夜の沼釣り
 
 
場所は知らない。ただ、うっそうと繁りに繁った深い木々の様子からすると、そこが昼間でさえ人の、それが釣りのためなら少々の危険などなんのその、むしろその危険具合こそ我が処女池、入れ食いガパガパの証ようっ!の釣りキチでも遠慮しそうな、ちょっとボコボコ毒ガス湧いてそうなすぐむこうでゲゲゲの鬼太郎ハウスの展示でもやっていそうな不気味な沼。大がまガエルの主や大蜘蛛の大姉御でも棲んでおり、人間などが踏み込めば、あっさり呑み込み餌食にしてしまいそうな、魔沼。上から読んでもまぬま・下から読んでもまぬまであり、もはや誰も助かりそうもない。しかも、こんなところで釣れたものなど、よほどのゲテモノ喰いであろうと食べる気になれぬだろう。
 
 
実際に、沼のほとりから釣り糸を垂らしている父子が座っているのは巨大な茸だが。
サルノコシカケならぬ、ヒトノコシカケである。いや、自分はその茸の名前を知っている。
・・・・分かっている、といった方がいいか。
 
 
イカリノコシカケ
 
 
深い木々の囲いもそこだけは及ばない天上からの月の光、またはそれを台無しにするラジオ付き手回し発電機の光源によって浮かび上がる着物姿の髭男。
 
 
碇司令・・・・・・定年前の首切り、失職したから、もはやただの碇ゲンドウ、になるのか・・・・が、そこにいた。何を狙っているのかよく分からない竹の竿になんかごついリールがついている。眼鏡を外しているので、一瞬どこの痩せゴリラかと思ったのだが確かにあれは。
 
 
そして、なにより。
 
 
一応、釣りをしているうちに入るのか、竿は折った枝に固定しアコーディオンでも演奏するように半目で手回し発電機を回しているのは・・・・イヤホンを片耳に挿して、あまり釣りに興味があるようでもない、会話はない、おそらくはただの付き合い・・・・・か
その代わり、格好は着物下駄の父親より、アウトドア風にそれらしい・・・・日差しもないくせに麦わら帽子なのはともかくとして・・・・・・左眼の下のばんそうこうも・・・
 
 
碇シンジ
 
 
「・・・・・・・」
 
 
さっぱり釣れないのか、もとよりそんな気もないのか、魚に嫌われているのか、それとも単に腕がないだけか、魚籠の中は空。始めたばかりなのか、けっこうな時間が経っているのか、それは分からない。ただ沼の向こうから、あちらを木々の影からそっと盗み見ているような視界。沼のぶんだけ距離があり、口をひらいた碇司令が何を言ったのか分からない。気づかれることは、ない。彼らがこちらに気づくことはない。袋のあけられた麦チョコやプルのひらいた缶ビールやジュースがかろうじて時間を教える。
 
 
「・・・・・・・」
 
 
碇シンジがそれについて何か返した。男の親子がする会話など、天下国家を論じるか仕事論人物評でないなら長くなりようもなく、短い単位で終わるものだが。
 
 
 
碇司令が、碇君に、発電機を回させている。
 
 
 
遠目にもそれは性能がいいのか激しそうにも見えないが、疲れないということはないだろう。もしかして、それを労うことくらいは言ったのかもしれない。
 
 
 
「疲れたか」
「いやべつに」
 
 
そんなことを。いくらなんでも使徒戦のことをここで話したりはしないだろう。
 
 
ひいていた。碇シンジの竿が。それを注意したのか。こんな沼で何が釣れるのか。
釣れてうれしいかどうかはともかく、釣り糸を垂らしている以上、何かがかかったのなら相手をせねばなるまい。が、発電機をまわしていた碇シンジはそれを碇司令に渡そうとして、・・・・・・
 
 
「・・・・・・ろ」
 
 
碇司令の方にもあたりがきて、本人はそれにかかりきり、息子の発電機のことなどおかまいなし。父子の絆よりも、目の前のテグスのほうが大事らしい。そっちはそっちでなんとかしろ、とか、そんなことを言ったのだろう。発電機の光量は維持しろ、とか。
 
 
「!?・・・・・!!」
それに対して、碇シンジは反抗した。それはないじゃないか、そっちが誘ったくせに、とかなんとか、そんな感じだろうか。父さんは息子よりこんな不気味な沼の魚の方が大事なのか!!、とか、そんなことを。もしかすると、父さんは下駄だから、足の指でハンドル掴んで回せばいいじゃないか、とか。今までさして興味もなかったくせに、竿にかかったとたんに、大事になったようなあさましさ・・・・・・らしいというか、これが男か。
 
 
片手では竿を支えられてもリールがまわらない。糸は好き放題にでていく。沼というのは泥っぽく底の浅い池のことなのだが、どうも釣り人と同様、この沼も尋常ではないらしい。
 
 
その男に、かかった魚を釣り上げてほしいのか、そうではないのか。
なんだか、心理学のテストのようだが。自分は。それについて、どう思ったか・・・。
 
 
どう思ったのか・・・・
どう思うのか・・・・・それを、その光景を
応援したい、とおもったのか、とり逃がせばいいと思ったか・・・・
 
 
いや、そんなことは、
微塵も思わない。思わなかった。
 
 
ただ・・・・・
 
 
ひとつ。
 
 
 
こう思っただけ。
 
 
 
 
釣りなんかしてんじゃねえ
 
 
(びし!!)、と。
 
 
その思念が届いたのか、碇シンジが座っていた茸、イカリノコシカケが潰れた。
当然、それに座っていた人間は、相当に反射神経が鋭いか予知能力があるかはたまたコサックダンスの達人でもない限り、ドターンとあおむけに倒れることになる。
 
 
碇シンジは自分が知る限り、その条件のどこにもあてはまらない。
 
 
が、倒れかかったが、倒れることはなかった。後ろから、支えがはいったのだ。
 
 
”水上家”
 
 
片手にさげた提灯には黒い文字でそうある。もう片方の手で碇シンジの背をささえ。
提灯の明かりに浮かぶ、剣鍔眼帯の少女の顔。髪は長い。Gパンに、「竜尾道名物・茶イダー」「伝統菓子・鯨羊羹」とプリントされた涼しげなTシャツ・・・・は、いいとして、ベルトに短刀を二本突っ込んであるのがただ者ではない。続いて流れる動きも武道を身に刻んだ者のそれだ。提灯を置き、碇シンジから竿を取り上げ、リールを踏みつけるようにしてスニーカーの脚で竿を固定すると・・・・・ベルトから短刀を抜き、沼中に投げつけた。投げた、というより発射した、というにふさわしい勢いで。
釣り糸との対戦で疲れ弱った近寄った獲物を鈎でかきあげるのとはわけがちがう。
 
 
だが、一分もかからずに、眼帯の少女は、甲羅に短刀が刺さった亀だかスッポンだかを釣り上げた。あっけにとられるほど見事だが、趣味釣り、フィッシングというより水の中からお金を掘り出し生計を立てる、職業漁師のスキルであった。
 
ちなみに、碇司令は途中で糸を切られたらしく、釣りそこねた。
 
 
そこから、眼帯少女の説教が始まった。碇シンジは年相応にともかくとして、元とはいえ特務機関総司令を前にして、なんの遠慮もなく腰に手をあて朗々と。釣り人としてそれは格違いであるが、そこまで年長者にやってなおかつ、それに違和感を感じないほど、その少女には貫禄があった。少女というのも語弊があるほど。ただ、その説教内容は・・・・沼と釣り道具を指さして何やら言っているところを見ると、いっていることは自分と大して変わらないようで、なんとなく、安心した。
 
 
口がたつ碇シンジと普段は無口でも要所では刺し貫くほどに弁舌を使わねば生きていなかっただろう碇司令が二人揃って黙り込み、抗弁反論もしないのはもう一本腰に残る短刀が怖いせいだろうか。・・・・この親子、意思は強いくせにそういうところがある。
 
 
しばらく、説教を続け、言いたいことを言い終えてなおかつ相手からの反論もないのでそれを納得悔い改めたかとフッと満足したらしい眼帯少女は、ちら、と腕時計を見た。
 
 
沼釣りの中止を命じられたのか、片付け支度を始める碇父子。それをのろまな移動を咎める現場監督か引率の教師(しかも教頭)のような目で見つつ、ちらちらと、沼の方を見ている眼帯少女。
 
「・・・・・・」
 
早く帰るように、とかそんなことを言ったのだろう。小娘に命令されても不機嫌になるでもなく、どことなく薄く苦笑ににたようなものさえもらして、碇司令と碇シンジは荷物を持ってそこから立ち去った。獲物の亀スッポンをてめえらの魚籠にいれてしまっているが、いいのだろうか。その点について眼帯少女も何もいわないので、いいのだろう。
 
