第三新東京市中学校校門から、顔色の悪い生徒を一名、それと生徒ふたりの付き添いの計三名を乗せたタクシーが走り出る。
 
 
「目標が団地内に入り次第、捕獲せよ。早急に本部に連れ戻せ。これ以上、目標に外部と接触させるな」
 
 
電波は車より遙かに速い。比較にならぬ速度差で追い抜いたそれに乗せられているネルフ本部諜報部・・・組織改編時に司令直属として新設された数字の無いセクション、通称”ル課”の指示・・・「捕獲」
 
 
「捕獲・・・・・保護では?」
 
「捕獲だ。命令は捕獲、とある。命令に不服があるのか?体制は変わった・・・これからは私のやり方に合わせろ。目標をロストするのが仕事だった以前は忘れてもらう」
 
「・・・捕獲、了解。団地周囲配置、完了」
 
「そう軋轢を感じることはない。私の希望した人員が届き課員の頭数が揃えば力のない貴様たちはお払い箱だ。少数精鋭が私の好みなのだ。どこへなりと好きな課に転属させてやる・・・ただでさえ和人は使い難い、場繋ぎにすぎぬのだが・・・・いかに異能があるとはいえ、子供1人捕らえること程度は出来るだろう?適正な装備も与えてある」
 
「・・・・・・」
 
「前衛の対呪眼装備作動確認完了」
 
「同行の二名への対応は」
 
「警告に留めておけ。目標が抵抗した場合、抑える手札になる・・・まさかとは思うが、他の課に先を越されるようなことになれば・・・・・手持ちの駒で貴様らを追跡させるぞ」
 
「は・・・」
 
「仕事柄、飼い主の好みにはなかなか敏感なのだろうな。・・・・今、何をすれば飼い主が喜ぶか・・・・前の飼い主はそういった点、淡泊であったようだが・・・ククク、二課の諸君、聞いているかね?そのように鷹揚に構えて身内の盗聴などつまらぬ仕事にかまけていると、他の課に取り残されてしまうが、よろしいのかな。たとえ、それが副司令殿の頼まれ仕事であってもだ・・・・クククク・・・・」
 
 
ぶつん。
 
 
木製の義手にて通信機のスイッチは切られ。「敗下の孤独・・・・・洗脳には絶好の衰弱具合であったのだがな・・・・・どちらにせよ、なまなかの術師では迎撃されるか・・・・まあ、この先、捕らえて術台に上げ虚ろの残響を聞く機会などいくらでもある・・・・奴らの到着を大人しく待つとしよう・・・」蠅の羽音のする闇の室内にて黒色の包帯で顔をグルグル巻きにした不気味な男が不気味に笑った。胸元の満月のような鳥を模した仮面が揺れてこれまた不気味な光を放った。
 
 
「ずいぶんと、長い間、待ったのだから・・・・・あの独眼を」
 
 
 
卑劣は卑怯な人間の通行証で、高尚は高潔な人物の墓碑銘、といわれる。
 
 
 
綾波レイは鈴原トウジと洞木ヒカリの同行するタクシーの中で、自分がツルハシを背負っているような気がしていた。もちろん、それは墓掘り用。自分が墓穴を掘っている、掘りつつある自覚はある。そして、車は目的に向かって走っている。車内は無言。助手席に座った鈴原トウジ、後部席、隣に座った洞木ヒカリ、あえてふたりも話しかけてこない。表情は硬い。雑談をするような雰囲気でも相手でもなかったし、タクシーの運ちゃんに聞いて欲しい話でもない。
 
これから、3人の間で話されるであろうことは。
 
大げさでもなんでもなく、この都市と当人たちの生命と運命に関わる話であるのだから。
 
 
もともと無口な上に、さきほど教室なんぞに直行してしまった己のやり口のまずさと、ATフィールドを反転引き剥がされたことによる気を張っていないと奈落の底まで崩れ落ちそうな精神疲労がある、正直、説得だの説明だの、やる気がしない。
 
