その日の第三新東京市は朝から深い霧に包まれた。
 
深い、深い霧。腕を延ばして自分の指先が霞むくらいの霧。
箱根の山におわす巨大な妖怪が悪戯したような、作為的な霧。
なにごとかをなにものかの目からくらますためのような。突発的な濃霧・・・
 
そのために、第三新東京市、その真の名を使徒迎撃武装要塞都市という世界でも指折りに好戦的な都市は本日は強制的に「休日」となった。学校も会社も休みである。
それは、恐るべきことにこの都市の中枢である特務機関ネルフでも同じだった。
ただ、ネルフのそれは、赤丸の旗日「祝日」、と呼ばれたことが異なるが。
こんな日に使徒が来たらどうするのであろうか。
 
休日と祝日がどう違うかと言うと、その日にかける準備と意気込みが天と地ほどに違う。
ネルフの一番偉い人と二番目に偉い人が決めたそれは、下の者に休ませるどころか、逆にただでさえ忙しいところにさらなる仕事を与えた。与えた、というのは違うかも知れない。下の人間が自分で「準備」しているのだから。エヴァを整備する人間にはふだんより気合いの入った整備をしたし、警備畑の人間には完全完璧の都市の警備を至上命題として行動し、戦闘オペレータにさえ濃霧発生による地上道路の予想される混乱と事故防止の誘導というお仕事で配置につき、食堂のおばちゃんにさえ新たな豪華メニューを2,3,考えてきたくらいで、前日の仕込みは夜遅くまでかかった。
 
正式には告知されていないものの、こういうことはすぐに本部内に広まる。
いったいぜんたい、誰が来るのか。実務効率一辺倒のシャレっ気の欠片もない碇総司令に
ここまでやらせるとは・・・・
 
特務機関ネルフには目隠しをされながら、ではあるが一応、視察の名目で偉い人が週にいっぺんくらいはくる。それも、新聞でしかお目にかかれないようなVIP。そう言う人が来ない週の方が珍しいくらいだが、いちいち準備などしない。総司令の考えなのか、本部内で暗殺されても事故があってもそちらの責任、といわんばかりの放任で本部スタッフが応接接待仕事にまわされることもない。偉い人慣れしているというか、使徒来襲の中、そんな余裕などなかった。だいたい、使徒迎撃の最後の切り札、サードチルドレンがやって来る日も出迎えを二人よこしただけで、やっぱし日常業務をやっていたような組織である。
よけーな予算はなるべく使わないのをモットーにした質実剛健なのである。
今、やっているのも特に金がかかっているわけではない。ただ単に気合いの問題だ。
通常の仕事に磨きを加えて。敬意と興味が四六くらいで混じり合った・・・・それでいて
何より「見栄」をはらなくてもよい、それを必要としない、よいであろう相手。
マザーテレサを迎えるような心境、といったら分かりやすいだろうか。
 
本部の人間のほとんどが初見でありながら、どこかそんな感じのしない、その面影を既に知っている、と思わせる不思議な人物・・・・
 
知っていてもある程度、なるほどとうなづくのかもしれない、その人物の家族は、
二人も、彼らの目の前で、舞台は違えど何回も大立ち回りを演じてきたのだから。
虫食い算のように、埋まっている箇所から考える、その答え。
 
人間は、人間というこの複雑なものを処理する機能があまりに脆弱だけれど、そんな大まかな計算式から答えを導いてしまえる、天才的な機能もある。
古人はそれを、「ご縁」のひとことで表現しきってしまった。
 
 
碇ユイ(Yui Ikari)
 
 
ネルフ総司令碇ゲンドウの妻、そして、サードチルドレン・エヴァ初号機専属操縦者碇シンジの母親。その他、さまざまな肩書きを持っているが、この二つだけで十分すぎる。
ただ者ではなかろうな、ということは。
 
 

 

 

 
 
