「それでは、出欠をとります」
 
 
第三中学校二年A組、担任の根府川先生がいささか空席の多い教室を見ながら。
 
 
綾波レイ
 
碇シンジ
 
霧島マナ
 
鈴原トウジ
 
洞木ヒカリ
 
 
五つも席が空くと、転入生がある程度入ったとはいえ、ずいぶんと寂しい感じがする。
 
 
 
 

 
 
 
いってみれば、ウルトラ万馬券であった。
 
 
鈴原トウジ・洞木ヒカリが駆るエヴァ参号機のことである。
 
 
エヴァのパイロットことチルドレン・・・・使徒殲滅業界の機密の落とし子、選抜に選抜された希少な才能を宿す、使徒との決戦兵器を動かすことの出来る、不夜城で探す星のごとく数少ない、まさに人類の希望の星、強い強い光輝なる存在・・・・少年少女であってもそれだけのものを背負うにはやはり、それなりの背景があってしかるべき。
才能が発現するにはそこまで至る血脈というものがある。はずだろう。
 
 
というのが大方の見方であり。世間一般の常識とはたいていのことが並はずれている使徒殲滅業界においても、こればかりは。
 
 
「これ」といった異能をもたない、「あれま」と驚く戦闘技術があるわけでもない、なんで参号機とシンクロしそれを起動し得たのか・・・・よもやこの期に及んで偽造でもあるまい・・・・もしくは、それを「奇跡」というのか。確かに09システムなどと揶揄された代物、確率的には大したものだが、そこで使い切ってしまってはどうしようもない。
 
 
使徒と戦い、これを倒すこと。これこそがエヴァの使命、チルドレンの任務なのだから。
 
 
ずぶの素人がエヴァに、しかもカスタムされまくった参号機を、シンクロした。これはすごいことである。どういう理屈なのかわからないがとにかくすごい。もしかしたら子供ならば誰でもいけたんじゃないかと疑いが生じてくるほどにすごい。そんなはずはないが。
 
 
これがまだ使徒が襲来せぬ時分の話であれば、ウルトラ万馬券なんぞというあまりにひどい表現はされない。起動させるだけですごい!これからがんばろう!という明るい話になるのだが、使徒が既に何回も、しかも前回「勝つことができなかった」相手がやってくるだろう、という状況であればそのように呑気にしていられない。評価はシビアにならざるを得ない。
 
 
ウルトラ万馬券
 
 
馬券というのは勝ち馬投票券の略であり、ウルトラ万、というのは光の国からやってきた超人のことではない。とにかく勝たねばならないのである。そして、駆ける・・・つまり、戦わねばならない。
コースという戦場から逃げることは許されていない。誰もそんな危険な組み合わせに賭けたりしないというのに。
 
 
参号機が使徒を倒すことなど、誰も期待も予想もしていなかった。この時点で。
ロボットアニメの放映第一回じゃあるまいし、いくらなんでもそんなことあるものかと。
 
 
暴走させて一等賞?それでは騎手の意味はなし。確かに乗り手は軽い方がよかれども。
 
 
ウルトラ万馬券を買う?それよりはまだ、片足が無くなった青馬に賭けた方がよい。
綾波レイの駆るエヴァ零号機・・・・・カタをつける、つけられるのはそれしかない。
なんせ百戦錬磨、激戦をくぐり抜けてきている。そして現にまだ生きているのだから。
同じ相手に二度敗れるネルフではない・・・・・・少々相手が強かろうとかならず付け入る隙を見つけて撃破する・・・・・
 
 
 
そのはずだった。
 
 

 
 
「う・・・うううううううっ・・・・・・・ううう・・・・けはっ!・・・・・・」
 
 
足の付け根まで這い上がる激痛はなんとか堪えるが、こみあげる嘔吐感をこらえきれず、口元をおさえる綾波レイ。それと同時に急落するシンクロ率。起動限界ぎりぎりの数値まで落ちたところで歯をくいしばって耐えきる。赤い瞳がLCLの中で爛々と輝く。
 
 
エヴァ零号機・ファーストチルドレンのシンクロテスト。
 
 
とてもただの訓練の様子には見えない。全力の戦闘中であるような必死の形相。これが歴戦の零号機パイロット、ファーストチルドレンとはとても・・・・・
起動限界値をなんとかクリアしようと細かく振動する数値は、舞う風を逃して飛翔しそこね地に墜ちぬようバタバタと翼をはためかす病んだ鳥をスタッフたちに思わせた。
 
 
「思えない光景ね・・・・・・鈴原君たちに見せなくて正解だったわね・・・実験中止」
 
 
冷静と冷酷の間の声で告げたのは赤木リツコ博士。この限界最低数値を保つのさえ綾波レイがエヴァとの対話ではなく己の内部で相当な無理をして漕ぎ着けているのが分かった。
 
 
エヴァとのシンクロを解かれると、それがまるで茨の拘束であったかのような脱力した表情を見せるのがその証拠。白い顔に濃く表れる強い疲労感衰弱感。そこには力も光輝もありはしない。赤く淀んだ濁り水・・・・虐待の末にそこに沈められた少女奴隷・・・・
それを平然と見る者もいれば、思わず目をそらしてしまう者もいる。
 
 
「十分、保たない・・・・・・いえ、よく十分保たせている、というべきかしら・・・」
 
 
データを表示するモニタを見つめて呟く赤木リツコ博士。それはあくまで独り言であり綾波レイを労っているわけでも賞賛しているわけでもない、ただの事実。唯一のまともな戦力たるエヴァ零号機が十分以上の起動に耐えないという事実はその意味を少し考えてみれば鳥肌たつほどの恐怖である。よく〜いる、などという言葉はこの場にいるスタッフの誰からも口にされることはないはず。頼れるはずの戦力が実はそうではなかった。
零号機・ファーストチルドレン綾波レイ、この組み合わせこそが混乱混沌の中にあるネルフ新本部で唯一、揺るぎなく聳え立つ中心柱であったはずなのに。このザマは・・・・
 
