武蔵野秋葉森にある伊吹商事は謎の会社である。
 
 
 
前にあった丸独商事という会社をそのままそっくり乗っ取った形で入居してきたわけだが、いかんせん、その丸独商事も謎の会社であったので取り立てて近所で騒がれることはなかった。幽霊会社に人間が入ってきた・・・・どうどうぬけぬけ看板も出してある。
そのまま幽霊状態にほったらかしにされているよりは周囲の住民は安心する。
 
 
よろずプログラム引き受けます・・・・・・・とある以上、おそらくそちら関係の会社なのであろう。近所にある酒屋を改造した雑貨屋に、そこの受付か事務か知らないが白いスーツのお嬢さんがよく買い出しにやってくる。たいそう礼儀正しく愛想がよい、と雑貨屋のおばさんは語る。素性は知らず、ただよそ者であることはすぐに見抜いた。
だが、まさかその白いスーツのお嬢さんがそこの謎の会社のボスであろうとは夢にも思わなかった。
 
「ここのお茶って美味しいですね」「酒屋だけどね、爺さんがS岡の方で茶をやってたもんでね。その名残なんだよ」「なるほど・・・・」
愛想がいいわりには長話にならない。
 
 
それから三軒となりの弁当屋「ぶーふーうー」にいく。
隣り合う中華料理屋の倅とパン屋の娘が結婚してそのまま店舗を続けたというなんとも愛な構造の中華料理パン弁当屋である。秋葉森にはこのよなつくりの店が多い。
便利といえば便利だが。そこで仲のいい若夫婦とちょろっと会話して弁当買って帰る。
 
 
七人分。その姿はどう見ても新入社員の若い女の子なのだが。
 
 
 
「おかえりなさい、伊吹社長」
伊吹商事に戻れば、こう呼ばれる身分なのであった。
 
 
あの死に絶えたオフィスは一応、実務に耐えられるレベルまで修復清掃されていた。
そして、何よりそこに働く人間の生気が空間を別物に変えていた。
机と椅子が運び込まれ、電子機器が設置され、棚だの生活必需品だのロッカーだの個人的な品目だのが持ち込まれ、遠慮なく狭苦しくなっていた。
 
物を造る現場はどうしても狭くなる。この狭さを汚さに堕落させないことがよりよい労働の秘訣である。そして、その狭さを動脈硬化させない詰まらさないことがよりよいトップの責任である。うまいこと社員に働いてもらわねばならない。
 
 
とにもかくにも、伊吹マヤ社長には現在、六人の社員がいる。
 
経歴年齢はバラバラだが、それぞれプログラム作成に特異な才能を有するスペシャリストたちである。それだけにおいそれとこんなちんけな会社に転職するはずもない。
それを伊吹マヤ社長がヘッドハンティングした。スマートな言い方をするならば。
事実を述べると、とある弱みを握って転職を強引に迫ったのである。
人、それを脅迫を呼ぶ。これも企業犯罪、社会の悪しき黒い霧なのであろうか。
 
 
伊吹マヤ社長自身は、けろりんとしてそれを否定する。これは取引なのです、と。
 
 
「とある弱み」とはなんであろう。実は、「マギ」へのハッキングなのである。
 
 
2015年現在、法改正に伴い、ハッキングには重罪が課せられることになっている。
それに加えて、超法規的措置でガッチリ守護されている武装要塞都市・第三新東京市のメインコンピュータ、「マギ」へのハッキングは素性がばれたなら即、諜報部を送り込まれて暗殺されても文句は言えないところである。今までは単に実力の差でそのよな事態は起こらなかったのであるが・・・。
 
 
マギへ侵入を試みたのはよろしいが、追跡尾行プログラムに跡をつけられお家が発見されてしまう・・・マギのこのあたりの執念深さは尋常ではなく、マンションの貸家からハッキング取材を試みたバカな雑誌記者は遠くの実家まで暴かれた挙げ句にそこの機材をギタギタに破壊された・・・・まるで現代の怖い話だが実話なのだからなおこわい・・・・
 
 
そんなわけで、自分たちの実力を試すためかちょっとした好奇心のゆえか、チャンコ屋に呼ばれた六人はそのことをつきつけられ、否応もなく伊吹商事に入社させられることとなったわけだ。何人か、その時点ではマヤ社長の話を信じずに家に帰って、自分のマシンを起動させてみたところ・・・・・・いきなり黒地に赤い無花果の葉が無限に散り続ける、覚えのないスクリーンセーバーが表れた。もちろん外部操作は受け付けず、このままクラックさせられるのでは・・・という恐怖を感じて十分後・・・・「この番組は伊吹商事の提供でお送りします」・・・・というテロップが出て打ち止め、後、通常作動した。
やすやすとセキュリティを突破してこんな真似が出来るとは・・・・・力量が違う。
ハッキングの証拠を持っている、というのは嘘ではなかった。
縛り首になるよりはましである。転職の誘いに乗る他はなかった。
自分以上の能力を持つ人間には従う・・・・・・これをストイックと呼べるかどうか。
それでもまだ伊吹マヤ社長の誘いに応じなかった最後の一人は攻撃に入った。
余裕の名刺に記されていた電話番号・・・・・そこに電詞爆弾をぶち込んでやった。
今まで数々の敵を葬ってきた無敵の破裂人形式。とてもあんな娘っ子には外せまい。
「あまり時間がありませんけど、待てるだけ待ちますから」帰る背にかけられた言葉。
必要とされている・・・・・真摯に。なんの目的があるのか知らないが・・・・。
式を放った後でのわずかな後悔・・・・・・そして、放った式を送り返された大きな後悔。
相手が悪かったとしかいいようがない。潔癖性の伊吹マヤはその手の破壊性ウイルスを送り返すことについてはおそらく赤木リツコ博士も認める日本一のスィーパなのだから。
自分が示した度量を否定されるとすぐキレてしまうのも潔癖性のわるいところ。
ボコボコにした挙げ句にやっぱりこういう犯罪者は警察にちくってあげようかと考えていたところに相手の泣きが入った。「やっぱり信頼は通じるものなんですね」
 