 
「やっぱ、ただ者じゃないんでしょうね・・・・」
「総司令の奥さん、それにシンジの母親となれば・・・・推して知るべしってやつよ」
新箱根駅の駐車場で車に乗ったままの葛城ミサトと惣流アスカが、霧に完全に消え失せる駅の方を見ながら。「万者、億者って感じかしら・・・・・」怪しげな創作言語を。
近くまで来ておきながら会えなかった謎の人。山道をぬけた霧の町・・・・そう、霧だ。
「それにしても、すげー霧・・・・雨女ってのは聞いたことがあるけど」
ここまで碇シンジを送ってきたけれど、特別専用お召し列車が待つ構内に入れるのは碇親子と冬月副司令(なぜか必死こいた顔をしていた)だけ。
もし、綾波レイがいれば・・・どうだったであろうか。
ほかに列車も客も入ってこないのはそこはネルフの権力だった。駅の周囲もがっちり警備が囲んでいる。この霧に紛れて襲撃があるかもしれないが、朝の空気はあくまで穏やか。殺意のある人間でもこの中ではそんなことは出来はしない・・・・べつに警備主任じゃないからそんなのんきに考える。
 
 
ずいぶん、急な話だった。
 
 
いきなりシンジ君の母親、ユイさんが来るって言われてもなー・・・・
無意識に、葛城ミサトの唇が煙草を求めるように形づくる。
よくドラマとかで田舎からつきあってる相手の親が上京(べつに名古屋でも沖縄でもいいけどさ)してくるというシュチュエーションはあるけど、そっからドタバタ劇が始まるのはお約束で。こういう場合は・・・・「母ゲンドウ」みたいなのを想像してしまう。
 
おそらく、このあとシンジ君は親子三人(月いらず)で移動するのだろうから、送りの自分たちは必要ないんだろうけど。その後の予定を碇司令らからも、シンジ君からも・・・なにも知らされていないことに、内心忸怩たるものがあった。碇親子が舞い上がっているのは昨日の様子を見れば分かる。よほど嬉しいんだろう。昨日だけで碇シンジは惣流アスカから120回はマザコン呼ばわりされたが、いっこうに懲りた様子がない。踊り始めて疾風ワルツに流星タンゴ。挙げ句の果てには怒り始める惣流アスカだが、なんのために怒ったのかさえ分かってない様子。家族と会えることに喜べなくなったら人間おしまいである。だから、そのことについて怒ったわけじゃないのだが。うーむ・・・
これを今日も本部のリツコあたりが知れば、冷笑されるだろうか。
家族との記憶において封印された過去をもつ惣流アスカの苛立ちは葛城ミサトのような傷を持たないと分からない。それを素直に祝福できない自分に対しても、また。
 
 
元来、もう少し頭を働かせるべきなのだ。
ただ単に旦那と息子の顔を見にやってきたわけでもない。
他者を完全に排除するまさに、「結界」からわざわざ現れた真意。
この時期に、なんの前触れもなく。事態が急激に動いている証拠か。
碇ユイ。ネルフとその上位組織が稼働させる実験計画群の頂点に立つ人物のひとり。
ある意味、ネルフ総司令碇ゲンドウ匹敵する実権力をもつ高位の人間。女教皇。
エヴァの誕生と存在に強い影響を与えた科学者。加持に聞いて多少は勉強したのだ。
ネルフの組織に大幅な改変を加えるため、と考えるのが妥当ね、と赤木リツコ博士の意見。
それらのことを考えれば、のんきに保護者面しているひまはない。
 
ああ・・・そう、
ドタバタ劇が、はじまってしまえばいい。そんな思い悩むヒマがないほどの。
 
 
だが、そんなことを考えてると、こんこんとウインドがノックされる。
 
 
「二人とも、来てください」
霧に、こればかりは霞むこともない、嬉しそうな碇シンジの顔があった。
嬉しそうに見える、碇シンジの顔があった。だって、嬉しいにちがいないから。
「シンジ君?どしたの・・・一体」
 