 
異界の扉を開くような月光の降る不気味な沼に、ひとり残された少女。
 
 
成年男性と少年として問題がある感じだが、当の未成年少女がリアル怪奇空間に1人残っても平然としているあたり、問題、ないの、だろう。護身用以上の戦闘力で使用可能な短刀もあるし。
 
 
父子ふたりが消えた方向をじっと見て、出戻ったりしないのを確認(あの父子のことをよく分かっているといえよう)してのち。
 
 
先ほど投げなかった方の短刀を抜き、それを沼の方へ一振りした。すると。
しゅしゅしゅ、と、仕込みになっていたらしい、竿が、飛び出して沼の中へちゃぽん、と糸を垂らした。
 
 
ふふふふ
 
 
少女が笑った。お気に入りの洋菓子をほおばるように。怪奇な沼で釣り糸を垂らして。
アイゼンハワーよろしくハッピー・アワーを楽しんでいる。
 
 

 
 
そんな、夢を見た。
 
 

 
 
 
「はい、おつかれさまー・・・これでも食べて頑張って・・・まだ、かかりそう?」
阿賀野カエデがまだ発令所にいる最上アオイにピザと飲み物を差し入れた。
 
 
戦闘態勢でもないのにまだ発令所にいるのは、彼女1人だった。正確にはもう1人、この人物のおかげで仕事なら他でも出来るのにここにいなければならないのだが・・・座目楽シュノがいた。いた、といっても球体から声をかけてくるだけであるが。いろいろとこの作戦部長連球体、作戦ボールには通信に制約があるらしく、不便極まりないが、この球体を通さないとならない、というので結局、種々の面倒を省くためにご指名くらった最上アオイはこうして発令所に残らねばならないハメになった。いくらワーカーホリック最上等などと揶揄されてる身でも、昨夜のアレに続けて仮眠もなしでは、さすがにたまったものではない、しかもただ1人、別に直属にされたわけでもない立場で付き合うのは・・・・
 
 
「アオイはえらい!!・・・・・・なー・・・・・・むにゃむにゃ・・・・」
 
シャワーを浴びて少しばかり飲酒も嗜み、仮眠室であられもない寝相で布団相手にレスリングしている大井サツキならずとも、ご苦労様のお疲れサンバとしかいいようがない。
 
 
何をやっているのかと問われれば、仕事、としかいいようがない。最上アオイであっても戦闘態勢が解かれれば残業代などいらんから休みたいし、眠たい。昨夜のテンションのままに動き働き続けているのはここにはいない、第二東京はJA連合に飛んだ日向マコトくらいなものである。ついでに抗議してくるのぢゃ、余計な手出しをするから余計なものを奪われたのぢゃからな、と言った我富市由ナンゴクを怒鳴りはしないもののギロリ、と睨みつけて。この時の彼の胸中、いかばかりか。
 
使徒が再臨するのは分かりきってはいても、人の身では緊張が続くはずもない。
 
ましてや怯えた魂では。
 
 
敗北
 
 
それに対する処置は人さまざま。それが完全なものであった場合は組織一丸となっていただろう。組織一丸となって・・・・・全滅させられていたわけだ。それがたまたま、使徒の気まぐれのようなものによって、先延ばしになった・・・・・・不完全な敗北。
 
こうして、生きていられるのは、神の気まぐれ、悪魔の悪戯か・・・・
 
再戦するまでの時間、なんとか相手の打倒手段を見つけ出すか編み出すか、せねばなるまい。答えは分かっており、それが彼らの仕事である。それに向けて総火の玉となってぶち当たっていかねば・・・・ならないのだが。士気はこれ以上あがらぬほどに高まらねばならないのだが・・・・
 
 
この発令所の光景が全てを物語る。器機は休まず作動しているものの、薄暗くうすら寒い。
司令席からの蠅の音がしないのはいいが、なんとも棺桶でもつくっているような静けさ。
つまり、墓場一歩手前。
 
 
それぞれのセクションは休まずに動いている。だが。零号機を収納したケージは司令により整備員すら立ち入り禁止にされ怪しげな装束の者たちがぞろぞろと入り込んで何かやっている。監視の目もこれ以上ないほどに広げられて警戒している。諜報部は病室から消えたパイロットを躍起になって捜し回っているとか。どうも歯車が噛み合っていない。
無駄とも、無用とも言わない。それぞれに、必要なことだと考えてやっているのだろう。
サツキのように休めるときに休むことも必要なことだ。
 
 
いずれ来るにせよ、まだ、使徒は来ないのだから。
 
だが、肝心なもののために、力が集束されていない、このバラバラな感じ。
 
 
自分たちの対話も、その一つだろうか・・・・・・「ありがとう、カエデ」
家庭的な同僚に礼を言ってから飲み物を口に運んで、そんなことを思う最上アオイ。
 
 
「ああ、すいません・・・・わたし、いつも寝てばかりだから、そういうことに気がまわらなくって・・・・作戦・・・指揮者として失格ですね・・・・・・けはっ・・・」
なるべく抑えようとしても小さく咳き込む声。これがいっそ演技なら、と思うがそうではないことを経歴を知った今ではいえる。
 
 
座目楽シュノ。
 
 
経歴的には、葛城ミサト前作戦部長によく似た、ポスト葛城に一番ふさわしい人材。
能力はともかく。・・・・・・なんせ他の者が無茶苦茶すぎるのだ。
 
第二東京大学卒。テーマは人工知能の限界突破。在学中の世界中の戦略シュミュレーションAIの撃破記録は来世紀になっても破られることはないだろう、といわれている。
使徒が自律機能をもつ兵器であるなら、という仮定のもとに、上位組織から目をつけられ、今回、その才能を召還された。学生時代についた渾名は東京サバト。国内在住でありながら本部に出てこずに、ボールで通信というまだるっこしいことをしているのは他の人材との兼ね合いもあるようだが、何より彼女が重度の伝染病に冒されて孤島に隔絶された専門の病院から一歩たりとも出られない、という理由から。
むろん、自分で小銃抱えてどうこうドンパチ、ということにはまったく縁がない。
 
 
これと対極にあるのが人類史上最も弾薬を使った者・山脈を削った男・陸フィヨルド・弾嵐公爵、「戦争と戦争」、人工地震の兵器使用者、”地底人”、震帝、第二ツングースカなどといろいろ悪名高い欧州露西亜圏では戦の巨人として英雄と極悪人の評価声名の狭間にあって第二次天災の紛争混乱期が終わりを告げるとその天秤がやっぱり傾いて今はただの”永久戦犯”として獄中にあるアレクセイ・シロパトキンである。当然、獄中にあるから出てこれない。ましてや国外になど出れるはずもない。世界史の教科書にも載り混乱の早期解決は成したが、地理の教科書にも載ってしまったあたりなんせやりすぎた。
 
 
それはともかく、無理の利かぬ身体の座目楽シュノがこうやって最上アオイを相手に長っ尻で何をやっているかといえば、これまでの使徒戦と今回の使徒戦との比較である。基本的に最上アオイは座目楽シュノの指示する情報を引き出してくるだけのことで、意見を求めたりはしない。された方も困るが。情報の検索なら機械やそれこそAI相手に好きにせい、と最上アオイ以外の者ならいっただろうが、眼鏡美人は律儀に付き合っている。
 
そこから、有効な撃退手段が生み出される、とは思っていないが。
 
そう考えるのは都合がよすぎるし、他の作戦部長連と比べて一番、位が低そうなのがこの座目楽シュノであり、同じ若くとも現在進行形で武勲をあげまくってくるエッカ・チャチャボールとはまた違う。実戦の経験、使徒戦というくくりでいえばスタートラインは同じとはいえ。「おーい」という呼びかけに反応した、という理由だけで大井サツキをご指名にしてしまったクセのある語尾で話す、なんか頭わるそうな彼の女はこれまで指揮をした戦闘において”負けたことがない”。どのような劣勢多勢に無勢であろうとも、負けたことがない。勝敗は兵家の常、とはいいつつ、負けたことがない。今回も豪語していたとおり彼女が指揮をとっていたら、どうなっていたか。それほどまでに、このエッカ・チャチャボールは「運がいい」。頭のほうは、いわゆる作戦立案能力などは高いとはお世辞にもいえない。学校にすらいってない、と本人いうのだから学問などあるはずもない。ただ。素人が思いつきで勝利をもぎとるような傍若無人な作戦をたてたとしても、指揮する味方は幸運に恵まれ、相手する敵には不運に見舞われる、ということでうまくいく。
 