苦境の中にあって雄弁になど、なれそうもない。これが碇シンジ、彼であったら・・・・らちもない想念をひねり潰し捨てる。
 
 
苦境にある自分を理解してもらう何より一番の方法は、同じ目にあってもらうこと。
全ての人間が等しく己の苦境苦衷を伝播しあえば、日が降りるころには世界に孤独な人間はいなくなる。人間は苦しみで形作られるのか、楽しみでその色合いを選んでいくのか。
人間は、どうしても互いを理解しあえない悲しい生物。ならば、なれど、ゆえに
生物であることを自ら止めてものいわず積まれた石になり堤防になって堰き止める。
 
 
けれど、
 
 
我が苦境を理解するため、貴様ら同じ目にあえ、とは、どうしても言えない綾波レイであった。口が裂けてもいわないだろう。大なり小なりはあろうが、自分もどこかの誰かが防いでいるためその苦境を味わわずに済んでいるのだという、素朴な祈りがあるからだ。これは感情が消えてもまだ胸にある。
 
 
その一方で、あまりに便利な力を持っている。人の意思さえやすやすとねじ曲げるほどの。
鈴原トウジを参号機パイロットに仕立てるのはたやすい。本人のやる気など関係なく。
話がこじれてきたら、「ああ、めんどうだな」とその力を使ってしまうのではないか。
相手の魂を超常の力で束縛しようとそれは犯罪ではない。後ろ指さされることも追求されることもなく、それを成したあと、自分さえ忘れてしまえば操作の事実さえ闇に消える。止められるものは、この都市に誰1人としていない。この透明の罪悪を指させる者は。
たやすくものごとを、人流の中、幽霊の如く通過させる、この力。
 
 
結論からいえば、鈴原トウジの参号機パイロット襲名は、決まっている。
それをするしかない。躊躇は時間の無駄。預かるその任からすると罪とも言える。
相手を上回る戦力を揃えねば、戦いには勝てず。相手と同等の戦力をもたねば蹂躙される。
それだけの話。ゆえに、戦力を補強する。それだけの話。むつかしいことはなにもない。
 
 
しかし
 
 
パイロットたり得るのか。しかもあの参号機を御しきれるのか。疑問は残る。
なぜ、「ふたり」だと赤木博士は言ったのか。戦闘の難易度もあがってきている。使徒のJTフィールド使用が戦術の基礎になるなら、それはステージが繰り上がったといってもよい。熟練のパイロットでも思考の切り替え訓練法の転換など多くの時間が割かれることになるだろう。ギルチルドレンでも対応しきれるか・・・・それが、全くの一般中学生では。
言葉が悪いが、盾にもなれまい。文字通りの怪物くんであった碇シンジや神に愛された天才の渚カヲルならまだしも・・・・このステージで新規参陣は辛すぎる。
 
 
迷いがある。
 
 
なぜ、彼なのか。本当に彼でいいのか。他に、誰かいないのか。
 
 
焦っていた。焦燥のままに飛び出してきた。まるでどこかのマジックハンドのように。
超常の異能をもっていながら、ただのクラスメートたちも相手にできなかった。
 
 
自分は
 
 
 
「・・・ホンマ、大丈夫か。綾波・・・・やっぱりかなり無茶しとんやのぅ・・・」
「乗ってすぐだったし、少しうなされてたみたい・・・・綾波さん、着いたよ」
 
 
いつの間にかタクシーは止まっており。後部席のドアも開いて、真剣に思考していたはずの自分がいつのまにか眠っていたことに気づく綾波レイ。ふたりの顔は硬さより心配がある。綾波レイの行動があまりに素っ頓狂だったとはいえ、なんか空気的に異分子排斥みたいになってしまったことに残念な気持ちがある。再会を待ち望んでいながらも、心の準備がまるでできていなかった。
 
 
「・・・えーと、ここで良かったのかい?住所録を間違えてなかったかな・・・まさかここに住んでるってことはないだろう?」
幽霊マンモス団地を見上げて、タクシーの運ちゃんが予想よりもずっと早い停止要請に戸惑っている。どうせチケットであるし、病気の友達を家まで送ろうとする中学生の姿はなかなか心温まるものでもあったし、こんなところで降ろしてしまって実はもっとお家は先の方でした、というのも大人として黙っておけることではない。それとも訳ありの子供でここから先は屋敷の黒塗りの外車が迎えにきているとか・・・・・・そういうことでもなさそうだったし。
 
