「アスカ・・・・」
 
 
「アスカ・・・・起きなさ・・・」
 
 
「アスカ・・・・・・・は、どこに・・・・」
 
 
声と同時に、揺すられる。胃の腑のあたりにあった精神がゆっくりと額のほうまで登っていく。いたずらガラスを用いた展望エレベーターよろしく、目覚める前にぼんやりとして人の顔が見える・・・・ミサト・・・・かつらぎみさと・・・・。こちらから顔を視認しても、あちらからの問いかけの声はおいついていない。そして、覚醒する意識。
 
 
「ミサト!」
 
 
その速度は待ち望んでいた時間との反比例。一瞬にして全身すみずみまでに熱い血流がそそぎこみ、100%の身体活動、精神活動を保証する。その名は魂の添加剤、噴け上がりが劇的に変化する。そんな表情を見ると、葛城ミサトはもはや「ただいま」としか言えなくなる。これほどまでに己が待たれていた、という身勝手な嬉しさよりは、こんな少女(こども)を置いてけぼりにしてしまった己に罪悪感を覚える。今回の件は、仕事、任務と言うよりはただの宝探しのようなものだった。犠牲も、追わせてしまった。
いくべきではなかった・・・
 
第三新東京市に、この家に、いるべきだった。
 
手に入れたものは・・・・もっていたからといって願いも叶えてくれそうもない無言の”魔人腕(サタナーム)”。地獄か天国かの片道切符。あのまま上位組織が黙っているとも思えない。最悪、一週間後の自分はこの街にはいないかもしれない。アスカに会えることも。背負うものがあまりに重たくて、それを自分の部屋で下ろす前に抑えきれず激情が迸った。
 
 
ぎゅうっ・・・
 
 
なにもいわずに惣流アスカを強く抱きしめる。
「あっ?あっ?・・・あれ・・・ミサトお・・・」びっくりする惣流アスカ。そのあまりの力強さにされるがままに。目が丸い。こどものように。こどものように、やわらかくすなおなこころで自分を抱く大人の感情を感じ取る。じわわんと、すいとってゆく。乾きをしらず、子供こそ水の行くすえ
 
 
「・・・・おかえり・・・・ミサト」
 
 
やはり第二東京は鬼門であり、”なにか”あったらしい。気配でそれを知る。けど、それを聞くのはあとでいいだろう。自分にも、ここ数日、なにかとても心の騒ぐことがあったような気がして。
でも
 
 
ミサトは、帰ってきたのだから。ここへ、帰ってきてくれたのだから。
 
 
けれどまあ・・・・・十四の乙女として羞恥を覚えないわけでも、ない。
その上に葛城ミサトはどういう鍛え方をしているのか白熊のような腕力があり、あまり長くなるときついというか苦しいというか肺が押し潰されるというか背骨が軋むというか、ウゲというかゲブというかエジプトあたりの神様っぽくやばい感じだ。精神の交感が終わると人間の身体は正直だ。「ミサト・・くる」
しい、と言う前にさすがに気づいてくれたらしく解放してくれた。
 
「あ、ごめんごめん久しぶりだったからつい、ね・・・・・・ところで、シンジ君はまだ戻ってきてないのね」
疑問ではなく、確認の口調。どことなく、そらぞらしい感じがしたのは気のせいか。
 
「え?」言われて時計を見てみると、正午。ミサトは約束を守ってくれたらしいが、シンジの奴は・・・・途中、起こされた記憶もない・・・・いや、もしかしたら十時に起こしてもらってフルーチェがけホットケーキを食べてからそれからまた寝てしまったのか・・・・記憶がない・・・・食べた記憶も起きた記憶も・・・・これってもしかしてやばい・・・・「よしこさん、ごはんはまだですかのう現象」?というか健忘症?・・・・・
首を何度もひねり頭の中から碇シンジのことを呼び覚ましてみようとするが、反応するのは朝方のやり取りだけ。ビール?を買いにいったらしく疾風迅雷のごとくに家をでていったことだけ。そこからさきはぽっかりと空白になっている。もしくは・・・・
自分の記憶が正しいなら・・・・・
 
 
ふと見ると、テーブルの上には出前らしき寿司だの天丼だのビールだのが並んでいるが、フルーチェがけホットケーキはない。
 
シンジは、あれから戻っていない、ということになる。出前だのをあのミサトが手配したとは思えないから、それをやったのはシンジ。シンジは買い物にいったはずなのに。
 
「これは・・・・・」
「ちょうど家の手前でバッタリ出前の人たちと会ってね。寝てたのならタイミング良かったんだけど」
 
買い物に気合いが入りすぎてしまったのなら、逆に出前はおかしい。なんというか、らしくない手際だ。違和感がパキパキと。それに、自分との約束を守らなかった・・・・確かに、子供みたいなくだらないことかもしれないけれど
だから。なのに。
 
シンジが・・・・
 
 
よくわからない、なにがあったのか、と不安げに目で問う惣流アスカ。
唯一、納得できる理由があるとすれば、それは使徒の来襲だが、そうなると葛城ミサトがこでのんきに自分を抱きしめてるわけもなく。
 
 
いない。
 
それはこっちのセリフなんだけどね・・・と腹の底で深い深い地獄の番犬も道を譲るような暗黒のため息をついて。
レイの危惧が命中したことを葛城ミサトは思い知る。これを知ればレイはどうするか。
怖いような気もする・・・・・帰京すぐにネルフ本部に緊急入院させてリツコ博士の検査を受けさせている・・・・潰れた声はまだ戻らない・・・・そして、あの”呪いの刻印”・・・・上位者に逆らった叛逆の烙印というわけか・・・。レイをそんな目にあわせて碇司令がいれば自分もただじゃすまなかっただろうが、こちらの碇も不在だ。
 
 
親子揃って・・・・・
 
 
迸る感情は炎の如く形をもたない。葛城ミサトも今回の件はもはや処理機能の限界を越えており、誰かにこの重荷をせめて、代わってくれとは言わぬ、分かち合って欲しかった。
作戦部長として情けない話ではあろうが、それが碇の親子二人だったのだが、そろっていないとは・・・・くそう・・・・。何考えてんだてめえら・・うう、えーうー。心泣き。
 
 
が、惣流アスカの前ではそんな顔ができるわけもない。
 
まことうそつきはかつらぎのはじまり。
 
 
けれど、総司令碇ゲンドウの名誉の為につけ加えておくならば、別に本人も好きで雲隠れしているわけではない。かわいい部下を放って愛人と一緒に旅行、バカンスとしゃれこんでいるわけではない。決してない。それどころか、ネルフとはまた別の、”碇ユイの懐刀”とも頼んだ有力氏族によって、その地を訪れたところをなんと幽閉されているのであった。生命の危険だけはないが、相手の意図が不明のために今の所、冬月副司令は赤木リツコ博士、野散須カンタローだけに知らせてある。確かに現状の葛城ミサトにこの事実を知らせてもどうにもならない。
 
奪還一戦やらかそうにも、なんせ相手は碇ユイの懐刀、・・・・強力なのだ。
エヴァに匹敵する”実際的な”戦闘力を所有している・・・・・。
 
 
竜尾道(りゅうおのみち)の名で呼ばれる彼の地
竜が政の頂点を司る、いきはよいよいかえりはこわい、の鎖巻かれる西の国。
 
 
父親幽閉の事実は息子である碇シンジには当然、伝えられるべきではあるが、上記の理由により絶対的に彼に対して秘密にされた。戦国時代の話みたいであるが、なんにせよ懐刀と伝家の包丁、いやさ宝刀がぶつかるほどバカな話はないのは現代も昔も変わりない。
相手の意志と意図をなんとか探るべく冬月副司令は手を尽くしている・・・総司令の代行もせねばならないのだから、この人もオーバーワークであり歳も歳であるし途中でバッタリいってもおかしくないのであった。
 
 
それから、碇シンジの方は、これはもう100%自分の自由意志で動いているから大いに責められるべきかもしれないが、その目的が「渚カヲルとの再会」と知ればネルフも総力を挙げる事態になるのは間違いなく。その中でも綾波レイは特に。逆方向に。
 
 
「そ、そうねえ・・・・こうやって出前は頼んでくれてるんだから、3人分・・・そろそろ戻ってくるんじゃないかしらねえ・・」
 
「四人分・・・・シンジなら四人分にするはず」
けれど惣流アスカは納得しない。
 
「いやねえ、そんなに食べないわよ〜。別に外国に行ってたんじゃないんだから」
ある意味、もっと遠い断罪と無力の丘に登ってきたんだけど、と胸の内で呟く。
 
「そうじゃない、ペンペンのよ」
 
「うっ!」
薄情な話だが、葛城ミサトはペンギンのことを忘れていた。ペンペンの方も冷蔵庫で寝ており主を出迎えたりしなかったのだからおあいこだが。愛ペンギン家同盟からは除名だ。
 
 
 
「・・・・なーんて、驚いたふりをしてみちゃったり。きらりーん☆」
くるりん、とわざとらしく月から来た魔法少女のごとく一回転してみせるとさらにおどける葛城ミサト。
 
 
「はあっ!?」葛城ミサトのわきまえないふざけに猛りかける惣流アスカ。
しかもその擬音は何だ。その擬音がゆるせない。そんな☆マークなんか使っていいと・・
それを片手のひらで制する笑顔。もう片方の手にはいつの間にか携帯電話。
 
「うっ・・・」
その意味に気づいて黙る惣流アスカ。そうだ、なにを動揺してんだあたしは・・・。
たかがシンジがいないくらいで・・・・もしかしたら、一緒に戻ってきた明暗に捕まってここんとこサボってた分の特訓をくらっているとか・・・・そんなことかもしれない。
微妙に少ない寿司桶も、よく考えたら天丼やピザなどがカバーしていると言えなくもない。
 
 
ぴぽぱっ
閃く指先、短縮ナンバー。呼び出し先は当然、碇シンジのはず・・・・・
 
 
「あ、シンジ君〜?今どこいんのよ〜」
 
かけた当人もそう言ってるし。半回転ターンを自然にしながら惣流アスカに背を向けて表情が見えない。
「え?あ?、そ、そうなの?・・・・それならそうで、私を通してくれなきゃこまるじゃないの・・・・あ、これはあなたにいってるんじゃないわよ。今日くらいいいじゃないの・・・・・って、そりゃあ、急いでやってくれって頼んだのは私だけどさ、シンジ君にやらせることも・・・・・ま、まあ、実際シンジ君しかいないんだけどさ、レイも明暗もちょっちお疲れ気味だし。・・・・・じゃあ、遅くなる・・わね、今日は・・・・・あ、うん・・・・・がんばって・・・・それじゃ」
 
 
なんだか、緊急の頼まれごとが・・・おそらくはネルフ本部、エヴァ関連でなにかあったらしい・・・それで呼び出しをくらって・・・・今日は遅くなる・・・・というストーリーが惣流アスカの頭に思い浮かぶ。確かに、エヴァのパイロット、専属操縦者チルドレンともなれば、いくら中学生とはいえ、いくら出張から家族が帰ってきた日とはいえ、その手の依頼というか・・・ありていにいえば本部命令を断れるわけもない。今の三人の同居のことなどかなり気をつかってもらっているとは思うが、任務優先は当然のことだろう。
直轄の指揮者は葛城ミサトであるが、どうもその当人の頼み事であればなおさら。チルドレンの、エヴァの起動が必要になるとすれば、リツコあたりであろうか・・・・。
 
 
そんなことを考える惣流アスカであるが・・・・・
 
 
実は、かけた相手は違う。もっと直接的、碇シンジのガード部隊である。
何をおいても外出した碇シンジの居場所を把握しとかんといけん連中である。
彼らに聞くのが一番速くて確実。電話口での碇シンジのあの気配・・・・おそらくまともに当人にかけても時間の無駄だろう。女のカンがそう告げる。極力、こういった直接的なやり方は避けたいが、どうも悪い予感がする。相手の報告を聞きながら、惣流アスカに聞かせて想像させるためのでまかせが口から出てくるのだから葛城ミサトは。
 
 
心臓に悪い・・・・・・胸が痛い・・・・くくくく・・・・・
 
 
「碇シンジ・現在位置不明」・・・・・だと・・・・・
 
 
てめえらそれでもプロか!!、今月給料抜き!!おしおきだべえ!!三ヶ月メシ抜き決定!!と怒鳴りたいのを必死でこらえる。しかも連絡が遅い・・総司令・・・父親の不在の絡みがあるのだとしても直轄指揮者で保護者である自分に言わねえとは何事だボケなす!!!と携帯を投げ壊してしまいたいのも忍耐の二文字で我慢する。彼らの仕事はあくまでガードであり、対象者に危害が加えられるのを防ぐのが仕事で、追いかけるのが仕事ではないからだ。しかも表だって隣接肉壁と化すSPともまた異なる。あくまで影の警護。
それが光に紛れてしまえば見失うのも無理はないかもしれない・・・・・が、腹立つ。
 
だが、たえがたきをたえ、しのびがたきをしのぶ。
 
もちろん惣流アスカの手前であるのと、なんとなくそうだろうな、と分かるからだ。
碇シンジが本気をだしたなら・・・・なんというか、悪い意味でも良い意味でも、普通の人間では太刀打ちできないのではないか・・・・能力の高低ではなく、なにか、マホーめいた力が働き、まとも人間の眼には映らなくなる・・・・神隠しを自分で実行できるというか、隠れ里にいく資格があの年齢でありながら更新をわすれずにまだあるような。
彼が消える。彼は、消える・・・・・窓辺からそっと旅立つ童話の少年のように。
 
