七ツ目玉エヴァンゲリオン



第七話「アスカ受難曲」







2010年。ドイツ。
とある山の奥にある学校。全寮制だが、正式な名称のない奇妙な学校。何の学校であるのか、付近の住民は知らない。もっとも、滅多に人などやってこないのだが。
ここの教師も生徒も、この場所を「ギル」と呼んでいる。
そのギルの生徒として、5年前の、9歳の惣流・アスカ・ラングレーがいた。


「これが、エヴァ・・・・・」
神学を講義する教室で、初めてそれを見せられた。何人かの子たちと一緒に。
「まだ組み立てはされていないがね」
大人・・・教師・・顔は覚えていない・・・がモニターの前でそう言った。
「君たちの内の誰かが、これに乗ることになる」
子供たちの髪の色、目の色は様々だった。一応、言葉はドイツ語だが。
母国語でもないのに、9歳にして独語も完全な子供達。しかし、モニターを見ているその表情は、年相応のものであった。中にはそうでない子もいたが。
よーするに、こいつらは今日からライバルってことね。
教師の言葉を正確に射抜いた子供。だから、これからもガンバルんだよ、という甘い続きを考えない子供。
惣流・アスカ・ラングレー、アタシのことだ。



そして5年経って、2015年。第三新東京市。
アタシはセカンド・チルドレンとしてここにいる。
使徒を倒すエヴァンゲリオン弐号機の専属操縦者として。
なのに・・・・・・・・・・。


なのになのになのになのになのになのに・・・・・・・・・・・・ッ


グワ・・・・・・・ンッ

あの天地がひっくりかえっていく様が頭からとれない。
ズイズイズイズイズイズイ・・・・・・
あのATフィールドが引き剥がされていく感覚が皮膚からとれない。


「・・・・・・・・・・・・・・・・ツウッ・・・・」
噛んだ唇から朱が走った。





ネルフ本部。赤木リツコ研究室。
「どう、アスカの様子は」
「最悪」
いつものように訪ねてきた葛城ミサトに大体予想ずみの質問と答え。
「自分の部屋でふさぎ込んでるみたいよ。食事にもほとんど手をつけてないって連絡が入ってるわ」
惣流アスカは、ネルフが用意した完全ガードの高級マンションに住んでいる。一人暮らしだが、食事だの掃除だの家事はネルフから派遣された護衛兼連絡員がやっている。
その関係は、学校に行っている間に済ませて顔も会わせないようになっている。
これは惣流アスカの希望だった。
「シンクロ率もあれ以降、どんどん下がっているわ。それだけなら、まだしも・・」
「そうねえ・・・肝心要のATフィールドを張れなくなったってのが・・・・・・」
辛い・・・・のは部屋でふさぎ込んでいる少女であろう。
「アスカはエヴァにプライドかけてたからね・・・・」
使徒にやられた、というならまだ慰めようもあろうが、ロボットである。
使徒迎撃用、ということは使徒よりも強力ということです。あまりお気をおとさぬように。などと、あの時田は云っていたがエヴァを絶対視していた十四の少女のプライドは完全に

引き裂かれた。

使徒と戦い、人類を滅亡から救う為に、意気揚々とやってきたのに、使徒とやり合う前に同じ人間の造ったロボットにやられたのである。
プライドかけて真面目であればあるほど、この馬鹿らしさに耐えきれないのだろう。

「あったく!あのJTフィールドってのは一体、なんなのよ!」
それが全ての原因であった。
さっさと徴発して北海道の土木作業に使っておけばこんなことにはならなかったのだ。
廉瓦版ATフィールドでさえない、葛城ミサトに云わせれば、盗人フィールド。
愚痴をたれる相手なら他にもいないでもないが、それを説明してくれるのは赤木博士をおいて他にはいなかった。
「JTフィールドね・・・・」
「えっ?もう正体が分かったの」
聞いておいてなんだが、まさか2,3日で分かってしまうとは思っていなかった。
とりあえずの推論を、という声ではない。確信のある声だ。さすが天才赤木博士!
「Jジェット・アローンがATフィールド・T 取り上げるフィールドの略らしいわ」
「な、なによ、それ・・・・」
それはいくらなんでも正気のネーミングセンスではない。冗談にしても程がある。
「嘘みたいだけど本当よ。今日、送られてきた説明書にそうあるもの」
そう言ってバインダーの山の一番上にあるものを指さす。
「分かりやすくていいんじゃない、本人も好きでつけたんじゃないんだろうし」
「JA最強ってのと同じね、でもンなこたあどーでもいいのよ!あたしが聞きたいのは」
最後までは言えなかった。
「それも説明書に書いてあるわ。・・・さすがあの二人は優秀ね」






「徴発は予定通りに実行だ」
総司令官執務室。碇ゲンドウはいつもの通り、冷厳であった。
「しかし、碇。それ以前にやるべきことがあるだろう」
冬月副司令はなにやら反対している。ネルフで唯一人碇ゲンドウに反対意見を言える人物。JA及びJTフィールドの件である。
冬月副司令の判断で弐号機を出戦させてみたものの、後に尾を引くまさかの結果。
そのことについてグダグダ言うほど碇ゲンドウはヒマではない。
ただ、この結果を目の前にして方策を変えようとしないのはこの男にしてはらしくない。もちろん、冬月副司令もさっさと自分で手を打っているが、ここでJAを強引に取り上げてしまう理由はない。大局から見れば、損になるのは分かっているはずだ。
ただ土木作業やらして返すわけにはいかなくなったのだ。
模擬戦の様子を見て、戦自がアレを購入するという動きも出てきたのだ。
ここぞとばかりに日本政府もでばってくるだろう。いくらネルフが超法規的組織とは言えここでゴリ押しても時間がムダにかかる。
すでにJAの株は急騰したのだ。葛城一尉の手持ち程度ではぴくりとも動くまい。
その状況に置いても予定変更無し、とは。

やはり、初号機ゆえか。
判断力にキレがないのは。この男もかわいいところが・・・・いや、かわいくないな。
危ないところで理解してしまうところだったな・・・・。本当に危ない。

「それはそうとして、初号機パイロットの件だが」
話を変える。問題を棚上げしたわけではない。これも考えていた話だった。
碇ゲンドウは黙っている。これからも黙るだろう。そういう奴だ。
「このままいつまでも入院させておくわけにもいくまい。どうするんだ」
指を組んで鼻を載せているいつものポーズで眼鏡を光らせている碇ゲンドウ。
「検査では異常は見られない・・・まあ検査方法自体が現実に追いつけないだけかも知れないが・・・籠の鳥にしてしまうわけにもいくまい。
・・・いつしか逃げられてしまうぞ」
指を組んで鼻を載せているいつものポーズで眼鏡を光らせている碇ゲンドウ。
「初号機はあの子しか動かせん。・・・だが、このままでは二度と乗るまい。
母親に・・・・ユイ君に会わせるまではな。残酷な事を云うようだが、あの子はお前に会いに来たわけではないのだろう。初号機に乗ったことも、お前の為ではなく、母親に会うためだろう・・・・・」
指を組んで鼻に載せているいつものポーズで眼鏡を光らせている碇ゲンドウ。
しかし・・・・今やその白手袋の指が小刻みに震えている。互いの手を握り潰さんばかりの力が込められていた。
「初号機がここに戻ってくるまでの猶予だな」
冬月コウゾウにしか言えぬ言葉であっただろう。見下ろすそれは遠慮も容赦もない。
「家族の問題にこれ以上、口出しはせんが・・・ユイ君と相談してみればどうかね」
無言の時間がしばらく続いた後、冬月コウゾウは教師の口調になった。

