七ツ目玉エヴァンゲリオン



第伍話 「使徒、宣告」




「はい、葛城です」
日向マコトはここで祈った。どうか、碇シンジ君でありますように。間違い電話ではありませんように。そうしながらも電子地図のキーワード検索に指が構えている。
逆探知も自動的に始まっている。
「あ・・・碇シンジです」
当たりのようだ。固まりきっていた表情に人間が戻っている。
「シンジ君・・・・・・」
はらはらと胸の内のなにかが緩やかに溶けていっている。その音が聞こえる。
「今、どこにいるの」
かすかに囁くような。父親に叱られ、しばらくの家出をすることにした小さな弟に対するような。おにぎりをもってその隠れ家に迎えに行くような。

いますぐ、いくわよ

囁いた言葉の裏に支える響くほどに強い想い。
自分に電話をかけてきてくれた。何も知らなかった子供の背を押しやって、誰一人として知らぬ闇の中に迷わせた自分の元に。
「あなたの・・本当の体はどこにあるの」
魂が呼びに来ている・・・・葛城ミサトの理解はこのかたちだった。
LCL云々は手段に過ぎない、伝えようとする意志があるからこうしてかかってきているのだ。どう説明つけようと、そんなもんはどうでもいい。
伝えようとする、というのは生きているということだ。そう言う意味で葛城ミサトは霊を信じていない。死んだのに、この世に話しかけてもしょうがないでしょ。
生きていればなんとかなる。エヴァに乗ったことで普通の子供でなくなったかも知れないけど、その普通じゃない点があなたを守ってくれるなら、あたしはそれを願う。
ひどい女かもしれないが。それは顔を上げて言える。
電力供給も途切れ、内蔵電源もとうに切れている。LCLも濾過されない。
これだけの時間を経てエントリープラグから脱出出来ていない場合それは死を意味する。脱出できたのならば、そこが世界の果てというのでもなければ連絡をよこすはず。
それに大体、初号機のようなものをネルフ相手に隠し通せる組織はない。
まさしく、天上に拉致されたか地獄に突き落とされたか、人外の境にあるのだろう。
そこから連絡取るとなれば・・・・・魂でも飛ばすしかあるまい。
「本当の体って・・・葛城さん、僕のことが分かるんですか」
初めて理解された者の戸惑いと喜びがないまぜになっている。
ほんとにこの子も意識してやっているんじゃないようね・・・・・。
「僕が僕なのか、よく分からなくて・・・なにいってるのかな・・・なんていったらいいのかな・・・・あ、すいません、自分でも分からないのにヒトが分かるわけないですよね・・・でも、切らないでください・・・お願いします・・・」
聞いているだけで痛いくらいの切実。胸を不器用なナイフで切り込み入れられる感じだ。不器用なだけに痛みが増す。しかし、それをしっかりと抱え込む葛城ミサト。
「あなたからの電話をずっと待ってたのよ・・・さっきは留守電でごめんなさいね」
それだけに、声は相手を落ち着かせる力があった。
「聞いてるから、分からないところも話してね。電話代は気にしなくていいから」
最後のは相手の気を和らげる意味もあるが、事実である。特殊回線に切り替え済み。


「ありがとう・・ございます・・・ほんとうに・・・うっ・・・うう・・」
しばらく嗚咽が続く。
ただ伝えたい、助けを求めているのに、体が不安定な、わけの分からない状態になっているというのはいかばかりの不安か、孤独か。
そして、その不安と孤独が終わる兆しの明かりが見えた時、どれほどの安堵に包まれるのか、予想もつかない。する資格もないだろうが。
葛城ミサトは嗚咽を聞きながらも、くるくると頭を回転させていた。
日向マコトがボードに書いてみせる情報には、逆探知の結果、公衆電話、しかもボックスとある。風雨に飛ばされる心配はないが、時間をかけていると、また水音とともに消えてしまう恐れがある。
かといって、心を開きかけているここで余計なことを云えば話自体が打ち切られる心配がある。難しいところだ。
「シンジ君、ごめんなさい。ちょっと、いいかしら。大事なことなの」
「・・・・あ、すみません・・・・なんでしょうか」
「シンジ君、あなたはあまり長くは話せないのよ。体が水になったような感じがしない?それと、気づかないうちに場所が移り変わっていた、とか」
「そうです!そんな感じなんです。体も服もずぶぬれなのに、ちっとも寒くないし・・」自分がどうかなってしまってもそれを説明する言葉もない、理解してくれる他人もいないというのは・・・キツイわねえ。
「葛城さん・・・僕は・・・・どうなってしまったんでしょう・・」
100%、完全に、不安を払うほどに、この問いに答えてあげられればどんなにいいか。「わたしにも分からないの。でも、こうして電話をしていることはハッキリと現実だわ。あなたはそこにいる」
しかし、説明が欲しいのではなく、不安を和らげて欲しいのだろう。葛城ミサトは出来る限りそれに応える。
「シンジ君、そこに雨は降っているの」
「え・・・あの、電話ボックスの中ですから・・雨は」
「そう。じゃあ、少し開けて雨が入るように、体が濡れるようにしておいて」






渚カヲルは、雨の中傘差し片手運転で自転車を疾走させていた。
傍目には、遅刻しそうで急いでる中学生に見えただろう。珍しく厳しい顔をしている。
その赤い瞳は道行くすべての人間をサーチしていた。
求める姿はただ一つ。

