「あなたには、特訓をしてもらうわ・・・・このままだと、あなたは」
 
 
最後までいわないので余計にこわい綾波レイに鈴原トウジが連れてこられたのは、本部からかなりいった、目隠しこそされなかったものの、ここがどこか判別土地勘の働きにくい、山の中。
 
いかにも行者がやってきて浴びそうな滝がある、つまりは他に人気が無く茶屋など設備もなく景観にはむいていない・・・・・俗世から切り離された、何事かを磨き極めようと修行する者にのみふさわしい孤高への階段一段目、といったところか。・・ちょっといけばそこらがうち捨てられた元観光地であったことがすぐに知れたりする。
 
 
それはいいのだが・・・・、これもどうも(またしても)綾波レイの独断専行らしく、乗せられた車はネルフの黒塗り車ではなく大きなリュックを五つ載せたレンタカーワゴン。しかも運転しているのは瞳の赤い、明らかに非ネルフ関係者ときている。一瞬、ワイはもしかして誘拐されとるんやないやろな?と自分の立脚地点を見失いそうになるが、すぐにそれを確かめる鈴原トウジ。なんのために、こんなところにきているのか。忘れたならとても耐えられぬような、激しい特訓がこれから始まるのであろう。一切の説明をせぬまま自分をここに連れてきた綾波レイからは、前しか見てはいけない、うしろをみたが最後・・・ほら、といったホラーなオーラが出ておりうかつに声などかけられるはずもない。なんにせよ、エヴァに乗って生きていこうと思えば、その言うことに従いその背中についていくしかないわけだが。今のところ。
 
その揺るぎない赤い瞳が導くままに・・・
 
 
行けるところまでは車でいったものの、途中はリュックを背負っての歩きとなる。主人格の綾波レイと一番年かさの男ふたりを除いて背負うのだが、どういうわけか若い女が外見に似合わぬ腕力を発揮して軽々と二個背負って、残りの三個を一人づつ。鈴原トウジとチンピラ風の若い男ふたりで、ふうふう汗かきながら道無き道をゆく。先頭が若い女でリュックの他に軽々と長い槍など振り回して恐ろしいほどの鮮やかな手並みで邪魔な草群や木の根を刈ってしまう・・・そのおかげで楽といえば楽だった。こんなもんが特訓などではないことは分かるが・・・やりたくない労働をやらされていかにも不平が耐えなさそうなチンピラの兄貴分と目があったりする。が、ぷい、と向こうはそらしてしまう。てめえのせいだ、とメンチのひとつでも切られるかと思ったりもしたのだが、その理由はあとで分かった。あれは、したくもない同情をつい覚えてしまった人間のやるリアクション。
 
 
そして、滝場にでた。大自然の雄大さや荘厳さを感じられるほど大きなものではない。
水の幅は大人3人分くらい。落差も10メートル程度であろうか。
 
 
綾波レイの足がそこで止まり、振り返って鈴原トウジを見たのだからここが目的地、特訓の場所ということなのだろう。失われた人の野生を呼び覚ます、魂を磨き直す中国の奥地、仙人がすまうような深山幽谷、怪獣が闊歩するギアナ高地とは言わない。何をすればいいのかは分からないが、この適度な人のなさは自分にはちょうどいいだろう、と思ったのは甘かった。どさどさどさ、とリュックが無造作に下ろされてここでおさらばだと知らされて。
 
 
 
「この滝の落水を”切れる”ようになるまで・・・・・・あなたは参号機に乗らなくていいから」
 
 
綾波レイはとんでもないことを言い出した。
 
 
 
「はあ!?なんやて?」
 
 
鈴原トウジとてこんな、人によっては暑苦しいとさえいわれる、黒ジャージに身を包んでいる以上、世の中に「スポ根」なるものが今も存在することを信じている方であるが、こんな思い切り科学を無視したかたちで、厳然としかも自分の目の前に飛び出してくるとは思ってもみなかった。こんなこといわれるくらいならまだ「ツチノコもしくはヒバゴンをつかまえてこい」と言われた方がましだった。こういうのはスポ根ならぬオカルト根性でオカ根とでもいうべきか?とにかくこれが、いわゆる嫌がらせ、遠回しなギブアップを迫っているわけでは全くない、というのがおそろしい。全くの正気にして本気。
 
 
綾波レイはこんなことを、真剣に言っている。いわゆるマジと書いて大真面目。
 
 
周りの男たちは微妙によそを見ている。少年を直視しようとしない。
 
綾波レイとその隣にいる槍の女だけが「やれ。ほんとにこれをやれ」という目で。
テキトーなとんちなどで切り抜けることなど断じて許さない目で。
意地悪でも虐めでもなんでもない、純粋な必要性だけを思考する目で。
 
 
だが、反論はせねばなるまい。
 
 
妙に重たくガチャガチャしたリュックにはおそらくここでキャンプ生活を送れるような軍隊系のグッズが入っているに違いない。いやいや、水はあるから死にはせんだろう、と無茶なことを考えられている可能性だってある。ちなみに携帯などは取り上げられることはなかったが、ちょいちょいとチンピラの太めのほうに手を加えられて「綾波レイからの受信専用」にされていた。特訓となればホイホイ外部と話していては精神の集中が乱れようというものだが・・・・・これって無茶苦茶ほかの者に心配かけんか?
 