「母さんに会ってください」
ドアを開けて、葛城ミサトの手をとる。「ちょ、ちょっとシンジ君・・・・」
「これは・・・ちゃーんす!」惣流アスカはさっさと座席から跳ね起きた。
惣流アスカ的に、このぼけぼけシンジの生みの母には言うてやりたいことが山ほどあったのだ。
 
「せっかくだから、親子水入らずで・・・・・・」
保護者として、いかにもたこにもな返答をする自分をたいしたもんだ、と。
「父さんも副司令を連れてるからおあいこだから大丈夫ですよ。そろそろ列車が来ます!
そういえば、アスカと初めてあったのも・・・」
「そ・いえば、ここだったっけ」
どうもアンタと会ったばかりに、予定の進路からずれちゃったような気がするんだけど。
こいつと出会ったのは、おそらく、”不幸”の範疇に入る、と思う。
ただそれは安穏とした”不幸”。焦りまくりの”幸福”じゃない。分かるかなア。
 
「もし、もう一回、ふたりともさらで、初めて会うとしたらアスカはどうする?」
 
何を映画の伏線みたいなことを・・・・と、つっこんでやろうかと思ったがやめた。
こいつにそんな洒落た真似ができるわけがない。に、してもなんか意味ありげな。
このやたらに深い霧は、どうにも人を素直にさせる効用もあるようだ。
腰に手をあて、胸をつきだすようにして、眉をひそめて惣流アスカ。
「アンタがサードチルドレン?ほんとうに?冴えない顔してるわねえ・・・ってこんなところかしらね〜」そう言って霧の中でけらけら笑った。
 
「ふーん、なるほど・・・・いや、でも、僕も向こうも忘れてはいないんだから、初めて会うってわけじゃないんだ・・・・だから、ちょっと違うな・・・・」
ある意味、貴重だったかもしれない惣流アスカのセリフをあんまし深く聞いていないふうの碇シンジ。なにかの参考にはしているようだが。
 
「ところでシンジ。さっきも聞こうと思ったんだけどアンタなんでリュックなんか背負ってんの?」
「母さんへのプレゼントだよ」
「ふーん・・・・ま、花束ってのも芸がないかもね」
「急ごう!あんまり時間がないんだ」
ぐいっと惣流アスカの手をにぎる碇シンジ。霧の中、駆け出す。
「急げばいいのは、アンタでしょうが」
といいつつ同じ速度でダッシュする。「ミサト!おいてくわよ」
「くぅー、仕方がないわねー・・・・」駆け出す葛城ミサト。バタバタと。
碇シンジが何を急ぐのか、いまひとつ理解できずに。人、それをドタバタという。
 
箱根駅構内。ネルフ貸し切りのため、入場に切符もきらない。
 
そこで、すれ違った。ゆったりとした白衣の女性・・・
 
「あ、母さん!こっちの人がミサトさん。こっちがアスカ、じゃ、行ってきます!!」
「「母さん!?」」
急ブレーキしてドリフトしてハモる葛城ミサトと惣流アスカ。
碇シンジは止まらずに、さっさと走って停車中の列車に乗り込んだ。入れ替わりだ。
 
降りたばかりのその女性は「いってらっしゃい」と右手を軽く振った。
その隣に碇ゲンドウ、その五六歩離れて冬月副司令。
こころなしか、あっけにとられているような珍しい表情。
 
特別列車はよほどダイヤの都合が悪かったのかなんなのか何かに急かされるかのように、汽笛の鳴り響く(もともとないが)ひまもなく、余韻を味わうひまもなく、碇シンジを収納するとさっさと逆進行、下り方面へ走り去っていった。
 
「いつも、息子がお世話になっております」にこっと微笑んでその女性は。
なんのてらいもない、のびやかな感謝の言葉をのべた。それだけで葛城ミサトや惣流アスカの胸の中にある、牡蠣殻のような鬱屈したものがさらさらときれいに超音波のように砕かれた。使徒だろうがなんだろうが一歩もひかぬネルフが誇る女傑ふたりが気圧されている。ただ者でないのは予想済みだったにもかかわらず。その理由は
 
この人がシンジ君のお母さん・・・・・・・・・・・・?
 