 
三国時代に蠢く軍師のようなえげつなさで人材を確保してきた伊吹マヤ社長は、さっそく「とあるプロジェクト」を発動させる。その勢い疾風怒濤、その狡猾実行力は曹操の如く。
ただ、その兵力は桃園の誓いの劉備元徳には勝るものの、たったの六人。社長を入れてもたったの七人。少数は精鋭になるが、今日日、ゲームを作るのももうちょっと人間が必要だ。
 
 
 
松下コウノスケ、は、元ルルビー・メイズ日本支社の工業ソフト部門のツートップの片割れで、双頭のハゲ鷲と業界に名を轟かした人物だった。かの経営の神様の血筋なのかは本人が堅く口を閉ざすので不明。ちなみにルルビー・メイズ社は北米大陸に本社を置く、世界でも一、二、の大ソフトウェア帝国。徹底した職能カースト制度をひいているそこの女帝がインド系のルルビー・メイズ。カレーなるカリスマである。
額に自社開発した生体電子素子・バイオチップを埋め込んでいる。それはチャクラに輝く紅玉。トップ自ら製品の人体実験をしているという、あだ名が改造人間、のビックリな度量の巨大企業である。そこを追ん出てしまったのだから、伊吹マヤの奸計、罪深し。
 
 
 
N石エイキチさんは、とある大きな電子機器企業・秋葉森支店の部長である。
かつては防衛庁軍事関係にも食い込んでヴイヴイいわせていたところだ。
この人だけは伊吹マヤが気をつかって社員証も一部偽名にしておいた。
しかし、気をつかうのはそこまでで、孫もいるのに情け容赦なく引きずり込んだ。
なんの気の迷いでマギにハッキングなんかしてしまったのか・・・・・
 
 
 
東芝マスオさんは、中堅ソフト会社の中堅の社員。年齢相応の役職にあるが、とくに優れたプログラマーというわけではない・・・・・はずなのだが、なにごとにも裏というものはあるもので、更正して明るい家庭を築いているものの、大学時分は暴走死神クラッカー「ンーガグック」として名を馳せた強者で、実は今も密かに凶悪ハッカーグループを統率しているという、戦闘力という点ではこの面子の中でもズバ抜けているホラーな人物なのであった。ただし、表向きはほんとうに頭が巨大だが、普通のサラリーマンである。
 
 
 
橘エンシャ・・・・・は占い師で、それも大層よく当たると噂の、別名「秋葉森の母」。
確かに霊感の優れていそうな外見で、小娘からいいおっさんまでコロッと騙されている。良く当たるのはなんのこたあない、優れた、とても優れていて危ない領域までどっぷり浸かっている情報網を持っているためだ。占いというより情報産業のプロだろう。
ただ、この橘エンシャ女史だけはブレーンとして呼び寄せている。腕前は良いようだが性格が浮き蓮で、根気のいる物づくり作業には向いていないし、それを強要するとアタシャ自殺しかねない、と本人も語っている。最も伊吹商事参加に抵抗のなかった口である。
 
 
 
藤原ルカ。平安から伝わる巫女人形のような表情をしたこの女性は、書肆であり司書である。電子図書館ザナドゥの秋葉森支部の司書、同時に古書店「座那堂」の書肆。
山岸マユミが憧れそうな・・・または少女にかなり厳しい覚悟と修行を経させてきたような・・・本に操を捧げてしまったような、ちょっと寂しい感のある女性である。
実は、彼女に関してはマギハックの件は冤罪なのであった。藤原ルカはまるで関知しない出来事。しかし、沈黙をまもっている。いわば、代理としてここに来ている。
妹のために。藤原セトという。妹の不始末は、姉の責任。義務感でここにいる。
 
 
 
百山田サブロウ・・・・・この巨漢はゲームソフト会社の元社長である。作ったゲームはどれもこれもウルトラメガヒット。野球ゲームから美少女ゲームまでなんでもござれのゲーム大王みたいな人物であった。はっきりいって一生働く必要もない大金持ち。
「いい加減あきたからもうゲームはつくらない」宣言をして、社長もやめてしまった。
やめる際には一応、三年は困らないように「ゲームのレシピ」を渡して去った。
どこか農地でも買って土とともに暮らすか、それともいっぺん宇宙でも見てみるか、と考えていたところ、伊吹マヤからお呼びがかかってしまった。実は、赤木ナオコが短い間教鞭をとっていた時期の少ない教え子の一人。お墨付きの天才である。
 
 
 
この六人と伊吹マヤで何をするかというと・・・・・・
 
 
とりあえず、買ってきた弁当を皆で食べる。同じ釜の飯を食べる仲である>強制。
買い出しもお茶くみもなぜか社長の仕事なのだった。
お昼の国営放送ニュースを流しながら、人間を増やすための「面接」についての会話がなされる。一応、これが経営会議であったりもする。
 
 
「年齢には制限を設けないほうがいいんでしょうか、やっぱり」
社長にもかかわらず、茶を汲み終えて一番下っ端のような口をきく伊吹マヤ社長。
「そうだねぇ、この街のジジイ連中は盆栽いじるかわりによそ様の機械をいじって楽しむようなのが多いからねえ。下手な若造に礼儀仕込む手間を考えればそっちの方がいいんじゃないかねえ・・・・それにしても毎日同じ弁当屋かい」橘エンシャがぼやくと
 
