たかが「夜のおつかい」であっても、鈴原トウジにとっては開闢の道行きだった。
 
 
 
これを成すのと成さぬのとでは、これから拓けてくる世界が違ってくるであろうことをよく承知していた。武者震い。参号機が使えるかと同時に、己が使えるかどうか、試されている。操縦に関するレクチャーのあとに赤木博士にそっと言われた。
 
「・・・彼女の方が適正は高い」のだと。そこに含まれた意味も分かる。頭で思うことがそのまま動きに反映されるという、操縦中に余計なことを考えたらどえらいことになるかもしれぬこの不思議かつ素敵な操縦システム・・・そうなるといわゆる武術マンガでよくある無我の境地にいってしまってもまずいのだろうか・・・・これをシンクロする、といっているようだが、つまりは霊感のようなものか。そうなると女の方が鋭いのは分かる。エヴァが女好きだから、という理由だったらチト許せんが。おそらくそんな感じだろう。
綾波なんかモロ霊感少女、やからな。惣流のアレも外国文化の霊感少女なんやろ。
 
 
それはともかくとして。
 
 
一応、正式なスカウトを受けたから成り行きで戦闘に巻き込まれてしかたなく使徒と戦うハメになった、とかいうわけでもない身であり、はじめのエヴァ使うての仕事がこういった運搬作業というのもまともな訓練のような感じであり各所にキッチリと、歯車がぎょうさん埋まっている時計の裏側を見たように、堅実さが伝わってくるのはありがたい。
いきなり戦え、といわれても、「戦う!」と頭で思ってもそれでは動く方のエヴァも困るやろう。ワイなら困るなー。どう戦うンかイメージできんと。銃操作をメインとしたインダクション・モード(ケンスケが聞いたら大喜びなんかなこうゆうの)ちゅうのもあるらしいけど、銃器はもたしてもろうてないし。両手に握る操縦桿も今のところ身体を固定するより気を落ち着かせるためのもんになっている。
 
 
黒いプラグスーツの下腹部にグルグルと、唸りをあげて歯軋り隠して、焦りがある。
 
 
この速度は順当なものらしい。転びもバランスも崩しもせずに、先行するロボット・・・レプレなんとか・・レプレッツェンとか外国のハードロックバンドみたいな名前だったのう・・・・それが拓いて導いてくれるルートとおりにいっている。その手際は大したものでいくら人家のない地域とはいえまともにエヴァの足で踏めばたたですまない電線やら設備やら・・・思ってもみなかった見地なのだけども、貴重だという動植物の群生地・・・・それからキャンプにきていた人間など・・・・ただ綾波の言っとったとおりにぐわんばる殿下ようにまっすぐ!まっすぐ!で行っていたらどえらいことになっていただろう。
レプレツェンはエヴァのように内部に人が乗るような造りになっていない遠隔操縦タイプであるが(そもそも戦闘用ですらない)、ルートの状況をその目で確認するために操縦者のレプレがジャイアントロボの草間大作よろしく双眼鏡を覗きながらその掌の上にいる。
関係ない人間が痛い目みるなんちゅうことは、そんな事故は一番避けたいところや・・。
 
ちょいと綾波はん、そりゃ魁しぎますがな。ワイも男やけど、塾生やないし。
 
組織のヒエラルキーからすると、閻魔の三号、鬼の二号、奴隷の一号・・・・・どれにあてはまるのかは言うまでもない。命令指示には従わねばならぬのだろう。
 
 
指揮をとってくれてはる若い割りにはなかなか偉い人らしいメガネの日向はんや赤木博士からは「なかなかいい調子だ。はじめの操縦とはとても思えない」とか「このまま集中を途切れさせないように。現状で問題もないわ」とか、まあ、この速度は順当らしい。
予想通りというか計画どおりというか。自分と参号機のペースは読めなくとも、先行する明らかにこういったルートをゆくプロフェッショナル機体であるようなレプレッツェンは細やかな進行計画をつくってそれをスケジュールどおりにこなしているのだろうから、それを追随するのであれば、作業はスムーズに進んでいる、ということになる。
 
 
 
だけれど・・・・・・・・・
 
 
この速度ではどう間違っても今夜中にルート北端、日本海など拝めそうもない。荷物を受け取って往復どころかいいんちょと交代しながらだと片道だけで朝日を迎えることになるだろう。
 
