続劇








12の出目。それは二つサイコロの最高数。
これで葛城ミサトの勝ちはなくなった。同点ならば敗北。そして12以上の数は存在すらしない。これではいかに気紛れな確率の神様でも味方のしようがない。
インチキ・・・・であろうがなかろうが関係なかった。問われるのは結果だけ。
ここは虎の口の中なのだ。
せめて自分が先に振っておけば、あきらめもついただろうが・・・・・。
いささかあっけない幕切れであった。



「次は君の番だ。カツラギ」



勝負は既についた。にもかかわらず振れというのか、この老人は。
葛城ミサトは席をたち、歩んでサイを手に取った。やる気だ。
ぎりり、と唇は一に結ばれている。もはや言葉は必要ない。握る手に力を込める。
こうなりゃ奇跡を起こしてやるまで。
どういう類の奇跡が起これば最高数12に勝てるのか、見当もつかないがとにかく、起こしてやる。このっくらい使徒との戦いに比べればなんてこたあないはずだ。








・・・・・・・なんつって。
そのような無謀かつ安易な思考の人物を作戦部長に据えるほどネルフは甘くない。
既に葛城ミサトの頭の中では、対応策「奇跡」のシナリオが用意できていたのだ。
あとはやるだけ。この指で。・・・・・・・サイが投げられた。






「アスカは少し、気分が悪くて横になっていたそうです。あ、でも、食事には来ます」
碇シンジは、加持ソウジがとっていたテーブルに座る前にまず、報告した。
「そうか、ご苦労さん」
注文はしたらしいが、まだ来ていない。ジュース類があるのは子供用か。
「適当にみつくろっておいたが、シンジ君もなにか好きなものを注文しておけばいい」
名前が名前だけにすっかり信じこんでいる碇シンジと違い、伝達係りのカラーをものともせず加持ソウジは真相に気づいていた。もうちょっくら遅くなるであろうことも。
「アスカがお寿司食べてみたいとか言ってるんですけど、ありますか」
ウエイトレスなどがそばにいなくて良かった。いくら、なんでもある系の田舎のホテルのレストランとは言え、さすがに鰻丼と寿司はないだろう。なぜか天丼はあるが。
「イタリア料理が自慢です、とメニューにあるからなあ・・・・」
どうも父親の碇ゲンドウのイメージがあるため、調子が狂う。もっと父親似の不気味な中学生かと思っていた。分厚い眼鏡かなんかかけて。母親似なのか・・・。
「その割にはスパゲティーしか載っていないがね」
このメニューにも調子が狂うな。しかもたらことしめじしかないのだ。
イタリア人がいれば怒り出すだろう。こんな所に来っこないと高をくくっているのかも。「じゃあ、チョコレートパフェ、お願いします」
高校生のバイトらしいウエイトレスを呼んで新たに注文する碇シンジ。
「アスカは夜に甘いモノを食べると太るから、とか言っていたかな・・・」
彼らしい気のまわし方で、まわしたのかと思いきや。
「いえ、僕が食べるんですけど」
いささかの照れもなく言い放つ。たしかに線の細いタイプで、太る心配もなさそうだが。うーん、ほんとうに君と俺とは違うんだなあ・・・。それともこれが時代で、俺は遅れているんだろうか。パフェを食べる司令。うーん・・・・。
加持ソウジが悩んでいる間に注文と、それから惣流アスカがやっと来た。
「待ってもらってごめんなさい」
シャワーを浴びて着替えてきたらしい。いかにもきつそうな礼服から私服へ。
時間オーバーしてまでぐうすか寝ていたなんて以前の惣流アスカには考えられない。
体力的なこともあろうが、それは訓練などよりはずっと軽いはず。精神的なことだ。
と、まあそれよりは腹ごしらえが先だ。老いも若きも大人もチルドレンも腹はへる。
悩んでいても腹はへる。腹がへらなくなったら人間、おしまいである。
「調子はいいのか、アスカ」
「少し休んだら、もうすっかり大丈夫です」
じーー・・と碇シンジが惣流アスカを見ている。
「な、なにじろじろ見てんのよ」
でも、無理もないわね。玉の肌磨いたばかりで、私服だものね。見とれるのも当然。
容姿には主観的も客観的にも、かなりの自信がある惣流アスカであったが、碇シンジは、なんとこんなことを言い出した。「なんだか・・・・
「若返った感じがするね、アスカ」
「は?」加持ソウジと惣流アスカのユニゾンだった。




