もしも ぼくが きえたら
 
 
なんて
 
 
思っていたよりも早く、ずっと速く、その時がきてしまった。
あの時の言葉は時限式の鍵。友だちが待っている場所への扉が開く。待つへの扉。
 
 
碇シンジは、渚カヲルが消えたこと、正確にいえば消えるだろうことを知っていた。
聞かされていた。そして、どこに現れるか、どこにいけば会えるのか、知っていた。
その場所を探し当てていたし、そのための、特別の道具もあたえられていた。
 
 
世界で唯一人。自分だけが。自分だけに。
そこへ至る道を知っている。
 
 
おそらくは、綾波レイも、惣流アスカも、黒羅羅明暗も、それを求めていた。
葛城ミサト、赤木リツコ博士、鈴原トウジや洞木ヒカリ、友人たちも、
第2支部が一緒に消えたというのなら、それに関係する見も知らないその他多くの人も。
 
 
そこへ至る道を知っている。自分だけが。
だから、自分一人でそこへ行ける。会いたい、と思うならば。
だけれど、そこが、友だちが待つ場所が、どんなところか、知らない。
行ってもどってこれる場所なのかどうかも。ともに、いっしょに、いこう?と誘われたらどうしようか。それくらい、居心地のいい場所だと、全てが解決される場所だとしたら?
碇シンジの友だちは、とても頭が良くてかしこくてやさしい。
居心地の悪い、ひどい場所には誘わないし、ひどい場所にはいてほしくなかった。
願わくば、ぽたぽたとしておやつの用意が万端としてある日だまりで。再会したい。
話したいことはいくらでもある。そこはアルコール抜き少年向けヴァルハラなのか。
 
 
これが「秘密」であることは、さすがの碇シンジにも分かる。
他言すべきではないこと。黙っていなくてはならぬこと。しゃべってはめーなこと。
少年、男同士の菊花の契り(雨月物語より)である。腹を切ったくらいではすまん約束事もあるのである。くたばって魂魄だけになっても果たさねばならない約束がある。
 
 
 
そこんとこを女はわかっちゃいねえ
 
などと、口に出せば最後、ボコボコに(もちろん綾波レイ込み)ぼてくりこかされるのは間違いなく、わざわざ昇天する必要もないのでそれも黙っておく碇シンジである。一応、明暗も明という女性人格が入ってるし。ただし、実行はする。無言実行である。
 
 
 
「王様の耳はロバの耳ーーーーだぞ」
 
と、言ったのは綾波レイから「碇君にうそつきだっていわれた」とちくられて、大いに義侠心ならびに”兄貴心”を刺激されて「そーゆーことを無神経にぬかすシンジの野郎を####(あまりに残酷アチョーな表現のため削除)式にとっちめてやる」ことに決定した黒羅羅明暗である。多少、周辺状況を聞き込みはしたので弟と妹のケンカ仲裁レベルでかんべんしてやることにした明暗は、次の朝、特訓走り込みメニューを変更して「動物園」に碇シンジを連れていった。もちろん、強制である。電車にも乗らず自転車の二人乗りでバイクよりもパトカーよりも速く動物園の前までやってきて、午前9時の開園前の園内に軽々と忍び込んだ。正確には、園内の奥のエリアまで一番警報システムが手薄な職員駐車場から柵を飛び越えて走り込んだのだ・・・「ま、動物は盗まれても人間は盗まれないからな」振り落とされぬように明暗の腰にしがみついている碇シンジの耳にその余裕は届かない。なぜ、二人乗りの自転車が柵を越えるほど宙に浮くのか、考える余裕もない。
マウンテンバイクでもないママチャリが・・・・・なぜ。まあ、ホームセンターで9800円で売られてたりするMTBにも反重力装置などついていないが。
園内に入ると、多少は速度を落とし、動物の糞掃除をするお兄さんやお姉さん、ベンチの拭き掃除などをしているおばちゃん職員のひとに挨拶する明暗。
身元確認されれば一発で割れるような目立つ風貌でここまで堂々とされると疑われない、というのは嘘のようなホントの話だ。
動物を愛する人に他人を疑う悪い人はいないのだろう。いやー、事実は小説より奇、ですね。ただ見をされたら動物の腹が減るわけなのですが。
碇シンジもここまでくれば、もう楽しみ始めている。天気はいいし、動物の匂いはするし、お金は払ってないし、中学生で動物園は微妙なトコロだけど、気分はサイコーになり始めていた。しかし、碇シンジはちょっと考えるべきだった。なんで明暗が動物園などにやって来たのか。これが校舎の裏(→ヤキ入れ)や波が泡立つ岸壁(→保険金目当ての偽装自殺)や怪しい西洋館(→トリック殺人)であったらすぐに目的も分かったろうが。
以上三点はまあ、分からない方がバカ、まんまと行っちゃうのはもー、救いようのない”めだかバカ”という黄金パターン。
 