 
「いや、ここでええんです。ほら、綾波歩けるか?なんか寝ぼけとるんちゃうか?いいんちょ、手を引いてやってくれや。こいつ、コケそうや。・・・・それじゃ、ドライバーはん、どうもおおきに」
シャキシャキとここらでは珍しい関西弁のジャージ少年は、病人の友達を気遣いながらもチケットを渡してきた。ほんとに、ここでいいらしい。「そ、そうかい・・・それじゃ、お大事に、早く家に帰って休むんだよ」それなりに親切心はあるが、次の指名もかかったこともあり好奇心旺盛な方でもないタクシーの運ちゃんはそのまま走り去った。
少女の特殊な(どちらかというと金銭系)御家庭の事情で、こんなところに隠れ住んでいようとも、少年少女の清々しい友情には関係ないことなのだ、と勝手に結論づけたり。
 
 
「う・・・ん・・」
それはともかく、タクシーから降りてみると、自分がもうへろへろで、うまく歩けないくらいに疲れ切っていることに気づく綾波レイ。
綿人形のようなもので、もはやふしゅふしゅ。
この幽霊マンモス団地、自分のテリトリーに帰ってくるのも久しぶりだった。
重力が強いわけでもなかろうが、宇宙から地球に戻った宇宙飛行士のようによろける。
 
 
結局
 
 
「・・・・・・・あ・・・・」
「軽い、軽すぎるで、綾波。軽きにぬいて三百メートルや。メシくらいきっちりくらわんとアカンで。なあ、いいんちょ」
「それをいうなら、軽きに泣いて三歩あゆまず、でしょ。国語の授業でやったばっかりじゃない」
鈴原トウジにおんぶしてもらい、団地内をゆく。碇シンジがまるまる一棟所有していた「台風避難場所」を過ぎて、綾波レイの私室402号室がある綾波棟まで。てくてくと。
ちなみに、鈴原トウジがらしくもなくそんな短歌を心の引き出しから引っ張りだしてきたのは、ほんとうに綾波レイが軽かったから。ほんまに乗っかかっているのか何度か首をひねって確認したほどだった。ジャージの背にあるそのほっそりとした小さな姿がゆられているうちに消えてしまうのではないかと・・・・隣を歩きながら、そんな不吉な感覚にとらわれる洞木ヒカリ。とても重大な、重たい事柄が、その背に乗せられて、そしてそのことを誰かに語ることもできずに、じっと1人で堪え忍んでいるのではないか・・・・・
 
 
 
碇君が、帰ってこなかった
 
 
 
”流された”
 
 
 
なぜか、彼にはそんなイメージがある。詩の才能なんてないけれど、言葉で表現するなら
 
 
天の河に流された。そんなイメージが、ある。あれが夢でないなら。一度、彼は海に潜った、というより深く沈んだ。けれど、戻ってきた。
まとわりついた火が消えたアスカと一緒に。でも、今度は。
 
 
渚君を、見つけることができなかった・・・・から?
 
 
どこかの波の間から「ぼく、ずいぶん泳いだぞ」と言いながら出てくるかも知れない。
どこかの人の知らない洲にでも着いて立ってて誰かの来るのを待っているかも知れない。
 
 
”もう駄目です 落ちてから四十五分たちましたから”
 
 
不吉なイメージを繋ぐのはあの童話。
 
 
「そんな、寂しいことになっていませんよね・・・・・ただ、お仕事なんですよね・・・すごく忙しくて、連絡もとれないくらいに・・・・」山岸さんは俯いて祈るように言っていたけれど。今日、綾波さんが教室に来たのは、そのこと、あの夜の最後を教えにきてくれたわけじゃなみたいだけど・・・・・・この機会を逃せばおそらくもう二度と。
こうやって鈴原の背にあるからよく分かる、綾波さんがその身を削ってきたことを。
身を削って一心に何かに取り憑かれたようにやる人間に対して機会を逃せばもう二度と。
 