 
「真面目にやれ!!」
「なにをふざけているんだ!君は!!」
「そんなもんじゃないだろう!チルドレンは!君しか、君しかいないんだ!!」
 
 
新規に入った計測スタッフが席を立ちモニタの向こう、エントリープラグの中のLCL漬けの少女に怒鳴りつける。その表情は真剣で、信じていた像が裏切られたという真摯な願いが込められてはいたが、いかんせん目がデータを見ていない。自分の心をしっかり見ていてもしょうがないのだが。チルドレンの起動というのは実際はこんなもんだと冷めた目で見ていた別の新規スタッフもいかんせん、同様だった。零号機に賭けているのだ。
 
 
マヤがいれば黙っていないでしょうけれどね・・・・・・・
 
上海でなにやら蠢動しているここにいない後輩のことを思った赤木リツコ博士であるが、口に出しては特に何も。あまり意味も効果もなかろうから諫めもしない。作戦部から片足の零号機をいかに戦わせるか、という戦術案もあがってこないような現状では口止めも逆効果になろう。喋りたければ喋るがいい。
 
 
チルドレン、ではない、「綾波レイ」の異能を認めるにはやはり場数が必要になってくる。
異常の努力、というのは凡人には認められにくい。過去が強く輝いていればなおさら。それが今を覆い隠してしまう。切断され治癒することのない牙の傷跡、左足。一面、破壊されるよりもタチの悪い永遠の出血を強いる、流血鬼の呪われた傷、その痛みをどうも綾波レイはモロに引き受けている。当人は何も言わずデータから推察するほかないが、おそらくは。零号機とシンクロ始めるのと同時に足が引きちぎられる激痛をも同調させている・・・・・それを抑制しながら己の機体と向かい合っている。
 
零号機の脚部分をまるごと取り替えてしまえばいいのだが、それができない。封印はあくまで傷口をそれ以上暴れさせずに黙らせておく、それくらいの力しかない。かろうじて塞がっているだけのことで大っぴらに改修などやればどうなるか責任はもたない、というなとも頼り甲斐のある司令殿のお言葉がある。なんともガン細胞よりも厄介な。上位の使徒がくらわした傷だ。それくらいの強制力があるのだろう。エヴァの肉体に崩壊コマンドを刻むことくらいはやってのける・・・・・あの金色の牙剣。片足。二足歩行のエヴァの機動力は半減以下。いっそ、神速の切断術式を施してみようかと考えてみたこともあるが、たとえうまく切断しても、切断された部分が傷口を顎として大蛇のように本部施設内で暴れ出した日には収拾がつかない。エヴァサイズの天才外科医でもいればいいが、夢だ。
 
 
四号機があれば・・・・・・・それも、夢。
 
 
そこから威力としてはかなり落ちる代案ではあるが、呪術系のことはもうそちらの業界人に任せた方がいい。司令の権威などはとっくに失墜しきっているから、というかそもそもそんなもんは認めてもいなかったが、傷を瘡蓋のように塞ぐだけで完全に治癒することはできないあの蠅はもう日程計算から除外する。綾波一族。レイのお守りというか護衛を任じている彼らは蠅司令のかけたロンギヌスの槍の封を解いてみせた。ああいう結果になるとは考えてなかったが、あてつけでやってみてもらったのだが。とにかく、後継者綾波レイのためになることであれば(彼らの本来の目的とは外れているが必要なことは確かだ)なんとしてもやってのけるだろう。全知全能を惜しまぬはずだ。愛想も誉め言葉もないが自分たちのそれを宿すべき少女のためならば。すわ、一族の一大事、というやつだ。
 
 
ともあれ、綾波レイほど真面目な人間はいない。少なくとも本部施設内には。
 
それを真面目、という言葉で片付けていいのかは別問題として。エヴァを自在に駆るレベルのシンクロ率を記録するチルドレンが、機体と同調し、しかも機体の片足が失われたことをあくまで認めない、感覚を足の先まで保持したままでいようとするなら・・・・・
そこから導き出される苦痛の量は・・・・・サード、セカンド、フォース、たとえフィススであろうとも。
 
 
「一分ももたないでしょうけれど・・・・・ね」
 
 
べつにそのようなことをしたとて、零号機の苦痛が減じるわけでもない。エヴァが痛みを感じるならまた別の話かも知れないが。そして。
 
シンクロ率の数字の低下はそれとはまた別に。パイロットの不調というよりは零号機の方から拒絶、ブロックをかけているような流れだった。どういった無茶をすれば泣き叫んで転げ回るような激痛の中で涼しい顔して己を操れるのか、知っているのかもしれない。
廃人街道一直線。綾波脳病院の後継者は己の頭の中を、神経配線を弄る術を知っている。
眠っているはずの、眠らせていた方がいい領域を情け容赦なく追い使う方法を。
 
いっそ、左足はないものだと感覚を遮断する方向でその誰にも見えない能力を使えばいいものを・・・・不器用なものだと思う。
 
 
そして、片足の零号機で使徒を返り討ちにする方法を思考する。あの目の色は。
誰も指示してくれそうにもない。誰も考えてくれそうもない。誰も教えてくれそうにない。
使徒殺しの目。底の方でちろちろと燃える凄惨な輝きは使徒戦をくぐり抜けた者にしか分からない。データには表れない心の形。見えない刀。旧からいる者たちはそれが分かるゆえに気圧されかえって言葉が出ない。
 
 
これがミサトなら、自分の脳みそが黒コゲになるまで考えただろう。
 
だが、いないのだから仕方がない。いたとしても初号機のいない現状、うんうん唸るだけが関の山かもしれないが。
 
 
「レイ、あがって。イメージしきれなかったかもしれないけれど、準備もあるでしょう」
あまりにも早い実験の終了に新スタッフを中心に驚きと不審と苛立ちの声があがるが無視。長いことやっても意味がない。数値は数値であり、不調の原因を論議解明したところで数字が水増しされるものでもない。尻をたたけば早く駆けるわけでもない。競走馬でもあるまいし。
 
