「ミサトたち、まだ帰ってこないわね・・・」
 
 
JA連合の発足記念式典に出かけていった葛城ミサトたちがまだ戻らずに三日経つ。
家の主を欠いたままの朝食の席で惣流アスカが碇シンジに向けて言う。
その顔には、早く帰ってこないかな、と。今朝、起きてきてみれば深夜のうちに帰宅した葛城ミサトが大いびきかいて寝ているのを見られるわね、と昨日の夜は言っていたのに。
外には音のしない夏の雷、サマー・ライトニング。これで何回目か。
 
 
葛城ミサトも、綾波レイも、黒羅羅・明暗も第三新東京市にまだ戻っていない。
ついでに言うと、ネルフ総司令碇ゲンドウもまだ本部に戻ってきていない。
これらの者の不在について副司令冬月コウゾウ、赤木リツコの顔はかなり苦いものに。
情報は完全に管制を敷かれて、それを聞く確かな資格をもつはずの碇シンジらのもとへ届かない。届かせなかった。なにをおいても彼らだけには。
 
 
「そうだね・・・なにか、あったんだろうけど」
「連絡くらいよこしゃあいいじゃないの、ねえ」
 
 
かりかりかりかり・・・・・
ころあいに焼けたはちみつバタートーストをかじりつくす惣流アスカ。トマトケチャップをたっぷりかけたハムエッグを丸呑みにする。ぺろりん。冷製トマトスープを吸う。するる。トマトソーススパゲティを呑み込む。ごっくん。速度からすると、心配事のある十四の乙女の食欲ではないが、そこにいるのは。碇シンジの目の前にいるのは、
 
 
「うん、そうだね」
そこで一拍おいてから、その名を呼ぶ。そこにいる。
 
「アスカ」
炎気をまとうこともなく、腹に一物あるような媚態もなく、ふつうに。ただ、そこに。
 
 
「・・・・ひとつ聞いていい?碇シンジくん」
けれど、その返答が違う。惣流アスカはそんなふうに呼んだりはしないはず。
けれど、碇シンジは落ち着き払っている。相手の位置も自分の位置も、分かり切った顔で。
その距離は。
 
「なんで、あんたさっきからコーヒーを額にあててるわけ?飲みもせず。さめない?」
熱いコーヒーカップを額にあてていた。まるで第三の目をマッサージするかのように。
アラブのえらいお坊さんあたりが考案したなんかのヨガであろうか。
「こうすると、疲れてても、くくくって、少し笑いがにじみ出してくるんだよ」
 
「ふうん・・・・」
やめろともいわないし、自分もやってみようとも思わない。まあ、放っておけばいいのだ。
こいつはこいつ、あたしはあたし。朝から疲れたなどとほざくだらしのない同居人を惣流アスカは叱りも怒りもしなかった。今日も朝食をつくってくれたのはこいつだし。
 
少し食べる速度を落として、こいつが笑うのを待つ。
 
時間はある。今日も学校にいかなくていいらしい。いや、いかなくていい、というのは語弊がある。いきたくないわけではないし、日がな一日こいつと一緒にいるのがいい、というわけではない。そうしてくれ、と頼まれたからそうするだけのこと。ミサトが戻るか、火傷がもう少し良くなるか、どちらか・・・・そう言われればミサトが戻るまでうちでのんびりするしかない。
だから、笑うのを待つくらいの時間はある。
朝の光の中で、かなり真面目にままごとやっているような気恥ずかしさを覚えないでもないけれど。いい年こいて。この時間は猶予期間。この時間は復活の儀式。
たぶん、ミサトが帰ればまた、始まるのだ。
あの激しい日常が。いとおしさと、はげしさが不可分の・・・・・・なんて、人生。
 
 
ぴた、とペンペンの額にミルクのびんをあててみる惣流アスカ。
 
「くう?」
人間のように温泉ペンギンはリアクションに困らない。つぶらな瞳でみつめるだけだ。
不自然な行為にこそ、かえってわかりやすい本音があけびのようにのぞかせる。
「ふふ・・・・」
 