 
滝の水なんぞ特撮の力でも借りん限り十年修行しても切れそうにない。当然、その間参号機に乗るのはいいんちょ、洞木ヒカリ、ということになる。
 
・・・・なんともタチの悪いことに、これを告げたのが綾波レイ以外の人間であるならこれはもう怒るしかない騙しであり詐欺であるが、綾波レイがそう告げた以上、ほんとにこれをやらねば、自分は参号機に乗れなくなる。これは、絶対の事実。
 
 
だが・・・・
 
 
どういうつもりで、参号機に乗ることと、この滝の水を切るなどという常人には不可能な無茶が繋がるようになったのか。言うちゃ悪いが他のエヴァのパイロットにそんなことが出来る奴がいたとでもいうのか。そもそも、綾波自身がそんな真似ができるんか。
 
 
あの運搬作業で知ったことがある。綾波レイはその外見から要求に応じて機械のようにひとつひとつの事象を組み上げて、周囲の意思も乱れることなく取り込み結晶化させてしまう・・・ような奴かと思いきや、どうもさらにあらず。
 
どうも・・・かなり視野が狭いのではないか。
 
思いこみが強すぎるというか・・・・何か間違った情報でも修正かけずに平然とそのまま信じ込んでいるような・・・・ところが多分にあるのではないか。天才の突飛な閃きとかでこの手のことを考えたならまだ救いも対応策もあるのだが。なんとしてもそれを実現するべく、手を打っていたりするからまた困ることになるのだ。
 
 
「ちいと教えてくれや、綾波。滝の水を切るのと、エヴァの操縦とどう関係あんねん」
 
 
まあ、まともに、常人のスタート地点から考えるなら、これはいわゆる「ほとぼりをさます」つもりの、先の事件で両極端な評価を得てしまった鈴原トウジを、当人もしばし本部内には居にくいであろうからその感情も考慮に入れて・・・良くも悪くも使徒殲滅業界注目必至の風雲児を城から弾きだして周囲の者の熱を冷まそうという計略・・・・ではないか。使徒に対するパイロットの「野外特訓」などと・・・・今さら少々ケンカのやり方がうまくなったからといって泥縄もいいところ・・・とても本気、正気の沙汰とは思えない、そのあまりの嘘くささ、造りもののやらせめいた匂いに鼻の効く追求者たちも呆れて離れていくやも・・・・本命はやはり零号機、綾波レイであるのだと。
 
 
だが、その綾波レイがはっきりと明言した。
 
 
「直接は関係がない。・・・・・・ただ、使徒を倒すのに必要になるだけ。これができなければ、次の使徒は、倒せない」
 
 
綾波レイにしては長いセリフであるが、言葉が足らなすぎる。過程をぶっとばしてただ厳然とした結論だけがある。くどい説明は人を動かす力にかえって欠けるきらいがあるが、これでは全然分かるはずがない。が、鈴原トウジはそれを受け入れるしかない。目の前の相手が本気であること”だけ”が分かるのが逆につらい。
 
 
「・・・・なんやて・・・・・・マジなんか・・・・・・」
 
 
よくは分からないが、ここの滝の水を切れるようにならないと、参号機に乗って使徒と戦っても返り討ちにあうだけだから、あなたには乗らせないのだと。しかも、次の使徒、とわざわざ言うあたり、綾波もさすがに相当考えている、戦いを経験してきた者だけが得る知恵、身体でしか悟れぬ理解のようなものがあるんかいのう、と口には出さないが、そばに控えている綾波党の者もおどろくほどの好意的な見方をしている鈴原トウジであった。彼らも「うわ、無茶なことやらすぜ」と内心考えていたのに。まあ、それだけ悲嘆に暮れることになるのだが。笑うしかないのだが笑えないこんな時。
 
 
だが、この時点で綾波レイが腹の底で考えていることは政治でも人情でもなく、空々しいほどにあっさりとしたコーチングメニューであり、参号機と新パイロットの組み合わせの効率化だった。早い話が、鈴原トウジが駆る参号機をいかに強くしてやるか、ということだけ。複雑なことは何もなく、それは使徒殲滅業界の掟を守らせることだった。あなたはもうあなただけのものではない、あなただけの国の王ではいられなくなった・・ちまちまとした世界の収集も終えなさい・・・・そんな、烙印を押す、と言い換えてもいい。
 
 
そんな、滝の水を切れ、などという遠回りで抽象的な言い方をせずにズバッというてしまえばいいものを。やることはこれ以上なくズバなくせに。まさに綾ズバ。
大リーグボール養成ギブス!!のような端的な分かりやすさが欲しかった。
 
が、説明したからといってその習得が早くなったり保証されるわけでもなかったから、綾波レイのそんな態度もあながち間違っているともいえなかった。
 
 
「当面、必要なものは荷物の中に入っていると思うから・・・・・・・それじゃ」
 
 
この山から降りるの絶対禁止、などとは綾波レイは言わなかったがその背中は。
技が完成するまで戻ってくるな、と厳しく突き放す武道の師匠のそれであり。
鈴原トウジはそれ以上・・・・・・・何も、言えなかったわけで・・・・・・・
 
 
 
しばらく、立ち尽くしていると・・・・・・・なぜか、綾波レイたちが戻ってきた。
 
 
「言い忘れたけど・・・・・・」
 
 
「なんやねん」
悪い予感がした。悪い予感しかしなかった。まさかここで「実はうそだぴょん!。滝を切れなんて時代劇じゃあるまいし、ムリムリ!さあ、山の空気吸って気も晴れたろうし帰ろう」などと言うはずがない。鈴原トウジは何を言われても耐えられるように足を根にする。
 
さあこいや!綾波、滝を切れ、の次は時をかけろか?天国に一番近い島で遠泳か?セーラー服着て機関銃をぶっぱなすんか?・・・・さあこいやあっ!!泣いてたまるかあ!!
 
