あれほど恥ずかしかったことはない、と
 
 
もしまだ感情があるなら、綾波レイはそう感じただろう。すでに見えなくなったほうき星の足を数を思い出すような。力と引き替えに失い、この胸には、流れる血の中にはすでにないはずなのに、心の底でもぞもぞする居心地の悪いその感覚を強引に推察し表現するなら。
 
ああ、適当な言葉が見つからない。
 
 
恥ずかしい
 
 
恥を知ることは、はじしらずではない、ということだ。
 
 
獣使徒の突進、それに対してJTフィールドのことをころっと忘れる二歩のような基本的致命的負けミスをやらかしてしまった自分の前に盾となり敵の攻撃に立ち塞がったのは
 
 
 
一本のマジックハンド・・・・掌指部分が大きい孫の手とでもいうか・・・・
武器でも神聖な祭具でもない、誰がなんのために使うのか謎すぎる奇妙な物体
 
 
 
けれど、綾波レイは一目でそれがロンギヌスの槍、元ロンギヌス、その変化物だと見破った。左腕に完全に戻らぬままに変身途中でここにやってきた・・・・すでに武器でも祭具でもなんでもなくなった・・・・・中途半端な変身は致命的な存在力の堕落を引き起こしたらしい、傷モノの美術品よりももっと悪いランクダウンレベルダウン・・・・・コピー品よりもさらに評価を低下させてブランド崩壊を招いているというか・・・・
 
いわば、分福茶釜。
 
使徒殺しの威容というか、ロンギヌス由来のオーラも、ゼルエルレーベルのパワーも、感じられなくなっている。神格というか霊格というか、そんなものが全くかき消えてしまって、ただ、でかいだけのエヴァ用孫の手・・・・なんというか、冗談アイテムに・・・・
 
天使殺しの魔法槍が手品グッズに堕したというか・・・・・サナギマンだって決して弱くはなかったはずだし、ガウォークだってその戦闘力は・・・・・とにかく、槍→左腕の変身途中のプロセスにはどうにも深い谷があり、そこにはまって抜け出さないうちに変身を終えてしまったのだろうか・・・・・・・・槍も左腕もバカ強いのだから、どこかに気が抜けるというか弱みがあるとすれば、その途中経過にしかあるまい。まあ、なんというか・・・・・完全な弱みを敵前衆目に晒して、ここにいるわけだ。フォオオオオーーー!
とか叫んで登場したのかもしれない。
 
 
・・ 見破れなかった方がよかった。それが、元ロンギヌスだなどと分からなかった方が、よかった。それが、エヴァ初号機左腕の「なれの果て」だなどと・・・・
 
 
命の刹那を得るために、その神性魔性を剥離させて
 
 
ピンチの時に白馬の王子が現れる、なんてことはさすがに期待していない綾波レイであるが、もし現れたとしてその王子が装備しているのは由緒正しき宝剣なり名剣ないし伝説の魔剣だろうなあ、というほどの一般常識はある。剣は製造するのが難しいので立場のある人間じゃないとおいそれと所有できなかったのだ、とかいう知識はこの際どうでもいい。
 
 
まあ、王子でなくてもいい。ここは日本であるし。誰かがピンチの時に颯爽と現れる、なんとも勇気の利いた存在、それは英雄、ヒーローであろう。その者の装備にケチをつける資格のある人間などいない。何を携えていてもいい。その絢爛豪華な心の輝きに照らされているのなら、うどん延ばしの棒であってもそれは正義の刃とかわる。そして悪を裂く。
ここまではいい。正義はヒーローにある。だが、まだ仕事は残っている。
敵を打ち倒すことだ。単純だが肝心なことで、これが終わらないと立場は明確になっても話もピンチも終わらない。たとえ敗れてもその魂の気高さを誰が笑うだろう、その誇りは称えられ、次代の者に引き継がれる・・・・・これでもちと困るのである。
 