少なくとも、あの子に20面相のような変装術や尾行をまく歩行術などはないはずだ。
 
もしくは、”なにか”があの子の味方をしている・・・・・なにか・・・、街そのものが守護者たるあの子の味方を、「いやあ、シンジくんにはいつも使徒から守ってもらっているから、その邪魔をする風味のお前さんたちの足をひっぱってやるのだぞ」とかいって恩返しとして・・・・・そんなバカな・・・とは思うんですけど。あの子の場合、ありそうでヤだ・・・
 
 
手短で震えを押し殺した報告では、あちこちの自販機で大量にジュースを購入してまわり、そのまま地下シェルターに入りそこで一度、幽霊マンモス団地、綾波レイと自分で一棟所有しているあそこだ、でもう一度、位置を消失しているという。そして、箱根湯本駅にて三度ロスト。そのまま現時点まで不明のまま。列車に乗ったかどうかも分からぬという。
奥の手であるところの仕込み発信器も全く反応なし。移動手段は自転車とバスと自分の足。
 
 
さっぱりワケが分からないが、なにかやろうとしていることだけは分かる。
 
いや、なにかしでかそうと、だ。おそらくは・・・・自分が居ない間にアスカと一緒に海の中に「心中ダイブ」かましてくれたらしいが、それ以上のこと。まさかそれを追求されるのが怖くて逃げたわけでもあるまい・・・その件に関してはたっぷりじっくりと説明してもらわんといけないが。もーっともっーと、どっかーんな感じでゴっツいこったろう。賭けてもいい・・・・。
 
 
とりあえず、自分で想像したストーリーほど強力な嘘の味方はいない。こう言っておけば、惣流アスカが自分で碇シンジに連絡とろうとすることもない。リツコ博士が情のない悪者になってしまったが、それはそう、あれだ、そう、友情パワーでなんとかしてもらおう!。
 
・・・あまり友だちのいない人特有の身勝手なことを考える葛城ミサトであった。
 
 
「そういうわけだから、シンジ君はいないけど、ま、もったいないから冷めないうちに食べちゃおうか。ビールもぬるくなるし」
これで部屋に「書き置き」でもあったらやばいかな、と・・・・・一風呂浴びるまえに、ちょっとあさってみねば・・・・・まあ、そこまでケジメをしらない子じゃないとは思うけど・・・・アスカの世話がもしかして、けっこう負担だったとか?それで旅に出たとか
・・・自殺するようなタマじゃないからその点は安心だけど。
 
そんなことを考えていると実務に関して厳しい惣流アスカからつっこみというか、確認がはいる。
「リツコの呼び出しなの?そんなに急ぎって・・・・・第二東京の地下で使徒のオリジナルでも発掘されたわけ?それとも、まさかJTフィールド・・・・・もらってきたとか」
 
 
「ま、まあね・・・・いや、そんなワケないっしょ」
 
 
「どっちなのよ」
 
 
「JTフィールド発生器は・・・・まあ、なんというか・・・・今回大変ご迷惑とご面倒をかけられちゃったから、そのお詫びということでまあ、そのーひとつサービスで」
 
 
「別に、気にしないわよ。いまさら・・・・でも、なるほど、日にちがかかるわけだ。ふぅん・・・」
 
JTフィールド発生器をもらってきたのは本当だが、使徒のオリジナルなんかは発掘されていない・・・って、それはなにかの映画の影響だろうか。上から痛めつけ虐められる下の苦痛がイヤと分かったために時田氏と和解・・・、したわけではない。叩き潰してこの世から抹消してやるよりは研究してみるほうが価値があると判断したからだ。いつぞや時田氏が歌うCDを押しつけられたが、あれと一緒ではない。というか、あのメンツを敵にしたくない。味方が多い方がいい、という単純な話ではないが。連合にかまけるヒマと余裕がなくなった。解析せにゃならんのは他にある。技術部の面々は今頃嬉しい(でしょう?)悲鳴をあげているだろうし。
それはともかく、自動で納得してくれたらしく、アスカの追撃をかわすのにはとりあえず役には立った。
 
 
まさに口からでまかせ一本槍でとりあえず場を収めた葛城ミサトであるが、碇シンジの居場所が不明となるとそのでまかせがばれるのも時間の問題である。
だけれど、”あんな表情”を見せたアスカに「あ、シンジ君どっかいっちゃってるー。ガードの監視もすり抜けて行方不明だってー、あーこりゃ大変だあ」ってバカ正直に言えるか!?言えるのか?!言ったらどうなるか見当がつく。
 
アスカは調子が悪いのだから・・・。できることなら・・・
 
そのためにはうそつきにも鬼婆にもなってやる。文句があるならかかってこい・・・。
葛城ミサトは腹を括る。安らぎの時間はもう少し後になるみたいだ・・・・やれやれ
 
 
「なんにせよ、つかれたびー。乾杯する前に一風呂浴びさせてもらうけど、いい?」
「どーぞ。ちょっと汗くさかったわよ、さっき」
「海の香りよ。潮風ばっか浴びてたから〜。ちっと命の洗濯をさせてもらおうかしらねん」
 
 
 
だけどまあ、レイには義理がけ上、ちょっと言っておかないとまずいかな、と。
浴室に入ってから考える。一糸まとわぬ姿になれば、そのぶん人間素直になる。
足の裏からタイルの冷気がつたわり。キュキュキュ、と栓をゆっくりとひねる。
涙にも似た人工の雨が、鎧具足のような固く重たい緊張感とその上にべっとりと塗られた血糊のような敗北感をしばし、溶かしてくれる・・・。
またそれを身につけねばならぬのは承知の上。
 
 
あれだけ念を押されて、やっぱりどこか行ってました、しかも現在消えてます、というのだから、これを黙っておくというのはうそという領域を越えている。
義理を欠くことになる・・・か。扱いが不公平というか、アスカに甘いのかもしれない。
が、もともと「早く帰ってきてね」などとレイに言ってたくらいで、なにか用があったのかもしれない・・・または伝言とか。幽霊マンモス団地に寄ったとなれば。いや、あそこには自分の持ち部屋があるからそこに行ったのかもしれない・・・考えても埒は明かないが。もしかして、使徒が来襲してくれば大慌てで本部に戻ってくるだろうか・・・・。
やっぱり、試しは試しで、本人の携帯に直で連絡いれてみるか・・・・
それで、応答がないのだとしたら、ちいっと本気ださないといけないかもしれない。
 
 
あの剣幕・・・・・たぶん、シンジ君、彼も本気なのだろうから。
 
 
 
熱い雨・・・・シャワーの湯は、加持とジャムジャムの行く先、南洋実験諸島を思わせる。
いろいろと加持と話し合い、考えてもみたのだが、ひとまず結論はそこに落ち着いた。
所長のキー・ラーゴのリバイアサン級頑固オヤジには「新しいチルドレン候補なので毎日毎日神経接続テストをやらせて適格レベルを計測してください」と言っておいたから、その手のことは一切やらずに毎日泳いだり遊んだり勉強したりできるだろう。なんせ、あのオヤジはわたしが大キライときている。注文の正反対のことをやらせるはずだ・・・そうしてくれるだろう。グエンジャ・タチ・・・・あの子のような海生児との交わりが忌まわしい過去を洗い流してくれればいい、と思う。場所といいスタッフといいあそこは子供の隠匿には最適だしー。
人の足下をモロに見まくるようなやり方にますます嫌悪を募らすことになるだろーが。かまうものか。ふふ、これまでとは正反対の環境になるが、加持君ならばうまいこと着床させてくれるに違いない。あまり笑うところでもないが、それくらいのことがなければやっていられない・・・。
 
 
さてと、あまりアスカを待たすわけにもいかないから、あがろうかね。
 
 
「いただきます」
「あいつがいないと・・・・・・・・不便ね。いただきます」
「くくるっるう」
 
 
ともあれ、身を清め気合いを入れ直し、腹ごしらえをして、それからだ。
一杯やっても酔うことはできそうもないけれど。エネルギーの補給だ。ビールにはビタミンがあるんだから。こんな時にも気を使ったように冷えているそれが、多少憎らしくもある。豪勢ながらもどこかぽっかりと白けたような葛城家の昼食。
 
 
そして、碇シンジは夕方になっても、夜になっても、戻ってこなかった。
 
 

 
 
 
「こんなもんを拾ってしもうた」
 
と昼になって学校に到着した鈴原トウジが洞木ヒカリたちに差し出して見せたのは、緑色した紙切れで、唐草模様に黒で十ばかりの文字を印刷してあるもの・・・・・落っことした当の本人、碇シンジであればそれがなにか知っている
 
ほんとうの天上へさえいける切符。天上どこではないどこでも勝手にあるける通行券・・・・である。
 
洞木ヒカリの心配と気がかりを預かって、午前中の授業をさぼって碇シンジの後を追った鈴原トウジ・・・・正確には、その行動パターンを彼なりに予測して、網を張って待ち受けていたのである。幽霊マンモス団地・・・・綾波レイの家である。おそらく、シンジはそこに行くんとちゃうちゃうか、というわけで時間的には先回りしていたわけであった。
もちろん、100%の自信などはない。ある程度のてもちぶさたのような、学業からの解放感でみたされていくような、話の接ぎ穂を考えながらも途中でめんどうくさくなってもみたり、ワケもなくストレッチやスクワットをしてみたり、「ワイ、なにをやっとんかのー」と自問自答してみたり、しょうがないから雲をみてみたり、・・・・まあ、碇シンジの行動も意味不明ならば鈴原トウジのそれも第三者からすりゃどっこいどっこいではある。のだが・・・
 
 
鈴原トウジにもちろん、自覚はないが、そこは、ただの幽霊団地ではない。いわば、
綾波レイと碇シンジの「結界」である。
黒ジャージの少年はその中に踏み込んでいる・・・・・もし、そんなことを言われても「それがなんやねん」としてきょとん、とするほかあるまいが。黒羅羅明暗あたりであれば、それがいったいどういうことなのか、理解して深くニヤリと笑ったことだろう。
弾かれもせず、凍えもせず、と。面白いやつだ、と。
 
 
と、ポストからあふれ出た広告チラシでつくった紙飛行機の飛行実験などを行っていると、そのうち碇シンジがママチャリで団地方面、こちらに走ってくるのが見えた。
 
読みは、当たった。完全に、ではないが。「しめしめや」とりあえず待つ時間は無駄にはならなかったようだ。待っていると・・・・・「どないしたんや」・・・・なかなか来ない。「もしかしてもしかすると」関西系でも一人だと独り言くらいはいうのである。
「自分とこに寄ったんかいな」・・・・その可能性もある。というか、なにか秘密裏にことを起こすべく何か準備をするのなら、葛城家よりもほとんど秘密基地のようなこの団地の住処(相田ケンスケにいわせるとそれはセカンドハウスというらしい・・・なんのことはない隠れ家やんけ)の方が向いている。綾波の家を尋ねる、というのは野生のカンであったが理詰めで考えるとそちらの方が近い気がしてきた。まあ、そうだとしてもすぐそこである。鈴原トウジは階段を駆け下りると、シンジ棟にむかった。
 
 
・・・・・が、会えなかった。このとき、狙ったように、というか、微妙なタイミングのずれで、碇シンジは自分の隠れ家から出て、綾波レイの家に向かったのである。鈴原トウジにしてみれば碇シンジはちょうど逆ルート、団地の影にいた、ということになる。
 
この時、碇シンジが何をしていたかというと、綾波レイ宛に手紙を書いていたのである。
当然、口では言えないような類のことである。お願い事である。内容は、「惣流アスカ・ラングレーの、念炎能力の治療」・・・面とむかって頭の一つもさげるべきであろうが、いかんせん時間がない。あんまり詳しく事情を書き記せたわけでもないが、とりあえず義理は果たす。だが、碇シンジが綾波レイのことをちょっとでも考えたなら、そんな願いを聞き入れるわけがないことが分かるはずだが。それどころか、「なにトチ狂ったことほざいてんだこのラッキョウ小僧は」とばかり激怒させること確定であるはずなのだが、想いが至らない。
何を好きこのんでラングレーのような危険人物を治してやらんといけないのであろうか。
こっちはマザーテレサでもガンジーでもないのである。むしろ、暴走する前に決闘にもちこんでもその存在を抹消してやろうかとまで思ったほど。それを・・・・・焼かれかけたくせに
もっと自分の身を・・・・・その身には何物にもかえがたい面影がある・・・・・のに
バカだバカ。それもウルトラバカである。このスカポンタン!ラッパ!空気!!
と、直接口にするかどうかは別として、さすがの綾波レイでも、その類の罵倒の発生は禁じえないだろう。やはり、人として。
 
 
そういった感情を逆撫で、いわば”逆鱗メール”を綾波宅に投函して、碇シンジは幽霊マンモス団地を出る。その時にどうも落っことしたらしい。「天上切符」を。そして、目撃はしたものの、碇シンジに会えずに首をひねる鈴原トウジに発見されて、拾われるに至ると。
拾ったのが文学少女ではない鈴原トウジで、それがただのゴミ、として捨てられなかったのは幸運の部類に入るだろうか。「なんとのう、手がかりになるかと思ってな」自分のさっき通ったルートに落ちていればそのくらいの推理は働くが、だからといってこれが果たしてなんなのか、見当もつかないので、皆の知恵を借りるべく、そろそろ腹も減ってきたので学校に戻った、という案配だった。
 
 
 