 
「はい、赤木博士」
苦痛から解放された安堵もなく。苦行者の自覚もなく。数値を恥じるでも惑うでもなく。
まさしく機械の声で返答する綾波レイ。ただ、その内に駆動する熱無く。
その姿、その声、人間味の無さに付き合いの浅い者たちは恐怖する。もしくはその反転、エヴァのオプションパーツの一つであるかのような偶像失墜の念をおぼえる。
 
だが、赤木博士と古株者は察する。
 
 
・・・・・・おそらく、何も考えつかなかったのだろう。戦い方など。当然か。
 
 
それでもさすがにぐずることもなく、即座に切り替えてくる。これがアスカだったらこんな風にはいかないでしょうね。まあ、そのための作戦部長連、彼らがなんとかするでしょうしすべき・・・・というのも無責任すぎるか。今回は相手が悪すぎ、こちらの手札も悪すぎる。誰のどんな頭脳で考えようとさほど結果は変わらないはずだ。
出来れば早々に降りてしまいたいところであるけれど。やらねばならない。
 
 
 
使徒はいつ現れるか・・・・分からない。
 
 
使徒はいつ現れるか・・・・分からない。二度繰り返す理由は分かる?
 
 
 
あまり考えたくはないが・・・・あの獣使徒に座していた「人間サイズの」使徒。
 
人型サイズでありながら、エヴァの足をぶった斬れる攻撃力をもった敵性体。
 
足をぶった斬っておきながら、出血を相手に強いていながらあえてトドメをさそうとしなかった・・・・・・エヴァを倒す以外に第三新東京市を壊滅させ人類をこの地上から消去する他に、なんらかの目的がある・・・・のだと考えれば・・・・サイズと攻撃力が比例しないなら・・・いや、そのサイズに意味があるなら、目的を果たすためにそのサイズなのだとしたら・・・・・そう考えれば・・・・・考えたくないのだが・・・・・
 
 
人の群れの中に紛れて、何かを探すのが、「その」目的なのだと、したら・・・・・・?
 
 
そのサイズを生かして、すでに市街に潜伏中であるとしたなら・・・・・・
 
 
その「いつ現れるか」という意味合いはまったく異なってくるということ。
 
 
六つも頭があればひとつくらいはそんなことを考えているだろういくらなんでも。
ぼつぼつその気のある者は動き始めている。まあ、こちらにも分かる範疇で、という意味だが。
 
 
 
参号機は訓練もかねて天京から運ばれてくる随分と漢字の長い名前の専用武装、防御柵を日本海側まで取りに行く。夕方に出発して夜陰に乗じてほぼ最短の直線コース、明日の朝までに終わればよし、終わらなくても航空機でとにかくいったん帰る、という乱暴かつその割りには節約しているのは時間だけという大金のかかった運搬作業だ。
 
だが、そんな簡単な仕事も、現在の零号機にはやらせられない。
 
言い出したのは綾波レイだが、それだけで物事は回らない。関連組織周辺地域あちこちに段取りをつけて用意もせねばならない。だいいち、反対の声もかなり強くあがったのだ。司令は影に潜んでいる割りにはその手の裏の仕切り仕事など一切関知しない。それを抑えつけるのも一苦労、そこは冬月副司令がなんとかしたが。計画立案は孫毛明、だが現地にたって進行管理指示する者がいない。能力はともかく、やりたがる者がいなかった。この手の雑仕事でヘタ打ったら蠅の司令をはじめとした組織の混沌部分にどういう目にあわされるか分かったものではない。作戦部長連はしょせんはボールの中にいる声にすぎない。嫌がる者どもをにらみつけ気合いをいれて首根っこつかまえて怒鳴りつけてブレーンバスター・・・・そこまでは葛城ミサトも野散須カンタローもやらなかったがまあ、適正な指示だけでは人間は動かない。こんな状況がドロドロしていればなおさらのこと。
 
この手の、ふいに飛び込んだような雑仕事を今まで誰がこなしてきたかというと、作戦部顧問である野散須カンタロー、経験深い大年寄りであり、葛城ミサトがなにもいわずとも早々に手配して段取りをつけて実行してきた。使徒との戦闘に直接関係せぬ、指揮の花道から外れた影仕事であるが、偶然や運の入る余地もない的確なスキマ無く積まれた石垣めいた実行力を要求される。頭の回転や才能とは関係なくそれは経験で人間そのものが錬磨されぬと難しい。一言で言うと、度量ということだ。戦闘後の後始末の方が難しい・・・自分の部屋の整理整頓とも多少関係あるかも、しれない。度胸はあるがやはり若い葛城ミサトは当初そちら方面を苦手にしていた。
 
 
結局、現地での作業指揮をとるのは戻ってきたばかりの日向マコトになった。何をやっていたのかずいぶんと遅い帰還だったが、それを咎められぬ代わりにこの面倒な仕事を押しつけられたわけだった。能力的にもギリギリで安心感、というところであったし。
 
「参号機用の新装備の運搬?行軍訓練も兼ねて、ですか?いいですよ・・・っていうかこの段取りじゃ今すぐ動かないと!それじゃ!」
自分の席を温める暇もなく再び本部を出て行く。呼び止められて回れ右の即Bダッシュで走りながら「あ!日向さんだ!」「今までなにしてたんですか!!」「日向シゴト仕事マコトシゴトマコトシゴトマコト!!GETSET!!」ようやく戻ってきた彼を捕まえようと待ちかまえていた者たちの手をラグビーやアメフトよろしくかいくぐり「あ、どうも日向です。ネルフの。えー、まだ帰国されませんよね?え?もう帰る?それちょっと待てくださいよ手伝ってもらいことありますのことよ・・・ってなんで中国人になってるんだ僕は!いやこっちの話で作業自体はこの前お願いしたのと似たようなもので・・」携帯をかけたりしているのだから縁の下の力持ちというのも忍耐だけではつとまらない。支える家屋が液状化しているのではなおさら。横着な兄ブタたちがつくった藁の家よりまだひどい欠陥ヘドロ住宅状態である。だが、日向マコトはきっちり段取りを整えてきた。
 
