満面の笑みを浮かべて、旧尾道市街を見下ろしている男がいる。
 
 
正確には、海面を、というべきであるが、その男の目には街の姿が映っている。確かに。
 
 
「ああ〜、喜ばしい喜ばしい。なんて今日は喜ばしい日だろう〜。昨日も喜ばしい日だった。きっと明日も喜ばし〜い日に違いない」
 
 
男の鼻は黄色く丸く、目と口が描かれており、いわゆるピースマークになっていた。
 
表情は喜色に満ちており、そのピースマーク鼻の先出しのおかげで喜びパワーが二乗されているかわりに年齢がいまいち分かりにくかった。二十代から五十代の間・・・特徴でこんなこといえば嘘つけといわれそうだが、実際そうなのだ。カーキ色の作業服に作業ヘルメット・・・頭上から見るとそれにもピースマークが描かれている・・・・それから作業ブーツ。
 
男の特徴は、とにかく喜んでいることと・・・・・それから右腕がないこと。
 
 
左手には、長柄の旗。年季の入った・・・それこそ百年や二百年ではききそうもないほどのそれを無造作に七本束ねて、持っている。
 
奇妙なほどに風に揺れない、目玉のマークが入った旗。
 
 
 
 
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・悲しい・・・・・・・・・」
 
 
七本の目玉旗を持った喜び男の後ろで、とてつもなく悲しい声で悲しい顔をした女が呟いた。事情を知らぬ者が見て聞けば、どう考えても嫌がらせにしか思えない。
 
 
「昨日も仕事を待たされて悲しかった・・・・・一昨日も仕事を邪魔されて悲しかった・・・・・一昨昨日もお前一人じゃ仕事にならないからって止められて悲しかった・・・・・たぶん、今日も悲しいことがある・・・・・・きっと」
 
 
ワザとやっているとしか思えない対消滅ネガティブ思考法女であった。男の喜びをなんとかこの世から消すために使わされた地獄からの鉄砲魔女ではあるまいかと思われた。
 
服装は蒼いドレス。目玉を掴んだり弄んだり突いたりする手指をモチーフにした紋章を浮かばせたそれは、まぎれもなく裏権力の舞台衣装にして戦闘服。決して新興カルト宗教の死装束ではない。緑色の手をぐるり、(もちろん作り物だろう、たぶん)と頭に一巻きしたその姿は、繁華街のど真ん中であろうとも十秒で無人の野にするもたやすい。
実際には、この山頂には男の他には誰もいないから、無用の混乱恐怖を引き起こすことはなかったが・・・・・
 
 
「ああ・・・妹エイリが今日も変わりなく悲観的で〜喜ばしい喜ばしい。調律調整官でありながらそのビジュアルのせいで〜一人で仕事できずに〜兄妹いっしょに〜仕事ができて〜喜ばしい喜ばしい」
 
 
今、ここで殺人事件が起こってもおかしくないような発言があった。しかも親族殺し。
ポジティブ思考がいい結果を生むとは限らない見本のようなものだった。
 
 
「ニコニコル兄さんが今日も変わらず喜観的で、・・・・・悲しい・・・・・けど、」
 
エイリ、と呼ばれた女、ゼーレの代官こと、調律調整官、略して調調官は悲しいながらも少し、笑った。「今日の分の悲しさが、ひとつ、終わった・・・・・・」
 
 
「別に一つ減ったからといって〜これで今日の分が全て終わったわけでもないのに〜朝三暮四的な妹エイリで〜喜ばしい喜ばしい」
 
喜色満面、ピースのオーラを漲らせながらこれまたよく聞くと、妹をお猿さん呼ばわりで実に非道い兄発言で妹が提げているトランクで脳天ぶちのめされてもおかしくないのだが。
 
