七ツ目玉エヴァンゲリオン



第九話「ギルガメッシュ機関」







ぷわーん
朝霧の中、新箱根湯本駅を離れていく電車。
その車内には乗客が三人しかいない。しかも同じ席。あとは見事なまでにガラガラである。一般乗客は乗せない、この謎めいて、不経済な電車は西に向かっていた。


この不自然な空き具合に対する無意識の言い訳だろうか、彼らは真ん中の席に座っている。中学生くらいの少年、同じ年頃の少女、ただこちらはらしくもない軍式礼服のようなものを着ている。そして、無精ひげに長髪を後ろでくくった30代近い男。
碇シンジ、惣流・アスカ・ラングレー、加持ソウジ。
この電車に乗ることを許される、一般ではない乗客たち。
その関係は、被保護者二名に、保護者一名といったところか。


「まさか加持さんが一緒だなんて・・・・」
意外な喜びより驚きの方が先に出る惣流アスカ。
「そりゃあ、こっちのセリフだよ」
とは加持ソウジは言わなかった。とっくにドイツに召還されたはずのアスカがこんな所にいるのだ。驚いた、というより目を疑った。同時に、ルービックキューブのように複雑に回転するスパイの頭脳は、先頃から2,3,ひっかかっていた疑問がこれで解けた、と安堵した。この業界、わずかな疑問が生死を分かつ。
・・・・それでリョウジの奴は戻ってこれないわけか・・・
・・・・それにしても・・葛城は無茶苦茶だな・・・・・・
目の前の事象を認めてしまえば、持っている情報を統合して見当はすぐにつく。
ただ、そこまでやるとは思わなかっただけだ。
・・・・いつからこんな、情に甘い女になったんだかな・・・
そのことについては、見当もつかなかった。
なんてことを考えつつも、表情には当然出さずに。大人の余裕。
前々からの予定通り、という顔を保っている。今回の任務は護衛兼保護者である。
子供たちに余計な心配や疑問を抱かせてはならない。
特に、碇シンジ。
不安定な思春期の14歳の少年、というジェンガの上にボールを縦並びに並べていくような、これから待ち受ける運命の不安定。取り扱いには細心の注意が必要なのだ。


惣流アスカは迷っていた。
加持ソウジの隣をキープしながらも、心は目の前の同い年の少年、碇シンジにある。
ぼけーっと窓の外を見ている。
他の客が全くいない、3人だけの車内でなかなかいい態度だが、礼儀を知らないわけではない。加持ソウジにもきちんと挨拶をし、惣流アスカにも、事情はよく分からないなりに、挨拶をした。最低限のことをこなすと、さっさと自分の世界に入り込んでしまった。
初めは、一人だけ隅っこの席に座ろうとしたのを、加持にやんわりと説得されて、こうなった。言われると素直に従うのだ。周りが拍子抜けするほどに。


よく、分からないヤツ


惣流アスカは実物をはじめて見て、そう思う。
エヴァにシンクロ可能、起動可能、さらに加えて使徒との戦闘に経験、訓練すらゼロで初陣を飾ったパイロット、サードチルドレン 碇シンジ。
セカンド・チルドレンの視点からみれば、そのようなことが列記される。
天才だ、と思う。世界中で数えるほどにもいない才能。紫のダイヤのようだ。
さらに・・・・あの左腕のことがある。
どうあがいても埋められない、生まれつきの資質の違い、なにか天に選ばれたような根元的な、自分では一生かかっても理解できないもの、あれは一体なんなのか。
セカンド・チルドレンたる自分が、曲がりなりともエヴァを動かしていた自分が、

ワカラナイ

なんて・・・・・こんな馬鹿な話があっていいわけがない。
エヴァに乗れる、エヴァを動かせる、エヴァを操れる、チルドレンたる自分が。

シラナイコトハ コワイコト

ふん・・・・子供じゃあるまいし。ただ、この馬鹿話に怒っているだけ。
この馬鹿話を実現させる、こいつにも当然怒っている。

サード・チルドレン 第三類適格者 碇シンジ

風景を見ているのか見ていないのか、分からない。何を見つめているのか分からない・・ぼやけた目。煙がかかっているように、その内心がわからない。
いつぞや加持さんが話してくれた仏像の話・・・それに出てくるアルカイック・スマイルと言うのとも違うのだと思う。あれは精神的な光輝をほの照らしているけれど、こいつのはただ、けぶっているだけだ。
さっきの座席のこともそうだ。孤独を好む、安易な表現だけど、芸術家の気性なのかと思っていたら、加持さんに言われるとあっさり従うし。それなら最初から一緒にいればいい。日本人はシャイだっていうけど、アタシのことで照れてる様子もない。
他人が嫌いなのかな・・・・・その割には、挨拶したときに、ほんのわずかだけど、どこかひとなつこい笑みの、欠片ほどだけど、見せるし・・・。

よく分からないヤツ。


「アスカ、その手袋は暑くないのか」
加持が指さして尋ねてくる。惣流アスカは礼服の設定どおりに、白い手袋まではめていた。ベレー帽はすでに外して掛けてあるのだが、手袋はそのままだった。
葛城にどんな「任務」を吹き込まれたのか知らないが、そこまで鯱張ることもないだろうに。せめて手袋くらいは外してもバチはあたらないだろう。
加持ソウジは、経験上から気をきかせたつもりだったが、少女の真意はさすがに見抜けていなかった。


手袋は、初めて会うサードチルドレンに気合い負けしないための礼服のオプションの一つなどではなかった。逆なのだ。

手袋をはめるために、惣流アスカは礼服を着てきたのだ。

他人が聞けば笑ってしまうような話だが、それだけ本人の心の奥深くからの理由なのだ。ドイツ人が制服好きだったのは、昔の話で今はそうでもない。
これは、惣流アスカの呻くような選択だったのだ。
少女の元からの気質にそぐわない、苦渋の選択、それを迂回という。
初対面で、サードチルドレンから握手を求められたらどうしよう?
日本人はお辞儀や名刺交換で済ませるとは知ってはいたが、万が一、ということもある。右ききで、右手だったら・・・・どうか。分からない。
もし。左利きで、差し出された手が左だったら・・・・・・。


さささささささ・・・・・・・・・・
あの音がまだ耳に残っている。その時にあの音が甦れば、悲鳴を上げるかも知れない。
それ以上に、自分の感受性が耐えられない。
使徒を倒した栄光の手、ということは頭では分かっている。
自分もエヴァに乗っていたくせに、拒絶反応など許されるわけがない。
男の子がバカでスケベで気持ち悪いとかなんとかいう以前の問題だ。

エヴァのパイロットの手。

それを否定し、拒絶することは、自らをそうすることでもある。
たとえ、もう乗れなくなったのだとしても、惣流アスカの人間としての義理や定理のようなものが、立つあとを濁すことをよし、としないのだ。
とはいえ、考えただけでもおぞぞが走るというのに、それが実現した場合、自分には耐えきれる自信がない。
惣流アスカは、考えた挙げ句にアウフヘーベンした。
それが手袋である。

いくら歳経て経験を積んだ大人でも、子供といえど他者の心の内などは分からない。
しかも、世界の歴史に類もない特殊な状況にある子供の心などは・・・。
そう尋ねられて、惣流アスカはいささか困った。たしかに、これからすぐに会場入りするというわけでもないのだ。電車の中で手袋はめっぱなしというのもへんだ。
ヒゲにグラサンのなに考えてるのか分からない50代のおっつぁんならいいが、10代の可憐な少女なのだ。カボチャの馬車の中ならまだしも、日本の電車の中、というのは確かにへんだ。いくら冷房が効いているとは言え。理由を話せないだけに、困った。



「父さんみたいだ・・」
ぽろっ、と風景をみながら碇シンジが言葉をこぼした。
「はあ?」
挨拶以来、会話らしい会話などせずに電車は進んでいたのだが、会話の口火がこんなのになるとは、惣流アスカも予想もしていなかった。
「い、いやっ・・・なんでもないよ・・・」
本人も言おうとして言ったわけでなく、ほんとにこぼれてしまったように出たのだろう。僅かにあわてていた。
「言いかけたことを途中で止めないでよね。気持ち悪いじゃない」
と、言ってしまったあとで惣流アスカもやばさを感じた。反射的に出てしまったのだ。
胸の奥深くに鍵掛けてしまっておいたはずなのに。
「・・・・・・・」
加持ソウジは興味深そうな顔で、この電車はじめてのやりとりを眺めていた。
葛城ミサトがなぜ、あらゆる意味で不安定だと分かり切っている少年に、不安定になってしまった少女をわざわざ会わせるのか。今も考えている。
直属の上司の強権、か・・・・・。
動き出した空気は、まだ微妙にたゆたっている。少年少女ともに器用とは言い難い。
適当な、たゆたう空気がとまらないうちに助け船を出すとしますか・・・。
「その・・・・」
助け船の必要はなかった。碇シンジはわずかに視線をずらしてきた。こちらに。
「手袋が、僕の父さんに似てるって思ったんだ」

「あ・・・・・」
言うに事欠いて・・・・・ なに言ってやろうか、このばかに。と考えてしまう惣流アスカ。いや、その前に。

「アンタ、ばかあ?」

言ってしまうと気が抜けてしまってそれ以上は言う気にならない。
いくらネルフの総司令で一番偉くたって、「あの」碇司令と一緒にされてはたまったもんじゃない。あんたが原因なんじゃないの。それを言うに事欠いてこのバカは・・・・・。
こういうのを日本では「役に立たない目玉ならくりぬいてその後に銀紙でも貼っておけ」って言うのよね。その具体例にお目にかかるとは思わなかったわ!

