妬ましい
 
 
と、その黒い影の男は言った。碇ゲンドウが標的の居場所まで正確に、二本の足の人間であるなら最速で、辿り着いたその入り口で。出迎えるように、というより、碇ゲンドウがここに現れてしまったから、しかたなく、という唐突さではあったが。
 
 
黒い影の男は、そう言った。
 
 
妬ましい
ねたましい
ネタマシイ
 
 
と、いつしか三体に分裂して。黒い男と、同質の黒さであるがそれより小さくほっそりとした子供と、それから黒い女。どれも厚みというものがない、つまりは影。二本の足で立つようにはしていたが、影であった。そして、三つの影にはまとめて一つの、これはロビーの床にぺったりと張り付いた、通常位置にはある・・・・・巨大な、一つ角の鬼の影。
 
 
「・・・これは・・・」
「はあ・・・・」
 
 
碇ゲンドウは顔色も変えず言葉もないが、それに付き従ってきた仮面の京女ふたりが代わりに合いの手をいれるように。これがなんなのか、見抜けぬようではここまで来れるはずもないが、いくら京都の人間でも、全ての厭らしさを鴨川の水に流せるわけでもない。
これが、なんらかの術だの罠なのは知れきっている・・・・・・が、これは自分たちは助力も出来ず手も出せない。往生際が悪い、とは言うまい。的を、馬は放置で将を射ようとする、正しい策術というべきか。
 
 
これは、碇ゲンドウの、影。残る三つは、彼の家族。いやさ、二つか。
 
 
黒い男、影のゲンドウ、略すると医学の神様っぽいが、カゲンドウは子供の影、おそらくしなくても碇シンジであろう、それに向かって告げる。
 
 
妬ましい、と。
 
お前を、愛しいと思ったことはない。
 
母親の、愛情を一身に受けるお前が、妬ましかった。
 
 
子供のリアクションは、ない。呆然としているのか、そもそも言葉の意味が分かっていないのか。六分儀二十七章たちはそこから母親、男の妻であるところの、女の影に視線を移すが、これもノーリアクション。エジプトの壁画のように突っ立っているだけだ。
 
 
男は、片掌をひろげて天を衝いたかと思うと、月を引きずり下ろすような荒々しさで振り下ろす。それはなんらかの魔術的体運の奥義のようにも見えたし、単なるおっさんヒスにも見えた。が、その振る舞いには言語を超越する強い意志が込められているのは確かなようで、それに呼応するように、床面の鬼影が、膨れあがるようにして、動いた。
 
 
鬼の手を、のばして、影の子供、碇シンカゲ・・・流ではないが、シンカゲを掴んで、それを胸に強く強く、抱いた。強く抱きすぎて潰れたか・・・・すうっと同化した、ように見えた。母親の影は無言で、ぴくりとも反応しない。いや、すこしだけ首をめぐらして、鬼と視線を合わせた。ただ、それだけ。
 
 
カゲンドウは、受肉したその姿であるところの、碇ゲンドウと目を合わせて、
 
 
ギヤリと笑った。
 
 
こうなるぞ
こうなるのだ
 
 
肉体の行動は、すでに影にして決められている。
 
 
おまえは、こうしたかった。
ほんとうは ほんとうは
ほんとうに
 
 
 
古今東西、あらゆる占い師もこれほどの確信を、運命の歯車をその手でセッティングしたような確定を、問い乞いもせぬ相手の、肉をすり抜けた先の脆く儚いひとの魂に加重刻印することはなかっただろう。
 
 

 
 
 
まさかまさかの展開続きではあったが、確信があった。
 
 
ここならば、見つかるまいと。
とりあえず、見つからねばなんとかなると。
 
 
調律調整官の指示もすぐに仰げるのであるし、慌てさえしなければどうということはない。
 
それなりに有意義な日々ではあった。ワフー・ジャパン・オリエンタルは満喫できたし。
心残りは温泉に入れなかったくらいか。あとは、こつこつ造っていた鎧たちがあんなことになってしまったことだ。
 
まあ、あれほどの古今無双強烈無比な影が操れる、というのは、影使い冥利に尽きるが。
 
・・・・それも取り返されてしまった。どういう手段を用いたのか、さっぱり不明だが。
 
ああいうやり方で影を取り戻した例は聞いたこともない。さすが日本というべきか。
 
 
が、この地で展開することが決定したゼーレ直轄の「単純工場化」・・・日本語に訳すと天領とかいうらしいが、その点に関しては非常に残念かつ、気が進まない。面白くないことこの上ない。もともと、生産工場というものは多様性に欠け、本質的に面白みにかけているわけだが。それしか、産み出さない。予想もせぬものがポンポン生まれても管理する者はそりゃ困るだろうが、見ていて退屈極まる。ワフーもジャパンもオリエンタルもなにもなく、生産に不必要無駄なものはなにひとつなく不確定要素揺らぐものは完全削除され、無菌無色無心の、無論、あの片眼小娘がやっていた刀剣類の製造などもそれらに含まれる。
 