 
かといって、これを「遅い」、と自分で思うことが出来ない。目的が端的に示されているからそれに差し引きしてそう考えることが出来るだけ、というか、ちらっと頭の隅に警告ランプのようにチラチラ点滅するだけで、それがなければエヴァに自分が乗って動かしているという興奮で時間の経過などそもそも感じなかっただろう。巨人になった自分の視点、というのは、それでそのまま大地を歩むという感覚はなんともいえぬものがある。神話や伝説、おとぎ話、そういったものが自分の身に染みこんでくる感覚・・・・これをいいんちょも味わい、それを共有することができるんか・・・・・餡かけ白玉だんごに蜜が流れるように胸が時めく。まあ、フォーマットからして違う新式の情報を次々と処理していかねばならない脳みそはそれどころではなかっただろうが。つまり、鈴原トウジは特に訓練を受けていない一般人として当然のことであるが、この時点でいっぱいいっぱいであった。
 
 
 
ただ、綾波レイである。
 
 
日向マコトと同乗しながらそこから何も言ってこない張本人。ファウンダー。
もともと「すごいじゃないの!鈴原君!!交代場所まであともう少しよ、がんばって!」などというキャラクターではない。言われた日には参号機は確実に大ゴケしたであろう。
 
 
しかし、その赤い瞳がものをいう。
 
 
それでは、間に合わない、と。
 
 
鈴原トウジの脳内警告ランプと同じ赤色で。それがグルグルと下腹部に焦りを生む。
それならそうと「もっと速く」とか「走れ」とか言えばいいのだが、無言のまま。
その赤い眼光が臍下丹田に突き刺さる。女性であれば子宮にビンビンきたかもしれぬ。
鈴原トウジがもっと気楽なバカ者か猪口才なお利口さんであれば、そんなものは無視するまでもなく感じることもできなかった。だが、彼はそれを受け取る器が、器量があった。
 
 
皆が皆、道行きの往復どころか片道で時間切れになるだろう、と思っている注視ど真ん中で。使徒殲滅業界の中心で。はじめてのおつかい、などと小馬鹿にしているただ中で。
 
 
その予想を見事に裏切り、度肝も尻子玉もついでに毒気もぬいてやる。
 
人生はワンツーパンチ。三歩さがって師の影踏まずだけじゃ先には進めないこともある。
 
 
実際に綾波レイがどこまで考えているのかは誰にも分からない。最近の綾波レイは付き合いのある人間にこそ面食らわせるところが多々ある。が、大黒柱を失い崩れかけている組織を支えるにはそれは大いなるアドバンテージになる。赤木リツコ博士にさえ「小ユイ」と認めさせるほどに。弱点らしい弱点がない。それは魔弾を撃ちまくれるほどに。
 
 
けれどもツムリのような綾波者などは言うのだ。「うるおいがなくなった感じがする」と。
 
 
 
それはさておき、綾波レイは本気であり、鈴原トウジたちの気を抜かせぬために実現不可能な命題を与えていたわけではない。難しい、とか簡単だから、という区分けはない。
ただ、やれ、というのだ。それによる効果もあまり考えてないかも知れないが。
 
 
しかし、順当に進めば、時間も順当に過ぎていき、大方の予想通りにそろそろ旧足柄カントリークラブ、というところで参号機にレプレツェンから通信が入ってくる。
 
 
「スズハラ、第一交代地点が近いわよ。そろそろ着くから気を抜かずにしっかり操縦するのよ。足下に注意を払って、足の裏にも目がある感覚で、手のひらを大きくひろげてそれがアンテナになる、迷った時には立ち止まって深呼吸、この時間帯はあたしら人間の時間帯じゃないってことをくれぐれも忘れずに!あー・・・同じ事を二回も言うのは面倒だから次の子にも休憩中にでもちゃんと伝えておいてね・・・・パレルモ、日本の中学生はなかなか素直で扱いやすいじゃないの、うんうん!、良かった良かったわ、最初はどんなに生意気なクソガキを相手にするのかとそうだったらトラップでも・・・・え?通信チェンジしてない?・・・聞こえる?スズハラ・・・・・え?これ共通チャンネル?関係者全員聞いた?いや〜・・・・・・・・なんたるちあ」
 