しかしまさか動物園で自分が昨夜の件について問いつめられるなど夢にも思わない・・・プロレスラーのラッシャー木村は動物図鑑を巡業先にもっていってよく後輩に「一緒に見よう!」と誘うらしいがそういうことでもあるまい・・・・・碇シンジなのであった。
 
「本拠地の天京にも動物園があってなー、そこにはシンジ、お前だけに教えてやるけどな、龍飼ってんだ。龍。本物の四不象もいるしな」
「うーん、なんてヤクルトの自動販売機に”動物のえさ・100えん”が売られているんだろう?」
「微妙に金がないのか?あちらこちらにある古びた観覧車の乗り玉が休憩所として再利用されている・・・それとも、なんかのシャレか?シンジ、どう思うよ」
まさに、悪い遊び教わり中・教え中の兄貴と舎弟の光景である。
 
インド象、メガネカイマン、インドオオコウモリ、ルーセットオオコウモリ、サバンナモンキー、アミメキリン、フクロテナガザル、カナダカワウソ、コクチョウ、モモイロペリカン、インドクジャク、ミーアキャット、ミシシッピーアカミミガメ、ミシシッピーワニ、フクロギツネ、グリーンイグアナ、ハッカン、カンムリヅル、シロトキ、アフリカヘラサギ、マナヅル、アオサギ、ササゴイ、キンクロハジロ、コガモ、オシドリ、マゼランペンギン、ポニー、はぐれメタル、パルマワラビー、カピバラ、チンパンジー、クロミミマーモセット、トウブハコガメ、ワニガメ、カミツキガメ、七面鳥、ホロホロチョウ、エジプトガン、烏骨鶏、ヨーロッパフラミンゴ、ベニイロフラミンゴ、ケズメリクガメ、キンケイ、ハト、フクロウ、オオコノハズク、オオバタン、キバタン、インコ、ニワトリ、ヒツジ、ワライカワセミ、アメリカバク、ジャージーホルスタイン、スライムベス、アメリカバイソン、フサオマキザル、シマリス、レッサーパンダ、ラマ、ヤギ、ニホンシカ、アライグマ、アミニシキヘビ、ライオン、ジェフロイクモザル、フタコブラクダ、グラントシマウマ、ヌートリア、エミュー、ニホンザル、マーラ、ハクビシン、タテガミヤマアラシ、シマスカンク、ハナジロハナグマ、イノシシ、本土タヌキ、ツキノワグマ、アメリカクロクマ、マレーグマ、サーバル、クロジャガー、シマハイエナ、ワオキツネザル、ボンネットモンキー、カニクイザル、シロカンムリマンガベイ、マントヒヒ、ゴルデンマンガベー、ブラウンレムール、ブタオザル、ベンガルトラ、エゾヒグマ、リスザル、アカテタマリン・・・・
 
けっこういろいろな動物が(鳥やは虫類もどさくさまぎれてなんか違うのも)いるものだ。
しかし、朝早くとなれば小うるさい幼稚園児小学生の団体さんもなく、動物たちも寝ている。ヤマアラシなどは寝ていると赤ん坊のようでかなりかわいい。
 
「ウサギが好き・・・・・同じ、赤い目だから・・・・・」こんなにいれば綾波レイもさすがにそのようにさらっとは流せまい。というか、今はいないし強制的に連行されなければ自分の財布で来たりすることはまずなかろう。
 
 
で、ロバのところまでやって来て自転車を止めて碇シンジを下ろして、明暗はそう言った。ロバに向けて、ではなく、碇シンジに。王様の耳はロバの耳、だぞ、と。
お前、なにか腹に一物ためているだろう、とは言わずに。最後にどんでん返しをねらっとりゃせんだろうなあ、しゃまらん、とした顔で。
 
 
「そういえば、昨夜遅くのことなんだが・・・・・・・綾波レイがべそをかいていた」
 
「え・・・」
一瞬にしてワニの大軍が待つ堀に突き落とされたように真っ青になる碇シンジ。
まさに、クロコダイル・シンジィー。
もちろん、心当たりはあるのである。「嘘・・・・・・綾波さんが・・・・」
 