 
「ふふ・・・・」額にコーヒーカップをあてたまま、碇シンジが微笑んだ。
ポーズがポーズであるから少しぶきみだ。
自己流のわりには、御利益があったらしい。日常が戻ってきたから。笑った。
日常、というにはあまりにも異様で激しい日々であろうとも、それが自分たちなのだから仕方がない。自分たちの日常は激しいのだ。それが、戻ってきた。
穏やかさにはこれからも縁がなさそうだ。それが分かったから笑う。
これがずっと続かない。続けられない。それなのに、それが悲しいとも思えない。
夜にも負けず影にも負けず、せいぜい明るくいきまっしょい。
未だ帰宅がならないミサトさんは遠い空の下で激しくやっているのだろうし(確実)、
アスカのこともとりあえず心配いらないので、優先順位・第二位だったことにとりかかる。
 
 
カヲル君に会いに行こう
 
 
僕には、それができる。僕はその方法を知っている。そして、その道筋を使える。
会ってどうするか、どうなるかまでは考えていない。
ただ、世間的に消えてしまったことになっている人間に会うということがどういうことか。
 
 
それが分からないほど碇シンジも大バカではない。それ相応の覚悟がいるのだと。
 
まあ、第一には信用できる人間、たとえ家族でも、秘密裏にことをすすめることだ。
彼岸に足を踏み入れるということはそういうことだ。陸と海のはざま、よく考えてみればその不思議な名字はこのときのためにあったのかもしれない。そう、シンドバット。
あぶらかたぶら・ひらけごま。カヲル君に会えば、たくさんのものを与えてくれるだろう。
消えてしまった第二支部の行方とか・・・・やはり、ネルフ職員の義務として聞かなくちゃいけないよね。その他には・・・・使徒のなぞ、とかひみつとか。いっぺんにババーッといきなり最終回みたいに明かされちゃうんじゃないだろうか。リツコさんとか科学者の人はのどから手が出るほど教えてほしい話にちがいない。その他もろもろ、地上では手に入らないものを手にいれている・・・・そんな感じがする。
彼は宝物の国へ。そこで宝物の奇歌をうたっている。
 
望みはうすいだろうけど・・・帰って来る気があるのかどうかは・・・・・道すがら考えることにしよう。
綾波さんのいうことは万に一つも、ウルトラ、間違いはないだろうから、使徒になってしまったというカヲル君とこれから、どうつきあっていくか・・・碇シンジはすい、と目を瞑じる。いとしかろうとにくかろうと、過ぎた時間は戻ってこない・・・・いけばいいのか。そんなことを考えると、さすがの碇シンジでも、朝から疲れてしまうわけだ。
 
 
それでも、こうやって惣流アスカの顔をみていると多少元気がでてくる。
もう、大丈夫。心配、いらない。
 
ラングレーは約束をまもっている。約束やぶったらただじゃおかないけど、守ってくれている。綾波さんがまだ戻らないから、しんこうべの方へ治療の紹介状をかいておくべきかもしれない。ちゃんと戻ってこれる保証もないわけだし。
まあ、今日も学校いかなくていいし、午前中はそれをやろう。
カヲル君に会いにいくのは夜だ。それまで・・・・・・・・
 
 
「ねえ、アスカ。お昼はなんにしようか」
下手をすれば、それがアスカとの最後の食事になるわけだけど。
もちろん、そんなことをここで口にすれば、首をねじ切られるにちがいない。
お婿にいけないようなところをすりつぶされるかもしれない。ので黙っておく。
 
「あのねえ、朝食の時にそんなの心配してると、主婦になっちゃうわよ、主婦に」
こういうことをいってるうちはまだ主婦にはなれそうもない、法律的にもなれんわけだが、の惣流アスカである。こうむかいあっているのに、片割れがスタートダッシュするために走行点検を終わらせて釜の蒸気圧力をシュポシュポあげて態勢を整えていることさえ見抜けない。フライングをかますこともいとわない。おいてけぼりをくらうわけである。今日も日常の一日が過ぎると思っている。
 