作業手順などほとんど意味がない、参号機の実働訓練、どれだけやれるものか予想がつかない。ただ歩いて物を運んでくることもできなければ戦うことなどできはしない・・・・まあ、零号機に浴びせたくはない言葉だけれど。足腰は基本です。
 
 
 
 
「あの、赤木博士・・・・」
 
 
パイロットがいなくなってしまえばシンクロテストはできなくなるし計測スタッフたちも用が無くなる。その管理者たる東方賢者赤木リツコ博士も参号機の監督もせねばならない身であるから忙しい。鈴原トウジと洞木ヒカリ、二人のパイロットに作業開始前に直接、一声くらいかけておく必要もある。参号機は現在、虎状態にある。先行は鈴原トウジになる。相方、洞木ヒカリにパイロット期限を切ってきた・・・・・ずいぶんと男な男の子。その期限設定にほとんど、いや、なんの意味もないのだが、綾波レイからそれを聞いた時、久方ぶりに、ずいぶんと久しぶりに、くすり、と笑いが漏れた。すぐにおさまる程度の。ほんの、ささいな笑い。にもかかわらず、笑うこと。ユーモアとはそのようなもの。
そのことを、あの関西弁の少年のことを考えると、その折の記憶の微粒子が漂う。
 
 
最上アオイが声をかけてきたのはそんな時。エンヤコラと夜の山々またぎ越えての一仕事をさせられようとしている少年少女になんと声をかけたものか考えながら通路をゆく途中。
 
 
「どうしたの」
 
作戦部長連のひとり、座目楽シュノ付きとしてなんとなく認められたきたふうのある眼鏡オペレータにこんなところを待ち伏せされるおぼえはない。エヴァ零号機の先ほどのシンクロテストのデータは各作戦部長連に転送済み。参号機はすでに戦力と数えず、零号機を戦力主体として思考する作戦屋ならばさぞ気にくわないことだろう。ファーストチルドレンをこんな雑事にかませていることも。そんな暇があるならテストを繰り返しやらせろ、といったところか。もしくは、早急に零号機の脚部修理を終えろ、とかいう抗議か。
まあ、どちらもまともで正当な言い分であるが、そんな正論を聞く暇はない。
べつに意識したつもりは赤木リツコ博士当人にはないのだが、唇のあたりに鬼気が。
 
”へんなこと言い出したらとって食べちゃうわよ”とでもいう非科学的迫力が。
 
ちなみに、迫力はこの場合「ハクリキ」と読み、国際単位はSb(スケバン)。今の赤木博士のそれは280万Sbに相当するだろうハクリキであった。
 
 
「あ、あの・・・座目楽作戦部長からの依頼なのですが・・・・」
訓練されているオペレータの舌が凍る。
 
 
「・・・分かったわ。技術部として実行可能な速度で対応します」
歩を止めずにそのまま行こうとする赤木リツコ博士。一人の頼みを聞けばほかの五人の頼みも聞かねばならない。この状況で六人バラバラのあの連中の言うことが聞けるものか。おまけにその頼みもあの蠅司令の承認など得られていないのでしょう。有効であればあるほど。おまけに、座目楽シュノは部長連の中でも一番格下の感がある。若ければ柔軟でピチピチしてていいってわけじゃないでしょう。ちょっと眼鏡だからって調子にのってると・・・・・さらにハクリキを30万ほど上乗せしてそれ以上言わせぬように。可哀想かも知れないが、余裕がないのだ。女が三十路にのれば「余裕がないの」でたいていのことは強行できるものなのだ。
 
 
「・・・・・エ、エヴァ零号機の松葉杖を製造してほしい、という話だったんですが・・・・・・あの、ほんとに・・・いえ、失礼しました。さすが、赤木博士です・・・・・お見通しだったのですね」
ごくりと、一回のどを鳴らせて最上アオイは言った。
 
 
「え?」怪訝な顔で赤木リツコ博士。無関心で偽装された早足の歩みも止まる。
 
 
「・・・あの、零号機は片足なので・・・・それでは動きにくいだろうと・・・・・脚部の修理も不可の・・・いえ、時間がかかるとなると応急処置的な補正ですが用意がないよりはいいだろうと・・・ファーストチルドレンの操作感覚をみながら使用するかしないか・・・地に這いながら戦うのは・・・・戦ってもらうのは・・・・・」
 
 
目つきからどんどんハクリキを減じながらも最上アオイの言葉はかえってたどたどしくなる。それが発言者の思いを通じさせてのものなのか当人がファーストチルドレンの現状に同情でもしているのかは分からないが。
 
 
はあ、確かに・・・・”杖”・・か・・・・・・・・要るかも、それは
 
 
「・・・・・そういえば、貴女の担当している座目楽部長だったかしら。司令に”封印武装”をよそに移送するように提案していたのは」
 
 
「え!?・・・・・・なぜ、そのことを」
それを知るのは提案者と中継者の自分と司令だけのはず。
 
「・・・・・べつに、技術部のわたしが知っていてもおかしくないこと。それは。
そうでしょう?」
再びハクリキ増量。なんだか女子校の体育館裏側みたいだが、ここは人類最後の万能化学の砦、ネルフ本部である。一応。聖母さまも見ていない。代わりにアカギさまが見ている。
 