 
「なんか、ひとり廊下に突っ立って窓の外を見ながらな、えぐえぐと、こう」
泣き真似・・・それも異常にうまい・・・・までしてみせる明暗。もちろん嘘である。
さらなる罪悪感・・・マムシ王国に通じる滑り台をヌルッとおりていく心地の碇シンジ。
あまりのちょろさに掌が筆で経文を書かれるようにむずむずしてくる明暗であった。
 
「まあ、何が原因かはわからねえ・・・・ああいう気性だし、オレたちもまあこっちに来て日が浅いわけだしな・・・・・・・・・・よく泣くのか?」
 
綾波レイが伝えたことが真実であることを誰よりよく知っている。それが嘘でないことを。
ただ、どう反応していいか、分からなかった。「綾波さんのいうことなら信じるよ」、と言うのは簡単だけど、では、そのあとどうするか。
 
そう答えた信義上、こっちのことも教えなければならない。
 
真面目人間である綾波レイがどれだけの真剣さと覚悟をもってそんな・・・聞く人間によっては頭がおかしくなった、ととらえても仕方がないほどにぶっ飛んだ内容の話をしたか、どれだけの孤独を噛みしめながらそれを舌にのせたのか、碇シンジにはなぜかよく分かった。鈍いようだが、碇シンジは綾波レイの感情はよく分かるのである。その逆がままならないかわりなのか。透き通った、綺麗な感情だから、分かる。
話を聞いてもらうためでも悩みを肩代わりしてもらうためでも、ない。
(実のところ、そういう点も微量あった・・・綾波レイとて完璧ではない、人間であるのだから・・・弱さもあれば疲れもする・・・・・美化のしすぎかもしれない・・・ゆえに話はこじれるのだが)とどのつまりは
 
 
あの時点で、碇シンジは綾波レイより渚カヲルをとった、ということである。
 
 
同僚と友人、どっちをとるか、というサラリーマン的かなり難しい命題である。
恋愛要素が抹殺されてはいるが、おかげでとても分かりやすくなっております。
こういう問題を真っ向から一喝できるのは明暗のような宗教格闘業界関係者だけだろう。
その明暗が今の碇シンジの眼を見ながら感心し、さらに好きになったのは、その選択時に「どちらが人類のためになるか」などと余計なことは一切微塵も考えなかっただろうこと。
そうだ、お前は裏に染まってしまうな。
 
 
あのまま無言で去ってしまうことも出来たし、賢さからいえばそちらの方が良かった。
けれど、自分がそれをやれば綾波レイに対して壊滅的ダメージを与える、またはそれ以上に魂の冒涜的に極悪行動であることもわきまえていた。無言で手を組んでニヤリと謎めいた笑いなんてしてはいけない。あれは父さんの芸風なんだから。
綾波さんは怒るだろう。軽蔑するかもしれない。逃げた、と。それは真実なのだから。
 
カヲル君は後戻りしない。先に進んでいく。軽やかだけど、とても、急いでいる。
 
その先になにがあるのか、よく分からない。それを見せてくれようとしているのかも。
だから、カヲル君の姿はいずれそのうち、みんなの目に映る。綾波さんは嘘つきじゃない。けど、でも、教えるわけにはいかない。話すわけにはいかない。
 
 
渚カヲルが使徒になる・・・・・・・ということに関して碇シンジはほとんど衝撃を受けていない。驚いてもいない。受け止めるだけである。どんなことが起きても・・・・と前もって教えられていたからだ。渚カヲルが去ってから始めた彷徨の時間・・・・それが海綿のように吸い取ってしまう。防波堤となっている。
そこへ至る道がつけられているから。悲しむことはない。
そのことをもし、惣流アスカあたりが知って責めたなら、碇シンジはまた余計な一言的にこう言い返すだろう。「エヴァのパイロットに選ばれることと、そう違いはしないよ」、と。月の光に浮かび上がる怪物の鱗のような夜の雲、そんな目をして。巨人とシンクロする子供は、やがて巨人の心をもつようになる・・星の感触をも味わえる別天地の人・・通常人には伺いも知れない世界を見て感じて、動く、尋常の感性を持たずに、歩き始める・・・・・葛城ミサトが危惧したこと。あの子たちとわたしたちはいつまで同調できるのか・・・・・世代交代という言葉では収まらない断絶激震が
起こるのではないか。特に、エヴァ初号機は単独で永久に活動できるのだから・・・・
使徒に対する畏怖も恐怖もなく。
 
碇シンジが現時点で考えていることを綾波レイがもし読めたら慄然とするだろう。愕然とするだろう。自分との、自分たちとの距離を。
 
カヲル君は使徒になってから、どうするんだろう?、と。
使徒でなければできないことを、するんだろうなあ、やっぱり。
街を壊することはエヴァに乗ってても出来るんだから。
 
