エヴァについて
わたしの絆はエヴァからはじまる。ほかにはなにもない。絆は結ばれない。
「夕日だからって黄昏ないでよねー。それでもーひとつ重要伝達事項があるのよ。
「ミサトは・・・・・どうなの」
わたしはこの電車でシンちゃんについていくことになったから、しばらく会えないわ。
明日からはいくら待ってても電車はこないから・・・・帰ってくるまで」
唐突な別れの挨拶。鯛焼きレイは鯛焼きを一個、あげた。
「はい、寂しいだろうけど、これ食べて元気だしてね」
綾波レイは目を覚ました。
夕方。あの電車さながらの夕日が射し込んでくる病室。
つう。額から頬をながれるもの。寝汗。空調は適度な温度を保っている。
こんな時間に目が覚めるとは・・・・昼夜逆転の生活は変わらず、日が落ちてからようやく目が覚めるようになっていたのに。
「もしかして、二度と会えなくなるかも知れないし」
「しばらく会えないわ・・・・・・帰ってくるまで」
耳の奥に残っている声。夢の、自分の声だというのに、満ち始める潮のようにざわめく。しばらく考える。なにかの予兆なのだろうか。声の印象は不吉に彩られて目覚めた後でも残っている。流れた汗はそのためか。・・・・・・体が、重い。
綾波レイは、ベッドのそばの小棚から薬袋を取り出す。棚上のポットから水を注ぐ。
薬を決められた定量に飲む。水で送る。
「綾波さんへ」
あの封筒は結局、なんだったのか。ただの騙すための仕掛けか。ただ、筆跡は自分のではない。丁寧だが、小さい字。内には何が書いてあったのか。
知らぬままに電車を降りた。鯛焼きは・・・・食べたような気がする。
問う前に駅に着いたのだ。電車はそのまま走りすぎる。車内で手を振っていた。
廊下に出てしまった。隣はまだ起きているはず。出歩くわけにはいかない。
なにしているの・・・・わたし・・・・・
病室に戻ろうとした、その時。
階段を上がってくる気配。重く響く靴音。医師でも看護婦でもない。知っている。
碇司令・・・・・
夕闇に半分影になっているが、確かに碇ゲンドウ。眼鏡の光が暗い。
カツ、カツ、カツ、・・・・近づいてくる。それを待つように立っている綾波レイ。
「・・・・!」
碇ゲンドウは綾波レイが目に入らぬかのように横を通り過ぎた。
立ち止まるのは隣の病室。碇シンジの病室。
無言のまま、ドアは開かれ、閉じられる。それを見つめている綾波レイ。
司令、ではないのね・・・・
ただ一つのことだけを見ているから、それは何も見えていないのと同じ。
今、通り過ぎたのは、ネルフの総司令碇ゲンドウではない。あれは・・・・・
タン、スイッチの入る軽い音がしてドミノのように廊下の電灯がついてゆく。
払われる夕闇。味気ないが明確な白い光が点る。その時に気づいた。
廊下窓に、五つのお面がセロテープで貼り付けて並べられていることを。
エヴァンゲリオン弐号機ケージ。
それを見上げる赤木リツコ博士。隣には伊吹マヤがいた。
見上げる時間が長い。ふと、足を止めただけかと思ったら、こうしてずうっと。
横顔をみている伊吹マヤには赤木博士の考えは分からない。
ただ、こんな表情の先輩の顔は見たことがありませんでした。
この後の予定は圧しているわけでもありませんでしたし、、一礼してその場を離れて気をきかすことも考えましたが、その表情にひかれて残っていました。
煙草をふかせばわかりやすくなったのでしょうが、ケージは無論禁煙です。
くわえ方でなんとなく先輩の気分は分かるのですが・・・・。
「ねえ、マヤ」
「は、はい」
「ミサトのこと、どう思う?」
「葛城一尉のこと、ですか」
難しいことを聞かれてしまいました。正確には、葛城一尉の行動についてお尋ねになったのでしょうけど・・・・答えようがありません。あえて言うなら・・・
「正直、驚きました」
あの一言に目を見張り、耳を疑った。常識の壁を上回った驚愕ではなく、壁を蹴破って無理矢理突破したような、眉をひそめる強引さ。綿密に作られた行程表を、理論で切るのではなく、感情の元にビリビリに破いてしまったような、驚き。
別の面を見る、などという生やさしいものではない。べろん、と一枚皮を剥いだ姿を見てしまった気がする。