あれは大層興味深い見せ物だったのだが、世界無形文化財にしてもいいくらいだと思う、永久閉鎖、ということになるわけだ。外地から派遣されてくる管理スタッフをのぞけば在留を許されるのは水上右眼、あのヘルタースケルターの操り手だけだろう。あとは邪魔なだけで・・・・観光組合の連中も情け容赦なく排除されることだろう。知るまいが。
 
 
が、決定事項は決定事項。覆されることも逆らえる者もいない。
 
 
ここは、天領となるのだ。退屈極まる空間になるのだろうが、ここの管理者ポストを狙う者はさぞ多いだろう。自分はもうご免だが。抱き合わせの「神手幻想」、これに幻惑されて。そう実利があるようには思えないが、欲しい者はノドから手が出るほどだろう。
人類補完委員会の中位メンバーなどがそれの筆頭。
 
 
こちらに出来ることは終わったし、もう帰国したかった。
 
片眼蜥蜴娘が捕獲されて戻らぬ以上、誑かす必要もなくなり、ここの管理者ポストも欲しくない己が留まる理由は何もない。ここまで来れば早々に退去の一手であろうとさえ。
 
そう考えれば、調律調整官の到着は素晴らしいタイミングだった。責任は全て調整官がとってくださるそうだし。まあ、特異能力者の配置というのは任命者の責任だろうと思うけれど、ずいぶんと太っ腹だ。生きた聖者とはあの方たちのことにちがいあるめえと。
 
 
が、後任も来ぬまま離脱などすれば完全に職場放棄となり、今後の生活と命が危ない。
 
調整官様が現地入りするまでは維持待機を命じられた以上、従うほかない。
 
碇ゲンドウの抹殺も命じられていないし、隠れていても全然問題ないわけだった。
福音丸の近くにおらぬのは我ながらナイス判断だっといえる。あの蒼いエヴァ・・・・これだからこの業界は油断も隙もないのだ。隠れているのが一番だ。黒い幕をまくったとて、そこには誰もいないのだ。こと潜むこと隠れることで人後に落ちることはなく、いやさ世界最高の猟犬、探偵、霊媒師であろうと、発見されることは絶対ないだろう・・・・
 
 
しかも、こんな業界のことであるから。
 
それなりの、罠は仕掛けておいた。当然のことだ。
 
ちょっとした人格崩壊級の。
 
 
 
ここは・・・・・
 
 
とても有名日本画家H山美術館。
 
 
 
通常であれば、このような舞台があればダ・ビンチコード的、いやさ日本であるから平賀源内風バトルが繰り広げられるところではあったが、そんなこともなかった。
 
 
単純な、素人が聞いてももちろん、玄人が深読みせん限り、べつだんどうといった威力もありそうもない銃声が、響いただけで。
 
 
”弱点”さえ掴まれなければ、そもそも勝負にならぬほどの「格」の違いではあったのだ。
 
 
しかも、意外性をねらったにしろ、ルーブルとかエルミタージュや大英博物館ならともかく、ここH山美術館ではちとスペース的に不足だったといえる。
 
 
たとえ今は無職であろうとも。碇ゲンドウは。マダオなどではなかったのだから。
追われる方にしてみれば、限りなくマモノに近い。影よりも闇よりも黒々とした。
そこに潜むものどもに対する天敵・・・・無窮にして無給狩人であった。休みもない。
 
 
あつかましくも「求法高僧東帰図」に入り込んで隠れていた影使いをあっさり無言で引きずり出すと、
 
 
「せ、せめて名前くらい言わせてくれてござる!!人情でござる!松の廊下でござる!地位的にも雇われ現場監督くらいなのに、そんなとこだけ御前様扱いは勘弁でござる!我が名は・・」
 
 
「・・・・・・・・・・」
 
 
銃も使わず眼力だけで屈服させて、最後まで名前を聞くことなく。
 
せめて、「なぜ、影の罠を突破できたのだ!?」とか六分儀二十七章たちも「あ、それ、うちらも聞きたいわあ」「あそこまで本性見せられてゆるぎもへん、おおかみはんのお心、聞きたいなあ」内心で知りたかったことを聞いていれば付き合い上、碇ゲンドウも答えたかもしれぬのに。沈黙の射殺であっさり片付けて、影殺しの説明も何もなかった。
躊躇も迷いもありはしない。もうそれは、簡潔で素早いものであった。
 