そこで、友だちが終わらないことを、碇シンジは知っている。さらに先にいくことを。
未来というものはたとえ宇宙が終息しようがその存在をやめないことを、知っている。
恐ろしく強い力と光をもって牽引し続ける。綾波レイが敵う相手ではないことを。
 
 
とりあえず、足止めをしとかなくちゃなあ・・・・・・と碇シンジは考えた。
言葉のマキビシである。自分が口を割りさえしなければ、近づかせなければふいっと喋ってしまうこともない、少々頭をひねったところで辿り着ける場所ではない。
自分で望んで使徒になった、ということははっきりいって、全世界的裏切り者である・・・・・そう見られてもしかたがない。
真面目な綾波レイは許さないだろう。裏切り者は友人ではないのだろう。
もう、自分たちは負けたのかも知れない・・・・・とまでいうのだから、その悲しみと怒りのほどは計り知れない。うん、完全に敵視している。それがかちん、ときた腹がたったということもある・・・・・けど、にしたって・・・・もう少しいいようがあったかな・・・・・えぐえぐと、泣くなんて・・・・あの綾波さんが・・・・・確かに、事前に教えられていないと僕だってすごくショックだっただろうし・・・・いや、ショックだよ!ショック、ショッカー、ゲルショッカーだよ。(碇式三段活用)・・・ああ・・・・
 
 
「泣くことが悪い、とはいわねえ、涙は心の掃除、うぬぼれや慢心を洗い流すっていうしな。ただなあ・・・・・ちょいと心配にはなるわけさ」
 
「いや・・・・綾波さんは泣かない・・・・泣くことなんてない・・・」
 
「そうなのか?」
 
「僕が、泣かせたんだ」
あくまで、口を割るつもりはないが、罪悪感は重力百倍千倍一万倍となって碇シンジの肩にのしかかる。うっ、げぷっ。いや、恐竜並の鈍覚に綾波レイの真実ボディーブロウがいまごろ効いてきたのか。しかし、正確には別に綾波レイは泣いとりはせんのである。それは明暗のうそ。
弟や妹のケンカの仲裁で何が大事なのか、明暗はよく知っている。それは利益をめぐっての争いでは全然ないから、反省させてやればそれでいい。同じことをまたやるのだとしても。いい調停役さえいれば、ケンカなんぞいつでもいくらでもしてもいいのだ。
 
 
「そうかあ・・・・なあ、シンジ。やっぱり男は嘘をついちゃあいけねえよなあ。正直ででなくちゃいけねえ・・・特にお前みたいなヤツはな」
ここでグタグタぬかすようであれば、碇シンジが感じた予感の通りワニの堀にでも放り込んで猛省を促すつもりの明暗であった。和を乱すヤツはワニに教えを乞うべきだ。ワニ。
動物や植物に教えられることは数多い。人の知恵はそこから生まれているものが多い。
蝶のように舞い、蜂のように刺し、蟻のように耐え、モハメドのようにカシアスクレバー。
とにかく、ケンカの中身にまで大人が入り込んではいかん。パウンド・フォー・パウンドに楽しむ以外に意味はない。あとはシンジと綾波レイ、子供の、二人の問題だ。
あとは放っておく。
 
 
「疑問が解決したところで・・・・・・せっかく、こんなところまで来たんだ。
シンジ、ちょっと面白いもの見せてやるよ。つきあえ」
 
綾波さんに謝らないと・・・・などと明けぬ闇のように考えていた碇シンジの襟首をひっつかまえて明暗は、ふいっと軽々と持ち上げてお姫様だっこすると、そのまま駆けて・・・・・虎のいるエリアに降り立った。檻のないかわりに客とは掘り下げた塀で隔ててある。
もちろん、そこには虎がうろうろしている・・・わけである。二頭。
 
 
「本場の虎拳を見せてやるよ。虎を相手にすれば、対比がはっきりするだろうからな」
 
もちろん、そんなのは嘘である。虎拳は虎を相手にするための技ではないのである。あくまで人間を相手にするもので、虎を相手にするなら、銃と、距離が必要・・・・近すぎる。
どう猛な肉の塊が目の前をユザユザと動いている感覚・・・・自分たちより遙かに多い筋肉量をもつ生物の存在は圧迫感となって脳に緊急逃亡を発令させる。リンクした心臓がパンプアップする。使徒と戦う折には、エヴァという装甲に包まれてLCLという疑似の血液に浸されている。神経は巨人のそれと繋がれて言語で形容される通常の感情は使用不可になる。
薄い皮膚一枚で、虎の前に立てば・・・・
「わあ・・・」
あまり多くの言葉はでてこない。あまりに突然のことで碇シンジの頭は「本場の虎拳を・・」のあたりでリピートを繰り返しているのかもしれない。「本場の虎拳を・・・」
 