 
これのおかげで助かったのだから、文句を言う資格はない。どこにもない。
 
 
たとえ”それ”、マジックハンド型ロンギヌス、臨時にロンギヌシュということにしておく、が、ちょっと待った!、と使徒の突進を止めたのはいいが、そこから超絶攻撃力で攻撃にうつるでもなく、ただひたすら「へこへこ」と頭(というか手のひら)を下げて使徒に勘弁してもらったことなど。
 
 
「こ・・・・・・」
文句をつけることなどできるわけもない。まして怒りなど。こら、などと言えるはずも。
 
 
確かに、このロンギヌシュには攻撃力がない、ような外見である。自分に見破れるくらいであるのだから、当人(手?)が自らのパワーダウンに気づかないはずもない。表に出てくること自体がすでに失敗しているともいえる。もしかすると使徒に対する毒が薬になってしまっており、突き刺せば逆に使徒がこれ以上に健康になってしまったりするのかもしれない。外見もあれだが、その動きもまあ、”よくぞそこまで”、と思うくらいになんとも情けないくらいに「へこへこ」なのである。偽物でパチモンであったほうが救いだった。
 
 
「あ・・・・・・・」
 
そのうち、ロンギヌシュはばったりと倒れ地に這った。土下座、であろう。
 
そうにしか見えなかった。そこには武士だの騎士だのの礼儀作法の気など微塵も。
殺気や戦闘意欲が全く、ない。すぐ目の前にいるのだから、そんなことは分かる。
奇矯な形のゆえに、自分が感じられないだけで、もしや、凶猛な力を隠し持っており(そういった陰険さもまた左腕らしいとおもった)隙をみて一気に襲いかかって、倒してくれるのではないか、という期待があった。ないわけではない、なんていう薄い気持ちではなかった。それなのに。
 
 
使徒、とりわけ座主である(VΛV)リエルの返答は、二度の抜剣。
 
 
金色の光が二度走りロンギヌシュを襲ったが、指先での高速フナムシステップ、哀れに素早くヘコヘコとした小物っぽい動きでそれをかわして、反撃がないと知ると、双頭獣使徒をくるりと回れ右させると、引き上げてしまった。笑っていた。大声で笑っていた。手加減のないボリュームに戻ったその心話の笑い声に、ギリギリで保っていた綾波レイの意識が刈り取られた。これ以上、もう見たくない、と耐えられなかったのかもしれない。
 
 
 
その、恥ずかしさに。
 
 
大泣きした。
 
 
夢の中のことだ。他の誰にも、自分自身にも、知られることはなく。泣いて、泣いた。
 
目覚めれば、忘れてしまう夢の中のこと。
 
 
 
 
目覚めても、誰がそばで待っているわけでもない殺風景な病室。
 
 
無表情な白い頬を、朝の光がさらりと撫でていた。昨夜の敗北にはなんの形容詞もついていない。赤い瞳を一瞬、強く見開き、跳ね起きる。覚醒、という言葉に相応しいバネ人形じみたアクション。モニタしていた医者がかなりビビッた。綾波系能力の過使用で頭頂から足の指先まで、痛みを感じないところはない。が、それを表に出すこともない。
ベッドからおり、歩き出す。
 
 
行くべき場所は何カ所も。猶予は完全になくなった。万一の保険すら使い切った。
この先どうなるか、どうするべきか、それは自分のこの両足だけが知っている。
とりあえず、着替えるべきだろう、という突っ込みなどものともしない白い足が。
 
 

 
 
 
「どうなるのかしら・・・・・この先・・・・」
 
 
目に隈をつくった阿賀野カエデが明確な返答など期待しないまま、ただ不安を口にした。言ったところでどうにもならん、なるようにしかならん、としか返答しようない問い。
分かっているけれど、口にでてしまった。発令所を満たすなんともいえぬ疲労感のせいだった。
 