碇シンジ。

彼は悔いていた。
昨晩、その姿を見て、傘の内にいれてすぐ隣に歩いていたというのに、去られた。
あの時、さっさと居場所を聞いておけばよかった、などという類の悔いではない。
話したくない人間に無理矢理口を割らすなど、渚カヲルには出来ないのだ。
あの姿がLCLの映す幻像であったことに気づかなかったことでもない。
ミスかも知れないが、失敗を悔いているわけでもない。
渚カヲルが悔いているのは・・・・・。


ぴーぴーぴー、ぴーぴーぴー、
蜻蛉のような携帯が鳴った。熟練のガンマンのような手さばきで耳に当てる。
「はい、渚です」


同じように捜索を続けている者たちの元へも連絡がいった。




「なんとか第弐段階は成功したわね・・」
本部では赤木博士が都市地図をモニターした画面を見ながら呟く。
こればかりは完全な運任せであるサードチルドレンの連絡。それがうまく来るとは。
誰も見ていなければ小躍りの一つでもしたいところだ。
「ミサト、うまくやりなさい」
「あの、先輩」
「なに、マヤ」
「第弐段階って仰いましたましたけど、第一段階ってなんだったんですか」
「こんな怪しげな幽霊話をして、科学者として皆に信用してもらえるかどうか、よ」
「わたしは先輩を信用しています!いつでも・・・」
「あ、ありがとう」
なぜか顔を赤らめる赤木博士。


ビーッ、ビイーッ、ビイーッ、ビイーッ・・・・
まさか赤木博士に触発されたわけでもあるまいが、警報が鳴り始める。
「強羅絶対防衛線にいきなし出現しました!パターン青、使徒です!!」
このために本部に残っていた青葉シゲルはまさかの仕事に言葉遣いがおかしい。
「青葉君、いきなし、ではなく、いきなり、だろう」
直属の上司(というか監督)である冬月副司令が真面目な顔で云う。正気だ。
狼狽えてあたふたするよりはいいが、ちょっと不気味だ。
「はっ。訂正します。強羅絶対防衛線にいきなり出現しました!」


使徒、襲来である。
中央モニターに映し出される使徒。
それは云うならば、巨大な、一つ目のテルテル坊主であった。
見かけ通りに比重が軽いらしく、ふわりふわりと雨天に浮いていた。
地上300メートルほどの上空だが、風に吹かれるように第三新東京市に向かってくる。「い、いくら雨だからって・・・・」
伊吹マヤは若い女性らしく、かわいいものが好きだが、あのテルテル坊主型の使徒はかわいくないから嫌いであった。あの一つ目が不気味だ。同じ一つ目でも零号機を見習えば、いいのに。・・・言葉に出さないないのは賢明であっただろう。


「うーむ。あんな奴はいたかな・・」
これまた声には出さず、頭の中で裏死海文書をめくってみる冬月副司令。
・・・おらんな。碇なら、「問題ない。何事にもイレギュラーは存在する」などと云う所だな。仕方がない。ここは私が命名してやることにしよう。
第一発見者の名前から・・・青葉君ということになるのか。

アオバエル。

なんとなくいいな。これが佐藤とか鈴木とかいうとちと変だが。
しかしまてよ・・・。あの使徒には髪の毛、らしきものすらない。完全な禿頭だ。
私が考えているのだから、それは「とくとう」と読むように。蛇足だな。
それはともかく、青葉君のキャラクターを生かしていないのだから、それでつけてしまうのもなんだな。楽器も弾きそうにないしな。
他のにするか。・・・基本的で分かりやすい、嘘でも大げさでも紛らわしくない名前を。テルエル。
・・・・・・こんなところだな。



「総員第一種戦闘配置!」
呆けていたわけではない。さっさと命令は下した後だ。あとは作戦顧問もいる。
「葛城一尉への連絡はどうしましょう」
「説得は続行させろ。この機会は逃せん」
「問題はシンジ君ね」
赤木博士は呟くが、どうすることもできない。早めにミサトが聞き出してくれるのを祈るしかない。使徒はこちらで倒しておこう。

「零号機を出してくれ。伊吹さんや」
日向マコトがいない分は他の者で補うしかない。第3戦目にして変則シフトに緊張するオペレータ達だが、年寄りたちは若者の気合いが抜けるようなことを云ったり考えたりしていたのだった。
「それから武器は火炎放射器を頼む」

ぎょっ。いくら雨だからといって・・・・伊吹マヤは使徒に対するのと似たようなことを内心呟く。
「よ、よろしいんですか」
「構わんよ。どうせあの体型じゃ銃器も鈍器も刃物も効かんからの」
作戦顧問、野散須カンタローは平然としている。


使徒来襲。




綾波レイは零号機に搭乗する。
控えていた甲斐があったが、少女の表情はいつものまま。無表情。
使徒がいきなり出現したことも、作戦を指揮する人間がいつもと違うことも、心の線を揺らすことはない。
エントリープラグに乗り込む前に、一度だけ赤い瞳が初号機ケージ、がらんどうの拘束具の方を見た。

碇シンジ。

一度も会っていない、声も聞いたことのないサードチルドレン。碇司令の子供。
ただ、見たことはある。見たと思った。
そのことを考えると、わずかに、震えるほどに、心の線が揺れるのだ。
完全直線、波を描かぬ、日の沈みきった地平線のような綾波レイの心が。