コツ、コツ、コツ、コツ、
地下につづいていく靴音。一人の紳士が階段をおりてゆく。
なんだかぶつくさ言っておられる。
「ひとつ、約束してください・・・・・むやみに他人にこの店をおしえないって。
ーー郡ーー町にあるホテルーーの地下にあるレストラン・アバンディ。
我々がこれから向かうのはそのウエイティング・バーです。よろしいですね。
では、わたしが扉をお開けしましょう」


店内には軽い音楽が流れている。まさに、B,G,M。お客の会話を邪魔せぬ程度に、それでいて寂しくならぬよう、ふいの隙間をうめてしまう。
今日の音楽は、−−−−−ですね。私はこの曲が好きなんですよ。
「あ、水田さんいらっしゃい」
バーテンダーのヂェイクさんです。ですが、いけませんね。カウンター席に座る。
「ここではミスターと呼んでくださいとあれだけ言ってるじゃないですか。ヂェイク」
「すみません。でも本名が本名ですからあまり、変わらないんじゃないですか。
それに、私の名前は南島三郎なんですが」
「とにかく、私はミスターであなたはヂェイク。よろしいですね。」
「はい。わかりました」
「それでは、いつものを」
「かしこまりました」
では、ヂェイクが作ってくれている間にここで交わされるーー郡一の日常会話に耳を傾けてみるとしましょうか。
おや。あの壁際の丸テーブル席の三人・・・・お兄さんと弟さんと妹さんですかね、変わった取り合わせですね。興味が出てまいりましたよ。聞き耳をたててみるとしましょう。


「うぬぬぬぬ・・・・・・」
「アスカ、抑えるんだ。彼に悪気はない」
「調子、よくなったんだ。良かったね、アスカ」



・・・・よく分からない会話ですね。なにについて話し合っているんでしょう。
どうも謎めいています。これは聞き逃せませんね。
「おまちどうさまでした」
おっと。こちらにも、そしてあちらにも注文の品がきたようです。まずは一口。
カラン・・・・氷がグラスにあたり、軽い音をたてる。




「そういえば、アスカの用事って一体なんなの?」
しばらく食事がすすみ、碇シンジは今更ながらのこんなことを聞き始めた。
「ん、が、ぐっぐ」
おいおい・・・・。
食事をノドにつめてしまう惣流アスカと脱力する加持ソウジ。
この少年の体内時計は、勝手に針が回っているんじゃないだろうか。又は自らの手か。
「こ、こんなところで言えるわけがないでしょ。アンタ、何考えてんのよ」
場所柄をわきまえての小声だが、あやうく怒鳴るところだった。
何も考えてないからこその発言である。だから答えはない。
「ごめん・・・・」
答えはないから謝る碇シンジ。ただ、自分の目的地までこの少女が同行してどうするのかな、と思っていたのだ。自分には意味があるけど、彼女には意味がない。
案内役の加持さんは一人しかいないわけだから、適当な所で別れるのかしらん、と思っていた。
この碇シンジの考えを、なんらかの方法で惣流アスカが聞いてしまったなら震え出しただろう。なにせ、未だに少女の方も、少年の目的を知らないのだから。
名前のせいか、いいように流転しているわけなのだ。
運命の激流の川底を、ごろごろ転がっているその水面で、笹舟のようにすいだらら、と流れていっているのだ。と、思うことだろう。




「うーん、小さな恋人たち、ですか。私も少年の昔を思い出して、胸がほろにがく切なくなってきますねえ・・・」
忍者顔負けの耳の良さであるが、さすがに読心の術は知らないらしい。
勝手にほろにがく切なくなっている。それを引き立たせる、新たなオーダー。
「ヂェイク、カカオフィズを頼むよ」
「かしこまりました」