 
「いえレプレはん、なんも聞こえてまへん。後半部分はイタリア語だったんですかー」
 
 
そんなわきゃあねえ!!という通信機の向こうでわき上がるであろう電子のつっこみをあえてセルフ消音して鈴原トウジが漢フォローをいれた。はじめてのおつかい、などと陰口叩かれるよりもこんな子供みたいなことを言われるとまだ素直に笑える。なにせ仕事じたいはプロとしかいいようのない細やかさなのだ。それにこの道行きの要所要所で言われたことは決戦兵器エヴァンゲリオンの運用とはおそらく、かなりかけ離れたことなのだろう・・・・科学の巨人が山や森の中で生きていく”作法”など。まさか巨大ロボットに乗って、寝ている鳥を起こすな、などと言われるとは思ってもみなかった。それも堂々と。
巨人は優しくないといけない。優しくない巨人をあたしを認めない、とか。ドシンと理想を。
 
 
 
そろそろ交代の時間になる。参号機専用に設えてある装甲の模様度モニタを見ると自分が操縦することを示す虎模様が出発時に比べると色も薄く四分の一ほどになっている。
この時間はカラータイマーのように一定ではないからえらく不都合なものだが、乗っている自分たちがそもそも不安定なのだろうからそれはしょうがない。時間経過でそうなるのか精神の集中度によるものかそれもよく分からない、らしい。面と向かってそういわれたわけでもないが、どうも二人で交代して乗り乗りというケースは世界初らしくデータを自分たちで蓄積していくことになるわけだが、そんなデータなんぞいらん。すぐに一人で任されるようになってみせる。いや、そうでなくてはいかん!ハーフ・チルドレンなんぞという微妙にナメた名称もすぐに返上したる。カロリーやら糖分じゃあるまいしなんでも半分にすればいいっちゅうもんやないやろ!それがかっこええ思うたらおおまちがいじゃ!!。と若者の特権で社会を断罪してみても現実は変わらない。
 
 
そして、いいんちょ洞木コダマにバトンタッチして、参号機も虎斑から光輝(洞木コダマ当人はその装甲色のご大層な漢字に照れてしまい、”きい”でいいですからと遠慮している)に変わって夜の行進を。ということになる。予定通り。
 
ここまでくれば鈴原トウジもこの運搬作業がただの動作訓練であり、本気の本気で日本海までいってくる、などと考えておるのは綾波レイ唯1人で、周辺を固める大人たちはそんなこと無理無理というわけで自分たちド素人でもこなせる順当な予定表をつくってくれている・・・・・・ことに完全に気付いている。エヴァ参号機に乗るまで、エヴァというものがどれくらいの速度がでるものやら、予想もつかぬので出来るのか出来ぬのか、そもそもその目的自体が間違っているのかどうかさえも判断がつかなかったが。
 
 
・・・まあ、それはそうやろうな。背中に翼でもしょって空でも飛べるならまだしも、二本の足で歩くのだからそんなに驚くような速度が出せるわけもない。大陸にはあるのだろう広大な砂漠か無人と知れきった荒野のような平坦な地形であるならまだしも。日本のそれは複雑だ。レプレはんという道案内がおらんかったら駆けたところで事故続発みたいなことになる。人間のものとは長さのバランスがかなり違うエヴァの手足にもまだ完全に慣れたわけでもない。参号機のそれは他の制式タイプと異なってかなり柔軟性に富んで製造されているとかいうが・・・・確かに乗っていて鈍重さを感じない、それどころかどこか抑え気味にしていないとそのままつるつると滑っていきそうな感覚がある・・・まさか足の裏にローラーやキャタピラがついているわけでもあるまい。
 
 
素人が無理して調子こかん方がええんかいな・・・・・・
こうやって一生懸命サポートしてくれるレプレはんやらいろんな人に迷惑かかるしな・・・
 
 
そうして、自分より適正の高いらしいいいんちょ洞木ヒカリが参号機に乗って自分よりも長く早く動かしたとしたら・・・・この衆人環視の中・・・・・・虎模様のクソガキよりもやはりこっちの女の子の方が使えそうだと大多数が認めることになったら・・・・
 