 
「そ、そうですねっ!そうです、そのとおりです!」
 
 
このハクリキをもつ人間を素直に”先輩っ”とあがめられるのだから今にして思えば伊吹マヤも傑物だったのだろう。まさにドスコイ伊吹山。そう歳も離れていないけれど、あのオペレータ三羽カラスに及ばないのはこのあたりの「影響具合」に原因があるのだろうか。
 
 
「その気遣いに免じて教えておくけど、移送のことはレイの前では口にしない方がいいわ」
 
 
「え?」
 
 
「現状を理解した有効な手段であることは認めるけれど・・・・・そんなことをしたら今のあの子は、たぶん・・・・」
言い切らないうちに歩を進めた赤木リツコ博士は、そのままいってしまった。
 
 
明らかに脅されるよりもそちらの方が百倍怖かった。「・・・だから伝えたくなかったのよ〜・・・・」出来ればその場にへたりこんでしまいたかったがそうもいかない。代わりに壁によりかかって深く息をつく最上アオイ。座目楽シュノがどうしても人の口頭で伝えてくれと頼むから仕方なしに発令所を出てきたが、あー、やっぱり怖かった。学者なんて見慣れているから天才科学者だからといって今更気後れすることはないけれど、あの人の迫力はどこからくるものなのか・・・・・・・・・・やはり金髪だから?いやあのその。
 
 
 
最上アオイの心労をおいてけぼりにして、赤木リツコ博士はエヴァ用松葉杖の作製をどこにやらせたものか考える。すぐに結論を出す。現在のこっち側本部ではそれを早急に造れない。ケージや工房の整備員たちの人間関係が過去最悪というか麻の如く乱れた状態が新体制になってからの平常の状態なのだから現状最低というべきか。ここに零号機用の小道具を造れと命じても油に火種を投げ込むことになるだけ。エヴァ用の巨大楽器でさえ造り上げた昔が懐かしいが、しょうがない。そんなものは失われてもうもどってこない。技術屋どもの頭領になるには自分では理論が勝ちすぎる。自らの特性を減衰させた大将など誰がついていくものか。とくに技術屋はそうだ。匠の代わりなど、おいそれと・・・・
 
 
そういうわけで、杖の作製は、いまやネルフ本部直営工場というか農場というか、ファームな位置になってしまった旧第二支部に任せるとしよう。実戦施設やプラント機能の大半を参号機用の何やら装備を造るのに廻しているとか。馬鹿がそろっているという話は聞かなかったから、墜落の衝撃でそうなってしまったのだろう、たぶん。総力を結集して、なんて恥ずかしいフレーズを頭につけて。そのついでに零号機のも造ってくれればいい。
使うかどうかは、分からないけど。
 
 
結果から言うと、エヴァ零号機、綾波レイが松葉杖をつくことはなかった。
 
 
そんな姿をさらすくらいならばまだ這うことを選んだだろう。かといって長大なポジトロンライフルに身を預けるような、一目、絵にはなるが動きが完全に死んでしまう、キャノン、タンク化を避けた。この時点では綾波レイも考えておらず、結局、その場の思いつきに頼ることになる。
 
 

 
 
「まだ訓練や本番やないまだ訓練や本番やないまだ訓練や本番やない・・・」
 
 
男子トイレで出もしない小便のかわりにじょろじょろと、おそらくは西本番寺あたりの真言を唱えている鈴原トウジ。まだ収縮させていないぶかなプラグスーツの上半身を腰に一巻きして上半身は裸。運搬作業というか訓練というか、戦闘ではないのだからそんな寒涼しいカッコをするくらいならまだ着替えなければよいのだが・・・・・・日常生活を象徴するジャージでいれば多少は落ち着いたかも知れないが、それでは覚悟が薄まると思った。
 
 
はやいところ、洞木ヒカリのところへ戻ってやらねば、とは思うのだが。
 
なかなか男子トイレの小便器の前から離れられない。シュミレーションではなく実際に機体に乗り込んで地上で機体を動かす。それで市街の周りを何周か走って終わり、というならまだしも、いきなり日本海のあたりまで行って港で荷物を受け取って戻ってくる、という。いや、正確には、戻ってこい、か。これは歴とした任務なのだから。
 
それにしても、ものすごい促成栽培だ。いや、相方に九十日の期限を切った自分が言うのもなんだが、ずぶの素人にいきなりここまでやらせてええのだろうか。ワイは自動車の免許ももっとらんのやけどな・・・・・路面電車は走らせたことあるけど。ひとりつっこみとぼけにもさすがに力がない。イヤ、もう少しテンションをあげねばエヴァも動かんようになるんちゃうか?などと考えると尿意がふたたびわき上がるのだから不思議なものだ。まさに人体の神秘!・・・・・・・単なる小便ちびりそう状態かもしれんが。
 
 
鈴原トウジは男子トイレで苦悩する。
 
 
できれば他のところでも苦悩したいところだが、そうもいかない。相方の洞木ヒカリの目があるからだ。おそらくは、自分以上に不安であるはずの同じ歳の少女の前でブルうなど出来ない。それどころか、なんとか不安をやわらげてやる義務がある、と少年は信じていた。そうなると、てめえが苦悩する場所など女子禁制の男子トイレくらいしかない。更衣室、という手もあるが、その逆は許されなくとも、落ち着かなくなった委員長が様子を見に来る、ということも考えられる。(鈴原トウジが許容する、というだけで洞木ヒカリが実行することはまずなかろう)至近距離に接近することがまずない、ある程度間合いが守られた隔絶空間といえば、男子トイレくらいしかない。ネルフ本部生活の日が浅い鈴原トウジにはそれくらいしか考えられない。いや、男風呂もあるだろう!と異議を唱える人はよほどの大物かすこし頭がおかしいので口の堅いお医者にかかることをお勧めする。
 