 
 
アスカがいてくれればな・・・・・・
 
 
今、この時、頼ることができたら。バランスを崩すことなく、皆で一斉に動くことができただろう。それだけ大事なものを逃がさないで捨てないですむかもしれない。
 
 
「・・・・・・・・・」
 
鈴原トウジの背にゆられながら、綾波レイはひとつのことを考えていた。
 
しばらく帰りもせず、掃除もしていないから、さぞかし汚れてうすら寒い空間になってしまっているのだろうな、と。蜘蛛の巣城みたいになっているのではないか、と。
身体は切実に休息を欲しているが、そんな状態では休もうにも休めない。掃除する元気など当然ないし。本部にも・・・・・・しばし、戻る気になれなかった。
安全地帯ゆえに、本部のマークがつかないのはここくらいのもの。現在地さえ知れていればいいだろう・・・多少は気も抜ける・・・・
 
ここで、ここまで来ながら、戦闘のことでも説得方法のことでもなく、自分の部屋の荒れようのことを思うなど、そこまで弱り切っているのか。それとも日常に立脚するこのふたりの影響か。それを、これから引き剥がそうというのに。
 
 
「おんぶが、ずいぶん手慣れてるねー・・・・・いや、ちゃ、茶化すつもりはないんだけど。鈴原、照れないし動きがゆったりしてるというか、安定感があるっていうか」
 
「まあな。妹がおるからなー、小さい頃はよくやってやっとったんや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 
「?どうしたの、鈴原。ピアノ音楽とか流れてないけど、想い出に浸ってる・・・局面・・・とか」
 
「い、いや、そうやない・・・いや、それもあるかなー・・・そ、そうや、つい昔を思い出してホロリとしてしもうたんや!(いいんちょが変なこと言うからついソッチ方面に意識してしもうたやないけ!妹ならともかく綾波は同い歳やからな・・綾波のむね、綾波のふともも、綾波のふくらはぎ・・・・・くうー・・!それからピアノ音楽とか局面ってなんやねん!!ナツミは生きとるし!!手がつかえんからインナースペースつっこみや)」
 
「へぇ・・・・・・」
その内心とは大いに逆さまの返答に、やさしく細められる洞木ヒカリの目。
 
「やさしいね」
 
「ほ、ほうか?・・・・・・というか、分かったふりしてすんません、なんでなんかワシにはさっぱりだったんですけど」
実のところ、洞木ヒカリがなにを考えてどういうふうに頭の回線が接続されてこんなことを言うのか、百年たっても鈴原トウジには分からないであろう。だが、目覚めかけた煩悩男回線がそれで閉じられたことは間違いない。
 
「・・・分からなくても、いいんだよ」
目をほそめたまま、洞木ヒカリは答えた。
 
「ほ、ほうでっか」
 
「そうです」
 
 
・・・なに至近距離で見せつけてくれとんじゃいワレー、と綾波レイでなければつっこむところであっただろう。もっとも、綾波レイはそんなところには目もくれていないが。
 
 
親兄弟・・・・・血族、よく考えてみれば、彼らにもそれがある。自分の子供、自分の兄弟がパイロットになるなど、どう思うだろうか。血族の力をもて、愛する血筋を逃がそうとするだろうか。
 
 
ぼんやり、そんなことを考える綾波レイを団地の影より複数の目がじいっと見つめていたのだが、感知判定ファンブル、気づくことはできなかった。すこぶるつきの素人であるあとのふたりは言うに及ばず。
 
 
402号室。
 
 
到着してしまった。いちおう、これで担任の指令「綾波レイの送り届け」は果たしたわけだが、ここでくるりと背を向けて「また明日なー」と帰れるはずもない。話もあるし、何よりここまでへたりきった相手を看病してくれる人間もいないのにほうっておける鈴原トウジと洞木ヒカリではない。一応、部屋まで上がらせてもらって一段落つかねば。
難しい話のできるような体力ではなさそうだが、かといって。もともと、その身体をおしてまで教室にやってきたのは綾波レイの方なのだから。荷物をおろして、運搬人鈴原トウジは尋ねる。
 