シュパッ、シュパッ

やめた。なんだかバカらしくなってきた。惣流アスカは引き剥がすように手袋を外してしまうと、あまり丁寧ではないやり方でしまいこんだ。

シンジ君・・・・いくらなんでも「そりゃあ」ないだろう。
碇ゲンドウがどういう人物か、その仕事柄よおく知っている加持ソウジは思った。
立場があるので、口に出しては言えないが。
しかし、視線はよそにあっても話は聞いていたらしい。完全に自分の世界に没頭していたわけでもないわけだ。少々、屈折しているなあ・・・・俺たちみたいだな。
アスカに碇司令に似ているなんて言えるのだから、かなりユニークだ。
いささか穴蔵から外をのぞいているような視野狭窄な感もあるが。
アスカはふくれてしまい、席をたった。手洗いだろう。文字通りの。
似合わない手袋なぞしていたから、汗でべたべたのはずだった。







ネルフ本部 総司令官執務室
総司令碇ゲンドウが戻ってきていた。副司令冬月コウゾウはやっと激務から解放された。
「ご苦労だったな」
碇ゲンドウが人に礼を言うことなぞ滅多にない。それだけに今回の工作を内心どれほど有り難がっているのかが分かる。冬月コウゾウをこき使う事に対してはさして思うことがないどころか当然以上に考えている碇ゲンドウだが、今回の件に関してだけは素直に頭を下げた。と、いっても机に肘をつけているいつもの体勢なのだが。
他人が聞けばまずそれを礼だと思うことはあるまい。
だが、この場にはどうせ二人しかおらず、冬月コウゾウには通じるからいいのだ。
「ユイ君は元気だったか」
冬月の月並みか・・・・洒落にもならんな、と思いつつも他の言葉では聞けない。
線を越えてこれ以上深く聞けば、古傷が開いてしまう。
「はい」
これでも碇の傷は、開いてしまうらしいな・・・。口調が変わっている。
「それで、どうなったのかね」
こちらも口調が変わっている。司令と副司令ではなくなっている。しばしの間。
「シンジに会う、と」
「そうか」
しばしの無言。
また、司令と副司令に戻る。彼らはとても忙しい。世界を支える仕事がある。


「ギルの件なのだが」
葛城一尉が周囲の反対押し切って、乗り込んだギルのことだ。
ギル・・・・・ギルガメッシュ機関
エヴァンゲリオン操縦者養成のための人類補完委員会直属の教育機関。
マルドウックの事件より設立された、現在唯一のチルドレンの補給所。
セカンド・チルドレン(第二類適格者)惣流・アスカ・ラングレーの育った場所。
しかし、現在の所、選出したエヴァを起動可能なチルドレンは彼女一人であった。
ネルフが保有している、ファースト綾波レイ、サード碇シンジ、フィフス渚カヲル、の三名に対し、バランスの悪すぎる数である。補充のための人材がまるでいないという、有名無実な機関、それがギルに対するネルフの評価である。
それが土台にあるために、冬月コウゾウも赤木リツコも、葛城ミサトに呆れながらも止めきれなかったこともある。逆に、ギルがすぐさま惣流アスカを召還させる気分も分かる。無能と愚鈍が大嫌いな碇ゲンドウは、ギルの名前すら聞きたくなかった。
四号機が到着した以上、弐号機を開けて置くわけにもいかぬ。時間が許す範囲内ならば、葛城一尉の取った行動も許容範囲内だ。減棒くらいで許してやろう。
そんなことを考えていた碇ゲンドウに冬月コウゾウは意外な報告をする。
「葛城一尉がこちらを発った直後のことだが、ギルから新たなチルドレン選出の報告があった・・・・狙い澄ましたようなタイミングでな」
碇ゲンドウの眼鏡が妖しく光を発する。


「セカンドとフォース、二名だよ」








電車の昼食
車掌が折り詰め弁当を3つ、お茶を三缶、届けにきた。さすがに車内販売やビュッフェはないのであった。
「ありがとうございます」
この電車の主客であるのに、碇シンジは頭を下げて礼をいうのだった。
特別扱いに慣れている惣流アスカや、別の意味で特別扱いには慣れている加持ソウジ、そしてネルフの強権で急にお召し列車の車掌に変えられた車掌も、目を丸くした。
碇シンジの対応はしごくまっとうで、社会の基本とも言えたが、この空間がそこから外れている以上、碇シンジは数の論理で浮いてしまう。
「は、はあ。それでは良い旅を」
電車をまるごと召し上げるなんて、どんな鼻持ちならない奴が乗っているのかと暗い予想に支配されていた車掌だが、あまりの普通ぶりにかえって気味が悪くなり、さっさと消えてしまった。こういうのを悪慣れという。
包み紙をきちんと折り畳む碇シンジ。几帳面と言うより、手が既に慣れている。
「いただきます」
中身はいかにもたこにもの日替わり幕の内だ。ただし、使われている材料は普段より400%はグレードアップしているし、食中毒だけには気をつけて、さらに念のため、毒味スキャンも完了している。なにせ相手が相手だ。怒らせた後の恐怖は政治家の比ではない。惣流アスカは、もそもそと食べてうまいんだかまずいんだか、見ていてもさっぱり分からない碇シンジに声をかけた。向こうからかかってくることは10年待ってもなさそうだ。「ねーシンジ」
なぜかギョッとしたような碇シンジ。弁当の方ばかりを見ていた顔がそちらをむく。
それをみて、わずかに引きかける惣流アスカ。なんでそんなに驚くわけ、アンタが。
「なあに驚いてんのっ」
なんかコイツと話すと振幅が大きくなるわね。
「いや、急にシンジって呼ぶから」
「?だってアンタ、碇シンジでしょ」
コイツの対人センスが並外れてるのは、さっきので分かったけど、自分の名前呼ばれてなに驚いてんのかしら。
「それはそうだけど・・・・初対面なのに」
「初対面でも百対面でもおんなじことでしょーが。出世魚じゃあるまいし」
・・・しかし、待てよ・・・もしかして
「じゃあ、サードチルドレン。これでいいんでしょ」
自分がセカンド・チルドレンでなくなった今、片手落ちな感じだけど。
「僕はそんなんじゃないよ・・・・惣流さんが呼びやすいんならシンジでいいから」
片手落ちどころか、池田屋の階段落ちみたいなこと言うわねえ・・・。
「アンタはサード・チルドレンだけど、今はシンジって呼んでおくわ。それから、アタシのことはアスカって呼んで。さん、だの君、だのは響きが好きじゃないの」
こいつに「フラオ」なんてつけてもらってもしょうがないしなあ。
「分かったよ」
「それで、なんなの。僕になにか聞きたいことでもあるの」
当人からのおゆるしをもらっても、急にはアスカ、などとは呼べない碇シンジであった。それ以上に、目の前の外人のようなこの少女にさほどの興味もなかったのだ。
時間を数ヶ月ほど巻きもどして、街中で見かけたならば、十分以上に魅力的だと思っただろうが、今の碇シンジはそれどころではなかった。
だから、言いようもひどく散文的だった。
「・・・・聞きたいっていうか、アンタの方になにかアタシに聞くべきことはないの」
惣流アスカもシンジ、とは呼ばなかった。
「とくにないよ」
碇シンジの返答は、正直なだけにそっけない。きみなんかに興味はないんだ、というのと同義語だ。少なくとも惣流アスカはそうとった。
「じゃあ聞くけど、アタシはなんでここにいると思うの?」
僅かに語尾が震えている。加持ソウジには分かったが、碇シンジには分からない。
か、もとより分かる気もない。そんなの、しらないよ。と顔に書いてあるのだが、さすがにそのまま言葉に出すほどの度胸はない。
・・・・この子は明確な言葉にして答えないと怒り出すタイプだな・・・学校の先生みたいだ・・・とりあえず答えておこう。
「ネルフの・・・・仕事かな」
9.80ほどの無難さで、安定した着地。一仕事終えて閉じられる口。
「違うわ」
惣流アスカはその返答を切って捨てた。模範解答のはずが、零点をつけて突っ返した。
「じゃあ、何?」
「ちったあ自分で考えてみなさいよ。さあ」
これは意地悪だ。ネルフの仕事ではないはずがない。この電車に乗っているのが何よりの証拠だ。たまたま駅に忍び込んでいた鉄道写真マニアが乗れるような代物ではないのは、この空虚な車内を見れば分かる。車掌さんに弁当をもらったんだし。
僕みたいな子供がパイロットを、一応はやったのだから、子供でもなにか他の職種で参画しているのかもしれない。外人なのに日本語をペラペラ話すのだから、頭もいいんだろう。マンガみたいだけど、天才少女科学者とか・・・。でも意地が悪いな。
こういうことを胸の内で呟くように考えているくせに、口に出してはいえない気性だ。

「分からないよ」
「そー、それは残念ね」

よっぽどここで言うべきか、迷った。自分がここにいる理由、葛城ミサトに頼まれた用件、そして、何も知らないらしいサードチルドレン、碇シンジの立場というやつを。
だが、それを話せば、自分自身のことについても当然話さなければならない。
話を聞けば、問うてくるだろう。
「じゃあ・・・アスカ・・・はどうしたの」
こんな感じだろうか。答えはある。明確な答えが。たったの二言、三言ていどの。
その程度に口を動かすのに、峠を百も二百も越えるような疲労を感じさせる。
だが、言っておかねばならない。これは遊びではないのだから。


「ところでアスカ」
加持ソウジが声をかけてきた。握りしめた決心が鈍る。
「なに、加持さん」
なのにどこか救われたような、煙の抜けでたような気分になるのは弱いせいだろうか。
「アスカはこの列車がどこに行くのか、知ってるのかい?」
知っているわけもないが、知らずに何処まで随行させればよいものやら。加持ソウジは、護衛者としてその見当をつけておく必要があった。
葛城ミサトがどういう魂胆で惣流アスカをドイツへ送らずに、直属の上司であるという強権を用いてこんな、複雑の旅についてこさせたのか、は分からない。
どういう名目で同行の許可を下ろさせたのか。パイロット同士の研修会?まさかな。
これはあくまで私用の、とある家族の、面会のための、道行なのだ。
この点に関しては自分はあくまで案内にして護衛。対象が未成年であることを考慮して、一時の保護者であるという面もあるが。
こういう道行に、どこで嗅ぎつけたのか退院直後、すぐさま惣流アスカをつけてくるなど・・・・どうもやり口が感心できない。
「・・・知らない。アタシが聞いたのは時刻と駅の場所だけだったから」
おいおい、それじゃまるでスパイ小説じゃないか。合言葉があったりな。
とにかく、そこへ行けば碇シンジ君がやってくる、とそして彼に同行する、と。
ネルフのカードがなんでもカード、つまり上位フリーパスなのが、こういう場合に役にたつわけか。葛城のどんぶり勘定は強みがあると生きてくるな。
それでは何が目的なのだろう?・・・・と、これは自分の領域ではないな。
シンジ君の護衛が俺だと知っていたのかいないのか。
アスカはすでに懐に入っている。ここで離せばどこへやら飛んでゆくか分からない。
箱根はすでに遠く、目的地まであとわずか。
どうも微妙な空気だったが、電車の旅はそろそろ終わる。
駅でそのままアスカを返してしまうことも出来る。惣流アスカの護衛は命ぜられた自分の仕事ではない。と、いうより客観的な視点から判断して、任務遂行に惣流アスカの存在は邪魔・・・・なのだ。不安定な少年に、不安定な少女。さきほどのやり取りを見ているとこれから厄介な現実に直面しにゆく少年にぶつけるには、タイミングが悪すぎる相手だ、と思わざるを得ない。アスカが悪いというのではないのだが、大勢でことに当たった方がよいこともあれば、たった一人で精神を平穏にした上で進んでゆくほうがよいこともある。今回はどう考えても後者だ。いや、家族の問題であるだけに前者をとるのは無謀というより選択の暴力といってもよい。ものごとをへたらせるどころか壊してしまう。
なぜ碇シンジ君なのか。それとも第三新東京から遠ざけておくだけか。
特殊監察部所属の加持ソウジとしては、作戦部の意向など知ったことではなかった。
任務遂行の邪魔ならば、当然返してしまうべきだった。まだ安全のうちに。
携帯に何度手を伸ばそうとしただろうか。三回だ。判断はすでに下されている。
アスカ回送時の護衛の手はずなどもある。連絡は早いに越したことはない。
しかし。ここでアスカを返してしまえばどうなる?
この無鉄砲な命令を下した張本人は今、ドイツにいるのだ。