 
「そうだねえ、朝起きてなにを書こうかと思う人は作家になって、朝起きて誰の挑戦も受けようと思う人はプロレスラーになって、朝食の時に昼食の心配をすると主婦になるのかな・・・で、なにがいい?」
「いちおー、ミサトがいない現在、この家でのあんたは大黒柱だからね」
そんなアタシは弁天柱、とでもいうように偉そう華麗自信ありげに惣流アスカ。その理解度を表示するのがすこし恐ろしい。日付もちょいと怪しいかも知れない。養殖ではない。
「だから、それは避けた方がいいと思うわけ。・・・・・他意はないのよ?分かってる?
えー、だから、十時のおやつにホットケーキが食べたい」
夏のホットケーキ。これもラングレーの破片か。冷凍庫から勝手にソーダアイスでも取りだしてガリガリ囓っておけばよいのであるが。
「上にフルーチェかけたやつ」
 
 
「いいよ」
碇シンジはへろっと彼岸花の簪さしたカボチャのランプのような顔して引き受けた。お昼から二時間も早まっとるやんけ!!というお決まりのつっこみはしない。柔弱であるか。
 
「あ、もうちょっとしたら、薬を塗り替えて再生肌湿布”だっぴくん”を取り替えておこうか」
惣流アスカの火傷はネルフの特製医薬品も効いたのだろうが、信じがたい速度で治癒していたので、それも自分でやれないことはなかったが。
「うん・・・おねがい。でも、さー、そのネーミングなんとかならないの?確かに効き目は抜群だったけど、一般向けに商品化するんじゃないんだから・・・た、頼むときなんかちょっと恥ずいわよ・・・・」
「いやー、なんかやるみたいだよ。商品化。アスカにこんだけ効いたからみんなびっくりしてた・・・なにより喜んでたから、縁起かつぎというか新たな儲け口というか・・・
 
「それふたつとも全然関係なし!けど、まあ感謝は・・・してるのよ。心配かけたし」
 
・・ローカルのケーブルTVだけど、商品化のあかつきにはCMにでてほしいとか、そうなればヒット間違いなしだとか、その時は僕が雑草をバーナーで焼いていてあやまって手にやけどした農村学生Aの役だとか・・・」
「くうるうっるー!」
なぜかペンペンが目を輝かせながら聞き入っている。惣流アスカが俯き加減にぼそぼそいったセリフなど聞いちゃいねえ。だっぴくんCMの話をますます展開させていく碇シンジ。
・・・・で、ミサトさんが農村の怪しいオババの役。いきなりやってきて”これはたたりじゃあー”とか踊りながらわめきつつ、塩を塗り込もうとするんだ。で、綾波さんが川の流れの精の役で、やけどを冷やしてくれようとはするんだけど、川からあがってこれないんだこれが」
 
「聞けよこのシンジ」
どういうCMだ。それでは自分の出番がないではないか。深夜3時ごろやる通信販売番組じゃあるまいし・・・・って違う!。なにげにシンジ空間にはまってしまってはいけない。
 
・・・・で、最後に農道を赤いバイクでやってきた旅の女ライダー、アスカが格好良くウエストポーチから”だっぴくん”を取りだして、終わり」
 
「ふんふん・・・なるほど」
途中、鈴原トウジや相田ケンスケ、洞木ヒカリ、青葉伊吹日向オペレータ三羽ガラスも乱入するわけのわからなさ、とりあえず若さ炸裂であるが最後に締めるのは自分。なるほど。
聞き入ってしまった惣流アスカ。道交法を微妙に違反しているような気もするが。
 
 
そして、おわりにこんなことをつけ加える。
 
 
「だから、火事のことは、あんまり気にしなくていいんだよ。災い転じて福となす、ね」
聞いていないわけでは、なかった。
 
「う、うん・・・・分かってる」
南洋の海でマンタが泳いでいるのを見ているような気分にさせられるこいつとの会話。
だけれど、
ゆっくりと、わすれたころに気持ちを、もちあげてくれる。
こんなんで世の中渡っていけるんかいな、と昔葛城ミサトに心配された碇シンジのばかのようなやさしさが今、惣流アスカを羽毛マントのように覆っている。
 
 
結局、ラングレーとアスカとの記憶のつじつま合わせは、碇シンジが企画した「こっくりさん事件」をベースにしてすすめられた。
教室内で、隠し事をしている碇シンジの本音を引き出すべく、放課後、半分冗談半分本気でやりはじめたこっくりさんがほんまもんのオカルト現象を引き起こしてしまい、火災発生、惣流アスカは大火傷をおってしまった挙げ句に、取り憑かれた・・・・・認めがたいが、その間の行動は映像をはじめとした確かに客観的な記録がある。だめ押しに赤木リツコ博士から「人の精神は未知の領域で深い淵がうんたらかんたらがんだーら〜エヴァとリンクするのもそのまた一種かもしれない」という可能性まで示唆されてしまうと、認めるほかなし。
 
