し ん じ な け れ ば 
 
よ か っ た
 
 
怒っているわけではない、と自分では思う。言わなければ良かった、とは思わない。
ただ、安易に信用したのは失敗だと思い知った。二度とこんな失敗は犯さない。
 
 
しんじなければよかった
 
 
そもそも、根拠などなかった。あったのは、盲目的な思いこみ。自分の弱さが露呈した。
静かに思う。ここまできて綾波レイは悲しんでいるわけでも怒っているわけでもない。
真昼の三日月のような、諦観のみがある。
自暴自棄にもならず、一人でやることをさらに増やした。重荷。その白くか細い肩が誰にも聞こえぬ軋みをあげる。誰もその重荷を分けて背負ってくれないから。
 
 
「嘘つき」だと碇シンジに言われた。
 
 
ネルフの第2支部が消えたこと。
事故や妨害工作などではありえないこと。なぜなら、その中心零地点には「未来が視える」実験管理用のエヴァ四号機と渚カヲルがおり、その可能性が僅かでもあるなら実験は中止されたはず。第2支部の「消失」は、渚カヲルの意思であること。・・・少なくとも、それを回避・阻止する気はなかったであろうこと。消えることを自ら認めたはずであること。
また、消失は現在葛城ミサトをはじめとするネルフの本部が血眼になって原因究明と渚カヲルと支部の人間の行方探しを行っているが、全くの手がかりなし。人間の行ったことであれば人間に探せぬはずはないが、そうでないのなら・・・・大地から気に入らぬ意に染まぬ街を遊びのように切り取って、何もなかったかのようにしてしまう神の力、もしくはそれに似通った力・・・・”本人たち”がその気にならぬ限り、”奇跡が起ころうと”発見されることはない。使徒の力。
それが使徒の力で行われたこと。そのやり口は初号機の件と非常に似ていること。
レリエル・・・・渚カヲルに「あの薬」を与えた使徒。洗礼の夢を見たこと。
消失事件は、この世界に一線を引くできごと。あの日から全てが変わる。もしかしたら
 
 
自分たちはもう、負けたのかも知れない
 
 
四号機とフィフスチルドレンを失い、ことによってそれが敵に寝返ったとなれば、その戦力比はどうなるか・・・・百の使徒を失えば、天は沈黙するだろうか。いや・・・
全く違った可能性もないではない・・・たとえば、四号機の目にも映らない超絶の能力をもった使徒に赤子のように支部ごと呑み込まれた・・・・という可能性も、ある。
それはそれで恐るべき事態ではある。けれど・・・・そう、ではない。
 
その使徒は・・・・写真にある、白銀の姿をしていること。
その中には赤い瞳の少年がいること。第2支部とともに消えたわけではないこと。
今後、なんらかの動きをとるであろうこと。ことによれば、第三新東京市に降臨する可能性も十分にある。使徒が様々な形態をしているのは、その与えられた使命が異なるためで、戦闘タイプのみならず、こういった・・・・「諜報籠絡」タイプのものもおり、残念ながら渚カヲルはそれに・・・・使徒の側に引き込まれてしまったようだ・・・
ことによれば、自分がそうなっていたのかもしれない。けれど、四号機と渚カヲルの能力を目の当たりにして考えを変えたのか、スカウト、ヘッドハンティングするなら強い者優れた者の方がいいだろう、そう考えれば納得はいく・・・・初号機と弐号機にも強い影響を・・・つまりはその専属操縦者に・・・与える人材でもある。
ほんとうに残念だけれど
 
 
淡々と事実をのべていった。第2支部消失のことも知らなかった碇シンジには衝撃であっただろう。それが怒濤のラッシュで。顔色も変えずに完璧機械のように淡々と攻める綾波レイにコーナーまで追い込まれて。
 
 
あげくのはてに「渚カヲルは使徒になっただろう」である。
 
 
そこに、ぐわん、とノックダウン必至の天上天下ジェットアッパーカットをくらわしたようなものである。情け容赦ない。
ただ、碇シンジは泣きもせず泣かされもせず、瞳に夜雲の色をためつつ、反論もしない。
綾波レイとしてはここでさんざん反論してきてくれた方が良かった。
碇シンジの心は読めない。言葉にしてくれないと何考えているのか分からない。
もしや、心がないのではないか、と、とんでもないことを考えてしまうくらいに。
「綾波さんの方が、なんだか使徒みたいだ・・・・」程度のことは言ってくると思った。
ただ、事実の重みにおののいているだけなのか。現実感が追いつかないのか。
碇司令ならいかなることだろうと即答即決する。あなたは、息子なのに。
この程度なのか・・・・・鉾も、エヴァもない、裸のあなたは・・・・・
あなたの考えを聞きたい。のんびり疑問を感じている時間もない。
綾波レイには、焦りがある。なぜなら・・・・
 