「ああ。この電車は広島にいくんだよ」
碇シンジが教えてしまう。少年は、惣流アスカの知らない、を外人だから地名とかに詳しくなくて知らない、と言ったんだろうと思っていた。どうせ各駅停車ではないのだから、黙っていても目的地には着くのだ。どうも人がよい。
「ヒロシマ?」
カタカナにしてしまうとさながら別の場所のようだ。カタカナで言う人間と漢字で言う人間と、その地名を聞いて思い浮かべるイメージに明快な差異があるからだろう。
碇シンジは当然のように多少の地域的な違いがあっても、日本の一部で自分の住んでいる街の続きのような気がしているのだが、惣流アスカの頭の中には極彩色に激しいうねりのようなものがイメージされるのだ。地名というよりそれは一編の詩や絵画に近かった。

だから、物理的に行く、ということに関してしばし感性が麻痺していた。
強烈なイメージの世界に吸い込まれるような錯覚を起こしていた。そこに人が住んでいるような気がしないのだ。そこは地名ではないのだから。


惣流アスカの感じた錯覚は、後にして思えば、これから向かう場所への予知だったのかも知れない。
「知ってるの」
「・・たりまえでしょ」すこし、声がのどにからんだ。
「そこからは、加持さん、車か、それとも乗り換えをするんですか」
詳しい住所は知らない碇シンジであった。これは別に少年が旅慣れてないせいではない。単に父親がそれを教えなかっただけだ。
「車を借りるんだ。足がないと困る、少々不便な場所にあるんだ」
即答。惣流アスカをどうしたものかと考えているなどとおくびにも出さず。
「ふーん、そうなんですか」
「なんでアンタが知らないのよ」
自分が知らないのは、教えてもらえないのだからしょうがないが、なんでコイツは自分自身の目的地を知らないんだろう。・・・そんなのに同行するアタシって・・・。
怪しい。
「地図に載っていないからさ」
代わりに加持ソウジが答えた。惣流アスカの問いはのれんに釘をさすようなもの。
「そんなところに・・・・・」
「地図に載ってないって・・・・まるでプリズナーNO・6みたいね」
「なにその・・プリズナーなんとかって」
中学生にはちと難しい英語だが、知らなくてこの場合幸いだった。
惣流アスカも、事情を知っていればそのようなことは言わなかっただろう。
「テレビ番組の名前よ。その確か第一話のタイトルだったかな」
「ああ、外国のテレビ番組か。じゃあ知らないよ」
・・・・シンジ君、日本でもビデオが出てたり深夜放送でやってたりしていたんだ、とは加持ソウジは言わなかった。言っても詮無いことだ。
「かなり遠いが、運転には自信があるから二人とも心配はいらないぞ」








葛城ミサト・イン・ドイツ
ネルフ・ドイツ支部。エアポート。天気は快晴。ドイツ晴れ。
軍用輸送機から葛城ミサトはドイツに降り立つ。
凛々しく引き締まった表情にネルフの正装がよく似合う。
だが、その目つきが尋常ではない。タラップからの視線はドイツの地全体にガンを飛ばすような気合いが漲っている。百万の軍隊の威力と完全勝利の確信の元に宣戦布告をしにきた使者すらもう少し穏やかな目をするだろう。
出迎えた者も、その目つきには少なからずびびった。
葛城ミサトは以前、ドイツ支部に居たことがある。顔見知りもいるし、日本での戦闘で彼女を知った者もいる。が、だあれも声をかけてこなかった。
案内されるままに支部長室へ。案内した者もすぐに消えた。

「どうぞ」

待たされる間もない。カードをスリットに流すと機械音声とともに扉が開く。
ここに入るのは四度目か、いや、五回目か。




「久しぶりだな。フラオカツラギ」
造りや広さは、ネルフ本部の総司令官執務室に酷似している。
ただ幾つか異なるのは、天井の模様がゲマトリアやカバラ魔法陣であることや、部屋の脇に護衛のように厳然と並んでいる甲冑たち。そして、カーテンによって日差しが遮られ、緑の明かりでほのかに浮かび上がる執務机と人影。鼻をつく特殊な香。
ネルフという科学の城の長とは思えぬような・・・・いや、だからこそ、かもしれない。

薄暗い中、赤く灯る瞳。今まではおそらく、目を閉じていたのだ。
本来ならば眠っていたのだろうが。
「お久しぶりです、支部長」
「君ならば名前を呼んでくれても構わんよ。なにせ大切な友人の忘れ形見なのだから」
声は悠然と薄闇に染みてゆく。
葛城ミサトは入り口のあたりで足を止めている。
「お休みのところ、失礼します」
「私も君を待っていた。いろいろ面白い話が聞けそうだ」
糸に招き寄せられるように、歩が進む。滑らかに。


とっぽぽぽぽぽ・・・・・・グラスにワインを注いでいる。この人物の飲むワインは半端ではない。酒飲みならば垂涎が樽に溜まる。美酒だ。
机の上の銀の鈴を振る。
並んでいた甲冑の列から一体、動きだしこちらに歩いてくる。そして側までくると停止し直立体勢のまま膝を曲げ始め、きっかり九十度で止まる。
「そこに座りたまえ」
ドイツのことであるから座布団などはない。尻が痛くなりそうだが、葛城ミサトはその甲冑椅子に座った。完全な支部長ペースでことが流れてゆく。


「レイの様子はどうなのだ」


「退院はしましたが、あまり無理はさせたくありません」
「そうか・・・。あの子は妻が気に入っていてな。近く養女にしたい、などと言うのだよ」


「それで今回の訪独はどうしたことだね」
目的を尋ねているのではない。そんなことはとっくのとうに耳に入っているはずだ。
どう対応すべきか、その判断もすでについているだろう。
出来れば、この場でやんわりと追い返す。こんなところだ。飛行場もある。
葛城ミサトがドイツ全体を射抜くような目で気合いを張っているのはそのためだ。
ある意味、碇ゲンドウよりも難物なこの人物をまずは味方につけねばならない。
いきなりワインを飲んでいるのは単なる手っ取り早いカロリーの補充にすぎない。
政治工作ならば天下一品、黄色人種である碇ゲンドウがあれだけ好き勝手にやれるのは、この人物がいるからだ。欧州でも恐ろしく古い貴族の血筋をひいている。
熟成された腹黒の年期は、いかに実力があろうとぽっと出の碇ゲンドウには補えない。
冬月コウゾウが右腕だとすれば、このドイツ支部長は左腕?いやいや。違う。もともと、
特務機関ネルフが使徒殲滅の為の組織でなければ、その旗下にいるような人物ではない。
お互いの利害が一致する間、契約に基づいた協力関係。
こういうのを政治の専門用語で、「ソチモワルヨノー関係」という。
まあ、碇ゲンドウは本性からして友達いない系の人物なのであるが。
そういう怜悧な悪魔のような人物相手に、味方に、とはいかないまでも、せめてこちらの身の安全と横槍をいれて邪魔をせぬところまで、引きつけておかねばならない。
体内で怪しい鐘が鳴る。鴉色のあやしい音色。
緊張もすぎれば、震えもこないものだ。心臓の音も変質してしまう。
だが、目だけはそらさずに赤い眼灯を捉えている。
ほの暗い室内に、緑の灯り、そして赤い瞳。ふらふらしてくる。
「ギルガメッシュ機関から供出されたセカンド・チルドレンのことです」
「ああ、アスカのことか」
その目が、君の一存で召還に応じないそうだな、と言っている。
「はい。正当な理由のない召還に対して抗議するためです」
そんなことのために、いくら空の旅とはいえドイツくんだりまで来たのかね。
ワインも甘いが、ビールも旨いぞ。クックック・・・・・。ソーセージも忘れるな。
「なるほど。仕事熱心なことだ。だが、その間に使徒が来ればどうするのかね」
これを皮肉と感じさせぬ支部長の語りの響き。漆黒というも色褪せる腹黒さ。
グラスを再び傾ける。つまみは返答。


「倒します」


短い即答。グラスに手を伸ばした。これも返答。
支部長は月が裂けるように笑った。まるでレイピアのようだ、と思った。
「なぜアスカにそこまでこだわるのかね」
二人はいま、ドイツ語で会話しているのだが、経由する言葉のイメージの作成自体には、さしたる違いはない。
そこ・・・・この場合、「底」である。惣流アスカの源の地、ドイツにやってきたというのはそういうことだ。ただのこだわりでは、同情や責任感というものでは、ここまで・・・・・つまり自分の前には居れないはずだ。興味がある。代価を支払っても。


人間の最高の娯楽は、いつの時代でも、どんな国でも、「人間」なのだ。


葛城ミサトがどういう人間であるか、支部長は知っている。人間が短期間ではさして変わらない、ということも。もし、変わったならば祝うべきか残念に思うべきか、ネルフの作戦部長などやってはおれぬはずだ。

だから面白い。

人を人と思うような神経で使徒などとやり合えるはずがない。
パイロットは貴重にして稀少な手駒。葛城ミサトの本音はそこにある。断言してもいい。簡潔にして純粋。責められるべきことではない。事実だ。
十把ひとからげに大勢いていつでも補充可能な人間、と思われるよりましだろう。

痛い目見るのは当人ではなく、パイロットなのだから。
ただそれ以上に葛城ミサトは手を出す気はないだけだ。
子供だと侮ることをしないだけ、凡百の指揮官に勝る。
碇もおそらくその辺りを評価しているのだろう。

にもかかわらず、だ。

のこのこと、手ぶらでやってきた。彼女には、惣流アスカを弁護すべきいかなる材料とてない。たんなる抗議ならばやれるだろうが、いや、それとて既に状況が変わったゆえに、封じられてしまう。なにせセカンドとフォースを用意して待ち構えているのだ。
説得など不可能だ。惣流アスカの召還に反対しているのは彼女一人。この地で折れてしまえば早々に送られることになるだろう。

なにがあるのか。

単に新たなるセカンド・チルドレンの供出準備を知らぬ焦りからくる蛮勇か。
と、なれば葛城ミサトはこのまま行けば大恥をかくことになる。
ギルにしてみればそれが目的なのだろうが。それもまた面白いのだが・・・。



「彼女がこれからの使徒との戦闘に必要だからです」


なんだ、意外につまらん答えだな。工場旋盤で切ったような紋切り型だ。

赤い瞳が細められた。眠りに近くなってきた。

そろそろ打ち切ってやるとしよう。つまらん人間は首でもなんでもとられてくればよい。「なぜ、そう思うのかね。アスカは使徒との戦闘経験すらない・・・」


支部長は忘れていた。葛城ミサトがどういう人間であるかを見抜いていても、彼女が現役バリバリの、作戦部長であるということを。中身ばかりを気にしていると、外見にうっちゃりかまされる。中身も大切だが、外見がなければ人間なんぞ幽霊のようなもの。