周囲の人間、とくに碇シンジは大いに困惑しただろうが、科学の子のわりには、それと真正面から向かい合い「御祓い師」などを「本当に」お金出して呼び出してよりにもよって学校内で御祓いの儀式なんぞをやったとか・・・・・向かい合いすぎて抱き合ったような凄まじさ。こういう頭でなんでエヴァが動かせるのか・・・・・学校中の人間が知るところとなっているわけで、そんなのウソよと疑おうにも証人は山ほどいる、ときている。
信用のおける洞木ヒカリたちに確認をとってみたが・・・・一枚噛んでいたというし。
その割には、話が話だけに大人、ネルフの職員はかえってほとんどこの件について触れもしなければ知りもしない・・・・葛城ミサトもこの「霊的真実」についてはアラご存じない、とくる情報の断層・・・・黙っていれば分かりはしないけれど、話したところで信じてもらえるかどうかわからない、まあ肝心な、そばにいるもう一人の人間が詳細を知っているのだから、ちょっとくらいだまっていてもかまわないだろう・・・・・
 
 
惣流アスカがこの数日のことに不安を覚えないわけはない。
笑い話ですまないことが起こったのは直感で分かる。なにか・・・・ひどく不安になる
 
 
学校で火事があったことは覚えているのだけど、その周辺のことがいまひとつはっきりと思い出せない。碇シンジが自分に何か隠し事をして、それを追求したらぬけぬけとひらきなおりやがったので腹が立った、ことは正確に覚えている。なんせ思い出したら今も腹が立ってきたくらいだ。そこから、おぼろになる、ぼろぼろと思い出が抜け落ちている。
記憶が歪む。陽炎のように。
 
火事・・・・火・・・・・火炎・・・・
 
火事・・・・火・・・・・火炎・・・・
 
赤い、赤い火・・・・・赤い人・・・・赤い女・・・・・
 
 
「赤い女が・・・・いた・・・・よね」
「御祓い師さんだよ。赤い着物だったから」
 
 
すい、とシンジに手をとられた。何か思い出そうとすると、微妙なタイミングでこいつはこうして入ってくる。「だっぴくん、取り替えるよ?」問いただせば、ぐうぜんだよ、という答がかえってくるのは分かっている。隠し事をしているわね、と問えば、そうだよ、でもアスカには言わないんだ、と跳ね返されるのが・・・・正直、少し、こわい。
 
 
信頼して、待つか。それとも、共に駆けるために、暴くか。
 
 
その選択に躊躇する己の弱さと迷いがこわい。取り憑かれたことよりもなによりも。
なぜ、火事が起きる前の自分にはそれがなかったのか。それは常備していたはずなのに。
いつまで、こいつと・・・・いられるのか、いてもいいのか
愚問。別れるときはかならず来る・・・・
 
 
ちつ
 
 
糸のように細い痛みが
 
 
「ごめん・・・・剥がし方がまずかった。いたかったよね・・・ごめん」
そんな痛みはなかった。左手の痛みはなかった。剥がされた古い透明の殻。あるのは触れることのない箇所の幻の痛み。言われて気づく、頬をぬらす熱いもの。
「も、もうちょっと、やさしくやんなさい・・・・よ。ばか」
たかが数日の記憶があいまいなだけで、これほど弱くなるのか、・・・・・信じられない。
まずい、自分はこれほど弱くなっている。シンジはいてくれるけど、ミサトがいないせいか。それとも、きちんと自分が居ないせいか。この空気の中、適正な自分の手足の置き場所さえ分からない。意識しないと呼吸が乱れる。基本すら全うできない。なにが起きたのか、これからなにが起きるのか・・・・この精神状態まずすぎる・・・・これで何か重大事が起きたら自分一人で対応できる自信がまったくない・・・・・こんなんじゃ商売あがったりだ・・・・・
 