 
「コーチをやとっているから。そのうち現れると思う・・・・・特訓は、彼女の指示に従って」
 
 
・・・・・これや。鈴原トウジは思った。どこから連れてきたんか知らんが、コーチやと。
綾波が指名したくらいやから、そのコーチも相当なものやろう。何も知らんワイもワイやが、話を聞いて断りもせずに引き受けた時点でそいつも同類に違いあるまい。しかし、滝の水を切るなんぞ、少年漫画か特撮時代劇の中だけの話だと思っていたが、人のコーチをやろうというのだから、その当人は当然、滝の水を、切れるのだろう・・・・・・なあ。
世界は広いからもしかして、数人くらいはそんなことが出来る人間もいるかも、しれぬ。
 
 
しかし・・・・・・そうなると、そのコーチの分も入っているのだろうか?この荷物。
ここから逃げぬように尽きっきりでゴリラのような胸筋とアナコンダのような二の腕と人食いカマキリのような手刀をもった瞬発力と気合いで練り上げたようなおそらく脳まで筋肉なコーチとここで。
甘いものとか酒とかは飲みそうにないが、辛いものや塩気の強いものは大量に食いそうだ。肉を食わないと禁断症状が起きるとか。・・・・・いや、待てよ?彼女、てことは・・・
 
 
薙刀持った般若の姿が思い浮かんだ。
 
 
・・・・・とりあえず、リュックの中身の点検からいくとしょうか・・・・・
 
 
それとも、そのコーチとやらが出現する前にバックれてまうか・・・・・・
 
チラ、とそのようなことを考えなかったといえば嘘になる、というか大いに。が、
 
いやいや、それはできん。そのコーチはんも、ある意味、綾波の犠牲者なのやから。
逃げた途端に薙刀で首をズバリ、とかやられた日にはかなわんし。
困りながらもパニックにだけはならないあたり、鈴原トウジ、ただ者ではない。
 
 
「・・・・うわ、なんでそうめん流し器なんか入っとるんや・・・そうめん自体は入っとらんし・・・・おまけに、なんや爆弾でも破壊不可能な感じのこのやたらゴツい目覚まし時計は・・・・しかも電源、コード式やんけ・・・・燃えよドラゴン・・・?映画のポスターか・・・・?どこに貼れっちゅうんや・・・・・安全カミソリの箱セット・・・いつまでここにおれっちゅうんじゃ!!使いきれるかい!この花火のセットもなんやねん!おまけにロウソクはバースデーケーキより小ちゃくてマッチはついとらん・・・・・」
 
あのリュック二つ運んだ若い女の分から始めてみると、愕然とする鈴原トウジ。
 
自前発電するわけでもない電気ポッドなども入っていてさぞ重かっただろう荷物には保存食など生活必需関連物資が全く入っていない。鈴原トウジがあまりに悲惨であるから詳細は省くが、二つ目も似たようなものであった。よほど鈴原トウジに恨み骨髄であったのが今こそ晴らすチャンス!という感じの無駄無駄役立たずチョイスであった。
 
「虫かごに標本採集セット・・・・小学生の夏休みセットかいな・・・・」
二つ目も同じようなものであり。
 
悪意というより、そもそも荷物を積めた人間のセンスに問題があるのかもしれない。
遊びにきた、というのなら笑ってすませられるアイテム群ではあるのだ。
 
 
諦めて、チンピラ風の男の兄貴分の方のリュックを開放、あまり期待していなかったが、こちらのほうはいかにもまともでキャンプに必要なものがコンパクトに用心深くまとめられており、道具の使い方ハンドブックに石川球太の冒険手帳まで入っている。
 
・・・・そして、リュックの底の方に気付くかどうか微妙な位置に走り書きのようなメモがあり、「逃げタくナッタら午後八時ちょウどにこのペンシル花火を打チ上げろ・・・・今ノ後継者にまトモにつきアってたら身体がいクラあってもたリネエぞ!」とある。もう一枚、こちらは余裕の筆書きでさらさらと短冊。誰の手なのかはなんとなく見当が。
 
「れい殿に逆らうべからず・・・・なれど、盲従するべからず・・・・身を滅ぼす」
どういうことなのか判断に迷うが、どうも文面に滲むのは男の同情であるような・・・
どうせならこの無茶な指令を諫めてくれればいいのだが、そうもいかない事情があるのだろう。というか、今の綾波に面と向かって逆らえる奴が世界でもどのくらいいるか・・・
 
それにしても、綾波の奴、あれでお嬢様なんやな・・・・複雑な事情がありそうや・・。
 
 
続いてチンピラ弟分のリュックを開放、こちらに保存食がつめられており、自分のものにはトイレットペーパーだのタオルだの燃料だの道着だの一歩間違えるとカチカチ山になりそうな・・・・「道着?・・・・・・うわ、ネルフのロゴ入りやんけ・・・・・」まさしく特訓。やはり聞き違えでも何か深遠な考えがあったりこちらの誤解でもなんでもなく、自分はここで特訓に勤しまねばならぬらしい。滝の水を切るなどという・・・・・・
無茶苦茶やな・・・・・・気分は悪戯がすぎてお釈迦様の力で五行山に監禁される孫悟空。まあ、五百年も修行期間があれば出来なくもないやろうが・・・・・・
 
 
もうしばらく黄昏れていたかった鈴原トウジ・・・・・・いいんちょ、今頃なにしとんのやろ・・・・少しだけそのような癒しを求めても仕方がないであろう。しかし
 
 
 
 
「もう、始めているかと思ったが・・・・・」
 
 
背後からいきなり声がした。綾波レイたちとは異なる、年の頃は若そうなのだがやけに落ち着き払った・・・・女の声。着物姿で薙刀構えた般若のイメージが鈴原トウジを即座に振り返らせる!そこにいたのは・・・・・・
 
 
女忍者だった。
 
 
忍者の格好をした・・・・若い女、おまけに鈴原トウジはそんな昔のマンガは知らないが、「忍者ハットリ君」の許嫁の「ツバメ」のお面をかぶって顔を隠している・・・・・
 
ある意味、鈴原トウジの予感は間違っていなかった。異常さでいえばこちらが上。
ご丁寧に背中に忍者刀を斜めに背負っている。草鞋であるし。「荷物の確認とはなかなか落ち着いているな・・・・聞いていたのと少し、違うか・・・」
 