「にしても、ちょっと考えすぎなんじゃないのか」
相田ケンスケは洞木ヒカリの見立てに否定的であった。同じ男としてそのような気分、孤独を愛したくなるような気分、たとえるなら一筋の流れ星の気分が分かるからだ。
端的に言うと、向こうから頼んでくるまでほうっておくほうがいいさ、ということ。
まあ、確かに先の件はエヴァだの使徒だのいうそれとはまた違う「非日常」ではあったが。女の子は霊感が強いから、まだその影響を引きずってんじゃないのかなあ、と相田ケンスケは思うわけだった。冷静に、理性的に、知的に。オカルトは範囲外のことであるし。
そうそう、あんなことは起こらない。・・・だろう、たぶん。
 
 
「え?そ、そうかな・・・・・でも、やっぱりおかしかったし・・・籠いっぱいにジュース買ってるなんてへんだし」
変は変だが、それがいけないという理屈はどこにもない。なにかの気紛れかで腹一杯ジュースを飲んでみたかったのかもしれない。これが洞木ヒカリがずっと碇シンジの行動を見守っていて、彼があちこちの自販機で「当たりもう一本」をゲット”し続けている”ことを確認し、それを皆に告げたならもうちっと反応は違ってきたかもしれないが・・・・
改めて考えてみると、もともと常識人である洞木ヒカリは、自分がそう見えた、ということだけで鈴原トウジに授業サボらせて使わせてしまった、というのは委員長として罪悪感を覚え始める。けれどあの時、自分の足を止めさせたものは・・・・感覚は・・・
何かの前触れ、というのは些細なもの。針を落としたよりも小さな警鐘。かといって、基本的常識善人である洞木ヒカリは「やっぱり変よ、変なのよ。変だから変でヘンダーソンなのよ〜!」とそれこそお前こそ変だぞん!なことを言い出すことができない。
 
 
「霧島はどない思う?」
実行力ではピカいちの霧島マナに問うてみる鈴原トウジ。またなにか行動を起こすとなればこの女を抜きにすることはできん・・・と一目置いているのである。また、普段とは違ってどうも喰いつきが悪いのが少し気になった。シンジのことであるならもうちょいと騒ぐはずやないんかこいつは・・・はてな。
 
「え?あたし?」
じっ、と紙切れを見ていた割にはとんきょーな声をあげる霧島マナ。元気印の快活な見かけより遙かに頭が切れるこいつには珍しい反応、何かほかのことを考えていたらしい。
 
「え、あー、えっとね・・・シンジ君に直接聞いてみるとか?落とし物は落とし主に返すのが基本だし」
 
「まあ、な。そうやな」
そらそーだが、そのようなことを聞いているのではないんやで、と言外に匂わせて。
 
「・・・ごめん、ちょっと他のことに頭がいってた。で、でも、あんまり心配いらないんじゃないかな?あんな感じだけど、シンジ君は・・強いよ。マイペースメーカーだし。引きずられるとか・・引き寄せられるとかってちょっと考えにくくて。悪意も害意もまたいで通る、みたいな、ね。そろそろ保護者のミサトさんも帰ってくるし、」
鈴原トウジに問い返すというよりは、洞木ヒカリを落ち着かせるような調子で。
 
「そっか。霧島のお父さんも第二東京行ってたんだよな・・・もしかして、向こうでも使徒が現れた、とか」
そちらの方の話が好きな相田ケンスケである。生徒の親の大半がネルフになんらかの関係がある学校ならではの会話であろう。最後の方ではさすがに小声になるが。
 
「さあ、それはどうか教えてくれないけど。でも、いろいろと大変だったみたい・・・」
さっきは仲の良い父親のことを考えていたのかもしれない。単なるロボットの式典がある第二東京にエヴァがなぜ二機も粘ったのか。惣流アスカのことを知っているだけによく分からない機体運用である。ここ数日の第二東京の件に関してはネルフ内部では高度の箝口令が敷かれていた。事情通の相田ケンスケにしても霧島ハムテル教授が派遣されたことくらいで行き止まり。が、新情報を期待したわけでもなく、これは好奇心の病のようなもの。
実際には、使徒が来襲するよりも百倍も面倒なことが起こったのだが。
知らない方が幸せなことだ。
 
 
「そうか・・・・シンジの奴を引きずり込めるモンって・・・・・なんかあるか?」
どちらかというと、あれは他人を引きずり込むタイプでこの前もそれでえらい目にあった。
そりゃあもう大冷や汗をかかされた。だが、当人が一番危険な目に、身体を張っているのだから文句も四分の一ほどしか言えない。それは霧島マナも同じであるから、その指摘には肯かされるものがある。エヴァの操縦者であることや、大火傷の惣流アスカの家族であること、などなど。碇シンジには背負っているものがあり、もし、引きずり込まれた場合、それを放棄せねばならないわけだが、そうなったらえらいことである。
逃げた場合はまだ連れ戻せることもあるが、引きずり込まれた場合、浮かび上がるのは非常に困難となる人生いろいろ赤いいろ。
 
だからこそ、あの時、洞木ヒカリの足は止まったのだ。
 
だが、マイペースなりに碇シンジはそこから逃げもせずに(戦術的に距離をおいたりすることはあるようだが)引き受けてきたように見える。洞木ヒカリは碇シンジの全てなど知りようもないが、それでも信用している。任されたことを放り出さずになんとかやっていってくれる人だと。知らぬが仏のように。花のように。信じている。相田ケンスケのようにパイロットの苦労を知識からいちいち想像したりもしないから、単純というか純粋というか、信じてきた。悪いように見ない、といった方がよいかもしれない。が、ともかくそういった目をもつ人間が、そう見えた、ということは・・・・・。
自分の知らない碇シンジには、任されたもの以上になにか重要重大なことがあるのだろうか・・・・・少し、衝撃ではあったのだ。家庭的な人間であるからこそ、大爆発を招くガス漏れのような、災厄の匂いに敏感であるのかもしれない。
 
 
これらの感性をを男性語に翻訳すると「またやばそーことに頭つっこみやがってあのバカ。この前はたまたまうまくいったかもしれねーが、そうそううまくいくとはかぎらねえし今回は痛い目みてもしらねえぞ、と言いたいがそうもいかんのでなんとかするか・・・」、になる。どちらが賢そうなのかは言うまでもないのでいわない。
 
 
前回が海中に沈んだのなら、今回は空中で分解でもするのではないか・・・・そんなやばさがある。ここは魔法学園でもないし、そんなバカな話があるか!あっていいのか!と鈴原トウジたちとて力説したいのだが、なんせ相手が相手、天の使いを相手取る子供である。
 
 
 
「それは・・・・・・・切符かもしれません」
今までだまって紙切れを凝視していた山岸マユミが口をひらいた。
 
 
「?」
全員の目が眼鏡系文学少女に向いた。「これがか?行き先もなんも・・・・というより山岸、この文字が読めるんか?」鈴原トウジは自分の手にあるそれをもう一回よく見てみるが、その文字は自分の知識にあるどの文字とも系統系列がちがう。少なくとも英語でないのは断言したろ。
 
 
「・・・・いいえ、その唐草模様と十個の文字がなんとなく・・・似てるんです」
皆に見られて恥ずかしいのか、俯き加減になる山岸マユミ。そんな風情も最高!萌え!とホニャララになる相田・軟骨・ケンスケは放置しておいてよい。
「似てるって・・・・何なの?」洞木ヒカリがたずねる。足は止まり、いま耳は遥か遠くの汽笛を聞く。思い過ごしの闇をぬけてこようとする、何か。
 
 
山岸マユミは答えて、いわく。宮沢賢治だと。
 
 
「銀河鉄道の夜で、主人公のジョバンニがもっていた、天上へいける切符に」
 
 
 

 
 
綾波レイは呪いに侵されていた。
上位者の意向に逆らったために、重叛逆者としての烙印をその赤い瞳に灼きつけられた。
 
 
第二東京で「あの時」、何が起きたのか、何者が誤魔化されようとその瞳だけは知っている。顔が時計盤になっている、自分たちのものとは確実に用途が異なる種類のエヴァが天に浮かんでおり、そこから時を逆巻きさせるべくなんらかの力の介入があったのを感じて、
それになんとしても逆らったのだ。ここまできたものを「なし」にする権利など誰にも何者にもない。使徒であろうとエヴァであろうと。
天上を仰ぐ自分に、特殊の新式らしきエヴァ二体はその名を「バエルノート」「サタナウェイク」と告げ、この区域、ヨッドメロンに関わった全てのものたちの「時間を逆巻くこと」を一方的に通達してきた。自分たちがネルフの上位組織に所属する機体であることも。この行動は上位意志によるもので、素直に受諾すればなんの損害もないこと。証明としてゼーレの秘匿コードをエヴァ零号機の機能中枢に命令書代わりに叩きつけてきた。・・・確かに、それは本物で零号機は一発で麻痺状態に陥った。もし殺す気であるならそれで終わっていただろう。
千手観音にも似たバエルノートの声は高圧的であくまで命令者、上位意志の代弁者として情け容赦の欠片もないが、有能な事務者としての横顔もみせて、「可能な限り記録はしましたが、記録漏れがあり、この領域からあの領域までは破損の恐れがあります」ときっちり明示してきた。ご丁寧にけっこうな量のデータを送ってきた。別に謝罪するわけではない、「だから、それらはこの世からの消滅事項となります」という一言の付録なのだろう。
辞書と同じで付録をつけるのが好きなのかも知れない・・・・ふと、そんなことを思う。
それとも、遺伝子だけ冷凍保存してまだその種は絶滅していないといいはる図鑑だろうか。
記録さえしとけばいいというものではないが・・・・・
おまけに「あなたが記録しているからといって、わたしたちにはなんの関係もないわ」と綾波レイが何の気なしに正論を言い返すと、相当にそれがお気に召さなかったようで
「そんなこと言うなら、記録は全て削除するけれどいいのね!!因果律が乱れてパラドクスの傷が魂につくけれど、いいわね!!、あなたのせいよ!!」などとヒスを発生させて逆ギレしてきた。こんな反応は予想してなかったのだろう。
もしかしたら欠片ほどには慈悲というか哀れというか情け心があったのかもしれない。
それとも単に調律者として空間の損害率を下げようという計算高さによるものか。
いずれにせよ、本性は伺い知れない。知る気もない。
「勝手にすればいいわ」黙っておけばいいのだが、葛城ミサトの悪影響が出たのか、ついやってしまった綾波レイである。後から来て任務の邪魔をしようというのか・・・・
この状況下タイミングでの介入はヨッドメロン回収が目的としか思えない。今さら・・・
ドふざけんな、そうはイカの金閣寺じゃい!おりてこいやゴルァ!!と葛城ミサトならば殺意まるだしで大吼えしたことだろう。
その彼女もすでに時に流されてしまっている。参号機も黒羅羅明暗もすでにここにはいない。ATフィールドも効果はないらしい。わずかながらに綾波レイ・零号機が抵抗できているのは、ひとえに蓄積された旧い血筋の、綾波の血の中にある「何か」のせいだ。それが時の直線退行に歪みと別ベクトルの動きを与えて鈍らせている。
「ナニ、いつまでもゴソゴソうろついてんだよ、テメェは・・・・」
己の逆行能力、時の逆輪姦に耐えるエヴァ零号機をサタナウェイクがその右手の眼球で憎々しげに睨みつけていた。バエルノートとは別の意味で下位者への敵視を始めている。
「トッとと戻れってんだよ!!黒いタマネギみてえにようっっ!!」
愚輪!!
平坦なベルトコンベアーが突如、急角度のエスカレーターしかも逆向きになったように時の逆回転の勢いが強くなった。が、これもエヴァ零号機は抵抗する。どうやって抵抗しきれているのか綾波レイ自身にもよく分からない。覚えのない献能された力の一つが自動的に働いてくれているのかどうか。だが、これにはサタナウェイクもバエルノートもかなり動揺した。
「なんでなんだ・・・・・なんだこいつは・・・・・なんで逆らえるんだ・・・・」
「まだ機動試験中の機体といえど・・・・プロトタイプが終時計式に叛逆できるなんて・・・・・?」
この驚きを、仮にこの場に日向マコトがいてモニターしているとして、機動戦士ガンダム形式で算出見積もってみると、これはもう、旧ザクがνガンダムのフィンファンネルを全部よけきったようなものに匹敵する・・・のだろう。だが、これを綾波レイが好きなウルトラシリーズに換算してみると、初代ウルトラマンは時を経るごとに役職づいて偉くなり、最近の若手に必ずしもひけをとるとは限らない・・・・もしやその威厳や戦闘経験の差で勝ってしまうかもしれない・・・・というわけで、驚くには値しない、といえるだろうか。ともあれ、この場合は後者の例えの方が適当であるのだろう。
かりっ・・・・珍しく、綾波レイが歯を噛みしめる。今、この瞬間にも流れる、流れてゆく時間の味を確かめるように。自分の立脚点。それを刻の涙の味が教えてくれる。
同時に、それは、ファーストチルドレンにはまこと珍しく表にあらわす闘志。
 
上位組織が自分たちが使徒との戦闘で得たデータをもとに新式のエヴァを製造しているという雲のような霞のような話は聞いたことがある。単に戦力増強ではないらしいが、何に使用するかは分からない。とはいえ、その最低限の用途として、自分たちが万が一エヴァをもって反乱を企んだ時に鎮圧する程度のことは含まれるだろう。これは世の道理。
ただ、碇シンジのエヴァ初号機と、もうその可能性はなくなったが渚カヲルの四号機が組んだ時にどこの大怪獣が二人を倒せるのか不思議に思ったこともあったが、なるほど、こんな反則手段を考えていたとは。走狗煮るための機体か。ハードボイルドなことだ。
強くなくては生きていけない、敗北するものは生きる資格もない、なるほど。
 