顔が若い・・・・どんなインチキな手を使ったとしても、これは二十代だ。
碇シンジが今14で、十六で結婚したとしてもちょうど三十。リツコとおないどしだ。
絶対に碇司令の奥さんじゃない、これは。少なくとも自分より年下に見える・・・・
うっ、葛城ミサトは不意をつかれた感じで立ちつくした。完全に予想を外された。
 
それを立て直すため、カウンターステアをいれるようにビシッと敬礼。
余計なことはいう必要はない。この場での余計な口は命取り。万感の思いを込めているよーに敬礼しとけばいいのだ。キリッとしたまなざしで観察を続行する葛城ミサト。
 
何より白衣の下は「プラグスーツ」・・・・またはそれによく似た首から下を防護する白いなめらかな特殊実験着。大人用のプラグスーツなんてものがあれば、それはこれを指すに違いない。フィットした体型のラインはとても十四才一児の母とはとても。
デルモ並に節制しているらしい若さを保った自分の妻に碇司令などうれしくてたまらんだろう。ヒロシマで若返りの薬でも研究してたのだろうか
そういえばその十四才の息子シンジ君はいったいどちらへ??
 
葛城ミサトのようなこしゃくな処世術を身につけてない惣流アスカなど何か言おうと言葉を探したが、出てこない。言いたいことが山ほどあったはずなのに。
「あ・・・・・」惣流アスカの言葉が止まる。
そして、片腕。白衣の左袖が揺れている。隻腕。それは一瞬、”近しい何か”を閃光のように連想させた。近しい何か。強い印象を刻んだ近しい,何か・・・
その連想源を発掘しきるまえに碇シンジの背中が浮かぶ。あいつどこ行ったわけ??!
 
その二人の内心をみすかしたように、碇ユイの唇が微笑みの形に。
 
(あーあ、わずか十秒ほどの息子との再会とはねえ・・・・とほほほ。せっかく来たのに、レイちゃんはいないし・・・見事なまでに都市の思考子午線はめちゃくちゃに乱されてるし・・・・知らずにやったとはいえ、レンタロウさんが知れば泣くわね・・・しかし、これはレイちゃん本人じゃないとどうにもなんないな・・・・人はひとりで生きていちゃいけないし、ほんとうの愛を知らないといけない花で落ちない女はいないさ・・・・・と。シンジ、早めに連れて帰ってくるのよ・・・・その間、せいぜいゲンドウさんの記憶くらいは呼び覚ましておきましょうか・・・・この間予想されるここぞとばかりの使徒の連続来襲も撃退しないとけないし・・・・きびしい展開ですこと)
 
短すぎの息子との再会時間にもめげずに碇ユイが頭の中でこれからの予定をたてる。
丼勘定のユイ、と異名をとっただけあって、現地に着いてもかなりおおざっぱだ。
 
途端。
地震が来た。一瞬でおさまる。まるで、都市がのーん、と頭をさげたような奇妙な、揺れ。
他の者は不意の揺れにズズズと足を滑らせたが、碇ユイひとりだけが地に立ったまま。
「ひさびさの夏・・・・・都市という風鈴の響かせる生命の声・・・・あみだくじのような人の絆・・・・もなかの皿ですくわれる人の魂・・・・鉄の涙と油の血の味のする道路、嗚咽をこらえた記憶を抱く街路樹・・・」
 
「正式には”まだ”だけど、とりあえず来ましたよ・・・・戻って」
そして懐かしげに深呼吸する。霧が運ぶ武装要塞都市・第三新東京市の匂いを。
そして碇ゲンドウと視線を意味ありげにかわす。そして、視線は霧に隠れる都市の姿を。
「これでごまかせた・・・かしらねえ・・・・・この都市にあの子の不在を」
 
 
朝から深い霧に包まれた日、碇ユイ、来都。
 
 
この三時間後、「使徒来襲」の報がネルフ本部を駆け抜ける。