「ぜいたくは敵・・・・・ですよ」
 
「だーーーっっ!!N石の部長!何遍もいうけどね、そうやってフラッと気配消して人の後ろで呟くの、やめておくれでないかい!?ったく、温厚そうな面して・・・・」
 
「”ほうちょう”・・・・」
 
一流企業の部長というのはストレスがたまっているらしい。せっかくそこから解放されてみればトンベリのような形でそれを発散させてくるのだった。
 
「なにが”ほうちょう”だよ。ホラ、社長、にこにこケロンパみたいな顔してないでなんとかおしよ!」
「秋葉森の人たちはエンシェント(化石流行語)な感じで口がわるいですね・・・・N石さん、いつものやつ、やっちゃってあげてください」
 
 
「”みんなのうらみ”・・・・・・ずぶっ」
 
 
「うむ、7869くらいのダメージだろう。今のは」百山田サブロウが数定する。
 
「なにが、ずぶっ、だよ!!いいかげんにおしよ・・・いい年齢こいて、あったくしょうがないねえ・・・それにしてもたかが会社を離れたくらいで人間ここまで堕ちちまうものかねえ。アンタ、罪が重いよ。可愛い顔してまア・・・・悪女だよ悪女」
 
「そうです。ね・・・・・女帝は無理でも魔女くらいにはなりたいですね」
 
「あーア、処女暴君ってところだろさね。ウチの社長さんは」
「白き魔女という名作RPGが昔、あったんだねー・・・・しみじみ」百山田サブロウ。
 
「”とぎたて”・・・・」トンベリキングな感じで梨をむくと皆に振る舞うN石部長。
 
 
伊吹商事の会社の雰囲気というものはどういうものか。
社長は二十代中頃の伊吹マヤ。どうも本人はそう思ってないらしいが、神秘性が、ない。
資質からしてハッタリにかける。実力はともかく、一睨みでスタッフを震え上がらせる赤木リツコの薫陶はそう言う点にはいかされていないらしい。アスキーの社長の若い時分よろしく初登場でヘリコプターで現れるというような強烈なプッシュがいったかもしれない。プッシュ、プッシュ!全員、素性不明の社長より年上なのだ。
 
 
「そういやあ、社長、アンタってまだ処女かね」これはセクハラなのだろうか。
「ぶっ!!・・・・いやあー、それはあのですね、そのですね」
「べつにアタシャ本職占い師だからねえ、遠慮はいらないよ。食後の腹ごなしに一丁、この街でいい男がみつかるかどーか、占ってやろーと言ってんのさ」
 
 
それに上乗せして、脅迫取引というえげつない手段で入社させているだけに信頼のしの字もなかろう。ついでにいうならこの会社には休みがなく、二十四時間で駆動する。
伊吹社長の方になにせ時間がないらしいのだ。金銭的には分がよいのだが。
思い切り労働基準法違反だ。まあ、どうせ査察は入らないし入っても咎められるのは今や実体のない「丸独商事」だ。中小秘密結社、というに近い。
 
 
「幅広い年齢層から求めながらも、その実力は精選ということですね」
総務事務処理的なことをこなせるのは、能力からも性格からも伊吹マヤを除けば今のところ藤原ルカしかいない。
 
「まさか筆記や面接など前時代的な試験を行うんじゃないだろうな」
実際にエリートだったのだから仕方がないが、ここでもエリート風を吹かす松下コウノスケ。はっきりいって偉そうだ。本人に悪気はないし、周囲を威圧しようというせこい人間でもないが、これは性格なのだろう。自分に自信満々なのだ。額がテカテカな感じがちょとイヤだが。
 
「そうですね、面接なんていつも受ける方でしたから、一度は質問する方をやってみたかったんですが・・・・」穏やかに東芝マスオさんが受ける。
 
 
やる気のやの字もでない状態に違いないはずなのだが、どういうわけだが六人の社員たちは自分の能力を適量に発揮し、プロジェクトの骨子を組み上げていった。
 
 
理由は、伊吹マヤに。
 
 
一に熱意、二に強引、三四に謎めいた実力、五にこれまでの人生で下働きを確実にこなしてきたものだけがもつ説得力。トップを得るなら才長けて見目麗しく理想有り・・・・。
「ウチに倅がいたら、あんたを嫁にもらいたいくらいだよ、だろN石の部長」「うむ」
三分の侠気に七分の情熱。とにもかくにも人を引き込む熱意だけはある。
そして、瞳の奥には、下手に手を抜けば包丁もって喉を突かれそうな女の情念おそろしく。
 
つまり!!昔から、東京下町細腕奮戦記は「けなげ」の極み・・・・・・ということだ。
 
 
ただ、それだけではない。
 
 
何より
 
 
彼女が示して見せたヴィジョンがあまりに衝撃的で強烈だったから。
初めて伊吹商事の中に入り、嫌々の鏡開き。そのあとでそっとささやかれた「目的」
 
 
 
「規格外のレーダー・パーク(Lader Park)です。皆さんに創って頂きたいのは」
 
 
あのとき、白いスーツの女性はそう語った。巨大な・・・・・その規格の単位に驚く。
「天蓋」・・・・そんな一般生活ではまず使わない言葉がみしみしと急速に脳内に枝葉を広げながら閃いた。思考公園、とも訳される、記憶機構の手法の一つ。
語られた言葉のもつイメージの韻律は常識的なサイズを否定する。
人間サイズではない・・・・天を見上げるほどの巨人をその目に焼き付け想定したような夢のようで確固な響き。この女は自分たちとは違う物を見、違う世界から来ている。
 
 
 