上位組織の意志、いわば上意になぜ従わないのか。つまり、この者たちは、代弁しているだけとはいえ、葛城ミサトより偉いわけだ。たとえ直轄であろうと、異議を唱える前にどうせ直属の上司の首が吹き飛ぶのだ。この場に碇ゲンドウがいれば、自分に停止を命じるだろう・・・。なぜ逆らおうと、血が熱く騒ぐのか。そんなに見も知らぬ操縦者を助けたいのか。分からない。大人しく、素直に黙って、今頃惜しくなったらしいヨッドメロンを回収させて、云うことに従えばいい。なんの問題も、波風もたつことはない。
彼らはこれ以上ないほどの正確さと清潔さでことを処理、なかったことにしてしまえる。
誰にも遠慮はいらない。だって、これは起きなかったこと、になるのだから。
今日一日がそれほど大事な、大切な日であったか?
ユイおかあさんがきてくれたような特別な日であったか?そんなことはない。
見せられたのは、順当にひどい有様の機械の修羅場、悪獣の胃袋にも似た人の欲暴。
消されてしまっても、なんの問題も・・・・・
たかの知れた、人の一日
この歪んだネジのようなひとかけらを失っても歴史はそのまま駆動していくだろう。表の歴史は
 
 
ああ、そうか・・・・
綾波レイはふぃに、己の血の中にある、この時の逆流からなんとか踏みとどまらせている「何か」の正体に思い至った。突如、閃いたのだ。別段、特別な力などではなかった。
悟る。ああ、こんなところにある。
「こんなこと」が、運命神気取りの上位組織エヴァの力が及ばぬようにしていることが、なんとなく、笑える。このことは絶対に覚えておこう。”そういうことがあったのか”、と。
なんのために時を遡らせるか、確かに、「それ」は天敵に違いない。
 
 
自分の裡にある叛逆の意志に綾波レイは従い、逆行していくすべての世界から切り離されても、あくまで踏みとどまることを決めた。同時に、この逆巻く流れに踏みとどまることができたから、自分の中にある反抗の意志に従うことに決めた。これは対であり連なのだ。
 
 
これはあやまりであり、あやまちなのだろう。血が命じる。
もう一度、あやまちをおかせと。その罪をもう一度おかすべしと。
よりよい選択などなく。ただもう一度、同じ巡りを。時計の針をあらぬ方向にねじ曲げて。
それこそが終わりの時計を破壊する唯一の・・・・
 
 
零号機の単眼は、終時計式の時の逆巻能力のカラクリを見抜いた。
一度、立ち会えばその技を見抜く剣法達人の眼力が、その赤い瞳には備わっている。
 
「あるもの」をもつ人間には彼らの能力は、通じない。能力自体がまだ調整を要するなり未完成なのかもしれないが、おそらくこの見立ては当たっている。
「戻れ戻れ戻れ・・・・・モードーレーてんだよっっっ!!こびり付いてねえで流れろ!このセメントでぶっっ!!」
ますます必死に押し流す力を強めようと右手をグルグル回すサタナウェイクであるが、もはや通じるものではない。通じればいいが、そうでないとかなりキ印っぽいアクションではある。どこに目をつけているのか綾波レイに対するでぶ呼ばわりもむなしい。この身は風車・・・・そのイメージの発動のもとに零号機の涼やかな単眼が力を吸い込み勢いよく回転する・・・仮面の二輪運転者のように変身こそしないものの、その能力の分析をしながら、昔の仕事を思い出す・・・・このような反則能力を用いる相手には、こちらも半ば封印していた能力を用いて対してもかまわぬだろう。存分に、心の底の奥の魂の隅から隅までこちらは洗い尽くしてあげる・・・・でぶと呼ばれてキレたわけではない綾波レイはいつでも冷静である。情報は武器となり、機密は兵器となる。そして、それは交渉の道具としても転用可能だ・・・いくら上意組織といってもこのやり方はあまりに唐突で足並みが揃った議決とは思えない。カンにすぎないが、なんらかの実験や勇み足という可能性もある。複雑怪奇な上位者の色ではないような気がするのだ。
機動試験中・・・・ということは正式にエントリーされているわけではない、ということは・・・・そこにつけいる隙がないわけではない・・・・
「それよりも停止コードを多重無限送信してやった方がいいわ!機械的なアクセスの方がこの子には有効よ・・・さすがに使徒を殲滅し続けてきただけのことはある!」
おっと、バエルノートは多少、頭が働くらしい。もし惣流アスカ、彼女であればそんな程度のことは即座に思いつき実行していただろうに。能力に固執せずに。碇君は無理だけど。
プロトタイプとはいえ、戦闘の時間に磨かれてきた機体が駆け引きで遅れをとるわけがなく。踏みとどまる足場があればもはや戦場の立ち居振る舞いには歴然の格差があった。
2対一ではあるが、エヴァ零号機は確かに終時計式二体を圧していた。貫禄が違う。
「クソったれがああ!!こうなりゃ他の連中を限界ギリギリまで逆巻いてやるあああ!」
思い切り固執しまくりのサタナウェイクが本来の任務を完全忘却して叫んだ。
あまり知性の感じられない雄叫びではあったが、それは綾波レイの弱点を突いている。
その限界ギリギリというのがどこまでなのか分からないが、「やめなさい!!そんなことをしたら・・・」バエルノートが顔色を変えて激しい制止をかけたあたり、かなりまずそうだ。
撃ち込まれたゼーレの秘匿コードのために零号機は半身麻痺、おまけに相手は空の上。ぶん殴ってやめさせようにも手は届かない・・・・もしか江戸時代とか原始時代とかに流されたら。
 
「・・・やめなさい」
 
あるいは、やめて、という懇願形が良かったのかも知れないが、「オレに命令すんな!!ザケんじゃねえぞ!!こいつらセカンドインパクトのド真ん中にブチこんでやる!!!」その命令形にまたサタナウェイクがヒートアップする。この距離ではなんとしても飛び道具が必要。それも、彼らのフィールドを刹那に一撃で射抜く火力をもった・・・・
 
 
 
「やれやれ・・・・正直レイちゃんはネゴシエーターにはむかないね」
 
 
ぎょっ
 
この期に及んでまさかまさかの声を聞く。この声は・・・・・覚えがありすぎの声は
 
 
「そんな・・・・」
いつの間にか隣に消えたはずのエヴァ壱万号機が立っていた。
その肩には、オリビアが乗っており。空気振動によらぬ声は、彼女から発せられた。
その伸ばした右手には紅い銃・・・・炎名・魔弾装填済みが。
そして、なにか洒落るように丁寧に肘を曲げて左掌の上に何者かを乗せている・・・・
 
 
「あなたは・・・・・」
 
 
見覚えのある、白銀の少年・・・・・穏やかな笑みをたたえている
気を失っているらしい赤い髪の、裸の少女を抱きかかえて・・・・
ぼんやりと緑の光に包まれており・・・・それは現実味がないというよりは、神話的光景としかいいようがない。なぜなら
 
 
使徒
 
 
渚カヲル・・・・・見間違えるわけがない・・・・・彼は変わっていないように見える。
何も。けれどすでに。自分たちに見せてきたのと変わらぬ笑顔を浮かべながら。彼は。
 
 
「なかなか骨が折れる仕事だったけれど・・・・ようやく解き終えた。退化の十法、完了だよ」
もともとその解法は彼に伝えられたものだ・・・・経験のない自分が行うより遙かに安全で確実であっただろう・・・・そうすると、赤い髪の子は・・・・ジャムジャム。ヨッドメロンとの接続は完全に完璧に切断されたようだ。きれいな瞼だ。満足げな、幸福な夢をみている幼子のような、笑みを口元にうかべている。望みに望んだ白馬の王子様に助けてもらう方がそりゃ数十倍幸福なことであろう。だが、綾波レイの表情は凍りついたまま。
 
 
「こんな身体になっても、こういう仕事は”メタトロン”、君のガイドがないとむつかしいねえ」
その呼びかけに応じるように、エヴァ壱万号機が化けの皮、万華鏡を分解するように輝きながら偽装を剥離散華させていく・・・・。
そこから現れるのは、TRIAL10000の表示がある籠手らしきものを装着した白銀のエヴァ四号機・・・・「ああ、四号機はもうエヴァじゃないものに変わったの。カヲル君と同じにね・・・・・”メタトロン”は、新しい名前だよ」
オリビア・レリエル・・・そうとしか呼びようがないのでそう呼ぶ・・・・が説明を加える。
 
 
「なっ!?・・・パターン青・・・・・・・”使徒”・・・・でも、こんなの使徒名鑑には・・」
「どっから流れてきたんだお前らあっっっ!!これ以上邪魔者・・・・
 
 
 
「うるさいね、君たちは」
 
 
バエルノートたちの驚愕と怒号と自らの笑みを吹き消して、人外の表情を見せる渚カヲル。
 
上も下もなく、ありとあらゆる束縛から解放された、人を超越したもの。
 
壱万号機の・・・いやさメタトロンの右腕が動く。
 
迷わず、天上に向けて、月に向けて発射する。警告もなにもなし。過たず、サタナウェイクの右手を魔の弾道が貫き、爆砕切断する。それだけでは飽き足らないのか魔弾は対象物の急所を正確に見抜いており、ブーメランのような軌道を描くと右手の目玉に突き刺さり、その無限大の殺傷力を存分に注ぎ込ぎ高速で攪拌し続けた。それで破壊されない目玉は大したものだが、おそらくはメジュ・ギペール式で接続されているであろう、サタナウェイクの視神経はたまったものではない。
 
 
「UVoWWWWWoOOOOOOOOOOO!!!!」
サタナウェイクの、不死身の悪魔が滅びるような悲鳴が月天に轟く。それだけで穿たれクレーターの数が一つ増えたかのような重音の凄まじさ。
「な、なんてことを・・・・・ひ、ひどい・・・」非難と動揺が入り交じったガラスでできたオウムのようにそれを繰り返すバエルノート。まさか上位組織の全権大使である自分たちが撃たれるだなどと予想どころか夢想だにしなかったのだろう。いきなり乞食犬に噛みつかれた王女様のような狼狽えぶりであった。終時計式とはある種の儀式用であり正真の戦闘用ではないのかもしれない。
 
 
「・・・・・・」
綾波レイの赤い瞳は厳しい。これは使徒とエヴァとの戦闘現象なのか、それとも時の果ての悪夢なのか。人の身でこの場に立つ者として目を逸らすことは許されない。目の奥がちかちかする。激しい耳鳴り、強い頭痛・・・・ケタ外れの絶対領域が展開されている。
るおん、うおん・・・・・零号機の装甲が軋みをあげる。
永久に逃れることができない迷宮に最大サイズの竜巻を何十個か放り込まれた感じだ。
意識を保つ・・・保たねば・・・・そして、人の意志から言葉を発せねば。
この好き勝手に出現して、好き放題にやる連中に言ってやらねばならない・・・。
 
「い、今の・・・なし、そんな・・は認めな・・・から!!」
「時の・・修正は一度限りというのがタイ・・・ムト・・・ベルもの・・・・お約束・・・だけ・・どねえ・・・
君た・・・はその法を・・・越え・・・うのかい?」
障壁の向こうで聞こえる声は、雑音まじりで嵐の山荘におかれた古びたラジオのようで。
彼らとの距離が遠ざかるのが分かる。力の差、それは世界への介入レベルの違いだ。
階梯(ステージ)を上げられて、自分はついていけない。そんな力はない。
彼らはこの世界を形作る理に対して影響を及ぼせるらしいが、自分にはそんなものは。
人間はいつもそうだったのだから。過去。まるで、過去が未来に触れられないように。
自分には、手が届かない・・・・・でも
 
 
でも・・・・彼なら・・・・・エヴァ、初号機専属操縦者・・・・・
 
 
終時計式、そして”使徒”、双方ともに、自分を生かしては帰さないだろう。
自分の瞳に映ったものは、彼らにとってあまりに都合の悪い真実。隷属の道もなし。
ここがいわゆる時の狭間、なかったことにされる、というなら、自分もやはりいなかったということにされるのだろうか。これも因果応報というものだろう。それに関しては覚悟しているが、心残りがあるとしたら・・・・
 
 
碇君・・・・・・・・・・・・
 
彼には、負けて欲しくない。・・・・・・・もう少し、やさしいことを想ってあげられたらいいのだろうけれど。自分はここで敗れるけれど、あなたは。まるで立ち会いに破れた剣術士が弟弟子に策を授けるような・・・・・無意味な迷惑かも知れないけれど
 
 
ことばよ、よるのかぜになれ
 
 
祈るように願うように呟いたとたんに、ガコン、と世界の照明のブレーカーが落ちたように全てが暗黒に包まれた。さながら、おうじょ様をさらい、かいぶつを配下にして、やたらにせかいを支配したがる、あくの大魔王さまが出現してくるぞ、というような。闇。
究極の絶対領域なんてものがあれば、このような闇になるのかもしれない。何も見えない。
これには抵抗もなにもできなかった。あっさりと意識が闇に呑み込まれる綾波レイ。
突如として節操のないそれは、もしかしたら、死に属するものかもしれない。
それなのに抵抗できなかったのは、その闇が拒絶するものではなかったから。
自分が考えていることよりも、もっとずっとなめらかでやさしい。
その闇の中では、自分の意志が碇シンジに届くことが確信できた。きいてくれる。
真実を伝えるものは、不幸の使者。しらなければ、しあわせだったのに。
そんなものにならずにすんで、しあわせだったのかもしれない。
誰もそんな役割を望んではない。
 