「まるで子供。青春ドラマじゃあるまいし」
見上げたままに赤木博士が言う。
「わたしが話をつけてきます」
葛城ミサトはこれで押し切った。周りは押し切られた。日向マコトなどは大層ショックのようだった。ギルは、ネルフ・ドイツ支部の一部などではない。独立した一機関。
マルドウックの事件以来、チルドレンの供給に関してはそれを頼るしかない。
言ってみるなら虎の穴、虎口である。その意向に逆らってなおかつ、こちらの意向に従うように話をつけにいくというのだ。向こうにしてみれば、喧嘩を売られたのと同義語だ。無茶苦茶にプライドが高い組織なのだ。厳格な規律に支配されたある種の特殊教団と言ってもよい。人類を守る神の戦士を造るのだと心の底から信じている。
そう言う場所に単身乗り込んでゆく度胸というのは、何処から出てくるものなのか。
長いつき合いだが、赤木リツコにも分からない。
惣流アスカへの責任か。こんな誰も頼んでいないのに自らを勝手に追い込むような真似をして・・・・エヴァの操縦能力を失った惣流アスカがギルへ呼び戻され再訓練を受けるのは至極当然のことだ。惣流アスカ本人も納得していることだ。
この地において回復するというなんの保証もないくせに、なぜ、この流れに逆らえるのか。分からないわね・・・・・
惣流アスカのマンション。
葛城ミサトが来ていた。正装である。トランクをひとつ、玄関口に置いていた。
「何の用?」
ギルからの召喚状が来たにもかかわらず、第三新東京市に留め置いた張本人が突然やってきたのだ。しかも正装で。正式にチルドレン資格剥奪の通達でもやる気かしら。
書類の一枚でも手渡ししてさ。どうせろくなことじゃないに決まっている。
「命令を下しに来たのよ」
作戦部長の口調だが、それに動かされる理由ももはや、ない。
「もうアタシはネルフの人間じゃないわ。だから、命令される覚えもない」
ギルへの召還。それはネルフの籍の抹消ということだ。となれば、作戦部長葛城ミサトは直属の上司でもなんでもない。命令系統から外されたのだから。
「悪いけど、まだあなたは私の部下です。召還は無効になるから、これからもそうなるわ」「なに、言ってんの」
頭でも打ったんじゃないの。真面目な顔して。
「ギルに行って話をつけてくるわ」
「はあ?」
「命令はその間のこと。あなたにやってもらいたいことがあるの」
「ちょっと待ってよ!」
自分の目を見据えて話す葛城ミサトの命令とやらに待ったをかける。正気じゃない。
「・・・・今日までアタシを留め置いたのは、そういうこと?」
「そうよ。のんびりドイツに里帰りしてもらってる余裕はないの」
ビキ。頭のどこかでヒビ割れる音がした。
「・・・・ギルがどういうところだか、知ってて言ってるんでしょうね」
「マイスターの顔も知ってるわよ」
「多分、帰ってこれないわよ」
「ドイツ支部への転任の話はないわ」
「・・・・何て話しつける気なのよ・・・・・」
「惣流・アスカ・ラングレーに替わり得る新たなセカンド・チルドレン、又はフォース・チルドレンの選出。それが叶わぬ場合惣流・アスカ・ラングレーの召還には応じかねる、てね。分かりやすい話よ」
ギルの誇りをおろし金にかけてがんがんにすり下ろすような話だ。
そんなことを向こうに行って本当に口にしようものなら、火あぶりは確実だ。
「なんでそんなことするのよ!」
こんなんが直属の上司だったとは・・・情けなくて涙も出ない惣流アスカ。
「言ったでしょ。貴重なセカンド・チルドレンを遊ばせておくわけにはいかないの」
「アタシはもう、セカンド・チルドレンじゃない!・・・・エヴァは動かなくなったもの」なんだこの、あまりのわからんちんは。涙も出ないはずが、あまりに・・・・。
「また、動くようになるわ。今まで動いてたんだから当たり前でしょ。それに大体、
物事がいつも順調にいくとは限らないし、待ちが必要な時期もあるってこと。
でも、アスカがどうしてもギルに戻りたいっていうのなら話は別だけど」
「正直なところ、アスカ、あなたはギルに戻りたいの?」
戻りたくないなんて言えるわけがない。それを支える理由が何一つ無いというのに。