「○△□の◎▲■で〜喜ばしい喜ばしい」
「これでまた、ひとつ・・・・・」
「▲□○の□■△で〜喜ばしい喜ばしい」
「また、ひとつ・・・・・・」
 
これはもう怒ってもいいだろうレベル発言もあったが、悲しそうな笑顔を浮かべるだけですませる調調官、エイリ・アンハンド。
 
 
そんな調子で三十四個ほど悲しさを目減らしてから・・・・・
 
 
「・・・あのー、そろそろいいでしょうか・・・」
と、離れて待機していた部下たちが現れた。が、
 
 
「うぇえええええええええええええええええええええーーーーーん!!」
 
途端に激しく泣き始めた。一応、念のため、調律調整官に直接従うくらいであるからエリート部隊なのである。が、上司の姿を見るだけで、泣く。悲しくなって、泣く。
 
「だ、だめだーーーーーーー!!すいません、お家に帰りますっっ!!えーん!!ママー!!パパー!!グランパー!!グランマー!!」
 
泣きながら退却してしまう。三十四個ではちょっと足りなかったようだ。
 
ほんとに帰ったりはしないが、途中でハッと我に返るのだが。そこから自己嫌悪から復帰するのにしばらくかかる。直属エリート部隊でもこれだけは慣れない。
 
 
 
「今日も〜我が妹エイリの〜最強バンシーぶりは〜頼もしくも喜ばしい、喜ばしい」
 
 
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・悲しい・・・・・」
 
 
こんな超常魔性の女をよくゼーレも雇用し続けるものだが、それほどまでに有能なのだった。もはや現場に出てこずに、どこか影とか像とかの裏から指令だけ出していればいいのだが、こんなビジュアルで現場大好き、現場を悲しみのどん底に突き落としながらも自分の目で確かめないと気が済まない徹底現場主義、世界征服部門の一翼を担う、エイリ・アンハンドなのであった。
 
 
こういったワールドワイドな覚醒賢人が出てこないように、碇ゲンドウもさんざん裏工作してきたのだが、今回は手駒も準備も資金も日数も足らなすぎた。焼け石に水でほとんど足止めにならなかった。仕掛けた工作をぜんぶぶっつぶして、こんな島国の滅亡地方までやって来た。来てしまった。調律調整官は仕事でへましたことはない。ゆえに調調官。現れたからにはやりきってしまうだろう。こういう人材がいるからゼーレは古くても脳溢血も脳卒中も起こさずに、いや、起こしても強大なのだ。ほいほいこんなところまで来るんじゃない、と碇ゲンドウあたりは苦々しく思うのだが、もう遅かった。
 
 
「直属の部下たちもやはり退却してしまうこの喜ばしい日に、始めようか妹エイリよ」
 
ワールドクラスの悲津波に侵されぬ喜びのピースマーク鼻の男、ニコニコル・アンハンドは七本の長柄の旗を軽々と振り回す。そして、告げた。
 
 
「ゼーレの天領として、この地を収穫する、と。そのための測量を始めよう・・・・・この島国の忘れられた街を、正しくゼーレの錬金、工房の地と再生する喜びを!!それでも悲しみが癒えぬだろう満たされることのない七つの贖罪の壺の心をもつ我が妹エイリに捧げよう!!」
 
 
「悲しいことに・・・・・・忘却をあくまで拒み、夢を見続ける蜥蜴娘が張り付く鉄火場を、契約に基づき収穫せねばならない・・・・・・悲しい・・・・・・けれど、任務を始めます」
 
 
「りょうかい、了解だ〜。が、ひとまず測量隊の部下たちを慰めてくるとしよう〜。何かとあればすぐに泣き出すが〜人を見下す傲慢さがいつも洗い流されてもいる星のような目をしたフレッシュピュアな部下を引き連れることができて〜喜ばしい、喜ばしい〜」
 
 
喜びながら先に行ってしまう兄を見送ったあとで、トランクの中から書類束を取り出すエイリ・アンハンド。中身は弐種類。報告書と契約書だ。頭の中には入っているが、念のための最終確認。こういった作業をしていると、多少は悲しみが紛れるのもある。
 
 
「現場監督官は・・・・・あの男・・・・・和風日本かぶれの・・・・・いーすとえいじあん、とでもいったものか・・・・いやさ、えいじあんあん、というべき・・・か」
 
 
内容によってはさらに倍加したりすることもあるが・・・・・・・「いえ、三倍化くらい・・・・・・悲しい・・・・・陰系の人間は、どうも、苦手・・・・・・・報告の誤魔化し方も下手・・・・・・素直に認めて謝れば・・・・・・赦すのに・・・・・・」
 