 
もう、いいことなんて、おきない・・・・・・じぶんには
 
 

 
 
目が覚めたのは軽い警報音のせいだった。機器トラブル・・・・センサーエラー・・・・自動復旧がかかり、正常に戻る。綾波レイの衰弱した身体はさらなる深い睡眠を要求して、それに従い再び眠りにつこうとしたが、赤い瞳は閉じなかった。こちらからコールはしなかったが、エラーを察知したのだろう、少々慌てた感じの医師と看護婦が駆けつけてきてくれた。
 
喉の包帯はまだとれないが、臓器等に損傷はないし実際に機器の世話になっているわけではない、ただ眠っているだけで生体データの数値測定の乱れが生じるくらいでそんなに急ぐことはないのだが。
ちょっと不審に思った。使徒の来襲では、ないようだが。すこし首を巡らして、時計を見てみると、もう夜だった。
 
「・・・・・・」問うてみようとするが、声が出ない。そうだった。
 
「あ、ああ、起きていたのか。いやいや、ちょっとした電圧降下でね。新型機器をいれてもらったのはいいんだけど、工事に手違いがあったようだよ、ははは」
それでも医師はきちんと患者の声を聞き取って、安心させるように、下手な嘘をついた。看護婦はてきぱきと機器のチェックを行い、動作異常がリセットされているか見ている。
わざわざ懐中電灯で照らすような面倒をしなくても、起きてるから病室の照明をつければいいのに・・・・誘導灯の緑の光がやけに強く目を刺す。逃げる白い緑光の人のマーク。
 
「先生、バッテリーは大丈夫です」「・・分かった。眠っているところを騒がしくしてすまなかったね。あとは何の問題もないから、ゆっくりおやすみ」
寝起きのぼんやり頭でも、なんとなく勘付く。もしや・・・・・
 
 
使徒の来襲ではないけれど、なんだか相当にやばいことが起きたらしい・・・・。
 
 
「・・・・・」異常の種別を目で問うてみる。半身を起こすこともできそうにない。けれど、そのままゆっくりおやすめるわけもない。医師はそれを無視することもできただろうが、やはり答えてくれた。患者の気性を良く理解している。
「そんなに大したことじゃあないよ、ただの、といっては語弊があるが、停電だよ。この本部も血管というか、いや、配線があちこち痛んでいるというわけかな。すぐに直るよ、それじゃあ」
「あ、なにかほしいものはある?機械の音で起こされたんじゃ、すぐには眠れないわよね」看護の気配りというよりは、この件にふれてほしくないらしい。まあ、この状態の自分が何かの役に立てるわけでもない。
使徒ではないなら、少しでも休んで体力を回復させておくべきか・・・・・
体力がないと気力もわかないし、何もやる気がおきない。心が動かねば、体も動かぬ。
 
「・・・」
かるく首を振ると、明らかに二人ともほっとしたようだ。おそらく、他の病室にもまわるのだろうし、ここでぐずられては困るのだろう。入ってきたのと同様に、少し慌てたように出ていった。通路から漏れてきた光も弱い。以前の停電事件で電送設備は補強されている・・・・すぐに復旧するだろう。エラー音が鳴ったのもそれはそれで正規に作動している証拠。
 
心配はいらない。もし使徒であるなら嫌でも呼び出しがくるのだから。瞼が下がっていく。
今度は少々機械音がしようが外が騒がしかろうが雷が鳴ろうと起きられそうもない強烈な眠気が襲ってくる。だいたい、呪いを受けた自分の身体はすでに半分死んだも同然で、この眠気は死に神が手招きしているのかもしれない。他の者には見えないが、赤い瞳に刻印された呪い。こんな目であまり現世のものを見てはいけないのかもしれない・・・・。
裁定を待つ身があまり関わりをもつべきではない。いつまでこの都市にいられるか。
すでに調調官の裁定は下り、この停電騒ぎは自分を連れ去る布石かもしれない。
ただの停電・・・、たこ足にして電気を喰う家電を繋ぎまくってブレーカーを落とす一般家庭じゃあるまいし、そんなことがこの本部で起きるわけがない・・・。
何かよほどのことが起きたに違いない・・・・けれど、力が入らない。気力が湧かない。
寝台の裏にブラックホールでも内蔵されたように、背中が張り付く。起きられない。
もしかすると、このまま二度と目が覚めないかもしれない・・・・・そんな予感さえなんの触媒にもならない。泥水に火花を落としたほどにも。ねむたい・・・・ねむりたい・・・・・・なにがおころうと・・・・・なにがどうなろうと・・・・それでもかまわない。
 
 
赤い瞳は・・・・
 
 
「シンジの奴がやらかしたぞ」
 
闇からのふいの一言で、完全にとじようとしていた瞳が一気に見開かれた。
まるで赤い光が爆ぜたように。声の主は・・・・・いつの間に入ってきたのか、黒羅羅明暗。暗殺者のような位置取りで綾波レイを見下ろしていた。突き下ろすのは言葉のナイフ。眠気も脱力感も鮮やかに切り裂かれた。途端。
医務室の照明がぱぱっと点灯し、ふたたび医療器材たちがエラー音を発し始めた。
碇シンジ。その名がスイッチであったかのように。脱皮でもするような動きでなんとか起きあがろうとする綾波レイ。白く羽化する様子をのんびり観察するヒマはないようで、明暗は綾波レイの肩にすい、と手をおくと紙人形でも折るような軽々しさで衰弱しきった病人から、駆け出す決意を決める正座の女をつくりあげた。関節技と整体が究極の高度で融合すればこんな真似ができるのだろうか。驚くべきコトに身体に力が戻ってきている。
それでも声は出ないが、これからやることに必要は・・・多分、ないのだろう。
自分たちは力の世界の住人だ。明暗の目がそう言っている。
 
「背や胸の、身を養う邪魔になるからあまりやりたくねえ力技なんだが、今は時間がねえ・・・・すぐに決めろ、シンジを引き止めるかどうか。あのバカ、鉄棒で天に昇る気だ」
 
どういうことか、と解説を求めない。それですぐにわかる。予感が現実になろうとしているだけの話。単純な、彼のことはすぐに分かる・・・・だから。即断即決。
これからどうするか。・・・・やるしかない。他の人間になんといわれようとも。
碇君を行かせるわけには。天上に・・・・・使徒のもとへいかせるわけにはいかない。
 
 
碇君まで・・・・
 
 
急がないと・・・・・家にいるというから安心してたけど・・・・後手にまわってしまった・・・・なんでそんなことは碇司令に似てるんだろう・・・・・あの親子・・・・
葛城ミサトと相通じることを考えてしまう綾波レイである。
付着する何本かのコードを外すのももどかしく綾波レイはベッドから飛び降りようとした。明暗は飛燕のごとくそれをさらうと、おんぶして疾風と化して医務室を駆け出す。
「服に着替える時間もねえが、かまわないだろ?どうせプラグスーツになるんだ」
「・・・・・」
背でこくりとうなづく綾波レイ。
「戻ってきた日にこれだからな。まったく退屈しねえなあ・・・・おかげで赤猫の引き取りにもいけやしねえ」
恐ろしいスピードで人間特急と化している明暗は綾波レイの、説得は無駄、実力行使あるのみ、という判断の正しさに満足したように牙をむきさらに速度をあげた。やはりトラブル対応に駆け回っている本部スタッフを次々に追い抜いていく調子はほとんどレースゲームだった。妙に照度が強い通路に出れば空気は緊迫しており、発生しているトラブルのでかさを肌で感じ取れる。「・・・オーバーロード・・」「・・外部からの操作・・・」「・・・緊急交通封鎖・・」「・・・エヴァ初号機・・」やばそうな単語が高速の鼓膜に突き刺さる。それでも自分たちの文字通り群を抜いた速度は皆の注目を集めていた。中には呼び止めようとした者もいた感じだがその声も届く前に置き去りに。人間特急明暗号がどのくらい速いかというと、医師たちが再び綾波レイの病室に駆け込むより、綾波レイを背負った明暗が発令所に辿り着く方が速かった、というのだからまさに尋常ではない。しかし、これでもスタートラインが大幅に先の方にあったあまりにもズルすぎる碇シンジにはまだ及ばない。
 
 
 
「あんたたち・・・・・」
発令所は使徒の来襲でもないのに大騒ぎで蜂の巣をつついたようであった。その中で指揮を執る葛城ミサトが明暗と綾波レイの姿を認めた。さすがの目の速さであるが、明暗の背陰の綾波レイを見る目は苦かった。だが、綾波レイの目はメインモニターの方へ釘付けに。
 
 
映し出されているのは第三新東京市の、夜の市街。その中を黄金に輝く巨大な物体が屹立しようとしている・・・・道路に埋設されて横に寝ころんでいたものが扇形を描きつつ直立まであとわずかの位置まで起きあがっていた・・・・・”それ”は・・・・
 
 
 
 
エヴァ初号機専用の、渚カヲルから碇シンジに贈られた、おそらくは世界最大最強の友情の証にして、何十体もの使徒を一撃で焼き払う威力を持つ、世界中の大魔王垂涎の一品・・・・。綾波レイも科学の砦、ネルフ本部発令所でこんなことをいいたくないのだが・・・・・「魔力」・・・それもすこぶるつきの大魔力を感じる。大量の電力を用いて鉾内部の秘儀錬金術システムが稼働して現実世界を侵食してありえない現象を引き起こしている。第二東京で起こったものとはまた別類の・・・現魔象。それも超特大の。
 
だが、その傍らにはそれを振るうべき機体、エヴァ初号機の姿はなく、鉾は内部でジャイロでも回しているように単独で、周囲に膨大な電力、磁力その他のエネルギーをまき散らしながら自力で自らをその位置まで引き上げていた。エヴァ初号機は自分のケージで大人しくしていたので全然悪くなかった。というより、予想はしていたものの、こうやっていざ自分の目で見ているとその光景の意味を解釈するのに時間がかかった。いや、宇宙人がやってきたというよりもインパクトのある光景である。実際、目の前で起きているにも関わらず受け容れがたい・・・覚悟を決めてきた綾波レイにしてもわずかな時間、こうやって魂を奪われたのだからなんの予想もしていなかった者の衝撃は推して知るべしである。
信じがたい・・・・・・その思いに囚われて麻痺してしまってもおかしくない。発令所内のこの騒ぎ方も、事態の収拾に直に向かっているとは言い難い。当然の事ながら技術部総掛かりの大汗かいて必死の鉾の呼び戻し操作やら弾かれまくっているが内部の機能モニタやら市街状況の情報収集分析報告各方面への連絡等々、最低限のことは行っているがさすがのネルフ本部スタッフも迷走状態にあった。これはもう指揮者の貫目、責任である。が、総司令の碇ゲンドウは不在であり、冬月副司令も人類補完委員会に呼び出しをくらっており不在、となるとここはやはり使徒の来襲ではないがエヴァ関連となると葛城ミサトか赤木リツコ博士が仕切らねばなるまい。そして、鉾・・・・装備関連となると、知識に乏しい葛城ミサトよりはここは赤木リツコ博士の領分ということになろうか。
 
だが、その当の本人はゴーゴンのような目でメインモニターを睨み付けるだけで何も指示を出そうとはしない。唇からボソボソ何か呟いているが、それは憤怒の泡滓のようなもので、他人が触れたらケロイドでは済みそうもない。聞けば耳が溶解するだろう。伊吹マヤは不運なことにその目で直視されてしまい石になってしまっている。どんな守銭奴でも全財産を渡しますから勘弁してください、と泣き出しそうな極悪極まる目つきであり、その正面に立って言葉をかわせるのは・・・意志の疎通が可能なのは葛城ミサトしかいない。
科学者の顔をしていない。科学者の目をしていない。賢者が魔物と化している。冷静さなど溶岩に放り込まれた雪のようなもの。もともと今日は朝からトサカにきていたのだ。綾波レイが声を奪われて帰京してきて身体を調べてみれば呪いの刻印を受けているわ、奇妙なエヴァシリーズの腕は持ち込まれるわ、JTフィールドは土産にもらってくるわ、独断で適格者の可能性が非常に高い子供を南洋実験諸島などに預けるわ、碇ゲンドウは不在だわ、なんで使徒も来ないのにこんなにハードラックな試練な目にあわにゃならんのか誰か教えて欲しかった。答えられぬと知りながら葛城ミサトには特につくづく切実に。
だが、それでもまだ我慢できた耐えられた。科学者だからである、賢者だからである。
それでも、耐えられないこともある。そのメンツが潰されればなおさら。
あの鉾がこちらの与り知らぬうちに、外部から勝手に動かされる・・・・・
 
 
あの鉾を造ったのは渚カヲルであり、それは、
四号機ごと消えてしまった彼の、この都市に残った最後の縁(よすが)
 
 
女の・・・・母性的な、カンであろうか、赤木リツコ博士は推論でもなんでもなく、そのことを感じ取っていた。あれこそは、渚カヲルのもとへと到達する唯一の道なのだと。
もちろん、同情されるのも哀れまれるのもまっぴらなのでそんなことは誰にも言わない。
妄信の類ではあろう。が、碇シンジは今その道を使用しようとしている。もしこの鉾が折れるなりすれば、縁は切れ、彼の消滅を認めることができる、と。この世であうことはない。もう、二度と。絶対に。0%にして100%。刹那それは、墓標となる。
 