 
「上がらしてもらってもええかー?」
 
 
「・・・・・・・・・」
背にある部屋の主から許可も返答もない。しばし考えている、ようだ。そして、その赤い瞳は扉とノブに。注視を。ここしばらく帰りもしなかった寝床の扉が、ドアが、なんで錆び落としされ清掃されているのか。エレベータからここまでの通路も地味に手直し、ワックスなどがかけられピカピカにされているのではないが、風雨を吸い歪み膨張していた通路の一部分などが補修されており、変色の激しい塗装なども塗り直されていた。ヘタに掃除するよりもよほど手間と金がかかっている。意識せねばわからぬが、より心よく暮らそうとするなら必要なメンテ。・・・・・・・・誰かがやったに違いないが、誰が?
家に帰りもせずに第三新東京市周辺を飛び回っていたのはネルフの人間ならば誰でも知っている・・・・・その間を見計らって業者にやらせた・・・・?そんな気をきかす余裕のあった人間など・・・・それ以前に、この幽霊マンモス団地一帯には、綾波の特製結界を構築してある。立ち入りからしてそう、そんな無断で仕事に入るなどできるはずがない。
ましてや、この402号室、自分の私室の扉にまで勝手に手をいれるなどと・・・・・
驚かして喜ばせよう、などという茶目っ気は現在の本部の何処探してもない。外部組織。
自分を暗殺したり害するつもりなら、このメンテ具合の説明がつかないわけ、だが・・・
 
 
「ここ、数日で、きてもらったことは・・・・あった?」
 
言葉を選びながら反問する。問われたふたりは、綾波レイには珍しく、謝意にすればまた野暮にもなる、そんなことを考えこちらに気をつかったのかと思って答える。
 
 
「まあ、何回、か、寄らせてもろうた・・・・・会えんかったけどな」
「忙しかったんだよね、綾波さんも」
 
本当は、何回どころではない。あの夜の最後を聞くために日参した週もある。が、途中、ネルフの人間か、黒服の直立不動する男たちに、やんわりと訪問禁を警告され霧島マナ相田ケンスケ経由の情報からほんとうに綾波レイが駆け回って何か任務をこなしている・・・「だって”1人しかいない”んだぜ?今・・・」のを聞き、待つことに決めた。その機会がこう唐突にくるとは思わなかったが、待つには待った。中途半端に事態を知っているゆえに、焦がれた。碇シンジと、渚カヲルが、どうなったのか。
 
 
「そう・・・・・」
あやまるでもなく礼をいうでもない。ただ、うなづいた。彼らは待っていたのだと。
観察眼を期待するところではない。
ドアノブに手をかける。鍵はかかっている。不審者は団地内に入って来られないのだからそもそも必要ないので鍵をかける習慣はなかったが、碇シンジが一時期「台風避難」と称して団地内の自分の棟に住んでいた頃より、必要に応じてかけるようになった。
 
 
かちゃ 鍵はかろやかにまわり、扉もずいぶんと、すんなりと開いた。
主のひさしぶりの帰還をよろこぶように。寝床にすらしていなかった部屋がそんなことを思ってくれるなどと虫がよすぎるかもしれぬが、たてつけがなめらかなのは事実。
 
 
「少し、待っていて」
 
 
そういってふたりを扉の前で待たせて自分だけ部屋に入る綾波レイ。なんか意表をつかれたが、年頃の女の子としてはさもありなん、な「ちょっと意外やな」「しっ!」「うげっ!!れ、レバーはちょっと・・・キツすぎ・・・」行動であるから、洞木ヒカリたちも大人しく言われたとおりに待つことにする。残ったひとりはゴロゴロのたうちながら。
 
 
大型爆弾とか、そういうのではないようだが
 
 
室内の様子が変化していることに扉の前の感触で気づいた。なめらかな扉も誘っていたのかもしれない。白ネズミのようにあちこち旅していたターゲットが罠にかかる瞬間を。
 
 
 