 
常人が踏み入れたらまず一週間は立ち上がれないほどの悲観オーラの泥沼小宇宙がどよよん現出。部下たちは退却していて正解だった。水がしたたればいい男であるが、女でしかも水分量が多すぎれば、浸し(びたし)となり、いわゆる萌えとは正反対極致となる。
それに比べれば、多少の和風日本かぶれなどかわいいものだろう。
 
 
現場の進展具合を確認し、多少のイレギュラーはあるが、さしたる障害も感じないためそのまま変更なしで進めることにし、
 
 
それから契約書に目をうつす。聖なる石版でもなんでもないが、ゼーレ相手に取り交わされたそれは絶対のもの。手触りだけで言えば、紙といえば紙であるが、絶対運命の黙示録といってもいい。それは、悪魔でも変更はできず破棄もかなわない。それを執行する自分は神のような強制力はないが・・・・あれほど、気まぐれでも、ない。それだけに。
 
 
無闇にゼーレが天領を増大させることはないし、その約にふざわしい土地というのもメッカ、いやさ滅多にない。世界遺産登録とはわけがちがう。とはいえ、この島国はあと三カ所あるので異常に多い方だ。その申請を受け入れられること自体が稀なのだが・・・・申請した方もそれを受諾した方も、それを成した時点の状況を考慮するに目利きであったと言わざるを得ない。まあ、それが他者にとって幸福を招くとは、また奪わないとは限らずむしろ・・・といった方がよいのだろうが。端的に言えば
 
 
「計画的な男に騙された無計画な女がいた・・・・・・ということ・・・・・・・・悲しい・・・・・・」
 
 
兄もいないのでさらにどよよんパワーを増加させて悲嘆の大渦巻きの中で翻弄される。誤って巨大洗濯機の中に入り込んでしまった子供のように。びたびたに、悲しかった。
 
それでも調調官の仕事は始まった。取りこぼしのない完全完璧な仕事が。
天才だろうが超人だろうが化け物だろうが悪知恵の王様だろうが使徒だろうが、いかなるものが足掻こうが、覆すことも揺るがすこともならぬ。征服者の万全の収穫。
 
何者によるいかなる反論反問を封殺するために、てはじめに、「こちら側」から検地していく・・・じっくりと確実に、天領化してからの稼働に何の問題も残さぬように。
 
 
それこそが、重要。その他のことは些事である。無計画は計画に打倒される運命にある。
いくつもの貴重な灯火がここで途絶えようと。箱船はそれらを乗せたまま、沈むだろう。
 
 
「・・・・・悲しい」
 
 

 
 
 
 
「どうするつもりだ・・・・・シンジ」
 
 
今日一日の活力元気の源であるはずの朝食の席で食欲減退間違いナシの重々しさで碇ゲンドウが、目の前の息子を見る。
 
 
「どちらかといえば、こっちのセリフだよ。父さんこそどういうつもりだったんだよ」
 
 
息子がこのように朝から言い返せばたいがいの場合ケンカになるわけだが、それで母親に止められてしまったり、というのが懐かしい日本の核家族の朝食風景だったりしたのだが、この場合はそうはならない。両者とも、これで精一杯「なかよし父子」を演じているつもりではあるのだった。これで。なかよし、といっても少女マンガ雑誌のことではない。
ちゃぶ台を囲む周りの、母親ならぬ女性二人のため。見栄成分を抜いた正確には二人の内の一人のため。
 
 
息子、碇シンジの目が生暖かさと冷ややかさの微妙にして絶妙の中間地点の視線で父親の隣にいる少女を見る。直視はしない、かすめて盗み見るような、刺激せぬように、怯えさせぬように、なにげないふうを装いつつ、予想外の流転をへてまたしても一つ屋根にそろうことになった少女のために。
 
 
惣流アスカ・ラングレー・・・・・セカンドチルドレン・・・・
 
現在レベル3,真・チルドレン状態・・・・・といっていいのか・・・
 
 
人見知り・・・・以上、露骨に他人、とくに碇シンジに対して怯え、恐怖を覚えているらしい彼女がなんとかその当人とこの距離で対峙できるのは、”保護者”の同伴あってこそ。
 