「冬月・・・・先生」








その夜は満月だった。
夜に目が覚めてしまったのは、あまりに綺麗な月の光のせい・・・ではない。
単に今日差し入れられたマンガや本を読んでいるうちに眠くなり、昼寝をしたからだ。
あんまりヒマなので、だめもとで何か暇つぶしになるようなものを、と頼んでみたらあっさりと受け入れられ段ボールで三箱分、新品の本、マンガが差し入れられた。
云ってみるもんだなあ。この階から出るのは相変わらず禁止だけど、注文すればたいていのもの、入院者の常識として外れない、は差し入れてくれるという。
待遇は悪くないのかな・・・・テレビでいう「隔離」だと思ってたけど。
入院中の碇シンジは今日もひまだった。
誰もお見舞いに来てくれない。この街に知り合いといえば・・・いない。
実の父親でさえ来ないのだから、誰か来るわけもないか・・・・・・・。
月の光に透かされて虚ろな闇の中に目が冴えている。
ベッドの側の明かりをつけてもいいのだけれど、その必要もない。
廊下を散歩でもしてみようか。トイレにいくのだと云えばいいだろう。
そのくらいの距離しか移動できないのだから、どっちでもいいんだろうけど。
もしかしたら、夜は階段に誰もいなかったりして。でも、こんな夜に降りていっても人の迷惑になるだけだよね。足音がうるさいかも知れないし。
廊下をちょっとだけ・・・・・。
サンダルを履いてぺたぺた歩いてドアを開ける。鍵はかかっていない。
月の光に満たされた白い廊下。殺風景だと思っていた白い単純さもこうなると余計なものがないぶん素直に詩の世界に変質する。


廊下の窓から月を見上げる白銀の髪の少女


人がいるとは思わなかった。碇シンジは驚いたが、声はあげなかった。
その横顔を見ている。きれいだな・・・・見とれていた。
声をあげれば、その子は月を見上げるのを止めるだろう。
こんな夜に、かぐや姫じゃあるまいし、真剣に月を見上げなければならない理由なんて思いつかない。おそらく、何の気なしにただ、見上げているのだ。
有意義でもなければ、無為でもない、そんな動作。しん、と音のするような絶妙の間。
声をかければ、それが終わってしまう・・・・。

そんなことをさっ引いても少女は綺麗な顔立ちで、普通の少年碇シンジの健康な心を捉えるには十分だったのだ。

すう
何の前ぶれもなく、少女は月を見上げるのをやめて碇シンジの方に顔をむけた。
無言。赤い瞳。
表情の感じ取れない瞳。月を見上げていたのと同じ。首を動かしただけ。
人を見る目ではない。碇シンジは自分が透明人間になった気がした。
誰をみているのか。何処を見ているのか。それとも何もみていないのか。
赤い瞳に包まれたような気がした。これはほんとのことなのかな。


「こ、こんばんわ」
碇シンジのようやく言えた言葉はそれだった。
「驚かせちゃったら、ごめん。あのーまさかこんな夜中に人がいるとは思ってなくて、じろじろ見ちゃったけど、気が散ったかな・・・・・」
しばらくの空白。



「気に・・・ならないから」
そっけない一言。空白をおいたことで、なにかひどく含蓄のある言葉のように聞こえる。碇シンジには思いっきり気になっている。これは・・・怒ってるんじゃないだろうか。
人を不快にさせてしまうことが三食抜かれるよりもこたえる少年は、先ほどの自分の言葉が軽すぎたように思えた。とはいえ、再び謝るのも相手がいいと言っているのだから、なんかヘンだ。どうすればいいんだろう。


一方、綾波レイも似たようなことを考えていた。
まさかここで碇シンジに会うとは思わなかった。
昼間寝て夜起きている昼夜逆転の入院生活を送っている少女と、ひまだひまだと云いながら普通の入院生活を送る少年は、隣に寝起きしていながら顔を合わすのはこれが初めてだった。ただ、少女の方は少年を知っているが、少年は少女を知らない。
立場としては似たようなところにいる二人だが、知識量に膨大な差がある。
何をはなせばいいのか。どうふるまえばいいのか。
これから、どう行動するべきか・・・・・。
綾波レイでなければ、とろいようなことを考えていた。


碇シンジは悩んでいた。
なにも云わず、頭の一つも下げて、さっさとその場を離れるべきなのは分かっている。
悩むほどのことではない。しかし、悩んでいた。
もう少し、この子と話がしてみたい。聞いてみたいことは山ほどあるし、何より同年代との会話に飢えていた。いかにも話しにくそうな相手ではあるが、それを圧しても話をしてみたかった。怒っているのかもしれないが、相手も日本人らしいし、話は出来る。
だが、何を話せばいいのか分からない。焦りも入って考える。
そ、そうだ。自己紹介もまだだったじゃないか。それもやらないうちから、「お邪魔だったかな」なんて考えてみれば、キザすぎる。それで変な奴かと思われたのかもしれない。確かに、変だ。今時、少女マンガの登場人物でもそんなこと云わないに違いない。
僕は変な奴じゃない。普通の中学二年生だ。入院中だけど。
誤解を解かなければ。


「ぼ、僕は碇シンジ。この病室にいるんだけど、顔会わせたのは初めてだね。
き、きみはもしかして綾波さん?」
「そう」
返事がきた。こういう話し方をする子なのだろう。よく考えてみれば、ここは病院。
元気がなくて当たり前だ。夜寝られないのだから、重い病気なのかもしれない。
と、すると廊下で立ち話なんて体に毒なんじゃないだろうか。
「綾波さんも、眠れないの」
まさか病院にいるのに昼夜逆転生活を送っているなどと思わない碇シンジは尋ねる。

「あなたは・・眠れないの」

謎の問いかけのように聞こえるが、昼起きて夜眠っているはずの少年がなぜ起きているのか、それこそ不思議な綾波レイである。
まさか差し入れされたマンガを読んで目が疲れたので昼寝をした分、眠れなくなったなど少女の予想には数光年は離れている。
いくらキザを嫌うとは云え、さすがにこの状況で正直に話す気にはなれない、年相応の見栄というものがある碇シンジ君。言いよどんでから自分の質問のまずさに気づく。
眠れない理由があるなら、起きていてもいいということだ。
そのために聞いてみたのだが、己を振り返ると、そんな大したことはなし。
あと何年かすれば、月が綺麗だからさなどという歯の浮く嘘もつけるようになるか。

「眠れないというか、散歩に」

「そう」

完全純粋の、そう、というものがあればこのことかもしれない。
打てば響くような鐘や、共鳴する音叉もこの子の内にはないのだ。
ただ、話の向かう道筋にはすうっと後から照らしてくれるような雰囲気。
僕と話すのは少なくとも嫌ではない、そんな感じに安心する碇シンジ。
「綾波さんは、名前はなんていうの」
「レイ」
本当は別のことが聞きたかった。無論、少女の名前も聞きたいのだが、それよりも同じ階の入院患者として、この不思議な状況について・・・・。
ちょっと待ってよ・・・・・・。
綾波、レイ。あやなみれい。アヤナミ、レイ・・・・


「いい名前だね」


「エヴァンゲリオン零号機、専属操縦者・・・」


月並みな誉め言葉と、銀でつくられた名刺のような挨拶がすれちがう。
すれちがう言葉は互いの胸に響いた。一方はやわらかい波紋となったが、一方はすっぱりと綺麗な断面をつくるナイフになった。
碇シンジの顔色が月の光にもわかるほどに青ざめた。
「・・・・」
それを見て波紋もすぐに砕けた。砕ける音がした。