 
「は・・・・・あ、あんたがコーチの方・・・・・・でっか・・・・・・・?」
 
 
これ以上、呼ばれもせんのに人間がやってくるとは思えない。しかもこのナリ。となると
 
 
「・・・そうだ。私が君の特訓の見届け役となる、名は・・・・・・エコーとでも呼べ」
 
 
女忍者は頷いた。滝切りだの忍者だの・・・・タイムスリップしてしまったような気がしてたまらん鈴原トウジ。べつにこのへんにはラベンダーも咲いていないのに。
 
 
「え、回向はんですか・・・・・なんか坊さんみたいな名前ですな」
ちなみに回向(えこう)とは死んだ人のためにお経を読んで供養することである。
 
 
「いや、日本語ではなく外来語、カタカナのエコーだ。コードネームとでも思ってくれればいい。・・・・もしかして、君は私が好きでこんな格好をしていると思っていないか」
 
 
「ち、違うんでっか」
 
 
「君の疑念を払拭するために正直に話すが、違う。役目であるから仕方なくこの装束に身をまとっているというだけの話で、中身はまっとうな現代人であるから心配無用だ・・・・それから、私の名についてはこれ以上詮索せぬように」
 
 
「は、はあ・・・・」
お面などつけていても、その奥にある眼光は鋭く、言葉にも実力に裏打ちされた重みがあり圧倒される鈴原トウジ。どうも・・・正体不明だが、逆らわない方がいいようだ・・・
 
 
「しかも、水に濡れてもすぐに乾く。足を滑らせて溺れてもすぐに助けよう。それより、君はその格好で修行に望む気か・・・・・道着にでも着替えた方が精神の切り替えが出来ていいぞ」
言うことはそれなりに的確でまともだ。脳まで筋肉というわけではないらしい。・・・しかし、そういう実践派のコーチを派遣してきた、ということはワイはホンマに滝を切れるようにならんと帰れんのか・・・・・・・ある意味安心、その反面愕然となる鈴原トウジ。
 
 
「・・・いえ、このままでエエです。この日のためにワイは今までこの暑いのにこんな格好をし続けとったような気もしてきましたです・・・・・」
無駄な力みがぬけている、というか、己が突如叩き落とされた崖のあまりの深さにうち拉がれている。とぼとぼと滝の方へ捨てられた案山子のように歩いていく。
 
 
「ふむ・・・・」
その煤け気味の背中から彼の力量を読み取る女忍者エコー、こと、洞木コダマ。
 
綾波レイからいきなり鈴原トウジの特訓のコーチを頼まれた。
 
「滝を切れるように」と。・・・・・なんともでたらめでアナクロ。だが、そうでなければ断るところであるし、そうであるからこそヘタに他の者に任せるわけにもいかなかった。
 
 
妹ヒカリのパートナーであるところの鈴原トウジ・・・・・・
 
 
先の夜間運搬作業では参号機で皆が驚く走破性能を見せつけながらも使徒に出くわし、運搬物を落としてしまうという大ポカもやってくれたデンジャラスボウイ。
 
特殊な背後関係もなく、その身体能力も同世代の平均からは優れているがあくまで常人のレベルにある。洞木コダマが今その気になれば、気付かれもせずに背後から首の骨をペキリとやれる。少し殺気を送り込んでみる・・・・・・が、反応無し。完全にこっちを信頼しきっているのか鈍いのか。こういった警戒心は教えにくい。おそらく、妹と同じくこの少年も陽性の気質なのだろう。まあ、それはそれでいいのだが・・・・
 
 
「てりゃー」
「うりゃー」
なんか適当な気合いとともにジャージ少年が手刀を滝の落水にふるっているが、無駄な体力消費なだけで武術の鍛錬にもなっていない。基礎もなっていない相手をどう鍛えてどのようにコーチしようと滝の水なんか切れるわけがない。
 
 
というか、自分だって滝の水なんか切れないし。綾波レイが何を期待して自分を指名してきたのか今ひとつよく分からないが、滝の水など切れるわけがない。あの師匠兄妹ならやるかもしれないが、自分には出来ない。それでよく引き受けたな、と言われそうだが。
 
少なくとも、コーチ役に指名したのは発案者の綾波レイである以上、多少の防波堤にはなれるだろう、という意味と、諜報三課としてパイロットの護衛は通常業務であることと、そして、鈴原トウジ、彼に興味があったからである。詳しく知るには絶好の機会であったが、かといってこちらのことを知られててもまずい。直でヒカリに知られてしまう。
 
というわけで、この滝からすぐ近くの廃棄された元・山の学校を基地局に(三課夏の陣ですね!などと山彦などはほざいていたが)した諜報三課の面々は自分が行ったあとでさんざん笑っているのだろうが、このような忍者装束で誤魔化すとする。歳もさほど違わぬ以上、顔をさらさぬ方が無用な軋轢や衝突を防げるだろう、という計算もある。このような謎な特訓を命じられて鈴原トウジはさぞカッカきて早々に滝と格闘しているものかと思っていた。割りには荷物のチェックなど随分、落ち着いている。諦観かもしれぬが。
 
 
まあ、滝を切る、などという行為はあくまで目くらまし、という可能性が高い。
 
77%、89%、もしかしたら99%、まるで高機能性チョコのカカオ含有率のように。
誰もまともには受け取ってはくれぬだろう。ただの戦闘訓練なら本部内でやればいい。
だが、参号機とこうやって物理的距離をとって離れてしまえば傍目にはどう映るか。
 
 
東方剣主・幻世簫海雨なる長大な武装を走失してしまったことに対する懲罰・・・・
 
使徒からは戦闘することなく逃亡し、挙げ句の果てのそのミスに対して綾波レイは激怒しているのではないか・・・・・表面上、決して窺わせないが。そのように考えても不思議ではない。内実を知らず結果のみをみて判断すればその方が妥当であろう。
 
 
「いらなくなった」パイロットであるから、あなたたちヒマそうな諜報三課で護衛のまねごとでもしてせいぜいうざったい業界の目を誤魔化して頂戴・・・・・・もし、洞木コダマが護衛専任のプロならばそのように受け取っただろう。・・・滝の水を切るなどと。
 
 
だが・・・・
 
 
洞木コダマの中で息づく武術の天性がそのことに関してずっと思考し続けている。
その一聞きしただけではなんとも嘘っぽい題目に、金剛石のごとく強固な意図を感じる。
見抜けたわけではない。今はまだ感じるだけだ。落水から喝破すべきはそれ。
無理の無駄と一刀両断してしまわずに。手元に抱いて磨き舐めるようにしてそのことを。
 