そのスキを、ダン、と一足で突く。 葛城ミサトは全速力でたたみかけた!。


「世界で唯一人、使徒に勝利を収めた戦闘指揮官であるこの私が言っているんですよ。
経験云々を言われるならば、この私こそが権威なのです」


この言葉を鼻先で叩きつける!メンコのように風圧で裏返る支部長の問い。
日本人とは思えぬような、強烈だがからっからに乾いている自威発言。
これだけでは終わらない。名人上手を相手にしたビリヤードの試合のように、ようやくこちらの順番がまわってきたのだ。これを逃すようでは作戦部長は務まりません。

「そして、何より。現場で使徒との戦闘を目の前にして気づいたことがあります」
生ネタほど人を引き込むものはない。その場にいなかった者は、耳を傾けるしかないからだ。赤い光が、一段、強くなっていた。







日本の、ネルフ本部。
職員食堂。本日の日替わり定食は、ファイバーミルクピラフにコーンスープにサラダ。
パンとコーヒー、紅茶はおかわり自由であった。
時刻は、2時少し過ぎ。こういう職場であるから、定12時に食事が出来るとは限らない。今日は来なかったが、もし使徒が昼飯時や朝飯時、絶対に許せんだろうが夕食時にやってくる可能性もないでもない。
「平和に食事が出来るだけ、マシっすよ」とは長髪オペレータの言。
2時少し過ぎになってしまったが、平和に食事できるだけましっすよってなものなのだがそのマシさを噛みしめずに、食事の盆の前でぼーっとしている者がいた。
「葛城さん、大丈夫かなあ・・・・・」
オペレータの日向マコトであった。ちなみに彼には食事に関するポリシーはない。
「日向さん、それで29回目ですけど」
「それから、心配するかメシ食うか、どっちかにしろよな。同情していいのか、食事の会話の続きをしてもいいのか、混乱するだろ」
なぜか心配しながらでも、青葉シゲルと伊吹マヤの二人より食べるのが早い。
「なんだと!シゲル、お前は葛城さんが心配じゃないとでも言う気か」
温厚な彼にしては珍しく怒った。伊吹マヤと違い、すでに呆れが先にたっている青葉シゲルの言いようにがちん、ときたのだ。
「心配さ・・・・その証拠にお前より食が細いだろ」
自分の食べている盆を指さす。上司の身を気遣うという世にも美しく珍しい心がけをからかうような奴にはギターは弾けないのである。
「あれ・・・・・いつの間に」
食べた気はしないのに、いつの間にか消えている食事。手はパン籠に伸びていた。
「葛城一尉のことも当然、気にはなるが、あの人もそれなりの計算があってドイツに渡ったんだろうから、あまり心配するなよ。そんなことで仕事をミスれば帰ってきてからボーナス引かれちまうぞ」
「そ、そうだな・・・・。すまない、シゲル」
「男の友情ですね」
夕日がでてきそうなシュチュエーションだが、実はすでに今月の給料はさっ引かれていることを知らない二人だった。
さらに言うなら、青葉シゲルがわざわざこんなことを言い出したのは、日向マコトがほんとに仕事でしくじって、オペレータ席の三人衆で連帯責任とらされてはたまったものではないからだ、ということを伊吹マヤは知らなかった。


こんな話をしながらも、やはり作戦部長不在はどこか不安であった。
代理である野散須作戦顧問の手並みは分かったが、心構えに安定を欠く。
つくづく、特務機関ネルフは軍隊ではないだと分かる。万軍を相手にする鋼鉄の硬さより
未知の存在に対応出来る柔軟さ。それこそが持ち味ある以上、紅茶に昆布を入れられたような違和感があるのだ。もちろん、外見でそう言っているわけではない。
コブ紅茶を飲まされないためにも葛城作戦部長には、無事かつ迅速にお帰りねがいたいのだった。土産は誰も期待していなかった。







日が暮れかけてきたところで、車は道路沿いの田舎ホテルの前に止まった。
「今日はここに泊まるとするか」
その声には予定表を読み上げる感があった。が、後部座席の二人の子供にはそんなことはどうでも良かった。長時間乗っていたために疲れ果てている。車はビーグルだが疲れるものは疲れる。それにひきかえ、運転手はケロリとしているが。
裏の駐車場に車をまわす。狭いスペースだがそれで十分、あまり客はいないようだ。
「さて、取りあえず降りてくれ、お二人さん」
「はーい・・・」
後部ドアを開けるのもやっとな感じの子供たち。若さがあっても体力がない。
まだまだひよわな子供たち。細く、やわな肩。その肩に乗せられるべき重圧を考えると、気の毒というか背筋が寒くなってくるというか・・・・。
加持ソウジは子供らの荷物を取り出し、それから自分のアタッシュケースを取り出す。
自分らの荷物にもふらつく子供らがホテルに入ってゆく。物も言わない。
「いらっしゃ・・いませ」
まあ、田舎町のホテルだ。加持を認めてから出迎えの挨拶を閉じた。
「予約はないけど、部屋はあるかな」
「はい。3部屋ご用意できますが」
つぶれない程度にしか部屋は埋まらないわけだ。特に観光地というわけでもない、言うならば、過疎けた町。そこが朝早く第三新東京市を発ち、とりあえず足を休める休息地。
連番でとった部屋のキーを渡す。カードキーではなく、一昔前の、アンバランスなでかいプラッチックのバーがついたやつだった。
「このまま食事にするかい?それとも一休みしてから・・・とこれは愚問だな」
食事に行く、と決めてしまえばもしかしたら子供たちは泣いたかもしれない。
二人とも、ここまで極度の緊張の中にいた。はりつめた糸のよう・・・ならば、ただネジをゆるめて糸を弛ませてしまえばいいことだが、この二人の緊張はもっと根が深い。
たかだか十四の中学生が感じる類ではない緊張の中にあった。
軍式礼服に身を包んだ惣流アスカに、母を訪ねてマルコ状態になっている碇シンジ。
好一対と言えなくもないが、疲れてしまえば同じこと。へろへろである。
「じゃあ、一時間後にここの地下・・・レストランか、に集まるとしよう」
正確には喫茶食堂というに近いが、看板にそうあるのだから仕方がない。
「はい・・・」
一休みどころかここで寝かねない子供たち。
「お荷物、お持ちしましょう」
太ったフロントが、近づいてきて言った。ボーイなど当然なし。しかし、黒服なので宿屋のおやじというも違うのだ。サービスと書いて親切と読む、ような対応だった。
それに惑ったのは惣流アスカ。財布などないくせに礼服を探っている。
「アスカ、日本ではチップはいいんだ」
「お嬢さん、どうぞ」
「え・・・いいの?」
そういうわけで惣流アスカは重い荷物をもって三階まで上がらなくてすんだ。
「シンジ君、どうしたんだ」
階段を昇ろうとしている三人に碇シンジがついてこない。ぽーっと壁の方を見ている。
壁画を見ていたのだ。点描で描かれた砂漠の夜の絵だった。
変わった子だな、と思う加持ソウジ。この子のどこにあの司令の血が入っているのだろう。いささか不謹慎な考えが浮かぶのは腹が減っているせいだろうか。
ちょっと、とろい。
「あ、すいません・・・」
言われると、とてとてと慌てたようについてきた。彼は遠慮してか、それとも他人に触れられたくないのか、バッグは自前持ち。
そんな碇シンジを惣流アスカが見下ろしている。
三階に上がる。部屋は連番の301,302,303。特に意味はないが、加持ソウジ、惣流アスカ、碇シンジ、の順である。

ばたん。

それぞれ自分の部屋に入る。
親子では無論、なかろうし、兄弟というも似ていない。客三人の変わった取り合わせに、フロントは首をかしげながら階段を下りていった。
301号室。
腹は減っているが仕事の続行。彼の仕事は日が沈んでも終わらない。
「八台か・・・・・まずまずだな・・・」

302号室。
シャワーで汗を流す爽快感とまんまでベッドに倒れ込む誘惑、どちらを優先させるか2秒ほど悩む。惣流アスカ、あっさり陥落。

303号室。
荷物を置いてから、一旦すぐ廊下に出た。「えーと、非常出口は・・・・」

そして、一時間。と、二十分後。

地下レストラン「アバンディ」。かなり趣味と気合いが入っている。
「遅いですね・・・惣流さん」
「ああ・・・女の子には用意ってものがあるからな。でもな、シンジ君」
「はい」
「その、惣流さん、は止めたほうがいいぞ」
「え・・・はい」
「ま、照れがあるのは分かるけどな。俺も君くらいの歳にはそうだったよ。だが、アスカには惣流という音がぴんとこないらしいんだ。自分の名でもぴんとこない呼ばれ方はされたくないんだろう。構わないからアスカ、と呼べばいいんだ」
「・・・そういうことなら」
俺は君くらいの歳には、そうじゃなかったなあ・・・。

それからさらに二十分経過。
「アスカ・・・・遅いですね」
「これは寝ているな。シンジ君、悪いがアスカを起こして連れてきてくれ。俺は先に注文を済ませておくよ」
そう言って、さっさと店内に行ってしまう加持ソウジ。とろい碇シンジに言葉無し。








再びドイツ、支部長執務室。
「現場の者にしか、己が眼で見たものにしか分からない真実、というものは確かに存在するな。言葉にしろ文字にしろ、置き換えてしまえば色褪せてしまうもの・・・・成る程」支部長はワインをつぎ足した。自分のものとそして葛城ミサトに。
フラオカツラギ、それが君の武器なのかね。鋭いが、突き刺すことにしか使えぬようなそれが。だとすれば、いささか難渋しそうだよ。
「はい。使徒との戦闘を重ね、ひとつはっきり分かったことがあります。それは・・・」

「何だね」
急かしたわけではない。葛城ミサトが今見せている表情につい、引き込まれた。
それは仮面の演技ではない。それならば役者が違いすぎる。既に主導は戻っている。


ほろにがさ


もし、指先を伸ばし、今の彼女の顔に触れたなら、おそらく乾いた音をたて剥がれた。
どういう感情の働きがあれば、このような表情が出来るのか。
赤い瞳の光がしばし固まり、この者だけを見た。


「人ではエヴァを制御できないということです」


言葉は、黄昏の空間に波紋をおこした。
「・・・・今、自分が何を言ったのか分かっているのだろうな。フラオカツラギ」
「はい」
「ここでの会話は当然、録音され記録されている。その消去は私にも許されていない」
「どうぞ、ご自由に」
剣を放り出して、投げ槍か。洒落にもならぬ。だが・・・・。
その眼は敗北宣言しに来た者の眼ではない。炭火のような確実な高温がたぎっている。
「そのことと惣流アスカとどういう繋がりがあるのだ」
ふいごで風を送れば、まだまだ燃え上がるだろう。ごうっと吹いた。
「あの子は来日前に、初号機の、第二次直上会戦の映像を見たそうです」
火の粉が吹き上がった。まだだ。
「にもかかわらず、あの子は来日し、エヴァに乗り、起動させています」
ふいごが唸る。ぼうっ。
「それがどうしたというのだ」
問いはしたが、分かりかけている。葛城ミサトの意図が。
「あの子がエヴァ弐号機を動かせなくなった理由は、環境への不適応や自信喪失などではなく・・・・おそらく、エヴァへの恐怖です」
湿ったものはその火柱の中、一瞬とて存在を許されなかった。それは少女の望むこと。
赤い光が触れなば切れるほどに研ぎ澄まされていく。
「所詮、我々はエヴァには乗れません。すべてをその肩にのせてしまったのに、あの子たちには何一つしてあげられないのです、よ」
葛城ミサトの左目から、一筋、何かが頬を伝った。涙などではありえない。