 
「ワイが守るワイが守るワイが守るワイが守る・・・・・・・・」
 
 
早口で言っても区切りはよく大昔の独逸憲法のようにはならなかった。そこには明確な意思がある。エヴァのパイロットに向いているとはどうも思えんがこうして選ばれてパイロットの服に袖を通して(いや、今はとおしてないが)しまった以上、やるしかない。
不向きなシゴトを割り振ってきたお天道さまを恨む気が全くないわけではない。が、自分よりさらに向いてないであろうオナゴの子が指名されてやらされようというのだから逃げ口上をグチグチ考えている暇はない。目的は明確。己の口で言ったことは守る。
いや、それだと「ワイは守る」になるのでは?と指摘する文章チェックに厳しい人はよほど美しい国語を愛しているか暗示にかかりやすい体質なので騙されないように注意されたい。
 
 
 
「ああ・・・・・・」
苦悩する時間もそろそろ限界に来た。さすがにそろそろ戻らねば臆病風に吹かれたものかと思われる心配がある。切り上げる鈴原トウジ。プラグスーツを着込み直す前に手を洗う。洗面台の鏡には自分の顔。・・・・・うわ、なんちゅう不景気な。ただいま七連敗中、しかも昨日のゲームはメタクソ打たれて半分もたずに引きずり下ろされましたよ、みたいなツラであった。これからタイトルマッチに挑む荒々しい挑戦者のような精悍なツラ構えだと思っていたがとんでもない。いやー、ぜんぜん気合いがたまっとらんなー・・・ははは。
 
 
「くそ!!」
 
 
ぱしぱしぱしぱしぱしぱしぱし!!!
 
 
いきなり裸の上半身に大阪名物をかます鈴原トウジ。パチパチパッチンである。頬やら顔の見えるところでやれば洞木ヒカリがそれを見て心配するだろうと思った。スーツに隠れる身体の部分なら勇気の紅葉のあとがいくらついてもかまわない。さらに。
 
 
ばしばしばしばしばしばしばし!!
 
 
頭頂部分を左右の掌で交互に叩いていく。端から見るとかなりおかしい。おサルのシンバル叩き人形が壊れたような動きなのである。しかも、表情だけは真剣。
 
 
「おりゃ!!」
 
 
最後だけは空手ふうの構えで決めてみせる鈴原トウジ。「行くでえ!!これから一仕事じゃ!!」鏡の自分に気合いをいれてみせる。鼻息が荒くなり、多少はマシなツラになった。略してマシラ顔。って、そうなるとサル顔ということになる。月とあなたとゲットユー。
 
 
プラグスーツを収縮させて完全に見に纏う。もう行かねば。その前にひとつ。おそらく過去にここに確かに立っていただろう者たちへ呼びかける。野郎のよしみだ。
碇シンジ、・・・・渚カヲルも・・・まあ、いくら美形はトイレにいかないとしても・・・見学くらいはしただろう。手くらい洗っただろう、たぶん・・・・エヴァで戦い今はいない、戦友になるまえにどこかへいってしまった彼らに呼びかける。
 
 
「いま、自分ら、どこにおんねん・・・・・・同じ乗るにしてもお前らがおったらもう少し・・・」
 
 
女子には決して知られてはならないが、それだけに同じ野郎には正直に吐ける弱音がある。
鏡には自分の姿しかなく。その声は独り言以上ではなく、誰にも届くことはない。
 
 
「・・・・楽しかったかもしれんな!じゃ、行ってくるわ」
 
 
鈴原トウジ、出陣。
エヴァパイロットとしての人生ゲートが、今、開いた。
 
 

 
 
 
「・・・・どのくらいの強さがあれば、あなたに足りるの・・・・」
 
 
第四隔離施設。かつて黒羅羅明暗を名乗ったフォースチルドレンが寝起きしていた牢屋。
綾波レイは不調極まるシンクロテストのあとでここに立ち寄った。
そして、闇に問うた。
 
 
「・・・・・・・・」
返答などあろうはずもない。自分と零号機がこの調子である以上、参号機に頼らざるを得ない。自分は恐ろしいことをやっている。その認識によって震える心はもうないが。
 
 
彼と彼女を鍛えればいいのか。ほんのわずかでも力を増すように。それが死命をわけるから?これから受領にいく東方剣主も南方槍主も彼らのための力ではない。
 
 
 
 
それさえすればすべてが解決するのか。だが、副司令から聞かされたエヴァ八号機と作戦部長連のひとり、シオヒト・Y・セイバールーツの意向からするとそうでもないようだ。
それが真実であるなら、もう参号機を戦わせない方がいい。満を持していたのだろう八号機がやればいい。自分と零号機は見届け役にまわろう。だが、それは許されない。
 
 
力は選択される。どの力が使われるか。彼はそんなものから自由だったけれど、自分はがんじがらめだ。いまさら逃げられない。力の競争、力のレース。後群に紛れてしまえば容赦なくその他の力に押し潰される。常に先端でなければ。しかしこのレースに終わりは見えずいずれ力を失い落伍していくか・・・・・ぐるぐるまわるレース場から飛び越え退場したあの者たちはよほど賢いのだろう。
 
 
あの者たちの力はエネルギーそのもので、誰の補助も必要なく発現されそれ単体で完成完結して・・・それだけ自然といえるものだが。自分の力は、要するに技術でしかない。それを発動させるために、他のものを多く必要とする。他の者から必要とされなければそもそも発動の用すらない。あの者たちは気の向くままに年中元気でいられるが・・・・・・
 
 
エヴァが巨大ロボットとちがうのは、乗り手のもつ能力を増幅させること。
異能をもたない乗り手が動かしたとて、それはただ巨大なだけの虚ろな人形・・・
不可視の壁をささえる機械の兵士、という意味しかない。
 
 
わざわざそんなものにしてしまって、異能を持たない彼らをわざわざ、いいのか。
それならば、JA連合のロボットたちにATフィールドを預けて戦ってもらえばいい。
 
 
・・・・・間違いだったのではないか。誤りだったのではないか。
 
彼らを選んだことは、なんの意味もなく。無惨な結果が待つだけの貧乏籤だったのではないか。不完全なデータを入力されてエラーを出すしか能のない計算機のごとく綾波レイは苦悩する。ファーストチルドレンは、鋭くはなっているが、弱くなっている。綾波党の者たちが余計なお節介と知りつつその場近くに控え護衛せざるをえないほどに。
 