そして、赤い瞳は見た。
 
 
 
「・・・・・・・・・」
 
 
自分が居ぬ間に改装、ビミョー・アフターな大変身を遂げた部屋を。
 
誰か、自分を育成する気でいるのか。
 
いや。えらく掃除の行き届いたそこには蜘蛛の巣や埃などなく・・・・なんというか、さりげなさなど完全考慮外で搬入されているしんこうべ製の物品小物・・・里心がつくようにつくようにつくように、インテリアデザイナーのプロ中のプロが計算しつくしたような、無意識下にズギュン!!とくるような改装が施されていた。
 
胸の内に快い風が吹く、故郷のあの軽やかな空気で満たされている・・・・そんな錯覚をおぼえるほどに。なんなんだろう、この”どがん”、と置かれているわりに全く違和感を感じないしんこうべに帰っていた頃診察仕事で使っていた机、その上のざーとらしい眼鏡は。ベランダからの光を浴びて踊るような、あえて自動水やり装置をつけなかった感じの花のポッド。脳病院近くの植物園を思い起こさせる、ちょっと豪華な色彩の出迎え。
壁にかけてある呪術の匂いがぷんぷんする中国水墨画カレンダー。
それに対をなすような、未来的デザインであるところの多機能ボールチェア。
あまり使うことのないキッチンの方も・・調理器具が新調されソース以外にも調味料がひとそろいされ、どういうわけか皿やコップなどが五、六人分くらいそろえられている。
冷蔵庫の中には酸ノ宮製の栄養ドリンクや強化食品がしこたま詰まっている。
 
 
逆に取り払われたものもある。それはベッド。移動や隠すスペースはない、無断で部屋から搬出し・・・・捨ててしまったか。その代わりに、そこだけ畳をしいて布団がたたまれている。屏風にかけられた袖が多い勝負服、毛布代わりにくるまって寝たこともあった「綾波」が壁になる。そうなると天蓋つきの王様ベッドよりも豪華にみえるから不思議だ。
 
 
・・・・・そこまでしてるくせに、手紙やらビデオテープやら直接的に、意思を告げるものはない。この強引すぎる変化球。誰がやったのか・・・・・・分かった。わからいでか。
 
 
 
うぎゃああああああああああああああああああああ
 
 
 
その時、外から、向かいの棟のあたりから、悲鳴が聞こえた。
男女混成数人以上。鬼気迫る・・が、それがほんとに人間のものであるかどうか。
ただ切迫した意思だけが感じられる。寂しいがどこか蕩々としていた無人団地の空気がナタでやられたように断ち割られた。
 
 
「うお!?な、なんやっ!?」
「な、なに今の悲鳴・・・・」
 
鈴原トウジたちにも聞こえたらしい。まだ真っ昼間だからいいもののの、これが夜中であったら・・・いや、悲鳴が聞こえるというのはどのみち尋常なことではないのだから、こわいもんはこわいし、無人であるはずのこの幽霊マンモス団地であるからこそ気味がわるいを通り越して、それは現実的な脅威、この悲鳴をあげさせる何かがこっちにやってきたら・・・
 
 
「いいわ。・・・・はいって」
綾波レイは扉をあけて、二人を部屋にあげる。表情は淡々と、いつもの通りに。
悲鳴などまるで聞こえていないように。もとより。とくに努力を必要としなかった。
 
「あ、綾波・・・・!いまの聞こえたか・・・?」
洞木ヒカリを先にあげて、鈴原トウジがバタン、と扉を閉めて鍵を閉めた。
かなり血相を変えている。が、行動的には正しい。ホラー映画じゃあるまいし、という無責任な楽観は彼にはふさわしくない。
 
 
「・・・・あれは、風が通った音。解体が中途だからたまに、あんなふうに響くことがある」
 
だが、ここはそれを否定しなければならない。幸い、悲鳴は続かない。すぐにカタをつけたらしい。悲鳴などまるで聞こえていないように。能力で聴力を増幅させた耳は確かに”彼女たち”の会話を聞き取っていたが。なんでもないように。
 