「それから、新しい”言語”の開発・・・・モデルは出来ていますから、それを実際に使えるレベルまでの・・・”研磨”作業をお願いします」
 
日々、日進月歩に次々と続々と、コンピュータ用の言語が生まれ続けている。
だが、多少インターフェースの器具が進化したところで結局のところ、未だにキーボード
でカコカコやって人間と電気の頭脳は会話している。ゆらぎのない正確な会話を続けている。言語は命令の響きから一歩も抜け出すことはない。生まれてこの方、冷えきった命令のみを聞かされてきた道具。おそらくその姿は死んだ魚の眼をした自閉児。
たとえ酷使されたとて、ホウキやヤカンが人類に反抗をもろくんだらそれはギャグにしか
ならないが、箱入りでちやほやされているコンピューターが反乱を起こすことに違和感をあまり覚えないのは、普段からのコミュニケーションになにか感じるものがあるからかもしれない。いい加減、0と一とアルファベットだけではあるまいに、と。
しょぼい処理機能とぼんびーな記憶容量しかなかった時代はともかく。
人間は、さらにさらにさらに、自分たちの使いかってがいいものを求める。
 
 
計算機から、情報処理機器へ、そして、思考機械へ
 
 
・・・・そんなわけで、「新言語」開発というのは昨今のキーワードの一つにして業界の
流行なわけだが、どれもこれもいまいちくんで、世界的なスタンダードになりそうなものは誕生していない。まあ、おいそれと出来て仕舞ったらロマンがないが・・。
 
ここ秋葉森発では、時計機能を内部に組み込んだ言語「ミスター・クロック」日本語版「時の涙香」なんてものがある。機能付随おまけギミック的なものは多いが、コミュニケーション言語の本質に迫ったものは数少なく、また無力である。てっとりばやく情報機密の漏洩が防げるために、ソフトメーカーや官公庁なども「手前みそ」をつくっている。
伊吹商事が自社言語を造ろうというのは、たかが社員六人程度の零細の身の程を考えてはいないが、そう突飛な話ではない。単なる見栄だとしたら。だが・・・・・
 
 
「私の考えているのは、こういうものなんですよ」
そう言ってフォログラスを外すと、社員たちに「まわしかけ」をさせた。
網膜に映る、立体映像・・・・・文字通りの、ヴィジョン。
それは、菱形の立体モデル。ゆっくりと回転するダイヤモンドのように輝く・・・・
その中には。踊る・・・・・人形?いや・・・・
 
 
参Dに踊る絵文字
 
 
「伊吹商事謹製・・・・記憶構築用言語、ナイトオブダイアモンド、愛称はそうですねえ・・・K・O・Dで、”こど”ちゃんなんてのはどうでしょうか」
言語というのは本質的に暗号なのだが。ただその使用範囲により境界が決まる。
ただ、さすがに選ばれただけあって、社員はその意義意味が理解できるようだ。
これを用いて仕事をせい、というのだから分からないことには仕事にならない。
何種類かタイプの異なった踊る絵文字が次々と浮かび上がる。
「こっちは言語統合用の鉄人式鍵文字、、てっちーず・テツ。愛称は、てっちゃん、で決まりですねー」「こちちは、今流行の時の涙香に代表される時間機能を組み込むための、ジェリクル猫。猫目時計ってわけです」「こっちは接続詞用の”ラジオ体操、第一、第弐」
 
 
 
「そして、最終的にこれらのものを結集してどうなるかといいますと・・・」
 
 
そして見せられた「設計図」の衝撃!!
天才の作品であることは一目見れば分かる。こんなことを考える人間がこの世にいたのか。
そして、それに加えられた脚注が、「作品」を「仕事」のレベルまで具現化している。
おそらくこの設計図を書いたのは伊吹社長ではあるまいが、能力さえあれば凡人でも分かるレベルまで「勧進」したのは・・・・この二十代の童顔の女性だ。
まだあどけなさが残るが、これは結婚なんぞしたらあげまんになるだろう。
天才に花咲かす才能・・・「中継者・リレイヤー」
 
 
「もしか・・・これを書いたのは・・・この文法のクセは・・・・」
百山田サブロウは記憶の糸を手繰るようにして何か言いかけたが、なぜか伊吹社長が泣きそうな瞳で見上げるのでやめておいた。おそらくそれは正解だ。
 
「とりあえず、この計画の骨子が理解出来るレベルの方に来ていただきたいですね」
伊吹マヤがとりあえず締めておく。
 
 
「それと・・・・恒久的に続けるおつもりはないのでしょう?この会社を」
藤原ルカが、針でぼんのくぼを刺すようなことを追加する。
「永久に経営される会社なぞないがな」別に擁護したわけではない松下コウノスケ。
少なくとも伊吹商事はいわゆる継続企業ではない。いわば、時限企業なのだった。
 
「そうさねー、希望に燃える若い衆を騙して入れちまうのは罪、だねえ」
 
「”じたんだ”・・・・」
 
「ま、とくにこういう会社人間の哀しい末路をモロにみせちまうのもね。N石の部長、だからタライを意味もないかぶってつったってんじゃないよ。昭和三十年代のコントじゃないんだからさ」
 
「”げばげば”・・・・」
 
「騙しはしません。雇用条件については100%公開します。雇用状況については一部、秘匿しますけど。・・・・それに」
 
 
「それに?」
 
 
「そんなに長く皆さんを拘束できませんしね」道理であった。
 
 
「社長のことはどの程度公開しますか」皆、ある程度勘づいてはいるが、本人の了承というものが必要になる。これ以上に人間が入ってくるとなれば・・・・同じ場所で仕事するとなれば・・・曖昧な事象だが、それを事務的紋切りに問う藤原ルカ。
 