ちなみに洞木コダマは鍛錬マニアの修行大好き人間ではない。二重生活を送らねばならぬ以上、効率化が至上の課題であった。・・・・結果を、出さねばならぬのだから。
己の身体で。そして、脳みそも、それに当然含まれる。今回はそちらをよく使わねば。
それと、声。己の手足で滝を切り裂くことが目的ではないのだから。
 
 
 
滝の水を切る、という無茶と
 
 
エヴァ参号機を素人が操縦して、使徒という怪物に勝つ、という出鱈目が、
 
 
どう結びつくのか。それを考えて鈴原トウジに伝えてやらねばならない。
 
 
どうせ綾波レイはそのあたりの説明など一切していないのだろう。彼の目を見れば分かる。
 
・・・それなのに、よく付き合うもんだねえ・・・・・・お姉さん、感心しちゃうよ。
 
もしかして、彼は綾波レイのことを・・・・・・・・うむむ・・・・・・確かにそれくらいのことでもなければ逃げてしまうだろう。いくら高レベルの克己心をもっていようと人質をとられているわけでもなくこうも言いなりにはなれぬはず。しばらく考える・・・と。
 
 
 
 
「どないでしょうか・・・・ワイの滝切りは」
 
 
鈴原トウジが目の前にやって来ていた。休憩もいれずにひたすら切っていたのは大したものだが、人間、自分で出来ないと思っていることは出来ないものなのだ。最初にコーチにトレーニング方針なりを聞いてから励んだ方が時間の節約になるだろう。
 
 
「そうだなー・・・・・無心具合がなかなか良かった。この調子で無心に頑張ればなにか悟ることもあるだろう・・・・・が、上半身は脱いだ方が良くないか。まさかウェットスーツ仕様になっているわけでもないんだろう?私に遠慮はいらないぞ。筋肉の流れが見やすくてそちらの方が都合がいい」
 
 
外からすると座禅でも組んでどこぞの殿様の暗殺計画でも練っているような感じであったが、言うことはずいぶんサバサバとして、見てないようで見ている。鈴原トウジがこの滝に向かいながら考えていたことといえば、切り方よりも濡れたジャージの厄介さについてであり、女の目さえなければもう海パンにでも着替えてやりたいところであった。
 
 
「はあ・・・」
内心を射抜かれたことで信頼が増してかえって警戒と遠慮が失せる。こないな忍者コスプレ女に聞くのは可哀想かと思って控えていた「当然の質問」を発動させることした鈴原トウジ。ジャージの上半身を脱いで絞りながら、問う。
 
 
 
「それで・・・・・滝っちゅうのは・・・ホンマに切れるもんなんですか」
 
 
要するに、コーチ役たるあんさんは当然、切ったことがあるんでっしゃろな?ということが聞きたいわけだ。これはある意味、危険な質問で爆弾を放り投げたようなものだ。
 
まあ、それを十全な正論だとすると、物事は進歩しなくなる。鈴原トウジも一応それは分かっている。ケチをつけたいわけでもないが、ただこの奇妙な格好のコーチのスタンスを知りたいだけ。目は赤くないから綾波のお付きの一人、というわけでもないらしいが。
 
 
「切る方法は、いくらでもある。・・・・・・そういう答えでいいか」
 
 
すぐに答えは返ってきた。いつもならすぐに言葉は終わるタチの人物なのだろうが、自分が導き役であることを思い出したように、迷いも困惑もなく確認を付け加えた。
 
 
心臓を、ドン、と拳で叩かれたような気がした鈴原トウジ。鍛えよ、今こそ鍛えよと。
 
 
洞木コダマにしてみれば当然の質問であるし、目の前で切ってみせねばお前を信用しないしこれ以上特訓などつきあえない、と言い出すことも当然予想の内にあった。切れ、というなら切ってみせよう。いろんな方法で。なにも伊達や酔狂でこんな格好をしているわけでもない。ただ、鈴原トウジが小才の利くタイプでこの一言を曲解して迷走を始める可能性もあった。たぶん綾波レイの求める到達地点とは遠くかけ離れたところへ。まあ、そこらを軌道修正するのも仕事の内か・・・・・・ヒカリに相応しい男かどうか・・・・見極めて、見届けてやろうじゃないか・・・・・
 
 
ふと、洞木コダマことエコーが立ち上がる。陽炎のように体重を感じさせぬ立ち方。
そのまま滝の方へ。「そこで見ていろ」命ぜられた鈴原トウジはその背を見つめる。
 
 
滝を前にしたエコーは両手をぶらんと落とした自然体。背中の忍者刀に手もやらず。
 
 
落水は続く。止むことなく、水は落ち続ける。飛沫が忍者装束を濡らし、水気が身体を満たしていく。動く気配はなく、鈴原トウジはじっとその姿を見続ける。滝から離れてみれば暑熱は炎気でもって肌を焼いていく。しかし、汗は流れない。魂を吸い取られるようにじっとその背を見続ける少年の肉体がしばし時を止めたように。
 
 
ゆら・・・・ようやくエコーが背中の忍者刀に手をのばした。しかし、それはとてもゆっくりで・・・・蟷螂が木をのぼっていくような・・・・なかなか柄に手が届かない・・・・高速の抜刀術とは対極の・・・それでいてそこから目が離せない・・・目はガラス玉かキャメラのように固定されて一点のみを人形のように見続ける。手が柄に触れるか触れないか・・・・・その時、
 
斬!!
滝の水が切断された一枚の画像がいきなり鈴原トウジの目に飛び込んでくる。確かに、滝の水が切られるのを「見た」。閃きのような銀線が確かに、水の流れを切断している。これが・・・滝切りかと思うと同時に足の先から震えながら脱力感が襲い、立っていられなくなる。
 