 
不完全な敗北
 
 
とでもいうのか、誰が見てもこちらの敗北で、こうやって息して他の人間と話をしていられるのは占領概念のなさそうな使徒相手にそれはまさしく奇跡だった。零号機を倒す一歩手前で、現れた奇妙な赤いマジックハンドに阻まれた使徒は、興を覚えたのか気が削がれたのか、人間にはよく分からぬ判断がなされたようで、あれほど高速で進撃したこと一切をチャラにして引き返してしまった。追撃追跡などできようはずもない。使徒は快足で太平洋に進路をとって海に潜って姿をくらました。それについて意見はいろいろ分かれたが、痛手を喰らわして戦意を挫いて退かせたわけでは完全にない。その点は一致した。
 
あそこで、あのタイミングで、あのマジックハンドが介入して、へこへこと頼みこまなければ、使徒はおそらく・・・・・・したくもない想像をそのまま、なんの遠慮も躊躇もなく実行していただろう。
 
 
「どうしたいのか、なら分かるけど・・・・・」
同じく疲労感をたっぷりと滲ませてコンソールに走る手を休ませることなく大井サツキが答えた。ロシアの血がはいってもさすがに昨夜は疲れた。十分に寒い思いをした。
「・・・・・ウオッカのみたい・・・・・・・」
 
 
「これでがまんしなさいね・・・・・・はい、コーヒー。カエデも」
 
落ち着かない朝食三点セットを三人分、運んできた最上アオイ。彼女の眼鏡も脂曇りがある。戦闘は終了したが仕事は終わらない。というか終われない。マジックハンドの出現以来、蠅・・・じゃなかった、ル・ベルゼ司令が逆上してしまい再封印作業が終了するまで厳戒態勢を発令したのだ。封印が破れたのは内部にスパイがいるにちがいない、とその正体が判明し狩るまでは通常シフトに戻さない、とあの耳障りな蠅音を最大にしてヴヴヴヴどえらい剣幕であった。使徒戦をとりあえず切り抜けた今、恐れ入る者など1人もない。
しょうがねえな、あのキンチョール野郎め、てなものであった。縮めて、”チョール”などと呼ばれ出すのはもう少し先のことになる。
 
 
確かに、面子丸つぶれで面白くないのは分かるが、あれのおかげで助かったのだから、あんな脱獄囚を扱うようにしなくても、と思うのだ。まあ、あれに勲章あげろとか表彰するべきだ、とまではいわないが。もしかすると、使徒の嫌がる臭いとかを発していたのかもしれない。初号機左腕、その威力の有様を知らない新入オペレータなどはそう思った。
 
 
作戦部長連で居残っている・・・つまりはランプが点いて本人と接続しているのは、日向マコトを窓口にミサイル類の補充やら後始末指揮をとるシロパトキンと、スタッフたちへの労いの言葉をかけつつめんべんなく本部の点検を行うとかいって球体を移動させる我富市由ナンゴク、零号機パイロット綾波レイを見舞いたい、と主張する座目楽シュノ、蠅司令に断られたもののロンギヌスの槍の再封印を見物希望したシオヒト・Y・セイバールーツ。断られたらすぐに消えたので、計三名。孫毛明とエッカ・チャチャボールは戦闘終了後、早々に消えた。ゴロゴロゴゴ・・・・と巨大な球体が本部通路をゆくのは不気味でありシュールであり部署によっては完全に仕事の邪魔であった。ちなみに、座目楽シュノは綾波レイに会えなかった。目覚めた連絡はあったものの、医務室にいっていれば医師達の検査要請引き留めもむなしく、綾波レイはあれだけの激戦後にも関わらず、信じられないタフネスでぴんぴんとしており、早々にベッドを飛び出していったのだと。
おまけに着替えもせずに。
 
 
「零号機・・・・どうなんですか?あの左足の・・・・傷は」
 
コーヒーをこくりとのどに流しても、すこしかすれた乾いた声で阿賀野カエデが最上アオイにたずねた。こっちはこっちでアンチ・ガウマータ処理の後始末で足止めされるまでもなく「あの男、首輪フェチ拘束マニア蝋人形コレクターとかそんなんだわ、絶対・・・・なんなのよこの固め方!」横で大井サツキが苛つき叫んだ・・・コーヒーをゴクゴク流し込む。厄介に面倒に忙しいのだが、マギの元締めたる赤木博士に2,3,直接指示を仰ぐべく代表して最上アオイが博士のところまで足を運んで、そのついでに食料の補給等をしてきたわけだ。
 