それは、火の露だった。



「ゆえに、ギルで育てられたチルドレンでは、やはり対応できぬだろう、と言うのだな」だから、ここまで来た訳か。おそらくはまだ見ぬ「子供たち」の分までも。
さすがに・・・・軍人としても優秀だな。作戦部長だけのことはある。
「今現在、その除去作業に入っていますが・・・・それでも適わぬならば」
僅かでも感情の迸りに、恥じているのだろうか。わずかに顔も赤い。
政治には向いていないな。その方がいいだろう。かくも得難い人材だ。
「それはどういう手段なのだね、フラオカツラギ・・・いや、ミサト」
認めた。ドイツ支部長は、無謀を支えられる有能さを持つ人間が好きだ。
それこそが世を面白くする源なのだから。
「それは、ネルフ本部の特別機密ですからお教えできません。録音もされていますし」
その手段がうまくいく、と確信しているものの笑みだった。
信じて祈るものがない葛城ミサトはせめて確信しているのだが、それはぬけるように晴れている。疑念の雲ひとつない。性分だろうか。とくな性分だ。



とりあえず、第一の関門は抜けた。
これで邪魔される心配と強制送還される恐れはなくなった。ドイツのどこをほっつき歩いても襲われる心配もなくなった。
あとはギルガメッシュの懐、虎口だ。うまいことやらねば、裏手の山あたりに10年ほど埋められる羽目になる。そこは委員会の直轄の地。支部長の目も届かない。
「楽しい時間だった、ミサト。今度来たときはサードチルドレンの話でも聞かせてくれ」望ましい形で面会の時間は終わった。



ふう。
通路天井を仰いで息をはく葛城ミサト。
「ちょっち、もったいなかったわね」
酒の味など分かりもしない。多分、一生の内でも数えるほどしか口にできないグレードだったのに。・・・・などと、らしい余裕が吹けたのはあれから30分も経ってから。
支部長の方はとっくに寝入っている。
「エネルギー補給といくかあ」
これからが本番だ。向こうもてぐすねひいて待っていることだろう。
あちらさんにしても、友好的な感情はもとより抱きようがないだろうし。
向こうの言い分の方が、正論なのは分かっている。それをねじ伏せるにはパワーがいる。葛城ミサトは食堂に向かった。


「やっぱり量が多いわね。こっちは」
と言いつつ、残さず食べてきた葛城ミサト29歳。
「ケーキもついてくるなんて、エヴァがない分、リッチね」
当然、これは独り言であるから日本語である。まるでエヴァが食費を傾けているようだ。「うめぼしとかつぶしとにんにくがただになっててもしょーがないってね。
あ、だーれも聞いてなくて良かった」
とてもこれから虎口に入りに行く者の台詞だとは思えない。
葛城ミサトは用意された車に乗った。







「ここはアタシの家・・・・」
リビングでいつの間にか眠っていたらしい。惣流アスカは頭を二、三回振った。
「と、いうことは、これは記憶ね」
夢、とは言わないのがこの少女らしい。自分は今、田舎のホテルにいるのだ。
第三新東京市に瞬間移動したわけではない。意識の判別がしっかりある。
がらん、として誰もいない。自分はこの場合、勘定に入らないわけだからこの家には、今誰もいない。現実のあの家にも誰もない。自分を待つ者は誰も。

そんな面白くもなんともない認識を、なんで遠い旅先にまで思い返さねばならないのだろう。アタシはそんなに自虐的だったかな。違う。意識がそう言っている。
その証拠に胸が熱い。焼き付けられた記憶。
あれだけ激しく、他人に迫られたことはなかった。他人のくせに。


カツラギ ミサト


「あなたはもしかして、エヴァが怖いんじゃないの」

いくつかのやりとりのすえ、ふいに切り出してきたその言葉。

一気に荒れた。切り傷から溜めていたものが噴き出した。血が、逆流した。
生まれてこの方、あれほど激しく他人を罵ったことはない。本気で人を罵ると、口から血を吐きそうになることを知った。それもドス黒い血だ。それでも止められなくなる。
これほど汚い言葉を自分の口が習い知っていたことに驚愕するが、それも歯止めにもならない。頭の中の一番冷静な部分、本能が、これはこの場で叩ッ殺されても文句は言えないな、と判断し止めさせようとするが坂を転げるように止まらない。

鏡にいいなさいよ、アンタ。影が口きければおそらくそのように言っただろう。
わかってるわよ、そんなことは!!影を踏みつける。
全て、全部、みんな、このアタシのせいなのよ!わかってるわよ!
エヴァが怖いんです、はいそうです、なんて言えるわけがない。
「助けて」なんて死んだって言うもんか!なにも云うことなんてない。
だから、アタシのことなんか、聞かないでよ!!



いいかげん疲れた挙げ句には丸まって床に嗚咽が漏れてくる。救いようのない・・・・。
なんだってこんな姿をさらさなくちゃならないんだろう・・・・。

ずい
今まで黙りこくって聞いていたカツラギミサトが近づいてきた。
その眼には殺気に近い光がある。女は男とは違う。自分の原理を犯されたなら、男でも女でも子供でも老人でも、容赦しない。その上、軍属であるカツラギミサトには、小娘の首などぽっきり折ってしまうほどの力がある。
自分でもここまで言われれば手加減どころか一切の容赦はしないだろう。
逃げようにも疲弊しきって足腰が立たない。これを狙っていたんじゃないだろうか。


「アスカ・・・・・」

ギロチンの宣告のように聞こえた。それはそうだ。人間に一番大切なのは、自尊心だ。
それを汚したのだ。それも恩知らずというのしまでつけて。
役立たずのアタシだもの。シュレッダーにでも放り込めばいいんだわ。ああ・・・・。

カツラギ ミサトの手が、首に伸びてきた・・・・。







ちりりりり・・・ん
やさしい音色だった。それでいて、人の注意をひくようにはなっているのだろう。
「ん・・・・ああ・・」
惣流アスカは目が覚めた。ベッドの上に顔半分、押しつけて眠りこんでいたらしい。
体がほてっていた。胸のあたりの熾き火のせいだ。
室内電話がなっていた。フロントからだろうか。って、今、何時?
七時四十五分。
大幅オーバー。さっきのシンジの比ではない。いや、加持さんを待たせているのだ。
今から慌てていくか?でも、シャワーも浴びていないし、このきつい礼服もそろそろ着替えたい。!それより電話に出なければ。
「はい、302号室です」
「東柳アスカコ様ですね。お連れ様が地下レストランの方でお待ちです」
?寝起きで?マークが多い。誰のこと、と言い返しそうになったが、偽名であることを思い返した。ちなみに碇シンジは伊太利ケンジ、加持ソウジは香山スイジ。
「あ、はい。分かりました」
気が利いているのかまわりくどいのか、やった人物に依るだろうが察しはついている。
伊太利ケンジ、本名碇シンジだ。直接呼びにいけもせず、しかたなくこういう手段に出た。こんな田舎ホテルだからやってくれたんだろうが、カッコ悪いことはなはだし。
荷物をもってくれたフロントのおじさんにそういう娘だと思われてしまった。
どうせ隣の部屋にいるんだし、直接呼びにくりゃいいじゃないのよ。そうすれば、アスカは調子が悪くて、少し遅れていきますとかなんとか言付けられるのに。うきー。
そりゃあ・・・目覚ましもかけずに眠り込んでたアタシも悪いけどね・・・
しょうがない。このままで行くか・・・。加持さんを待たせるわけにはいかないわ。
惣流アスカは入り口のドアを開けた。


碇シンジが立っていた。救急箱を持って。


「なに、アンタ・・」
「・・・あの、もしかして、気分が悪いの?電話を頼んだあとで・・・気がついたんだけど・・あれだけ長い時間乗ってて、なんか酔ってるみたいだったし」
だんだん早口になっていく。コイツ、女の子と話したことないのかしら。
でも、ちょーどいいわ。
「じ、実はそうなのよ。すこし、頭が痛くて寝てたのよ。悪いんだけど、加持さんにはアスカは遅れますって伝えといてくんない」
悪いのは加持さんに対してだけで、これは言葉の綾というものだ。
しかし、あとどれくらい遅れるのかと言わないのであった。これも綾なのか。
「分かったよ。じゃ、先に食べてる」
碇シンジは別に切り返したつもりはない。地だ。
「そ、そう」

「なにか好きなもの、ある?注文しといてあげるよ。来たらすぐに食べられるから」
とてとて、と行ってから思い出したように振り向く。まるでどこかの殺人課の警部だが、忘れないこともある。惣流アスカの手にきちんと酔い薬を渡すことを。







古代の戦王に天の牛骨。
それがギル、ギルガメッシュ機関の紋章だった。
ここに来るまで8つの警備網に3つの人物チェック。
ネルフからの訪問であることを百も承知でのこの体制だ。
内から逃亡することも外から侵入することもまず不可能。
山上にある名前のない教育施設。氷山の一角としても規模は大学ほどある。
その中身は、言うに及ばず。凡百の大学を百個集めても相手にもならない。
見かけ倒し、というより見かけ騙し、である煉瓦製の高い壁に古風な鉄の扉。
当たり前だが洋風建築のそれが、ネルフ作戦部長葛城ミサトの目的地だった。
天気は既に曇って来ている。ドイツの天地を睨み付けてきたこの者の長めの逗留を喜ばぬかのように。蔓の網かぶる煉瓦の高壁が訪問者を帰れと言うが如くに圧している。
「雨になりそうだわね」
黒雲にはマントの表裏のように紅い雨が似合う。そうはなりたくないものだ。
さて、この扉をくぐってからが勝負時だ。気合いは既にじっくりと練れている。