「LCL注水開始」


この液体が雨の中、彷徨っていたのね・・・・。
電化されていくLCLの中、そんなことを考える。



「何だか・・・街の様子がへんなんですけど・・・・・」
それはいいから、話を続けてちょうだい!叫びそうになる葛城ミサト。
日向マコトのボードから使徒接近中、と説得続行、と報があって胃が痛い。
使徒が接近しているのにこの場を離れられない。作戦部長の本能が胃を痛めつける。
あの怪しげな作戦顧問が代わりに指揮を執るかと思うと、それは倍増する。
早めに場所を特定して、すぐさま本部に向かわなければ。肉体的な心配はないとはいえ、使徒の接近する中、電話している少年の身も心情的に、案じられる。
空を飛んでくるだけあって、接近速度もかなりのものらしい。
碇シンジの聴取は進んでいた。
本当の体ではない、と喝破されたことから、だんだんと事情を思い出し、それが伝達されたのか、本体の方にその目がいくようになった。これは世に云う幽体離脱のようなもので上から、エントリープラグの中で丸くなって眠っている自分を見ている、という。
「起こしたほうがいいでしょうか・・・」
などというので慌てて止めさせる。その状態で生きているならそのままにしておく方が得策だ。LCLがゼリーのようになって包んでいるらしいから、それで生命維持がなされているのだろう。とにかく、科学的解明はあとあと。
問題は、其処がどこかということだ。分からなければ救助にいけない。
いけるような所にあればいいのだが・・・。
「操縦席しかありません・・・吐き出されちゃったのかな・・・これは・・雪?」
プラグの外に出ると、すぐ外界に出たらしい。その世界は・・・・・冬?
エントリープラグは射出されたみたいね・・・・・・でも、雪?
夏の季節しかしらない14の少年が、おそらく初めて見た雪。
と、いうことはそこは日本じゃない?いやいや、即断は禁物だ。雪ではないかも知れない大量の綿埃、柳序、考えられることはいろいろある。
ああ、テレビ電話ならなあ・・・。日向マコトも日本から世界に検索を広げる構え。
「ほかに、なにか見えない?」
「辺り一面雪景色っていうんですか・・・・なにも・・・あっ!」


ずぼずぼと積もった雪に足をとられながら進んでいる音が聞こえてきそうな、間。
何か見つけたようだ。

「バス停です。雪が積もっていてよく分からなかったけど。・・・なんて読むのかな・・・・しる、ふえ・・・知っている、の知るに、笛吹きの笛、です」
「漢字なのね?日本語を使っているの?」
「銀鳥の蚊取り線香と、オロミナンCの広告があります・・・・えっと、バスは一日、四回しかこないみたいです・・・それから・・・」
大まじめで報告してくる碇シンジ。
「分かりましたよ!葛城さん。北海道です。セカンドインパクトの時に遺棄された村のようです。そのバス停の近くなんて・・・こりゃあ大ラッキーですよ!」
小躍りでは済まない、盆踊りしてしまう日向マコト。
いくら地名がわかったといってもセカンドインパクトの前のものだ。それをすぐさま引き当てた日向マコトの手腕は誉められていい。つれてきた甲斐があったわけだ。
「よっしゃあっ!!」
歓喜に吼える葛城ミサト。
「スグに迎えにいってあげるからねえ!」
速攻で使徒を殲滅させて、すぐにいくわよ北海道。
そこに相変わらずおずおずした碇シンジの声。
「あの・・・葛城さん・・・」
「なあに?」

「待ってます・・・・・・・」

葛城ミサトは三十路まえのいい女だ。いくら男勝りだとはいっても。
その葛城ミサトが一瞬、ゾクッとした。身も蓋もない言い方をすれば保護欲を掻き立てられるその囁くような言い方。十四の少年にそんな芸があるわけもないが、未踏の地獄をみただけに、その真摯さが胸を打つのだ。純粋掛け値なしの待ってます。百年前に滅びたような、待ってます、だ。
元から使徒には恨みがあるが、救出の邪魔をするとあっては、それに油を注ぐ格好。
憤怒の炎背負って立つ姿はまさにネルフの不動明王。
「日向君・・・」
「は、はいっ」
「行くわよ・・・飛ばすからね」
逆らえるはずもない。必要最低限のものだけを抱えるようにして駆け出す。
雨中を切り裂いてゆく青い弾丸。日向マコトは法華経を唱えていた。






ネルフ本部 発令所。
「エヴァンゲリオン零号機、リフト・オフ」
野散須カンタロー作戦顧問が命令する。
やはり葛城作戦部長が云うのと違い、凛々しさの欠片もない。が、どこか命令し慣れている口調だ。急遽の代理のくせに違和感はなく、それなりの貫禄が重い。
だが、あまり絵にならない。

よいこらしょっと拘束具が零号機を解放した。そーら、いってこいやーちう感じだ。

それでも顔色を変えない綾波レイはほんとうにえらい。
使徒は雨風に吹かれながら、順調に第三新東京市に現れた。
冬月副司令はまだ使徒の名前を発表していない。
零号機は兵装ビルからエヴァ用の火炎放射器を取り出した。そのでかさは凶が凶がしい。「それから砲撃ビルの砲門はすべて上に向けておいてくれ」
異様な指示。普段とは違う作戦指揮者。葛城ミサトはなんだかんだと言っても現在二勝しているが、この作戦顧問には使徒戦の経験もない。
オペレータやスタッフが不安になるのも仕方がなかった。面にはださないが。
「作戦顧問のお手並み拝見といくか」
冬月副司令は高見の見物。
「綾波のお嬢、調子はどうかの」
年寄り同士で余裕なのは負けてはいない、はなはだ緊張感にかける呼びかけ。
「問題ありません」
綾波レイは誰が命令しようが、その通りに動く。まさに問題はない。
「先に云っておくがの。これからやるのは時間稼ぎじゃ。無理してあのテルテル坊主の頭を撃ち抜こうとか考えなくていいからの」
はあ?本当に気合いのないことを言い出す作戦顧問に振り向いてしまうオペレータ達。
「使徒殲滅はあくまで葛城作戦部長の仕事じゃからの。儂はその補佐役。
碇シンジ君の居場所もつかめたようじゃし、スグに来るじゃろ」