「チョコレートパフェですが・・・・どちらに・・」
ウエイトレスは先ほど頼んだ人だったが、テーブルに女の子がいるので迷ったのだろう。「はい」
「あ、こっちです」
惣流アスカと碇シンジの同時の返事。視線がぶつかる。
「なによアンタ、男のくせにパフェなんか食べる気?」
「アスカが食べたいのはお寿司だって言ったじゃないか。注文したのは、僕だ」
道理は碇シンジにある。しかも羞恥を差されてもまるきり反応がない。
「二人ともやめろ。彼女が困っているじゃないか」
チルドレン二人がデザートの取り合いとは・・・・・、な。
「罰として俺が食べる」
などと、呆れて言ってしまいそうな自分が怖い。どーも調子がおかしい。
結局、パフェは碇シンジが食べることになった。当然、独占。
「ふん、パフェごときにこだわっちゃってさ。つまんない男」
反論しない碇シンジ。
「ごちそーさまっ。先に部屋に戻ってるわ」
惣流アスカは一番後に来て一番先に席を立つことになった。
その去りゆく背を見て碇シンジが加持ソウジに問うたこと。「加持さん・・・・
「そろそろ、ほんとうのことを教えてください」





302号室に戻る前、廊下からふと窓のそとが見える。
もう既に日は落ちて、辺りは暗くなっている。小さい町でも明かりやネオンが彩っている。道にはとつとつと、帰路につく車のヘッドライト。
「はあ・・・・・」
ため息をつく惣流アスカ。
「なんでわたし、こんなところにいるんだろ」
かわいたオレンジの廊下の明かりのもと、続いている廊下にぽつねんと。
なんだか長く感じる。非常口灯の行き止まりが見えているというのに。
自分で出てきたはずなのに、おいてけぼりをくらったような錯覚に襲われる。
夜の空に浮かぶ赤い光点。
星ではない、山の上にある電波塔だかなんだかの光だろう。
見ているだけで胸が締め付けられる。それは自衛のための作用。そうしなければ、胸の内から抱えきれないほどの想いが溢れだしてくる。ひとたび溢れ出せば、もうだめだ。
歯止めが効かなくなる。惣流アスカはそれを良く知っていた。
誰にでもある自分だけの特別の想い。
それを喚起させる光景なり、音なり、言葉なり。
惣流アスカの場合はそれだった。
その光の本物は、ドイツにある。今、葛城ミサトが行っているドイツだ。
「ミサト・・・・・」
惣流アスカは首を撫でた。それから、すべらせて、肩に、ながす。
覚えている。はっきりと。「あの時」の感触を。



あの時・・・・ミサトが近づいてきて、手を伸ばして首に手をかけた・・・・・それから行き過ぎて、肘を確かめるように曲げて、からギュッと抱きしめた。
力が強くて、なにより熱かった。人間の体って暖かいなんてもんじゃない、熱い。
「あなたには、なにも言えないし、なにもしてあげられないわ。ある意味、あなたたちは私たちを追い越しているんだものね。でも、いや、だから、かな。
これだけ、は覚えておいて」

これだけ。

それは言葉で表現出来ないからの代替表現などではない。もっと激しい意志の表現。
日本語ではそれを、ミシルシ、という。その激しさは言葉の檻に捕らえておけない。
感触。
日が経てば薄れ消え忘れ、記録にも残せず他人にも話せず理解されず。
こういうこともありましたね、あんなこともありましたね。きえるだけのもの。
いつか消えてしまうだろう。この感触は。でも、今は覚えている。痛いほど。
もう二度と会えないかもしれない。まだ生きているか、どうか。
だから、ささやかれた言葉にも従う気になった。だから、ここにいる。
「碇、シンジ君にあなたの学んだエヴァで生き残るすべを教えてあげて」
「お願い」
それはドイツ語だった。
惣流アスカは窓から視線を外し、自分の部屋に戻った。







ころん。

コローン・・・・・
ぴしっ

転がり・・・・そして軽く割れるおとがした。
出た目は・・・・
おおううっ。周囲から思わずあがるうめき声。まさかまさかまさか。驚異と不審の叫び。

「13」

それが出た目だった。片方のサイが「6」。そして、転がり割れた方が、「6」とその反対の数字面をさらしている・・・・・「1」。
6足す6足す1・・・・・・・・は「13」。つまり12よか大きい。



