ふーふふ、ふーふふふ、ふっふふふーふーふふ。
第九では、むろんなし。銭形平次だ。銭形平次の鼻歌だ。
自転車を漕ぐ足も、ちなみにブーツだ、行く先をしっかり知っているようだ。
止まっている自動車どもをキコキコ笑っている。
「さあて、高見の見物がしたけりゃ急がぬとな」
自転車おじさんはビルの路地裏に曲がってゆくとそこで止める。勝手口でもなかろうに、そこには分厚いドアがあった。赤いカードキーでそれを開けてしまうと、自転車ごと乗り入れる。その先は地下にむけての暗い通路になっていた。
キーッ、キーッ。自転車のブレーキを利かせっぱなしにしてるのが闇に響く。
いかにもたこにもな秘密通路をゆくこの自転車。乗り手。
謎である。
が、所属くらいは明らかにされている。自転車の後部にはプレートが貼ってあり、そこによく見れば「ネルフ」のロゴが打ってあった。
そうこうしているうちに、自転車おじさんは闇の底に消えた。
ドス、ドス、ドスッ。
零号機のライフルが使徒のコアを狙撃する。なにせでかい的だしむき出しになっている。ATフィールドさえ中和すれば当たるのは容易い。3発命中。
コアがどれくらいの強度をもつのか、初号機との戦闘はアレであるからあまりデータとしてはあてにならないが、とりあえずの見当くらいはつく。
「物理的衝撃で壊せないものではない」
これである。科学的に、確証があっていえるのはこれくらいなものだ。
なにせ相手は神様の使いだ。物理衝撃は効かないという反則もOKな感じなのだ。
今、その見当を実証する。
さらに、4発ほど食らわせる。使徒はその場に停止したままだ。
「なにさらすねん」
目玉模様がそう言って零号機のほうへ向いた、ような気がした。
初号機の左腕をつんつんするのはやめて、さっきから何やらガチガチ撃ち込んできよる
黄色い一つ目巨人にヤキをいれるべく、接近してくる使徒。
光る鞭は仕返す脅しを表現するように、ヒュンヒュンと回転させている。
怒らす肩はないものの、その接近は余裕のヤっちゃん、ではない、よっちゃんで、悠然。
コアは誇らしげなバッジのように輝き、亀裂のひとつもない。
その接近に動じない零号機。コア狙撃を続行する。
後退させるべきか。コアには変化がない。銃器ではあの丸みに弾かれでもするのか。
葛城ミサトは考えた。
後退だ。向こうが空中浮遊形態をやめて、地に足をつけるのならば、他にもやりようはある。地の利だけはこちらにあるのだ。
「レイ、ひとまず後退して」
この場合の後退とは、リフトで地下に戻ることだ。どうせ5秒で戻れる。
焦ってみてもしょうがない。他の手を考えましょ。奇襲はちゃらだ。
作戦がこけたとしても、負けるわけにはいかないのだ。
「はい」
綾波レイはすぐさま後退にかかる。躊躇なし。怯えることはないが無用に猛ることもなし
作戦のさの字も伝えられなかった第一次直上会戦とは大違いだ。
左腕はあとで回収してあげるからね。
使徒は、怪獣のように破壊本能の赴くままに街を壊すということはしないらしい。
そのかわり、逃げ・・後退にかかった零号機を許さずに追いかけてくる。
だが、その移動速度に変化はないので追いついてくる心配はなかった。
「仕切直しね」
赤木博士も友人の判断は、適当だと思った。良い意味でだ。
しかし、使徒はそれほど甘い相手ではなかった。
零号機が、がくん、と動きをとめた。
後ろからひっぱられている。後ろから、アンビリカルケーブルを。使徒が。
「何」
「ケーブル外して!早く」
遅い。ズルズルズルズル・・・・・あっと言う間に使徒の足下まで引き寄せられてしまう
零号機。
「わてから逃げられるとおもうてんのか、われ」
見下ろす目玉模様は確かにそう言っていた。
零号機ケージ。
その片隅に壁に寄りかかって、携帯テレビのようなものを見ているプラグスーツ姿の、渚カヲル。画面には、使徒の足下に引き寄せられた零号機が、ライフルを取り上げられる光景が映っている。状況はさらに悪くなりそうだ。
「そんな手があったとはね・・・エヴァの意外な弱点だ・・・ん」
赤い瞳が奥の通路に人影を映す。かつーん、かつーん、脚の強そうな靴音。
はて。誰だろう。なんとなく偉そうなこの靴音は。整備の人は安全靴をはくものだ。