そ、それはそうだろうが・・・・・。
「火炎放射器の放射時間は最低限に短く設定してくれんかの。あまり長いと街が焼ける」武器管理のオペレータにそう指示を加える。

「何をなさるおつもりです」
「時間稼ぎと云うたじゃないか。あんたほど頭のいい人なら分かるじゃろ」
まさか赤木博士ににらまれた仕返しでもあるまい。言い方は素朴だ。
だが、赤木博士には分からなかった。こんな殺戮兵器でなにが時間稼ぎよ・・・・下手に攻めるのは時間稼ぎとは云わないわ・・・しかし、待てよ・・・・。
赤木博士の頭の良さはねばり強い。使徒の様子をみているうちにその意味に気づいた。
「分かったかの。さすがじゃな」
「しかし、上手くいくでしょうか」
「いかせる・・・なんてことは云わぬよ。相手の正体はさっぱり分からぬわけだしの。
それに矢面にたっとるのは子供だ。無理は出来ぬが、目で見たものは信用して、そこから活路を見いだすしかあるまい」






電話ボックス前。
「やっぱり、碇シンジ君だったんだね」
渚カヲルが到着していた。使徒接近の報も碇シンジ現在位置確定の報も受けた。
本部へ至急戻るようにとの命令も受けている。
だが、渚カヲルはここへ来た。
「きみは・・・・」
「ぼくは渚カヲル」
「渚・・・くん」
「昨日の夜、傘に入れてあげたんだけど覚えてないかな」
覚えていないようだね。まあ、それならそれでもいい。濡れていることに気づいていないなら傘を差そうと差すまいと、さして変わりはないのだろう。
ただ、君の目にぼくは映っていなかったのかい。
「ごめん・・・頭がぼうっとしていてよく覚えていないんだ・・・」
頭がぼうっという以上に、その姿がぼうっとしていた。役目を果たしたためか、変質期限がきたのか。姿を固定する力が弱まっている。
「もし、そうなら・・・ありがとう」



ぱちゃん。



水音を残し、碇シンジの姿は消えた。あの時と同じだ。
「どういたしまして」
すっ、と渚カヲルは一枚の濾紙のようなものを取り出し投げた。
碇シンジの姿がいた場所に落ちると、それは周囲の水を強く多量に吸い取った。
「仮説はあくまで仮説にすぎないからね」
備えはいくらあっても足りない。渚カヲルはそれを大事にしまいこんだ。
「さて、ぼくも避難するとしようか」






「火炎放射器!?あの爺さん、何やる気よ」
青い弾丸と化したルノーの中で、通信モニターの零号機の装備を見て葛城ミサトは眉を跳ね上げる。あたしでさえまだ使ってないってのに。
助手席の日向マコトはジェットコースターな車内で目をつむってお経の続き。
自分ならばどうするか。雨中での高速走行にも関わらず、葛城ミサトは作戦仮定を立て始める。車は体の方で勝手に操っているようだ。この速度ではその方が安全かも。
・・・・コアはどう考えてもあの頭部にあるわけだから、頭部を狙撃。どういう攻撃を使って来るか分からない以上接近戦に零号機は使わない。しかし、相手は風に吹かれるようにして移動している。そう見える。それほど軽いとなれば・・・と、これはセンサーもない車の通信モニターでは分からないが・・・のれんに腕押し。鈍器刃物の類はあまり効きそうにない。かといって、いくら零号機でも火炎攻撃で敵ATフィールドを侵せるとは思えない。それならば、光線系を使うか。いや、ああもふらつく目標にさすがのレイでも当てられるかどうか。うーむ、エヴァ一体では辛いわねえ。
「・・そう言えば、初号機の左腕は?」



「市民の避難も完了したかいの。では、いくぞ。綾波のお嬢」
「はい」
火炎放射器を構える零号機。得物が得物だけに、その冷静な声がなんとも恐ろしく聞こえる。命令さえあれば、人さえ焼きかねない気配があるのだ。
このでかさならば、草を燃やすより容易く万人単位で焼死体が製造される。
指揮するのは髭をはやした目玉の強いおいちゃん。
行動するのは人形のように無表情な青い髪の少女。
画家か詩人がこの場に居れば、云ったかも知れない。これぞ世紀の悪夢、と。


ゆらりゆらりと降下しはじめた使徒。第三新東京市に舞い降りるテルテル坊主。


「撃てえいっ」
大鑑巨砲のような号令。
零号機の手元から放射される大火炎。しかし、それは使徒めがけてではない。


ブワリ


一瞬で消えた大火は、使徒の足もとに放射された。それによってわき上がる熱気が、明らかに逆らったであろう使徒を無理矢理空に上げ戻した。
「ミサイル発射せいっ」
爆発しても破片があまり散らないネルフ特製対象物以外は安全ミサイルがドカドカ発射される。これは撃墜効果を狙ったわけではない。あくまで出方を図る囮だ。
これで攻撃方法でも見せてくれれば儲けものだ。
「まさか、これが上手くいくとは」
と赤木博士。火炎放射の使い方はまあ、ともかく、あんなでかいものが本当に風に乗って移動していることに驚いたのだ。使徒の動力はどうなっているのだろう?
確かに省エネではあるが・・・。反重力とかATフィールドの高速震動による飛翔とか、もっと小難しいことを考えていた赤木博士は馬鹿をみてしまった。
あの形態どおり、こんな雨の日で風が強くなければ出てこれないのか。
使徒・・・・やはり謎だわ。