 
”あの”渚カヲルが引き込まれたのだ。
彼よりさらにチョロいであろう、碇シンジが引き込まれない保証がどこにある?
自分がレリエルだとしたら、次のターゲットは碇シンジに絞る。ロックオンだ。
渚カヲルが目の前に現れて、誘いをかけたらホイホイついていきそうだ・・・・・
 
 
あの「鉾」がその証拠だ。渚カヲルから碇シンジに贈られた世界最大最高値にして最強の
友情の記念品。去ろうと消えようとあれがある限り、がっちりとがんじがらめだ。
そりゃあ、一億回の友情を誓い合うより効果があるだろう。あんなものを贈られたら、そりゃあ大地が海にのまれ消え果てる日が来たとしても、味方であり続けるだろう。
基本的に物を贈られるのが当然と思っている女と男とでは、その重みが違う。
女の場合は嬉しいー、で済んで適当な時間が過ぎれば脳内からその事実は消去されるが、男はそうはいかない。嬉ぴいー、ですまないのだ。・・・・綾波レイもべつに碇シンジの常識を信用していないわけではないし、軽薄な奴だと思っているわけではないのだ。
時に持続性というものがスイッチ限界を越えて”永遠”入ったりする。君が望めば。
そういう奇妙な機構が男性の中に入っているのを綾波レイは目撃したことがある。
 
 
覚悟が要る。あの鉾を零鳳と初凰の二刀流で叩き斬るくらいの覚悟が。
そして、それは予感でもある。
 
あの鉾の正式名称が「ゼルエルの鉾」であることを綾波レイが知ったとき、
すべてのからくりが見えてくるのだが、その時は既に遅い。過去と未来が現在を奪いあえば未来が勝つに決まっている。過去は必ず放逐されるはめになるのだ。
 
 
綾波レイも、自分と渚カヲルを碇シンジ的目盛り調整した天秤にのせれば、どちらにかたむくか、くらいは見当がついている。葛城ミサトや惣流アスカにはもちろん負けるだろうし、洞木ヒカリ、山岸マユミあたりになるとちょっと微妙で、日向マコトや青葉シゲルには完勝する自信はあるが、伊吹マヤには僅差で破れるだろう。赤木博士にも敵わない。
 
 
自分はどのくらい碇シンジに信用されているのか・・・・・
 
 
そういう自分がそもそもこんな事を言うのが無謀なのだ。
逆ギレ起こす予想もしていた。もしかしたら、手をあげられることも覚悟の上。
 
 
けれど・・・・・彼が、碇君が、エヴァ初号機が敵に、使徒になったら?・・・・・
 
 
怖いとか、恐ろしい、とか湧き出す感情はない。自分の中の何かが砂のように崩れてそのまま消えてしまうような、やるせない、喪失感を、覚える。想っただけで。
終わった、と思ってしまう。戦力比を考えれば、そうなるわけだ。
 
渚カヲルの駆るエヴァ四号機と碇シンジの駆るエヴァ初号機のドリーム・タッグ。
 
BI砲ならぬKS砲?別に綾波レイは古き良きプロレスファンではないから、そんなこと考えて胸がときめいたりはしないが、ひたすら戦慄する。誰か二人を止められる?
往年の名作「プラレス三四郎」的にいえば、リキオーと柔王丸のタッグといえる。これまた日向マコトから貸してもらって読んでいるわけでもない綾波レイには分からない。
じゃあ、桜姫は惣流アスカで、ラ・ジョロナが綾波レイになるのだろう、いう話もむろん、分からないわけである。早い話が「負けるはずのない主人公タッグ」というわけだ。
敵にまわるほうが噛ませ犬じゃあるまいし、いい面の皮である。要するに・・・・
宇宙怪獣墓場と光の星が地球に墜落するようなもんでいきなり最終回だろう。
そんなの反則だ。打ち切りだ。
 
・・・・・マギを使って計算したとしても、似たような結果がでることだろう。
 
広い世の中、強い者はなんぼでもおるわい、と言う人もいるだろうが、あの二人は別格だ。
一方はエヴァのカタチをした”神人の降臨”で、一方はエヴァの皮をかぶった”怪獣大襲撃”なのだから。冗談抜きで、エヴァが百体あったとして、コンビを組んで本気出したあの二人にぶつけたら勝てるかどうか・・・・・考えるのがこわい。過去を忘れた現在と未来の果てに、現出するもの、顕現する光景はなにか。
 
