「話は、分かったわ」
 
 
綾波レイはそう言った。信じるとも疑うとも信じないとも疑わないとも、その顔に表さず。
 
 
目の前の、相手に。みそ汁を、すすっている、片眼の女に。
ネルフ職員の制服など着てはいるが、明らかに、カタギではない。
 
 
というより、水上左眼であった。
 
 
調査はしてあったし、何より本人がそう名乗って、あの隻眼。間違いは、ない。
 
 
前総司令碇ゲンドウの幽閉からはじまり、人造竜人とでもいうべきか、シリーズにないナンバリングもされていない異形のエヴァによる領域侵犯、サードチルドレン・碇シンジの誘拐(正確には最重要参考人というべきか)などなど・・・・・綾波レイにしてみれば、己にまつわる環境を激変させた、諸悪の根源ともいうべき、破壊者、敵としかいいようがない、(それに助太刀されていれば世話はないが、あれは勝手に自己判断でやったのだと言い訳できぬ事もない)憎むべき・・・・・・・
 
 
 
 
それが、今、ここに、目の前にいて、手製のみそ汁を、すすっている。
 
 
「うまい塩分だ。この、肩の凝らない味がいいな・・・・・凝らない度では、シンジ殿たちに勝っている」
 
誉めているのかどうか、ともあれ、野郎どもに比較されても・・・・・微妙なところだ。
碇シンジ、たち、というからには、その父、碇司令もそうなのか・・・・この女に食事をつくらされていたのか・・・・・・そう思うと・・・・・別に毒など入れてはいない。
 
 
「そう」
 
礼をいうほどのことではない。さきほど火織ナギサにも飲ませてみたけれど。
こんなものだろう。単純な栄養補給というより、間を置くような一手間というべきか。
置いたところでどうにもならないこと、特に変化もせぬことが大半であるが。
それでも、互いに落ち着く効果くらいはあるかもしれない。少なくとも、こちらは。
 
 
驚いていた。
 
 
なにせ、いきなり現れたのだ。どこに現れようと、ここは避けるだろうと思っていた。
こちらが自分をどう考えているくらいの見当はつくだろう。いくらなんでも。
あれだけのことをやらかして(まあ、こっちもやりかえしはしたが)くれたのだ。
 
 
・・・・・こうなると、どうも冬月副司令、あの人が噛んでいるというか主導したのかもしれないが。というか、実際、していたわけだが。話を聞くに。・・・・どうやってあのす巻き状態から逃げたのか、など肝心のカードはさらしていなかったりもするが。
 
 
どちらかが、まな板の鯉なのか。
 
 
女に竜はなく、こちらにもこれといった手札はない。ツムリたちもおらぬし。
 
 
が、ここまでこれといった損傷もなく、ここに現れたという事実を考慮すれば、または考慮せんでも、女の身ひとつ実力でひとつの武装地域を宰領していたという実績を知らぬでも、体格も歳も上であるし、単純に腕が立ちそうであった。とんでもなく。
 
 
これが、襲撃であるなら、ひとたまりもないだろうな、というのが綾波レイの判断である。
おそらく正しい。
碇シンジに次いで、自分も拉致にきたのか、というのは外れたが。
 
が、今のところ危害を加えられることもなく、不完全ながら事情説明も行ってくれた。
みそ汁が代価だとするなら、かなりお得すぎる・・・・。そんなはずもない。
 
 
これが、交渉ならば。
 
 
どちらが有利などと、いうまでもない。・・・・・・・というべきか、話にならない。
話すべき事など、なにもない。奪われたものは甚大で、変わってしまったものは元には戻らない。遅かれ早かれ、こうなったかもしれない、という予感はあるが、それも別腹。
 
 
ここであったが、百年目、の間柄のはず。
 
 
この女が、あんなことさえ、やらねば・・・・・
 
 
自分は、自分たちは・・・・・・・
 
 
こんなふうには・・・・
 
 
これもまたリセットの機会などではないことも、承知している。
 
 
 
女の、水上左眼の「その一言」さえ、なければ、
 
 
こんな、みそ汁など飲まして向かいあっていたりしない。
 
 
夕立とともに現れた女は、最初に、こう言ったのだ。
 
 
”ここへは、シンジ殿・・・・碇、シンジ殿の案内で来た”
 