 
何者とも知れぬ相手に無断で、その鉾が操られる・・・・・
 
それだけは耐えられない。抉られる、傷つけられるなどというなまやさしいものではない。胸にある虚ろな空洞をさらに拡張されて酸で満たされたような・・・・・強く強く祈る、その者の消滅を。
魂はそれのみに囚われて、なぜ?どうやって?そんなまねができるのか、冷静な分析などできるはずもない。彼女に出来なければ他の者にもできまいし、なにより細工は朝に行われているうえに、なんの痕跡も残さないようになっている。もちろん碇シンジの手柄ではなく、渚カヲルの手配である。その上、あまりにも時間がない。鉾の動きは唐突ではあったが、周囲の状況に十分に留意するよう上位コマンドを市街の各システムに走らせつつ、これだけ大掛かりのアクションがなんの予告もなく行われたのに、人の命にかかわるような事故はひとつも起こらなかった。自販機でジュースがでてこなかったり、電話機が一事不通になったりあちらこちらで瞬間停電が起こったりもしたが、被害は事態の規模を考えれば反比例した極小であるといえる。
いきなり動脈を一部分抜き取ったようなものである、それでいて周囲を赤色に染めない。街の流れをよほど詳細に見極めていないとこんな芸当はできない。市民はそれはたまげていきなり屹立をはじめた巨大兵器を見上げている・・・・それでいて、使徒の来襲と勘違いしてシェルターに逃げる者が一人としていないのは、奇妙ではあった。鉾の輝きが彼らの足を止めさせて、まるでこれから起こる何事かを見届けるよう命じているように。
 
なにかが、やってくる・・・・・懐かしく、よくしっていたはずの、なにかが。
 
自分たちが過ぎ去ってきたなにかが。
 
はるかに聞いていたそのなにかの出現音が耳の奥に蘇る。
 
現役でそのなにかを感知できるものの目の奥には引き込まれそうな輝きが宿る。
 
これから・・・・・その見上げる市民の中に、どこかへ駆けてゆく相田ケンスケ、山岸マユミ、霧島マナの姿があったのだがさすがにメインモニターにはそこまで映らない。
こうやって見守っていても埒があかない。即、外部操作している人間を捕まえて鉾を収める必要がある。さらにいうなら、この屹立がいつバランスを崩して倒れ込むか分かったものではない。ロケットの発射台のように支えがあるわけではない、鉾はあくまで自力で起きあがっているのだ、なにかの調子が狂って・・・たーおーれーるーぞー、となった場合の被害は・・・使徒来襲時と異なり、その足下には多くの市民がいる。急いでその場から離れるように警告する必要がある。このくらいの指示は葛城ミサトの領域であろうが、修羅場をさんざんくぐってきた、ここ数日もくぐってきた作戦部長にして、言葉がない。
結局、碇シンジはまだ見つからず、連絡はとれるが居場所を教えない「どうしても、今夜は友だちのところへいかなきゃならないんです。一泊するかもしれません」などと。あたしをウメボシ婆さんにする気かい・・・実力行使しちゃろうにも相手は携帯ごしで好き勝手にのらりくらりと・・・・それを眠り続ける綾波レイにも告げられず、本部で悶々苛々としていたところにこの騒ぎ。作戦部、そして保護者として告げることが憚られたが・・・・この騒ぎの元凶がほぼ、8割くらい、うちのシンジ君であるのを感じ取っているせいだ。
0,01%くらいで、第二東京=時田=真・JAラインからの操支配力攻撃・・・って可能性もあるけれど。・・・・まあ違うだろうな。杞憂すぎる。使徒の新手・・・も恐らく。
この感覚はなんに例えればいいのか葛城ミサトも迷うのだが、あえていうなら・・・助手の小林少年が二十面相に籠絡させてしまい、悪の弟子となってしまったリンゴの頬をもつ小林少年と事件現場で出くわしてしまった明智小五郎というところだろうか。
微妙な例えだが、葛城ミサトの胸中はもっと微妙で複雑なのである。
だが、怪盗が宝石を盗んだどころではないこの規模の騒ぎで、絶対の確信もないのにまさか「犯人はシンジ君よ!」とはさすがに言えない。むしろ、赤木リツコ博士のツラ構えと眼光を見るに秘匿の方向でいきたいところだった。・・・・ただではすむまい。
 
だが、同時に、シンジ君が絡んでいるなら・・・鉾屹立時の事前交通整理などを見るに・・・・人を傷つけるようなことにはならないのではないか・・・・・逆に下手に手を出して彼の段取りを狂わせることになるか・・・・とも、思うのだ。かなり身内びいきが入っているのは認めるけれど。ちょっち、こりゃあどうしたもんかねえ・・・
これでもし、相手の心、相手の腹の内が読めていたら葛城ミサトと赤木リツコ博士はとっ組み合いの刺した刺された殺った殺られたの大喧嘩になっていたことだろう。
ネルフもおわりだ。
分からないからこそ、均衡をとりあえず保っていられるわけだが・・・・・これは
 
 
子供を盗まれ腹をすかせた女虎に、千尋の谷から子狼を拾いあげて這い上がってきた女狼をぶちあてるようなものだ。その斜め後ろで老練のマタギのように野散須カンタローが立っていた。一喝をいれるにも、今回はそれだけで娘二人とも内部から破裂しそうな脆さがあるのだ。とりわけ、赤木リツコ博士の方は。とりあえず状況をギョロ目で見守りながら、必要な手を打っておいた。それが到着したようだ。
が、
「綾波のお嬢も一緒か・・・」
呼んだのは明暗一人なのだが、これは自らを人質と呼び、客分の分際を知る者のけじめなのかどうなのか、眠り込んでいる綾波レイを叩き起こして背中おんぶで連れてきていたことにギョロ目も多少、弱ったように真中に寄る。寝間着のままではないか。かといって。
もし、鉾はエヴァ初号機の専用兵器であり、使徒の来襲でもなく、それに関わるトラブルはネルフ内部で処理されよ、と正論を言われれば認めるしかない。”持ち主”である碇シンジはこの場に駆けつける気配もない・・・。
つい先日も、アスカのお嬢と相当に無茶なことをやったようだが・・・・・
今起きているこれも、もしや・・・ギョロ目が追求するように葛城ミサトを射抜く。
その眼圧に居心地悪げに身体をゆらす、が、まだエヴァを使おうとしない葛城ミサト。
これからどうなるにせよ、対応にはエヴァが必要になる。ありゃ人の手におえるものではなかろう・・・・勝手に雷砲撃なんぞをはじめたらどうするんかの・・・・なんせ溜まっておろうからな・・・・
何を考えとんかの・・・作戦部長どのは・・・・綾波レイの目を見る・・・・・エヴァあはパイロットの精神力がモノをいう兵器である・・・・・その戦気・・・・やる気なのであろう・・・おんぶされたままではあるが、それは十分伝わってくる。この気合いを見せられて迷っている段ではなかろう。だが、この悲壮な決意の程は如何にしたものか。
鉾の能力、強大さを身近に知るがゆえの緊張感だろうか。
 
 
「レイ、あなたは・・・まだ動ける身体じゃないでしょう。悪いけど、明暗・・・」
赤木リツコ博士の咎めるような石化視線が炸裂する前に、葛城ミサトが先を制した。
技術部としてはこの不始末はなんとか技術的に解決したいだろうが、鉾の動きはそれより早く、もはやその段階にない。いつもならとっくに怒鳴りつけていただろう野散須オヤジの手前もある・・・。さすがに決断する。
鉾は完全に市民の目の前に立ち上がってしまっているのだ。他ルートへの誘導はなされているものの、こんな時間帯に主幹道路を封じられてはドライバーたちも困るだろう。今の所は鉾をあんぐりと見上げたまま、文句もいわぬがすぐに手を打たねば。かといって、この状態のレイを使う気はなかった。それくらいならば、まだ・・・・アスカを使う。まだ薬が効いて家で眠っているけれど。客分に頼るみっともなさを重々承知しながら、第二東京から使いっぱなしの、しかもこっちの面子を考えてくれたらしい明暗を再び単独指名しようとするが
 
 
「その動けねえところを無理して来たんだ。何とかする気があるんなら、今すぐ命令してくれ・・・・・ほら」
葛城ミサトに近づくと、背負っていた綾波レイを渡してしまう明暗。まったく重さを感じさせない動きに反射的に受け取る葛城ミサトだが、いくら十四の少女でも相応に腰にくる。
そのうえ、綾波レイはがしっと、肩をつかむようにしてのびあがると葛城ミサトの耳に唇をつけた。囁きのつもりだったのだろうが、耳たぶを噛まれるような必死の勢いがある。声が出ない今、思いを伝えるには・・・
 
 
いかせてください・・・・・あれは・・・・・あの鉾は・・・・碇君が・・・・
碇君が・・・・・行ってしまう・・・・連れていかれる・・・・・・・
 
 
葛城ミサトの頭の中に直接、意志が伝わった。周りの者には囁き声に見えるだろうが、伝えられた当人には分かる。声の振動などではなく、これは・・・・
灼熱した針千本が心の井戸に投げ込まれたような感覚。綾波レイの切迫した心情がモロに伝導する、沈む夕日を呑み込む水平線の切ない音色が鼓膜を痺れさせ。何重にも展開する紅の虹のヴィジョンが目眩を生じさせる。はだかの心にはだかの心が溶け合うような、いわく言い難い・・・・精神汚染というには甘美な、桜桃と白桃のコンポートのような味覚が舌にひろがる・・・同調の代償としてしばし五感が少し狂ってしまうのだろう。だが、言いたいことはよく分かった。
 
 
碇シンジがなにものかに連れ去られる・・・・それで十分だ。
 
 
結局、あまり正確に伝わっていなかった。口頭で確認してみれば、それは少し違う、と綾波レイはかぶりをふっただろう。メッセージの深奥に「消滅したフィフス、渚カヲルとの再会」まで織り込んでいたのだが、そこまで到達できなかった。心情イメージ、精神の色合いがクリアーに伝わる分、能力がない人間に伝達できる内容が薄れ縮小される欠点がある。だがあまり強く刷り込んでしまうと、今度は相手の言語中枢が侵される危険性がある。
原初の人類が交感手段にそちらを選択したのは音声の方が結局は便利だったのだろうか。
綾波レイの方は葛城ミサトが碇シンジの不在の件を義理掛けを考えて伝えようとして、それが叶わず心の中で謝っている声を聞いた。不公平な交感レベルであった。
多分、うそつきの葛城ミサトにはそっち方面の才能がないのだ。だが、因果を受ける覚悟をし、肝が据わっているだけに、綾波レイのあやしの言葉を素直に受け取った。連れ去ろうとする者は、いつか、連れ去られる。因果は応報する。
やったことはやりかえされる。当然のこと。運命。大きな大きなベルトコンベアにのせられて、ついにコンベアが途切れる日がやってきたのか。自分を奈落に捨てこんで・・・。
ならば、逆走するしかあるまい。運命道理に大人しく従う気なんぞ微塵もない。べえ。
 
 
あの鉾は・・・・ジャックと豆の木、の豆の木にあたるらしい・・・・
当然、ジャックはシンジ君だ。シンジャックだ。なんか回転寿司屋チェーンみたいだけど。
 
 
交感が尻切れトンボに終わろうと、それを補うほどに葛城ミサトはカンがいい。状況の把握能力がやはりズバ抜けている。それに、てめえの子供がなにをやらかすか、親がわからぬ道理がない。そして、子供がやらかしたことは、親が責任とらねばなるまい。
目顔で明暗に綾波レイを返すと、葛城ミサトは一回、目を瞑ると、その後でカッと目を見開き、バイキングの親分のように号令斧手を振ると発令所に響き渡る一声を発した。
 
 
「エヴァ零号機、参号機、出撃!!
どんな方法使ってもいーから、あの街中でおっ立ってる”ジャックの豆の木”、切り倒してきて!!
よろしく」
 
 
この一言で後に作成される報告書に「ジャックの豆の木」作戦と呼ばれ、今夜貫徹大決定、第三新東京市殆どの住民が眠るどころでなかった一大スペクタクルが開始される。
 
 
「ミサト・・・・・・・・・・・」
「おいおい、作戦部長どの・・・ええんかの」
羅刹女のような目をむく赤木リツコ博士と、作戦家の常識的観点からあまりに一刀両断すぎることを言いだした作戦部長を諫めるような野散須カンタローに、葛城ミサトは
 
 
「全責任はわたしがとります。第一級戦闘配置」
ざわめく発令所をその一言で掌握すると、「その後で煮るなり焼くなり刺すなり好きにすればいい・・・・・・とりあえず、はっちゃけすぎの”あの子”を捕まえてからよ」
腕組みしてメインモニターを睨みつける。あとは各自職務に専念しろ、と身体全体で咆吼する。明暗も綾波レイもとっくにケージに向かっている。
 
 
「”あの子”って・・・・・・これをやったのは・・・・・・」
後とはいわずに今にも血の花咲かせに刺しそうな赤木リツコ博士の目が見開かれる。
碇シンジ。しかし、たかが子供に・・・・できるわけがない。が、あの鉾を造ったのも子供と言えば子供だ。碇シンジ、彼だけに起動できる秘密のシステムを組み込んでいた可能性は十分にある・・・・・なんせ、あれは彼が友人に贈ったもので、男の子はよくそうしたことを考える・・・・子供は。野散須カンタローと目があう。同じ結論を持っていたらしい。だが、今この場でその名を口に出すべきではないのう、と。言われるまでもない。
が、ちょっとあやうかったかもしれない。
 