こんな時にここにこれるような余裕のある人間はいないはずなのに。
「ここがケージか。なるほど、でかいのう」
感心するにはまだ早い。ここの主は地上に出ていて留守なのだから。
入り口のあたりでそう言うと、人影はきびすを返した。かつーん、かつーん。
「発令所はどこかのう。早くせんと終わってしまう」
人に聞かせる気はないようだが、何せ声がでかい。渚カヲルもしっかり聞こえた。
発令所?こんな時に何しに行く気だ。
間の抜けた感想といい、発令所に自力でいけないところといい、まるで酔っぱらいのようだが、本物の酔っぱらいが入り込める場所ではない。それに足音を聞けば、分かる。
その人物は確固たるなにかがあってこの場に来ているのだということを。
「もしや、新兵器を届けにきた博士か何かじゃないだろうか」
などという妄想は湧かない渚カヲルである。
ほうっておくことにした。
それより、画面の中の零号機はさらにひどい目にあっていた。
怒濤の鞭攻撃。
ATフィールドのおかげで切り刻まれることはないが、衝撃までは面倒見切れぬ、と零号機を容赦なく震わせる。エントリープラグ内もシェイカー状態。中にいるパイロット、
綾波レイはたまったものではない。
攻撃どころか気を保つので精一杯。
碇ゲンドウがこの場にいれば、恥も外聞もなく「レイ!」と叫んだことは間違いなしの大ピンチ。代わりに葛城ミサトが叫ぶ。
「レイ!」
「くはっ・・・」
近接戦闘になれば手も足もでない、この予想だけは見事に的中した。
支えているATフィールドも限界になってきた。
ギュルルルル・・・・・光る鞭が寄り合わされて一つになる。双条鞭とでも言うか。
単純計算しても威力は倍増する。トドメを刺すつもりだ。
「ATフィールド限界です!消滅します」
よりにもよってこんな時に。パイロットが気絶したのだ。
これではモロに双条鞭ヲ食らうことになる。天頂から真っ二つにされるだろう。
哀レ、零号機。
「ここは・・」
目の前に続く白い回廊。病院・・・いや違う。この風景は見覚えがある。
窓の外のばかでかいレインツリー。人気のない芝生の広場。
そうだ。研究所だ。ゲヒルンの人工進化研究所。
綾波レイは、白い廊下を歩いていた。いつから歩いていたのか。覚えていない。
白い廊下が目の前に唐突に出現したのか、それとも自分が。
なぜ、ここにいるの・・・。ここにいたのは7歳の時まで。
ゲヒルンは解体され、人工進化研究所は閉鎖された。これは過去の幻か。それとも夢か。ならば、自分は何歳なのか。意識は14だと告げている。
考えながらも歩いている。7と14。7と14。7と14・・・・。
誰もいない。誰にも会わず。研究室のむこうには気配はない。
ふ
歩が止まる。視線が窓の外に。
人の姿。子供の姿。子供がふたり。男の子と女の子。芝生の上に座りならんでいる。
女の子は・・・・自分だった。
隣の男の子は・・・・誰だろう・・・7と14、7と14、7と14・・・・。
この頃は5つくらい・・・・その時にこんなことがあったのか。
窓の光景を見ている。
男の子の方が、おずおずとだが何やら話かけている。女の子は黙っている。
しばらく、それが続いていた。しかし、女の子の反応はまるでない。
赤い瞳が静かに男の子を見つめている。きれいな目だが、5歳の少女の仕草ではない、男の子はこわくなったのかもしれない。泣きべそをかきはじめた。
それでも女の子はなにもいわない。静かな表情もかわらない。
「はい」
窓の内に声が聞こえた。女の子は、白いハンカチを取り出すと男の子に渡す。
意外な顔をする男の子だが、すぐに笑顔にかわる。さすが子供だ。まるでカラス。
男の子がなにやら言っている。今ので安心したのだろう、話し方にも堅さがとれた。
やけにうれしそうだ。その内容は聞こえない。自分の声ではないからか。
この男の子は誰なのか・・・・・。
見たような気がする。どこかで。
「あら。サードチルドレンが、ファーストチルドレンと」
いつの間にか後ろに人がたっていた。研究員らしい白衣の男女。窓の外を見ている。
サードチルドレン・・・・。
「おい、その言い方はやめておけよ。碇さんに聞かれたらただじゃすまないぞ」