「私の、勝ちですね」
周囲を睨み付けながら、圧するような確認の一言。さすがにぐうの音もでない。
ルーレットに喩えれば、親の総取りに入る玉が急にはね上がり、ディーラーの額にぶつかり気絶させて勝ったようなものだ。万に一つもない勝利。人、それを奇跡と呼ぶ。

「惣流・アスカ・ラングレーの召還は取り消す。その身柄は続いてネルフ付きとする」


裁定が下った。絶対決定事項。葛城ミサトはまたまた勝負に勝ったことになる。
「ありがとうございます」
軍人の笑顔でそれに応じる。
ぽた・・ぽた・・・ポケットの中に周りには聞こえることのない音が密かに奇跡のタネを明かしていた。布地に黒く、染みゆく・・・・・。




「こわい女だな・・・・葛城は」
今の一幕を影よりそっと見守っていた人物が呟いた。
ギルにはありえない影に潜むこの人物の周りには、呟きに染みていた愛おしさと、特殊な硝煙の臭いが漂っていた。
「相変わらずだ」
闇の中で苦笑。それが消えると、この人物の気配もそこには残っていなかった。






「本当のこと、かい」
「はい」
加持ソウジは内心、頭をかいた。これは一本とられたな。
「うーん・・・・そうだな・・・・」
惣流アスカはこの場にはいない。地元の話好きの人間が聞き耳をたてているが、一般人ならさして問題はない。碇シンジの聞きたいことは見当が付いている。
見事なまでに惣流アスカには興味がないようだ。

母親のこと


それしかない。母親に会うためにこうしているのだから当然といえば当然だが。
その過程がひどく不自然である以上、こうして昨日までは顔も知らなかった男が案内役として自分の目の前にいるのだ、・・・・・あとわずかで自らの目で確かめられるとはいえ、その前に聞いておきたいのだろう。

母親に会うために第三新東京市まで来て、人造人間エヴァンゲリオン初号機に乗り、使徒と戦い、紆余曲折を経て、こんなヒロシマの山の中まで来ている。
どこか自分の立場に狂言めいたものを感じたとしても無理はなかろう。
もしかして自分は騙されているのではないか・・・・・
なにせ父親が父親だ。どんなお人好しでも疑いの雲が湧いてきもする。
関係のない女の子は同行しているしなあ・・・・・と、これはオレのせいか。

とりあえず、ここまではいい感じで来ていた、と断を下している。
アスカと碇シンジ君。
保護者というか外護者の加持ソウジにしてみれば、ダイナマイトのすぐ横にガソリン缶を置かれたようなもので、内心ヒヤヒヤものだった。わずかな、摩擦でできたような火種でも大爆発しかねない子供たちだ。アスカはアスカであのショックが抜け切れていない上に微妙すぎる立場に立たされている。碇シンジ君の方は、ざっと見ただけだが、飴細工のような脆さを感じる。ガラスよりもっとやばい。下手に触れば・・・・・・・、だ。
それがこの短い旅の間、なんとなくいいバランスを保ちながらやってこれた。
とくにアスカの方の緊張の解け具合が目覚ましい。表情も心なしか元の調子を、雲間から2,3,筋ほどだが光差すように、取り戻している。
碇シンジ君の、父親似ではない、性格というか性質のおかげだった。
「ぬかにくぎ」・・・・刺す人間にもやんわりと気弱に相手をするような・・・。
関わろうとはしないが無視できない。美徳であるのかどうかは加持ソウジにも分からない。
ただ、効率的ではない。だからこそ彼の父親は持っていない点。
青春教師ではない加持ソウジは、いつまでもそれを持ち続けろ、などとは言わない。
が、今の状況はそのおかげで助かっている。
もし、ギトギトに鋭い性質を少年が持っているとしたら、今のアスカはたまったものじゃなかろう。・・・・その場合は葛城も同行させなかっただろうが。

まあ、それ以上に二人とも、大人から、心の池に放り込まれた大きな氷の塊を溶かすのに手一杯で互いに構っている余裕もなかったこともあるのだが。
その二人の大人は子供にも手加減無しのタイプだからなあ・・・・。