「エヴァンゲリオン・・・・・なんできみが・・・・」
この怯え様・・・・・あなたはなにもしらないの・・・しらないのに・・・・
「さよなら」
綾波レイは自分の病室に戻った。







惣流アスカは相変わらず、家に閉じこもり部屋でふさぎ込んでいる。
起動実験の為の迎えがくればゆき、終われば何も言わずに閉じこもる。そんな毎日。
学校には行っていない。行く必要もなければその気もない。病欠の届けさえ出していない。退学になるというのでも構わない。その方がせいせいするか・・・・。
必要事項以外、誰とも話をしない。したが最後、ふきこぼれるようなきがするのだ。

何が

惣流アスカでいるための構成要素のようなものが。
すでに構成要素のいくつかが欠如してしまった。高々と掲げていた聖火のように誇っていたものが、でろんと舐め消された。

ぞわわわっ
思い出しただけで悪寒が走る。虫酸が全力疾走する。恐怖が駆け抜ける。
そんなレース、これほど無意味なレースもなかろうが、延々と少女の中で続いていた。
どこかで断ち切るべきだとは分かっている。自分の誇りはそんなところには無いことを。しかし、ダメなのだ。
頭脳では解決できない。これは生理現象の領域だった。
模擬戦に負けた、という屈辱・・・は自分の油断のせいもある、反省して耐えもする。
だが、


ズイズイズイズイズイズイ・・・・・・


あの着衣を引き剥がされていくような感覚。あれには肌が粟だって我慢する気力すらない。ATフィールドを張ろうとすると、思い出される。強制的だ。
ATフィールドの張れないエヴァは翼を失った天使のようなもの。いわばただの人。
ただの人型兵器だ。人形をでかくしたのと大差ない。
ATフィールドを張れないパイロットをエヴァは必要としない。

渚カヲル

フィフス・チルドレン。アイツが動かすことになる・・・・・。
実験では、ATフィールドは当然、シンクロ率さえ上回ってきた。
もし、今、使徒が来れば弐号機はアイツが乗るだろう。アタシではなく。
アタシは見ているだけ・・・・・。



キンコーン

玄関チャイムが鳴った。いつものホームヘルパーではないし、回覧板でもない。
なんだか白々しいわねえ・・・・ここに来れるのは関係者だけ。知ってるはずでしょ。
アタシは今、誰にも会いたくないの。居留守を使う。

キンコンキンコンキンコンキンコンキンコンキンコーン
連射。

誰!?アタシん家でこんなバカな真似してくれるのは。いくらなんでもミサトでも・・。話があれば本部でやればいいことだし。これじゃまるで・・・・
「まさか!?」



「ごめんね、惣流さん。風邪なのに騒がしくしちゃって。ほら、鈴原、あやまんなさいよ」お見舞いに来たのだという。
ヒカリ、となぜか男が二人来ていた。確か、渚とつるんでいたジャージとメガネだ。
どうやら自分は風邪になっていたらしい。・・・余計なことを。
「すまんかったの」
あまり誠意の感じられない、というかその気はないのにあやまらんと後が怖いから仕方なくというのが見え見えだった。
「何が居留守よ。風邪引いてるんだから、出てくるのにも時間がかかるのは当たり前でしょうが」
「まさか惣流、着替えてたのか」
「相田君!女の子にそんなこと聞かないの!」
「はいはい」
男二人は、ヒカリに連れてこられたクチね。しかし、ジャージに居留守を見破られるとは。怒鳴ってやろうかと開けてみれば、ヒカリもいてそうもいかなくなった。
それからなし崩しに家にあげてしまった。なにもこんなときに・・・・・。
でも、人間がいると空気が動くような気がしてくる。
家の空気は停まっていたのか。今、気づいた。
「なんでここが分かったの」
それにしても、どうやって家に来れたのだろう。住所自体、機密扱いだし、マンションはガードがついている。許可がなければオートロックも開くまい。
「渚に教えてもろうたんや。あいつは用があるとかでこれへんかったけどな」

渚・・・。

なんのつもり。アイツの考えていることはよく分からない。
「アスカ、それで調子はどうなの、もういいの」
もしかしたら自分はひどい顔しているんじゃないか。鏡も見ていなかった。
洞木さん・・・ヒカリの言葉通り、本当に風邪でもひいてた気分になってきた。
「あまり良くないわ・・・・・」
早く帰ってもらうとしますか・・・。なんにも話すことなんてないのよ。
「アスカって一人暮らしなんだね。知らなかった」
言った覚えもないからそうでしょうね。そんなことより。
「誰か、世話してくれるひと、いるの」
「いるけど」
多分、ヒカリの質問に正確に答えるなら逆になるのだろうけど。
「・・・・なんだか、やつれてるように見えるんだけど」
「あまり食欲がないだけ・・・でも、そんなにひどい?」
「ひどいね」
ハッキリ断言してくれたのは、部屋を観察するようにしていたメガネだった。
クイ、とメガネを指で押し上げている怪しいポーズ。なんなのよ。
「まるで別人の変わり様だね」
なんでアンタにそこまで言われなきゃなんないのよ・・・。
「これを見てくれよ」
このセリフがあと3秒遅ければ良かったのに。命拾いしたわね。
メガネは鞄から写真を数枚取り出してテーブルに並べた。
「これを見てくれれば、この相田ケンスケの言うことが紛れもない事実だと分かってくれると思うよ」
人当たりは柔らかそうだけど、どっか偉そうね、コイツ。
写真は、アタシの写真だった。学校で撮ったらしいが、いつの間に・・・。
「ほら、この溢れるような生気。肌の艶、目の輝き。転入初日なのに物怖じすることのない堂々とした態度、知性に裏付けされた余裕のある笑み。清冽とした立ち姿。
・・・・・・どれをとっても、今のキミからは感じられないな」
ぬけぬけとよく言うわね。しかし、一理あるわ。
居留守を見破るジャージといい、ぬけぬけ一理を指摘するメガネといい、意外にやる。
だから渚もつるんでんのかしら。いや、アタシの調子が悪いだけかも。
写真はいいカメラを使ったのか、よく撮れていた。確かに明るい。
この時のアタシは、エヴァを平然と操ってたんだものね。だから・・・・・

それだけ?

それだけって?ほかになにかあるの。

エヴァを平然って、すでにシンクロ率はドイツを離れた時から落ち始めていたじゃない。今回のことはきっかけにすぎない。いえ、単なる逃げ口上。

逃げるって、逃げてどこいくのよ。逃げる場所なんてないのに。
そんなことより、アタシが逃げる?ジョーダンじゃない、誰から逃げてるっていうのよ。

JA・・・じゃあないわ。弐号機が本気出せば、あんなものは3秒でスクラップだから。

じゃあ、・・・・なんなのよ。

分からなければ、バカなのよ。惣流アスカはバカじゃない。



「アスカ?どうしたの?気分、悪いの?」
心配そうなヒカリの顔がのぞき込んでいた。
「惣流、どないしたんや。メシ抜きすぎて、気いが入らんのんか」
「そうじゃないさ、委員長。写真の出来があんまり良すぎて見ほれてるのさ。良く撮れた写真には人を引き込む魔力があるんだ」

「え・・・」
しばらく、ぼうっとしていたらしい。本当に風邪かもしれない。らしくない。





夕日の射すリビングは、いつもより寂しく感じる。
さっきまで、ここには3人もひとがいた。いつも一人に慣れている空間には多すぎる。
その反動だろうか、空気も重い。また、停まってきている。
ヒカリ、ジャージ男、メガネカメラ。
いきなりやってきたと思ったら、帰ってゆく。当然か。
ヒカリは家族の夕飯を作らなければいけないらしい。料理をするわけだ。
ジャージもメガネカメラも家に帰る。こいつらは食べる専門でしょうけど。
それはアタシも同じか。そろそろ連絡員が来る時間だ。部屋にこもる。