 
「大丈夫・・・・なんですか、彼女・・・・・・」
戦闘中、どこで何していたのか赤木博士は終わってからようやくのこのこと黒の作業衣のまま発令所に顔を出して、それから司令と作戦部長連を「じろり」一瞥して、何もいわず何もいわれず、回収された零号機の修復作業に入った。口元に一瞬、笑みが浮かんだような気がした・・・・そのはずなのだが、流れ聞こえる情報から察するにどうもその仕事がぜんぜん進んでいないとか。あの、奇怪な、自ら咀嚼する傷。思い出すだけでぞっとする。身が震える。そんなのを自らが体験すると思うと・・・エヴァのパイロット、チルドレンというのは・・・・・ほんとうに。普通の少女では耐えられない。
 
 
「綾波さんの方はすぐに回復して、もう医務室にいないらしいけど、零号機の方は・・・」
 
最上アオイは言い淀む。いずれすぐに知れる話ではあるが、口にしてよいのか迷っている。
ショックの大きな話だ。自ら噛み動いていたあの傷が、使徒が去りいったんは塞がったと見えたが・・・そうではなく、近づいた整備員をあやうく”噛み殺し”そうになったことなど・・・・伝説の人面疽を連想させる意思を持つ傷は未だ零号機を虜にしているなどと。
 
おまけに、頼りの赤木博士はあっさり匙を投げてしまい、左足パーツの交換すらさせずに
 
「この件に関しては司令にお任せしましょう」と、自分はどこかへ行ってしまった。
 
それらも含めて聞かせにくい。「・・・・・かなり、かかるみたいね。あの様子だと」
誤魔化しておいた。正確を期するオペレータの言うことじゃないけれど。
阿賀野カエデもそれ以上つっこまない。好奇心は元気の保有株である。
 
 
現在の発令所内は疲労感に満ちているが、情報が混線し噂も色濃く流れている。普段ならば何をカバな、と聞き流せるようなことでも強く耳の裏に残り、つい言葉にのせてしまったりする。野散須カンタローあたりがいれば一喝して気合いをいれなおしたところだが。
日向マコトもまだそこまでのぶずとい貫禄はない。
 
 
「葛城ミサトが復帰してくる」だの
 
「副司令が帰ってこないのは拉致されたからだ」だの
 
「エヴァ八号機がパイロットとともに六日後に本部入りする」だの
 
「作戦部長連の中の誰かが他に抜け駆けして本部入りする」だの
 
「JA連合の時田氏の髪がすっかり白くなってしまった」だの
 
「エヴァ十一号機が英国からやってこようとしたが、司令に断られた」だの
 
「惣流アスカが弐号機とともに帰ってくる」だの
 
 
そんな類の。根も葉もないか火のないところに煙かは判然としないが。
 
 
だがその中に、あまりに知れきったことゆえに、皆の口にあがらぬことがある。
 
 
それは
 
 
倒すことの出来なかった使徒の「再来襲」
 
 
噂などし合っていても、それが分からぬほどに愚かな人間は、ここにはいない。
 
当然、三人娘達も。その胸の内に深く、その一点の事実が沈んでいる。
 
 
また、「それ」はやってくる。・・・・必ず。これもまた、治癒することのない、傷。
ぶる・・・心臓を噛まれたように悪寒がした。
 
 

 
 
 
「来て」
 
 
そう言われたのが、告げたのが、休み時間であったのが幸いだったか。
 
 
第三中学校二年A組
 
 
「れっ」
目を丸くして絶句している鈴原トウジの席の前に赤い瞳の、空色の髪、そして病院の寝間着そのままの綾波レイが立っている。教室内は静まりかえり、衆目はそこに集中。
 