 
「おっと」
よろけて崩れる鈴原トウジを滝の前にいたはずのエコーが支えた。
 
 
「自然の流れは止められないが、生体の時間は極度の精神集中で停止の直前まで追い込める。自分が止まればそれを見る者も止まる・・・・・カラクリといえばそんな程度の話なんだが・・・・・・さすがに休憩をはさんでやるべきだったかな・・・・・・」
 
そのまま運ぼうとして思い返す洞木コダマ。「あいつらも使ってやるか・・・・・・遊びにきたわけじゃない・・・・・」携帯を取り出すと諜報三課夏の陣に連絡を入れる。
すぐに部下たちが鈴原トウジを運びに来るだろう。素人相手に停滞連鎖式などちとやりすぎたかもしれない。夕方くらいまで休ませるか・・・・・こっちのプランの組み立てもある。
 
 
ぴぴぴの雀男。携帯を他の所にかけ直す。「あの、師匠・・・・・あのですね、例のパイロットの手解きの関連なんですけど・・・・・・・・師匠、滝って切れます?・・・・おおとりゲンなら?誰です、その方・・・・・・」
 
 
弟子ではないが、人を導くには多くの情報があった方がいいに決まっている。だが、こうした影なる努力の結果、エコーこと洞木コダマは恐ろしい真実に行き着くのであった。
 
 

 
 
「八号機が既に降りてきている・・・・しかも現在地まで・・・・よく分かったな・・・」
 
 
日向マコトの意外な情報収集能力に顔には出さぬが内心驚く冬月副司令。これは彼に対する評価を改めて特別ボーナスを出してやらねばならぬかもしれぬ・・・・と。先ほどあの小癪なシオヒトから連絡がまたあり、少しでもこちらの血圧をあげようとでも思っているのかわざわざ「あまりにも惨めな状況のために八号機を本部領域内に下ろしましたよ・・・・あの霧さえなければ八号機で使徒を殲滅させたのですが・・・まあ、あれも手の内というならお邪魔するわけにもいきませんしね・・・引き続き領域内で警戒にあたらせますが・・・副司令直々のご用命があればいつでも、どうぞ」などと言ってきた。
 
様々な伝手を使ってようやく天から見下ろしていた八号機の明瞭映像を手に入れたというのに既にあの霧に紛れて地に潜っていたとは・・・その独断非協力ぶりにさすがに血管ピクピクいいそうになっていたところだった。
 
 
手元には数枚の写真がある。エヴァ八号機が写されてある。問題はその場所である。衛生軌道上、もはや天、宇宙といってしまってよい空間にその機体はあった。もちろんパイロットを乗り込ませて。エヴァシリーズにはそんな宇宙遊泳までこなす機能はない。八号機も例外ではなく、いくらなんでも地球外まで追っかけていって使徒殲滅するようなウルトラ能力までは搭載されていない・・・・はずなのだが、こうしてジェット機よりも高い場所にぬけぬけと座している、座していられるのは・・・・・・腰部と左肩部につけた特殊なオプションのおかげだ。
 
 
左肩についているのは、お決まりでお約束の、光り輝く翼、などではなく、サイケデリックな病的色彩感覚で塗られたカエルの足型というかある種の細胞を超巨大化させてみたというかお世辞にも格好良い代物ではない。昭和五十年頃に子供のガチャガチャで流行ったバイ菌軍団センスというか・・・・ただ、それは冬月副司令も日向マコトも見覚えがあった。昭和五十年代メモリーを思い返したわけではなく、もっと最近のことで。
 
 
使徒サハクィエル・・・・・・・・
 
 
渚カヲル、惣流アスカ、綾波レイ、碇シンジ、思えば豪華最強メンバーであったチルドレン四人組による合体必殺技ATバビロンでやられた使徒である。初期ネルフ本部が始めて予定調和的に勝った、記念すべき使徒でもあった。むろん、サイズは段違いで八号機の肩についているのは色彩センスがそれと酷似している、その「破片」のようなものだった。
 
ただ、破片であろうとその力はまごうことなく人類科学をオーバースキルしたもので、エヴァをこんな空間に浮かし続けられる非常識・・・・・尋常なものではない。
 
 
そして、その使徒リサイクルな無茶を実現させているのは腰部にある棺桶と袋を混ぜたような装置で一瞬、怪獣系の尻尾でも生えているのかと思う。
 
 
「ボクシング・ゲヘナ」(煉獄は筺の中にありて)
 
 
そのように名付けられた奇怪な装置。能力は見てのとおり「”とある生地”を素にして使徒のコピーを造る」・・・人間が天使を造るという魔術の極みめいた代物であるが、それも生地の容量に縛られる。生地の分だけしかコピー使徒は造れないのであった。
 
 
その”生地”というのが・・・・・・同じエヴァの肉体であり・・・・・・
現在、八号機がボクシング・ゲヘナで用いているのは九号機の「両足」部分である。
 
 
副司令執務室にやって来た日向マコトはそんなことまでは知るまい。ただ、彼も写真を持ってきており、そこには芦ノ湖に今にも潜ろうとする・・・肩部のサハクイエルは消え代わりに頭部をガギエル・・・魚使徒のスモールコピーが潜水ヘルメットよろしく覆っていた・・・・八号機が映っていた。偶然に撮れた代物ではない、降下到着潜水タイミングを知り尽くして万全の撮影準備を整えておかねばこうも明瞭には撮れないだろう。
 
 
しかも、もう一本。こちらはビデオ撮影で、八号機を湖に沈めてパイロットはゆるゆると泳いで岸まであがってくるところを情緒豊かに撮影していた。撮影者は相手が子供だとなめてしまわずその恐ろしさをよく計算する人物なのか、それとも単に期待をもたせるタイプなのかパイロットが人魚のように水から現れるところで終わらせている。
 
 
「・・・この入手元を聞いていいのかね」
確かに大した情報だが、日向マコトが己の采配ひとつで手に入れたとは思えない。ただでさえ割りにあわぬ激務の中にある彼だ。もっと目先が利いてなおかつヒマでヒマでしょうがない人間でなければこういうことはできまい。八号機の現在位置をこちらで掴んでいることでまあ、多少は気分が良くなったが。・・・・・・やはり、彼女が・・・・
 