いつもは感じない静寂。カラスの鳴く声もなし。
なぜか今日はそれに耐えられなかった。気づいてしまったから。
邪魔されないのはいいけれど、ここがこんなにも寂しい場所であったことを。
いつもは数式でも解いているか、論文でも読んでいるかして眠りを待つだけなのだが、
今日は人の声が耳に残っていた。それが足をリビングに向かわせた。
リビングに家具のように据え付けられていて、一度もスイッチを入れられたことのないテレビ。リモコンを押す。初めて現れる画面。ニュース番組が多い。
適当に局を変えてみる。変わって往く画面。そっと置かれるリモコン。

「みんなのうた」

なんとはなしに選んだそれは、子供向けの童謡番組だった。
膝をかかえて、聞いている。夕日が翳りを見せはじめてきた。
番組も終わり、電源を切ろうとリモコンに手を伸ばしたときに、選局スイッチに指が当たる。ちょいん、とまた変わる画面。

「なによこれ!!」

六時台のニュースらしいが、映し出されている映像はとんでもない・・・・・。
今、惣流アスカが世界中で一番見たくないものが出ていた。

JA

あの民間企業団体が造った使徒迎撃用ロボット。
なんでテレビなんかにこいつが映ってるわけ。いくら民間だからって・・・・。
「ただいまご覧頂いているこの映像は特撮や映画の宣伝ではありません。現実の映像です。最新技術の粋を集めて建造されたこのロボットはJA、ジェット・アローンという名称で今現在繰り広げられている特殊災害に対する備えとして開発されていたものです」
女性アナウンサーが淀みなく読み上げていくが、さすがにわずかな興奮が見られる。
「リアルタイムなの、これ?」
ロボットが、灰色の巨大生物とやりあっている。これは・・・・使徒!?
植木バサミのような奴だが、このサイズの生物が陸上にいるわけがない。使徒だ。
「旧東京、第23放置区域に現れたこの怪物なのですが、第二東京大学教授で海洋生物学が、ご専門の布施屋先生にお越し頂いております。先生、これは一体・・・・・」
布施屋教授のお話は聞かずに惣流アスカは家を飛び出した。






ネルフ本部。第二作戦会議室。
「これは一体、どういうことなのよっ!!」
惣流アスカはためこんでいたものを一気に叩きつけるように吼えた。
そちらを振り向く大人達。少女は青い目で睨み付けている。
「アスカ・・・・?」
いきなり入ってきてこの剣幕で吼えられては大人としては眉をひそめるしかあるまい。
「とぼけないでよ!なんであのロボットがテレビに出て、使徒とやり合ってんのよ!」
ヅカヅカと早足でやってくるとモニターテーブルをバシン、と叩く。
「もう終わったことよ」
冷静というよりはつまらなそうに言う赤木博士。さらに説明になっていない。
「アスカ、落ち着いて」
葛城ミサトは静めようとしたが、かなわぬ。
「落ち着いてなんかいられないわよ!ミサト、説明しなさいよ!」
噛みつかんばかりの荒れように、葛城ミサトはわずかに目を細めると、頬を張った。
「落ち着きなさい。説明はその後よ」
作戦部長としての命令口調。もう少しやりようはあるかも知れないが、ここはネルフだ。焦りを源にした荒乱は、上司の威圧の前に叩き伏せられた。
「・・・・・・」
納得したわけではないが、とりあえず黙り込む。
「使徒は午後一時に旧東京、第23放置区域に出現したわ。日本重化学工業共同体は、ネルフに協力体勢のみを要請。自衛の為の戦闘、というのがその名目。
午後一時45分に戦闘が開始され、午後三時三十分に終結。使徒は完全に沈黙、JAは損傷軽微というところかしら。ちなみに付近住民、施設等の被害は無し」
「それ・・・・ほんとなの・・・・・・」
エヴァでなくても使徒に勝てる。それならば・・・・・。

「事実よ」

この期に及んで嘘をついてもしょうがないが、葛城ミサトも惣流アスカにかけてやる、うまい言葉が見つからなかった。アスカに見つかる前になんとか考えておこうと思ったのだが。忙しすぎて、言葉に想いが足りなくなる。結果、出た言葉は一番鋭く抉ってしまう。自分でもこんな時にこんなこと言われればたまったもんではないのに。

「くっ・・・」
惣流アスカはそこから逃げるように駆け出した。
待ちなさい、と言おうかと思ったが、葛城ミサトはやめておいた。
引き留めても自分にはどうしようもない。考えるべき事は、やるべき事は、山積みになっている。答えの出そうもない問題に向かう気力は沸いてこなかった。
「ミサト、続けて。時間が惜しいわ」
皆にも迷いがあっただろう。パイロットとはいえ、なにせ相手は子供なのだ。
しかも事情がある。世界中の14歳を探しても二人といない残酷な悩みを持つ少女。
どこの世界に巨大ロボットとの勝ち負けで苦しむ少女がいるだろうか。
しかし、赤木博士はその迷う空気を断ち切る。声はあくまで冷静。

「では、続けます。日向君、映像を」
頷く日向マコトが端末を操作すると、テーブルモニターにJAの対使徒戦が映し出される。距離をおいて向かい合うJAと灰色の使徒。
使徒から、なにやら眩い光線のようなものが発射される。が、JAにはなんの影響も無し。「これは光学兵器ではありません。効果のほどは判別できませんが、光線の波長パターンからみて、なんらかの催眠効果を引き起こすものと推察されます」
要するに、催眠術師が光の明滅などで相手を催眠状態に誘導するようなものだ。
赤木博士の解説はおそらく当たっていたのだろうが、相手が相手だけに効かなかったというわけだ。
がしょーん、がしょーん、と狼狽えている感のある使徒に無表情に接近してゆくJA。
もくもくもくもく・・・・・煙を噴きだしている。
無論、故障したのでも蒸気を動力に使っているのでもない。
これが噂のJTフィールド。有効距離まで入ると、弐号機との模擬戦のようにATフィールドを反転させて、取り上げてしまう。
狼狽を超えて、パニックになったような使徒が剣のような尻尾で攻撃を仕掛けるが、元は自分のフィールドで弾かれてしまう哀れ。
途端、JAが逆立ちする。初めて見たときゃギョッとしたが、今はこのスタンドプレーに嫌みを感じる。
「カポエラね」
戦闘技術に関しては、葛城ミサトが解説する。カポエラとはカポエラである。
ぐわしゃっ!!回転する蹴りが使徒を跳ね飛ばす。相撲だけでなく、こんなもんまで使えるのか。技の節操のなさは怪しい覆面レスラーなみであった。こんなもんではすまなかった。のたうつ使徒を放っておいて、どこかに行ってしまうJA。

しばらくすると戻ってきた。その左手には凶悪なドリルが装着されている。
「強化アタッチメントのJAダイヤモンド・ドリル・・・・らしいわ」
冷静であろうとする赤木博士にも一部、赤みがはいる。
ギュュリーーイイイン・・・・・・
イヤあな音の高速回転。そのイヤさは、余裕で精神攻撃の域に達しているだろう。
躊躇いも良心の呵責もなしに、ドリルで使徒に穴を開けていくJA。
ヂュリー・・・・・
ATフィールドを剥ぎ取られてしまえば、灰色の肉の塊にしかすぎない。
容易に掘り進んでゆくドリル。これは、サイズがサイズなだけに気の弱い人間ならずとも目を逸らしてしまうだろう。これを正視できる者は、気が弱いという資格はない。
使徒に痛覚があれば、とっくのとうにショック死していることだろう。
ドリルはとうとう使徒の体を貫通した。使徒トンネル完成。
かなりえぐい光景だが、エヴァと違ってJAが勝手にやっているわけではない。
これをJAに指令している人間がいるわけで、これはまごう事なき人間の行為なのだ。