 
綾波レイ
 
 
あの夜以来、全く学校に来なくなった、三人、碇シンジ、惣流アスカを含めたエヴァのパイロットである三人の中のひとり。学校側の説明によれば、碇シンジと惣流アスカは「親の仕事の都合で急な転校」ということで、親兄弟親戚がネルフ本部に勤めていたり相田ケンスケのように意識的に情報を集めた者が知るところによると碇シンジは「行方不明、ないしは極秘任務中」であり惣流アスカは「独逸支部に移籍」ということであり、残った零号機パイロットである綾波レイが学校に来ないのは「体調不良」が公式、いやさ体面上の理由であるが「学校どころではなくなった」というのが真実ではないかと。
 
 
碇シンジの死亡
 
 
当然、囁かれていてもおかしくない、中学生でも当然辿り着くこの予想が少なくともこの校内、この教室で走らなかったのは「惣流アスカの移転」が確かな事実であったことと、ネルフ新本部の激しい再編成に伴う人の入れ替わりがあったせいだ。特に九死に一生を得た形の第二支部スタッフの家族達が二度と離れるものかと日本に移住し、その居を第三新東京市に構えたことで「このご時世の転校生」がどっと増え、人種の色合いがぐっと豊かになった。二年A組にも転校生が何人か入ってきている。綾波レイも知らない、碇シンジも、惣流アスカも知らないクラスメイトが。いきなり現れた、制服も着ていない、この異形の少女を見ている。
 
 
綾波レイは鈴原トウジだけを見ている。
 
 
いつ以来か・・・・天上切符を介しての接触はあったけれど、こうして面と向かって顔を合わせるのは・・・・・葛城ミサトも本部を去り、その家が封鎖されると中学生程度のコネではチルドレンとの接触チャンネルは消滅する。こちらから会おうとしなければ、学校にさえ行かなければ会うことはない。幽霊マンモス団地の自分の家にさえここのところ戻っていなかったくらいだ。もし、そこを訪れていたとしても、会うことはできなかった。
だが、綾波レイに感慨などない。
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
 
 
「来て」
 
 
貴方が必要になった。ということは目の色で訴える。自分の行動が異常であることの自覚はない。抜き身の刃のような行動力の集束としてだけ、そこにある。
 
 
「あ、あのなあ・・・・・・」
真剣なのは分かるが脅迫であるこれは。命令でさえあったかもしれない。本部からここまで少女を運んできた加持ソウジではない護衛運転手ももうちょっと諫めるなりすればよいものを、赤い瞳のその気迫に恐れて何も言えなかった。おかげで寝間着で教室にトッこむことになったわけだが。せめて校長室に呼び出すとかいう知恵を授けてもよかった。
 
 
久方ぶりに顔見せといて、挨拶も説明もなしにいうことがそれかい!!と鈴原トウジも言い返そうとは思ったのだが、そのあまりの常識のなさに(元々、小賢しさという言葉に縁のない女ではあったが)しかも大真面目な、いやさ思い詰めた顔で、しかも寝間着姿で「きて」などと言われた日には。続く言葉は消え、フォローに入ろうとした洞木ヒカリともども口をパクパクさせるしかない。
 
 
それは、教室という学校教育現場にあまりにもふさわしくない、神がかった光景
赤い瞳に空色の髪、白い寝間着、己の都合だけを述べる短い言葉、それを狂人(アタマオカシイ)の一言で片付けるにはその存在はあまりに力が強すぎた。怪力乱神、乱れた、神というほうが正しい。幻想というほど儚くない。ありふれた日常などむさぼり喰らうことになんの遠慮もない妖意思。一般人はその意向に抵抗などできようはずもなく、ただ見ていることしかできない。
 
 
「お前は、獣か」
 
 
淡々と。咎めるよりも諭すように。発言の最大限の効果を熟知しその通りにコントロールされた声だった。この教室内で聞いた覚えのない、大人びたそれ。口を出すことも可能な者はいたようだ。
 