まさに確率の神様が地上に下した、歩く反則。その運のよさが使徒相手にどこまで通用するか、試そうとでも思ったのか今回の作戦部長連入りとなった。本部に来ないのは、現在南米某国でクーデターに荷担して戦闘中であるから、というのだからもう無茶苦茶だった。当初絶望的な負け戦であったのを各地転々連戦連勝して覆しつつあるのだという。こんなのをスカウトした方もした方であるが、しかし全世界が滅んでしまえばクーデターも何もなくなるち、とされた方にはなるほどそれなりの理由があった。
 
 
今までどう戦い、どう勝ってきたのか。
その記録は今となってはまばゆいほど。
 
だが、価値など無い。
 
必要なのは、この先を勝利して生きる未来を繋ぎ、このため息を過去にして不吉な予感を振り返って笑うこと。
 
 
それを考え口にする、能力、勇気、ともに自分にはない。だから、彼女に付き合う。
それを導くはずの、それを己の責務としたはずの、ここにはいない己らの指揮者に。
 
 
六人もいるけれど、六人全員が打開策を考えているのだろうか・・・・・・それとも、六人もいるから、その中の誰かは考えつくだろう、と思うところなのかしら、ここは。
 
 
「・・・・す、少し、休憩にしましょう。あ、喉とか、乾いたんじゃありませんか?」
座目楽シュノがどういう病院ライフを送っているのかは不明だが、・・・先方は代謝機能が穏やかなのかもしれない。別に宿題を忘れて居残りを命じられたわけでもないし。
 
とはいえ、その言葉はありがたく受け取る最上アオイであった。どちらかといえば、発令所にひとり、機械の球体と話していることが精神衛生上あまりよくない、宇宙難破船に乗って漂流しているようで、だんだんと気がへこんでくる。まあ、確かにお腹も減ったし喉も渇いたしその他の生理的欲求にも応えたい。阿賀野カエデのこの差し入れはその点でも非常に有り難かった。ピザをかじって飲み物を飲む最上アオイ。疲労とエネルギーの消費と空腹と乾きのせいもあるが、うーむ、えらくうまい。美味しい、などと上品にではなく、ただひたすらうまい。
 
「おいしい!」思わず口に出してしまうほど。
阿賀野カエデは同情した目でみてくれたが、空腹にまずいものなし、とかそんなのではないのに。
 
「カエデ、あなたは?」
これを食べてみればそんな目で見ないと思うのだが・・・・・はて、なにげに紙ケースを見てみるとさいきん味が落ちたと悪評のネルフ本部食堂のものではなく・・・・
 
「ピザのピザナミ」とある。
 
どこぞの店のデリバリーをぬけぬけと新本部内に頼んだ強者がここにいた。
 
「よく頼んだというか、届けられたわね・・・」
感心半ばに呆れてみると、阿賀野カエデは首を振る。
 
「それ、実は赤木博士のお裾分けなの・・」
 
零号機を放置して完全に地下工房に隠りきった赤木博士を訪れる急な用事などカエデになかったはずだが、事情を聞いてみると、これまたご指名の作戦部長連の1人、我富市由ナンゴク絡みであり、国連軍の士官学校、ハワイにある地球戦略戦術作戦大学に日本人初の副校長に収まっているというなんとも分かりにくい微妙な偉さのこのオヤジにJA連合へのネルフからの正式抗議文書の作成という政治的かつ日向マコトの行動を泡と潰すような用事を言いつけられる回避手段として赤木博士の名前を出して、出した、出してしまった以上、本当に訪れぬとあとでどういう因縁をつけられるか分かったものではないので、仕方が無くバルタザール関連の話をでっちあげて門を叩いた。
 
綾波レイが回収していたバラバラの参号機の欠片を組み立てている話は知っている・・・・・それ以上、戦闘が終わったあとに発令所に顔出した時の態度を考えると・・・・・家庭的というか大人しい阿賀野カエデにすると冒険であったが、球体オヤジよりも闇隠れハイミスのほうがまだマシだったということだろうか・・・。
 
しかし、行ってみると、ちょうど休憩していたのかピザの箱を何個も重ねて食べもせずにコーヒーを飲んでいる赤木博士がおり、バルタ関連のでっちあげ話はあっさり看破されてピザでも食べてここで時間を潰したければ潰してよい、戻る時にそこのピザ箱を一箱だけ残してもっていって頂戴、と言い残してコーヒーを飲み終えて一服するとさっさと工房の奥ゲートの向こうへ消えていった。そこもしゃれにならん寂しさだと思ったが、デリバリーなんぞ頼んでそれを実行させる無茶が、人間味というか。ほんの少し和んだ。腹ごしらえはしていたのでそのピザは食べなかったが、持って帰ってくれと頼まれれば否応もない。
 
諜報部ではないカエデはそのデリバリーがどうやって赤木博士の工房までやってきたのか特に疑問には感じなかったようだ。そして、言われた通りに持って帰り、冷まして冷蔵庫に保管して、一枚はこうしてまだ働いている仕事中毒の同僚のもとへと。
 
もう食べた後でなんだが、毒とかはいってないだろうか・・・・最上アオイはちと心配するが、もう遅い。箱の店名で気づかない自分も鈍かったのだ。
 
「うーん・・・もぐもぐ」
そして、半円分もふもふと食べてしまった現在、円形状態のピザソースがぐるりと、”赤い瞳”のように描かれていることにも気づくことはなかった。
 
 

 
 
「・・・・・・なんと言ったのだ?ピザ屋、と聞こえたのだが、聞き間違いか?どういう意味なのだ。任務失敗の報告はやりにくいだろうが、もう少し明瞭に簡潔にしたまえ」
 
 
諜報ル課の課員の持つ通信機から毒電波が流れてくる。その声は腐毒、その意思は死毒、気力が横溢していても聞けば挫けそうになるほどに邪であるのに、ギタギタのボコボコにされた体力では心臓も止まるかと思われた。だが、報告もせずに済ませることもできない。いっそ、意識を失うほどやってくれればよかったとさえ思う。これは罰なのか。
保護するべき子供を捕獲、などと命じられてその通りに動いた自分たちへの。
 
 
新司令直属の諜報部隊を束ねる、拷問の痕でも隠しているのかあの奇怪な姿をした人物もまた、自分たちを許さないだろう。確かに諜報部隊の長など冷酷非道でなければ勤まらないが、それも人の温度を持ち道を知ることが前提となる。それらを反転させた、己の満足を消去可能な虚無の性、卓越した平行感覚、といいかえてもいい。それがあるからこそ、忍ぶ人間集団の上に立つ資格がある、と。任務の失敗、即モノの如く破壊廃棄、などとたまったものではない。どうにもやる気が起きなかったのは本当だが、任務に失敗し三ヶ月は病院から出られないだろう幽霊マンモス団地から引きずりに引きずられてめったに人のこない廃棄駐車場まで引きずられて因幡の白ウサギのような赤むけのこんな身体になったのは、腕には自信のある自分たちをこんな目にあわしてくれたのは・・・・・・・
 
 
目標、綾波レイが私室に戻ったあと、棟を完全包囲して突入しようとしたその時に
 
 
向かいの棟の屋上から、かけられた声。
 
 
「レイさまーの、おやすみーの、じゃまーは」
 
 
のんびりとした、それでいて、聞くだけで総毛立つほどに戦意と殺気が込められた
 
 
「ゆるーさーなーいーよー」
 
 
声と神速の槍と団地の壁をそのまま駆け下りてくる速力と。
 
 
そして、紅の双眼。
 
 
圧倒的な威力と共に叩きつけられる絶対の意思に我知らず悲鳴があがった。まるで素人のように。だが、あれこそ恐怖。あれを恐れないものは・・・・・
 
人間ではない、と思ったが、それはピザ屋らしい制服を着ていた。訓練された動体視力で制服に「ピザのピザナミ」と見えたから、ピザ屋なのだろう。だが、このようにバケモノのように強いピザ屋がいてたまるか、と思うほどにその槍を振るう若い女は強かった。
確実に後ろ髪を束ねた世界最強コックよりも強いだろう。
 
銃を抜かせる余裕もなく、人のかたちをした竜巻は人員を打ち倒していった。
見られるだけで身体が麻痺する、といわれた赤い瞳など、関係ない。
 
与えられた装備など、なんの意味もなかった。あれはただの技、ただの腕力、ただの速度。
 
領域は同じくしても段階がケタ違い。電光石火、というのはまさしくあれ。
 
女が飛び降りた屋上から、男の声で数人、「落ちた!死ぬな!殺すな!!とにかくあぶねえあぶなすぎるだろおまえ!!」「だ、だんどりと違うっすよー」「とにかくここを血で穢すなよ・・・おそらくあの方はそれを厭うだろうからな」そんな声もあったような気もするが、それが、制止になったのだろうか。その紫陽花色の槍は最も有効であろう突き貫きには一度たりと使用されなかった。殺さずに完全に戦闘力だけを奪う、ただバケモノ級に強いというのではない、それはバケモノを越えたバケモノ、いわば達人ならぬ、達バケ・・・。
 