「弱すぎる・・・・・・・」
「これで使徒殲滅。しかし、コアの存在は認められていません」
作戦部長と技術部第一課長がとりあえず、締めた。






惣流アスカは通路を駆けていた。何も考えられない。いや、考えることがあまりに多くありすぎて思考がまとまらないのだ。その根底にあるものは怒り。鍋底からぐらぐら沸き返っているようなものだ。赤い小型蒸気機関車アスカと化していた。
だから、角を曲がるまで、カツーン、カツーンという靴音に気づかなかった。

どん

「うあっ」何かにぶつかった惣流アスカは、反作用でよろけて尻餅をつきそうになった。きゃ、などと言わないのがこの少女らしいが、怒っていても軽さは同じなのである。
「うおっと」ぶつかかられた方から手が伸びてきて、少女をつかみ支えた。
皺びているが、強腕であった。それに素早い。
「危ないのう、廊下は走るなと学校で教わらなかったんか」
「あ・・・・」
作戦顧問、野散須カンタローが苦笑いとにやにやの中間あたりで笑っていた。
年寄りは表情の色が混じり合い、こなれていて、少女には分かり難い。
「まあ、子供はこのくらいが丁度ええがの・・・鼻もぶっつけておらんな」
ぎょろぎょろとでかい目玉で惣流アスカの様子をみやる。とはいえ、背もさして変わらないので、顔をつきあわすようになる。
大人はたいていでかいものだが、年寄りな副司令でもけっこうな長身なのに、目の前の年寄りは小さい。祖父も祖母もいない惣流アスカには、ちょっとしたショックだった。
ただし、皺びて枯れて小さくなっているのではない。走ってくる若者にぶつかられたというのに、微動だにせずさっさと手を伸ばしてきたのだ。凄い足腰だった。
純日本人体型ってやつかしら・・・・。ぽわん、とそんなことを考える惣流アスカ。

「じゃあの」
ずい、と近づいてきたと思ったら、ぽい、と行ってしまうじいさんの背中。
作戦顧問ということで紹介されたことはあるし、顔は知っている。向こうも当然、こっちのことは知っているはず。なのに、さっきの対応はなんなのよ。
ほんとの中学生、いや小学生に相手するみたいなあの態度、あの口調。
いや、そんなことより、なんであの爺さんこんなとこにいるの。作戦顧問のくせに。
しかも、足の向かうのは作戦会議室ではない。遅刻したわけでもないらしい。
歩みはあくまでゆったりと、すり足のように。
どこいくんだろ・・・・・。
もしかしたら、子供のような好奇心かも知れない。しかし、惣流アスカは駆けるのを止めていた。何食わぬ顔してその後をたどっていった。
カツーン、カツーン、小柄な体躯には似つかわぬほどに響く靴音だ。
そのせいで、入り組んだ通路でも見失うことはなかった。
「なんで、あの歩き方でこんな音がでるわけ・・・」
しばらくしてそのことを不審に思う惣流アスカ。だが、推理する前にその音は止む。
本部から出たのだ。ジオフロント。古人から、わずかに借り受けた地下世界。
「はあ?もしかして、家に帰るつもり」
あほくさ・・・・と思いながらも、まだついていったのは、地上に上がらなかったからかも知れない。自分の家にもまだ、帰りたくない気分だった。
ジオフロントでも夜になっている。
野散須カンタローは少女の尾行には気づいていないらしい。本部の裏手にまわった。
ちょうどピラミッドの影になっている昼間でも薄暗い場所で、誰も気に止めないような、惣流アスカもこんな時でもなければ目も向けぬような一角。なんとそこには・・・・。
手製だが粗末な、一人専用の自転車置き場があった。一台だけの自転車が主を待っていた。雨も降らぬのに、ご丁寧に屋根までついている。かちゃかちゃ。盗まれる心配もまずないだろうが、鍵を外して自転車を取り出す。
尾行もこれでおしまいね。格別の興味があるわけでもないのに、自転車についていく元気はない。惣流アスカは引き返そうとした。

「後ろに乗らんか」

後ろからふいに声をかけられ、ぎょっとする惣流アスカ。バレてた?
「暇なら儂の家に来て茶でも飲まんか」
まさか、ナンパっていうんじゃないでしょうね。この爺さんが。
でも、自転車で儂の家っていうことはジオフロントに住んでるわけ?まさか。



ナンパされたわけではなく、好奇心から誘いと自転車の荷台に乗った惣流アスカ。
しゃしゃーー、と軽やかに夜の道をゆく頑丈自転車。小娘ほどの体重ならへでもないようだ。鼻歌は「水戸黄門」だった。誰かが聞けば、テレビ文化の造りだした勧善懲悪の極みだね、などと言ったかもしれない。

「案外、おとなしい娘なのじゃな。アスカのお嬢は」
会話が弾むわけもない涼しい沈黙に、野散須カンタローはふと、こんなことを言い出す。おとなしい・・・・・物心ついてこの方、言われたことがない言葉。
いい子、立派な子、とかはみみたこな程に聞いたが、そんなことは言われたことがない。なぜなら、惣流アスカは大人しくないからだ。
ふん、ただ黙ってるだけじゃない。そんなんでおとなしいもこどもしいもないもんだわ。が、相手の出方が分からないので口には出さない。
相手のことが分からないうちからべらべら話すのはバカのやることよ。

キイイっ。
急に停まる自転車。人家はない。心が読まれた様な気がして、喉がびくっとする。
「悪いのう、ちっと待っといてくれ」
それだけ言うと、林の中に消えていってしまう。自転車に言っているのか、乗せている少女に言ったのか、いまいちはっきりしない。もしや両方かもしれない。
誘っておいて、この扱いはなんなのよ・・・・・。街灯はあるが、なにせ人気のない道に一人取り残され・・・しかも遅い。ちっと、というのは日本ではどのくらいの単位なの?遠景に浮かぶ、本部のネオン。NERV・・・神は天におわし、世はすべて事も無し・・
あの中で、まだ会議やら実験やらやってんでしょうね・・・・。


「待たせたのう。怖かったか、アスカのお嬢」
作戦顧問がスイカとカボチャ抱えて戻ってきた。



和風平屋のこじんまりとした家。本当にジオフロントに住んでいるわけだ。
他に人家はない。道もここまでしかついていない。街灯もなく、家の明かりが頼り。
最後の家
言ってみればそんな感じ。ここだけ時代が逆行している気がしてくる。
万能科学の城から、昔あしの一般家屋へ。なんだか冗談のようだ。
「野散須」
ランプ電球に照らされている表札。何十年もここに住んでいたようにぼろっちい。
作戦顧問は裏手に自転車を置きに行った。スイカとカボチャを持たされている惣流アスカ。なんでこんなことやってんのかしら・・・・・。
ドイツでは絶対にあり得ない光景の中で自問自答する。 のだが。
家の中からの夕餉の匂いは、その疑問自体をゆらゆらさせる。
「先に上がっておってもかまわんかったのだが」
玄関の前で重たいスイカとカボチャを真面目に抱えたままの少女に、とっとと多少は急いだように戻ってくる。そして、スイカとカボチャの労から少女を解放する。
「重かったじゃろう。力があるのう」
ほめるように労うのだが、しわびた手が持つと異様に軽そうに見える。
「おーい、帰ったぞう」
ガラガラ・・・・・と今時存在自体珍しい、磨りガラスの戸を開ける。
「はーい」
さして大きくない家だ。声はすぐに聞こえて、家人もすぐに現れた。
割烹着の白髪のふくよかな感じの女性だった。
「あら」
「お客さんを連れてきたぞ。アスカのお嬢、これが儂の連れ添い」
「野散須ソノです」
夫とは違う細い目で柔らかく微笑んでいる。
「初めまして。惣流・アスカ・ラングレーです」
挨拶しながら、さっきの自問自答は加速していく。ほんの数時間前には予想もしなかった場所にいる自分。
なんの関係もなく、知りようもなかったはずの人間に挨拶している自分。
玄関に入ってきている夜の気配、木造の家屋の匂い、漂う夕餉の空気・・・・・・