 
「鈴原から少し離れろ。それでは無礼となる・・・・親しき仲にも礼儀あり・・違うか、綾波レイ」
 
その声の理性的な響きに、赤い瞳はわずかに揺らぎ、声のしたそちらを見た。
車椅子だった。知らぬ顔。藍色の長い髪をひとまとめにしているのがなぜか獣の尻尾を連想させる。自分が学校にいかぬ間に、こんなのが転入してきていたのか・・・・。
 
 
「あ、そうそう。いきなりのアヤナミリターンで、ちょっとトージもタイミングが狂ってたなー。彼女が”来て”っていってんのに”レツ”、続けてキテレツ、なわけなんだけど、あそこはちょっと声が小さかったかなー、オイラとわんこちゃんくらいしか聞き取れなかったYO!19点!それにしても、アンタほんとに目が赤いんだなー、クリムゾングローリーっていうかプライムローズっていうか、レッドオブレッドサンっていうか、いまが午前中だからいーけどさ、これが夕方から夜にかけて誰もいない放課後で、居残りさせられたトージの前にキミがやってきて、いや、アングル的にはいつの間にか後ろに立っている方がいいか、そして、”背筋が何とのう寒いのう・・・”なんとなく気配を感じてトージが振り返ると・・・・ふたりの目が合って・・・・・そして、
 
 
・・・・・・・”来て”・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
うひょーーーーーーー!!怖えーーーーーーっっ!!」
 
 
絶叫する異人がいた。異能はなさそうだが、黒褐色の肌に大きな白い目玉が飛び出すリアクションが異常であった。誰だこいつは。こんなのも転入してきたのか。自分が、自分たちがいない間に。そして、鈴原トウジの呼び方から、新しい絆を結んでいることに気づく。
絶叫異人は車椅子の娘の近くにあり、叫びつつもガードするようでもある。
 
 
「お前の態度も無礼だ、ミカエル。それから、人の名前を変形するのはやめろ」
この貫禄。身体さえ自由ならば洞木ヒカリの委員長の座はすぐに移動することになっただろうが、綾波の目で一瞥するに車椅子にある身体はこの先二度と己の足で歩くことはない深度の障害を感じた。四肢はそろっていてもそれを操作する神経の流れがおかしい。
違和感はあったが精査してみることはない。己の行動を邪魔されたことにはかわりはない。
 
 
獣でいい。時間がないのだ。ここで無駄な時間を費やすわけにはいかない。
 
 
一応、昨夜の使徒来襲は「撃退」ということで報告がされているが。
偽りの勝利。不完全の敗北。危うい、悪魔と取引でもしたかのようなバランスにこの朝は。
乗っけられている。ぐらぐら、ゆらゆら。足下が揺れていることを誰も知らない。
理屈も礼儀も。尊重している暇などない。もともと、それを重要視もしてなかったし。
新参者に少々いわれようと。
責任感という血刀ぶらさげて、獲物を前にして綾波レイは、前へ・・・
 
 
「行こう。わたしたちも、聞きたいことがたくさんあるし」
 
後ろから、ぐさりとやられた。伏兵の名は霧島マナ。普段の朗らかさを消し、目は金属の強さを帯びていた。じろ、にらみつけてやるが、退く気はないらしい。ここにきて、綾波レイはようやく己の失策、時間をかけたくないといいつつ、実のところ、一番面倒で時間かかりそうでおまけに情報漏洩の激しそうな場所へやってきてしまったことに気づいた。
 
鈴原トウジを誘うのに、第三新東京市中、どこをさがしても、ここよりもまずい場所はないだろう。べつだん勇んで虎の穴を目指すことはなかったのだ。虎の子が出てくるところをねらえばよかった。赤木博士の指示が鈴原トウジ、洞木ヒカリ、両名のスカウトであることを考慮すれば、教室はまずすぎた。幸い、事情は全くといって説明していないが。
 