「ミサイル全弾命中!しかし、ATフィールドに阻まれ効果ありません」
「手管は見せんわけかの。けちな奴だ。後々、葛城一尉が困るではないか」
熱気が止んだ地点で使徒は浮遊している。そして、また降下してくる。
「もう一丁いけい」
零号機の火炎放射。再び舞い上がる使徒。学習しない使徒だが、こちらも特に有効な手段があるわけではないので威張れない。まさに時間稼ぎと云ったとおりだ。



「状況は!」
それを進展させるために現れた作戦部長。と、顔は青いが根性でカバーの日向マコト。
「ほい、タッチだ」
作戦顧問はあっさりと指揮権を元に戻した。そして、あとは任せたとばかりに後ろへ引っ込んでしまう。役職上、当然のことだが自然にやるのは難しい。
「あとは高見の見物じゃの」
ぬけぬけと言い放つ。第一種戦闘配置でありながら、一ぬけたとでも云うような軽さ。
手ごまを傷つけずにそのまま渡された作戦部長は、ある種のプレッシャーを感じる。
ギタギタにやられた後で渡されて責任まかされてるよりは、遙かにいいに違いないが。

野散須カンタローはそのままタラップで上にいってしまう。そこは司令席だ。
「最後まで見たかった気もするがね」
咎めることはせず、冬月副司令はおそらく誉めた。
「悪ふざけをするなと云われたばかりでしてな」にやりと笑う作戦顧問。
「それになにせ気合いが違う。近くにおるのは年寄りには疲れますわ」
年寄り二人にも発令所の者にも、作戦部長の背中の憤怒の炎が見えていた。
キビキビと新たな指示を飛ばしていく間に、その炎が飛び火していた。
発令所の勢いが違ってきている。
「それよりも冬月先生」
「なにかね」
「立っていないで、お座りになったらどうです。隣に立つのは儂がやりましょう」
とんでもないことを言い出す。勿論これは司令交代の唆しではない。単なる腰の問題だ。「そうもいかんよ。それに碇に後でネチネチ云われるくらいならば立っているほうを、
私は選ぶよ・・・」
「それでは年寄り二人で立っていましょうか」



「山本リンダじゃないんだからウダウダやっててもしょうがないわ。引っかけて地上に叩き落とす。その後すぐさま脳天を砕く、いいわね」
葛城ミサト作戦部長の作戦は、本人の今の状態を反映してか、これまた豪快なものであった。うかつに接近戦や狙撃を行わないのは車内で決めた。そこでどうするか。
浮遊状態で攻撃を仕掛けてこない点を鑑みるに、どうもあの使徒は前回のように地上に降り立たないと攻撃をしないタイプではないか。または浮遊状態では安定を欠くので、自分も攻撃出来ないとか。風に浮くような軽いやつだ。反動で舞ってしまうのだろう。



プログレッシブ・クサリガマ。
汎用人型だけあってこんなもんもエヴァは使えるのだ。いや、こんな状況まで想定して造っておいた兵器課がえらいのか。
完全球体ならばともかく、テルテル坊主体型には首がある。そこに遠方から引っかける。地に足が着いている分、力比べなら負けるはずがない。思いっきり引き倒し、地上に叩きつける。そこでコアが潰れてくれればラッキーだが世の中それほど甘くない。
あとは間髪入れずにドタマを踏みつぶすなりしてコアを潰す。

本当に零号機、綾波レイにやらせるのかと聞きたくなるほどに凶悪な作戦。しかし。
火炎放射機で吹き飛ばし続けて、弐号機や四号機の到着を待つという選択はとれないのであった。


「レイ、いくわよ」


ギュワンギュワンギュワン・・・・・・・・・

第三新東京市に旋回する異様の音。プログ・クサリガマが回転する音だ。
クサリガマなどとさすがに訓練でも使ったことのない得物を渡されても顔色ひとつ変えない綾波レイ。文句一ついわないで作戦に従事する姿は新世紀のおしんと云ってよい。
使ったことのない武器でうまく引っかけられるのか。機械が勝手にやってくれればいいがさすがの天才赤木博士もこんな短時間ではそんなプログラムは組めない。
クサリガマなんてねえ・・・・・・・・・・・古風ね。呆れてひとこと。
クサリガマを回転させる零号機の姿は、雷雨黒雲に相まって、ここが武芸者の決闘のナントカが原に見えてくるから不思議だ。
発令所には沈黙が下りてきていた。回転するクサリガマには人を黙らせる力がある。
ごくり。つばを呑み込む音さえ聞こえてきそうだ。


ヴオンッ


クサリガマが疾った!グルグルグルっ。首に巻き付いていく。
「今よっ!」
ひゅーん。ぐしゃっ!一本背負いをするように叩きつけられた使徒は脳天直撃。
頭部が破壊エネルギーそのままにへっこんだ。命令通り、間髪入れずにコアをつぶしにかかる零号機。使徒は完全にへたっている・・・・・。

ように見えた。



もわん


体の部分を大口あけたように広げて襲いかかってきた。意外に素早い。
「何っ」
あやうく飛びすざって難を逃れる零号機。使徒は勢い余って兵装ビルにぶつかってしまう・・いや、包み込んでしまった。ビルをまるごと。綺麗さっぱり。
ボリボリボリボリボリボリ・・・・・音がする。これは・・・・
「ビルを食べてる・・・?」
食べ初めてから終わりまで、6秒ほど。ふわりと体を広げるが、そこには何もなかった。「リツコ!?」
こんなのにコメントしなきゃならないなんて、科学者の不幸よ。だから赤木博士は答えなかった。だが、科学者の不幸はまだ続くのであった。
零号機はそれでも攻撃を仕掛けにいった。鎌で首をちょんぎる気である。