ぐう

はっ?誰よ。・・・もしかして・・・・アタシ?・・・カッコ悪う・・・・・
「風呂より先に飯にしてくれ」
特にコメントもフォローもするでなく、ブーツを脱ぎ出す野散須カンタロー。
「はいはい」
にこにこ笑っている野散須ソノ。ふいの来客に慌てるでもない。
「いらっしゃい。あがってちょうだい、アスカちゃん」
「あ・・・はい。おじゃまします・・」
年長者と話したことなどあまりない惣流アスカは別人のようになっており、いつもの惣流節は出てこない。ただのお腹をへらした14歳の小娘だった。


茶を飲むだけじゃなかったのか・・・いつの間にかこうして夕食をごちそうになっている。家の中もやはり日本そのもので、小さい。なにより天井が低い。明かりも気のせいか薄いような気がする。開け放した縁側にすぐつづいていて、ちゃぶ台で正座してご飯を食べる。それも、顔しか知らなかった人と顔も知らなかった人と。
ラジオからは野球中継が流れていた。おかずは魚のみそ漬け、きんぴらゴボウ、肉じゃが、ほうれん草のごま和え等々、やっぱりの和食。
「あの・・・夕食の時にお邪魔してしまって、すいません」
単なる好奇心でつけておいて、こうして他人の家で夕食食べてるなど、いくらなんでも図々しいのではないか。突然、連絡もなしに来たのだから用意などしているはずもない。
年寄り二人のささやかな夕食の量がそのぶん、減ってしまうのだ。柔らかく微笑んでいる野散須ソノさんを見ていると、普段は思いも寄らない言葉が出てくるのだった。
この場に葛城ミサトか加持兄弟がいれば、かなり驚いただろう。
「いいのよ。いつも年寄り二人でさびしいから、アスカちゃんがきてくれて楽しいわ。
それが何よりのごちそうよ。ありがとうね」
「え・・・あ・・・そんな・・・・」
なぜかシャキシャキいつものように対応できない惣流アスカ。
「アスカのお嬢は礼儀正しいのう、だが、誘ったのは儂じゃから気をつかわんでもいい」野散須カンタローはそう言って冷やの焼酎を飲む。
「ふーん、衣笠がまた打ったか」
なんのことかと思ったが、野球のことだった。そんなことも分からないなんて、自分は・・・おかしい。緊張している?こんなことで。
「アスカちゃん、お口にあうかしら」
「あ、おいしいです。特に、このプリンみたいなのが」
「卵豆腐?ふふ、よかった」
卵豆腐?卵の豆腐?よくわかんないけど、プリンみたいなんて言って、子供みたいだったかな・・・。
・・・って、こんなことしに来たわけじゃない!
でも、なにしに来たの?アタシ。
「おお。そういえば」
総入れ歯、と聞き違えるような声をだして立ち上がる野散須カンタロー。
「昨日もらってきたスイカはもう冷えとるじゃろう」
「ええ。冷蔵庫に」
奥の台所にいくと、しばらくして戻ってくる。切ったスイカを盆に並べていた。
自分は食べたからといってさっさとデザートに突入するあたり、言うだけのことはある。昨日もらってきたって、今日持たされたあのスイカはなんだったのか。
まさか毎日スイカ一個ずつ食べているのか。しかし、あのスイカは誰が育てているんだろう。よく考えてみれば、こんな所に果物屋があるわけじゃない。農家もない。
もしや、実験場か、なんかから・・・・・。
「さすがに冬月先生の育てたスイカはうまいのう」シャクシャク。
「え・・・・」
副司令はスイカなんか育ててたの。意外というかなんというか。
でも、そのスイカをもらうって・・・この人、副司令とどういう関係なんだろ。
つい、まじまじと見てしまった。スイカにかじりついていたぎょろ目とあってしまう。
「ん。ああ、最近はお忙しいらしくて様子を見に来てもないから、ばれる心配はない」
平然と言ってのける。そんなことを気にしていたわけじゃないのに、容易ならざることを聞いてしまった。これでスイカ食べたら、アタシも共犯じゃないの!
もうご飯はほとんど食べてしまった。この流れだとスイカに手が行かざるを得ない。
スイカアレルギーなんて聞いたこともないし、水分が多いだけにスイカが嫌いだというのも、いまいちぴんとこないから信憑性に欠ける。
「アスカちゃん、スイカをどうぞ」ああっ、塩までかけてくれている。
もらうというよりぬすむ、にちかいルートのスイカにもにこにこしている野散須夫人。
ここはそういう家なのか。諦観の惣流アスカ。
「は、はい・・・いただきます」これは食べるしかない。
しゃくっ。スプーンもなく、直接。ここはそういうところだからいいのだ。
甘い。つめたーい。
あの副司令が育てたスイカだから、もしかして渋いのではないかと思ったがさすがにそんなことはない。どっぷりと重たかっただけの価値はある。
「でも、副司令がスイカ育ててたなんて・・・」
口がすべった。確かに意外だが、口に出して言うべき事じゃない。軽率な。だが、
「元々あの人は生物学の教授じゃからな。それも形而上生物学、とかいう難しいやつでな。それで形而上的立場から、植物の栽培をされておったんだ。次代は植物の天下になるとかで。まあ、今やっているのは、多分に趣味と息抜きのためじゃろうかな」
形而上的立場だと植物も生物に入るんでしょうね。
「形而上でもスイカはうまい。カボチャもうまい。ネルフを退職されても十分食べていける・・・それで確か、ダンゴムシの研究で博士号をとられたのじゃったかの」
なんだか話があやうくなってきた。顔を見ると赤みが差してきている。
冷やの焼酎がまわってきたらしい。
はあ・・・・聞きながらしゃくしゃくとスイカを食べてしまう惣流アスカ。



「ごちそうさまでした 」
ちりーん、風が軒に下げてある鈴をならす。
「あー、眠くなってきたのう。巨人も負けたしの」
「いけませんよ。ここで寝ては」
招いた少女のことなど気にもとめていないよにごろん、とひっくり返る。
「それに。アスカちゃんを送っていってあげないと」
「そういえばそうじゃの。アスカのお嬢はこんな寂しいとこじゃ眠れんだろうからの」
本気なのか冗談なのか、赤い顔からは分からない。だが、すっと起きあがる。
年寄りとは思えない身のこなし。
「長いことつきあわせて、すまんかったの。アスカのお嬢。そろそろ好きなテレビでも始まるじゃろ。上まで送ってこう」
加速する自問自答は、とうとう答えを出すこともなく消えてしまう。