まさか、参号機のパイロットとして、チルドレンとして使徒との戦場に招きにやってきたなどとは思いもよらぬだろう。
 
 
「そうやな・・・・・・綾波もこんなカッコで・・・・そこまでして、急いで来んといけんほどの話やったら・・・いいんちょ、抜けさせてもらうけどええか?」
「私もいくから。犬飼さん、このこと先生に伝えておいてもらえますか?」
間をおいたことで、鈴原トウジも事態の(異様さはとりあえず横にどかして)重大さをしっかり受け止め己のなすべき行動を告げる。急ぎの話を人に聞かれぬ場所で聞くこと。
続く洞木ヒカリの同行の意思。
 
 
「連絡なら確かに。・・・・・だが」それを受け取り、綾波レイの方を犬飼と呼ばれた車椅子の娘が見たのは、その自然な首の動きが示すのは「公平」さであり、いささか言語表現に不自由そうな綾波レイに「かまわないのか」確認をいれる。第三者の裁定があるのは助かった。出来ることなら教室内で異能を振りかざしたくない。おまけに、少し冷静になってみると、赤木博士の言葉がひっかかる。渚カヲルを完全に見失って自暴自棄になっているふうではあるが、ふたりの子供を必要もないのに死地に立たせるような塵な判断はしないだろう・・・・地下底で会うとそれくらい辞さないだろうこのひとは、などと思ってしまうのだが。これまでの因縁関係がない相手と話すのは、どこか涼しい風穴が空くような心持ちがある。世界中が知り合いになってしまうとそれはそれで息が詰まるのかもしれない。
 
 
綾波レイの返答を教室中の空気が待った。基本的に綾波レイは鈴原トウジだけを連れ出しにきたのだが。いかなる話をするのか。尋常一様の話ではあるまい。この緊張感で「もしや告白?」とか考えるのは1人しかいない。洞木ヒカリや霧島マナ、その先にある深い墜落感(もしくは自分たちと綾波レイ、双方にある場違い感、といったもの)のようなものを予知してあえて同行を口にしなかった相田ケンスケや成り行きを見守るしかない山岸マユミ、誰の同行を許可するのか、いっそこの場でもう用件を口にしてしまうかもしれない、という期待感も混じり。磁力を帯びたように、このときの空気の記憶はこの場にいる全員の記憶にずっと残る。
 
 
 
「・・・・・・おや」
 
 
休憩時間が終わり、担任の老教師がはいってきた。来ているはずのない生徒の姿を見てもあまり驚いたふうでもない。その一言で、呪縛が解かれた。日常の時間が動き出す。
 
 
「・・・・帰る」
 
とんでもなく幼い一言を残して、綾波レイは教室を出て行こうとした。
 
一気に魔力や神性を失ったかのように、その白い細い背は弱々しい。
綾波レイとしても、自分のやり方のあまりのまずさに、元気になりようがなかった。
獲物に命中することのなかった外れ矢。一時は忘れていた己を束縛する力を強く感じる。
 
 
こうなってしまうと、どう見ても精神病院の迷える患者にしか見えない。
両極端。傍若無人な突入と、時間が来ると諦める粘りのなさ。
何か知らないが、相当に追いつめられている。今まで自分たちの見えないところで何をしてきたのか。何を見てきたのか。
 
 
「綾波さん」
担任の老教師が呼び止めた。従わせる威力など微塵もないが、足が止まった。
 
 
教室の生徒達は一瞬、「二年A組根府川先生」、ドラマを予感した。
 
 
「学校に来るときは、制服に着替えてから来るように」
注意だった。
 
 
根府川!!
 
若者たちの純な予感は裏切られた。
 
 
「それから、・・・・・・綾波さんは顔色が悪いですね・・・・・だれか、お家まで送ってあげてください。・・・・・鈴原君、洞木さん、いいですか」
 
おまけに期待も裏切られた。チルドレンの担任をするくらいであるからネルフの関係者であろうとその筋では囁かれていたがいよいよ純粋の教師なのか、老教師は少ししわの入ったタクシーのチケットを一枚、洞木ヒカリに渡した。鈴原トウジはたまっていたプリント類をどっさりと持たされた。