ガガガガガガ・・・・・ガッシャーン

錆色の金属音。ふん、はったりかましちゃって。映画じゃあるまいし。
ドイツ支部に勤務していた葛城ミサトには既に外国コンプレックスはない。
頭の中では、相手を言い負かす知恵が蛇のようにうねっている。
「ようこそ。葛城様」
「どーも」
車は返してしまった。背水の陣というわけでもないが、生きていればまた呼べる。
ギルの玄関にて、黒服の男一人が待っていた。降り始めた雨に、生徒の声はない。
「それではご案内致します」
まずは軽く、子供からの生卵の洗礼でも受けるかと思っていたが。
案内の男の目にも表情というものはない。一言も言わず。案内してゆく。
黒と白、チェスかオセロのような廊下の模様。ときには四角でときには丸い。
壁にはずらずらと絵画、銅版画、写真、浮世絵、などなどが飾られている。
天井には宗教画。キリスト教系のものだが、こうつらつらと長い廊下に続いてゆくと、いつしか百鬼夜行を連想してくる。
ここでちょっとでも不審な動きを見せれば、即座にレーザービームで脳天撃ち抜かれる。同時に、最終的な人物チェックが行われている。武器の携帯は当然、指紋眼紋声紋など、予約通りの当人であるかどうかを徹底的に調べ上げている。多少プロテクトをかけた程度のブリーフケースにいれた資料などもここを通せば写し取られる。
このシステムを造った人間には、他人を信用しろという資格はないだろう。
気が弱かったり神経質な人間はここを通るだけで胃に穴が空きそうだ。

「どうぞ」
そこから4階ほど階段を昇り、着いた。日本ではまずお目にかかれぬ分厚い木の扉。
細工の巧緻はすでに工芸の域を超え芸術の域に達している。
それを前にした人間に重々しくも様々な語りかけをしてくる、という点で。
ここがギルガメッシュ機関の動力炉、マイスター・カウフマンの部屋だった。







第三中学校 2年A組。2時間目が終わった休み時間。
綾波レイが窓際の席に座って本を読んでいた。
クラスの者は、綾波レイがいようといまいとまるで気にしていなかったから、その席が空いていようがいつの間にか埋まっていようが、どちらでもよかった。
だから、綾波レイが普段とは違った系統の本を読んでいることや、彼女の態度がほんのわずか、こちらの方は顕微鏡で見てやっとわかるほどに微かなのだが、違っていることなど気にも止めずに気がつきもしない。
「暗号大全」
広辞苑ほどに分厚い本だった。中身も外見に相応する。とても休み時間に読む本ではない。
赤い瞳が流れてゆくバーコードをチェックするセンサーのようだった。
事実そうなのだろう。何事か調べているのだ。外からは和英辞書で予習でもしているように見える。
「なにを読んでいるんだい」
なにごとにも例外は存在する。渚カヲルであった。
「知りたいことがあるだけ・・・読んではいないわ」
ぱたん、とその本を閉じてしまう。
「なにを知りたいんだい」
「碇君の残した言葉」
綾波レイは考えていた。あの病院で出会った碇シンジのことを。それから、彼の意志表示らしい、廊下の窓に張り付けてあった五つのお面のこと。・・・・・・・・・夢のこと。
わからない。
いままではわからないことはなかった。なにもしりたいとはおもわなかったから。

「きみはシンジくんに会ったんだったね」
「あなたは・・・・・・会っていないの」
不思議なチルドレンの会話だった。そこだけ空間は外れていた。碇シンジという名を巡る。「会いたいねえ・・・・こわいような気もするけれど」







マイスター・カウフマンはナイフを磨いている。
葛城ミサトはそれをじっと見つめている。
そのうちに、どこか絵本の世界に迷い込んだような、自分がアリスにでもなったような錯覚が起こってくる。分厚い木の扉を開けばそこは、執務室ではなく、工房だった。
マイスター、職匠の名の通りの部屋になっているわけだ。
ドワーフが現実にいればまさしくこんな感じであろうなと思わせるずんぐりした体躯。 木工細工のメガネのつるに、片目が焼けただれ膨れた肉で潰れていた。
髭が顔半分を覆っている。着ている服も工房服だった。


「・・・・で」
ナイフを磨き終わったついでの、鼻息がもれたような問いだった。
それだけで大木が倒れかかってきたような重圧を感じる葛城ミサト。
「なんの用だ」
樹齢五百年の切り株と話しているような気分だ。その上で鉛をグツグツ煮込んでいる。

「惣流・アスカ・ラングレーの召還を取り消していただきます」

葛城ミサトの言葉は烈風だった。事、ここに及んで畏れているひまはなし。
「フン・・・・・」
巨獣ベフィモスの鼻息。まるで相手にされていない。子犬がキャンキャン喚いたほどにも感じていない。重量級。いかに強かろうと風に吹かれる重みではない。
事実、「格」から言えばそれ以上の差がある。
ネルフの作戦部長?それがどうかしたのか。紙切れの印刷程度の価値しかない肩書き。
印刷を違えれば、おまえさんは格上にも格下にもなれるのかね。
外見からして饒舌とはすでに縁を切っている。だが、その風貌が前に座る者にそれだけのことを思い知らす。入り口の樹の扉のように。
「断る」
出来の悪い弟子の作にやり直しを命じるような無造作な一言。
ただし、そもそも相手にする価値すら認めていないように一瞥すらしていない。
その眼光はナイフにあり、輝きをさらに研ぐようにしている。
「あの子は、これからの使徒との戦闘に必要な人材です。弐号機専属操縦者として」
「エヴァを動かせぬ者になにが出来る」
片目は未だこちらにこない。が、その言葉の斧が断ち割る。ふたりを。

「囮か」
「囮のためにわざわざドイツくんだりまで来ませんわ」

挑発。そしてそれを逆手にとる。どちらも乗らない。しかし空気は軋んで悲鳴をあげた。目に見えぬ歯車。噛み合っているが回転が正反対。歯向かう。


「セカンド・チルドレンとしてエヴァ弐号機を動かす器量をわざわざ巣箱に戻して、その翼を腐らせてしまうようなことを見過ごすわけにはいきません」


片目が動いた。無視しているうちはまだ、無事に帰す気でいたのだ。それが・・・・。

ミスト・グリーンの眼の色。
これは元々の色がそうなのか、炎に長い間炙られ続けた結果、そうなったのかは分からない。ただ、その奥に恐ろしく年経てなおも稼働している鋼鉄炉がある。
葛城ミサトの黒みの瞳を見やる。今にもその太い指を伸ばし、すぽっと抜き出し鑑定でもやりかねないような目つきだ。
ただ怒ってくれりゃあ、どんなに気が楽か・・・。葛城ミサトはそれに耐えた。
食える食えないのレベルではない。これで本当に同じ人間なのだろうか。
ドイツ語ベンベンな葛城ミサトでもそうなのだから、これで言葉が通じなければ対話と言うより彫像鑑賞だ。お互いに。銅像と根付けくらいに違いはあろうが。


「・・・このナイフはゾーリンゲンで造られた」
切り出してきた。さあて、どうなりますことやら。
「ゾーリンゲンは中世以来、武器製造で名が知られている。だが、当初はシリアのダマスカス製のものに比べると遙かに劣っていた」
相づちをうつ必要はない。だが意図がつかめない。無駄話は絶対にしないタイプだ。
「当時、最も熟練の鍛冶であるルートハルトという男がいた。彼は刃に改良を重ね、サラセン人の手に匹敵するほど硬い刃を造ろうとしたが、その試みは空しかった。
そんな折りに彼の弟子が娘を嫁にくれと言い出した。彼は苛立ちのあまり、ついこう言ってしまった。うちの戸棚にしまってあるような刃を造れぬ者には娘をやるわけにはいかぬ、とな。それは自らも造り出せぬダマスカス鋼だったのだ。
弟子は仕方なく、娘と別れ東方に旅立ち製法を学んでくることになった」
寡黙なくせに話し出すと長くなりそうだ。
「旅の途中の宿屋で、弟子は奇妙な男と出会う。その男は弟子の旅の目的を語らぬ前より知り、さらにダマスカス鋼以上の刃の製法を教えてやろうと言った。
その代償は七年と七ヶ月経た後、男のものになることだった。男は悪魔だったのだ。
哀れな若い弟子は、その契約に応じた。そして製法の書かれた封書を手に入れた。
喜び勇んで戻った弟子だが、ルートハルトに子細を聞かれ全てを話した。
ルートハルトは弟子が秘法のために魂を賭けることを断じて許さなかった。
封書は開けられることなく、孫の代まで戸棚の片隅に仕舞われた。孫の代になれば、悪魔の力も及ばぬからだ。そして長い年月が過ぎ、老いたルートハルトも死に、娘の婿となった弟子も高齢に達したとき、孫が封書を見つけ封を切り、その鋼の製法を習得した。
そのために今日のゾーリンゲンが、このナイフがあるというわけだ」

意図がまったくつかめない。だからどーしたってのよ。

「古代中国に、天より大鐘を造れと命ぜられた鐘づくりの名工がいた。しかし、満足できる出来の物はなかった。そこで、この名工はどうしたと思う」
いきなり話題が変わったと思ったら矛先まで変えてきた。
「仙人のところにでもに弟子を技術研修にいかせたんですか」
「その男は己の娘を溶鉱炉に投げ入れたのだ。その後、満足できる鐘が出来た」

分かりかけてきた・・・・・・。言ってくれるじゃないの・・・・。

似つかわしくない程の長の弁舌はこの為か。岩盤落石のような、怨念を。

「あの子の天才は、脆い」

「硬く、美しい光を放つが、一筋の傷で砕け散ってしまう」
「ギルガメッシュには天才はいないという建前でしたが・・・」
天才・・・・いってみれば碇シンジのようなケースだろうか。
「あの子はギルガメッシュ・プログラムを殆ど必要としなかった。よくマルドゥックに発見されなかったものだ」

「何を今更・・・・・・」
葛城ミサトははっきり言ってやった。
「ならば、惣流アスカをセカンド・チルドレンとして日本に送ったのは何故です」
なんのこたあない、他にチルドレンを育てられなかったからだ。
それを今更、天才凡才論で逃げようたってそうはいくものか。手加減、しないわよ。
「彼女一人しかいなかったからでしょう。エヴァを動かせるチルドレンは」
早々に息の根を止めてやる。これこそギルガメッシュ機関の弱点。これに触れれば争うしかない逆鱗であった。
「選ばれた子供、仕組まれた子供、そして最初からエヴァに合うように鋳型にはめられて育てられた子供たち。悲しい話ですけど、彼らにしかエヴァを動かせない、彼らに全てを託すしかない以上、こちらがつまらない面子にこだわるのはやめましょう」
こだわるというより、その面子を叩き壊した当人が言っているのだ。


だが、その当人は未だ知らない。その、面子にこだわるギルガメッシュ機関が造り上げた子供たち。
セカンド・チルドレンとフォース・チルドレンのことを。


フー・・・・深い鼻息。
態度も眼の色も変わらない。疲労の色もなく泰然としている。
「・・・巣箱に戻して、翼を腐らせると云ったか」
「ええ」
「禁猟区で狩りをするようなハンターの銃弾を受けて傷ついてもか」
その意味を、十割五分で受け止めながらも葛城ミサトは敢えて言う。
「一度飛び立てば、そのあとはどのようなことでも起こりうるのです。しかも相手は反則だと言う気にもならない、我々の想像の範疇を超えた存在、使徒なのですよ」
朝起きて、仕事や学校にゆき、夜眠る。または決められた範囲の中で、決められた行程をこなし生まれてくるもの。自然の流れと、人の創り上げた常識。