 
べつに、なにかしてほしいわけじゃない。
自分の仕事は、自分で背負った荷物は、自分でどうにかする。
手をかしてほしいわけじゃない。ただ、自覚してほしかっただけ。
 
 
ただ、気づいてくれたなら負担が減る。心の壁を強くして。惑わさぬように。
 
 
あなたは、きえないで。
 
 
碇司令の息子で、ユイおかあさんの面影を宿しているあなた。
 
 
どうか、きえることをのぞまないで
 
 
つれていかせない
 
 
碇君には「あの薬」を飲ませない
 
 
このために、自分は戻ってきたのかもしれない。これも使徒との戦いならば。
誰にもできることじゃない。誰にも頼れない。誰も知らない。
思えば、この身体も使徒に侵食されているわけだ。もはや、使徒に敵対することと、ひとを守ることでしか、自分が使徒ではないことを証明できない。
第2支部と渚カヲルが消えた日に、すでに勝負は決していたのかも知れない。
敵陣深くに潜り込んだスパイに一番重要な領域を奪われて。
口移しの 「あの赤い薬」 唇。
 
 
 
「シトニナール」
 
 
 
とラベルの貼られたあの深紅の錠剤・・・・・。レリエルの、それが使命だったのだ。
敵、エヴァを排除するにこれほど利口で賢い手段もあるまい。使徒は単なる自律思考する戦闘生物機械兵器などではなかった、というわけだ。もっと、洒落の効いた存在だ。
あれは、「コア」。使徒の生命、議定心臓と使徒の言う、使命の入った物体。
レリエルそのもの、といっていい。いまさら自分の顔と同じだなど、どうでもよい。
それが実行される、任務が完遂するのはレリエルにとってはごく自然なことであり、歓喜でさえあったろう、ためらうことなど何一つなかろう・・・。
使徒は、そのためにうまれたものだから。なのに、あの時夢にみたレリエルは・・・二人は・・・・記憶を探る
 

 
レリエルが珍しく真剣な、そして、初めてみる心配げな憂い顔をしながら何か問うた。
うなずく渚カヲル。穏やかだけれど、強い意志がある。それも初めてみる。
 

 
ような感じであった。夢のことだが、はっきりと目に、心に記憶に焼き付いている。
忘れるものか。忘れようにもわすれられるわけはない。自分と同じ顔で・・・・・
うう・・・・・わずかに顔をゆがめる綾波レイ。悔しくない、微塵も悔しくなどない。
 
 
とにかく、あのレリエルが一瞬でも、「心配げ」な「憂い」顔など浮かべる必要がどこにある?目標を手に入れた余裕の慈悲心の表れか?あの時、渚カヲルが首を横に振れば、投与を止めたとでも?・・・・・・そんなことはあるまい。
 
 
碇シンジがあの白い空間に連れて行かれて閉じこめられて、自分と同じ顔のレリエルが、深紅の錠剤を・・・・飲ませる・・・・・口移しで・・・・・
 
 
そういう光景を、”起きるかもしれぬ未来の光景”を幻視する綾波レイ。
もしくは、その役は渚カヲルだったり・・・・・・・・・・だったり・・・・・・
幻魔大戦が勃発しオーラを纏ったサイオニクス戦士・発進しそうになる綾波レイ。
それは確かに、宇宙人の基地のように怪しげな手術台にのせられて麻酔もかけられずに体内に埋め込まれるよりはいいですよ、それは・・確かに。自分の顔もごめんだが渚カヲルもかんべんしてほしいところだ。じゃあ、惣流アスカや葛城ミサトならいいのか・・・・
そういう問題ではないことに気づいた。気づくべくして。五十六秒ほどかかって。
 
 
問題なのは、碇シンジを使徒にしてはいけない、ということだ。
 
思ってもみない命題が降りかかってきた。出来ることなら、能力が無限にあるのなら、渚カヲルも取り戻すが・・・姿を消しているので望みは薄い。どこか人知れぬ天の境界地点で完全使徒化の卵繭作業でも行っているのかも知れない。探せるものでもない。
現れる時は、もう・・・・・
 
 
大事なのは、消えてしまった渚カヲルではなく、今ここにいる碇君・・・・・
みかけは幻想妖精非現実っぽい綾波レイであるが、その実とても実際的実用的現実的である。非情な決断も必要とあれば下し、果断な実行力もある。それをもってして・・・・
 
碇シンジも、守ってやらねばならない・・・・自分の身くらい、自分で守ってほしかったけれど。ほんとうのところをいうと、碇君・・・・
 
 
それで・・・・・
 
 
「綾波さんの嘘つき」
 
 
である。しかも男のくせに卑怯なことに、それを一言だけいってさっさとロッカールームから逃げてしまったのである。小学生か幼稚園児じゃあるまいし。男の風上にもおけない。
後ろから追っかけて襟首つかまえてもう一度最初から説明してやろうか、とちらっとでも思わなかった綾波レイはすでに菩薩、観音の境地にいるといっていい。
信じるものだけ救うせこい神様と違って、しんじない者まで救ってくださるのである。
 