「え、ええ。そうね。私ったら、ついクセで」
「直しておいて方がいいぞ。研究を続けたいんならな」
サード・・・・碇・・・・・。
碇シンジ。
窓の外の男の子はまだ何かを話している。思いに言葉がついていかないもどかしさで。
とりとめのないことだったか、それとも。
発令所の誰しも、真っ二つになる零号機を想像した。そのくらいの情け容赦ない一撃。
エントリープラグさえも裂かれて、その中のパイロットは・・・・・。
オペレータの中には、その光景に耐えきれず目をそむけてしまう者もいる。
だが、一歩も引かずモニターを睨み付ける者もいた。
葛城ミサト、赤木博士、冬月コウゾウ。真実は彼女らのものだ。
使徒は双条鞭を振り下ろす動作の途中で停止している。
完全な停止。鞭は光を失い、硬化してただのねじりん棒になっていた。
「使徒、完全に沈黙しています」青葉シゲルの報告に、背けていた者も顔を上げる。
まるで時間が止まったような使徒の光景に誰しも言葉がない。
憑かれたように中央モニターを見上げている。
赤いコアは握りつぶされていた。初号機の、「左腕」に。
扼殺。
使徒は完黙。零号機も無事だ。勝利したというのに静まり返る発令所。
これが勝利か。言ってみれば、隙をついての使徒殺しだ。
使徒殺し。
スタッフの視線は初号機の左腕にある。紫の、悪魔の鍵のような指をもつ手。
まるで魔法のように現れて、気づいた時はコアを潰していた左腕。
使徒も自分がどうやって天国に強制送還されたか、さっぱり分かるまい。
人間の知恵と勇気と科学力ではなく、魔人の力に頼って勝ってしまった。
そういう気分が沈黙の源。
今にもモニターに初号機の顔が現れ、代償に魂寄越せなどと言い出すのではないか。
迷信不安に支配される時間。この場にいる者の頭脳はしばし太古の昔に逆行していた。
「勝ったな」
「レイ!レイ!大丈夫、生きてる?零号機、すぐ回収して」
「マヤ、初号機の左腕、今の動きのデータ、とってあるわね」
真実を目にしている者だけ、その呪いを受けつけない。
冬月副司令、葛城作戦部長、赤木博士の声が古い時間を終わらせる。
発令所が息を吹き返す。各々、自分の仕事に動き出す。騒然。
そこにもう一声、かかる。
「油断するな!第一次直上会戦を忘れたんか!」
鯨が吼えたようなでかい声。先ほどとは別の沈黙が下りる。声の張本人を見やる。
かつーん、かつーん。堂々と近づいてくるその人物。
その人物の方を見たいのはやまやまだが、言われた通り新たな使徒の出現に備えて、モニターから目が離せない。それに、限界の零号機を回収する作業もある。パイロットの体も心配だ。
声は下品なほどにでかいが、内容は正当なものだ。葛城ミサトもレイのことがなければ、その注意を忘れなかっただろう。
「さすがにネルフの職員は、噂通りに優秀じゃのう。打てば、響くな」
誉められるのは嬉しいが、その人物は得体が知れぬままであるし、何より基本的に偉そうだった。
「来てくれたか」
冬月副司令は、この人物を知っているらしい。まあ、この人が知らなければ誰もしらんだろうが。
「いやあ、駅まで迎えに来てくれるもんだとばかり思っとりましたが、時間にも誰もおらんし、バスもタクシーもない。仕方ないから、駅までネルフのマーク付きの自転車があったもんですから、鍵壊してそれに乗ってきましてな。多少遅くなりました」
くったくがない。自転車を無断借用してきたことも、戦闘が終了してからやってきたことも。やらかしたのはそれだけではないはずだが、話す気はないようだ。
苦笑する冬月コウゾウ。未だ戦闘態勢のはずだが。
「同じ手をつかってくると思うのかね」
「もう来んでしょう。戦気が晴れてきていますからな」
話されるのは挨拶ではない。未だ第一種戦闘配置なのだ。冬月副司令の問いに、人物は
「戦気」とかいう得体の知れぬ用語で否定した。この科学の城の中で。
「どちらにせよ、零号機は使えんな。零号機回収後、第二種警戒態勢に移行」
それを鵜呑みにしたわけでもない副司令の命令が下る。
「はい」
葛城ミサト作戦部長が応える。これで作戦は終了したわけだ。一応。
「レイの様態は」