 
「ソースの複雑な事情のため明かせませんが、信用はおけます。・・・この上なく」
日向マコトの疲労はしていても誇らしげな笑顔がその正体を教える。ただ、どこぞの外国の浜辺で見事なプロポーションをさらしていた写真と同封されていたこれらを、あのひとがどうやって映したのかまでは分からない。やっぱりケタが違うのかなあ・・・
 
 
「まあ、いいだろう。どうせ公開できる話でもない・・・もう少し、時間はあるかね」
 
 
「はい」
旧体制の派閥化であろうとなんであろうと人間のネットワークが千切れ断線したこのバラバラな状況ではガタガタとぶざまな不協和音を立てながら動くのもやむなしか。
無音のまま動かないよりも、まだ。
 
 
「八号機の腰部に接続されているこの装置のことだが・・・・・・」
そのような奇怪な代物を所有する人間が次に何を考えるか・・・・知らねば手も打てない。作戦部長連ムカツキ度bPのシオヒト・Y・セイバールーツのこれまでの発言が現場を知らぬ机上の空論では必ずしもないらしいことを知り、日向マコトは戦慄する。
 
 
参号機の素人パイロットふたりを廃し、その機体をボクシング・ゲヘナ生地に使用して使徒コピー生成領域を拡大する・・・・・・・おそらく、このようなことを考えるに違いない。頭では理解できても、どうも違和感があり、そして悪寒が走るが・・・・その八号機自体にもやはり、子供が、チルドレン、パイロットが乗るのだろうに・・・・・・
 
 

 
 
「突然のお話ですが・・・・・・霧島マナさんがお家の事情で転校されることになりました」
 
 
ほんとに突然の話で驚き爆発するホームルームの2年A組。額に大きな絆創膏シールを貼った霧島マナは困ったような笑顔を浮かべて担任の前に立っている。
 
 
転校転入はここのところ多かったが、それにしても急だった。人の流れが一段落したか、というところでまた一人、しかもクラスの中心人物の一人であったムードメーカー霧島マナがここでまた去ってしまう、というのは衝撃であった。以前から馴染んでいた者はもちろん、新しい街、新しい学校、クラスに早く馴染むように気を使った彼女であるから悲しい声は新入組の方が強かったかも知れない。「オウ、ジーザス・・・・」ミカエル山田のような奴でさえ神妙な顔をして騒がしいベシャリがでない。
 
 
「皆さん、みじかい間でしたが、いろいろとお世話になりました。私も次の場所で一生懸命がんばりますので皆さんもお元気で」
 
 
ぺこり、と頭を下げた霧島マナ。そう挨拶されても返す言葉がないクラス一同。霧島マナの父親がネルフ関連の研究者で、この急すぎる転校も何か事情があるのだろうなあ、と窺わせたが、そうあっさりと俺たちにはそんなの全然関係ねえ、いかねえでくれろマナ!と泣き叫ぶほど中2ともなれば子供ではなかった。彼女の転入も急であるなら転校もまた、という考え方もできる。ただ・・・ぱらぱらと、誰かが降り始める夕立のように、拍手した。涙の代わりであるような、彼女の見事な学園生活、人をリラックスさせ楽しませる見事な立ち居振る舞いに対する喝采であるような、思いがこもった拍手。決して楽しいことでもめでたいことでもないけれど、じめじめと送られるのは彼女の望むところではないはず。己の現状を踏まえても、複雑な思いを胸に秘めながら、最初の拍手を送るは洞木ヒカリ。委員長の義務感からではないそれはすぐにクラスに広がり、朝から激しい夕立になった。その間、ずっっと頭をさげている霧島マナ。
 
 
頃合いを見計らって、「霧島さん、これを・・」とハンカチを渡す根府川担任。
 
夕立も頃合いに止み始める。やるなあ根府川先生、などと相田ケンスケはその品のいいタイムキーパーぶりに感心したが、犬飼イヌガミやミカエル山田などはどうも霧島マナの額から止まらぬ血がぬるりと流れたのを見た。「あ、すいませんでした・・・」「いやいや」小声で謝る霧島マナとハンカチの朱を見ても動じぬ根府川先生。
 
 
 
そして、霧島マナが教室を一礼して出て行くと、なんともいえぬ虚脱感が。これはもう今日は授業になりませんよ、といった雰囲気。それだけ存在感と影響力があったというわけだが、それ以上にこの唐突さに皆が何か不吉なものを感じていた。鈴原トウジが居ればもう少しそれは形になったかもしれないが、どうしても熱き穂先、吶喊力に欠けた。
 
 
だが、担任教師はそれも承知の上だったのだろう。まさか演出したわけでもなかろうが、さらにもう一つ、サプライズを用意していた。「あー、それからもう一つ皆さんにお知らせがあります」
 
 
「私も定年退職でして今日で皆さんの担任を・・・後任にはナイスバディの美人教師が」
 
 
ということではなかった。根府川先生がナイスバディとか言ってる時点で相当なサプライズであり真面目な女生徒、山岸マユミあたりは心臓が止まったかも知れない。
無形文化財的な適度な間をおいて、「もうひとり新しく転入生が入ってきます。霧島さんと同じように、皆さん、仲良くしてあげてください」と落ち込んでいた空気をなんとか上向きに。こう言われては、そうダルダルな顔も見せられまい。机の傷を数えてマナリアンな思い出に浸っていた生徒たちものろのろと顔を上げて、転入生が入ってくるであろう教室の扉の方を見る。
 
 
 
・・・・が、なかなか入ってこない。扉はピクリとも。担任は涼しい顔をしている。
 
 
 
「あの、先生・・・・転入生の人は」
 
 
皆の疑念を代表して洞木ヒカリが問う。師、答えて曰く
 
 
「転入日は明日です。それでは、そろそろ一時間目が始まりますね」
 
 
根府川!!
 