 
綾波レイが確約した期限の約束など、よってたかって潰されるのではあるまいか。
 
 
潰されるだろう。破棄されるだろう。どんな手段を用いても。
いかんせん・・・・・・身もだえしたくなるような話だが、ここで明らかに自分の方がパイロットに向いている、ということを示しておかねばいいんちょの気持ちも揺れるだろう。
綾波さんがやっているなら私も、向いていない鈴原に任していても危ないし・・・とか考えて、当人が「わたし、やっぱりやります」などと言い出した日にはどうしようもなくなる。
 
 
綾波がどうも無茶な計画だったらしい、こんなことを言い出したのも、「なんとかやってみせて、周囲にあなたをみとめさせてみなさい」ということだったのではないか。
かなりスパルタンだが。
 
 
それはわかっているのだが・・・・・・・具体的にどうすればいいのか・・・・・・
 
相談する相手もおらず、自分で判断を下すしかない。いやさ、決断するしかない。
 
保護の網を食い破ってでも己の身をさらして得物をゲットして認めさせるか。
 
 
しかし、電源もそろそろ底をつきかけている。エヴァというのはもともと電源ケーブルをつないで電力を外部から補給しながら動かすものだという。そうなるとこういった基地となる都市を離れての遠征はますます無茶、滅茶苦茶なわけだが意を唱えても遅すぎる。
エネルギーは根性や気合いではどうしようもない。それが尽きれば止まるのだ。
交代場所を止まらずにそのまま通り過ぎても・・・・途中でガス欠だ。不様ではすまない。
それはチームを、組織のことなどまだわからんからそう呼ぶ、裏切ること。
信頼やら信用など、まだそのようなもの、あろうはずもない。
決められた枠内で動くことを、それだけを信じられている。約束事。それさえも。
 
 
鈴原トウジの目が動く。その目の先には、レプレツェンが。
 
 
念のため先行誘導するレプレツェンはエヴァ用の簡易型のバッテリーをひとつ、持っている。
 
 
それをとりあげて、くっつけて、日本海までいけるか・・・・・・・・・・・
 
 
ひどく唐突に、簡単に思い浮かんだ、なんともひどい考えに自分で驚く鈴原トウジ。
その速度。「そんなこと無断でいきなりしたら手のひらに乗ってるだけのレプレはんが驚いて落っこちるかもしれん」とか「あくまであれは簡易型。今つけている本式の外付けバッテリーより容量も落ちるし簡単な算数でも分かる。とても最後までいける代物じゃない」とかいう全く平常な考えはそれよりもだいぶ遅れていた。
 
自分のどこから飛んできたのか、その考えは。
 
その考えとシンクロして、参号機の指先がピクリと動いた。
 
刹那に展開された曼荼羅絵のようなその緻密豪華な感覚に驚く。
指先の触感がおばけヒマワリのように咲いた、奇妙なフィードバック。
 
 
・・・・それら全て前のパイロットのものなのだろうか。
 
今、気付いた。操縦席にその気配がまだ残っている・・・・参号機を乗りこなし完全に使いこなしていた正パイロットの残り香・・・・・ここは、ほんとうは自分たちのような素人が収まっていい場所ではない・・・・・・そう思った。畏れをともなう、悟り。
ふいに、深い土の底に埋められたような息苦しさを感じる。同時にLCLに満たされているはずの空間から強い土の匂い。土牢。時代劇にも登場しないような単語が浮かぶ。
 
 
「痛っ・・!」
手のひらに鋭いもので刺されたような痛みの感覚が走る。
 
操縦桿から続けて伝えられたのは錆びた匂い。
 
ぞろぞわ。ぞろぞわ。腕を這い上がってくるのは古びた幻聴。「まだ生きているのかこの双子」「天主様の精・・いや聖餅は確かに効くらしいな」「ではお主も頂いてみるかよ」「真っ平御免蒙るわ。このように土に埋められて不死もあるまい」「それにしても土臭いところよ。お役目とはいいこう度々の見回りもかなわぬな・・・なあ」「まあ、それはな。しかし仕方がなかろうお役目なのだ」「不便な場所であるからな。空気も乾いている・・・そうだ、水をくれてやろう。それくらいしてやってもよかろう慈悲よ慈悲。天主様には及ばぬがこれも天に仕える我らの慈悲よ」「糖の混じった慈悲などあるか」「そう、凡人の甘い慈悲よ」「魔の誘惑であった方がよほどにこやつらにはよかろうがな」
 