可愛らしい顔をして、言葉遣いも丁寧であるし、気の使いようも細やかであるが、忘れてはならないことがある・・・・・・それは、伊吹マヤが危険な人間であるということだ。
得体の知れない・・・・どこぞの組織の人間なのだろうが・・・・詳しい検索はむろん、封じられている。ただ、仕事が終わり次第、能力使い捨て、消されてしまうようなことはない。その保証はなされている。皆が納得する形式で、その必要もないことを。
 
 
 
「社員さんが怪しむようならば、”公開”のことまで話してくださって結構です」
 
 
伊吹商事は営業がない。言い方を変えると、生産したものを外部にどのように持ち出すかは社長の独断行動に任される。企業たるもの、儲けなければ話にならんのだが伊吹社長はその必要がないほどに金を持っている。株式を発行して金銭を集める必要はない。
ここの設備は先行投資とはいえ、金がかかっている。みかけはぼろいが機能は超一級品。
秋葉森のあちこちを巡って金にあかせて買ってきたに違いない。制作機材というのは高い。百万千万では済まない額になる。はっきりいって、億!。雑貨屋や弁当屋でコーヒーや煙草や弁当を買い出しに涼しい顔で行って来たりするが、それはこの反動ではなかろうか。
 
 
まったく、どこから資金が出ているのか・・・・・
個人資産にしても相当な額だ。それを儲けを生むでもない芸術じみた・・・または匠レベルの電詞工芸品の作成に惜しげもなく捨てるとは・・・・・
 
やることなすこと、怪しさ大爆発で秘密結社めいてるくせに、「無料公開」だと・・・
 
 
 
「それじゃ、江戸川職安にいってきますから。三時半には戻りますからよろしく」
悪い夢でも見ているんじゃないか、と六人の社員は伊吹マヤ社長が出かけたあと、ふっと考えて互いの顔をみたりするのだった。百山田サブロウをのぞいては。
 
 
 

 
 
 
「ウム、青葉君も苦労したのう」
 
「え、はい・・・・そりゃあもう」
超苦労したっスよー、とかなんとかもうちょい己の筆舌に尽くしがたいこれまでの苦労を語りたかったのだが、こうも見事に一言で完結されてしまうと言いようがない。
あまりぐちぐち言うようだとこの年寄りのことだ。女々しいやつだとか怒りだし、ホームから凍結した線路にケリ落とされかねない。葛城一尉のことは及び聞いている。
 
 
それに、現在の状況も苦労していないというわけではないのだ。
というより、現在もスナフキーこと青葉シゲルの受難は続いている。
のんびり休暇をおくっていた北欧一行に苦労の知らせを運んできたようなものだ。
 
 
いきなり副司令に呼び出しをくらったと思ったら「何も言わずに北欧に向かってくれたまえ」と来た。断れるはずもなく急いで北欧に飛んでみたら寒い。死ぬほど寒い。とりあえず現地連絡員には途中の街で下ろしてもらい、ちょっと身支度を整えようとカードで軍資金を下ろそうと思ったら・・・「がびーん!」・・・カードが何故か使えない。ただのカードではない。ネルフのカードだ。そんな馬鹿なと思いつつ現地連絡員のところに戻ってみると怖い顔。確認するからカードを見せろなどと言い出す。「チョーやべえかも・・」悪い予感がしつつ渡すとチエッカーで調べられる。結果は反応なし。磁気切れなどという安いカードではない。なんと検索結果は「良くできた偽造品」とのこと・・・・・・・・
 
三秒ほど顔を見合わせ、ハハハハハ・・・・乾いたトシちゃん笑いでムーンウォーク。
 
速攻でダッシュ!!コンマ遅れたらあやうく撃ち殺されるところだった。土地カンのあろうはずもない街を逃げ回る。おだやか系特務機関員である青葉くんは荒事は苦手なのだ。「なんでこんなことになるんだ・・・・」北欧が大嫌いになりそうなところで逃げ込んだ挙げ句、場末のロックバンドに助けられた。音楽は国境を越える・・・・・・のはいいが、なにせ金がない。ギターケースの中身以外、売れそうなものは全て売って金をつくる。
 
に加えて、まともな交通機関は網が張ってありそうで怖いのでヒッチハイク。おかげさまでかなり遅くなった。芸は身を助けるというが、本当だ。街の教会でフランダースの犬のような有様をさらさずにすんだ。「ここでくたばったら副司令に祟りにいってやる・・・」駅の待合所でフィシュバーガーを頬張っているとようやく思いついた。それにしてもハードボイルドってのは自分でやってみると貧乏なだけで全然カッコ悪いな・・・・
「命があったらまた会おう!腹筋鍛えて待っていな!」・・・・そのようなことではなく。
 
 
「ネルフ本部に連絡をとってみりゃいいんじゃないか?!」緊急時のマニュアルにも確かそんなことが書いてあるはずだ。始めからそうしていれば良かったのだ。追われていた時はのんきにそんなことをすればたちまちとっ捕まって今頃尋問室行きだったろう。
飛行機代はないが、さすがに守秘機能付きの携帯は持っている。ぴぽぴぽ・・・・・
 
 
しかし、本部に電話が繋がらない・・・・・・・・・・・そんなバカな・・・・・・・
 
 
絶望の淵を覗きながらももう一回・・・・・・・・・・やはり繋がらない・・・・・・
 
 
なにかの悪い冗談だ・・・・・番号を確認しながらもう一回・・・・・
 
 
「おかけになった番号は現在、使われておりません」なぜか日本語オペレータの返声。
「青葉シゲルだ!!認識番号はっ・・・・・・・!」慌てて怒鳴り返すが。
 
 
 
ぶつっ・・・・・・・・切られた。
 
 
 