見送ってもらった玄関が遠い。
年寄りと少女が乗った自転車は、涼しい夜の空気の中軽く走っていく。
野散須カンタローの鼻歌。「江戸を斬る」
少女は荷台で黙っている。出せなかった答えを求めているのか、その視線は後ろの小さくなっていく明かりにある。
「あれだけ目立つと道に迷う心配がなくていい。のう、アスカのお嬢」
運転手は前方のネルフの光紋を見ている。
「え・・・」
しまった。聞いていなかった。背中にいるのに聞こえないなんて・・気がゆるんでいる。「あれだけ目立つと道に迷う心配がなくていい。のう、アスカのお嬢」
「はい、そうですね」
もう一度言ってくれた。にしてもどうでもいいようなことを・・・・。
「あのー」
「なんかの」
「なんで、わたしのこと、アスカのお嬢って呼ぶんですか」
どうでもいいようなこと。向こうがいうならわたしが言ってもいいんじゃない。
そんな呼ばれ方されたことがないし、これからも多分ないだろう。この年寄り以外に。
「いやかの」
イヤだ、と言えば多分その呼び方をやめてくれるだろう。代わりにどう呼ぶのか。
それともわたしのことを呼ばなくなるのか。テレパシーが使えるわけじゃないんだから、人間には呼びかけるための言葉がいる。名前なり愛称なり、・・・・番号なり。
その人間をどう見るかでその呼び名は当然変わってくる。たとえ文字は同じでも響きが。まるっきり同じ呼びかけ、というのは人間間には存在しないのかも知れない。
けれど、この年取った作戦顧問はとりわけ変わっている。

アタシ、惣流アスカをそういう風に見ているわけだ。アスカのお嬢。

洒落や馴れでそう呼ぶのではないのは分かっている。おそらくは、他に考えつかないし、そういう風に見ているからこそ呼ぶのだろう。自然なのだろう。
じゃあ、そういう風って何風?アタシを、わたしを、どんな風に見ているの。
ふっと知りたくなった。
「聞いてみたくなったんです。言い回しが変わっていますから」
「そうさの・・・・儂も最初は、こりゃあこましゃくれた小娘だな、と思っておった」
正直といえばあまりに正直な一言に視線は一気に振り返る。
「そ、それで・・・なんで・・」
「あのロボットに投げ飛ばされた時のことよ」
ズキイッ、本気で心臓が痛い。藪をどついてしまった・・・。
「負けて帰ってきて、儂はアスカのお嬢が泣きべそかきながら周りに当たり散らすと思うておった。大人でもよくあることじゃからな。・・・それで特に葛城一尉にはどれほどきついことを言うのかはらはらして見ておった。あの子・・作戦部長もまいっておったしな。じゃが、アスカのお嬢は何もいわんかった。そこがえらい。小娘ごときにはできん。
じゃから、アスカのお嬢と呼ぶ。・・・・これでいいかの」
そんな上等なものじゃない。当たり散らしてみたかったけど、それも出来なかった。
胸が苦しいのもあったけど、なにより心が麻痺していた。
それに、エヴァのパイロットがあんなガラクタに負けたのに怒れるわけがないじゃない。皆の視線が痛いのに。声を聞くのも、話を聞くのも耐えられない。
下手な同情なんていらないわ。あれが敵なら、使徒ならアタシは死んでいた。

なんのためのセカンド・チルドレンなの

答えられない。答えるべき、かくも簡単で切実な問いに。答えられなかった。

いぎぎぎぎぎぎ・・・・・・・・・・心臓がイタイ・・・・・・
なんでそんなこと言うのよ。もっと適当なことでいいのに。
セカンド・チルドレンなら、そんなことは当たり前なのよ。
別にアタシじゃなくたって、いやしくもチルドレンなら最低限、そのくらいには振る舞うわ。アタシは振る舞うことさえ出来なかったんだけどね・・・。


「気にしとるのう」
承知の上で言ったのか、この爺さん。惣流アスカは返事をしなくなった。
「アスカのお嬢の気性からして誰にも助けは求めんじゃろ。それでええ」
もうそろそろ到着する。この年寄りと話すこともなくなる。うつむく惣流アスカ。
「じゃが・・・・」

キイイ。あの自転車置き場に着いた。年寄りはその先を語らない。
惣流アスカは荷台から降りた。真似でも礼の言葉を述べるべきか、それともその先の言葉を聞くべきか。歩き出す年寄り。ついてゆく少女。
無言のまま、ゲートをぬけて地上昇電車のホームまで。
待ち時間はそんなにはない。ここで聞かなければ二度と聞けない。そんな大事なことか。この年寄りは、相手が子供といえど言葉にシロップを混ぜるような真似はしない。
苦いままに出してくる。苦くなければ変質してしまうものなのだ。
ふん・・・アタシのことなんか知らないくせに。お説教はまっぴらよ。必要ないわ。
機械音声のアナウンス。電車がくる。ドアが開く。

「続き・・・・」
一歩足を出すと同時に口が開いていた。女々しいわね・・・・・。
「なんなんですか」
二歩を出すより早かった。これはもしかして恥かも。

「つまらん話じゃが、電車を待った間のヒマ話とおもって聞いてくれ」
{待った}間の話・・・向こうも無理してるの?
「犬も三日飼えば恩を忘れぬ、という。人に造られたものとはいえ、長年の友誼があった弐号機ならば、きっとアスカのお嬢の助けになってくれるじゃろう」
そ、そんだけ?惣流アスカは電車に乗った。ガラス越しにぺこりと頭を下げる。
ぐーんぐーんと昇ってゆきホームも角度の隅に消える。

「ほんとにひまね・・・」






二日後。
使徒が第三新東京市に現れた。黒い巨大ウニのような形状をしている。
ネルフ本部 発令所。
「旧東京に行かれたらどうしようかと思ってたけど、おいでなすったわねえ」
虚勢だが、葛城ミサトが言うと本気で言うとるように聞こえるから不思議だ。
ここまで来ると戦闘詐欺師とでもいいたくなる一種の才能であろう。
零号機は未だ修理中。初号機は北海道。弐号機は・・・・・。
「パイロットは、フィフス・チルドレン、渚カヲルを使います」
何かを断ち切るような葛城作戦部長の指示。
「それしかないでしょうね」
対称的に冷静でそっけないほどの赤木博士。
赤いプラグスーツに身を包みながらも降ってくるその言葉に耐える惣流アスカ。
ここで感情的に逆らうには、少女は頭が良すぎた。それは赤木博士を見ると分かる。
「はい」
そっけないというより、執着それ自体を知らぬような渚カヲルの返事。
「零号機は未だ修理中。初の実戦で単独出撃になるけど・・・・・」
「皆、そうですから、特に気にすることではありません」
これが嫌みに聞こえないのだから、渚カヲルも貴重な才能を持っている。
風のように搭乗にいってしまう。力みも恐れもなく。
残されたブラウンの髪の少女はうつむいて拳を握りしめていた。
発令所の誰も少女を見ず、言葉もかけなかった。

「エヴァンゲリオン弐号機、発進!」
第三新東京市には早く到着していたものの、肝心のエヴァが届かないせいで今までのほほんとしていた渚カヲル。専用機ではないとはいえ、その実力は・・・・・。


「リフト、オフ!」
最終拘束具が解除される。真紅の機体が解き放たれ・・・・・・・たれ。
リフトからぴくりとも動かない弐号機。初めから電源切れのような気合いの無さ。
「どうしたの。渚君?」
いいつつ、シンクロ率を調べる伊吹マヤのほうに目をやる。ここにきて、失敗とか?!
冷たい汗が発令所スタッフの背中につたう。そんな時である。


