に戻ってきた。のんきに喜んでいる時間はないけれど。









同時刻 箱根上空に巨大な未確認飛行物体が接近しようとしていた。

それは十六枚の翼をもち、薄明の山々を越えて、異様の影はたたり神のように地を圧した。


正体は飛行船である。とてつもなく巨大で、かつ十六枚もの安定翼が備えられている。
使用用途は・・・・・・腹の底に抱えているのはJA二世号。
こればかりはさすがの加持リョウジも時間不足で突き止められなかった、別会社名義で建造されていた切り札中の切り札・・・・・・。


JA運搬用兼ジェットストリーム砲移動狙撃雲閣・・・・・名前はまだない。




上空より。

相変わらず温泉につかりっぱなしで朝湯も夜湯も区別なかろうが、時間的には朝湯としゃれこんでいる使徒にジェットストリーム砲の標準を合わせるのであった。



使徒対JA二世号の箱根決戦の火蓋が切って落とされようとしていた。




つづく