「ただいま」
「ただいま」
 
惣流アスカ、碇シンジの帰宅。昼帰り。葛城ミサトは玄関で待っていた。
 
「おかえり」と。
 
久々の三人。昼下がりの空気に、肩の、身体の力が抜けていく。ああ、家に帰ってきた。
葛城ミサトと惣流アスカと碇シンジ。家に、帰ってきた。
 
だけど、もし三人のうちの誰かがこの場にいなかったら、そう思えただろうか?
惣流アスカのその疑念が弛緩しかける身体に冷たく鞭打つ。
ホームドラマを演じる前に確認しておくことがある。あいつはまだ家族なのか。
そんなことはここに来る前に聞いておけばよいのだが・・・
 
「なんでアンタがここに帰ってくんのよ。自分の家があるくせに・・・ファーストとは仲の良いお隣さんってわけだ」
 
これは再確認。答えはたぶん分かっている・・・・けれど、どこか意表を外れている。
 
「そうもいかないよ。思い出したんだ」
 
「何を?」
「家事当番表、アスカの全敗だったのに、よく考えたら全然何もしてもらってないもの。
アスカの手料理を食べたら僕は引っ越すよ」
 
「なっ!?」
 
「それまでは、ここにいるから。いいですよね、ミサトさん」
「もちのろんよ。少なくともここにいる間、わたしのレパートリーを全部覚えてもらわなきゃね、アスカ」
 
・・・いや、なんつーか、そういう方面じゃなくって・・・人の弱点属性を突くのは卑怯者のすることかもしんないっていうか、もう少しアレっていうか・・・・・
まあ、らしいといえばらしいかな。ウチらしい。惣流アスカは胸をはった。
 
「手料理なんてちょろいもんだけど、アタシの手料理を食べようなんて百年早いのよ!!」
 
「アスカの料理のレパートリーには百十四才になっても食べられるものがあるみたいね」
「ミサトうるさい。シンジ、ひさしぶりにアンタの冷やし中華が食べたい」
「じゃ、僕はここにいていいんだね」
「アンタ、ばかあ?出前だとぬるくなっちゃうじゃないの・・・あんな遠くから」
「冷やし中華となればペンペンも洞木さんところに迎えにいかないとね。大好物だし」
「車出します?ミサトさん。その帰りにじゃ、材料を買ってこようかな」
「ヒカリのとこなら一緒にいくわ。でもちょっと一休みさせてよ・・・・二人ともタフねえ・・・アイス食べよ」
帰ったばかりだというのに、各自の段取りでゴタゴタと動き始めた葛城家。
しばらく動かなかった歯車が錆びつきもせず回り出す。葛城ミサトが考える。
 
成長を願い、一度は手放すことも考えもしたけれど・・・・
人間、そのうち嫌でも一人きりになる。これは絶対のこと。
ただ先送りにしただけのことかもしれないが、その先の未来こそわからぬ。
一回か、二回くらいは、この子達の誕生日を一緒の屋根の下で祝ってあげたい。
保護者として。古風な言い方で言えば、元服に立ち会いたい。その姿を見たい。
海の底でギリギリ圧死しそこねて得た本音である。
自分の心臓をぶっ叩けばそんな音がする。
 
使徒を迎撃するエヴァのパイロットで、いわば世界に冠たる至宝の才能で、とかなんとかそういうことはどうでもよい。遠慮せずに愛している。うーむ、この二人、加持君より好きかもしんない。
 
で、そういうわけでこれからも葛城家はつづいていく。
 
だが・・
 
惣流アスカがますます料理「なんか」やらなくなったのはいうまでもない・・・。
 
 