「勝ったな」


またしても頭上から舞い降りる副司令のお言葉。まるきり意味がないがそれを聞いて落ち着くのは、人格によるものか。いや、過去の経験から預言の響きさえ持っていたのだ。
副司令がまた言うンだから、勝つだろう。
人間の精神とは不思議なものである。それとも単に、地下の生活時間が長いネルフ職員が単純になってきているだけか。
「その必要がないのよ。彼・・・・本気みたいよ」
30の女性が中学生に言う科白ではなかろうが、同じ屋根の下に住んでいるだけに葛城ミサトとは知識が違う。とにかく、渚カヲルは本気らしい。どんな本気か。


斬ッ。


一撃でケリがついた。内部のコアごと真っ二つにされる使徒。


「あの・・・使徒、完全に沈黙した・・・んですよね」
減給モノの青葉シゲルの報告だが、それを咎めるものは誰もいなかった。
しかし、後で引かれていた。
さあ、これから始まるぞ、と言うところで対戦相手が心臓麻痺起こして不戦勝、というような気分だが。紛れもない渚カヲルが引き起こした現実であった。
あまりにあっけなさすぎて、今にも蘇って飛びかかってきそうだがその気配は無し。
「研究用にあまり傷をつけないようにしましたが、なにか危険な兆候はありますか」
しれっと渚カヲルからの通信。モニターだが、次元が違う。
「なによ・・・あれ」
楽勝すぎる瞬殺に、作戦部長としては被害も無しに喜んでいいはずだがそれより前にあまりの強さに言葉が出ない。今までの苦労はなんだったのだろうか。それが先に立つ。

「あれは・・・まさか・・・」
何故か、今の一幕に解説を加えそうな日向マコト。彼にそんな知識があったとは。
「なんなの?!日向君」
葛城ミサトの声はでかすぎた。周りの注目が日向マコトに集まってしまう。
赤木博士ならばともかく、葛城ミサトにこき使われている若き苦労性日向マコトが、そんな重要な役割をこなせるような力があったとは。意外な驚きの視線の中に、今までと見る角度を変えようとしている伊吹マヤの視線もあった。
だが、彼自身はその注目に気づいていなかった。だから、言ったのだろう。

「や、八つ裂き光輪に似ている・・・・」
しかもオペレータ調子。

ざんっ。音が出るほどの勢いで引いていく注目。
その後、なぜか日向マコトの給料も引かれていた。その理由を彼は知らない。



「エヴァ弐号機、そのまま回収して」
「第2種警戒態勢に移行。完黙した使徒の回収は2時間後に・・・・」
忙しく指示が飛び、発令所は戦闘中とは異なる活気に支配される。
誰もが、青葉シゲルも日向マコトも、自分の仕事に忙しく、顔を蒼くして発令所を去った赤いプラグスーツの少女のことなど気がつきもしなかった。
葛城ミサトでさえ、被害の全くなかったこの戦闘に、軽い高揚を覚えて後方に注意が回らなかった。気がついたとしても、どうすることも出来ないのだが。
赤木博士は伊吹マヤにつききりで指示を飛ばしている。意識は分析思考の中にある。
気づいたのは、とりあえず現在忙しくない高所にいる司令と副司令、そして作戦顧問だけだった。かといって何をするのでもなかったが。ただ視線の隅に留めただけだ。

「まさかここまでだとはな」
「ああ」






パイロット更衣室。
ガンッ
少女の拳がロッカーに叩きつけられる。だが、返ってくるべき痛みも感じない。
放り投げるようにしまいこんだプラグスーツ。それだけでは足りなかった。
この胸を焦がす感情を抑えきれない。ブスブス・・・と心臓が焦げ付いている。
ここにいればこの熱さはさらに増してゆく。
俯いたままの早足で其処を出る。頭にまとわりつく映像を振り切るように。
しかし、急げば急ぐほどに映像も高速回転してゆく。


エヴァ弐号機。リフトにあってぴくりとも動かない。糸の切れた人形のよう。


それを見た時広がる感情。胸の内でこっそりと呟いた言葉。極彩色のビックリ箱からびょーんと出てきたピエロがケタケタ笑ったようなざわめき。


操り手の糸が動いた。繋がれた右手に意志が流れ込む。右手が・・・持ち上げる。
オイデオイデをしているような・・・・


ヴンッ
無造作に振り下ろされる。


赤い閃光が疾る。光線、ではない。もっとスッパリと広い光面だ。
ATフィールドか何なのか。一瞬にして使徒のフィールドを裂き、使徒を真っ二つに。
有無を言わさず、招いてしまったわけだ。あの世に。

「専属パイロットが聞いてあきれるわ・・・・・」

あんな真似、自分には逆立ちしても出来ない。それは、才能の差?訓練の質の違い?
考えられる全ての要因をさっ引いても慰めにもならない。あるのは厳然とした事実。

自分はエヴァには相応しくない。


どんなに訓練が辛くても自分には他とは違う、周りから屹立した天賦の才があるのだと思って耐えてきた。選ばれたセカンド・チルドレン。その称号に比べれば多少の孤独など、なんてことはない。代償だと信じていた。
だが、ドングリの背比べだったようだ。天気の良し悪しのようなあやふさで拾い上げられただけなのだ。


ささささささささ・・・・・・・・
耳の奥で吹きすさぶ、あの音。右手と、左手。深い底から顔を出すあの映像。
魔神の如くの絶対的な強さ。紫の・・・・初号機の左腕。
目を逸らしたくなるほどに・・・・・・怖い。思い出すだけで震えがくる。


「あれに比べれば、アタシはただの・・・・・」






惣流アスカは自宅に戻った。待機命令や作戦反省会議もなし。
ネルフに止めておかなかったのは、葛城ミサトの気の使いようだったのかも知れない。
だが。
自宅に帰っても少女の苦悩は止むことがないどころか、最大の恐怖が待ち受けていた。
帰ってすぐに熱いシャワーを浴びる。それもかなり長い間。
全身を強く流す熱い雨。口元から漏れる声をかき消す水音。表情を一時だけ隠す蒸気。





あれだけの長い時間、浴びていたにも関わらず湯上がりの姿には一点もふやけたものはない。むしろ、ガチガチに凍りついていた。目の光だった。奥にあるその光源が全身を固く、ギリギリとイヤな音をたてて少女を縛りあげていた。
固く固く膝を抱いて、少女はテレビの画面を見ている。
瞳には何も映っていなかったが。心も耳もそれを追ってはいない。

連絡員がやってきた。リビングにいるままの少女に少し驚いたようだが声には出さず、何も言わない。いつものように淡々と任務である家事仕事を遂行していく。
完璧なまでに無言のままに調理される夕食。栄養のバランスは完全だ。のっぺりとした平行を保っている。美味しい味付けなのだろうが、それを表現されることはない。
少女はテレビの方を向いたまま。
「惣流・アスカ・ラングレー、あなたによ」
任務は完了し、無言のまま出てゆくのかと思えば、近づいてきて鞄から一枚の黒い封書を取り出して差し出す。その指先すら事務的だった。
少女がそれを受け取ると、連絡員は消えた。
視線を・・・・合わせなかったわね・・・・・・・合うと、笑えるから?
少女は黒く微笑んだ。
だが、その微笑みも封書の紋章を見るとガラスのように砕け散る。
古代の戦王と天の牛骨をモチーフにした・・・・
見間違いようのないギルの紋章。
震える指で封を開ける必要もない。少女にはその意味が分かった。


「召還状・・・・」



惣流・アスカ・ラングレーは、頭のヘッドセットを外してテーブルに置いた。