アスカは葛城から。
碇シンジ君は碇司令から。

具体的になにを受け渡されたのかは部外者の自分には知る由もないが、列車の間、車の間二人の顔色を見ればなんとなく察することは出来た。
彼らがそれを全部溶かしきれるかどうかはまだ、分からないが。

「そうだな・・・・まず、オレたちは君のお母さん、碇ユイさんの居場所へ向かっている。これは信じてくれていい。つまらない騙しは無しだ」
「はい」
疑っていることを否定しなかった。少年は大真面目だ。そして加持ソウジの言を信じた。「オレの仕事はそこまで君を安全に連れていくことだ。
・・・・・まあ、もちろん帰りもな」
この微妙な響きが理解できるのは、少年が母親に会った後のことで今はただ頷くだけだ。「君のお母さんについては・・・・オレはその立場にはないから話すことはできない。
自分のその目で確かめ、直接、事情をきいてくれ」
少年が聞きたいのはまさにそこなのだろうが、本当に加持ソウジはその立場にはない。
「本当のこと」を話す立場には。

「わかりました」
とりあえず、騙されているわけでもなく、母との再会は実現するという確証を得て、碇シンジは安心したようだ。
「ま、そういうわけで明日はもっと山道をいくからな。疲れはとっておけよ」
「ど、どのくらいかかるんですか・・・」
安心してもそれについては心配になるらしい。車酔いする質ではないが・・・・・。
「道の潰れ具合によるな」
加持ソウジの恐ろしい返答。この場に惣流アスカがいなくて良かった。
混み具合、ではなく、潰れ具合、なのだ。果たしてどういう道をいくのやら。





「けっこう・・・広いんだ」
湯煙の中をタオルで下をかくしながらゆく碇シンジ。風呂場である。
加持ソウジに疲れを取っておくように、と言われ律儀にそれを実行するために風呂に入りに来たのである。個室にはシャワーとバスタブがあることはあるが、あれではかえって疲れて来るような気がする碇シンジであった。
「ホニャララ温泉」などという名前はあるが、温泉など引かれておらずボイラーである。田舎なのに見栄っ張りである。まあ、町中の銭湯につけるよりはいいだろうが。
午前中の開放で採算をつけているようだが、今は夜なので人はいない。
ごついオッチャンとの一時的接触を恐れる必要もなく、碇シンジは安心した。

「ふうっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・疲れた」

風呂の意外な効用に気づくこともなく、ただ湯船につぶやく。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふうっ」

碇シンジは長風呂ではない。風呂場で考え事をする趣味もない。
烏の行水とまではいかないが、早々にあがってしまうタイプだ。だが・・・・・。
今日は違った。
湯煙と同じく、考えることがとりとめも輪郭もつかず、湧いてはつぎつぎと消えてゆく。
その意味で、加持ソウジの分析は正しかった。
溶け切れぬ、想い。

「父さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「母さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

湯船につかったまま、自分の内面に浸ってしまう碇シンジ。
少年は気づかなかったが、それは危険な行為だった。





一方、惣流アスカ。

ごんごん。

碇シンジの部屋のドアを叩いていた。同時刻、当然ながら返事はない。
「もしかして・・・・まだモタクサ食べてんの?牛じゃあるまいし」
碇シンジごときに体よく追っ払われたなどと知らない惣流アスカは、加持ソウジの部屋をノックした。
こんこん。

「おや、アスカか。まだ休んでなかったのか」
「加持さん・・・・・あいつは・・・」
惣流アスカの意外な問いに加持ソウジは内心で無精ヒゲをさすった。
ふうん。俺のところに聞きにくるとはなあ・・・・・。
碇シンジのことより惣流アスカのことの方が詳しい彼には意外であった。
なかなか難しいトコだな・・・・・・・・。
ここまで、なかなかのバランスを保ってきていたのだから、目的地に着くまでそれでやっていきたい加持ソウジである。
微妙に微妙すぎる中学2年生、14歳を連れた、この外護者役としては、葛城ミサトがこの少女に何をやらせたいのかいまいち分からないので苦労する。
自らしょいこんだ苦労ではあるが・・・・・・。
相手は子供。つい安心して、ふと目を離すとばらばらに散らばっていました、なんてことがあるから怖い。
赤ん坊なら積み木を崩すか紙をびりびり破くか程度だが、この年齢ともなると、扱って遊ぶのは各々の、心、だ。
加持ソウジのような人間から見てみると、レゴのブロックのように、扱いが乱雑ですぐにばらけてしまう。すぐに気の向くままに組み上げられるという利点もあるが・・・。
この過程を経て、人は大人になるのだ・・・・・などというほど立派な人間ではない加持ソウジだが、親でも教師でもないのにそう言う点に留意しなければならぬのだから、内心で無精ひげをなでるのも無理はなかった。