 
ぞわ
 
 
幻聴とはいえそのまま意識を塗りつぶされる強さ。闇。闇というのはこういうものか。完全に自分の視野が死んでいた。しかもそれは自分で覚醒したわけでもない、ただその幻聴がそこで終わりであったから、テープがそこで途絶えたから自分が戻ってきたにすぎない。
 
 
自分が全身を逆立てたハリネズミにでもなったような気がする鈴原トウジ。
それは圧倒的で、不快感、などという異議が申し立てられる余地など全くない。
影が響くとはよくいったものだ。それがかくも大音響のものであるなど知らなかった。
 
 
「おーい、スズハラ。今言ったのにもう気が抜けてんの?それともアンタの方がもう電池切れ?そういうことならこのレプレさんが肩貸してあげるけど・・・・・大丈夫だよね?」
「鈴原君、乗り物酔いのような感覚がある?それから、呼吸をしなさい。息が止まっているわ」
 
 
意識が飛んでいたのだから当然の如く、参号機の足も止まっていたらしい。順当なペースできているのが交代地点を目前にして停止したから関係者は全員イヤな予感がしただろう。まさか子供のようにもう疲れたから一歩も歩けない、とかいうのではなかろうが。
もともと、パイロットとは言いつつ、なんでエヴァが認証してシンクロして起動させることができたのか今ひとつよく分からない、納得いかない素人さんではあるのだ。考えようとすればいくらでも不安要素をあげることはできる。
 
 
「・・・・・」
すぐに、問題ありまへん、ちょっと気が抜けとりました、すんません。足がカユくて。
 
などとレプレや赤木博士らに返答できない鈴原トウジ。幻聴の残響がまだ身体の内にある。
 
別人の記憶が蠢く。歩こう、先に進まねばならない、と頭では分かっているのだが、いきなりの異常事態にパニックをおこしかけているのを抑えるだけで精一杯。実のところ、このような怪奇現象に襲われて、悲鳴を上げて逃げ出したかった。安全であるはずの我が街、第三新東京市に。まわれ右して参号機が来た道を駆けていってもシンクロ率的にはおかしくなかった。しかし、こないなことは誰にも、言えたものではない。いきなり「おかしな声が聞こえてきました」などといえばそこでパイロット失格の烙印を押されるに決まっている。そんなやつにエヴァなど預けられるわけない。しかし、足が動かない。
科学万能の絡繰りだと信じていたものに、露骨なまでの魔性が住み着いていたなどと。
 
 
 
 
「鈴原君」
 
 
そこに、綾波レイの声が英霊の棘槍のように鈴原トウジの心臓に突き刺さる。
その無情な響きは、どう好意的に解釈したとて「弱者は死ね」としか聞こえない。
碇ゲンドウでさえもうちょっと遠慮があったであろう、無慈悲な吸血女王の冷声。
当人は、おおとりゲンを叱咤するモロボシ・ダンのようなつもりでいるのだが。
日向マコトを筆頭に察しのつきそうな人間もいないでもないのだが、そんな人間の耳をもってしても全然、そのように聞こえないのが不幸であった。
 
 
鈴原トウジはこの年代の少年にしてはなかなかの器量をもってはいるが、さすがに限界がある。この怪奇現象に合理的な(でなくてもいいからとにかく)説明をつけてくれそうな綾波レイがこのような突き放すどころか突き刺すような物言いをしたことにムカっ腹が立つ、文学的にいうと憎悪を覚えた、としても無理はなかろう。思ってもみなかったところからの脅威、背後からの恐怖というのはどうしても人間を縮こまらせて小さくする。
これを笑える完全人間は頭を丸めて出家するしかあるまい。
 
 
 