 
火傷とともに、精神のほうも落ち着くまでもうしばらくかかる・・・・急場峠は越えたとはいえ。
 
 
だけれど、それをなんとなく承知しておきながら、碇シンジは先へすすむ。
惣流アスカはおいてけぼりである。とてもじゃないが、この現状で「消えたはずのカヲル君に会ってきまーす」などと言えたものではない。ラングレーとしては百も承知の話であっても、アスカにしてみればあまりに負荷の強い話である。耐えきれず精神の一部が欠壊を起こすに違いない。それが人格の破断に繋がれば・・・・・さすがに同じ手が通じる相手ではない。
 
残酷ではある。
 
けれど、先へ進む。荷物を背負っていては重力にひかれて彼の地まで届かない。
自分だけ知っている方法・・・・・それを起動させて、彼に会う。
ともだちが待っている。変わりの果てから手をさしのべて。
 
 
ほんとに・・・・・ミサトさん、早く帰ってきてください。
碇シンジも内心は泣きそうなのである。生木を裂く思いに、転げまわりたいのである。
こんな状態のアスカをおいてけぼりにする自分に大回転ロケットパンチをくらわしたい。
斯うしている間にも腹の中でいつもの真言を唱え続けている。
 
 
早く、帰ってきてください・・・・・なにが、あったんですか・・・・
 
 
祈ることですべてがかなうなんておもわないけれど。
それでも。
 
 
そういった子供たちの精神の問題はむろんである。とても大事である。が、
なによりも、実際問題、ラングレーが引っ込んだ今の惣流アスカは薬がまともに効いて一日の大半眠りこけてしまう、という点があった。肉体の修復、と言う点では実に正しいまともな生体反応ではある。が、これでは学校にいったとて極楽トンボ賞か居眠り小五郎賞をもらうのが関の山。処方は赤木リツコ博士の指示であるが、どこのどの医者でも碇シンジの事情など知らんので、同じ判断を下すだろう。よほどのことがない以上、つまりは使徒の来襲である・・・・戦闘待機はエヴァ初号機碇シンジ単独で行い、エヴァ弐号機惣流アスカは治療に専念、と。それはそうだ、と碇シンジも納得するほかない。
なんせ嫁入り前の女の子のからだのこと、大事大切にあつかってほしいものです。が。
ミサトさんの考えに異議を唱える気はないけれど、エヴァを二体も持っていくことはなかったんじゃないかなーと。人類の守護留守居役がそうそう、好き勝手に行動するのは許されないわけである。いくら一日の大半を眠って看護の手間がそうかかるわけでもないとはいえ惣流アスカをなんも告げずに黙っておいてけぼりにするのが正義的に許されないのと同じく。任されたこと頼まれたこと誓ったことは最後までやり抜かねば男ではない。
まだ完全に成長しきっていないその双肩にのっけられたものはとてつもなく重たい。
ここまでの重圧ならば、いくら普段の会話がないとはいえ、都合の良いことにネルフ総司令であるところの、父親に相談することくらいは許されてよさそうなものだが、いない。
相談したらしたで「行くな」の一言で終わるのは目に見えているが。
 
 
同じく、もし綾波レイが早く帰還しており、碇シンジのそんな神をも恐れぬ行動計画を聞けば見抜けば、それはもういかなる手段を用いてでも止めにかかっただろう。そうなると、実力的に阻止される可能性はかなり高い。碇シンジはさすがにその点には思い至っていないようだが、綾波レイ不在のこの現状は大いなるチャンスなのであった。これを逃して強行すれば血の雨がふるだろう。なんせ双方とも意志が強く意外に強情であり、綾波レイにしてみればしんこうべのリベンジである。
 
 
だが、碇シンジとしても今日が限界ギリギリなのであった。
これを逃せば、道は閉ざされる。これは碇シンジではなく渚カヲル方の事情であるようなのでどうしようもない。いつまでも待ってくれるわけではないのだ。数日の余裕は使い切ってしまった。今夜・・・いかないと。
しゃれではない。
 
 
準備はいいか、忘れ物はないか、頭の中で机の引き出しの中の一番奥を確認する。
肝心なものさえ忘れなければいい・・・・激しい日常の中で悟った心得である。
 
 
それは二枚の紙切れ。唐草模様に黒で十ばかりの字を印刷してあるもの。
ほんとうの天上へさえいける切符。天上どこではないどこでも勝手にあるける通行券。
一枚は自分用。
 
もう一枚は・・・・・