 
ネルフ本部 赤木実験室
 
葛城ミサト、赤木リツコ博士の久方ぶりの対面。いろいろと話すことが多い。
 
「それで、南海実験諸島の方はどうだったの?」
「ああ、あれ?ガセだったわ。大ガセ小ガセで日が沈むってとこよ。それよか使徒が来てたのに悪かったわね」
「対外的には使徒の本部侵入はなかったことになってるんだけどね・・・・それでサードチルドレンも見つからずよくクビにならなかったこと」
「まぁねぇん。降格も食らわずに実はわたしも不思議に思ってるところ」
「そう・・・」
「それで、なんかマギがバージョンアップしたんだって?新しい(ニュー)マギでニュニギになったとか」
「不都合な部分を除去していくつか新しい機能を加えただけよ。ちょっと大掛かりな掃除のようなもの。これで本来の機能が発揮できるというだけ・・・マギはマギよ」
「日向君に言わせると生まれ変わったくらいに違うらしいけど・・・いっそ新式を名乗らせてもらえばいいのに」
「やりたいことは全てやらせてもらったから・・・・後のことはどうでもいいわ」
「ふうん・・・・・」
 
互いに腹に隠し事があるわりには空気が軽い。
互いに互いを「変わったわねえ・・・・」などと見ていた。
 
東方賢者。南の島に釣りにいっていたら、友人はいつのまにかそんなものになっていた。
絶対につっこまれる第三類適格者の一件についても沈黙を守ってくれている。
ご承知の上なのは顔見れば分かる。グエンジャ・タチ。あの子が本物であることを。自分の「失敗」を。陸にあげるべきでないあの少年を見逃したことを。絶対に責めたはずだ。そもそも名前を黙って借りたことさえも。
 
南方軍将。南の島から戻ってきた友人はいつのまにかそんなものになっていた。はりまお。
得体の知れない、どこか華やかな死を思わす雰囲気を身につけている。原始的な生命力を感じさせる。早い話が、問答無用で仕返しされるかもしれない、ということだ。
今回、碇シンジ君にやってもらったミッション、エヴァ初号機頭部内へのマギ全データの高速転送は、一応テストデータはあったものの、なにせ急なことで安全に万全を期したとは言い難い状況で行った。秘密を守るため葛城ミサトにも断りなく。なんらかの不具合、事故が起きれば碇シンジ君の精神に重大な悪影響を及ぼしたかもしれない。本人の許可は得てあるがそれが免罪符にならぬことくらいは一番よく知っている。本部に戻り、この件を知って葛城ミサトがどう動くか・・・・・予想はついた。
 
しかし。
互いに互いを攻撃しないので、「こんなはずはないのになあ」と思っているわけだった。
 
 
「シンジ君はまたうちに住むことになったから」
「そう・・・やっぱりそれがいいのかも・・・・知れないわね」
 
「やっぱさびしい?」
「うちに来てもらってたのは、あくまで情報転送の基礎となるイメージ造りのためよ。
機械に記憶をさせる・・・この不合理な作業によく応えてくれて、彼には感謝してるわ」
「人の頭は無尽蔵の記憶貯蔵庫・・・人造人間でもそれは、同じってわけね。でも、これからシンジ君はテストは勉強せずに満点ね。マギが頭の中にいるんじゃ東大のテストでもちょろいっしょ」
「それはないわね。エヴァ初号機に乗ったままでテストは受けられないでしょうから」
 
二人、少しその光景を想像して笑った。
 
「マギという作戦司令部まで組み込んだエヴァ初号機・・・単独でほぼ半永久的に機動可能な発電能力・・・・そしてATフィールド。ネルフ本部に鎮座在している理由がこれでまた一つなくなったわね。シンジ君、彼の気が変われば・・・・自分一人で生きていく気になったとしたら・・・人類から自立されたら・・・なんか、怖いわね」
「それくらいでないと、使徒には対抗できないのよ。多分ね」
 
 

 
 
「ぜ、零号機、初号機、弐号機の三機揃い踏みのテストも久しぶりだわね〜」
「そうだね」
「・・・・・・」
白、青、赤の三色だんご三兄弟ではない、綾波レイ、碇シンジ、惣流アスカ。
プラグスーツ姿が並んで実験棟をゆく。はっきりいってぎこちなかった。
 