にょきん
使徒が頭部口をあけた。そこから出てきたのは・・・・・
バララララララララララ・・・・・高速で撃ち出される劣化ウラン弾頭の重弾丸。
食われた兵装ビルにあったエヴァ用のパレットガンであった。
「うっそお!!!」







インド洋は今日も晴天。海路になんの問題もなかった。
一路日本を目指す物々しい艦隊。国連艦隊である。現在の任務は荷物の輸送と護衛。
とはいえ、一昔前のスパイ映画でもあるまいし、いきなり特攻かけてきて荷物を奪いに来る輩もいない。余裕の航海である。相手は大海原とはいえ、よほどの油断こいても沈没などはあり得ない。
そんな平穏だが暑い甲板を走ってゆくブラウンの髪の少女。
勿論、インド洋の見せる幻でも、海から紅茶を売りに来た人魚の娘でもない。
正式な許可の元にこの艦に乗っている、いや艦隊はこの少女のために動いていると云って良い。少女と、少女が操る赤い巨人のために。
「ねえ、加持さん。もう一人の加持さんはどこへいったの」
少女は甲板後部の影の内にひっくり返って昼寝をしていた無精ひげの男に声をかけた。
「アスカか・・・・。いい加減に名前を覚えてくれてもいいのにな。
俺はソウジだよ。リョウジは仕事中だ」
「名前は覚えてるけど・・・だって、そっくりなんだもん。二人とも。全然見分けがつかないわ」
「そうだなあ。親でも間違えるくらいだからな。アスカが見分けがつかないのも無理はない、か」
「でもアタシはどっちの加持さんも好きよ」
「それは光栄だね。で、どっちの加持に用があったんだい」
用など特にないのだ。この艦に乗ってから、いつもこんな調子で探しに来る。
まあ、艦長をはじめとするクルーのみなさんの表情はいまいち硬く、友好的でないしなあ。それどころか、聞こえてないと思ってか馬鹿声で彼女の弐号機をカニ人間呼ばわりする奴もいる。確かに頭部のカラーリングはそんな風に見えないこともない。が、こちらも英語はぺらぺらなのだ。それを聞いてしまった彼女がぶるぶる震えながら耐えていたことも、知っている。平穏だが、楽しいとは言い難い船旅。
馴染みの人間関係から切り離された十四の少女が、わずかな馴染みの自分たちに寄ってくるのは正直、胸が痛むことがある。さっさと日本に着いて、幸運な縁に巡ることを祈る。「え、えっとお・・・」
真面目に答えようとする。ただ会いにきただけ、という素直なたわいなさを出すには少女は頭が良すぎた。何せこの年で大学卒業しているのだ。
「日本の文化について聞こうかなあって」
日本の文化、ねえ。俺が知ってる日本の文化なんて日本語くらいのもんだ。今は日本語で会話している。少女も日本語は達者なのだ。ただ漢字は書けないらしいが。
乏しい知識袋を探って、せめてもの話をしてあげようかね。
リョウジの奴と違って俺は口が巧くないんだが。
それで多少でも少女の気が紛れるならば。
日本に着けば、神様とケンカしなければならないのだ。
仏様の話でもしてやるかな。

その後、艦隊はなんのトラブルにも会わず、無事に日本に辿り着く。







「な、なんてヒキョーな・・・」
ギリギリと歯ぎしりする葛城ミサト作戦部長。
中央モニターに映る使徒の姿は確かにヒキョーすぎた。今や風に吹かれてやってきたテルテル坊主は、七つ道具の弁慶と化していた。まさに極悪キング状態。
零号機ではなく、兵装ビルに襲いかかり次々に食べてしまう。その中にあったいかなる武器も自分のモノにしてしまう。
プログ・アックス、ソニック・グレイブ、アクティブ・ソード、プログ・ハンマー。
こんな鈍器系刃物系はもちろん、飛び道具まで使ってくるのだから弁慶以上だ。
その上、零号機のプログ・クサリガマは鎖を切られた。
「くっ。自分の武器は使わず、敵の武器を自分のものにするか・・・・」
武装迎撃要塞都市の設備があだになった。なにせ武器はよりどりみどりだ。
「使徒にはそんな知能があるの?いや、本能?」
赤木博士は冷静に分析しているが、このままの状態が続き零号機が負けでもしたら全てが終わる。使徒の天下になる、ということはこの世は神の治める楽園になるのだろうか。
しかし、その場に自分たちがいないのなら意味がない。
この世の人間は諦めない。足掻く。


「テルエルのくせに強いな・・・」
お決まりのセリフはまだ云わない冬月副司令。
零号機は防戦一方。なにせ使える得物の数が違う。しかも慣れない鎌だ。
レイを一旦、下げるか。しかし、時間を与えれば、ますます強大になる。
だが、このままでは零号機が潰される。決断を迫られる葛城ミサト。
自分の番になって急に強くなった使徒だが、泣き言をいってもしょうがない。
だが、プレッシャーである。
「零号機、シンクロ率が下がってきています!」
「機体損傷度、20%を越えました!」
限りなく悲鳴に近い報告。どうしようもないのは彼らも知っている。
作戦顧問、野散須カンタローは黙っていた。
葛城ミサトのカンピューターが最大速度で稼働している。
これだけ都合のいい能力を持っているからには、なんか弱点があるはず・・・・。
食ったぶんだけ質量を増やし、いまや風に吹かれて飛ばされるなんてことはない。