 
あんなバケモノがいたならば、もっと別の対応をすべきだった。
 
 
どうも発言からするに、綾波レイ、目標の守護者を気取っているようではあるが・・・・
 
強化人間、ブーステッドマンか何かか。なんにせよ、ふいをつかれた時点で負けた。
その存在を看破、もしくは想定、感知することができなかった責任者の落ち度もあろう。
と、いうか、ある。実際に半殺しにされたのは自分たちなのだから。
一応、自分と同僚の命がかかっているので、婉曲に、しかし確実に相手に理解させるように、その点を告げる。しくじれば自分たちを追わせる、とした猟犬役の手駒とやらはそれこそ、あの槍もったバケモノピザ屋女に使えばよろしい。というか、そうすべき。
 
 
「ふむ・・・・・確かに。私兵にはことかかないのだったか・・・・シンボルとして、あの者たちは。異形の者たちを魅きつける・・・・・支配もせずに、使役する・・・」
 
 
不幸中の幸い、頭は悪くないらしい上司はしばし考えたあげく、どうせ動けもしない相手に手駒を使って処理する手間を計算したのか、二度と顔を見ないであろう部下たちを許した。退院時には陣容もそろう手はずになっている。互いにせいせいした、という点でこれは理想的な手切れであった。
 
 
「綾波党・・・・・・あの化け物ども・・・・・・・・送り込んできたか・・・・」
 
 
諜報ル課長、ヘルメは、綾波レイのバックボーンにして完全身内の絶対親族、後継者として祭り上げる気満々のしんこうべに巣くう赤い瞳の一族が、契約相手であった碇ゲンドウがいない今、この都市を舞台にどう動くか・・・・それを見極めようとする。
赤い瞳の人外は、通常の異能者フリークスと違い、なかなかに小賢しい知恵がまわる。
知恵がまわれば己の欲するところを優先し結束することもないはずだが、連中は違う。
しんこうべ、などと都市をひとつまるごと支配下にいれ地域住民と折り合わせ。
異能の癒し、という裏赤十字のごとき旗をあげて、奇怪な結束を誇っている。
 
 
「成る程、確かにあれらが出てきていたのを察知できぬまま、人を使わした私のミスでもあるな。・・・・ゆっくり身体を癒し、休んでくれたまえ。もう会うこともないだろうが」
 
 
通信を切った。すでに思考は切り替わり、半殺しになった元部下連中のことなど粉粒ほどにも残っていない。ただ縁切り代わりの情報は残っている。ピザ屋。扮装をしている事実。赤い瞳の者たちがこの都市、第三新東京市において求めるものなど、ただ一つ、後継者の存在しかあるまい。それが住まう場所に控えているというならば、扮装の必要はない。
ありのままの姿で闇に潜み影に宿り、護衛然としていればいい。
侵入者に姿も見せず伝える声も呑み込んで存在すら思わせず、それだけの力の差はあった。
 
にもかかわらず。この素人のような騒動は。
 
綾波レイ自身が自らの護衛役として呼び寄せた・・・のではなく、
後継者をそのあるべき所に連れ戻そうと様子見をしていた綾波の実行部隊である可能性が高い。主の寝所に入り込もうとした無礼者たちを見過ごせず叩き伏せた、というところか。
扮装をなし、主にも知られずに隠密に守護しようなどと小賢しいことを考えているようで、この派手なやり口は主に対して無礼は許さぬ手控えよ、という意思か。
 
 
綾波レイ単体であれば、どのように異能を秘めようと、しょせんは小娘、どういうことはない。好都合なことに今は疲労困憊し弱り切っている。身の丈にあわぬ十字架を背負わされて助けもない。心情のコントロールはまさに鉄壁、歳を考えれば驚異に値するが人の身のこと、限界はある。碇ゲンドウをはじめとした、邪魔者もおらぬ。ゼーレ統一部門、征服部門問わず、機関長クラスの権能にある者は誰しも手に入れることを夢見る白の至高才能、綾波レイ、其れを己の人形に成そうとするならば、絶好の機会であったが
 
 
そうはさせじ、とバックボーンが、赤い瞳の異能集団が山と風と動いたならば
 
 
火傷ではすむまい。相応の代償、覚悟がなければ。まだ、狼煙はあがっていないが。
歯牙にかけることもなかった実力差が幸いであったかもしれない。
 
 
「手にいれようとするならば、の話だが・・・・・・な」
 
 
その力を欲せず、ただその身だけを”使う”ならば。腕利きとはいえ、内密に第三新東京市に入って来れたのは数人だけだろう。数を動かせばさすがに知れる。
 
主が自らをエヴァのパイロットと任じて、それを最優先とするならば従うか。
 
すぐにでも連れ帰りたいのだろうが、使徒来襲の「現実」をその目で見てしまえば、それもできまい。己らの主にしか、世界が救えないのだとすれば。いくら島国根性を出そうと。
もしかすると、この騒ぎは連中のストレス解消であったのかもしれない。
 
ヘルメはそう考えると木製の義手を震わせて笑った。
 
 

 
 
 
「・・・・・あ、はい、まだ綾波さんは起きてきません・・・だいぶ疲れてたみたいですし・・・・あ、はい・・・・・・・・・・夜の十時に、ですね・・・・それまでに・・・わかりました・・・・・・お役にたつか、どうか・・・わかりませんけど・・・・・・・よろしく、おねがいします・・・・・・それじゃ、失礼します・・・・・・」
 
 
目覚めて、手元や足下の接地感覚がベッドとはかなり異なるふとんと、屏風から出てきてみると、洞木ヒカリが電話(ダイヤル式なのに白い)にでていた。ちょうど、受話器をおいたところで気づいたのか、目があった。「おはよう、綾波さん」
 
 
室内には夕日が差し込んでいる。おはようもないものだと思ったけれど、赤オレンジに半身を染め陰影を深くした彼女の声に、なぜか、ぞくっとしたものを感じて、そのまま
 
 
血の匂いに近い、水の匂い
水の匂いに近い、血の匂い
 
 
「・・・おはよう・・・・・」と返す綾波レイ。そこから頭がまわりだす。今までの状況と現在状況の確認、己がなすべきことと、今現在の進展具合、その他諸々のチェックを夕日の映り込んだ空色の髪の中身が行っていく・・・・・鈴原トウジへの参号機のパイロット着任要請、それに関連する説得、朝一で医務室を抜け出し教室へ押しかけてまでやろうとしたことがまだ全く全然出来ていない。それどころか、久しく帰っていなかった自室で寝ていた、とは・・・・・・自室の状態が己の感知せぬところで変化していたことを知ったことは小さすぎる収穫。一日の成果としてはあまりに少なすぎる。食事を口にする資格もないほどの過小。ひく。そこで鼻が動く。動いてしまう。香ばしいソース系の匂い。
ちら、と台所の方へ目をやると、電熱プレート(これは前からあった。碇シンジにお好み焼きを食べてもらったこともある)の上に、えびめし。隣の鍋にスープもあるようだ。
 
 
「ごめんね、勝手に台所使わせてもらっちゃって。綾波さんも鈴原も起きないし、ちょっと手持ちぶさただったから、目が覚めたらちょうどいい時間にお腹がすくかなーって思って。ほら、鈴原、起きなさいよ」
 
 
彼も疲れていたのだろうか、赤ん坊のように安からに眠っている鈴原トウジをやさしく揺すって起こす洞木ヒカリ。その目が潤んでいるような気もするが。
 
「うお!!どこやここ!!・・・・・・・・って、綾波のウチやないか・・・・・え?今の今までワシ、寝とったんか?!そんなはずはっっ!?記憶!!ここまでの記憶は・・・ある!あるんやな、ワシの名前は鈴原トウジ!!この着とるジャージも自分のモンで何者かに脱がされて着替えさせられたわけやないっ!・・・・・よし、記憶は確かや・・・・確かや・・・・」目覚めたとたんにホットスタートに悩んでいる鈴原トウジ、その羞恥は・・・・・理解できる。寝顔を洞木ヒカリ、彼女に二人して見られていたのだろうから。
 