アスカをシンジ君に会わすべきか会わさざるべきか

薄情なようだが、こんな時間にわざわざアスカが碇シンジ君に用があるなどとは、雑談の類ではありえない。その目もある種の決意がある。
何を言い出すのか分かったものではない。
予測不可、その判断が下される。対応するには情報不足、根拠に足らず。
安全な任務遂行のためには・・・・・会わせるべきではない。

だが・・・・・・・・・・。
それならば惣流アスカを連れてきた意味がない。すでに橋は渡ってしまった。
なにを望むのか、分からないが・・・・。

無精ひげのわりにはいろいろと神経を使う加持ソウジ。
そのうちはげてくるかもしれない。

「部屋にいないとなれば、多分、風呂だろう」
「風呂・・・・・・」

周りの人間はこうしていろいろと考えているのに、一人のんきに風呂に入っているとは・・・・・と思われてしまう、真面目に悩んで風呂に入る、と言う行為が思い浮かばない恐るべき空間。それが風呂。そこにいる人間は、なぜか幸せそうに見えてしまうのだ。
ただし、それは湯船に限るのであったが。

こういう点を鑑みると、碇シンジと惣流アスカの星の巡り合わせは良くないかも知れない






くるくる。
巻かれる絆創膏。右手の親指に。
「なんとか・・・・やったか・・・」
化粧室で鏡の自分に問いかける葛城ミサト。
しかし、そこには奇跡に祝福された者の笑みはなかった。

自嘲の笑み

鏡はそれを浮かべて葛城ミサトを見返していた。
これで終わったわけではない。それどころか本当の勝負はこれからなのだ。
ここまでは自分が奮闘すればよかった。へたろうがくたばろうがそれは自分の器量。
負けたとしても笑って撃沈していけただろう。
だが、ここからは・・・・・・自分の手の届かない領域。
すでに行き過ぎた先。おそらくは何者も手出しは出来ない。
神様さえも。
もちろん、サイコロの神様をだまくらかした葛城ミサトにも。

自分が今までどういうことをやらかしてきたか、よく分かっている。
要するに、「惣流アスカ復調」の手形を乱発してきたのだ。
しかも、空手形に成る可能性が非常に高いそれを。

ギルガメッシュまでやってきて話をつけ、それでアスカがこけたままなら恥ではすまない。冗談抜きでハラキリものだ。

なぜ、そこまでやるのか。

外側からの問いならば、いくらでも答えられる。支部長とのやり取りのように。
実際、インチキでもなんでもなく、葛城式カンピューターには納得できる答えを弾きだしているし、作戦部長としての判断も、いささか葛城色が入っているとはいえ、賛成しているのだ。葛城ミサトの、29年の歳月に培われた「常識」もアスカ復活を八割方、予想している。ひ弱な見立て同情は掛け金どころかテラ銭にもならないのだ。

だがなぜ、自嘲の笑みが浮かぶのか。

それは・・・・・葛城ミサトのせ・・
「電気が暗いからかしらねー、なんか鏡映りが悪いわ」
にかっと笑う葛城ミサト。万華鏡より現金な変わり様だった。
先ほどの様子はすでに欠片もなし。
「せっかくの美人が台無しだわん。あんたもこんな美人、映すこたあもーないでしょうからしっかり映しなさいよ」
白雪姫よりはいじわるな継母女王に・・・・こころもち近い・・・・どちらかといえば・・・・近い、言いぐさであった。