原因は海外から戻ってきた綾波レイにある。
お世辞にもおしゃべりであるとか愛想がよいとか明るいとかいう人柄ではないのだが、海外より戻ってきてより無愛想がひどかった。休暇であるはずの北欧旅行が極秘任務に取って代わられたことに腹を立てている・・・わけでもない。理由は例のオランダでの美術館放火事件、あれのせいだった。あのおかげで全世界に顔が知れ渡り、ネルフ本部がその超法規特権で保護しているからいいようなものの、とても外なんぞまともに歩けたものではない。元々自宅や職場が地下にある野散須夫妻や青葉シゲルはまだいいが、諜報部である加持リョウジも変装は本職で裏の世界で活動するからまだよいが、綾波レイは完全に学校にも行けないし、静かで居心地の良いあの幽霊団地にも帰れなくなった。帰国以来、本部暮らしを余儀なくされている。野散須家で厄介になっているようだが。外に出られない、というのは相当なストレスだろう。自分だったらくたばるかも、と惣流アスカは思う。
あれは偽物の仕業である、とネルフ職員は知っている。その後のニュースで本物はスイス銀行に何者かが保管していたことが判明したが、それで知れた顔を忘れてくれるわけではない。学校に出てこないので鈴原トウジたちも相当心配していたが、そのことを伝えると綾波レイはこう言った。「もう学校にはいかないわ」、と。冷徹、といってよい表情で。
単純な登校拒否ではない。綾波レイが行かない、と判断したらもう行かないのだ。
葛城ミサトとて、この状況下で「学校へ行け」などと間抜けに命令できたものではない。
いかなネルフの権力をもってしても、いったん世界に散らばった情報を回収することはできはしない。覆水、盆にかえらず。
 
綾波レイはもう二度と学校にくることはない。
 
学校にいかなくても別に死にはしない。エヴァ零号機に乗れさえすれば。
 
その冷徹な表情はそんな言葉を隠しているようでいて。
問題ない。そんな言葉さえ、凍りつかせていた。
 
体調不良を理由にエヴァ零号機のシンクロテストを辞退していた。
そのようなことは初めてだった。彼女がこのネルフ本部にやって来てより。
それも数回。診察では異常なし。まるでエヴァに乗ることを避けているようだった。
同じパイロットである碇シンジ、惣流アスカ、をも意図的に避けていた。
会話も必要最低限を下回った。頷くか、首を振るかくらいしか応答はない。
よそよそしいというも白々しい。もともと愛想のいい方ではなかったけれど。
欧州での任務はそれほどまでに苛烈だったのか。その赤い瞳の中に敵意すら感じる。
惣流アスカと碇シンジが聞いたところによると、相当な目にあってきたようだ。
だけれど、使徒との戦闘を経験してきた綾波レイがそこまで追いつめられるとは。
冬月副司令以外誰も知らないが、実は碇ゲンドウでさえ避けられていた。かつて一度だけ見た瞳の色で見られたことに「レイ・・・・?」僅かながら戸惑いがあった。
深紅の中に救いを求める瞳の色。初めて会った時に見せた色。妻ユイの力を借りて、碇ゲンドウは自分の能力に怯える少女を救いあげた。それ以来、いかなる苦境にも見たことのない瞳の色。ユダロン起動の後遺症か・・その時はそう思い、早速、そちら方面六分儀方向で迅速迅雷で手を打ち始めた。困ったことにそれは早とちりであった。異常を悟ったなら悟ったで直接、本人の口から悩みを聞けばよいのだが、碇ゲンドウ、そういうことのできない不器用系人物であった。幸運なことに、そういうことをサクッとフォローできる器用系人物、冬月副司令がその場にいたので、綾波レイの心中の一欠片くらいは手にできた。
 