 
けれど、先に問いただすことがある。
 
 
「今の電話・・・・・・・・誰?」
 
 
ここにかけている、かけられる、ということはネルフ関係者、それもごく限られた人数、に間違いない。一般人である洞木ヒカリが受ける、のは(自分が寝てたのだから)やむなしとしても、対話していいものではない。かけた相手も頃合いなところで切るべきだろう。
 
これは、逆ぎれではない。綾波レイは逆ギレなどしない。逆上はするが。
 
使徒の再来襲など、いよいよ緊急の話であれば携帯なり、いくら気をつかったとはいえさすがに洞木ヒカリも自分を起こすだろう。
 
 
「あか・・・」
 
 
即答しかけたのは、洞木ヒカリ当人の人の良さのためであろう。そのまま言い切ってしまわず途切れさせたのは彼女の判断力、ないしは反射神経のゆえ。そこで口を噤み、視線を泳がせた。何か、言い訳を考えている。「あ、あ、あ〜・・・・・あか、そう、あかあか・・・・」言葉も泳がせてどこか適当なところに届くまでバタバタ。
 
「いいんちょ?」その怪しい反応に鈴原トウジもうろんげに。
 
 
それでも、それで察しはついた。ここにかけてこられる人間で、あか、がつく、となれば。
あ、と、か、の間に「す」が入っていたようでもない。該当するのはただ1人。
参号機の修復とシンクロ実験のセッティングが終了した、とかそんなことだろう。
それなら、あえて携帯ではなく自宅電話などを使った理由も納得できる・・・・
 
 
「あかちゃんは、どこからくるのかな〜・・・なんて。つまり、間違い電話でした!」
 
 
そんなわけあるかい、というよりそのAパートの言い訳はなんなんだ一体。じろり。
綾波レイ鈴原トウジ、ふたりしてにらむが、洞木ヒカリはおかまいなし。
そのわざとらしいこと。似合わないこと、この上ない。その演技、そのつくり。
 
 
相手は、赤木博士に間違いない。
 
 
ふたりを連れてくるように、とあの人は言った。
 
どういうタイミングだったのか。この幽霊マンモス団地、自室に戻っていることくらいは察知していただろう、求めていた鈴原トウジと洞木ヒカリ、この二人を同行させて。
到着からかなり時間が経っている。説明と説得には十分な時間。成功したとしても失敗したとしても、二人と対面しこの機会に一気に話をしたのは間違いなし、と赤木博士が考えたとしてもおかしくない。それとも、ただ単に参号機のことだけだったかもしれない。たとえば、修復にはもう少しかかりそうだ、とか。さらにいうならば、鈴原トウジ、洞木ヒカリの選定自体が間違いであったから、説得は中止せよ、とか。
 
 
洞木ヒカリの顔を見てみる。「ん?ほんとだよ。間違い電話だよ」ぬけぬけと。
 
どういう神経をしているのか。・・・・・・それとも、赤木博士の話はほんとうに間違い電話、として片付けられる、なにか軽い事柄だったのか。今の赤木博士なら、一般家庭代表みたいなこのクラスメイトだろうと情け容赦遠慮配慮無く、必要であればズバッと言ってしまっているはずだ。貴女が必要なのだ、と。人類のためか未来のためか誰かのためか。
覚悟があろうと教育がされていなかろうと、事実を告げたはずだ。時間がない、と。
自分の言葉だけでは精神汚染はさすがに、起きはしないだろうと。高をくくって。
己の仮説の成立、実験結果を一刻もはやく知りたい、科学者の性を剥き出しにして。
シュタインフランケージで参号機を甦らせる者はそれくらい平然とやるだろう。
 
 
自分は参号機のパイロットには鈴原トウジのみを、まず彼だけに話をしようと思っていた。
一つの機体に二人のパイロットは必要ない、エヴァという人造人間の性質上。
そのはずだ。渚カヲルのような四号機も弐号機もいける、という例外もあるが。
このふたりは。どういうことか、どうせよと。信じろといわれたが信じられない。
 
 
このような接触は想定もしていなかった。参号機にかかりきりでパイロット関係はこちらに一任して口出しはしてこない、というのは甘かったのか。それとも、鈴原トウジのみ、というこちらの内心を見抜かれていたか。今の赤木博士は東方賢者の看板を裏返し、悪魔を呼び出す禁断の錬金術師のごとく、頭脳だけは冴えに冴え渡っている。さもありなん。
たとえ心を読んだとて、己の思念すら暗号化して仕舞っておくことくらい造作もないだろう。読める文字見えるイメージで記されていなければ、それを手にしてもなんの意味もない。人間として限界ギリギリの知能をもつ魔女が直々に話したのだ、どれほど狡猾な嘘をつかれても、誰もが笑顔でそれを受け入れるのかも知れない。
 
 
血のような水の匂い
水のような血の匂い
 
 
さきほど感じたのは、予感。洞木ヒカリの身体から、馴染んだ匂いがすることを。
 
 
早急に知らねばならない。さきほど、電話口で何を話していたのか。どんなことを赤木博士に言われたのか。・・・・・・その話を、承諾してしまったのか、どうか。
自分がモタモタしていたから、本来はそれは大人の仕事であるから、さまざまな理由があろうが、望んでいない形で話はじめねばならぬことを、綾波レイは悔いた。
 
 
プレートに保温されるえびめし
 
 
一般人としての最後の晩餐。もし、彼女が知っていた、知らされていたなら、これが。
子守歌を歌ってもらってねむりこけてしまうような相手に、これから死ぬかも知れない話など、されたくないだろうが・・・・それでも、己の領域を乱した赤木博士に、八つ当たり以外の何者でもないと思いながら、・・・を覚える。あのような綺麗な声でやさしい歌を歌える人間に、エヴァに、よりにもよって参号機に乗れ、などと・・・・・
 
 
言わねば、ならない。
 
 
それが、必要であるなら。
 
告げることが遅れれば遅れるほど、紛うことなく彼らが適格者であるなら、エヴァに馴染む時間が少なくなる・・・それだけ危険度は高まる。使徒は必ずまた来襲する。それまでの限られた時間で少しでも生存率をあげるためには・・・・・絶対領域、その発現と・・・・・JTフィールド、それに対する戦術を叩き込んでおかなければならない。
一秒でも早く白黒つけた方がためになる。そのはずだ。軋む身体と心を引きずってまで押しかけたのはすべてそのため。
 
 
「あ・・・・」
 
 
あなたたちに話したいことがある、と言おうとした。ここまでくれば、洞木ヒカリを遠ざけることはできない。最早二人一緒に話してしまった方がいい。隠しておけるものでもない。適格者に選ばれれば話してしまうに違いない。いずれ、どうせ。
 
・・・・・感情など喪失したくせに弱気など。それを後押しするのは記憶。
 
今まで彼らと過ごしてきた、記憶。ほんとうに、彼らなのか。彼らでいいのか。
他にも選ばれ、それに応えるだけの能力を持った人間は、どこかにいるはずなのに。
沼で釣りなんかしてる特にあの・・・・
 
 
「綾波さん」
 
 
真正面から見つめてくる洞木ヒカリの瞳と呼ぶ声が、己を制する。包み込むように。
 
 
「鈴原には、まだ言わなくてもいいんだって」
 
 
「え?」
「な、なんや?なんの話やねん」
 
 
謎の一言。その裏に隠された意味は分かるが、理由が分からない綾波レイ。両方とも分からないのは鈴原トウジ。
 
 
「そういうわけで、ごはんにしよっ。1人で食べるのも味気ないだろうから・・・・あ、家には連絡したから大丈夫、妹につくらせるから。たまには、こういうこともないといつまでたっても修行しないからねっ」
1人ハツラツと動き出す洞木ヒカリ。食事の支度を調える動作は慣れてなめらか。そこにはなんの動揺も見られない。うかうかしていると、そのまま彼女が暗い暗い地の底に呼ばれてしまいそうで、慌てた。急がねばならない、このまま誤魔化されてはならない、と。
 
 
 
「すこし・・・ごめんなさい」
意味不明瞭な言葉を残して、バスルームにこもる綾波レイ。取り出すのは携帯。
ドアの向こうでは「・・・はあ、起きたばっかりやからなあ」などと鈴原トウジが納得していた。彼のせいではないが、二人の少女はそれをアウト・オブ・眼中とす。
 
 
七鈴ほどして後、携帯で対話を求めた相手が出た。「レイね」出るなり確定。
「はい。今、二人の前です。赤木博士・・・・・・先ほど、何を話されたんですか」
 
 
「別に。あなたがもう事情を説明しているものかと思って、今後のスケジュールについて話しただけ。・・・・・・・まだ、話していなかったの?」
 
 
その口調は淡々としており、自他ともに責める調子はない。今の赤木博士の辞書に気遣い、とかいう単語はデリートされているらしい。とはいえ、参号機に没頭している赤木博士にしてみればそういうことになるだろう。こちらを信用するなら。小ユイ、として。
 