「意識は戻っていますが、体力の消耗が激しく、衰弱気味です」
伊吹マヤが答える。同時に指がコンソールを忙しく行き来している。
あとは救護班の仕事だ。死ななくて、良かった。緊張が解ける。
そうなると、他のことに頭がいくのは人情だ。
「先ほどは、的確なご注意有り難うございました」
副司令と話しているところを見ると部外者でもなかろう。戦自の人間でもなさそうだ。
第一、その制服・・・・焦げ茶の、どこかネルフ士官用制服に似ている。
襟章はなく、無理矢理つっこんだような膝までのブーツ。
そして何より、その帽子。戦艦の艦長がかぶってそうなあれだ。ツルツルのハゲ頭に滑っていきそうだが。それから手入れの行き届いた八の字の髭。
肌は黒いが、背は低い。昔の日本人体型で、かいな力がありそうで眼光も強い。
歳の頃は・・・活力はありそうだが、60代だろう。
グン。目玉をのぞき込むようにしてくる。引き綱で引っ張られそうな錯覚。
「礼はいいぞ。葛城一尉。作戦部長として当然のことだからな」
「へ」
「あまり見とらんかったが、おそらく最後を飾る見事な指揮じゃったのだろう。
ご苦労だったな。うんうん」
「は」
何いってんの、この爺さん。理解不能な葛城ミサト。
「途中で花でも買ってこようかと思っていたが、どこの店も閉まっておるんでの。
買えんかったわ。わっはっは」
地声なのだろうが、声がでかい。それは発令所の全員が聞いてしまった。
「副司令・・・どういうことでしょうか」
なにか根本的な誤解があるようだ。当人に聞くより責任者に聞いた方が早い。
「悪ふざけがすぎるぞ・・・・こんな折りだが、紹介は早いほうがいいだろう」
窘めるように言うと、ようやくこの人物の名前を明かす。
「野散須(のちらす)カンタロー、本日付けで作戦部の顧問になる」
「ほ」
「知ってたんでしょお、赤木リツコ博士」
「ええ」
夜も更けた時刻の赤木研究室。女性二人、コーヒーを飲んでいる。片方は不機嫌、片方はいつも通り。
「なんで教えてくんなかったわけ?どいつもこいつも。日向君も知ってたみたいだし、ね」「使徒再訪を前に、精神不安定な作戦部長に配慮した結果じゃないの」
「ふん。作戦顧問の襲来ごときでなんであたしが不安定になんなきゃいけないわけ」
ずずずーーー。熱いだろうにコーヒーをすする。
「作戦部長はあなたよ、ミサト。あちらはサポートしてくれるための顧問。
やり方を変える必要はないわ。そんなに器用じゃないわけだし」
などと言いつつ、技術部にも顧問とか称す分けのわからん老人がやってくれば、なおかつ自分の仕事に口出ししてくれば、頭にくるだろうなと思う赤木博士。
科学技術は客観的なデータをもとにそこから会話していくことも出来ないでもなかろうが、作戦などという臨機応変なものに、言ってみればいくらでも口の挟みようのある分野に頭の固そうな老人がやってきた。これからの苦労が目に見えるようだ。
ミサトが無駄と分かっていてもぶーたれる気持ちも分かる。
人を慰めることなど経験のない赤木博士は、まるきり芸のない慰めを言う。
いわば、客観的事実を。
ずずずーー。ジト目でコーヒーをすする葛城ミサト。だが、余人は知らず。
くそー、そうと知ってりゃあ、初号からガンとやっておいたのに・・・・。
などと敬老精神に欠けることを考えていた作戦部長なのであった。
「ま、そのことはいいわ。人ん家でいつまでも愚痴ってるわけにもいかないし」
「ここは研究室よ」
「似たようなもんでしょ。・・・・それで話はかわるけどさ。あれ、一体なんなのよ」
急に声のトーンが落ちる。
「あれっ、て?ここは研究室よ。小学校の教室じゃないわ」
「今度はリツコが苛ついてるわけだ。解析不能?」
くっ。慰めてやったというのに。科学は魔法じゃないのよ。研究もしてないのに分かるわけないでしょ・・・・。尤も、研究しても分からない公算の方が大きいけど。
しなやかな白い指が机の上のキーボードに閃く。すぐに映し出されるある光景。
使徒が光る鞭を寄り合わせて、倒れている零号機に振り下ろす、その一瞬。
画面はスローモード。200分の一秒にしてある。
カメラの視点は先ほどの命令で、ある一点で固定。
使徒と零号機を遠景で左端におさめている。