 
うそだろう、うそをつけ、誰が信じるものか、と即座雷鳴に思った。
 
どくん
心臓が、こわれたか、と思った。ごちゃごちゃ考える脳などさしおいて。
 
 
”・・・・・伝えにくいのだが、なにか・・・こわがっているので、部屋に入るのは遠慮したいそうだ。自分は外で待つ、と。・・・・・なんなのだろうな、この態度は・・・・この年でカノッサ入った恐妻家のような・・・・まあいい、私は危険人物なので先にあがらせてもらう・・・・・・”
 
 
雨と同じく訪れておきながら、その服も髪も濡れていないこともあとで気づいた。
単純に傘を一階入り口にでも置いてきた可能性もあるが・・・・
 
 
それが一人芝居であるなら外に出て確認してみればすむ話だが、自分がそれをやらなかった。水上左眼の方で巧妙にそらしたこともなく、逆に、「顔を見なくてもいいのだろうか」と問われたが、返答もできなかった。結局、外でずっと碇シンジを待たせている、というカタチになっている。・・・・・そんなことって、あるのか?と自分で自分に問うてみるが、体が動かない。どうしても、扉をあけて、碇シンジの姿を確認する気にならない。
 
 
夢ではない。
 
 
これは、突拍子も無かろうが、確固とした現実。
重たく厄介な事実を、先ほども受領したところだ。
 
 
「放置か・・・・・・まあ、私がとやかく言うことではない、か」
 
 
水上左眼にすると、すぐに碇シンジも呼ばれるものだと思っていたらしいが、そうならなかったので、首をひねっていたが、本人の言うとおりだった。何やら言われていたら、戦力差などそれこそ放置して何をしでかしていたか、分からない。
 
 
ここに碇シンジが、いるはずがない。
 
 
だって、あなたが連れて行ったのでしょう?
 
 
そう問いたいところを、ぐっと、堪えた。
 
 
なぜなら・・・・・
 
 
赤い瞳で、眼帯もなく剥き出しになっている左眼窩を見る・・・・そこから額から頬に走る、大きな切り傷・・・奇妙に出血の跡もなく痛みに顔をしかめることもないが・・・・そこに人の眼球はなく、鉱物性の輝きがあるが画像を映すようもなく、また右の目も、灰色に濁ってしまっており、モノが見えるようではなく、体振る舞いに揺るぎはないが、実際に見えていないようだった。そのような芝居をまた、している可能性も、なくはない。
 
 
が、それよりも考えられるのは・・・・・・視力と同じく、
 
 
正気もまた、ということ。
 
 
どう考えても、こんな話は、おかしい。
 
信じられるはずがない。というわけで、適役に検分してもらうことにした。
 
 
それが、火織ナギサであった。
 
丁度良いことに、副司令消失の件で呼び出しをかけてあった。来るのは遅かったが。
ごめんなさい。思いきり関与を疑ってました。副司令に素行を注意されてキレて殺して地下庭園に埋めました、とか言われたらどうしたものかな死刑かな、とか考えてました。
 
一応、エヴァパイロットのまとめ役として。確認しておこうと思ったところ・・・・展開は意の外であり、犯人でも協力者でもなかったようです。やっぱり来てはだめ、とか連絡も出来ずに、半分忘れかけてたところにほんとに来たから、ありがたかった。
 
水上左眼の言うとおり、碇シンジが、この団地に、この部屋の前に、いるのかどうか。
能力といい、立場といい、現在の第三新東京市に彼ほどの適任もないと思ったが、答えは。
 
 
自分のこの目で確かめれば、一番早く、確実なのは、分かっている。けれど。
 
 
できなかった。
 
 
こんな愚かで無駄無駄しいこともなかろうが。セカンドチルドレン、惣流アスカ、彼女なら何と言うだろう。
 
 
ただ、話を聞いた。身分的立場的にもまともであろうはずもない相手の、悪意敵意を別にしても正気かどうかも判然としない相手の、話を、ただ。
部屋の中の彼女と、部屋の外にいるという彼と。
 
 
心は、行き来しながら。
 
 
彼女の話も時間を行き来する。
 
 
”なんらかの手段”で、バルタン包帯のす巻きから解放されたものの、別の空間に竜エヴァとともに監禁されていたのだという。自力で逃亡したものだと思いこんでいたが、第三新東京市にいたわけだ。そんな都合のいい巨大空間を自由に使えるのは誰か・・・・そう考えれば犯人が誰かすぐに分かりそうなものだ。
 