それに、エヴァに乗れないというなら、ギルに戻っても同じこと。選択の意味すらなし。
エヴァ弐号機の専属操縦者であること。
それが以前の自分と異なっている。それを失えば、元に戻る。これは後退か。
「やってもらうことはあるわ。ひとまずは、そこに”居なさい”」
「話なんてつけられるわけがないわ!戻るしかないのよ」
「やってみなくちゃ分からないわ。何事も」
「大人の・・・作戦部長の良識と判断ってやつがあるでしょ!その程度の合否の見通しがどうしてつかないわけ?それとも誤魔化してるの?」
「大人の判断は子供には見当もつかないのよ。まだまだ精進が足りないわねーって、それで、どうなの、アスカ」
「どうって・・・・・」
「あなたはギルに戻りたいのか、戻りたくないのか。正直な、その気分を教えてよ」
「気分って・・・・気分で自分の進退を決めろっていうわけ!」
激昂する惣流アスカだが、逆に葛城ミサトの目はわずかに細められた。まるで、開いた亀裂から中を覗くように。光が漏れてきている。
「決めなくてもいいわ。さっき言ったとおり、どう転ぶかは分からないんだもの」
言われてみればその通りで、矛盾している。事態は惣流アスカの気分で転がるものではないのだから。葛城ミサトは選択を迫っているわけではない。正装にして真面目な表情だがその内容はただの雑談レベルだ。ギルが惣流アスカの意向を入れて判断するわけでなし。
無力な小娘と化してしまった無力な「気分」
あえてそれを「気持ち」とは言わない葛城ミサトはそんなもんをわざわざ正装して聞きに来たのだ。トランクもって。
そんな無力の欠片をもって虎口に入ろうとする葛城ミサト作戦部長。
「・・・・戻りたくないっていえばミサトはどうするの」
「そのように話、つけてくるわ」
「・・・・戻りたいっていえば、どうするの」
「ここでお別れね」
既に腹をくくっている者の簡潔さで即答してくる。一部の迷いもない。
「もう少し、詳しく聞いてくれると助かるんだけど」
一瞬、自分が何を聞きたかったのか、迷ってしまって分からなくなる。
「ミサトはなんで、直接、行く気になったの」
正直な、気分、を正確に話すなら長い、とりとめのない話になる。これでも本当に自分が聞きたいコトとは離れているが、そこまで近寄れるほど心を許しているわけでもなかった。
葛城ミサトは、おそらくその問いの奥に気がついていたのだろう。にっ、と笑った。
「本場のビールが飲めるからよ」
第二東京市 日本重化学工業共同体の本社ビル
その39階。社長室。現在、来客中。
「いやー、あの、使徒、でしたか、全然大したことありませんでしたな。スタッフ一同、拍子抜けしてしまいましたよ。あれに苦戦できるネルフというのはある意味、感心してしまいますな。はっはっはっは」
来客に先ほどのJA初陣のビデオをたっぷりと、注目すべき点は分解スローで、時には意味のないような内部構造解説までつけて、お見せした後の第三新東京市まで届けとばかりの高笑い。
天にも届かん鼻高々状態のJA開発責任者にして社長の時田氏であった。
来客も、ネルフには決して好意を持っているとは言えないが、この高笑いを聞かされて気分がよくなるほどに卑屈には出来ていなかった。
「ま、同一タイプではありませんでしたからな。単純に比較はできんでしょうが、たしかにお宅のJAは凄い」
のびのびの鼻がこちらには来ぬように、差し止めて置いてから、誉める。
一応、これの購入見当にやってきた身であるから、来客もJAの威力は認めている。
戦略自衛隊の階級章をつけていた。
今日は打診程度だが、幕僚会議でも購入の方向に強く傾いている。
ネルフのように徴発してしまえば楽だが、ネルフと違い、日本付きの戦自がそんなことをやっても自分のクビを締めるようなモノ。これだけの大買い物ともなれば、しばらくこの人物とつき合うことになろう。まだ、購入予定のJA弐号機も建造さえされていないのだ。ま、嬉しいのは分かるがな・・・・。
使徒にぐちゃんぐちゃんにやられた戦自としては、微妙な思いがあるのだ。
苦戦したネルフに感心するなら、敗退した我々はどうなるんだ?