それが一切、通用しない相手。それが、使徒。

それに打ち勝たなければ、人類に未来はない。使徒来襲により戦端は開かれた。
悪いが、のんびり傷を癒やしてもらっている時間はないのだ。
一か八かの荒療治で、せめて戦えるレベルに戻ってもらう。勝てとはいわない。
どんなえげつない知恵を使っても、勝てる土俵を造り上げるのは大人の、自分の仕事だ。それが、たとえ吊されようと絶対に変えることがない葛城ミサトの絶対境界線だった。


フー・・・・・・ム
「話は分かった」

「我々は互いに理解を欠いている」

岩戸がわずかに開かれたのか。声には完全に愛想も感情もないが、ただ理解を欠く、ということはとりあえず、理解するだけの価値を認めたということだ。
きゃんきゃん喚く子犬から人間に格上げされたわけだ。
「確かにデータだけでは分からぬことが多い。こうして顔をつきあわせてみれば嘘のように分かることが出てくる」
「それはどうも」
葛城ミサトはこうなれば強気である。無知は人間をかなり強く見せる。
「話はその狭間を埋めてからでもよいだろう。それを成すことなしに会話を重ねても時間の無駄だ」
マイスター・カウフマンが一時、引いた、と葛城ミサトは信じた。
「今から二十四時間与えよう。自由にこの中を見てゆくがいい。その後に再びこの席にて召還について最終判断を下す」
さあて、来たぞ来たぞ。ここが正念場だ。あの煉瓦の塀を越えて戻れるか裏手の山に捨てられるか、分かれ道だ。自分を始末するならここでやるしかない。ここほど適した場所もないが。アスカを潰した自分には、恨みが草一本にまで染み入っているはずだ。
「分かりました」
葛城ミサトは承知した。それから保険をかけておく。一番信用できる相手に。
「それでは、こちらからも」
礼服の内ポケットからネルフのロゴで封印された封筒を取り出す。
「互いの溝が早く埋まるために」
フー・・・ン。鼻を鳴らし受け取る。それから手元の呼び出しブザーのようなものを押す。
「案内を用意した。扉の前で待っている」

「扉を開けた時から始まります」
自ら合図する葛城ミサト。あくまで五分五分の気でいる。ここまで来ると、気が強いなどというレベルではない。度胸の底が抜けているとしか思えない。
「それでは」
立ち上がり、くるりと背を向けた時、声がかかった。
「一つ問いたいことがある」
「なんでしょう」
葛城ミサトは振り向かなかった。


「もし、お前さんが14の時、チルドレンだとしたら、エヴァに乗りたいと思うか」


馬鹿な質問だ。これほど馬鹿な質問はない。だが、問いかけた者がその馬鹿さを踏まえて問うているのだ。逃げも韜晦も許されない。さすればこの場で・・・・。
「いいえ」
と言うのも簡単だ。
「はい」
と言うのも有りだろう。
だが。葛城ミサトの答えはそのどちらでもなかった。背を向けたままに。

「あの地獄の時、自らの無力を刻印された子供ならば・・・誰でも・・・・」



扉は閉ざされた。




「出たわね、日本の恥」


それが第一声だった。
扉を開けると、その者はすでにやってきていた。マイスター・カウフマンに言われた案内。
それにしても出鱈目に早い。まるで隣の部屋に控えていたように。
その者は、一言で云えば、おか・・・・、いやドイツではご飯は炊かない。
「ヘドバ伊藤よ。ここのハウスマイスター」
緑の髪を結い上げ、香水きつくタイトスカートなどをはいているが、男だ。
しかし、「いらっさーい」系の感じはない。さりとて新世紀における自己主張のためもで なさそうだ。ひどく妖しい。魔女が化けてでもいるかのようだった。
「葛城、ミサトです」
第一声についてはほうっておいた。相手にするだけ時間の無駄だ。 「ハウスマイスターってなんだか知ってる?用務員のことよ」
「・・・・そんなこたあ聞いてないわ」
「ネルフの人間ってなんでこうして不愛想なのが多いのかしらね。あのヒゲオヤジの影響かしら。それとも特務機関ってことを鼻にかけてんのかしら。こっちだって同格なのにサ」「無駄口はいいから案内してくれる」
こんな安い挑発にかかってたまるもんですか。先ほどの雰囲気が雰囲気だったので、確かに頭にくるがここで声を荒げてしまえば思うツボというやつだ。 「はーい。ご指名二番テーブルね」
平常心、平常心、先ほどの緊張を解きほぐす時間だと思えばいい・・・・・。
と、ヘドバ伊藤は背をむけて歩き始めている。まるで指名した「場所」を呼び出すような言い方だったので、魔法使いでもあるまいしそんなことはできっこないが、2,3歩遅れをとってしまう葛城ミサト。しかし待てよ。
「ちょっと待ってよ。まだどこに行くのか言ってないでしょ」
止まらないヘドバ伊藤。歩きながら声を放ってくる。
「アスカの部屋でしょ。分かってるわよ、それくらい」
その通りだった。正直、他に見るべきところもないのだ。そして、せめてのことがある。分かっているなら、それでいいが、こういう奴に心中見透かされたというのは面白くない。「分かってるならいいのよ」
早足で追いつく。使っている香水は夜間飛行だった。





「ここよ」
案内されたアスカの部屋。そこはギルの子供たちが暮らす寮ではなかった。 正反対に離れた位置にある時計塔。その内部を小さい家のように改装したもの。
そこが惣流アスカのギルでの塒だった。 渦巻き状の階段を昇り、つきあたりの扉に彫られた惣流アスカの名。
そしてがっちりとでかい錠がかけられている。
「中に入る?カギも用意してるけど」
ちゃらり。緑のマニキュア塗られた爪に、カギ束が振られていた。







その頃、ギルの会議室では職員会議が行われていた。
議題は当然、セカンド・チルドレン、惣流アスカの召還のことと日本ネルフ本部からやってきた葛城ミサトのことについてである。この議題はリンクしている。
しかし、会議はさほど白熱しない。ほぼ結論は出ているからだ。
マイスター・カウフマンからの緊急召集ではあったが、新たな意見が出るわけでもない、日本からやってきた女ドン・キホーテの暴挙をあざ笑うばかりである。
「しかしなんですな。本当に東洋人というやつは分からない」
「これほど浅薄な行動をとるような人間がネルフの作戦部長職にあり、使徒との戦闘を指揮していたとは・・・・人類の一員として肌寒さと怒りを感じますな。
こういう人間をこのような職につけておいたネルフにも重大な責任があるでしょう」
「巣箱に戻して、翼を腐らせてしまう、とは・・・・・無知とは恐ろしいですな。
真相を知れば、トウフーの角に頭をぶつけてしまうかもしれませんな。わっはっは」
「惣流アスカのことも我々が半ば予想していたことすら知らないのでしょうから。
そこまで言っては気の毒でしょう。ま、人間味が溢れているのは悪いことではないでしょうね。私は好みですよ・・・・・珍重しますよ、そんな愛すべき愚かさは」
「やはり、ギルガメッシュ・プログラムをこなしていない以上、彼女はイレギュラーな素材だったのですよ。見た目は美しいが、長期間の使用に耐えない・・・・我々は悲しいことですが、芸術家を育てようとしているわけではありませんからね」
「早めにメッキが剥がれて良かったのかも知れぬ。とりあえず死なずに済んだのだ。
マルドゥックの取りこぼしかと思っていたが、それが分かっていたのかも知れぬな。
・・・・今にして思えば」
「アスカ自身が望むならば、このまま日本に置いていてもいいのではありませんか。
・・・・・影響もありますし。リンゴのように」
「とはいえ、あの葛城ミサトという日本人、やはり生かして帰すわけにもいかん。
我々の今後の面子に関わる。それによって我々が育てたチルドレンの扱われ方も違ってきくるからな。アスカのことも大体、あの無能部長殿がだな・・・・・」



それらの意見を、マイスター・カウフマンは黙って聞いていた。通常通り。
ミスト・グリーンの片目も今は閉じられている。まさしく銅像のようだ。
出尽くした所で、職員らはマイスター・カウフマンを見上げた。
その行為はうじゃじゃけた人界の騒乱に疲れた人間が揺るぎない雲山を仰ぐに似ていた。
ズー・・・・・・ム 鼻息・・・・・
そして片目が開かれた。その色からは何も読みとることは出来ない。



「諸君らの意見、尤もだ」
その言葉が発せられるだけで時代が逆行し、場所すら金属の臭いが立ちこめてくる気がする。自分たちも細工道具の一つに押し込め変化させられるような奇妙な威圧感。

「だが・・・・・」

あれほど騒がしかった室内が静まり返っている。ふいごのような鼻息だけが聞こえる。
「あの小娘は、あくまでアスカの復活を信じている」
その声にはなんの感情もない。ただ事実を、機械が蒸気を吐くような働きの如く、告げた。「根拠があるようだ」
この場合の「根拠」とはマイスター・カウフマンも根拠に値するとした類の「根拠」だ。この老人は、信じる、などという他人の心情を重ね合わせて理解するような真似はしない。理性的、数量的、客観的に、判断可能な材料。それを葛城ミサトは持っており、それに乗っ取った上での行動である、とそう言っている。
「それは一体・・・」
と問う者はいなかった。必要がなかった。マイスター・カウフマンが言うならばそうなのだ。疑う余地はない。それよりも頭を働かせる事柄が告げられた。


アスカ復活


これは彼らにとって喜ばしいことかどうか。さにあらず。
ギルガメッシュ・プログラムが有効に稼働し始め、新たにチルドレンが誕生し始めた今、はっきり言ってわけのわからん日本のロボット如きに負けた惣流アスカは・・・・・・・
「いらない」のである。
欲を言えば、マルドゥックの探索にも見つからなかった「奇数類」のチルドレンの座も、そのうち頂く気でいるのであった。
エヴァにシンクロ可能な惣流アスカの精神パターンを解析することで、プログラムがうまく動き始めたのだから、アスカには当然感謝している。ドイツに帰れば贅沢な年金生活が待っている。「多少」は行動に制限がつくが。

そのための召還。

「無能機関」の汚名を返上するために、いよいよ羽ばたこうというのに、いきなり、使徒と戦いもせずに使い物にならなくなった惣流アスカの存在は、はっきりいって・・・・・「目障り」であった。
ゼーレの覚えも悪くなる。なにせ公式上惣流アスカはギルガメッシュの最初のチルドレンなのだから。供給先のネルフにどう思われようと知ったことではなかったが、ゼーレの覚えは死活問題になる。そして、今後の影響のこともある。 ここは早々に惣流アスカではない、取って変わって新生チルドレンに一発ドカンと使徒を倒してもらう必要がある。

とにもかくにも、惣流アスカは「負けた」のだ。

その情報は、この業界の津々浦々まで流され、噂は鳴り響き渡っている。
人間の代わりに機械にエヴァを操縦させようという怪しげな計画が進んでいるとも聞く。
ここはイメージを一新し、ギルの力を見せつけてやる必要がある。
惣流アスカには、大学卒業の学力もあることだし、ここの教官でもやってもらうか。
ゆえに、アスカが今、復活しても嬉しくないどころか、困るのであった。