 
ありえない、冗談としか思えないような変化の遂げようであるが、事実として受けて入れるほかない。その保護者というのが、現在無職の碇ゲンドウ氏であることも。
 
恐怖の対象を制することができるのがこの髭家長であることを本能的に見抜いたものか、碇ゲンドウのそばにいれば多少は落ち着くらしく、今も普通に、碇シンジがそれ以上領域に近づいたり声をかけたりしなければ・・・普通に暮らすことが出来る。生活圏がこの寺にしかない現状、碇ゲンドウに小ガモのようにくっついて歩くことになり、過去を知る者にとっては・・・不自然極まる光景が繰り広げられたりしても・・・・現実であるから受け入れるほかない。そこから逃げ出したくとも。
 
 
「・・・・知能や学力まで退行しているわけじゃありませんし、これはこれで、かわいいんじゃないですか」
 
なるべく責任は減らしたい感じの笑顔で綾波コナミが「あ、ご飯おかわりします?」
場所的には最適でも、話の流れ的には一番最後にしろ的なことを付け加える。
 
 
「おねがい」
「うむ」
 
しかしながら、父子そろったタイミングで茶碗を出す。
 
このままでいいわけもないが、これ以上の無理も出来ない。息子にやらせる分にはいいが、と父は考えているが。このようなお荷物が出来た以上、寺からはおいそれを出られない。重大な欠損をそのままにして独逸に送り返すわけにもいかず。ここで預かるほかない。
 
水上左眼がこのあたりを読んでいたのかは不明であるが、その分、息子が動かねばならない。どちらかといえば、寺から出てしまえば、顔を合わす危険性がなくなってラングレーももう少し自由に出てこられる。しかしながら、そんなことをみすみす許すほどここの支配者は甘くなく。
 
 
次々と「相談事」と言う名の厄介ごとを振ってくる。タダ飯を食わせるのがイヤになったのか、それとも単なる婉曲な妨害か。そして、断る選択肢というのは存在しない。
 
 
「三つ首銀磨の怪人襲名式のプランナーをやれ」とか
「竜尾道の外へ駆け落ちすることにしたらしい小学生ふたりを探せ」とか
「布袋旗魚、散歩魚、悪魔杓子、鸚鵡魚、草履魚、これらを全部釣ってきてほしい」とか
「どっちの船がかっこいい、というか、イカしているか・・・理解に苦しむ喧嘩している双方が満足して納得するような判定をしてくれ」とか
 
 
こんなことしてる時間なんぞないのに・・・・・と、破壊力と権力がなくなっても悪知恵も売るほどにあった碇父子がぱっぱとノー流血に解決してしまうことに味をしめたのか、
 
「ほー、やりますね。さすがです。この素晴らしい能力をぜひ・・・」
 
因果応報的に地元の困りごとをわざわざ募集してまでもってくることにした水上左眼。
 
このあたり、「たまにはてめえの頭で考えて解決しろよ!」とつっこまれる探偵小説内の警察のようであるが。考えてみると、ここの地元警察には確かに事件解決の能力はない。ない、らしい。竜の睨みと脅しが効いていて平穏と戦闘の中間層の犯罪というのはあまりないせいだ。警察の”ご厄介”になってしまった碇シンジとしては、あまり怒れない。
怒りたいが。外敵にはすこぶる強いが、地元民とは孤独な距離がある・・・アイドルにはなれない性格だ・・・水上左眼にしてみれば「なんて便利な!今までなかったのがおかしいくらいだ!」と思われても仕方のないポジションにはまり込んでしまった。すっぽり。
露骨な犯罪行為を頼まれなかったことは有り難い、と思うべきか・・・・
 
 
 
忍従の日々であった。ネルフの職員がみれば、多少は溜飲が下がる光景ではあっただろう。
 
 
しかし、そんな日々も唐突に終わりをつげる。
 
 
 
あろうことか、水上左眼が新体制ネルフ本部に竜号機ごと、捕獲されたのである。