ま、我々はあくまで人間相手か・・・・。
JAの全高図写真を取り上げる。まるで二昔前のマンガだな・・・・。
だが、相手も相手だ。丁度よいのかも知れない。
これが使えるようになれば、ネルフにでかい顔されずにすむようになる、とお偉方は考えているのかな・・・こちらは新聞の政治欄マンガのようだが。
さて、どの程度の値がついてくるのやら・・・・。
ヨソに売る心配がないのはいいが、相当高くつきそうだ・・・。
なにせ命と面子がかかっているんだ。それがどのあたりで釣り合うものか・・・。
「ところで時田社長」
「はい?」
「これは、雑談のようなものですが・・・・」
「はい、なんでしょう」
これが政治家なら、本当にくだらん雑談に入るんだがな。自衛官というのはどういうものかな。時田氏は多少、興味を覚えた。真面目で堅そうな容貌に意外だったのだ。
だが、問われたモノは雑談にするしかなかった。時田氏にも答えようがない。
「例の敵性体・・・・使徒の存在を、こちらではいつ知ったのですか」
笑って誤魔化すしかない。天狗の鼻も、曲がり角。
ネルフ本部 地下ケージ
「やっと届いたわね」
「こんなに長い間、離れていたのは初めてですよ」
赤木博士と渚カヲルのツーショット。待ち望んでいたものが到着したのだ。
白銀の、エヴァンゲリオン四号機。
フィフス・チルドレン、渚カヲルの専用機。
そして、三つの目を持つ、第二次試験機である。
到着時の作業も一段落し、辺りは落ち着いてきている。時間も既に深夜。
チルドレンはお家に帰る時間であるが、今日は特別だ。
渚カヲルにとって、四号機は専用機という以上の意味を持つ。
だから、第三新東京市に到着した四号機を見上げている渚カヲルの目は悲しげだ。
「でも・・・渋った挙げ句にこんな真似をしてくるとはね」
きな臭い赤木博士の声。どこかの作戦部長のように点火して爆発することはありえないが。隣にいる少年は、その手の感情に縁がない。縁がないというより完全に欠落している。
でなければ、悲しげ、程度では済まないだろう。
刳り抜かれている第三の目
その代わりに義眼が填め込まれている。
「・・・実験場を監視するためですから・・・・」
その理由を知っていても、それで納得しきれるやり口ではない。
ただ、憤りも怒りも知らない少年はそれを面に表すことはない。
「その前に使徒にここがやられてしまえば、全てが終わるわ」
世界が無くなっても実験を続けるつもりか。彼らは。同じ科学者ながら・・・・・。
当然、引き渡しの書類にはその旨は記されていない。傲慢に過ぎる判断。
誤魔化せるとは思っていまい。確信犯的行動だ。抗議して、填め直そうにも一度、送り返す他無い。それを見越している。こちらにそれが出来ないことも承知の上。
エヴァに見守られながらでなければやれない実験、か・・・・。
人類補完委員会直轄試験場、バイオスフェアW
この世で最も神を恐れ、神を畏れない実験場・・・・・なんて人のことは言えた義理ではないけれど。自分のやっていることもさしたる変わりはないのかも知れない。
「視覚は大丈夫なのかしら」
赤木博士にしては余計な問いだった。そんなことは調べてみなければ分からない。
それに大体、四号機の第三眼は視覚を司るものではない。ただ・・・・。
機体に繋がれて、周りの都合で痛い目をみるのは、この少年だった。
「大丈夫ですよ」
にもかかわらず、この少年はいつものように微笑んでみせるのだった。
ふたたび、惣流アスカのマンション。
葛城ミサトはもういない。
旅支度を始める惣流アスカ。日程も行き先もよく分からない旅。
とにかくここを一時離れる。一時で済むかどうかは分からない。
ただ、長くなっている余裕はない。戻り先が変わる可能性あり。
そのまま、ここには二度と戻ってこないかも知れない。
しかし、さしたる感慨もない。旅行鞄に荷物を詰め込む手も迷いがない。
淡々と、必要なものだけを。本当は、カード一枚あればそれで十分だった。
物理的にも精神的にも。自分の身さえ持ってゆけばよい。
入り用なのは、惣流・アスカ・ラングレー。
ゆえに旅支度は形式のような、儀式のようなものだった。
淡々とした表情の中には、自分の気持ちを懸命に整理している少女がいる。
いるもの。いらないもの。必要なもの。不必要なもの。
ほとんど仕分けがつかない。荷物の手とは対照的に。手の方が頭より賢いのかも知れない。鞄に詰め終えてしまった。
あるスペースが残っていた。そのまま、閉じてしまうか?その前に、ふと顔が上げられる。
少女の視線は部屋の中に置かれていったビニールパックに。