同時に背後に殺気を感じる。裏路地の入り口にたつ灰色のコートの二人組。
コートの内側に黒い手袋を差し込む。まるで映画のようだな・・・・・フィルムが遅回しになって逃げだす男を追跡者が情け容赦なく、正確に撃つ・・・・・・こんなシーン。
北欧の空に舞う灰色の天使たちが哀れな罠にかかった男を見下ろす・・・・
 
 
 
ぶちっ・・・・・・・・・切れた
 
 
 
うおーっ!こんなお約束な展開で死んでたまるか
ちきしょうこんな出張なんかオレはオレはオレは!
休日出勤残業もしてるんだ、なのになんでこんな寒いところでハンバーガーくってなきゃならないんだ
 
 
 
のは、青葉シゲルの神経だった。北欧の天に逆巻くロンゲ怒髪天。いきなり最後の財産であるギターケースを振り上げて灰色コートの二人組に叫声をあげて襲いかかる!!
まさかの相手の行動に二人組はギョッとして逃げだそうとする。が、黒い翼をもつ悪魔のような青葉君の追撃にあっさり追いつかれ、凶悪ギターケース攻撃にボコボコにされる。
 
 
 
実は・・・・・この二人組は地元警察の刑事で、ネルフのオペレータとしての青葉シゲルとは全然関係ない。たまたまこの近くで薬の販売が行われるという情報を得てやって来てみれば露骨に怪しいロンゲ男が携帯で連絡をとっているので声をかけようとしたのだ。
 
 
 
これで青葉君は立派な犯罪者。@(::)〜
追いつめられてみると人間はあまり社会に適応できない。
 
 
幸いというか、冷静な判断が出来ない状態なので財布にも拳銃にも手を出さず、さっさとその場から姿をくらます。当人もこのことはあまりよく覚えていない。
だが、やられた方はしっかり覚えているわけで、青葉シゲルの旅行きは苦労の度合いをいや増してくれることとなった。モンタージュも作成されたようだが、かなり凶悪なツラ構えに描かれていた。
 
ここから先の話を省こう。あまりに彼が可哀相である・・・。
 
 
 
とにもかくにも青葉シゲルの持ってきた土産は「不利不吉のてんこもり」
ネルフ本部への連絡がつかない、というほぼ確定的な事実。
向こうからの連絡もない、ということは本部でかなりの厄介ごとが持ち上がっているのか、例えば、使徒の本部侵入・・・・・・それとも・・・・・
 
 
「俺たちが大がかりな罠にはめられている、という可能性もあります」
ここはネルフ本部が統轄する武装要塞都市・第三新東京市ではない。
策謀を巡らすには格好の舞台だったのかも知れない。
ここは欧州。陰険な権謀術策策謀の本場である。ゼーレに委員会に各国政府に国連。
そしてギルを含む十二議定機関(プロトクル・エンジン)。
 
 
しかし、こっちの持参したカードを使用不可にする技術力というのは・・・・
加持リョウジは推理するが、材料が不足しすぎている。たかが一諜報員の捉えうる事象ではない。結局は最低最悪の局面を仮定して「地下十キロ隔離レベル危険物」を「同行」させた冬月副司令の判断を遂行するほかはない。細かい匙加減、駆け引きがきかない局面になった場合、人の本音が出る。
 
 
 
青葉シゲルが現れた日の晩、彼から事情を聞き、今後の行動について話し合った。
「となると、どうするかね、加持君。冬月先生からなんか聞いておるのか」
「連絡がとぎれる直前の通信では副司令には学者貴族(ザビタン)に向かうよう言われていましたがね」
「ざびたん?・・・・修道僧みたいな名前じゃの」
「オランダにあるメルキオール単体のみのコピー・マギです。機能もそれに準じます」
「電気頭脳のことは儂にはわからんよ。で、その、ざびたんとやらに向かうかね」
「この不透明な情勢を抜けてまで行く価値は既にありませんよ。貴重なファースト・チルドレンを連れてまで、ね」
「そうさな。・・・・帰国の算段をつけるか、加持君よ。こちらから連絡がつかんなら向こうでも探しておろうが、どうにもこうにもイヤな予感がする。ここで待つ手もあるが、対応が遅すぎる。当てになりそうもないぞ。帰り道くらい造らんとのう」
「その前に仕事が一つ、残っているんですよ」
「ほお。ただし、綾波のお嬢にあまり無道なことをやらす気でおるなら・・・・・」
「そんな事態にならないことを祈ってますが、どうも実家がホトケ寺のせいか、聞き入れてもらえそうにないですよ。まあ、”そこ”も神様の恵みに見放されていますが」
「君は信心深いのか。意外だのう」
「安全であることは保障します。いかなる組織も手が出せない、という意味で」
「巴里に潜伏するなんぞと言わんでくれよ。あの複雑怪奇さには年寄りはついてけん」
「”そこ”に比べれば現代の魔都、巴里でさえ週刊誌の怪談レベルですよ」
「行きたくはないが、やむをえん、といったところか。宮仕えはつらいのう」
「歴史が違いますからねえ・・・・・やりにくいですよ。・・・・言葉もね」
「?・・・・思わせぶりなことを言いおって。つまり、難しい土地柄なわけじゃな」
「そうです、とても厄介な・・・・世界で最も古く、そして新しい言葉を用いる地」
「どこなんじゃ、それは。オッペケペ国か。これは帰ったら冬月先生には一言、”意見”してやらにゃいけんのう・・・・儂らは、ぽっぺん先生じゃないんじゃからして」
 
 
 
 
「ユダロン」
 
 
 
 
「・・・・・ふーむ。どこにあるんかの、そりゃ」
 
 
「ス・・・スイスです」
 
 
「では、スイスに向かって列車でごー、といくか、の」
年寄りになると、悪気はないのだが、ちょっとは驚けよ、と思うところで平然として
話を進めたりする。盛り上がりを理解しようとしない。そんな必要もなかろうが、かかかと一笑して終わりだ。加持リョウジも普段、碇ゲンドウや冬月副司令相手の謎めいた会話に慣れすぎたきらいもあって、少々照れるほかない。いやー、一本とられました。
 