「なんやねん!!なんやっちゅうねん!!」
 
 
と強く言い返しそうになった鈴原トウジだが、その時、奇妙なものを見て口が止まる。
 
 
「おーい、ほんとに調子悪くなったのかスズハラ」様子を見にきたのかこちらに戻ってくるレプレツェンの手のひらの上から心配げにこちらを見るレプレと・・・いや、それはいい、感情表現がストレートでほんとに心配げなその顔に恐縮してしまうが、それは奇妙ではない。奇妙なものはレプレツェンの頭の上に「いた」。
 
 
 
それは、二匹の猫。
 
 
 
片方のデブ猫は見覚えがある。忘れようがない。なんせ話したこともあるのだ。
マサムネ。その姿を見るだけで腹に溜め込んでいたものが、凍りかけた背筋が、血の昇りかけた頭が、バカバカしくなる。「はあ?なんでオノレが・・・」プチつっこみで一息つくと、どれだけ心も体もガチガチになっていたのか、分かる。
 
 
そして、もう一匹。これは見たことがない。赤茶色で胸のあたりに白と黒の紋章のような斑毛が・・・・・って、なんでそんな細かいところまで見えるのかというと、指示した覚えもないのに、参号機のモニターが自動的にそれら二匹の猫をズームにしていたのだ。
その細かい表情、瞳の様子まで見えるくらいに。万事無神経なデブ猫がロボットの頭の上にいても平然としているのはわからんでもないが、この猫もそれを考えるとたいそうなタマだ。レプレはそれに気付いている様子ではない。いくら静かな機動が売りのレプレツェンとはいえ、その頭の上に猫など。レプレの飼い猫などでは当然ない。いつのまにか、どうやってか、この二匹の猫はロボットの頭の上に陣取って、こちらを眺めている。
 
 
奇妙な光景。
 
 
なんでこんなところに、猫が。参号機と向かい合っているのか。迷い猫を拾ったとしてもそんなところに置いたりするまい。猫たちは、猫は、確かに自分の意思でそこにいる。
 
 
もしや、それは猫の霊かなにかではないか。十分に気をつけたつもりでも、いやさ意識が飛んでいる間の不注意で、そこらにあった「猫の霊を慰める塚」かなにかを踏み壊してしまったとか。一説によると、幽霊が出て、それを怖がって逃げ出すのがホラーであり、それとお友達になるのがファンタジーで、それを捕獲して研究するのがSFだという。
だとすれば、どう対応すればよいのだろうか・・・・・
少しひっかかるのが、マサムネがいることだ。あれは長生きしそうだが、食うことしか興味がなく自分に会いにこんなところにくるようなかわいげなど一ミリもないはず。
たとえ霊になったとしても。そういうやつだ。もともと半分化け猫みたいなやつだった。
 
 
「あれは・・・・」
わずかに息をのんだらしい綾波レイの声。通信上のそれは聞こえるはずもないが、それが
聞こえたかのように満足げな笑みを浮かべた赤茶色の猫が、
 
 
アーーーーーーーーーーーーーーーーンンン
 
 
高らかに啼いた。たかが猫から放たれたそれは夜天を裂き巨大な虎児を震わせた。その中にある子供の背にこびりついた古錆をあっさりと吹き飛ばすと世界の果てにある風の源まで届いたそれは、しばらくもせぬうちに黒い旋風を呼んだ。風は仙宝の外套のように魔を導く大戦旗のように参号機を包むとそれを連れ去った。かのように見えた。
 
 
実際は、参号機が自分で駆けていっただけの話なのだがその速度が尋常なものではなかった。薄くなり始めた虎模様を黒々と染め直しすれ違いざまにレプレツェンのもつ簡易バッテリーを気付かせもせずにスリ取り、麒麟のように足下の草花ひとつ踏みつぶすことのない絶対の軽やかさでもって疾走して一分後には孫悟空のように東名高速道路跡を飛び越えて三分後には丹沢湖上をバジリスク行者のように走り去っていたのだから、確かにそれを認識できていたのはヘリからの天視線をもつ日向マコトと綾波レイくらいしかいなかった。レプレなどいきなり目の前から参号機が消えたので驚いたなどというものではなかった。ストレートな感情表現そのままで頭上の猫にも負けぬようなでかい悲鳴をあげた・・・・
 
 
そして、そのままあれよあれよのいくよくるよで、折り返し地点まで到着してしまった。
 
 
 
「え?」
交代を待っていた洞木ヒカリもびっくりである。