 
「ホンマか・・・・・?えらく気合いがはいっとった、ちゅうか・・・・イヤ、拳銃の音なんかもドラマなんかと違ってほんまもんはあっさりしとるっちゅうし、こんな真っ昼間からあないな役者があげたみたいな悲鳴もおかしいわなー、団地の屋上からいきなり幽霊降ってきたー!!みたいなものごっつさやったなー」
「ここに住んでる綾波さんがいうなら・・・・・・そうなんでしょう、ね・・・・・でも、びっくりしたあ・・・・・・あ、後回しになったけど、おじゃまします・・・・わあ!」
 
 
このふたりは行動力はある方だろう・・・それもかなり。それが現場確認もせずにあっさりとこちらの言うことを信じてくれたので助かった。だが、しばらく引き留めておく必要があるだろう。すぐに帰られてちょっとさっきのを調べてみよかー?などと好奇心が疼かれても困る。出来れば状況が静まるまで数時間、留めておきたい。加持ソウジがいてくれればこの場繋ぎをうまくやってくれ、二人を無事に送り届けてもらうのだが。
 
いかんせん・・・・・・
 
 
「ほー、なかなか小綺麗にしとるんやなー。インテリヤもなかなか・・・ホンマいうと女の部屋のことなんかわからんけど、・・・・なんか一人暮らしのわりにはあったかい感じがするなあ」
「インテリ・ア。だから。でも、綾波さんなら古城でゴシック系でもオッケーかなって思ってたけど、そうよね、色々取り入れてて・・・・・けっこう暮らしに工夫って感じかなー、綾波さんのこだわり拝見ってところ?ふーん、へえー・・・・」
 
玄関から部屋の中まではいってきて、首をぐるぐるさせる鈴原トウジと洞木ヒカリ。
 
 
とりあえず興味はそれたようだ。なんせ自分でもまだ全部見終わってないくらいなのだ。二人が興味をひかれるのは当然かもしれない・・・・・・、いやちょっと違うか。
見るくらいなら存分に見ればいい。これで時間がかせげるなら都合がいい。
「ああ、綾波、プリントここにおいとけばええかー?」「え、ええ」鈴原トウジが診察机の上にプリントを置く。この机についてくらいならまだしも、他の家具類について問われた日にはどうしたものか・・・・・なんせ、それらを揃えたのも並べたのも自分ではないときている。それらの事情を正直に説明するのは、時間稼ぎとはまた別にしたい綾波レイであった。
 
 
茶でもいれるべきか・・・・・・・
 
 
そう思いつき、そうすることにした。話さねばならないことがある。
鈴原トウジがこの第三者が立ち入ることのない己の結界、自宅に来たことは、この面白くもおかしくもない話をするのにずいぶんと適している。彼1人であるなら。
洞木ヒカリもともに。その隣に、その傍らに。目がぼやける。2人の姿が重なって見えた。
やりきれぬ、というのかこれを。
 
 
洞木ヒカリには眠ってもらう・・・・・・か。自分たちが話をする間。
黒の参号機への搭乗。使徒との戦場へ。別の世界へのスカウトなどと。
聞かせるのは・・・・・酷い、だろう。
レリエルと何が違うのか。自嘲も苦笑もなく。そのように転化して己を霞ませ楽になろうなどと。綾波レイは考えもしない。
だが、そのような手段を考えた報いはすぐにやってくる。
 
 
くら
 
 
台所に向かおうとした途中で眩む。膝が笑って、視界が滲むくらくらする。
 
 
ふら
 
 
しりもちついて倒れるところを「ふ・・・わ、と!!ごめん、綾波さん!つい部屋なんか見とれちゃって!ほんとごめんなさい!」目ざとく見つけてダッシュギリギリで抱き留める洞木ヒカリ。「もう休んで!鈴原!そっちの屏風をどかして布団しいて!!綾波さんを寝かせるから!んー、熱はない・・・のかな?・・綾波さん平熱低そうだし・・・ちょっとわかんないけど、もう今日は休むしかないわ」大きな声で謝られておでこに手をあてられてその後本日の休養を断言されてしまう。だが、そんな余裕も時間もない。そのために本部を抜けてきたのだ。それで自宅で休んでいればザマはない。使徒は、必ずまた来る。
 