だが、ここで踏みとどまってヒステリックに反論するのが男らしい、というわけでもないので男は難しい。こういう時、どうすればいいのか?「とりあえず謝る・・・・43%、」「仮病、急病を装う・・・27%、」「よし、今度あったらきつく言っておこう・・・と開き直り威張る・・・・16%」「実はオレもそうなんだ、と笑う・・・・10%、」「はっきり嘘をつくな、と相手にしない・・・4%」・・・・これは国営放送電話で無作為調査した「恋人から、あなたの友人は宇宙人だと言われた場合、どう反応しますか」の2015年版のデータであるが、まあ、男が示しにくい状況であることはわかる。
これを碇シンジと綾波レイの今回のケースにあてはめてみると、綾波レイと碇シンジは恋人同士ではないので、これは「友情を取るか宇宙を取るか」、という話になる。
さわらぬ電波にたたりなし、と逃げてしまっても非難はされないわけだ。
しかも、綾波レイがこのことを他の者に話すわけもないし立ち聞きする者もいない。
それを見越していたわけでもなかろうが、碇シンジはこの一件をまさか他の人間から問いつめられるなどと思ってもみなかった。
 
 
ただ、碇シンジがどういうつもりで綾波レイを「嘘つき」呼ばわりなどしたのか・・・・
それは、誰にも分からない。
 
 
確かなのは、綾波レイが碇シンジを信じなくなった、ということである。
「五面なさい」からだんだんと近づきつつあった二人が、これを機に遠ざかりはじめる。
潮がひくように。砂浜にあったつなぎとめていない小舟が沖に流されるように。
目立たない、なくなってもしばらく誰もきづかないような、古びたありふれた小船の上は、もう無人。さきほどまで子供が二人、乗っていた。信用とはこういうものだ。
片方が乗ってさえいれば、いつか見つけることもあろうが。
 
 
嘘がつければ幸せだけれど。綾波レイにとって、碇シンジは嘘のつけない相手だった。
もしくは、嘘をついてはいけない相手、その必要もない相手だった。すでに過去形。
 
碇シンジにとっては、自分は嘘をつく、嘘がつける人間らしい。そのようだ。
彼の心には、自分の姿がそのように映っていた。真剣な自分がそのように。
どこまで信じてくれたのか、それも分からない。第2支部が消えたことさえ彼にとっては聞きたくない悪い夢の話だったかもしれない。それなら、それでいい。
彼はこの都市の、第三新東京市の守護者。他のことに気を取られることは命取りかもしれない。”変化しない現在”という強固な鎧をいつまでも身に纏っているといい。それが彼の強さの源なら、それも正義だろう。過去は所詮、人の心の中にしかない幻像。
だから、信用という幻像はこの胸の中に深く閉じこめておこう。誰に知られることなく。
 
 
 
・・・その予定であったのだが、予期せぬ不意打ちをくらってその計画はご破算になった。
 
 
家に戻る気にもなれず、ひとりで窓の外を見ながらぼうっとしていたら、噂話もしていないのに、天下無双のお邪魔兄貴・黒羅羅・明暗が現れて、五秒ほどで口を割ってしまった。
確かに打撃力は優れているが、べつに強制的に吐かされたわけではない。
 
人間が一人で生きていけない、という秘密はこのあたりにあるのかもしれない。どんなに強いハードボイルドで友達いない人間でも、ふと「告げ口」をしたくなる瞬間、というものはある。これを学校の先生などに職員室行ってやると告げ口で、教会などで神様に向かってやると告解や懺悔になって高尚っぽくなるが、やることの本質はさしてかわらない。
本人の諦め度がそれで分かる、というだけの話。
 
 
言ってしまったあとで、「あ、やばいな」などとそれを後悔したら、その諦めは深い。
「あー、せいせいした。明日もまたがんばろっと。てへ」などとすっきりするようなら健康だが、その諦め度は大したことはない。最初から諦めちゃいかん。がんばるんだ。
 
 
真面目かつ、菩薩観音のような忍耐強さスキルを所有する綾波レイさん(中2)の諦観度は深かったので、黒羅羅・明暗にしょうしょうちくろうが、晴れ晴れすることは全くなかった。それどころか、言ってしまった後で明暗の表情の変化を見て己の失敗を悟った。
 
 
「たとえ、天国が過疎化で地獄と合併併合される日が来たとしても、オレたちはお前らの味方だ・・・・・と、いうわけで、お前らの痛みはオレたちの痛みだ・・・・」
古風な血脈の狩猟民族か、大陸の千古の歴史を育んだ先住民族のようなことをいい、
拳に息をふきかける暗。ごごごごごごごごごごごごご・・・・・闘気が渦を巻く。
綾波レイの目には、暗の丹田から湧き出る破壊の権化・黒竜の姿が見えた。
 