・・・・・・うーむ・・・・・・・


ダメだわ。のんびり考えているヒマはなし。そっちからの思考はパス。
対症療法でいくしかないわ。安易だけど、王道パターンで試してみましょうか。
「レイ、ひとまず後退。ポジトロンライフルのある兵装ビルまで下がって」
質量が増えてどっしりした分、動きは遅い。足の速さで距離をとり狙撃するつもりか。
しかし、アンチATフィールドまで防御に廻しているので、使徒のATフィールドに阻まれるのは目に見えている。
「それから、初号機の左腕、単体でいいから上げておいて」
まさか、前回のあれを期待しているのでは。オペレータ達は内心で悲鳴を上げる。



「さて、これで通じるか・・・・」
「レイ、ポジトロン・ライフルの銃口にクサリガマで切り込んでおいて」
葛城ミサトが命令したのは、まさしく外道の策であった。
「何する気!?ミサト」
「そんなに食べたけりゃ、食わせてあげよーじゃない。葛城ミサト風ポジトロン・ライフルのクサリガマ添えをね」
まともな発想ではない。葛城ミサトの真骨頂といえた。
「食べさせた後で暴発させる気?無茶よ」
「無茶でも加藤茶でもいいわ・・・・。勝てさえすればね。アイツは銃器を使うときは、口から出してるわ。つまりコアの近くよ」
確かに、さすがのATフィールドも体内までは守れまい。うまくすれば、コアに傷くらいはつくかもしれない。だが、ポジトロン・ライフルは強力だが精密な機械でもある。
銃口を切り込んでおいて発射自体するかどうか。
「レイ、もう一がんばりして!おびき寄せてから、かわしてね」
我ながら、容赦なく厳しい注文だ。成功の予感もない手だてだ。命令とはいえない。

「はい」


機械のような返答がいとおしいほどだった。
武器をあれだけ背負えば確かに重いのだろう、使徒がパレットガンを乱射しながら近寄ってくる。はじめの軽やかさとは雲泥の差がついていた。しかし、それを生かすための体力は零号機には既にない。他のエヴァがあるなら、下げたいところだ。


ブワアアン
鈍重に飛んできた。それをさっとかわす零号機。しかし動きにキレがない。
ボリボリボリボリボリ・・・・・・
食べるスピードも心持ち遅くなってきているような。
にゅーーーーうう。
ポジトロン・ライフル、クサリガマ付きが口から出てきた。そのでかさは使徒が使っても必殺武器のように見える。さっそく使ってみる気だ。
「レイ、ATフィールド全開して!来るわ!」
暴発したとしても、その余波は半端でないはずだ。しなかった場合は云うまでもない。
カッ。ポジトロン・ライフルの光輝が閃く。


ひでぶっ!!!あべしっ!!



使徒がしゃべるならおそらくこう言ったはずだ。こう言ったのちに爆砕。
頭部が見事に吹っ飛んだ。むき出しにさらされる赤いコア。
「レイ!」
喜ぶのはまだ早い。コアを叩きつぶしてからだ。駆け寄る零号機。得物はないが、攻める好機だ。今しかない。零号機の手刀が振り下ろされる。


ズバッ!一瞬の交差。


コアが割り砕かれた、と思いきや、やられたのは零号機の方だった。



使徒は、面にきた上段手刀をかわして、アクティブソードで胴体を薙ぎ払ったのだ。
「零号機、活動停止!シンクロ率ゼロ、沈黙しました」
「パイロットの生死は!」
「神経接続されたままでカットされていません・・・おそらく・・」


零号機は胴体部分を半分切断されている。脊髄も損傷しており、戦闘続行は不可能どころか、シンクロしていたパイロットの生死すらやばい。一瞬のことで誰も反応できなかったのだ。エヴァに繋がれたままに胴を裂かれれば・・・・。


それでも、使徒が剣劇のように「ふっ、お前の勝ちだ。肉を切らせて骨を断つ・・か」
などといいドテッと倒れてくれればいいが使徒は未だ健在で、赤いコアが不気味なほどに輝いている。
「くっ・・・・」呻いているヒマはない。即座に命令を下す。
「エントリープラグ緊急射出、パイロット脱出させて!」
「ダメです!この角度ではビルに当たります」
首付根にあるエントリープラグ射出の角度ではこのまま出せばビルに当たり怪我ではすまない。とんでもない誤算であった。今回は兵装ビルに苦しめられっぱなしだ。


「使徒、零号機に向き直りましたっ!!」青葉シゲルの叫びの意味は誰でも分かる。
トドメを刺すつもりだ。この小賢しい一つ目巨人に。ソニック・グレイブを振り上げる。


「勝ったな」
これは使徒が云ったのではない。冬月副司令が云ったのだ。確信とともに。





ごちーーーーーーーーーーん

一瞬の変転。使徒は、こけていた。
コアを思いっきり地上にぶつける。これでピキピキと亀裂が走る。
「はあ」
もはや呆けることしか出来ない。発令所全体に巨大なハテナが浮かぶ。
「あれは・・・・・・」
疑惑の視線は使徒の足下に。紫の蜘蛛蛇・・・・いや、初号機の左腕だ!
それが使徒を後ろから引っ張っているのだ。いつの間に・・・・・・・・。
再びその力でコアを握りつぶすのか。零号機の危機が去ったというより、使徒を滅ぼしに魔人が現れたようで、非力な人間はただ見上げているしかない。



ズ・・・・ズズ・・・・ズズズズズズ・・・・
そのまま引きずり始める。左腕が使徒を。この力の差というのは・・・・一体。
ズズズズズズズズ・・・・・・・・まさに悪魔の刑罰のようで一切の情けは無シ。
引きずり殺すとでもいうしかない残虐非道に強力な力。その速度は増してゆく。
亀裂の入ったコアはだんだんと剥がれ、脆く砕け落ちてゆく。
完全にコアが磨り減り砕け散ったのは20秒後だった。
断末魔の叫びもなく、残されたのは沈黙とただのボロギレ・・・・・・。