 
「わたしは、大丈夫・・・・・・今、お茶をいれる・・・・・」
 
 
「「はあっ!?」」そう言ったのに、二人に信心はないようでハモられた。
そんなクリスマスの教会で念仏唱えた尼さんを見るような目でみなくとも。
多くの言葉が内包された「はあっ!?」で二人は互いの内容が分かっているようだ。
 
 
それから
 
 
洞木ヒカリに手もなくひねられた、というか、まさしく赤子の手をひねるように
このへん、弟や妹の居る兄姉スキルというか。
 
 
「あ・・・・いや・・・・」
否定の意思は告げたのだが。「寝・る・の!!寝なさい、綾波さんっっ!!」
ぺたんと。ちなみに、「いや〜・・」鈴原トウジは顔を赤らめてそっぽを向いている。
なんて強引さ。こんなに強引だったか、この洞木ヒカリは。
 
 
床につかされた。1,2,3のカウント3,いったん両肩がついてしまうと、背中と床がくっついてしまったかのように起きあがれなくなる。疲労という名の強力接着剤。
おまけに布団のやわらかさ。きちんと日に干してあるらしい肌触り・・・う、だめだ。
しかし、寝ている暇などない。なんとか自由になる首をふってまどろむ睡眠に抵抗しようとする。「うわ強情」こちらが強情ならそちらは強引。批難されるいわれはない。
 
 
「あー、えー、その、そーやなー、こ、子守歌でも歌ってやればええんやないか?」
 
女の子ふたりがからむ現場の直視はさけ、鈴原トウジがかといってほうってもおけずに。
子守歌・・・・・・・同学年の同じ歳の相手に歌うものではないが。洞木ヒカリは
ひとつ、息を深く吸うと
 
 
 
ゆうやみ やまばと こかげぐも 
 
おおむらさきの ゆめのなか
 
おつきみそうは ねむれない
 
ぎんのしずくを のんだから
 
あるどろーん どろん ないどろーん
 
よるのこえ もりにわたれば
 
あるどろーん どろん ないどろーん
 
おやすみ よいこ
 
あした さめたら あげましょう れんげのじゅうたん みみかざり
 
 
ララバイを歌い出した。しかも三番まで。「うっ・・・こ、これはワイまで眠ってしまいそうや・・・なんちゅう威力の子守歌や・・・・・いかん!ここで寝てしもうたら!おねがい!サミアどん!!いや、お願いしたらこの場合アカンのか・・・・ぐうー・・・・」
鈴原トウジ陥落。
 
子守歌は子供を寝かしつけるためのものであるから、聞いて眠くなる、というのが効果的に正しいわけだが、それでも綾波レイは耐えきった。綾波の精神抵抗を全力にしてなんとかようやく。なんという凄まじい入睡眠力。もしエヴァとシンクロして増幅されたら使徒でも眠ってしまうんじゃないかと思われるほど。
 
「は・・・・・あ・・・・・・・」
 
 
なんとか気力を振り絞って起きあがろうとした綾波レイを
 
 
長弓背負いし 月の精
 
夢の中より 待ちをりぬ
 
今宵やなぐゐ 月夜見囃子
 
早く来んかと 待ちをりぬ
 
ねむりたまふ ぬくと丸みて
 
ねむりたまふ 母に抱かれて
 
 
タイトルがドイツ語の次歌が襲った。襲った、とは歌声のやさしさに比べてずいぶんひどい表現だが、これでやられた。ふいをつかれた。まだ続きがあるとは思っていなかった。子守歌がそれほどたくさんあるとは思っていなかったのが敗因か。子守歌なんかで眠らされるとは・・・・くぅ
 
くぅ・・・
 
くぅ・・・
 
すう・・・
 
すう・・・
 
 
完全に眠りにはいった綾波レイ。ここで諜報課員が連れ戻しなどにやってくればひとたまりもなかっただろうが、なぜか、この部屋までやってくることはなかった。