 
人間など食べたことのない虎の方でも、この闖入者にどう対応していいのか迷った。
虎に分かるのは、目の前の生命が「重い」か「軽い」か、だけで、強いか弱いのかなどとは虎の埒の外にある。たぶん、虎の前に相撲取りと小学生を放り込めば、同じ種類の生物とは思ってくれないだろう。重いか、軽いか。
音もなく、降ってきたこの闖入者は鳥のように、軽いものだ。腹は、減っている。
 
 
明暗の虎拳が炸裂した。ぽん。低い、低い、牙も届かぬ一枚の紙・安徽の宣紙になったかのように薄い体勢で、虎の腹の下に入り込むと、そこから身体を半回転させるように、拳は獲物の内臓を穿つ牙、打ち込む。もう一頭。
 
 
虎口に腕を入れた。とんでもない速度のあまり、腕が伸びた、としか思えない。なぜなら、そこから内臓を掴んで口から引きずり出して見せたからだ。それは一瞬のことで、すぐに腹腔に収められたが、ふいの外気の洗礼に耐えきれなかったか、虎は泡を吹いて倒れた。
 
 
「孕んだ雌なら、虎の子を引き出して見せるんだがな・・・・ま、それは相手によるからな」
技の問題ではない、と明暗は言い切った。戦の技を繰り出す時の黒羅羅・明暗は別物。
または、これこそが本性なのか。狩るためでもない、”技のためにある技”。
最上級の紙のように薄く低い体勢も、虎の口に手をつっこむ腕速も。
この世にある究極の一つを拳法の総本山でもないこんな場所で見ることを得た碇シンジ。
こういう世界・・・・もあるのだ、と明暗の横顔は未だ世界を知らぬ子供に教えている。
所詮、この世は弱肉強食の力の世界だが、その中に侵されることなく屹立する人間の造り上げてきた技の世界。自然現象も獣の力も関係ない、純粋なる意志が構築する世界。
鍛え続ける限り、裏切ることも無くなることもないもの。破壊ではなく生み出すもの。
思えば、血筋と才能だけでパイロットやっている碇シンジとは対極にある明暗である。
 
これだけの技の冴えを目の前で見せつけられて、弟子入りしない、というのだから碇シンジに金玉はついているのだろうか。明暗もべつに師匠と呼ばれたくてこんなことをしたわけではないのだが。門の開かれ方は人それぞれだ。
 
 
このあと、明暗は碇シンジの目の前で(つまりは檻の中や柵の中堀の中塀の中で)象拳やら獅子拳やら河馬拳やら猿拳などをやって見せた。異常に気づいた飼育係の人に追われながらの見立て修行になってしまったが、飼育係を相手にする飼育係拳、を炸裂することなく黒羅羅明暗と碇シンジはキリ良し、と動物園を後にした。当分、来られないだろう。
少林寺三十六房一日体験ツアーをこなしたような疲労感に朝からどっぷりつかった碇シンジであった。カロリー消費もはんぱではない。もしかしたら追い込み減量に入ったボクサーより痩せたかもしれない。
 
 
 
へろへろのまま。学校へ行くと、今度は惣流アスカとのトラブルが待っていた。
綾波レイに謝るどころではない。一体全体、どういうわけか、誰か説明してほしいくらいに悪夢的に時間が進んでいる。アスカの左手が重度の火傷。赤木リツコ博士が到着して治療室の向こう側に行ってしまうまでに、碇シンジは葛城ミサトから第2支部の事件を聞いた。そのことで、どれだけ苦しんでいるのか、よく分かった。話が終わって夜雲色の瞳からも涙が流れた。それを葛城ミサトは親友を失った悲しみゆえと見たが、事実は違う。
葛城ミサトが、周囲の人間が、苦しんでいるから、泣いたのだ。そして、さらに苦しさがはじまるから、泣いたのだ。大変なことが起きたから、大変なことになる。炎が巻き起こる。あれもこれもできない。困難は各個撃破しなければ。碇シンジは、いっそ泣きながら叫んでしまおうかと思った。だが、それを抑えこんだ。あれもこれもできない。困難は各個撃破しなければ。それは惣流アスカから教わった戦術の基本。
 
 
 
僕は知っているんです。
どこにいけば、カヲル君に会えるのか。
僕は、知っています。
 
 
 
だけど・・・・
 
今はアスカを優先させます