ちなみに、本物の影は当然のことながら、ここまでやってきた碇ゲンドウのものだけで、あとは朧細工のようなものであった。
 
 
ここまで追いかけてきた相手の異常執念、精神状態を考慮するにもはやブチ殺されることを当然、覚悟していた影使いとしては、碇ゲンドウがこっちを生かして使おうとする・・・・当面のことであろうがそれで十分、ホームランドに帰ってしまえばまた別の隠れようもあるのだから・・・・ことに安堵し、大人しく従うことにした。命があれば、名前など。後世に残す仕事をするわけでもなし。しかしながら意外ではあった。てっきり、こっちを殺して腹いせすれば、あとはすぐさまここを出るのかと思っていた。というか、立場上、そうするしかあるまい。留まっていいことなど何一つなく。最強の影を捕獲(だろうか?)、こうやって案件が片付いたならぐずぐずと居残るタマには見えないのだが・・・・・
 
 
子供の安否の確認もせず、こちらの背後から後任の手配・・・・・現状では現場監督であるが、工場化が終われば天領代官の目もないとはいえなくもないポストであるから望む者はいくらでもいる。すでに調律調整官の測量作業が開始されている以上、時間との競争またはそれでも飢獣のごとくあぶなおいしい話に食いついてくる欲深レベル、このへんの人脈の読み具合は碇ゲンドウの独壇場で、影使いは言われるままのことをするだけの人形となるしかない。殺されもせず、要望を叶えてもらっているといえなくもない状態に文句も出ようはずがない。二十七章たちも結界はりつつ絵画見物に。
 
 
・・・・・しかしながら、この作業になんの意味があるのか、影使いには分からない。
 
意味というより。碇ゲンドウにとって、なんの利得があるのか。
 
上位組織の意向に沿いつつも、その足並みを乱し、わずかながら時間が出来るだけのこと。
わずかながらも天領化が終了するまでの時間を稼ぐ程度の意味しかない。
調調官の処理速度をもってすれば、多少の横槍など問題にもならぬ。
稼げるかもしれぬ、という、わずかな可能性があるかもしれぬ、というレベルだ。
他の事象ならば望みもないが、ことに人事、役職認定絡みとなれば、というのは。
 
そんなことが大好きな人間が、ゼーレにそろっているのが、狙い。なのだろう。
 
天領化が中止されることはありえない。絶対に。されようがされるまいが、碇ゲンドウにはあまり関係もなかろうし、この地をいくらいかに弄くろうと、元のネルフに返り咲きの目はない。が、このガーゴイルの如き邪悪の笑みを浮かべながらのこっちを基点とした人事介入・・・・・まあ、なるほど急ごしらえの影の相手に出来たものではなかったことは理解できた。
 
 
調調官に連絡してこの髭悪魔から解放していただきたい、というのもあるが、このまま
邪悪の髭男のいいなりになるままに、安楽な帰国を願いたい、というのもある。
 
 
影使いのスキルのみを見込まれてこの任を命じられたのがよく分かる根性を碇ゲンドウは見抜いている。ユイの影さえ手元で操ることがなければ、登場と同時に左眼に斬殺されていただろう。
 
 
「・・・しかし、子供は、子息はいいのでござるのか?しぶといのでこちらもついムキになってしまったでござるが、ただではすんでござるまい・・・・・」
 
人類補完委員会の中位メンバー、委員Cこと、イインシー氏に、というか、氏が、後任を勝手に望んで勝手にズバズバ食い込んでくるように仕込んだところで一段落。そこでどう考えても悪魔でありとても人の親とも思えぬような態度と振る舞いしか見えぬ碇ゲンドウに問うた。むろん、返答を期待してのものではなく、単に息苦しかったから息抜きのためだった。が、
 
 
「・・・・・・男親にとって、子供、それが息子ならば・・・・」
 
意外すぎることに、今さらの返答があった。元来であれば、己の影に喝破してぶつけてやるべき言の葉を。
 
 
「あれくらいから、面白くなる・・・・・・そうでないうちは、相手にも、できん」
 
 
息抜きのために聞いただけのことなので、むろん、その心中を推し量ることなどしない。
どうせ悪魔の呪言だ。専門家でもなく、解読など。
まあ実際、碇ゲンドウも千里眼までもっていないので息子が今、どういう目にあっているかなどと知った上での発言ではなかった。多少の見栄が、ある、かもしれない。
 
 
影使い敗北の事実を知らぬ、その情報が走らぬ時間は値千金、今の内に。
それから、また人事、いやさ魑魅魍魎工作の段階を進めようとしたところで
 
 
 
「お客様にお呼び出しを申し上げます・・・・・・・」
 
 
館内放送が、流れた。
いい年こいて年中泣いているようななんとも湿っぽい、女の声だった。
 
 
影使いもギョッとした顔で碇ゲンドウを見る。六分儀二十七章たちも仮面ではあるが、怪訝な、といったように首をひねった。自分たち以外に館内にいるはずがない。
しかしながら、その”お客様”が誰を指すのかは即座に分かった。
 