 
「はい・・・・」
やはり、話していた。話されていた。それであの態度・・・・まだ自覚がないのか。
 
 
「ならば、手間が省けたわけね。その分、自分の身体の休養にあてなさいレイ。零号機の足も多大な犠牲と代償を払いながらもあの司令がなんとかしたみたいだし・・・・最も、ロンギヌスの槍のほうはどうにもならないみたいだけど、ね・・・」そこで、笑んだ。
暗い笑みだ。もともと明るい人ではない、葛城ミサトと対照的なひまわりと月見草かハナミズキか菊か彼岸花(いずれも期限ギリギリ)、そんな感じな人であったが、こんな笑みをする人ではなかった。冷静にみせても性根の底の方ではわりあいに激高型だったし。
東方賢者からシバの女王にランクアップしようというのか・・・・底冷えがしてきた。
 
 
「・・・・・・説得は、どうやって・・・・」
ただ、実験に協力してくれ、とかいう話で呼び寄せて使徒がくればエントリープラグに押し込めてなし崩しにパイロットにさせてしまうつもりでいるのではないか、それでは詐欺だ。その上、協力するしないは自由だけれど、断った場合、家族に累が及ぶとか・・・その程度の脅迫など今の声の主はやすやすやってのけるだろう。人として、社会人として、大人としての、仁義や境界や一線など、どうも見あたらない。
 
 
「別に。正しい選択肢を与えられれば、それを選ぶのが・・・・適格者としての最低限の資格だもの」
 
 
答えになっていないが、何をいっても無駄だと悟る。自分が甦らせた参号機を再び起こし動かすためにたいていのことはやらかすだろう。このひとは。そもそも自分に任せる気もなかったかもしれない。こちらの負担軽減を考えてのことかも知れないが。
 
 
「参号機は・・・・・・彼女で、動くのですか・・・・」
 
 
「ようやくあなたに見せて納得できるレベルに仕上がってきたから。その理由も説明するわ。今夜十時に参号機の、いつもの組み上げ台まで来なさい。彼女を連れてもいいし、1人でもいい。鈴原君、彼を連れてきてもいいわよ。あとの説明がしやすくなるから」
 
 
「・・・・・・・・・」
 
 
「2人用のIDも今、登録したわ。個人データはマギにいれてあるから、自由に本部まで連れてきていいわ。なんならもう来る?それなら迎えをよこすけれど」
気のせいか、声が浮き立っているような。嬉しいの?洞木さんの方はともかく、鈴原君のほうは口頭での承諾すら得ていないくせに。決定事項であることは、分かっている。これも八つ当たりだ。己がグズグズとしていた、というか、ぐうぐう眠って夢などみていたから。
 
 
「いえ、十時に。そちらへ」
 
「分かったわ。それじゃ・・・・・ああ、まだ聞いておきたいことはある?これからシステムにかかりきりになるから通信には出られないんだけど」
 
 
ない、と言いかけて、この部屋の有様のことを思い出す。劇的に変化していながら、えらく身体に馴染んでしまって、いつもこんなふうに暮らしていたような錯覚すらあった。
が、結局、それを問いたださなかった。赤木博士が知らぬはずもなかろうが、どう考えても身内の犯行であるから、それを自分がとやかくいうわけにもいかない。この団地内に陣取れたということは、お互い、話はついているのだろうが。つかず、はなれず、様子を見る、というのがしんこうべから送られてきた護衛たちの方針であるらしい。先ほど屋上でそのようなことで騒いでいたし。・・・・面と向かって護衛をする、などと時代がかったことを言われれば断り、里へ帰しただろう。新体制の名の下に怪しげな人材が次々と流れ込み伏魔殿と化してきているこのところの第三新東京市、ネルフの周囲をチョロチョロすればいくら異能を誇る綾波者としても包囲され消される可能性もある・・・上には上がいるものだ・・・いくら党首の孫娘とはいえそこまでの危険を冒す必要がどこにある。
 
 
「いえ、ありません」
 
 
「そう?ならいいわ。・・・・・・ああ、ひとつ言い忘れていたわ、レイ」
 
 
「なんでしょう」
 
 
「零号機のガチガチ噛み動く切断面はとりあえず封印されたけど、新しい脚部パーツをそこから接合はできないの。司令が言うには、あの金色の牙剣を取り上げて分析してみないとその呪いを解く方法は分からない・・・・・らしいんだけど。零号機は、片足のままで戦うことになる。参号機はそれを支える杖の役になる・・・・・まあ、杖はもうあるけれど、いわば、病に冒された師匠とまだ新米の弟子とのタッグでどうにかするしかない・・・・」
 
 
そのまんまウルトラセブンとレオ・・・・・・うわ、暗かった雰囲気がさらに誰かの予言があたったように炎が噴き上がる嵐に。片足、ということは機動力が半減以下、刀術などをはじめとした接近戦はペケ、砲撃などによる遠距離戦、ということになるが・・・・・・ATフィールドの中和を考えると、参号機がよほどに使えないと勝負にもならない。参号機をサポートに、零号機で前衛を務める、というのが勝利への最低限の条件だろう。
 
 
それが、崩れた。
 
 
片足で接近戦・・・・・それを、やらねばなるまいか。人造人間とはいえ、パーツによって構成されている戦闘兵器であるエヴァに、治癒することのない入れ替えることすら許さない”傷つける傷”を残していくとは・・・・・・あの原始人みたいな格好した上級使徒を倒さねば、呪いは解けない・・・・・そういうことか。ちなみに、四足獣使徒の背にあった人サイズ、金の牙剣を振るった、どう考えてもそっちのほうがメインで偉かったはずのそれは使徒名鑑にも載っていないことから「強主徒(ゴースト)」などと呼称されて、公式記録上には”なかったこと”にされた。JTフィールドという人類の造ったカラクリを奪い取り逆用し、絶対領域をものともしない圧倒的な攻撃力、相手が滅びるまで出血を強いる念の入れよう。強い。今まで戦ってきた使徒とは異なる、柔軟性のある強さ。あらかじめもって生まれ備えた力をそのままぶちまけてきたナチュラルタイプの使徒とは違う。敵にまわすに厄介な、実るほど頭を垂れてくる燻し銀の上級使徒・・・・・・・それを倒すに既にしてこの足枷。撃破のための方策を授けられることもなく危機認識も不十分のまま。
 
 
「それは・・・・・・」
 
 
負けろといっているのか、死ねといっているのか。その点を理解できる自分はまだいい。
エヴァに乗るというのはそういうことだと、知っている自分は。
 
 
「これで、二対二、わたしたちに出来るのは数を揃えることだけ。結局、わたしたちにはエヴァを動かすことはできないのだから。・・・・・ついでに、教えておくわ。
 
 
もし、あなたたち、零号機と参号機が敗れた時、エヴァ八号機が投入されることになっている。敗北時に、はじめてスケジュールを繰り上げてね。これは、決定事項。誰が死のうと変更されることはないわ。パイロットはフィフス・チルドレン・・・・・
 
 
 
<ナギサ・カヲル>
 
 
 
作戦部長シオヒト・セイバールーツ・・・・・・・・、何か考えてるみたいね・・・・・・考えすぎて、おかしくなったのか・・・・・それとも、あの子は誰だったのかしらね?影武者?・・・・うふふふふふ・・・・」
 
 
言葉がない。自分たちが敗れた後の八号機の投入?そんなバカなやり方があるか、と言おうとする前に、もはや二度とこの地上で聞くこともないその名を聞いた。
第二支部の中で、唯1人無事に帰還することのなかった、その名。
偽名なのか、フィフスはその名を襲名する決まり事でもあるのか。
 
 
なんにせよ、それは。
 
 
地の底にある魔女を惑わせるに十分な、影の名前。賢者なら耳を傾けもしない戯言でも。
含み笑いが耳の内で残響する。
 
 
腐り始めた科学万能砦の中、この人くらいは背中を見せてもいい味方であったはず。
 
 
知らず、唇を噛んでいた。
 
赤い瞳を瞑り、意識を統一する。思念を堅牢する。今更、恐怖を感じることはない。
 
知らず、誰かがよく唱えていた真言を口の中で転がしてみる。苦く、ほんの僅か、甘い。
 
 
片足が無かろうと、参号機に乗り、彼らが使徒戦の真ん中に関わり立とうというのなら、
自分が、それを守る。片足を失わしめた自分が頼む資格も義理もないだろうが、零号機にそれを祈り、頼む。自分の精神がその食餌に、働く代償となるならば、そうすればいい。
 