赤いプラグスーツ、とヘッドセット。
なんのつもりで置いていったのか、語らないままに葛城ミサトは出ていった。
だから、自分で考えて判断するしかない。話さないから反発することさえ出来ない。
入り用になるとは思えない。いらない。不必要なもの。判断する。
では、鞄には入れません。それでよろしいですね。ヤー。
旅支度を終了します。鞄を閉じてください。
惣流アスカは鞄に手をかけた。
きんこーん
玄関チャイムが鳴った。なぜか先ほどまでの淡々モードがかき消されてしまう。
そんな小心さには縁がないはずなのに、兎の心臓を移植された王様のように、どきどきと狼狽えてしまう。時間にして数秒ほどだったが、あたふたと目に入ったビニールパックを手に取ると、急いで鞄に押し込んでしまい、鞄はテーブル下に隠すように押しやる。
2,3回の深呼吸。のぞきレンズから訪問者を確認。
「?」
レンズが曇っているのか黒い影のようになって見えない。訪問者自体がこの場に立つまで厳重なチエックを受けているはずだから、カメラなどはないのだ。
「誰?」
これも据え付けのオマケのようなものだが、玄関スピーカで呼びかける。
「アスカ?まだいるの?」
確認というより安堵の声だった。なぜかレンズに映らない、洞木ヒカリだった。
「ごめんね、また押し掛けちゃって」
また、来たの。ヒカリ、となぜかジャージとメガネ。
レンズが見えなかったのは、ジャージが向こうから覗いていたかららしい。
チエックした護衛もまさかそんなことをやるとは思ってもみなかっただろう。
日本の男の子ってどうしてこうまでガキっぽいのかしら。ヒカリに怒られてるところなんてほとんど小学生。しつけがなってないんじゃない。しつけが。
「いいけど・・・・どうしたの?」
学校帰りに様子を見に来た、とか遊びに来た、というには時間が少し遅すぎる。
夕食を作っているというヒカリはとっくに家に帰っているはずの時間だ。
ジャージとメガネがこれまたついてきているのも意味不明だし。
「アスカ・・・・・ドイツに帰るの」
「!どうしてそれを!」
「渚から聞いたんや。なんや調子わるうてリハビリやってな」
フィフス・・・・・・そんなこと普通、一般の中学生にバラす?
それに何がリハビリよ!適当なコト、言ってくれちゃって。優越感?それとも哀れんでんの?100%全力でもアタシはアンタに敵わないわよ。モノが違うのよ。モノが。
アタシが治るより、アンタが二人いた方がずっといいわ。
「渚も心配しとるようやで。相変わらず何や忙しいらしゅうて、来れんけどな」
今、フィフスが自分の目の前にやってきたら、何しでかすか分からない。
理性が一瞬で沸騰してしまうような危険な気分。あの戦闘以来、弐号機の前に立つのも辛いのだ。こんなことは今までなかった。
渚がこちらに近づかない、話しかけてこないことには、暗い感謝すら覚える。
これが劣等感というやつか。
「治ったら、帰ってくるんでしょ?」
淵に沈み込む前に、ヒカリの問いに引き戻される。やっぱりアタシ、変だわ。
「分からない」
つくべき嘘もない。正直なところを答える。
「でも、引っ越しの準備なんかはまだしてないんだな。まるで片づいていないし」
じーろじろと部屋の様子をみていたメガネカメラ、相田ケンスケが言った。
「あれ?なんで旅行鞄がテーブルの下に転がってんだ」
なんでそんなとこまで見るわけ、アンタ。よけーなこと言いの相田ケンスケのクビ締めてやりたくなる惣流アスカ。
「あの程度の荷物なら、一週間程度か」
「はあ。リハビリっちゅーんやったら、三週間くらいかかるんと違うか」
もっとかかるわよ!!
「なんせ日本は一年中夏で暑いからなあ。冬のあるドイツからじゃ、やっぱり大変だよな」「雪が恋しいっちゅうやつかの。演歌でしかわからん世界やな」
この連中も連中なりに考えてるのかも。確かに日本は暑い。むしむしして暑い。
ホームシックなんて手垢のついたようなこと言い出したらはり倒して叩き出してやろうかと思ったけど。でも、その暑さには言われて初めて気がついた。なんでだろ。
「夏風邪なんて、いままで縁がなかっただろうしな」
「もしかしたら、水があわんっちゅーこともあるやろうが、早よ治せや、惣流」
相田ケンスケはわりあい、はっきりと顔を見ながら。
鈴原トウジは首を半回転させるほどにねじってから。
惣流アスカは一瞬、はっとさせられる。今見せた言葉からは、さきほどのガキな態度とは違い、ぐぐんと伸び上がるようなものを感じた。自分よりも大きく、見えた。
「アスカ、いつ行くの」
何かを気にしているような洞木ヒカリの問い。