「喧嘩両成敗は兄弟の掟・・・・悪く思うな、オレたちも辛い」
その言いぐさの危険性を敏感に感じ取った綾波の血が慌てて防御態勢をとろうとするが、時既に遅し。間に合ったとしてもとても防げた技と力ではなかっただろう。
 
 
碁沈
 
 
独特の音がした。暗の長身から繰り出されたゲンコツは、その威力は脳みそから思考能力とそれに付随する記憶を吹き飛ばした。いろいろ考えていたことがパーになった。もう一度やり直し、それがいやなら外で遊べ!とでもいわんばかりの兄貴的理不尽な一撃。
綾波レイだろうとファーストチルドレンだろうと遠慮がない。こんなところを本部の職員に見つかったら話がややこしくなっただろう。それを恐れる暗でもなかろうが。
 
 
「よし、これでいい・・・・・・次はシンジの奴だ・・・・・あんにゃろ・・・・」
痛みのために涙目になっている美しい赤瞳を強い黒瞳でのぞきあげつつ、吼える!!
 
 
「どこをどーみりゃ、これが嘘つきに見えるんだ?阿福みたいじゃねえか。そうだ、虎をけしかけて濁った目の玉ほじくり出して・・・×××の××××で×××××××・・・・!!」
 
以下、かなり残酷アチョーな表現が続く。コレを聞いて世界の裏舞台・修羅場をくぐり決して気が弱いとはいえない綾波レイが気を失った。さすがに残酷アチョーの本場・中国。
ちなみに、阿福というのは江蘇省無錫の名物泥人形。根性あってやさしい少女の代名詞みたいなもんだが、弟の代わりに虎に引き裂かれて死ぬ、というとんでもない感動エピソードがある。これくらいでないと本場のアチョーの国では名物にならないのだ。
本当にやりかねなかったし、それを聞けば手首に巻いている目玉を模した数珠も・・・もしや加工したモノホン?・・という疑惑すら浮かんできて意識がブラックアウトした。
いろいろまいっているところに、最後の最後にコレであり、すっかりやられてしまった。
フォースに関する魂ふたつ分、というのは嘘じゃあないかも・・・・この精神力・気合いは常人のものじゃない。まさに暗黒の理力。
 
と、止めないと・・・碇君がころされ・・・る・・・・
 
ダイイングメッセージのようなとぎれとぎれの思考が精神の沼の底で手をあげるが・・・・・
 
「あれ?おい、大丈夫か?しまったな・・・・やりすぎたか。そういえば、一号は身体が弱いとか言ってたな・・・明、あと頼むぜ。シンジに説教くれてやる時間帯になったら起こしてくれ」
 
 
「やれやれ・・・」
ため息とともに黒髪が白髪に代わるのを見たような見ないような・・・・・
 
 

 
 
「気がついた?」
完全な二重人格というより、双子がなにかの術を使って入れ替わり立ち替わりしているとしか思えないくらい、穏やかで優しい声。人を導き慣れている声だ。先ほどの「×××」とは天と地の違いがある。同じ声帯から発せられたものとは思えない。やはり、精神か。
 
綾波レイはそんなことを観察しつつも、自分が今どこにいるのか分かってすこし驚く。
隔離施設。何度か碇司令と一緒に来たことがある。使徒が現れて以降は、ない。
その一角に黒羅羅明暗が住んでいる・・・・住環境がこしらえてある。牢屋には違いないのだが・・・床には土が敷き詰められて、あちこちから竹が生えており、蝙蝠や鯰の水槽、なによりすぐそばを子パンダが・・・黒白熊のパンダだ・・・寝ころんでいる。動物園?
赤い丸テーブルに、籐細工の寝椅子・・・そこに寝かされていた・・・・簡単に改造を施したのか、煮炊きもできるようになっている。さすがに洗濯は無理そうだが。
自分ちも独特だが、ここも独特である。・・・・ほんとにネルフ、日本か?空気も気のせいか大陸の香りが・・・・けれど、薄闇に浮かぶネルフの紋章が現在地を保証する。
寝椅子から身をおこす。土の匂いがする。野散須作戦顧問の家に、すこしにている。
「裸足になってもいいですよ。土の王様、チェルノーゼムをベースにした黒羅羅明暗特製ブレンドの土ですから、気持ちいいですよ、ほら」
なるほど、当人は裸足だ。やってみたいような気もするがやめといた。
 
「ちょっと暗いのだけどね。照明はつけてもらわなかったから」
 
昼間でもこれでは、目が・・・それから気も悪くなってなってきそうだが、明暗たちは平気なのだろう。それを好んでいるのかも知れない。自分が人里離れを選んでいるように。
 
「ぬるくしてあります。ゆっくりのんでね」
手渡してくれた青磁のコップには薬草茶が入っている。落ち着く香りだ。
とても「×××の××」の同一人物が煎れたものとは思えない。こく、こく・・・・
飲む前に考えるべきことがあったはずだが、そのまえに口をつけていた。
これは、危険人物のいれた飲料物なのだ。当然、意識すべきことがらを忘れていた。
人のもつ棘付き扉のような警戒心をするりすると回避するすべを身につけているのだろう。目の前まできたとき、すでにケリはついていたのかもしれない。
 