 
「なら・・・・・」
それならば逆に、切り倒せ、というミサトの命令は解せない。レイに何を伝えられたのか。秘密にするのはこっちの専売特許かと思ったが、逆にやられてみるとかなりむかつく。
作戦命令に言葉の綾などというものはない。切り倒せといわれれば切り倒すだろう。
だが、活動状態にあるあの放電兵器を切断なんぞすれば・・・・しかも市街のど真ん中で
あまりにもムチャクチャだ。頭に血が昇っていたが、シンジ君が未だに現れないのは・・・・鉾をコントロールすべきエヴァ初号機が出撃出来ないのは・・・・・
自分も恥ずべきコトに冷静さを欠いていたが、思い切りや勢いがいいぶんだけミサトの方がさらにやばい精神状態にあるのではなかろうか。そんな危惧を感知したのか、きっとした横目で葛城ミサトが淡々と告げてくる。・・・ある意味、もっとやばいことを。
 
 
「分かってる・・・・・・あの子も本気だから。ちょっとやそっとのことじゃ止められない・・・・・それくらいでいかないと。リツコ、あんたには悪いと思うけど。
やらせてもらうわ」
大至急、市民はシェルターに避難させてビルの類も可能な限り引っ込める。対応の遅さが咎められようと自分の責任なので唐竹に割り切った気分は楽だ。大回転で急がせる。エヴァ二体があるとはいえ、鉾を破壊すればどのような被害があるかわかったもんではない。
あれだけ唐突におっ立ったものがそう簡単に鎮められるなどと考えるほど甘くない・・・まあ、表現がちょっとアレだけど仕方がない。アスカはいなくてよかったかもしれない。
あのご神体は・・・・・お祭り騒ぎの前触れか
ともあれ、ちょっと調子にのりすぎた。シンちゃんてば・・・・・第三新東京市民の皆様にかわってのスペシャルおしおきは覚悟しときなさいよ・・・・・。胸の携帯から碇シンジの確保の連絡は未だ来ない・・・・。出来ればアスカが目を覚ます前にケリをつけたい。
 
「だから、迷惑かけたくないの。フォローお願い」
続く言葉は短いが、赤木リツコ博士は友人の正確の意図を聞き取る。
 
「あの子の本気・・・・・・・・こわいわね」
呟いて、白衣を翻す。「マヤ、はじめるわよ」自分で石にしといて世話はないが、それでもその声で伊吹マヤの石化が解けた。
「せ、先輩・・・・に、人間にもどられたんですね・・・よかった」
 
「なにをいってるの?マギの未使用領域を全部統合しておいて、足りないような初号機の分を。責任はミサトが全部とってくれるそうだから、いくら人間をつかってもいいから、これから指示することを全部やって・・・まずは本部施設と市街のおおまかな被害計算・・暴発放電時の安全角度強度計算鉾内部機能のアンチモニタパニッシャー、念のため初号機と鉾との全ての連結を解除、鉾から市街施設への電路の全チェック、必ず痕跡が残っているから見逃さないで。シンジ君のID使用記録から・・・・・」この調子でざっと百個ほどの指示をよくもまあ出しも出したりだが、それを伝説のウエイトレスのように一つも聞き漏らさずに適材適所に割り振って手配していく伊吹マヤもはっきりいって人間ではない。
 
 
・・・・で、あとはコーヒーの出前。人数分のポットで。今夜も徹夜は間違いないわ」
 
子供が穴をあけて闇の向こうへ行こうとしたら大人は子供を連れ戻して、あとはその穴を塞がねばならない。連れ戻すのが作戦部長の仕事なら、こっちは穴を塞ぐ役。
渚カヲルもずいぶんと大人をなめたまねしてくれたものだが・・・・二度とそうはいかない。沈黙させられたこちらからの制御監視機能は、電源に鉾のものをそのまま使っているのが裏目にでた。鉾の意志でそれを断絶したなら復活のしようがない。メインの制御はエヴァ初号機の右腕ときているのだから、正味、力で止めてやるしか手はない。
被害が最小限で抑えられるようにベストの手段をマギで模索しようというのだが・・・
シュミュレーションは、しょせんシュミュレーションにすぎないのもよく分かっている。
初号機があの子の機体でないなら、そこからアクセスを試してもよいが・・・
時間の無駄だろう。今、シンジ君は・・・どこにいるのだろう。夜空に向かって雷の鉾を突き立てて・・・天上に、彼のいる場所に至ろうとでも・・・・・まさか
消えた子供を捜せるのは、一度、消えたことがある子供だけ・・・・・・埒もない・・。
この期に及んでの不様な思考を強制フリーズさせる。
 
 
それから、ここからは純粋に科学者の見立てであるが、実のところ、景気良くミサトは「切り倒せ」などと言っていたが、それはちと無理だろうと思う。そんな武器はない。
鉾はサイズもそうだが使徒の攻撃に対するバリケードに使用できるほど桁外れに頑丈にできている。バラバラの部品に分かれて運ばれてきたものを渚カヲルの設計図をもとに接合された代物だが、いまや結合して一体化してしまっていてどこにも繋ぎ目はない。
あれで一つの完成体であり、弱点らしい弱点はどこにもない。
せいぜい、押し倒すのが関の山だろう。あれはミサト一流の発破にすぎまい。
射撃でも打撃でもおそらく、傷をつけることもできまい・・・・
その点では安心しきっていた。威力はなんせ特務機関ネルフの最終兵器であるうえに、その貫禄はまさに武装要塞都市第三新東京市のランドマークといってもよい。それがこのような形で失われるなどあってよいことではない・・・・。
 
だが、胸の内の賢者は厳かに呟く。このようなことが二度とないように、一度バラバラに解体して縛り括り直さねばならぬ、と。内蔵されていたブラックボックスをことごとく開放して。秘められた想いを解体されたそれは。そうなればもはやそれは・・・・ネルフ預かりのただの兵器となる。コトが終われば賢者の義務において、それをなさねばならない。
他の者の手を借りる気はない。孤独な仕事になる。そのプランを頭の片隅で作成を始める・・・・
 
 

 
 
綾波レイが選択した武器は「零鳳」、そして、「初凰」。
 
切り倒せ、と命令されてそれに従うならば、武装はそれしかない。
参号機・黒羅羅明暗も了承済みの話であるが、ATフィールドは全て市街に被害が及ばないための障壁として用いる。四号機の八つ裂き光輪のような使い方をすればその後のフォローが出来ず周囲に大破壊を巻き起こす可能性がある。なんせ相手はコードネーム・「タワー・オブ・ドルアーガ」。極めつき悪魔の放電兵器なのだ。
 
 
切り倒し、二度とこんな真似が出来ないようにする・・・・・・・
天上への絆、観音や釈迦が垂らす蜘蛛の糸(にしてはぶっとすぎるが)を切断する。
いかに碇シンジにしても二度とこんな機会に巡り会えるとは思えない・・・・いや、それならそれでまたしょうこりもなく別の手段を模索するかもしれないが、次は動き出す前に潰す。もう二度と油断しない・・・・見失わない・・・・あの面影を。
 
 
そのための、二刀流。渚カヲルが贈った鉾と自分の零鳳と碇シンジの初鳳・・・・
これで負けるというなら・・・・・技は滅び、刀は折れよ。
もともとは十二のパーツに分かれていた鉾・・・・その結合部分・・・もはや融合しきっているらしいが、それでも弱点らしい弱点はそこにしかない。斬るのはそこだ。
強度計算は・・・・相手の材質に不明の部分が多く意味をなさない。成否はただ、自分の技と、日本の使徒斬り日本刀、零鳳、初凰が知っている。真に剣の奥義に達したならば、竹刀でも真剣と同じように人が斬れるという・・・・・・そんな、世迷い言。
それを実行しなければならない。フィールドで包み、斬撃線だけを露出させて、切り落とした刹那にそれを封じ込める・・・・・それもまた人間業ではないが、明暗に一任する。黒曜壁、白牢壁の双方向フィールドでなければどうしても時間差ができる。だが、それは任せて安心だ。問題はひたすらに自分の斬撃。鉾を斬れるかどうか。その覚悟と力。
・・・つけくわえるならば、自分の現在の体力も、気力でカバーしきれるかどうか。
碇シンジは自分の武装に執着する方ではないが・・・無頓着といって良い方だが・・・・さすがにあの鉾を斬られれば黙ってはおるまい・・・・。関係の断絶。そうなるだろう。
 
だいたい、先の大戦で使徒を何十体も電撃で焼き殺したのは、葛城ミサトにそそのかされたとはいえ、僕の鉾がいじられた!!と碇シンジが怒りだしたことに始まる。その折りでも別に鉾は破壊されたわけでも傷がいったわけでもなく、ただ地上に放置されていたから、という理由だけで。それだけでエヴァ初号機は福音を預かる身から破壊の魔神と化した。
 
 
その鉾を叩き斬ろうというのだ・・・・・それだけの想いを
 
 
その点を考慮すると、明暗がわざわざ綾波レイを背負ってまで現場に立たせたのは、男気によるものだったのか、政治的配慮だったのか、わかったものではない。
零号機がフォワード、参号機がバックアップ。
エヴァ弐号機、惣流アスカを呼ぶのが正解だったかもしれないが、時間はない。
どのみち、惣流アスカのマジックソード・弐朱雀、冬裂きの鶴では鉾は斬れない。
 
 
「・・・・・・」綾波レイの目が細くなる。入神状態に己を研ぎ澄ませる。
地上の兵装ビルを鳥居にして、刀に宿る鳳と凰が舞い降りたのを感じる。魂の内にそれらを迎え封じる火と氷と竹の籠をつくり、室礼をなす。電力を媒介に現出した幻想の魔力を切り裂くには、こちらも相応の気合いが必要になる。浄化しきれなければ一気に呑まれる。
夢など、いらない。
 
 
一呼吸。エントリープラグはLCLに沈む神殿になる。奉納されるは水に舞う白拵えの紅太刀。厳しの眼。
 
 
エヴァ零号機と参号機が射出される。人の雑念は、地の下に置き去りにする。
斬る。ただ、このことだけを念ずる。
 
 

 
 
 
鉾が屹立し、現場がたいへんに緊張集中、現状がヒートアップしているところでなんであるが、時間を少し逆巻いて、この大騒ぎの張本人である碇シンジの動きを追ってみることにしよう。
 
 
「めずらしい切符をもってるニャ」
 
いきなりニャア言葉ですいませんが、他意はなく、ただ碇シンジが黒猫と話しているだけのことなので。
 
幽霊マンモス団地で綾波レイに逆鱗メールを投函して、鈴原トウジと会いそこねて、切符を一枚落として、そこからの箱根湯本駅の裏手にある、引退した駅員の家に飼われている猫のところに訪れた碇シンジは「天上切符」を見せたらそう言われた。
 
 
「この切符で乗れるかな」
おどろきもせず、ニャア言葉につっこみもせずに、碇シンジはたずねた。
 
「もちろん、なんでもいけるニャ。幻想第四次の銀河鉄道どこじゃなく、機械の体がただでもらえるアンドロメダでも、ほんとの天上でもどこでも・・・・お決まりのセリフニャ。翻訳機能もついてるその・・・記念切符のやつはほんとにめずらしいニャア」
黒猫は・・・・相当に年がいっている・・あともう少しで尾が2つに分かれるのではなかろうか・・・・塀の上で眠そうにアクビをすると、
 
「でも、”車掌”はもう引退したんニャ。飼い主の定年退職と合わせてニャ。今度乗る時は飼い主の見送りニャ・・・・・そんな先のことじゃニャい・・・」
塀の向こうからゴホゴホと苦しげに咳き込む音が聞こえた。表札には「拿園(なぞの)」とある。
 
「それに、肝心の”銀鉄”がもうここにはこないニャ。路線が廃止されて久しいニャ・・・・・せっかく切符をもっているならどこかよその風が吹く街へ・・」
 
「今夜、この都市にやってくるよ。僕はそれに乗り、切符を切ってもらわないといけない。それに、駅についても聞いておきたんだよ・・・・”あの本”は途中乗車してるから・・・・黒曜石の路線地図も欲しいし」
どうも他人が聞けば正気を疑われそうな話だが、碇シンジは大真面目だった。黒猫は目を少し開いて・・・もう一度この奇妙な人間の子供の風体を見た。
 
「それでも、”駅”がないニャあ。駅がなければ銀鉄は停車しないニャ。”あの本”のおかげで銀鉄に途中で飛び乗ろうとするバカな客が一時増えて困ったニャ。あんな幸運で特別なケースはそうそうないのにニャ」
 
「”臨時駅”・・・・・今宵かぎりの、ね。それも現れるから心配いらないよ。あと足りないのは車掌さんだけ。だから僕はここへきたんだよ」
 
「うニャ・・・・・・」
猫は役目を退いた時からずっと眠らせていたものが首をもたげるのを感じる。
 
「なぜおうさまがその切符をもっているのか・・・・不思議だニャあ・・・・それに、それは見せるだけでいいんニャ。ずっと使えるニャ・・・・ずっと持っていればいいニャ・・・・旅が終わるまで」
 