 
「それで・・・・・金銭のことですが」
カードが使えない、とあれば資金というほどのお金は動かせない。外国にあって金がないというのはただ不安、では済まない危機感がボディプレスしてくる。実質的にやばい。
列車でごー、はいいが、どれくらい金があるのか。最悪、青葉君は置き去りか・・・・
 
 
「ん?金か。心配にはおよばんぞ。一応、三年は遊んでくらせる額を宝石で携帯しとるし。こっちにも昔の預金があるしのう。お嬢の帽子の飾りものも飛行機代には十分すぎるほどじゃからの。ま、人間が動く分には不自由させんよ」 

 
 
 
そんなわけで、北欧闇雪姫一行はフィンランド・モラン医師宅に別れをつげ、南下。
小型飛行機を借りて、オランダ・ザビタンに向かうぞー、と見せかけて途中で不時着。
森の中を十五キロほど歩く。そして、いったん街へ入る。
念のため、本部への連絡とカード効力の有無をもう一度だけ確認するが、やはり不通にして無効。いきなり飛ばされた挙げ句にクビか。青葉シゲルはしくしくと泣き・・・・はしない。そんなヒマはなかった。なにしろ、国境付近で購入した大型バイクのサイドカーに、綾波レイを乗せている(180キロ超過でも無表情、急にスピンかかってもこわくない)のだから、まさにナイトの栄誉。高速山道道路を山の神々に顔しかめられながら疾走する。野散須カンタロー(ゴーグル付き飛行帽)夫妻もやはりサイドカー。油断してたら青葉君を追い抜かすスピードでびゅんびゅん飛ばす。これで事故られた日には存在意義すら消滅し魂までも救われない加持リョウジとしては、襲撃者よりそちらのほうが恐ろしい。
 
「か、葛城よりタチが悪いぞ、こりゃ・・・・」ぼんつびわるいど。
 
 
出立第一日目の宿は、トラック運転手やイケイケな感じのライダーたちが大勢たむろする876番元ユーロターミナル。サービスエリアだ。のんびりした自然の中からいきなりのノイズィーに濃い雑踏に。それでも得体の知れない高速東洋人サイドカーコンビは目立つ。駐車エリアにのりつけた五分後にはすでに人の輪。葛城ミサトがいればさぞかしハマったであろう。太い腕に入れ墨を施したパワフリャな人々に取り囲まれる・・・。
「限定解除しといて良かったのか悪かったのか・・・・」きつい煙草の匂いと体臭に悩まされながらも、こんなところにもいる意外な金髪美女に目のいく青葉シゲル。
 
 
 
「・・・・・・・・」この山夜にこだまする黒鉄で陽気なスモーキー・ワルプスギスの宴を階下に聞きながら綾波レイは床につく。おやすみなさい、と陶器の人形が語りかけ。
あの無機質で寂しい、幽霊マンモス団地の自室がふっと目にうかんだ。
ネルフ本部・・・・零号機のケージ・・・・・総司令官執務室・・・・・・
ちょっと首をうごかすと、枕からほのかに森の香りが舞う。
 
 
 
自分の・・・・・なすべきこと
 
これから、やらねばならぬこと・・・・・・この、紅い瞳でみつめること
 
 
 
 
「ユダロン・・・・」深い、深い、底なしの深淵のこと。
裏切者の名を冠する、全ての虚偽を呑み込む真実の大口。大海を飲み干す絶望の乾門。
おおよそ、まともな人間の近づける場所ではない。お前の言葉を喪失させるもの。
唯一人でそれと相対せねばならない。ユダロン、その正体をきいたとき、軽蔑を感じた。
失うものはなにもない。恐れるものも、なにもない。白紙の神性ゆえに。
ザビタンを操作する程度のことであれば、なにほどのことでもない。
赤木博士に「ことづけられて」いる。
味方は、トランクの中。今は眠っている。こんなに遠ければ、零号機も自分を見ない。
 
 
 
身体は眠りを欲しているのだが・・・・・
木材のかもしだすほうほうとした闇の中に紅い瞳が冴え冴えと。
天井を寝たまま見上げる。階下で楽しげに騒ぐ声が遠い。
気温が低い。ヒーターが作動して窓には分厚い手織のカーテン。
残してしまったホットミルクも冷えてしまった。薬を数粒。
肩にかけてもらったカーディガンをそのまま、背中にしいてあたたかな。
 
 
 
声・・・・、こだまする。自分の裡に。
「綾波さんが泣いているんじゃないかって・・・・・・」碇、シンジ。
あれは確かヴィオラを弾いたときのこと。どういうことか、彼はそういった。
 
 
 
なにかに導かれるように、体が動いた。ベッドから起きて荷物を開く。
自然に取りだしたのは・・・・・携帯電話。その感触に動きが止まる。
これでどこかにかけようと・・・・・したのだろうか。誰かの声を。
 
 
「く・・・・・」知らず、かるく唇をかむ。もう一人の自分が笑ったような気がした。
とても、自分のとる行動とは思えない。
「こんなこと・・・・なかったのに・・・」
誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたい・・・・・誰かにあることを聞きたい・・・
ふわらっとした、この感じ・・・・自分の身に起きたことを。不安と、安らぎ。
 
 
もしかすると、しあわせ慣れしていない綾波レイは、こんな状況で、こんな程度のことでそれを感じているのかもしれない。この先に待つ、凄惨な裏仕事に、自らに幸せの糧を与えておこうと心が思ったのかもしれない。つながりを感じることを、許した。
ほんのつかのまの、ゆきすぎて、ありうべからざる、夢だとしても。
 