「ほんとうは、こんな奥までじゃなくて仮眠室や休憩室で休んでもらおうと思ったんだけど、どこも職員の方で満杯・・・・・皆さん、お疲れみたいですね。こんな時間まで、通常外の勤務をなさっている・・・仕方がないので、許可を頂いて、こちらにお運びしたんです。ごめんなさい、レイさん、暗が叩いたり驚かしてしまって・・・・」
 
出来の悪いいたずら弟の代わりにあやまる姉のように。けれど、同一人物なのだ。
そう改めて思い返していないと誤魔化される。それほどまでに、自然だった。この二人は。
長年、それで過ごしてきただけのことはある。周囲も慣れてしまうだろう。
 
「あ、あの・・・・さっきのあれは・・・・碇君は・・・・」
にしても、レイさん、などと呼ばれては調子がくるう。イヤ、というわけではないが。
それよりも、碇君の生命と安全をとりあえず確保しておかないと。話の分かりそうな別人のうちに。虎をけしかける、などとさすがに大陸的な発想だけど、やられるほうはたまらない。
 
「だいじょうぶ。そんなこと私がさせませんよ。約束します」
白眼鏡こしの目がにこにこ笑っている。”当人”が約束するのだ。安心していい・・・
しかし、厄介な対話だ・・・・
 
「でも、”嘘つき”なんて、おだやかじゃあありませんね。相手を信用することがなにより第一なのでしょうに・・・ね」
 
人間として。エヴァのパイロットとして。どちらのことだろう。どちらもか。
理知的な明、は暗、と違い、好んで厄介ごとを引き受けたりはしない。人質、という一応の名目でここに来ている以上、接触は最低限におさえていた方がいい。遊びに来たわけではないのだから。・・・・・それが、こんなことになっている。どうも、迷っていたり度を超えて不器用だったりする人間は、それが子供だったりすると特に、ほうっておけない。職業病でしょうか・・・明は内心、苦笑する。たまに帰還するとギルチルドレンにも、暗と同じくこんな対応をしてしまったりする。兄貴お姉さんの悩み相談室だ。もしくは。
杯上帝会を再興するために悪辣非道なことを重ねてきたから、そのせめてもの罪滅ぼしなのかもしれない。純粋無垢に世界を救おうとする子供たちに言葉をかけてやりたくなるのは。
本ばかり読んでシンクロテストの成績が伸び悩んでいた・・・・ラヴクロスト・タンタリオン・ユダロン・・・些細な一言ですぐ泣きべそをかくあの子も元気でしょうか・・・・
 
嘘つき、なんてありふれた悪口で夜中まで立ち尽くす、というのも周りから見れば、滑稽かつ心配なものなんですよ、レイさん。虎をけしかけようとする暗もそうですけど。
朝の特訓のことを考えると、すこし話を聞いておいたほうがよろしいかもしれませんね。
暗に納得させておかないと。
 
「それにしても、ネルフ本部の方は勤勉な方がそろっていますね。第2支部の消失原因を未だに探っておられる・・・再出現した場合のシュミレートまで行っているのですから・・・・さすがは本部の誇る世界最強のスーパーコンピューター・マギですね」
 
「!」
 
適当に世間話で探っていこうかと思ったら、いきなりヒットした。まあ、色恋沙汰のケンカだとは思っていなかったけど。デートの約束してたのに来てなくて、帰りがけに外車に乗った男とキスしてたところを目撃、二またかけてた事実発覚、とか。ではない。
 
第2支部とエヴァ四号機の消失をサードチルドレンに知らせてない・・・とか。
 
もろに反応したところを見ると・・・・どうも。過保護なのか、考えがあるのか、子供だと思って甘く見てるのか。所詮、他所のやり方に口を挟む気はないが、ある意味当然。まあ、原因不明のまま知らせてもエヴァ搭乗を恐れて拒否、という事態もありうるのだし。
末端のパイロット、ということか。その程度の扱いか・・・・
なんでもかんでも押しつけられる救世主、神の子供ではないわけだ・・・・理性的ですね。
明としては、遠く離れた第2支部のことなど教えぬのは正解だろう、と思う。
神経と気をかき乱されるだけのことだ。知らぬ方がよい。迷いは敗北と死につながる。
第2支部の施設で、あれだけの範囲を綺麗に消失させられるパワーはエヴァの内部にしか存在しない。たとえN2爆弾でもあんな真似はできない。
それを機密を知るファーストチルドレン綾波レイが、つい口を滑らせて、ショックを受けて現実が把握できないサードチルドレンには嘘つき呼ばわり、告げた本人は自分で自分を自己嫌悪、という筋書きができあがる。そんな、口の軽いタイプには見えないのだが。
暗にじっさい告げているのだから、見かけによらない・・・ちょっと、とぼけさんなのかもしれない。トラックに轢かれても象に踏まれても信徒を百人乗せても大丈夫な身体をもつ明だが、さすがに読心能力まではもっていなかった。
 