「だって僕、スナフキンじゃないし。・・・・そんなに旅人っぽいかな?」
 
「かわいい子には旅をさせろ、とはいうニャ・・・・・うんニャ・・・・・・・もし」
 
「もし?なに?」
 
「もし、ほんとに銀鉄がこの街に今夜くるのなら・・・・それがうそじゃニャいのなら」
 
「かつて燃えさかった旅情が動いた?」
 
「・・・・・若い猫なら今の知ったかぶりの一言ですっかりへそを曲げるところニャ」
 
「ごめん。ちょっと気が急いでて。”天気輪”を発動させるのはうまくいったけど、”駅”のことはさっぱりわからないから・・・・・・・・車掌さんは、義理堅いんだね」
 
「”天気輪”をまわせるほどのにんげんが、”駅”のことを知らないなんて、あべこべニャ・・・・・だけど、それだけにこれは対等な契約になりそうでいいニャ・・・・そういうわけで、これは頼みじゃニャい。・・・・わたしの息子を連れていってほしいニャ・・・・車掌としての知識は仕込んであるけれど、一人前になるまえに肝心の銀鉄が来なくなったからあやつは乗ったことがないニャ」
 
「ふーん・・・後継者はいるんだ。頼りになるんでしょ?」
 
 
「・・・・・・・・ニャ」
 
 
「え?ねえ?大丈夫なんでしょ?息子さんだし」
同じ碇さんところの息子さんであるところの碇シンジが猫の沈黙を問いつめる。
 
「うう・・・わ、わたしが英国留学して学んだスキンブルシャンクス流の鉄道猫の秘術を悪用して列車にただ乗りしては駅弁を盗み喰いするようなやつニャが・・・・車掌魂は亡くしていないと思うニャ・・・・たぶん」
 
「職務じゃないんだから忠実じゃあないんだね。まあ、いいけど。駅で何番ホームに乗るか教えてくれれば・・・」
 
「おっとりした顔で、ずいぶん用心深いニャ。人間はよくそこで間違えるのにニャ」
 
「何番のホームに乗るか、それが魔法のはじまり・・・・というのも英国流だよ?」
 
「そ、そうだったかニャ?」
 
「で、息子さんは今どこにいるの?今日も列車に乗って駅弁の盗み喰い?」
 
「お、おそらくニャ・・・・」
 
「これから会って、息子さんに銀鉄の車掌をやってもらうけど、いい?」
 
「それは・・・その切符を見せればあやつも了解するニャ。納得しなければ、銀鉄の食堂車の紅マグロの寿司の話をすれば一発ニャ」
 
「うん、分かった。じゃあ、夜になったら空を見て。ひさしぶりに銀鉄がくるから」
それじゃ、と長々と猫と話していた碇シンジはきびすを返した。幸い、そこらに通行人もおらず家人もその会話を聞きとがめなかったからよかったものの。
 
 
「それじゃ」
光の具合か、そのうっすらと輝く背を見送りながら猫はいったいあの子どもがどこで自分のことを知ったのか問うてみればよかった、と。ちょっと後悔した。
もしかしたら、人間の子供に化けていた、猫なのではなかったろうか・・・・。
ちと息子のことが心配になってきたが、約束は約束・・・。それでも、猫は携帯電話などもたないからかくかくの事情を伝えることもできない。なにも事情を知らぬ、天上切符をもつ人間の顔も知らぬ息子がおいそれとつかまるとも思えない。大食いでデブの割にはやたらに逃げ足が速い。車内という閉鎖空間でありながら人間に捕まったことはおろか、勘付かれたこともない・・・・その意味で、鉄道とは抜群に相性がいいやつなのだ。
「こいつはしまったかニャ」
 
 
 
「なにがしまったかニャなのよ〜。パパりん、ごきげんよろしゅうなのよ〜」
塀の下から猫とは思えぬ脳天気でご機嫌な声がする。見下ろせばデブの黒猫我が息子。
 
「せ、せがれ・・・・」こんな時間に戻ってくるなぞ珍しい。あの子どもは運が強いのか悪いのか。「腹の具合でも悪いのかニャ」
 
 
「そうなのよ〜。今日のお客の弁当は腐っていたのよ〜。ちょっとお腹が痛いのよ〜」
息子の腹が痛むというのだから毒でも入っていたのかもしれない。なるほど、胃腸薬を呑みに寄りに帰ったわけか。しかし好都合ではある。車掌猫はふってわいたよな銀鉄再臨の話をとつとつと、薬を呑んだ後の息子に語ってきかせた。誇りと魂を受け継がせるために。
だが
 
 
「いやなのよ〜。いまさら車掌なんて。時代遅れなのよ〜」
 
「銀鉄の食堂車の紅マグロ寿司は死ぬほどうまいニャ」
 
「いくのよ〜、車掌やるのよ〜」
 
誇りと魂は受け継がれた。「そんなわけでニャ、せがれ、ちょっと駅に行ってその切符もった子供を探してくるニャ。天気輪がまわりはじめたら、準備するニャ」
 
 
「わかったのよ〜。いってくるのよ〜」黒のデブ猫息子猫はその見かけによらず、すたたたと素早く駅の方へ消えた。
 
 
ここに至ってもまだ碇シンジは自分がもう一枚の天上切符を落としたことに気づいていない。どうせ自分のぶんだけあればコトは足りるのだからそれでかまわないのだろうが。
そのおかげで、今まで稼いでいたリードをかなり失ってしまった。
思わぬペアにとんでもないところまで追いつかれてしまうのである。
 
 

 
 
「まさかのう・・・・・」
放課後の鈴原トウジである。困惑顔の鈴原トウジである。
 
まさか銀河鉄道など、信じているわけではなかった。が、鉄道といえば駅であったし、碇シンジになじみがあるのはこの駅であったし、他に手がかりはなかったし、都合良く忘れてしまうこともできずどうにもほうっておけずにやってきてみて「切符」をもう一度じっと確かめていると、「お客さん、いたのよ〜。話は聞いてるのよ〜」と黒いデブ猫から人間日本語で話しかけられるとその不信もちょっと揺らぎかける。
 
「どうしたの、鈴原・・・」
正面の太った黒猫を相手にシェーのポーズで固まっているマジな顔の鈴原トウジに心配げに声をかける洞木ヒカリ。そんなに猫がキライだったのだろうか・・・・
 
 
山岸マユミと霧島マナと相田ケンスケは、珍しく自分から主導権をとるかたちで「これはもしかすると、推理小説などでいう、”見立て”かもしれません」などと山岸マユミが言い出して、銀河鉄道の夜をベースにしていろいろとプロファイリング捜査をしていた。捜査と言うよりは一人で眼鏡を底光らせてやたらにマジになっている山岸マユミが暴走せぬようふたりでおもりしているようなもんだった。というか、本当に碇シンジを探すべきなのかどうか、その腹もまだ決めかねていて、鈴原トウジもまあ、半分洞木ヒカリのつきあいのようなものであったのだが。ここにきて超常ビンゴがきた。碇シンジと綾波レイの結界を破ったバチかもしれぬ。
 
 
「ど、どないなっとんや・・・・ワイの耳がおかしいんか・・・・」
ほっぺのかわりに、耳たぶをひっぱって福助にしてみる鈴原トウジ。なんかバカっぽい。
 
「はやく紅マグロ寿司を食べにいくのよ〜。泣くほどおいしいのよ〜」
黒デブ猫がふたたび口を聞いた。しかも食事のお誘いだ。なんかリッチそうな。
 
「あああああああ・・・・・・・・・・・・・す、すすす、寿司やとお・・・・」
あまりのショックで手の中の切符を落としてしまった。
 
「・・鈴原。ちょっとおかしいわよお寿司がどうしたのよ・・・・ほら」
落ちた切符を拾って渡そうとしたその時。
 
「早く行くのよ〜。そろそろ天気輪がまわるから準備をするのよ〜」
 
洞木ヒカリも猫の声を聞いた。基本的常識善人である彼女にもショックは大きい。が、すぐにそのカラクリを見破った。見破ろうとした。「す〜ず〜は〜ら〜!!・・・あんたのイタズラでしょ!なんなのよこれ、相田くんからなんか変なマイクとか借りたのねそれで」
 
「ワイやない!!。シャレになっとらんでこりゃ・・・・・なんなんやお前・・・・・いや、この切符のせいか・・?」
驚き役が彼女にまわったせいで、多少は冷静になれた鈴原トウジ。「モノホン?」
 
よう理屈はわからんが、銀河を旅する鉄道ならそりゃ宇宙人とも会話せんといけん機会もあろうし、宇宙人と会話できるなら猫と話が通じてもおかしくはない・・・・・
自分たちが夢でも見ているのでもなければ。しかし、これはシンジが持っていた、落とした、と思われる品物であり、それに関係する出来事は・・・・シンジに通じてもおかしくはない、わな。この紙切れはネルフの新製品かなにかで、シンジは特殊な任務かなんかについとった、という可能性も・・・・・シンジにそんなん任せるほどネルフは人手がおらんのか?犬猫と会話する任務っちゅうのは確かにむいとるかもしれんが・・・・
 
 
「もうちょっと広い場所じゃないと鉄道事故が起きるのよ〜。移動した方がいいのよ〜」
 
 
鉄道
 
 
その単語に反応する。事故、というのも穏やかではないが。それよりも。
鈴原トウジも洞木ヒカリも山岸マユミから銀河鉄道の物語がどういうものかだいたいの結末を聞いてきている。それは、死人が乗る列車だったのだと。それも、人のために命を捨てた貴い魂をもつ者たちが天に昇るための路線だと。馬鹿らしい、と思いつつ相田ケンスケなどがつきあってるのは、山岸マユミからそんな脅しをくらっているせいもあった。児童文学の底力である。そんなことでは人は死なぬ、と言い切れたなら大人になるのだろうか。
 
 
「おいデブ猫」
鈴原トウジはひょいとつまみあげようとしたが、けっこう重いので筋肉が張った。くっ。
「人間につかまえられるのははじめてなのよ〜。おどろいたのよ〜」
 
「ちいとモノを尋ねるけどな。お客ちゅうのはワイらのことか」
 
「駅にはたくさん人間がいるけど、そんなめずらしい記念切符をもっているのはほかにいないのよ〜」
 
「間違えやのうて切符めあてか、なるほどな。そいで、聞いとる話ちゅうのはなんや」
 
「今夜くる銀鉄にいっしょに乗って切符をきって、食堂車で紅マグロ寿司を食べるのよ〜」
 
「銀鉄?・・・・ははあ、銀河鉄道で銀鉄か。要はお前は案内役なんやな」
 
「車掌なのよ〜。銀鉄にははじめて乗るけど、紅マグロ寿司を食べれば大丈夫なのよ〜」
 
「ド新米かい・・・・・・おもいきし心配やな。シンジの奴はこないなんに案内頼んだんかい・・」
 
「寿司のお米は水分の少ない古い方がいいのよ〜」
 
「やかまっしいわい!!」
 
 
「・・・・・・ちょっと鈴原、なんて言ってんのよ。それからもう少し小声で。周りの人が見てる・・」
 
「すまん」黒デブ猫を下ろすと、鈴原トウジは問答をざっと説明した。
 
「どうもホンマに”ぎんがてつどー”に、乗るつもりらしいな、シンジは」
 
「ええ?そ、それって・・・・・」再び非日常が・・・自分たちの目に姿を現した、というか、碇シンジの後を追ったからここまできてしまったのか。
 
「ワイにもよくわからんが、チャンスや。銀鉄うんぬんはともかくとして、シンジの奴をとっつかまえるええ機会や。こいつについていけばシンジに会えるわけや・・・・」
あのシンジがそんなわけのわからん死人列車に乗ってあの世にいくことだけはない、と確認できればそれでいい。猫の言葉が分かり、猫に人の言葉を理解させるこの切符がどんな構造になっとるとかいうのは後回しや。どーせワシの頭ではわからんし。
 
「あとはワイに任せて、いいんちょーは帰り。な?。首尾はあした学校でな」
歩き出した黒デブ猫のあとを追いながら手をひらひらとふるが
 
「いや。わたしもつきあう」
洞木ヒカリの頑強な抵抗にあう。口元など一文字に結んでいたり。
 
「はあ?無茶いうなー。夕飯の支度とかあるんやろ、それに切符は一枚きりや。銀鉄には一人しかのれん・・」
「の、乗ったらだめよ!!」
えらい剣幕で怒鳴られたので、きょとんとする鈴原トウジ。それから笑い出す。
 
「なにを本気にしとるんや。まさかいいんちょ、紫の鏡と唱えたら二十歳までにくたばるとかなんとか少女雑誌のマンガみたいなこと信じとるんか」
硬派でありながら、なんとなく知っているのは妹がいるせいだ。
 
「し、信じてないけど、そんなのは。でも、乗ったらダメ・・・・だめだからね」
何で女はこうなんかなーと思う。こんなもんは口先だけのことで、銀鉄なんかホンマにあるもんかい。そんなのは分かり切ったことやないか・・・・・といいつつ、くそう可愛いやないか自分!!、とじたんだ踏みたくなる己をキュウっと我慢する鈴原トウジ。
 
「と、とにかく私もいくから!!も、もともと言い出したのはあたしなんだし」
と、それを言われると認めるしかあるまい。
 
「・・・家に連絡いれてからにせえよ。それから、暗くなったら帰すで」
中学生の身としてはなるべく早いところカタをつけたいものだが。
 
「相田君たちにも言っておきましょう、か」
 
「いや、そーやなー・・・・・ま、もうちいと様子みてからにしようや。いきなり猫が口聞いたなんて言うたらあいつら慌てるで・・・・っと、あのデブ猫!!、全然待っとらんやんけ!急ぐで!」
駅の人混みの中に消えかける猫の姿を追い、駆け出すふたり。
 
 
この時はまだ、ほんとに銀鉄に乗ることになるとは思ってもみなかった。