人類最後ではないようだけれど、
自分にとっては、最後の決戦兵器。エヴァ零号機。一つの目で戦いの行方を見届けて。
願った。強く願った。この次の戦いに勝てるよう。すでに負け戦の匂いも気配も濃厚だけれど、それを切り裂いて。
 
 
神には祈りを、悪魔には望みを、そして、人には願いを。
 
 
「それでも、私が守りますから」
 
 
とっくに切れた携帯に向かって告げる。どんな手を使っても、必ず勝つ。組織は迷走をはじめているが、片足でもその中をまっすぐに走る。特務機関ネルフは使徒殲滅の組織。
そのための、ネルフなのだから。新だろうと旧だろうと、それは、変わらない。
 
 
「・・・・・・・・」
 
 
そして、彼女の本心と本意を確かめることにしよう。あの碇君に乗れるんなら、私も大丈夫、などと思ってもらっているのなら、そりゃあ、かなり困る。少なくとも、セカンド・惣流アスカ、あのレベルを基本に考えてもらっていなければ、この先、苦労火傷ではすまない。そう考えると、あの二人のどちらをベースにしてパイロットの任を考えているのか、少し興味も湧いた。
 
 
だいぶ、隠る時間が長くなってしまったけれど、そろそろ怪しまれるので、戻るとしよう。
 
と、綾波レイが戻ろうとしたその時。
 
 
「スマン!!綾波。そろそろ代わってもらってええか?」鈴原トウジの切羽詰まった声が聞こえた。
 
 
まさか、自分も赤木博士に直接連絡をとりたい、とかそういうことだろうか、と思い緊張するが
 
 
「いや、ホンマにスマンっ!!妙な時間帯に昼寝してしもうたせいか、それとも女の部屋で緊張しとんか、どうも水っ気のほうがなあ・・・・・我慢しようとすると逆に意識してしもうてなあ・・・・限界、近いんや・・・・・・頼む・・・・・・」
 
 
どうもしばしの時間をかけて意訳するに、それはいわゆる、”小用を足したい”、ということらしい、ということに気付く綾波レイ。鈴原トウジ、彼の性格からしてそんなことを口にしたくないのだろうが、生理現象には勝てなかったようだ。こんなところで意地悪して晴らす恨みがあるわけで無し、早々に場を譲った。一応、手も洗った。
 
 
戻ってみると、ボールチェアがちゃぶ台に変身しており、その上に人数分の夕食が並べられていた。えびめしに、野菜スープ、バナナのサラダ。冷凍食品はともかく、生鮮食品なども購入しているあたり、やり手なのかユルいのか、どうもアンバランスだった。
やり手とユルいのと、両方が来ていたのだろう。おそらく。
 
 
「・・・・ごめんなさい」
並べられているこれらの料理に関して、自分の手が一切入っておらず、この部屋の主は自分であることを考えれば、なかなかダメダメな感じがした。
 
 
「?なんで謝るの?でも、ちょっと意外。綾波さん、買い物が細かかったから。ぬぬ、おぬしデキるなって感じ?あ、それともヘルパーさんとか頼んでるのかな」
洞木ヒカリはくったくなく笑う。しかし、その笑顔を曇らせるようなことを問わねばならない。
 
「あ。・・・・・・・」
それでも、うまく言葉がでてこない。碇シンジの百分の一でも口がうまければ、と思う。
 
 
「鈴原もああ見えてバカじゃないから、ヘタなことを言うと気付くよ」
 
ここで主導権握られてどうする、と思うのだが、またも先手をとられてしまった。
こちらの予定では鈴原トウジにだけ参号機のことを告げようと思っていたのだ。
 
 
「ほんとに・・・・・・いいの」
 
 
他に、うまい言いぐさが考えつかない。巧言令色を用いても問うことは一つしかない。
これこそ最短距離ではあるが、もう少しいいようがあるだろう、と自分でも思う。
 
 
「うーん・・・・・・」
 
洞木ヒカリは少し考えた。答えはすでに決まっているようだが、綾波レイに理解させるためにはどういう言い回しをしたものか、と言葉を選ぶように。実のところ、衝撃がないわけではない。ただ、それを納得している自分が居る。確かに、心の中にいる。
 
自分に対して説明、理解させるために分かりやすい例えを用いるならば・・・・そう。
宝くじにあたったのか、交通事故にあったのか、どちらかといえば、前者。
自分は、クジをひいてしまったのだ。もしかすると、当たってしまうかもしれない。
自分に何か、異常なことが起きるかも知れない、という予感ないし、覚悟はあった。
なんせ、あの第二支部浮上事件、天変地異のど真ん中にいたのだ。その後、何もない方がかえって不気味だ。なにごともおきずに、いつまでもしあわせにくらしましたとさ、ということにはならないだろう、と。エヴァのパイロット、というのは確かに吃驚仰天する話であるけれど、それに対して受け止める下地というか足場は、あった。もし何もなければ、受け止めきれず目をまん丸にしたまま受話器を持って凍りついたままだっただろう。
 
 
そして、綾波レイが寝間着のまま教室にこなければならなかった理由も分かった。
 
言葉は要らない。ただでさえ、綾波さんは口が上手な方ではないのに。苦手なことをさせるまでもない。そして、自分は、自分たちは綾波さんに縁があった。自分の意思でその縁を続けてきた。それをこれからも続けようというなら。
 
自分が、自分たちが、この中学校の制服姿、ジャージ姿で、ネルフにいかなければならない、ということだ。自分たちは、無力だが、そこには力がある。エヴァンゲリオンというの名の、力。
 
 
その力をもって人類の敵と戦えとか、魂の進化をなして未来を掴めとか、そういったことは電話の相手は言わなかった。
 
 
ただ
 
 
「あなたたちは代理なの。本来の使い手にその力を渡さないためのね」
 
 
ずいぶんとあっけないことを言った。小馬鹿にされている気はしなかった。
 
 
「普通の人間を代表する、つまりは、代議員・・・・・そういうことね」
 
 
ゆえに、自分たちを選んだのだと、正直に言われたから。確かに、そういうことなら自分たちの役割かもしれないなあ、と思った。栓というか蓋というか場所取り役というか。腑に落ちた。今日の今日まで洞木さん家のヒカリちゃんできたのに、いまさら野球ベースみたいな番号のついたチルドレンとか言われても困るだけだし。その本来の使い手さん、とやらに乗ってもらえれば自分たちに用はないような気もするが、そのあたりどうなんですかと尋ねると
「本来の使い手は強いことは強いけれど、人間が嫌いで憎んでもいて、人間に向けてその力を使う可能性が高いの」という真、凶悪な返答が。うわ。ひどい虐められて居たんですかその子は。「人間はいろんな世界に住んでいるから」それでも、自分たちのような素人は足手まといになるんじゃないですか、と我ながら自然な疑問には「私も科学者だから、実際運用の観点でいう、戦い方というのは分からない」という自然体な解答が。「ただ」但し書きがついており、「やられた分だけやりかえせれば、それでいいんじゃないかと思う。それで、バランスはとれるもの」と。「どう思う?」とそれについて問われ、「だと思います」と一応賛同しておくと、「でしょう」と満足された。
 
 
エヴァに乗って戦う、ということは、ATフィールドという壁を造ってそれで相手が来るのを防ぐことに他ならない、と。扉をこじ開けて家に入ってこようとする泥棒と、そうはさせじとドアを抑え込む家人との争いだと。いわゆるパンチやキックをかましあうプロレスやボクシングのような戦いはしなくていい、と。ビームやミサイルが飛び交う中で刹那の反射神経でそれらをかわし反撃するような訓練の要る閃きも期待していない、と。
 
 
大きな、巨きな、門をイメージして、それを前にして立ち往生する敵を想像すればいい、と。まあ、分かりやすい。実際、第三新東京市に住んでいるのだから、小難しい要素を排除すれば、自分たちが、エヴァに乗るのはそういうことになる・・・・・
とられてなるか、と。
 
 
そこまで簡単に分かりやすくいわれると、逆にたくさんのことを取りこぼしているのではないかと思わないでもない。なにせ知識の差がありすぎるのだから仕方がない、誤魔化されている、とまではいわないが。玄関扉を蹴破られそのまま強盗にグサリとやられる可能性だってあるわけだし。いくら本質を突いてもその他の要件を取りこぼせば現実では負けとなるケースは多い。ただ、この場合は戦闘に勝つ方法を論じているわけではなく、ただの初歩、自分たちがエヴァに乗って何をするのか、という説明だからシンプルな方がありがたい。まず第一に何が求められているのか、それが理解できず、叶えることが出来ないというならこの話は聞き続けるに値せず、退くしかない。過剰な期待をされても困るし。
 