本人に自覚は、まったくない。ひとりで高速疾走。他の者はついてこれない。
 
ある意味、新人ド素人の参号機コンビよりも、零号機綾波レイの方がよほど危ない状態であった。が、誰にも気付かれないまま。気付いても忠告できる者もいない。
グラグラと高速振動不安定。何か、誰かの支えが必要なのは、明白だったが・・・・
 
 
使徒との再戦までそれがもたらされることはなかった。なんせ感情というバランサーもなく、自覚もないのだから。派手にすっ転んで顔面ゴケするしかなかろう。
 
 
そして、綾波レイもその場を去る。
あとは闇が残された。無音の黒が。
 
 

 
 
「おや、先客アリだよ。どこのラブラブカップルがこのラブラブカップルを邪魔してくれるのかと思ったらケンスケか。ハニーなカメラもってるけど・・・いいぜ?わんこちゃんとミカエル山田の夕焼け小焼けの愛の時間を一葉の記憶に留めてくれても」
 
 
中学校の屋上にて。相田ケンスケが物思いに耽っていると車椅子の犬飼イヌガミとそれを押すミカエル山田の二人がやってきた。これで沈思黙考の時間は終わった。
 
 
「その早口も説明ゼリフには向いているな、ミカエル。時間の節約になる・・・・・相田、邪魔をする」
相田ケンスケの近くまでやってきたのは夕日の遠景を見るためか、それとも。
 
「マユミはいないのか?まー、屋外で本読むと目が悪くなるし本にも悪いしな。アー、何度も言うがネームの呼び捨てはリミット以上の愛情表現じゃないからな。そこんこと勘違いしないようにいちいち眼鏡をフラッシュさせないよーに。そういえばこんな話があるんだ。ある男が怒りを表現するのに眼鏡を光らせていたんだが、ある時眼鏡を落として壊してしまってしょうがないからそのへんにあったコンタクトレンズをはめて家を出たんだ・・・そしたら、怖えーーーーーーーー!いやもう思い出しただけで怖くなってきた!それでも聴きたいか?この話の怖さはもはや一生コンタクトをはめられないほどだぞ!オレは目がいいから関係ないけど眼鏡の奴はもう一生眼鏡しか選択肢がなくなるぞ!それでも」
 
「黙れミカエル」
 
「ええっ!?わんこちゃんも聴きたいだろう?まだ話したことのないヤツなんだこりゃ。というわけでその男は日本料理屋で・・・」
 
「3分黙っていたらあとでキスしてやる」
 
 
「・・・・・・
・・・・・・
 
・・・・・・・・・・あと何秒?」
 
 
 
「まだ一分も経っていない。そういうわけでおあずけだ・・・・それからもう面倒だからあえて言わないが、認めたわけではないからなその呼び方を」
 
「・・・・埋めるまでもなく、新しいのが出てくるようにできているのかね・・・・世はなべてこともなし、になるように。・・・・一枚撮っておこうか?」
 
 
平等に見てうざいことこの上ないはずのストーリーテラーをめざす黒人ハーフ少年と貫禄車椅子少女の組み合わせに思索な時間をぶち破られた割りには相田ケンスケの表情は穏やか。この二人はおそらく頼まれてやってきており、それも付き合いの日の浅さが見込まれてのことで、それは有り難いことだと思うのだ。苛立ちをこの二人に向けるのは理不尽というものだった。以前を知らぬからこそつきあえる、ということはある。会うは別れのはじめなり、とはよく言ったもので。
 
 
「遠慮しておくよ。・・・・妙な噂などになっても困る」
「いやオレは全然構わないけど・・・・ていうか、今更、噂なんてなアってとこだなー。悪事はロケットスタートで千里を走る!あんせ悪だからドーピングし放題だし!アンラッキーの足は速くてハードラックという名のハードルもヒョイヒョイ跳び越し、それにノロノロいちいち躓くのは幸せばかり」
 
 
友人の消息が知れないのは寂しく、辛い。周囲にいたはずの者たちがなんの予告もお知らせもせずにふい、ふい、と消えていく。会うは別れのはじめなり。遠くに離れていくこともあろう。しかし、その行く先が知れないのは。棘のように胸を塞ぐ。
 
 
友人たちは今、奇妙でしかも濃い煙のような向こうが知れない「噂」の渦中にいる。
厚い厚い黒雲の向こうに。碇シンジ、渚カヲル、惣流アスカ、綾波レイ、鈴原トウジ、洞木ヒカリ・・・・・綾波レイが寝間着姿のままに教室にやってきて、鈴原トウジをどこやらへ連れて行こうとしたあの日から、その噂の雲はさらに濃さを増した。ネルフ本部体制再編による第三新東京市そのものも影響を受け人々が落ち着くのに時間を要しその混乱に碇シンジと惣流アスカ、この学校に教室に確かにいた彼らのことも、再編成の影に隠れて消えてしまった。綾波レイが学校に来なくなったこともそれに関連し紛れて皆は納得して疑念を覚えなくなる。あの事件、そして体制再編がなければ、おそらくこの目の前にいる二人がここにいることもなかっただろう。ここにいるのとはまたちがった心をもった人間として知らない土地で存在していたはずだ。
 
 
鈴原トウジと洞木ヒカリがここのところ、連続して二人して休んでいる。
担任教師の説明によると「夏風邪がはやっているようですね」らしいが、二人とも連絡はとれず家にいない。
本人携帯はつながらず家人の話によるとトウジは「妹の欲しがったナントカいう歌手だか運転手だかスポーツ選手だかのサイン色紙をもらいに県外に旅立った」とかで委員長の方は「お姉ちゃんといっしょに遠くの方の病院の見学にいきました。でもこのことはあまり他の人にするなってお母さんにいわれてるんです」ということだった。
 