「あ、あしたの朝早くよ」
「じゃあ、ひとまずのお別れだね」
ひとまずの、に異様に強いアクセント。言ってから荷物で膨らんでいる手提げバッグからなにやら取り出した。
「見送りにはいけないけど・・・その代わりに」
チーズケーキだった。まだ暖かい。そして、手作りらしい。
「チーズケーキ、嫌いだった?」
洞木ヒカリが聞いたのは、惣流アスカが何も言わずに、ぽけっとしていたからだった。
「ちがう・・・・・」
答え方が日本語ではないかも知れない。うまくこの気分を表現出来ない。
母国語でないと、こういうときはまどろっこしい。こういう、予想外のことをやられた場合は・・・・。なんていえばいいんだろう。ドイツ人も吃驚!、ああ、ちがう。
薄暗い中のろうそくの火のように。夕闇の山頂に点る赤い星。ほのかな・・・それでいて心をとらえてしまう。ほんの一時のことかもしれないけれど、これさえあればなにもいらない・・・・。いつも明晰であるはずの頭脳が休んでいる。生真面目な意識も午睡して手を休めている。戦士の群のように獰猛な、対象を分析鑑定していく心が働かない。
「なにが違うんか、よー分からんけど、こういう場合はまず礼やないんか」
似つかわしくないほどに長くぽけっとしている惣流アスカをからかうような、助け船を出すような鈴原トウジ。おそらくは面白がっていたのだろうが。
「あ、え、ありがとう、ヒカリ・・」
「好みもしらないで作っちゃったけど、出来には自信があるの。あまり気の利いたことも言えないし、こんなことしか出来ないけど、良かったら食べて」
急いで正解だったわけだ。しかし、惣流アスカの意外な反応。まるでケーキなど生まれて初めて見たような、子供のような困惑の顔。母親に答えを諭されるまで、うまく言葉に出来ずに迷っている・・・そんな感じ。ただのケーキなのに・・・。
でも、この場合、鈴原が母親ってこと?うーん、無理すぎ。
「キッチンとやかん、借りていいかな。紅茶もあるから」
「うん」
スプーンもフォークも忘れていない洞木ヒカリである。紙皿すら用意してあった。
「それとも、コーヒーがいいかな」
「紅茶がいい」
紅茶くらいいれてもバチは当たらないのだが、そうりゅう発想がない惣流アスカである。
ぴいいい・・・・・ケトルやかんが鳴る。湯が沸いた。
その間にケーキを切り分けていた洞木ヒカリは、キッチンに向かう。
新品同様の、恐ろしく清潔なゴミ一つないキッチン。三角コーナーが白々しいほどだ。
生活感のかけらもない。アスカはどんな食事をしてるんだろう・・・・。
カップを借りようと思ったが、そんなもんはなく、コップがひとつしかない。
皿も茶碗などもひと揃えしかないのだ。無駄を省いた一人暮らしだとはいえ、これは。
造りが豪華なだけに、中身の簡素に奇妙な寒さすら感じる。
ケーキを見つめるアスカの・・・・・驚くほど無邪気な瞳。視線でころころ転がすようにしているのだ。ただの・・・ほんとに普通のケーキなのに。
鈴原たちの勧めるスナック菓子とかには、殆ど興味がないみたい。
「鈴原、悪いけど、バッグからコップを持ってきてくれる?」
「女のカバンに手え入れるやら、男のすることやないでえ」
言われてみれば、まるで亭主に頼むようで多少、照れてしまう。だが、一揃えしかない食器類のことに触れない方がよい気がして、あえてそっちで押す。
「手の放せない女の子の頼みを聞かないのも、男のすることじゃないと思うわ」
「うっ。分かったわ・・・このプラッチックのやつやな」
「ありがと。そこに並べて。アスカ、コップを出すわよ」
「うん」
ケーキから目を離していないのが分かる返事。ここまで入れあげてもらえれば、ケーキも食べられて本望だろう。
「・・・惣流もへんなトコロでガキみたいなやっちゃな」
小声だが、人の意外を笑う響きではない。目元が、柔らかかった。
ただ、いくら目元が柔らかくても向こうに聞こえれば無事にはすまなかっただろうが。
しゅしゅしゅしゅしゅ・・・・・
茶葉にお湯を注いでゆく。紅茶は熱い湯でなければおいしくない。
「・・・同い年、なんだものね。わたしたち」
こどもみたいなところ、大人の様な部分。ジグソーパズルのようにつながっている。
色も、形も、ピースの数も、各々違いがある。映す絵柄はそれこそ百千、別物だ。
同じなのは、枠の大きさ。14という年代のぶんだけ・・・・。
「いただきます」
四等分されたチーズケーキ。各々の食べ方で消えてゆく。うまい。
多少は味わって食え、と突っ込みを入れたくなるような鈴原トウジは別として、洞木ヒカリと相田ケンスケは、惣流アスカがどのように食べるのか、興味があった。