 
「?・・・・なにを驚いているんですか。もちろん、知ってます。一大事件ですしね、そのおかげで、参号機を勧誘していたあちこちの組織が一斉に手を引いて、すんなりこちらへ来れたんですよ」
情報の統制管制をやるのはそれは上の仕事だろうけれど、それでも情報は走る。必ずスタートの鉄砲は鳴り、千里を走る。いつまでも、隠しておけるものじゃないですよ、と明は慰める。さすがに、それはそれで正解だろう、などと賢しげなことは言わないけれど。
綾波レイには的はずれな慰めであったが、落ち込んでいる・・・顔にも態度にも表れないのだが・・少女にはありがたい言葉だった。
 
「四号機、フィフスチルドレン、渚カヲル君は一時期、ここにいたのでしょう。
彼と・・・碇シンジ君は仲が良かったんですか?同じ男の子同士だし」
「そう・・・・とても」
それが問題なのだ。仲がよい、といえば仲がよくなかった人間を思い浮かべるのが困難なくらいに。いや、そんな人間がいたのだろうか・・・それくらい彼は。人間性に遠く、神性に近かった。彼を嫌えるのは心にどこか魔性がある・・・・それくらい彼は。
 
 
「彼は死んだのでしょうかね」
深く沈み込もうとする綾波レイを呼び止めるように、明。
 
「え・・・・?」
 
「一度、手合わせを願いたかったんですが・・・・」白眼鏡が遠いまざなし。
瞳の奥に黒い洞穴に魔物がいる。赤い瞳をもってしてもその姿は虚としか見えない。
「エヴァも消えていきます・・・」
 
「伍号機、そして四号機が欠番、次は参号機、ということにならないといいのですが」
 
「・・・・・・・」
そんなことはない、と言うべきなのだろう。慰めてくれた礼に。しかし、言葉が出ない。
白く不吉なことをいう黒羅羅の明の言葉は、その顔は「そうなればいい」といっているようでもあり、「あまり時間がない」といっているようでもあり。読みとれない。
「なんのために、使徒と戦うのか・・・・・その戦闘理由は」
 
 
「ひとつ、お願いがあるのです。レイさん」明が改まった。
 
「すでに命令が下されているかもしれませんが、私たちの心を、記憶を読まないで頂けますか。さすがに心術ではあなたに敵いませんから」
 
「・・・・・」そんなお願いがきけるはずもない。命令があればやるし、危険だと判断すらばやる。碇シンジも信用できないのに、ぽっと来の外来者を信用できるわけもない。
綾波レイは赤い瞳で、否、と答えようとした。
 
「その代わり、あなたをサポートする使徒の器官のことは黙っておきましょう。誰にも」
 
「!!」見開かれる赤い瞳。
 
「私たちには分かるんですよ。使徒の存在が、肌と肉でね。パターン青、なんて計測器が鳴り響くわけじゃありませんが。鼓動を感じるんです。体内に蠢動する深紅の臓器。腹を割いてみると驚くでしょうね。食べたんですか?あなたも。使徒の血肉を」
 
「!!・・・」
 
「だんまりですか。私たちにも読心能力があればいいのですが・・・・・爺火華(エホバ)の餅、とかいいましてね、わたしたち子供の時分にそれを呑まされたんです。黒基督・・・建前上は、私たちの先代の教主の・・・有り難い粘液という話だったんですが、その中に混じっていたらしいです。試しに実験を施してみた、といったところでしょうか。ほんとに宗教的怨念がからむと、人間はなんでもやりますね。許してくれないんですよ、こっちが泣いて頼んでも。許すのが宗教だと、神の教えだと思うんですが、矛盾ですね。許していたら人の集団組織としての宗教はたちいかなくなるから。・・・まあ、罰があたったんでしょう、私たちの引き渡しを断固拒否したその教団と教主の黒基督はマルドゥック機関に壊滅させられました。そのマ機関もいまはなし、神様はいるのかもしれません。」
 