 
最近のネルフ本部の情報セキュリティは鉄壁を通り越して何やら地獄の門のようですらあった。その内部に勤めている父親からも何回も何回も現状の本部組織を覗くことまかりならんと念を押された。その顔色と目の色を前にして確かに約束せざるをえなかった。自分部屋にある改造端末も父親の自室にある端末もどうも外から監視ないし侵入された気配がある。以前とは、ちがうらしい。
 
 
だが、あの連中がどうなったのか、今どうしているのかを聞かれて答えられないのは、
辛かった。正直、「・・・らしい」レベルのことさえ言えない。軍事機密という以上の、何か。国防やら自衛やらどんなに隠された物事だろうとしょせんは枠組みの中の人間の思考の産物であり、いくつか技術の限界突破ブレークスルーがあろうと人間の手で運営されている以上、利得の方程式を経て、それなりの落ちどころ、落としどころ、というものはある。だが。ふと、思う。
 
エヴァというのは、ほんとうに兵器であるのか。何か別の用途があったが、使徒来襲の事情のもと、やむなく転用されているだけなのではないか・・・・・・自分たち一般人の常識など全く通じない「目的」のための・・・・・ただの妄想にすぎないことは分かっているが、あまりにも利得のセオリー、常識から外れているような現状のネルフ組織・・・・最近のこの都市の空気でさえもどこか腐臭のような・・・・負け戦にゆるゆると向かう城というのはこんな感じなのかもしれない・・・・となると、これは歴史の繰り返し、ということになる。よくあることだ。せっかく調子のいい回転をする機能集団をわざわざ組み替えて軋み上げさせ壊してしまうというのは。欲しいのは、進化か錬度か。
 
 
「トージとヒカリがエヴァbRのパイロットになったんじゃないかとかなーこのガッコの噂って凄いよなー。ジュニアハイスクールの中でロボットのパイロットだぜ?はー、スゴイスゴイ」
 
 
「興味ないのか?・・・意外だな」
 
 
「まあねえ、ストーリーの中の登場人物は肩書きが全てだけどなあ。王子様とかプリンセスとかおじいさんとか会社員とか騎士とか肉屋とか悪者とか広報担当者とか・・・・オレにとってはトージはトージだからな。ヒカリはヒカリで。あんまり関係ねえなあ、そいつがどんなジョブにつこうとな。・・・オレもまああと三百年くらい昔に生まれてれば吟遊詩人とかになってたんだろうしなあ背中にギターしょっててさ」
 
「吹奏楽器の方がいいだろう、お前の場合。語りがうるさすぎる・・・・・それより、本題に入らせてもらおうかな・・・相田、この時間に霧島の家を尋ねるのは問題ないだろうか」
 
「霧島さん?・・・・どうだろうな・・・・・・彼女も熱が下がらないらしいな・・・休みが続いてるから・・・・見舞い?」
 
「まあ、それもあるが、蔵書を借りていたのでな、読み終えたので返そうと思っていたのだが・・・」
「治って学校来た時に渡せばいいじゃんと思うんだけどな、わんこちゃんは律儀だから。それで試しに家の方に電話しても誰もでねーし。マナのオヤジさんはネルフの偉いさんだったっけか?それとも研究が大事なところでどこの誰の電話も取り次ぎ不可とかいう話ならかえって煩わしちまうってんで、こうやってケンスケに尋ねにきたわけさ。MYチャンカーなんかそゆの全然ねえんだけど、そういう人もいるからなー。てなわけで屋上でブルージーにトワイライってるメガネな彼氏を元気づけて!てメガネの彼女なマユミに頼まれたわけじゃないぞ!!わはははは!残念!スラッシュ!!これぞギターブレイド!!」
 
 
「・・・どうだったかな・・・・家でシベリアンハスキーを飼ってるとかいう話は聞いたことあるけど、実際に行ったことはないからなあ・・・・霧島さんのあの性格からしてそんな堅い家には思えないけどな・・・・・・マユミちゃんに聞けば良かったんじゃないか?」
「ああ、そうだったな。うっかりしていた・・・・・それから」
「なんでしょう、わんこちゃん」
「少しは黙れミカエル・・・・・・行こうか」
「了解。じゃなーケンスケ」
 
 
あっさりと立ち去る二人。言いたいことだけを言われたような気もするが、「もしか・・・誘われていたのか・・・・・・」そんな気もした。和式剛速球な友人が多かったせいか、外国産変化球には幻惑される。が、それもひとつ励起された頭のひっかかりに気をとられてすぐに消える。健全無垢な中学生生活を送るには、どうも気掛かりなことが多すぎる。使徒なんて謎の物体が襲来してくる街であるからこそ、素朴で単純で剛胆な線が一本、ドン、と引かれてそれなりに迷うことなくここにいることを納得も説明も出来た。
それとも、単にこの都市が「捨てられ」つつあるのか・・・ゆえに腐臭と異臭を放ち。
ここでやるべきことがすべておわった、とでもいうように、なにもいわずに自分たちの目の前から消えていったものたち。
 
 
「霧島マナ・・・・・・彼女も・・関係者では、あるよな・・・・・・」
 
 
それでいて示し合わせたようにトウジや綾波たちと同時期に休みながら「夏風邪」という説明をあっさり信じてしまい、噂にもならなかったのは・・・・・・綾波の「きて」が強烈だったせいもあるが・・・・いやいや、それはちょっと考えすぎ重箱の隅を突きすぎ穿ちすぎというものだろう・・・・。今からあの二人を追うのも・・・躊躇があった。
まあ、明日でもいいだろう。明日、霧島さんがくればその必要もないのだから。
相田ケンスケはそう考えた。
 
 
そして、その必要は、なくなった。彼が考えたのとはちがう形で。