 
ネルフ本部に繋がらない、ということはおそらく、ほかのところにも繋がるまい。
確認のための作為的な間違い電話や時報や天気予想などサービス系電話には繋がるのだが。本部に何か問題があるのか。綾波レイは逆にそのことに安心しきって、あるところに電話をかけた。ままごとのように。ぴ、ぽ、ぱ・・・・・ぴ、ぽ
 
 
 
とるるるるるるる・・・・・・、とるるるるる・・・・・
 
 
 
声をききたい、という欲求はもう、きえていた。電話をかける行為、そのものをまねしてみたかったのだ。透明な一方通行でもよかった。誰も聞いてくれなくとも。
 
 
 
とるるるるるるる・・・・・・、とるるるるる・・・・・
 
 
 
とるるるるるるる・・・・・・、とるるるるる・・・・・
 
 
 
白い頬がわずかに上気していた。ファースト・チルドレンが。たかが電話口で。
自分でやってみようと思った行為こそ、胸を高鳴らせる。
自分の領域を、一歩、越えてみる。・・・・そんな演技をしてみよう・・・
 
 
とるるるるるるる・・・・・・・、とるるる、かんっ!
 
 
だから、まさか実際に通じるとは思っていなかった。ここも妨害をかけられているはず
 
 
「はい、葛城です」
 
 
「・・・・・・・・」
 
 
さらに思ってもみなかった相手が出た。沖縄に行っているはずの弐号機パイロット。
惣流アスカ。声がでない。慣れないことをしてしまっただけに、自分でかけておいて相手の出方を待つほかなかった。
「・・・・・・・・・」
 
 
 
「・・・・・・・・・」
ところが、相手の反応も問いかけもなし。普段の態度から察すると、「はあ?アンタ誰よ。ホラ、所属と氏名、さっさと名乗りなさいよ。こっちもヒマじゃないんだからね。イタ電のつもりなら逆探知かけてるからあとでブチ殺しにいくからね!!」くらいのことはすぐさま言ってきそうな惣流アスカが無反応。間違いでした、とか、早々に切ってしまうなりのことは・・・・綾波レイにはできなかった。
 
 
 
「・・・・・・・・」
沈黙のまま、相手も電話を切ってくれない。何か、待っているような・・・
 
 
練習をしようとしたら、今日から本番だ、と言われたような場違いな後悔。
たしかに、電話初心者の綾波レイには荷が重い状況であった。携帯が、ズシリ重い。
 
 
 
「・・・・・・・・何かいいなさいよ」
 
 
 
真にごもっともだが、惣流アスカはどうも相手を特定しているようだ。思いこみに。
自分に対してじゃないことくらいは分かる。この声色から、確定できる。
どうも、まずいときに電話がかかってしまったようだ。ますます対応に困る。
 
 
「・・・・・・・・」
 
 
 
「ふん・・・・・何もいえないの、卑怯者・・・・。じゃ、こっちがいってやるわよ。
 
この・・・・
大人の言いなりの腰抜け野郎ォ!自分の意志ってモンがアンタにはないわけ?!命令されて与えられたらもうそこで終わりになるの?
顔もみたくない!!もー帰ってくるな!!
 
 
ガチャンッ
 
 
切られた。向こうの電話の安否が心配・・・・。にしても穏やかではない。
痴話喧嘩・・・・・なのだろうか。惣流アスカと・・・・野郎というからには男だろう。そんなもんを他人に、綾波レイに聞かれてしまうとは、まさに惣流アスカ一生の不覚。
 
 
だが、折角、第三新東京市と連絡がとれたのにも関わらず現在の状況を伝えられなかった綾波レイにも同じ事がいえる。判断力の低下だ・・・・・言い訳のしようのない不断に、腰から力がぬけて、へたってしまう。惣流アスカからぶつけられた念のすごさもあるが。
一体何が起きているのか・・・・あまり期待できそうもないが、確認だけはしておかなければならない。もう一度、通じるかどうか・・・・・ぴ、ぽ、ぱ・・・
 
 
ダメだ。今度は通じない。途中で強い雑音に弾かれる、断線状態になった。
ひとしきり、その他の電話番号も試してみる・・・・赤木博士の自宅、鈴原トウジ、相田ケンスケ、洞木ヒカリ、山岸マユミ・・・・そらでおぼえているものを。
 
 
先のは・・・・たまたま何かの都合で妨害を突破できたのか、それとも自分がかけてみた後で慌てて妨害を再開したのか。にしても、連絡がとれたところで惣流アスカの怒声を受けただけ、というのはあまりにお粗末な対応だった。使徒との戦闘で躊躇すれば死ぬ。
実験でこんな愚鈍なことでは事故を発生させている。局面が閉ざされる。
 
 
 
碇君になにか、あった・・・・・?
 
 
 
こんなことを考えているばあいではないのだけれど。 もう、帰ってくるな・・・・
一体、どういうことなのだろうか・・・・ヒロシマに帰った?・・・・
 
 
ユイおかあさんのところへ・・・・?碇司令が許す・・・・・だろうか。
 
 
たわむれのお芝居が、鬼神のような葛城家の家庭の事情を呼び込んでしまった。
知るべきではなかった。強い波紋が湖面に発生して波立たせる・・・・・心が乱れる。
連鎖してつぎつぎに水の蝶のように浮かび上がる様々な想い・・・・・
ここは、うまいことそれを封じてくれる、冷たく堅牢な採集石箱の家ではない。
 
 
安物のヒーターは弱いくらいだが、ほてりを感じる。思考に熱は必要なし。熱源は。
それを自分で抱きしめて、赤い瞳は蠍の星のように輝いていた。