「少し、話をはしょりますよ。盗聴器は”故障”してますから、心配はいりませんけど。
マ機関に潰された教団、杯上帝会は、そのシンボルとして聖杯を掲げているわけですが、そのトップ、黒基督は本物の歴史的聖遺物であるところの聖杯を所有して隠していた。
しかし、その確保どころか在処さえ聞き出せずに黒基督は自殺。マ機関の大いなる失敗というわけですが、その当時は考えもしなかったのです。各機関の情報連携の拙さもあったのですが、とにかく、教団は再興させねばならない・・・・大陸は広いですからね、壊滅時に散った幹部もよく捕まえられないので、いっそ、というわけです。そこで白羽の矢がたったのが、私たちです。杯上帝会の面白いところ・・・単なる中華版キリスト教でないところは、陰陽思想が織り込まれていたところでしょうね。数々の王を輩出した洪秀全の太平天国・拝上帝会とも少し違う。教主、つまり地上で一番えらい人間、祭司実務レベルのリーダーを”2名”である、としたところ。教祖は一名がベスト。多数決の評議なんてもってのほか・・・神聖度が薄れるしね、それだけ崇拝度も下がる。誰を崇めればいいのかわからない、なんてのは教団としては欠陥品なシステムなのだけど、杯上帝会はそれを逆手にとって、強烈な求心機構にしていた。黒基督・白基督。これはふたつ揃えて完成、というか真の能力を、救世の力を発揮する、ということになっている。けど、実際には黒基督しかない、白基督しかいない。どの代も片割れしかないのね。これは、教主が真の、救世の能力を発揮しなくても仕方がない、という言い訳の大義名分になるわけ。実務的な、組織内の祭司だけやっていても信徒は怒らないわけです。ふたつ陰陽がそろっていないのだから当たり前、それは片方を発見できない自分たちの努力の足りなさだって。そう、もう一人の基督を見つけるのは信徒の仕事。それはやり甲斐にも繋がるし、そのおかげで会の情報収集能力は凄いことになっている。ダライ・ラマは必ず見つかるけど、双基督はなかなか見つからない。
教団の存続システムとしてはよく出来てるでしょう。それも、黒基督、白基督があんまり無能だと飽きられてしまうけれど、やはり有能でそれなりの能力をもった人間がその座につくから、その心配もなし。それでも、真の救世能力なんて持っていないから、世界を牛耳るような巨大機関の手にかかればひとたまりもない。けど、いったん離れた信徒を再び呼ぶにはそれなりのイベントが必要になる・・・・白と黒、双基督が揃うような、ね。
私たちが黒基督のお気に入りで、秘密の儀式に使われてたのは知られていたし、謎の機関に奪われた、というのも悲劇的なお芝居みたいで、それが戻ってきて教団再興ともなれば・・・・さして難しいことじゃなかった。敵が多いだけで、天の時地の利人の和はこっちにあったしね。マイスター・カウフマンの助力もあった。そして、何より、私たちには異能の力があった・・・・・・」
 
 
長い話であったが、確かにはしょったのであろう。それだけで錆びた血の匂いがする。
 
「教主の座について、その全ての権能を用いてやったことは、この身体を調べること。
正確には、自分たちに施された儀式・・・実験の詳細な事実。戦車に轢かれても平然としている人間がいるわけがない・・・・執念深く調べれば調べるほど、やがて身体の内側から声がするようになったのです。道の・・・・バルディエル・・・と」
 
「道・・・バルディエル・・・」
 
「そう、バルディエル。使徒名鑑に名前が記載されています。
その”特異な行動様式”から考えて、まず間違いはありません。その足跡が私たちの中に息づいているわけですし・・・
レイさん、あなたの使徒の名は聞こえないけど、分かったなら調べてみてもいいですよ。
世界には、似たようなことを考えて、似たようなことをされた子供が他にもいます・・・
 
 
とりあえず、この使徒を倒せば、私たちの旅は終わりになります・・・・
そろそろ、盗聴器の点検に人がこられますね。お話はこれくらいにしておきましょう。
レイさん、くれぐれもよろしくお願いします」
深々、と頭をさげると明は横になって眠ってしまった。早く帰ったほうがよいようだ。
波の上に立っているよう・・・・ふらふらしながら綾波レイは隔離施設を出た。
使徒・・・・・使徒だ・・・・・使徒を宿している・・・・自分と同じ・・・・
この事実を告げるべきか・・・・誰に・・・・・嘘か真実か確かめるか・・・・
処理能力を大幅に超越した情報を叩き込まれて苦悩する綾波レイ。
 
 
使徒とはなんなのか、使徒になるとはどういうことなのか
 
 
マギをもってしても答えることが未だ叶わぬ疑問。ただ、人ではなく、それになるということは人でなくなる、ということだけしか分からない。最前線にいる者の孤独を噛みしめる。無知である、という冷気がうなじを吹きすさぶを感じる。寒い・・・・
次の日、というか、すでに今日、綾波レイは学校を休んだ。
 
 
 
 
だから、その日、自分のクラスで「火事」が起きたことを知るのはかなり遅れた。
 
その原因が惣流アスカにあることなども。