・・・・・復活してもまた破れる可能性がある。・・・・その時は・・・・死ヌ、か。


そのアスカ復活を実現させてしまうかも知れぬ根拠・・・・・とは。
マイスター・カウフマンが自分らを緊急召集した理由が分かった。
「あの小娘は、これまで使徒との戦闘指揮において無敗を誇っている」
公式記録にはそうなっている。記録につけなくとも、こうして人類が生きているのだから確かなことだ。
「その小娘の言葉だ・・・・・・」
葛城ミサトが、保険のために渡していた封書。その内容。それを思い返す。
冷静で緻密で戦略戦術眼に長けた者の作戦分析レポート。そこまではいい。 僅かに唸り、確かに葛城ミサトへの見方を20度ほど変えたが、驚くほどではない。


最後の、ワープロでない、流れ走る直筆の赤いペン文字。血のように見えた。 問題はそこであった。
電気に打たれたようにマイスター・カウフマンの手が震えた。 この老人であったればこそ、その程度ですんだのだろう。
保険といいつつ、葛城ミサトは分をわきまえず、とんでも無いことを記したのだ。
わざわざ、戦闘指揮無敗、などと前置きして話したのはそのためだったのだろう。
どちらも常識と理性を置き忘れぬように。
保険の意味が他者とは違うらしい葛城ミサトの言葉とは・・・・・。








「あの赤い光はなに?」
葛城ミサトは案内役ヘドバ伊藤に尋ねた。
すっかり片づけられた部屋。時計塔という外見上、倉庫にも見えてくるのだが、ついこの間までここにはブラウンの髪の少女が寝起きしていた。その残り香もないが。
葛城ミサトはさらさらと流すように見ると、バルコニーに出た。
そして先ほどの問い。 視線は遠方の暗い山の端を見つめている。そこに灯る赤い光点を。

ムードは関係ないので、後ろのおか・・・ドイツではご飯は炊かない、に突き落とされないように注意は留めている。
「電波施設よ。・・・・もしかして、もう少し文学的な答えを期待してた?」
「べつに」
「山のあなたのなお遠く、幸いすむとひとのいう・・・・」
特に感想は述べず、部屋のうちに戻る。電灯は残っているが、どことなく湿ってうすら寂しい。アスカがここに住むことで、この雰囲気は多少なりとも変わっていたのだろうか。惣流アスカのこころのうちを造り上げる環境のひとつ。
ここへ来たのは、別に謎解きをしようというわけではなかった。 ただ・・・・・・・


「アスカの幸いもやっぱ、山のむこうにあったのよねえ」
やけに染みることば。人柄のせい、ではないのだからタイミングの問題だろう、と思った。そこに真実の香りが漂っていたから、などとは夢にも思わない。







「ギルガメッシュ・プログラムは、使徒に勝てても・・・・


エヴァに勝てない 」



その言葉を聞いたとき、皆、あっけにとられた。いわんとする意味が分からなかった。
誤訳なのか、とも思った。それとも何かの聞き間違い?
相手がマイスター・カウフマンでなければそう聞きなおしていたことだろう。
この酔っぱらいの詩人が錯乱した挙げ句に喚いたようなその言葉。
壊れた翻訳コンピュウタアが紙テープにそれだけを打ち出してきたような異常。

「なにを言っとるんだ?あの女は」
「アスカの一件で変わり者だとは分かっていたが、まさかここまでとは・・・・」
「これは・・・・ゆゆしき問題ですぞ」

ブクブクブク・・・・・会議室の空気が乱雑に掻き回されて泡立つ。
なぜか、笑えなかった。笑うべき、相手にせず、取り上げるべきではないところを。
マイスター・カウフマンが取り上げてきた。
それが何故なのかを考えるよりさきに、口が回る。周囲と語る。忙しい。紛れて、隠す。

マイスター・カウフマンならば、この真意を見抜いているに違いない。
たかだか小娘の戯れ言だ。・・・・・・矛盾しているが。
彼らはふたたび見上げた。首を縮めていた。突如としての雷喝を恐れたためだ。


「この言葉の意味を、問うてみることにする」
重々しく下された言葉は、裁定を導くものだった。与えられる猶予。挽回の機会。
その意味では、葛城ミサト保険は効果があった。だが、それはバクチでもあった。
チルドレン養成機関であるギルの根幹、ギルガメッシュ・プログラムに致命的ケチをつけておいて、長生きしようというのだから・・・・・。
わずかでもこの片目の老人の気分の秤が傾けば、どうなるか・・・・・。
わずかでもこの片目の老人の器量が小さければ、どうなるか・・・・・。


運の良さ、ではあり得ない点が恐ろしい。
使徒、という未知の存在になんとか勝っているという経歴が発する気迫、である。
それだけ、未知の存在、理解を超えているもの、使徒、が恐れられているということか。
その使徒に勝った人間と、未だ謎に包まれている使徒・・・・・
どちらが本当におそろしいのだろうか・・・・・・・。





「ありゃ。呼び出しみたい」
時計塔からの戻り道で、ヘドバ伊藤の腕時計(高そう)から発信音が鳴った。
それから応答はなぜか、コンパクト。ほんとにやになるセンスだ。
「あ、はいはい。分かりました。では、今から」
少し離れた場所で聞こえるように返事してくれるのがいかにもたこにも。
どの呼び出しだかは葛城ミサトには当然、見当がついている。
保険が効いたか・・・・・。存外、対応が早いわね。ちょうど良かったけど。
まだ保険だと言い切る葛城ミサト。
「だいぶ余ったわね、時間。残念だわあ。もっとあちこち案内してあげたかったのに」
「来いって?」
「そうよ。なんだかおかんむりみたい」
「そう。じゃあ行きましょう。サッ、と片づけて明日には日本で寝てたいわ」
「ほんとに強気ねー、あなた」
夜雨の中、傘さしていく。


・・・・・・・・・・・



無言。ドイツでも村雨。群になって一しきりずつ強くなったり弱くなったりしている。 「ねえ」
葛城ミサトの方だった。
「なに。なんか今の響き、艶っぽくて良かったわよ」
「もうこれで二度と会うこともないでしょうから、聞いときたいんだけどさ」
「あたしに惚れても無駄よ」
「・・・・・聞くのやめた」
「あー、嘘嘘。なんでも聞いてちょうだい。誠意のあかしにスリーサイズも教えちゃうわよ」
「あんたねえ・・・・。まあいいわ。土産話にはなるだろうし。・・・・あのさ」
登ったり下がったり忙しい葛城ミサトの声。
「・・・・アスカの幸せってなんなの?あんた、何か知ってんの」
「知らないわよー」
顔が知っていると言っている。ヘドバ伊藤は祭りに呼ばれる笛吹きのように答えた。 「そう・・」
深追いすべき問いではなかった。雨と同じく。






会議室前。
「じゃ、ここでお別れ。がんばってねえ」 ヘドバ伊藤は仕事を終えて、手をひらひらふって行ってしまう。と、足を止めた。
「あ、そうそう。出会った記念にこれ、あげるわ。じゃ、また」
封書であった。きつい香水が染み込んでいる。
この時代が進んだ中で、本当に大事な情報のやりとりは相変わらず、紙か。
・・・・まさか自分のプリクラシールかなんかじゃあるまいな・・・・・
一抹の不安を抱きながらも、なぜか受け取ってしまっていた。
どうも調子が狂わされていた。いきなりの「日本の恥」呼ばわりといい、カウフマンとの落差といい、最後までどこか向こうペースのコンベアーで運ばれてたような気もする。
論戦や論争ならば負けなかったのだろうが・・・・。

「それよりも」

いよいよ最後の関門だ。向こうも気になって仕方がないらしい。絶好のチャンスに仕留めにこなかった。元々が超機密主義のネルフだ。その作戦部長直々の話がやはり聞きたい。
拷問にかけて聞き出そうという手しか思い浮かばない馬鹿相手には使えないやり方だ。
自分を始末しても作戦部長職が無くなるわけではない。それに準ずるシークレットが欲しい。欲しい。なにせネルフと格の上で張り合おうというのだから。
人間というのは仕方がない生き物だ。その心理を読むのも作戦業務のうち。
手持ちのカードが足りなくても勝負しなければならない時がある。
全部そろっていれば、碇司令のようにフッ、とか笑っていられるのだろうが。

「さあて、アスカを取り返しにいきますかねえ」

それが果たされればこの作戦は成功と言える。多少の代価を払っても。


ごん、ごん


「入りたまえ」
葛城ミサトは勝負の場の扉を開けた。



「君のことは理解できた。そちらはどうか。無駄な時間を省くために来て貰ったが、まだ我々を知る時間が必要か」 「いいえ。時間は何にも増して貴重なものです。お互いにとって的確な判断だと思います」葛城ミサトはマイスター・カウフマンだけを見ている。居並ぶ好戦的な視線は完全無視。用意された「被告席」に座る。

「結構。ならば問う」

来たか。何を聞いてくるのやら。・・・・・長丁場になるか・・・・・・・・。
欧米人は議論が好きだ。論より証拠、ではなく証拠より論、なのである。
口をきく機会を与えられただけでもよしとしなければならない。
口げんかは嫌いじゃないのよ・・・・一世一代の口げんか見せてあげましょう。
内心で気を燃やす葛城ミサトだが、マイスター・カウフマンは意外の手に出た。







コロン、ころん。



そのごつい手から転がされたのは、二つの賽子だった。木製の。
これは、周りの職員も意外だったらしい。つかれたようにそちらを見上げる。


「惣流・アスカ・ラングレーの召還の件、これで決定する」


それはこの老人の口から出た以上は絶対の決定事項だった。何者にも揺るがせぬ。
もし、それが出来るとすればそれは神しかいなかっただろう。
運命の神か、確率の神か、はたまた気紛れの神か、それは知らないが。
「互いにサイを振り、こちらの目が多ければ召還は実行される」


「なっ・・・・」
あまりといえばあまりの出方にさすがの葛城ミサトも虚をつかれて言葉が出ない。
いきなり「却下」の一言で片づけられたとしても対応できる葛城ミサトが。
予想もしてなかった。


「・・・・召還を取り消すか、取り消さないか、五分五分ということですか」 子供の人生決めるのに、賽子とは・・・・・葛城ミサトの内心、言い難し。
だが衝撃はまだ終わらない。

「五分五分ではない。同目ならば召還は実行される」

「くっ・・・・・」
五分五分以下だ。さっきも大バクチをやったわけだが、今度賭けられているのは自分ではない。単純な賭事だけに、後で切り返しがきかない。



「それでは予定は決定される」
無造作に賽子は振られた。木の屑でも払うかのように。
文句も反対も言う間もない。サイは、投げられた。



ころーん。
・・・・・・ころ−ん・・・・・
出た目は・・・・・・・
六と六。足して・・・・・・・・・・。「12だ」
それはサイコロ二つの最高数。












続劇