「ユイ・・・おかあさんには会えないんですか」
 
砂のようにこぼれた言葉にネルフの首脳も一瞬、あっけにとられた。
言った本人もあまりの自分の心の崩れよう、実現不可能な夢想を口にしてしまったことに驚いたようだ。会える、はずがない。会えるはずのないひとをもとめるほどに。
 
「私たちもそれを願ってはいるのだが・・・・」
碇ゲンドウは返答もできず、またも冬月副司令が答えた。
それが可能なのは、許されるのは今や彼女の息子、碇シンジ唯一人。
この時点でよく考えてみるべきだったのだが、少女の本心を。目を離すべきではなかった。
取り返しのつかぬ失策。夢想がやはり叶わぬことを知り、心が砕け散る。
それを補完するは使徒の臓器。第十二使徒レリエル。悪夢の爪牙と蒼光の翼。
 
懺悔の許されぬ秘密。使徒との生体共生。己の影が使徒であること。
 
「私・・・・・ここにいてはいけない」
 
特務機関ネルフ。使徒を迎撃するための組織。
人造人間エヴァンゲリオン。使徒を殲滅するための人類最後の決戦兵器。
第三新東京市。使徒を戦うための武装要塞都市。
 
それに対し、自分の存在自体が裏切りになっている。罪の者。
それが使徒の計略であるならば、どれほど楽になるか。
ゆるされるはずもない。その前に願い一つ叶って欲しかったが。もとより。
 
「さよなら・・・」
 
「綾波さん・・・?」その挨拶は碇シンジだけが聞けた。
 
判断は帰国前に下していた。心が決めかねた。迷いがあった。
だけれど、実行する。赤い瞳に宿る支配者級の催眠能力。
それを零号機で数十万倍に拡大増幅する。
精神世界での核爆発。アストラル・コズミック。古代の王が持っていたはずの神の権力。その世界に精通した術者さえなんの抵抗もできぬ圧倒的な力。置きみやげにオランダの美術館事件も消していく。これであの人達は日の下を歩ける。効果範囲を広げた分だけ催眠濃度が薄められたが、これで十分なはず。中心核である第三新東京市には特に念入りに。
能力を解放するゼロ・ポイントは「エヴァ初号機」。これでいい。自分の能力が効きにくい碇司令の息子にもこれをはねのける力はない。ATフィールドも浸透する。
人々の記憶から自分の存在を吹き飛ばし消し去っていく・・・・。白紙に。
絆を、その深紅の瞳で灼き切る。エヴァ初号機の眼が連動して紅く染まる。
その頭脳に内蔵されたマギの機能で己の情報をも消去させる。
 
エヴァ零号機専属操縦者は存在しない。かつて、存在したためしはない・・・。
 
 

 
 
ようやく通常通りの起動実験。惣流アスカが自己記録を更新、ハイスコアを叩き出したこと以外は何も変わらない、普段通りの実験だった。碇シンジの初号機と、惣流アスカの弐号機と。
 
そして。
 
「ふー、テストも終わった終わった、と。それにしても”いつも”思うんだけどさ」
「何?アスカ」
 
 
「エヴァ零号機の適格者、早く見つかんないかしらね。使徒の攻撃が始まってるってのに。こいつだけ使えないってのはもったいなくない?」
「そうだね。誰も使わないのになんでこんなところに置いておくんだろう。倉庫に仕舞っておけばいいのにね」
 
エヴァ零号機を見上げながらのなにげない二人の会話。そして、そのまま行ってしまう。
 
使徒に憑かれた身を憂い、己を己で封印してしまった綾波レイ。
それはそれで使徒の来襲を防いでいるといえなくもないのだが。
 
 
そして、新たな使徒が街に出没する。
 
 
 
 
 
          七ツ目玉エヴァンゲリオン
 
 
      第十七話「ネルフ、売ります」