赤木博士あたりは知っていたのではないだろうか。
ウシャ・・・埋もれた者どもは初号機でなければ、使役できない。
 
”なんらかの手段”というものが、なんなのか・・・・水上左眼は語らなかった。
そこはかなりの核心であったはずだが、飛ばすに任せた。
 
 
現体制でも副司令の冬月コウゾウ副司令が、その主犯であることでもかなり衝撃だったのだ。これを裏切りと呼ぶべきかどうか・・・・・どのように対処すべきか一瞬、考えたが、その必要もないことを思い返す。なにせ、「いない」のだ。消えた、という詩的な表現も使用しなくてよくなった。
 
 
作戦部長連が一人、シオヒト・Y・セイバールーツが、拉致したのだと・・・・・
 
 
いうことであるなら。
 
これは、告発というべきか告白というべきか、ただの捏造にすぎないのか。
 
騙されて連れられるタマではないから、誘拐ではなく拉致だろうなあ、と。でも、その本人が「敵」・・・・露骨に敵対行為ばかりしてきた相手を誰にも知らせず、”なんらかの手段”で捕らえて監禁して、おそらく尋問の一つでもしていたのだろうが・・・・超法規的にではなく考えてみれば、誰かを監禁していた人間が、他の誰かに拉致される、というのは・・・・因果応報ということか。さりとて、それを公表せぬあたり、単純な下克上行為ではないようだが・・・・・それが事実なら
 
 
・・・・・・鈴原君や洞木さんには教えられないな・・・・と、だけ思う。
 
 
別にいまさら驚くようなことではない。昔は、こんなことばかりやっていた。
碇司令のお供で。魔法の杖のように。魔法がないなら、力づくでこういうことにもなるだろうな、と思うだけだ。パワーゲームもいいところだが、目的はすぐに分かった。
 
 
事実の裏付け。
 
さきほど自分にも届いた重く厄介な「通達」が、定石のように理解させる。
なんのために、副司令が拉致されたのか。目的がなければ、人は動かない。
一応、作戦部長連、軍師の職にあるならなおさらだ。
 
 
碇ゲンドウの行動停止
 
 
これしかない。このために、副司令はさらわれた。さまざまな意味で、ものすごいとばっちりであるが、効果はあっただろう。それくらいやらねば、碇司令は止まらない。
その手も、その足も、その口も。その目も。その頭脳も。
 
今現在・・・・・・一般世間的な表現でいえば、「無職」ということになるのだろうが
 
 
何をやっているのかまでは知らないが。自分は、碇ゲンドウという人間を知っている。
 
 
今や特務機関の総司令職を離れているが、そんなことは、全く、関係、ない。
 
 
副司令職にある人間を、さらい、その仕事を一時停止させて莫大な損失が出ようが、
”そこまでやらねば”、止まりはしないことを、上位組織の人間も、承知していたのだろうか・・・全てがそうではないかもしれないが、いることはいるのだろう。
 
 
念の入ったことに、自分のところにまで、手を打ってきたくらいだ。
碇ゲンドウを助力せぬよう、できぬように。
 
 
あの父子から連絡があったわけでもないのに、助力など出来るわけもないが、それでも。
こういった病的な念の入れようが、組織長寿の秘訣なのだろうか・・・・
 
 
ユダロンシュロスからの通達がそれだった。
 
その力を用いて竜尾道で起こる事象に関わるべからず、と。
自宅指定の通達受領であったから何事かと思って副司令不在で揺れる本部から帰宅してみれば、こんなことだった。
 
 
つまり、ユダロンシュロス、ゼーレ天領も動かせる相手に、碇無職、いやさ碇ゲンドウはケンカを売っている、または逆らって”何か”しようとしている・・・・・ということだろう。
 
なんて、天逆。
 
複雑怪奇に絡み合う利害関係も、あまり上にいきすぎると、雲を抜けたように、晴れてしまう。つまり、面子の世界である。そこは、大損をすればするほど偉さがます、という異世界。どのようなファンタジーでも追いつけないほどの。神々っぽい神々気味な世界だ。
 
今回の、領域境界はどこにあるか。
 
そこに至るまで、ギリギリ直前までは、逆に、利益調整利害極上の至高天である。少しでも損をした者が墜落するはめになる。そこいらの見極め、立ち回りで人後に落ちる碇ゲンドウではないが、ここまで念を入れてくる上位者相手となると・・・・・昔は自分が杖として控えていたが、今は。無制限の資金人材投入による蟻も水も漏らさぬ策略の包囲網を敷かれて身動きもできぬようにされているのではあるまいか。
 