そして、一週間が過ぎた。






ネルフ本部付属 総合病院。綾波レイの病室。
綾波レイは目を覚ました。朝日が射し込んでいる。その光が彼女に思わせることは・・・
「生きてる・・・・・」

喜びというには疑いの方が強かった。あの状況下でなぜ・・・・ふと思いついて、自分の腹部を見てみる。うっすらと赤い線、みみずばれがあった。零号機の胴を切り裂かれたのは覚えている。これで死んだ、と思った。それ以降、意識が水没して何も感じない。
自分の魂は冷たい水の底に沈んだのに、日が射してきている。
監視されていたのだろう、すぐに医師や看護婦たちがやってきた。いつものように。
投薬に問診に検査。いつものように。淡々とすぎてゆく。




夕方遅くになってからだった。
こんこん。ノックがあった。この部屋に入る者は誰もそんなことはしない。
医師や看護婦はわたしにそんなことはしない。すぐにきて、すぐにかえるの。
わたしのまえにいたくないから。かおをふせたままで。一秒でもはやくここからでることだけをかんがえている。
「レイ、起きてるー、入るわよー」
この声は葛城一尉。入ってきた。わらってるような、泣いてるような顔。
どちらかひとつにすればいいのに。
「調子はどう?」
「三日後に退院できるようです」
わたしの顔をじっとみつめている葛城一尉。何も言わない。感情が渦を巻いている。
その回転数は、常人平均の1,89倍。回転数はさらに上がるのにどこにもこぼれてゆかない。中央の求心力がよほど強いのか・・・・それとも・・・・
「レイ、本当に頑張ってくれたわね。本当に、ありがとう」
ふぁあん、と渦ははじけて拡散する。微かだが妙なる、快い音だった。
しかし、感謝されるのはどうしてだか分からない。そんなことより使徒はどうなったのだろう。<読め>ば早いが、聞くしかないだろう。碇司令以外の人間は、そのことを極度に嫌う。その嫌悪感は容易に恐怖に転化する。牙を持つ恐怖に。



「作戦は、終了したのですか」
「え、ええ。使徒は、殲滅されたわ・・」
誰だろう。使徒を倒せるのはエヴァだけだ。わたしでなければ・・・・
「初号機に、ね」
その名を聞くと、なぜか心に痛む箇所がある。深く昏い奥底に。



ふいに隣の病室から人の気配がした。それは渦の源。壁を隔てても通じる強烈な存在感。碇司令に似ている・・・・・。
しかし、違う。その上、この階の使用される病室は監視と護衛のためにこの一室だけの筈。わたしは葛城一尉を見た。かつて覚えたことのない感情・・・知りたい、という好奇心。
「気づいたのね・・・・そうよ、隣にいるのよ。碇、シンジ君がね」
ぴしり。二つの性格の仮面のどこかに亀裂が走り、そこからこぼれるものがあった。






総司令官執務室。
血のように赤い室内に4つの人影が浮かび上がっている。
「初号機パイロットは無事救出。体力的に衰弱がありますが、生命に別状はありません。ゲル化したLCLがパイロットを疑似冬眠状態に保っていたためと思われます」
赤木博士が報告を読み上げていく。何故か、その場には渚カヲルがいた。
「まさか、北海道とはな。ずいぶんと遠くへ飛ばされたものだよ」
冬月副司令が呆れたように言う。声の底にはやはり安堵があるのだが。
「そんなことより肝心なのは初号機だ」
実の息子が遠方の不明の淵より生還してきたというのに、碇ゲンドウの声には一片の情もなし。往年の名優が意図してやったとしてもここまで冷徹にはなれまい。
冬月コウゾウや赤木リツコは慣れているというか既に諦めているというか、さしたる反応は見せない。
渚カヲルは・・・・天井のセフィロトの樹を見ていた。
「初号機は現在も解封作業を続行中ですが、正直、エヴァでなければ作業完了は見込めません。現地にエヴァを派遣するスケジュールも未定です」
「零号機は修復作業中。弐号機もまだ届かぬ。四号機もお前が脅したとはいえまだ時間がかかる。焦りは禁物だ、碇」
ことレイと初号機のこととなると絶対零度の冷血が10度ほどに上がるからな。
それでも十分冷血動物だが。
「分かっている」
碇ゲンドウの視線はデスクの上の望遠で撮られた報告写真に注がれる。




そこには、麓も霞む岩壁に白い棒のようなものに貫かれ磔にされた初号機の姿があった。




「地上500メートルの架刑か・・・」冬月の呟き。
2度も鬼神のような使徒殺しを見せつけられているが、この初号機は哀れな罪人のようだ。これが同じ存在だったのか。信じられなくなってくる。
山の神に逆らった悪鬼がその力を奪われ、封じられている・・・白い棒は神聖な祭器か。事情を知らぬ者が見ればおそらくそんな幻想を感じるだろう。
碇ゲンドウの眼鏡が怪しく光っている。何を考えているのか。
この男のことだ。おそらくN2爆弾で山を崩すことくらい平然とやるだろう。
それを命じないのは、やるつもりがないからだ。


「それは、使徒の宣告なのかもしれませんね」


ふいに、背をむけたまま渚カヲルがそう言った。視線はまだセフィロトにある。
「使徒からの2番目のメッセージ。読み解いてから下ろしても遅くないと思いますよ」
声色はあくまで柔らかいが、動けぬ者を嘲弄する残酷な香りがした。
渚カヲルは笑っていたのだ。口元が、三日月のように、綺麗に裂けた。