「おいしい」
一口して、とつっ、とこう言ったあとは静かにフォークを動かしている。
もっとベラベラと話すものかと思っていた二人には当てが外れた。
うまさに感動しているとか、そんな大げさなものではない。とても念入りに味わっているというか・・・まるでこれが世界に一つしかないケーキのように、表情もどこか神妙なものになっている。二人は顔を見合わせる。
「ねえ、ひとつ、聞いていい?」
最後のひとかけらをフォークに刺してしまう前に、惣流アスカが言った。
それは三人の内、誰への問いかけだったのか。それとも三人ともか。
「なに、アスカ」
「なんで今日、家に来てくれたの・・・いや、来てくれる気になったの」
似つかわしくないような真面目な食べ方と同様、真面目な表情だった。
こんなことを、こんな表情で聞けるなんて、やっぱり変わってるな。
相田ケンスケなどはそう思う。自分たちの年代の誰もが被っている土のように乾いて固い仮面。それをふいに傾けてのぞかせる、瑞々しい表情。
カメラもってくりゃ良かったなあ、と思うほど彼も野暮ではない。今は、目よりも耳を働かせる時なのだから。それから、一番よい答えを紡ぐ。混じりけのない、今の気分を。
ま、聞かれれば、の話だけどね。やはり、この先頭は・・・。
「ちょっと長くなるけど、いいかな」
委員長、洞木ヒカリだった。なぜか鈴原トウジが腕組みして頷いている。
惣流アスカもいうまでもない。それが本当に聞きたいこと。まだ14才、正直な気持ちを短く端的に語れるほどに人生経験を積んでいないし、そんな便利な言葉も持っていない。
「わたしね、小学校一年生の頃から、ずうっと学級委員長だったの。それが苦痛だとか、重荷だとかは、あんまり思わなかった。性にあっていたのね。
それはいいんだけど、小学校の低学年なんかは先生が指名したりするじゃない。やることも、きりーつ、とかちゃくせきー、とか、今もやってるけど、そのくらいなものだし、委員長というより、ただの号令係よね。自覚もなかったし。
それが、中学年に上がってくるとやっぱり違ってくるのよ。ある程度、立候補、とか選挙、とか推薦、とかね、それで何々係、とか決まって来るんだけど、この時は、推薦されてなったのよ。小学生のやることだから、今までやってたヒカリちゃんにやってもらおう、みたいなものだったんでしょうけど、とにかく選ばれちゃたわけ。仕事も少しは増えてきて、たとえば黒板のチョークをそろえておくだとか、掃除を真面目にやらない人に注意するだとか、休んだ人にプリントを渡すとか、そんなものね。この時、少し驚くことがあったの」
ここで紅茶で喉を湿らせる。
「男子にね、イインチョーって呼ばれるの。自分の名前じゃないのに、自分を呼ばれるっていうのは、最初はなんだか、へんな気分だった。なんで洞木さん、とかヒカリちゃんって呼んでくれないんだろうって不思議だったのよ。聞いてみたら、イインチョーだから、イインチョーなんだって、まあ小学生だから仕方ないけど、よく分からない答えしか返ってこないの。他の女子は、もちろん名前のままなのよ。何で自分だけそうなんだろって、思ってた。それも高学年になれば、どうでもよくなったけどね。呼び方は変わらないし。それに、女子もわたしがあんまり委員長が続くから、そう呼ぶようになったの。これは、愛称のようなものなんだろうけど。今も多分、そうなんだろうと思う。
中学に上がってからも、なんだか委員長役に縁付いてた。わたしも嫌ってわけでもないから推薦されるままにやってきたけど、ここまで来て、なんだかおかしいことに気がついたの。わたしは誰とでもそこそこ仲良く、場合によっては間を取り持つようなことまでやってきたけど、誰もわたしをヒカリって呼んでくれないの」
「え・・・じゃあ・・ヒカリは・・・」
「そう。友達からそう呼ばれたのは、もう何年ぶりかな」
長い話の重たさを払うように、ふざけめかしていう。
それが洞木ヒカリの理由。ここに来た理由。
こんなことをしてもらえるほど大層な理由でそう呼んだわけではなかった。
単なる習慣のようなもの。親しさゆえでも、まして相手のことを弁えた上でのことではない。こっちは相手になにひとつしてあげたことはない。
真面目に学校に来い、と言われて、結局行きもしなかった。それなのに。
「ヒカリ・・・・アタシは・・・」
自分がとんでもなくよわっちい人間だという気がしてきた。
「ほ・・・・洞木はん」
鈴原トウジがなにやら変奇なことを言い出す。顔をうつむかせたままに。