 
部屋の外に心を、向ける。
 
 
・・・・・彼が、ともに、いた、ということだったけれど。
 
 
火織ナギサは、誰も会わない、誰も見ていない、と答えた。
こっそり隠れていたにせよ、それを見逃すような・・・あの渚カヲルの何分の一でも眼力があるなら、そういうこともないだろう。
こちらの問いかけの意図もよく分かっていないようだったが、それだけに。
 
・・・・しかし、その時、奥に隠れていた水上左眼の存在が見抜けぬあたり、やはり何分の一かも・・・・・と、思わぬでもなかった・・・・。
 
 
自分で見に、いけばいい。それで、終わる。
いっそ、部屋の中に呼べばいい。入っても、いい、と。
 
 
なのに、それが・・・・・・
 
そんなことが、できない
 
 
副部長の拉致ついでにシオヒト部長に拷問されかけた・・・ところに、碇シンジが、絶妙なタイミングで、声をかけてきたのだと。彼女は、話した。副司令のやったのが尋問で、シオヒト部長がやろうとしたことが拷問であろうと、まあ、それはいい。
 
 
突然の碇シンジの登場に、驚いたシオヒト部長は、副司令を担いで、すたこらさっさと逃げた、などというのは当然、脚色だろう。副司令を拉致するような人物が碇シンジ程度に恐れをなすはずがない。それなりに武装だってしていたのだろう。それに立ちむかって碇シンジが水上左眼を助け出す、とかいうのは・・・・・・どうにも、想像しにくい。
シオヒト部長があの声で、実はものすごい貧弱マンで、というのも・・・考えにくかった。
ネルフの女性職員制服を着せるあたりの小才の利きようは、それっぽくもあるが。
 
 
そして、この都市において、最高額の賞金首(そんな制度があれば)に違いない彼女を、ここまで、すんなり連れてこれる得体の知れぬところも、また
 
 
水上左眼が自力で逃げてきたなら、向かう先は、100%、竜エヴァのところだろうし。
 
 
・・・・碇シンジが案内して連れてきた、というが、その実在も怪しいうえ、その目的も分からない。碇シンジは何をさせたくて、ここに彼女を連れてきたのか。
 
 
本人に、聞けばいいのに
 
理性が告げる。それだけでいいのに。何を好んで迷いたがるのか。
 
 
・・・・こわい?なにが。たとえ彼女の目が見えてなくても、気配やら声やらでそうそう他人と間違えたりしないでしょう。これがなんらかの詐術でも、奪われるものもない。
 
 
今さら。驚くことも、恐れることもない。
 
 
「なぜ・・・・・・」
 
「うん?」
 
 
それでも、聞けなかった。代わりに、目の前の相手に、問う。
 
 
「ここに来たの」
 
 
求める答えを得られる問いではないことは、分かっているが。他の問いかけを思いつけなかった。交渉にもならぬ、あまりの浅はかさに侮蔑や軽蔑がかえってこようとも。
 
 
「・・・おや?」
 
軽い疑問の声。
事前に仕入れていた情報との差異に戸惑うようでもあり。動きがある、と読んでいたところに、まだ座で言葉でのやり取りが続くことに仕切り直しの合いの手をいれたようでもあった。・・・視線も、読めない。
 
 
「心を読める、とか聞いていたが・・・・・綾波の後継者は」
 
本当にそう考えているなら、語ったことは二心ないことの証明か。
 
「能力はほとんど失いました。・・・・代償に。後継も、たぶん別の者が」
 
失って、いないものもある。だが、そこまで語ることもない。自分だけ知っていればいいことだ。
 
 
「・・・・すごい子だね・・・・」
 
その感心は何に対して向けられたものか、それすらも分からない。
 
 
「まあ、だから、シンジ殿が、ここに連れてきてくれたのかね・・・・・・」
 
勝手に納得されても、分からない。言葉にしてもらわねば。しかもなるべく手短に。
やりたくないことも含めて、やらねばならぬことが、多くできた。いい加減、さすがに腹をくくった。決めた・・・・とりあえず、鈴原君と洞木さんに相談しよう・・・・そんな覚悟を。決めたところで
 
 
「零鳳を、使っていたんだろう?」
 
しかも単純明快、簡潔に。回りくどくなく含むところもなく!。
と、言えればいいのだが。うなずくにとどめる。そういえば、刀鍛冶でもあったか
 
 
「”卵”も研ぎ直してくれたみたいだし・・・・・・まあ、適任だ」
 
 
目は潰れているが、笑んだようだ。おそらく。そうだ、と思った。
 
彼女は。
 
 
「介錯を、お願いしたい」
 
 
こんなことさえ言い出さねば。