 
皆でそろえて無言のつっこみ。やられた、と思ったがしょうがない。今更落ち込む真似もできまい。若さとはそういうものだ。・・・・だけどまあ、今日は職員室で手続きだけしているのだろうな、と何人か目端の利く者は思った。どんなのが来るのか・・・男か女か・・・しかし、霧島マナの後釜となるとそうは・・・・去る者は日々に疎しというが、大きな空白なだけにすぐに埋めることを望まれる。気の早い者はチョコチョコと端末で調べにかかったりしていた。が、珍しく相田ケンスケがそんな作業にかからずぼーっと窓の外を見ていた。眼鏡視界の隅には綾波レイと鈴原トウジの空席。
 
 
 

 
 
「あーあ・・・・最終学歴がこんなに早くなるなんて、ね」
思い出の教室を去り、痛みの消えない額の傷をおさえながら霧島マナは学校の正門を出ようとした。己の決断を悔やむことはないが、払う代償はそれなりに大きかった。
 
 
「つッ・・・・・・」額から血が流れる。耐えられない痛みではないが、傷が塞がらないのだ。天空から刺す強い光はこの身を苛む。あの明け方につけられた、傷・・・・禁忌を犯した者がくらう、罰なのか。禁忌。人目に発覚すればただではすまない、人逆の力。仲間すらおらぬ、我が身ひとりの。たったひとりの孤独。比類する事なき。容認されることなき。世界から孤立する心細さ。露見するリスクをわざわざ冒した。血の流れとともに、自分に最も近しい、彼に会いたいと、彼の顔を見たい、と思った。瞼を閉じるとそこだけ闇がやってくる。問答無用で暗闇を照らし出す雷の・・・一縷の救いがあるとしたら・・・それは
 
 
 
「こんなところでぼうっとしていると、溶けてしまうよ。アイスクリームの王女様」
 
 
ふいに白昼の闇想を破られて、あわてて目を開ける霧島マナ。相手の揶揄に含まれた秘密への確信。ある種の精霊が己の真の名を知られるとその相手に絶対服従せねばならぬ掟を真似たゲームでも、と誘いをかけているようなその声。聞き覚えがある、その涼やかな少年の声。そして、その姿は・・・・・
 
 
影のようだった。
 
 
美しい少年であり、一瞬の目の錯覚は目映く輝く何重もの光の翼に囲まれる天使のようでありながら、霧島マナの胸にすとん、と落ち込んだ第一印象は、それの生み出す「影」のような・・・というものだった。この場に他の学生がいれば男でも女でも不思議な、神聖さ、人並み外れた、とにかく強烈な心に焼き付くような印象を受けたに違いない。
そんな寝ぼけた形容は相応しくない、同意を求めるのはかなり難しいだろう、どんな傲慢な者であろうとも、一目置かねばならないような謎めいた雰囲気をもつ少年。
 
神の家に飾られる罪と罰とを燃料に燃える浄化の燭台のような白銀の髪
 
東洋と西洋、そして始原の大陸に生きる人間の肌の色を混ぜて太陽の平等でもって焙煎したような、人の歴史を綴る書物のページの背景色に相応しかろう肌の色。
 
そして、あらゆる秘密を見透かし解き明かしてしまうような赤い瞳。
 
 
陽光で目がバカになっているためだけではない、確かに色合いが知っているあの少年とは異なっている。知った時間も短いが会わなかった時間でこれだけ変わるとは思えない。
 
 
彼は別人だ。そうだ、色合いがどうこうじゃない、笑い方が違うんだ。口元に浮かべた笑み。影がこのように笑うから、彼も影のように見えてしまうんだ。頭の回転の速い霧島マナは即座に理解した。やけに元気のない、あるいは病気なのかもしれない猫など左手に抱いて。
 
 
「そうね。少し溶けたくらいが食べ頃なんだけど、かき氷なんかはね・・・・・でも、ご忠告ありがとう。あなたもこんなところで立ち止まっていると一時間目が終わってしまうわよ・・・・おかえりなさい、じゃないわよね。わたしは霧島マナ。さっきまでこの学校の生徒だったんだけど」
 
 
「はじめまして。火織ナギサです」
少年は名乗り、霧島マナの疑念のすべてを肯定した。
 
 
「カオル・・・ナギサ・・・・私、あなたとちょうど逆さまの名前の人を知ってた。顔もそっくりで」
 
 
「それは・・・・・そういうこともあるのだろうね。僕は明日から、これからこの学校に通うことになる・・・つまりは君と正逆の存在だ。珍しくはないよ。ありふれている。すぐにふつうの、当たり前のことになるよ。・・・同じクラスメートになれなくて残念だけれど・・・・そうだ、君、猫は好きかい」
 
 
「嫌いってほどでもないけど・・・・どちらかといえば犬の方が・・・・シベリアンハスキーだとなお最高・・・だけど・・・・その猫、ずいぶん元気がないのね」
 
 
「死んでいるのに元気があったらそれは、珍しいね・・・」
 
 
「・・・・死んでいるのをここまで抱いてきたの・・・・?ナギサ・・君は、とても、猫が好きなのね・・・」
アイスクリーム、でずいぶんと警戒入ってしまったが、もしかしたらこれも確率で言えばずいぶん希少な部類に入る、偶然の一致なのではないか・・・霧島マナの思いはすぐに打ち砕かれる。まさしくシロップ大量がけのかき氷のごとく。あっけなく。
 
 
「いや、僕がそこでひねり殺したんだ。学校に入ろうとしていたんでね。領域侵犯だろう?・・・とても、怪しい」
 
 
この力を得てより、寒気を覚えたことはなかった。ここから終の棲家に定めたのがそんな場所であるから。あらゆる怪異がまたいで通り過ぎていく女になってしまってから。
もう、何かが怖いなどと。思うことはなかろうと。しかし、なんだこいつはその顔で。
 
 
人ではないことを示すようなわざとらしい笑みでも浮かべているならまだ怖くはなかった。まるで殺猫許可証でも所有しているかのような、当然の顔をして。
 
 
 
「まず、猫は殺す。怪しい猫はね、全部。・・・・耳障りだから。その鳴き声は」