しかし、これではまるで葉っぱをくわえた野球番長だ。
よわっちい人間の台詞など押しのけてしまう勢いがあった。
「ど、どうしたの、鈴原」
「すまんかった。ワシはいままでガキやった。いいん・・・やない、洞木はんをそないに傷つけとったとは、まるで気づきもせんかった。勘弁してくれ」
「そういうつもりで言ったんじゃないってば!誤解しないで!」
「四階の上、六階の下・・・・だねえ」
騒ぎ始める鈴原トウジと洞木ヒカリの二人を眺めて、我関せずの相田ケンスケの一言。
うねうねとカーブを描く感じで距離が遠くなっていく鈴原トウジへの説得にかかりきりになる洞木ヒカリ。
は、反省しているアタシの立場は・・・・・。悩める惣流アスカ。うーん。
ぱく。最後のかけらを食べてしまう。美味しかった。
「アンタとアイツは、どうして来てくれたわけ?」
説得はまだかかりそうだ。目が合ったから思い出したように聞いてみる。
「相田ケンスケ。あいつは鈴原トウジ。男女差別は良くないと思うけどね」
「・・・・そうね。相田と鈴原。これで覚えたわ」
「基本だからね。それで、オレたちが来た理由だっけ。短くていいかい」
「すぐバレる嘘以外ならね」
「美しい友情と被写体のためさ」
「詐欺師に向いてるんじゃない、アンタ」
「てことは、多少は信じてくれるわけだ」
ここで渚カヲルのことを出すほど、お互い鈍くはなかった。鈴原トウジであったら、どうなったか分からないが。覚めた口調が、洞木ヒカリとは別の意味合いで信用できた。
持ち味の違い。メガネなカメラ少年にべたべたなことを言われても説得力に欠けていた。「・・・・多分、もう一生言わないだろうから、耳かっぽじってよく聞きなさいよ」
ふいに芝居がかったようなドスをきかせたのは、鈴原トウジの真似だろうか。
「はい?」
「・・・・今日は、きてくれてありがとう」
翌日の早朝。新箱根湯本駅。
まだ人気のない朝霧の中、黒塗りの高級車がロータリーを回り、駅入り口で少年を一人、下ろした。学生服に、大きめのスポーツバッグをかけている。
碇シンジ。
その表情は、堅く、なにやら決意のようなものが込められていた。
黒塗りの車は霧の中に消えていった。それを見届けることはせず、碇シンジは駅に入る。
さすがに早朝だけあって売店すらしまっており、待合室に乗客の気配もない。
その中を歩き過ぎる。切符を買う必要も時刻表を確かめることもしない。
特製ケースから取り出される赤いカード。それを改札口に滑らせる。
あっさり開く。切符でも定期でもない、赤いカードに。
それを楽しむような余裕は少年にはなかった。急ぐ必要もないのに早足になっている。
駅員さえいないような錯覚に陥る、霧に濡れるプラットホーム。
線路むこうのホームにいくため、階段をあがっていく。
線路を越える通路部分に貼られているポスターなどには無論、目はいかない。
せわしい感じで下ってゆく。急ぐ必要はないのだが。なにせ、これから乗る列車に乗るのは少年一人なのだから。これはそういう類の列車だった。
「ん・・・・・」
そのはずだったが、霧にぼやけるホームの先に、人影がある。
駅員ではない。旅行鞄を携えて、白線の内側に立っていた。
これから来る列車に乗ろうとしているらしい。
「案内の人は、もう列車に乗っているって聞いたんだけどな・・・・」
段取りが違えたのかな・・・・急に調子が悪くなって代理の人が来たとか。
でも、そんな連絡は受けていない。もし、そんなことになれば当然、車内で伝えられていたはずだ。あんなサングラスの強面で、忘れてました、なんてことはないだろうし。
一人しか乗らない列車、などという代物がそもそも異常なのだが、そのことは棚にあげる碇シンジ。早足だった歩調も鈍る。
「誰だろ・・・」
その声が聞こえたのか、人影はこちらの方に気づいたように近づいてくる。
ゆっくりと。旅行鞄は置いたままで。
それほど、お化けのように濃い霧というわけでもない。相手の顔はすぐに見えてきた。
同年代の女の子だった。
ただし、ベレー帽をかぶった髪はブラウンで、瞳は蒼く、肌は人種的に白い。
服装はスカートなどではなく、小さな軍人のような、整った礼服のようなものだった。
他に人はいない。向かっているのはどう見ても自分。話しかけられたらどうしよう。
・・・やっぱり、アイ、キャントスピーク、イングリッシュ、かな・・・。蒼い、瞳は。
「アナタがサードチルドレン、碇シンジね」
「は、はい・・・」
良かった。日本語だ。・・・でも、サードチルドレンは・・・・英語だ・・・・
「わたしは惣流・アスカ・ラングレー。よろしく」