 
碇ゲンドウに決まっていた。
 
 
「碇ゲンドウさま、碇ゲンドウさま、受付までおいでください・・・・・引き続き、館内利用の注意事項をご案内いたします・・・・・・ ・館内は禁煙となっております・・・・・・ロビー以外での写真・ビデオ撮影は禁止させていただいております・・・・・万年筆、毛筆、ボールペン、絵の具などインク式筆記用具や、作品を汚す・・恐れのあるものは使用禁止とさせていただいております。・・・飲食物の持ち込みや、館内での飲食はご遠慮ください・・・・・・携帯電話通信機器のご使用は、他のお客様のご迷惑になりますので、・・・・電源をお切りになるか、マナーモードに設定の上ご鑑賞ください・・・・・・・・作品には手を触れないでください・・・・・・ペットとの入館はご遠慮ください・・・・・・・・長い傘は入口の傘立てへお預けください・・・・・それから、悪質な脅迫行為、越権の人事介入行為はおやめください・・・・・」 
 
至急といわれたわけではないが、さすがにああまで言われれば、早足で受付にいかぬわけにはいかぬ。しかし、受付にいけば、 いったところで誰もいない。それは分かり切ったことではあるのだが。いるはずがない。
 
 
予め仕掛けられていた釘を刺されただけのこと。この完全完璧な芸当。
 
妙な物言いは、他の一般客がいる場合を考慮したのかもしれない。調調官は無辜の民には呆れかえるほどに優しい人種だ。何時に発動するかまでは神ならぬ身に分からぬとしても、この先読みと下準備・・・・・・人並みなど超越しすぎている。ゆえの調調官。そして、現在無職の自分は民側の人間といえる。
 
 
ゆえに、この程度のおっとりとした警告で済ませているのだろう・・・・・
 
もし、自分がまだ司令職などにあれば、放送などではなく爆弾爆発、爆死していることだろう。影使いもろとも。
 
 
くくく・・・・・
 
 
真性邪悪としか思えない笑みを浮かべる碇ゲンドウ。べつに受付に急いだのは調調官、エイリ・アンハンドの声に恐れ入ったわけではない。この笑みを浮かべるのがちと我慢できなかったからだ。二十七章たちにならともかく、影使いにこれを見られるのはまずい。
ゼーレの名を知るものならば、調調官の声など聞けば戦慄するだけで笑いなど湧きようもない。あるとすれば恐怖と重圧のあまりの発狂のはじまりであろう。ましてその意に逆らうなど。正面切ってはとても敵わぬゆえに、裏からセコセコと人事をいじってわずかな遅滞時間も稼ぐことを許さない、などという相手を、出し抜こうとは、普通、考えない。
たいていの人間は、ここまで封殺されれば、諦める。
だが、碇ゲンドウは笑う。真性邪悪そうに、唇をゆがめて。
 
 
「こうまで完全であれば、ああまで歪んで不完全のことなど・・・・・」
 
 
戻れるまいよ、と。口にはしないが。その目は。
 
 
そうとも知らず、乗せられてその気になって天領代官ポスト獲得に本気になって動き出した人類補完委員会・委員C氏こそいい面の皮の浪花節であった。
 
 
 
直後に、シオヒト・Y・セイバールーツと名乗る男から通信が入った。
 
冬月の命が惜しければ、なにもするな、などという稚拙な脅迫だった。
 
どういうわけか、息も絶え絶えの声でこんなことしているヒマがあったら病院に行けと思うほど。冬月先生がよほど抵抗したのかどうか。いや、映像はないから知れぬが、病院で治療中なのかもしれないが。その体調でこんなことがやれるのは誉めてやってもいいが。
 
 
「あー、碇。そんなわけだ」
の一言だけが生存証明。脅迫者よりもはるかに元気そうなのだが・・・・・
「そうか。では、そうしよう」
 
 
可能な限りやれることは既に終えた。打てる限りの手は打った。これ以上は出来ない。
 
調律調整官にすでに告げられた後であるから、さほど意味のある脅迫ではないが、大人しく従うことにする。いくらなんでもここで逆らったあげくでは、先生も犬死にすぎる。
現体制のネルフが先生一人の肩で支えられているのは、子供にでも分かるであろうし。
作戦部長の一人ならば、その程度の判断はつくだろう、と思っていたら。
 
 
「天領化された後のその街の管理は私に任せて頂きます、よ・・・・・」
 
すぐさま転職する気でいた。なるほど正解だろう。見込みはある奴だった。その点、息子とは正反対だが。息も絶え絶えで今にもくたばりそうなあたりなど。特に。