 
なにはともあれ、ATフィールド、なにはさておき、絶対領域。
 
これが、この業界における最優先ルールである、のだと。まずはそれを理解できた。
渚カヲルと碇シンジをも巻き取っていった、巨大な掟。パワー・オブ・ルール。世界の約束。
 
 
エヴァに乗ればそれは自動的に作動するものなのか、自分たちにそんなことが出来るのかどうか、自信などあるはずもないから、あえて胸を張って、できそうもないんですけど、と問うてみると、第三新東京市市内の人間で綾波レイを除けば、今現在、ATフィールドの発現確率が最も高い、とされているのが自分たち二人だというのだから世の中は不思議なものだ。「シトの影を踏んだから」と赤木さんはそのことを表現したが、意味は分からない。まさに確率宝くじの世界。
 
 
そして、業界の最優先ルールであるATフィールドも日進月歩しているらしく、やはりというか、より便利な形の絶対領域の展開方法が開発されたのだと。ちなみに、それは綾波さんたち、すでに自分のフィールドを使えている者には覚えることができないという不便な代物でもあった。強い、とか頑丈、とかといわずに、便利、と表現されたあたり、戦いに有利かといえば微妙なものなのかもしれない。さすがに、直言はしにくかったが。
自分たちの身がかかっているのでそのあたりを直撃してみると、感心されてしまった。
 
「実際に使用してみないと、どれほど便利なのかは分からない」と頼りなく正直な答えとともに。「ただ、初心者に親切な便利さであるのは間違いない」とそこだけは太鼓判。まあ、多機能に戦闘を表現できるような玄人むけの便利さであってもらっても困る。
 
 
そして・・・・
 
 
「それが、わたしたち、二人を指名した理由なんですか」少し震える声で肝心なことを尋ねてみると、「あまり関係ないわね」とあっけなく。「エヴァは二人乗りにはできないから」と。どうも話の流れから、漠然と、そのエヴァ参号機は新方式で便利なATフィールドを発揮するために、特別に二人乗りになっているとか、二つの心を響き合わせるとか、そういうことを考えていたわけだが、「違う」と、ここで「違う」とハッキリ明言された。
「なんだ・・・・」とあやうく口に出しそうで危なかった。
 
 
実際にその目で見てもらえれば分かる、と至極もっともなことを言われて承諾した。
 
 
「乗ってみてくれる?」「はい」
 
 
ずいぶんと簡単に応じた、とは思う。簡単な話であるから難しくしようがない。
 
逃げても断ってもよい、とも言われていない。ただ、婉曲に口を塞がれることは言われなかった。
 
逃げることも断ることも出来た。けれど、そうなれば、残った鈴原、鈴原トウジは乗ることになるだろう。彼が逃げることも断ることも想像できない。どうも二人分を呼ぶからには、それなりの理由があり、一人だけ応じても不十分で、力は十分に発揮できないのだろう。それはかんたんな算数。誰にでも分かる。怖さはないのか、あるに決まっている。
その怖さ。なにが怖いのか、いろいろな怖さがある。その中でも一番怖いのは、何か。
逃げ隠れても、見逃してなどもらえない。
エヴァが使徒に負ける、ということは、その怖さ全てが現実になるということ。
 
 
今、第三新東京市にはエヴァは一体しかなく、それも深手を負い、昨夜、使徒をかろうじて追い払ったが、近いうちにまた来るだろうこと。電話口の相手の声は淡々として静かに落ち着いており、それはなるべくこちらの興奮を誘発しないような配慮であったのかもしれない。
 
だけれど、・・・・・・・女の子でも、頭に血が昇ることだってある。
 
勇気や熱血、義務感や使命感、というには・・・・・・女の子ですから言葉はもっと。
 
若気の至り、と二人で長生きできたら、このことも笑えるだろうか。
 
熱し火照ったその頭の中で、ただひとつひとかけら、冷静であったのは「鈴原・・・・君にこの話をするのは、私が、機械に、触ったあとにしてくれませんか」の頼みだけ。
 
「エヴァは人造人間で機械ともいえないんだけど、・・・そんなことはどうでもいいわね、この場合。ああ、こればかりは周期まかせで約束できないけれど、説明くらいならどうとでも。心を決めるのは早い方がいいとは思うけどね」・・・・答えは応とも否とも。
 
それでも、段取りをそうしておいた方がいいと、思ったのだ。
 
 
先ほどの記憶をおさらいしても、綾波レイに対するうまい返答は思いつかない。
しかたがないので、目の前にあるものをたとえに使うとする洞木ヒカリ。
 
 
 
「そうだね・・・・そうだね。あー、たとえば、今日の今の料理は、わたし1人でしたんだけど・・・・もしかしたら、おいしくないかも、しれない」
 
 
「?」自分の短すぎる問いはどうも、誤解されたかな、と赤い瞳に疑念が浮かぶ。
 
 
「食べてみて、綾波さんと鈴原はそう感じて、それを口に出すかもしれないし、出さないかも知れない。私1人がつくったから。たぶん、言わないんじゃないかな、綾波さんと鈴原なら。でもね、もし・・・」
 
 
「・・・・もし?」
が、それは確かに問いに対する返答らしい、と赤い瞳の光が集束する。
 
 
「その料理を三人でつくってたら、どうかな。おいしくなかったら、お互い顔を見合わせて、これは失敗したかなー、とか言うんじゃないかな。綾波さんと鈴原なら、他の誰のせいにするでもなく、それを認めてその原因を追及して考えたり、次は成功する方法を話したりするんじゃないかな」
 
 
「・・・・・・・」
 
 
「綾波さんと、鈴原なら、いいよ。怖いけど・・・・・・・・いいよ」
 
 
「・・・・・・・」
 
 
「ごめん、もう少し格好いいこといいたいんだけど、アスカみたいに。でも、わたしは二人がいるから、飛び込んでみようかとようやく思えるくらい、だから。・・・いきなり、わたし一人だけ言われたのなら、たぶん、怖くて、受け止めることもできない、と思う。
こんな話」
 
洞木ヒカリは現実的だ。パイロットの基準を碇シンジか、惣流アスカか、ここにいない二人をイメージしているのかと思えば、目の前にいる自分を基点にして考えていた。
 
綾波レイは、少し、驚く。
 
負傷の可能性だって当然、頭の中にあるのだろう。けれど、同じ歳のパイロットがここにいて、昨夜、戦闘してきた、という事実を優先させるという。危険予知未来予測、知能を意思で抑え込んだ。使徒による人類の蹂躙など、当人の負傷の予感に比べればずっとぼやけたものだろう。そうしてみれば、自分と同席というのは説得にはこの上なきタイミングで誰かの掌の上、という気がする。ある立場の者たちからすれば、笑いがでるほどに簡単な話であっただろう。たかが小娘1人、踊らせるなど。
 
 
けれど、彼女は参号機に選ばれるだろう。
 
 
ふいに、鼻腔に甦る土の匂い
明暗が居していた改造牢屋の匂い
 
 
「鈴原君には、いいの・・・・・・?」
 
 
「いいと思う。わたしがいけるくらいなら、彼も大丈夫だと・・・思うから」
 
 
エヴァの操縦に運動神経はないよりあった方がいいが、参号機のような達人用の機体であれば一般人が少々差があろうと関係ないとは思われたが、あえて黙っておく綾波レイ。
 
要はシンクロ可能か、その数値、ATフィールド使用可能か、ということなのだが。
 
いずれにせよ、参号機は仕上がった、と赤木博士は言った。この目でその仕上がり具合を見せてもらう。今ひとつはっきりしなかった参号機のパイロット選定理由も、これで納得できるようになればいいが。考えていた予定が完全に狂った今、鈴原トウジを優先する理由もない。距離をおこうとした洞木ヒカリにバレバレにばれているのだから。
洞木ヒカリを先に参号機に引き合わすことで、後で鈴原トウジとの心理的トラブルが起きる可能性もあったが、感情のない綾波レイにはいまいち、ぴんとこなかった。
男の面子、などというものはもともと理解の外にあったし。
 
 
そのため、鈴原トウジは当初の予定を大幅に狂わせて、後回しにすることにした。
当初の予定では、一秒ほど(男女差別かも)で搭乗の説得を完了しすでに参号機戦闘の特訓に入っているところであったというのに。なかなか、思うに任せないものである。
 
 
「わたしも、ネルフにいくよ」
 
 
こんなことを、目の前で告げられることになるとは、ほんとうに、思ってもみなかった。
守られるに値する人間というのが、誰かを守ろうとする人間だというなら。
指名の正解など、どこにもないということになる。