マイスター・カウフマンの部屋。
惣流アスカ召還の取り消しの正式書類に羽ペンでサインをしている片目の老人。
わずかな高揚とともにそれを見ている葛城ミサト。
ここでインチキをかますせこい相手ではないからひとまず安心はしていられる。
そして、ぐだぐだと時間をとられずに済んで良かった。
16時間はぶっとおしの論議を覚悟していたが、勝ってしまえばサイコロで決めるというのは時間が節約できて良かった良かった。文句の出しようもないし。
それにくらべれば親指のことなど代償とも言えぬ。
サインが終わった。
ほれ、とばかりに渡される書類。受け取る葛城ミサト。
弟子に渡した買い物メモより無造作に終わる瞬間。
そのまま自分の作業に戻ってしまう片目の老人。一言もない。
無言で消えることを要求しているのだろうか。いや、またも視界に入っていないのだ。
用がすんだならさっさと立ち去るのが当然。それがこの老人の自然。
葛城ミサトも早々に立ち去るのは当然。とりあえずの成果を収め、話すこともない。
話したところでどうにもならない。分かり合う気もないのだから。
自分はネルフに戻り、ギルはギルのままで続いていく。
二度と直接、こうして対面することはあるまい。ここに入ることも。
それゆえに今、問わなければ解けない疑問がある。

一度、この扉を出る前には老人が問うた。
最後にこの扉を出る時には彼女が問うた。

「なぜ、賽子だったんですか」

片目の老人の答えはない。聞こえていないように見える。作業の手は止まらない。
沈黙が答えになる時もあるが、この場合はそうではなかった。
また、それが可能なほど葛城ミサトは老人のことを知っているわけでもない。
一方、老人、マイスター・カウフマンの方は葛城ミサトの問いの意味を完全に捉えていた。不公平といえば不公平だが、年輪と立場が違うのだ。

葛城ミサトもそろそろ気づき始めていた。

「HALS UND BEINBRUCH」

帰れ、ということか。答える気はないらしい。暗に脅しているのかもしれないが。


「マイスターのご即断に、ハウスマイスターの案内等々、ギルの対応に感謝いたします。それでは」
一礼して退出しようとする葛城ミサト。
しかし、その背に意外なことに声がかけられた。その内容はさらに意外。

「ハウスマイスターなどギルにはおらん」

「え・・・・・」







「ふ、ふーーーううう」
浴衣に着替えて赤い顔した碇シンジであった。湯当たりする直前に意識を取り戻し、危ういところで風呂場から脱出した。しかし、火照った体はなかなかその熱さを下げようとはしない。年中夏の気候では湯冷めというのはあまりないが、こういう場合に困る。
未だに足もふらつくので、部屋に戻らずこうして夜風のある裏手廊下で涼んでいた。
日本庭園のまねごとのような景色がある。
一応、サンダルが用意されてあり、見て回れるようになっている。
すでに月がでている。風があるのか雲が早い。
早く寝て疲れをとっておこう、と思いながらも、わずかに興奮があるのか、それとも月に誘われたか、つと、足がでた。
自動販売機で買ったソーダ棒をさげて、月影のもとふらつく碇シンジ。
箱庭のような小ささだが、涼みならばちょうどよい。
「ふう・・・・・・」
山の夜風が火照った体をとおりぬけてゆく。
ぱりぱり。ソーダ棒の袋をあける。もちろんゴミを捨てるなどという無粋なまねはしない少年である。帯に器用に結んでおく。
月を見上げながらソーダ棒を愛でようとしたその時である。


「アンタ、こんなトコでなにしてんのよ」
廊下の方から呆れと苛立ちを微妙にいりまぜた惣流アスカの声。
「あ、惣・・・・じゃない、アスカこそ・・・・」
「こっちの質問に先に答えなさいよ」
つとっ、と惣流アスカもサンダルつっかけた。
「ただ・・・・涼みに・・・・」
なんで惣流さんがここにいるんだろう。まさか自分を捜しに来たなどと夢にも思わない。「風呂場はもう仕舞ってるのに部屋には戻ってないし、どこほっつき歩いてるのかと思えば・・・・」
「・・・・・・探しにきてくれたの?」
言われてみれば、かなりの長風呂だったわけだしその上部屋に戻っていないとなれば、案内役の加持さんは心配するかも知れない。早く休むように、と言われているわけだし。


「ちょっと話があるのよ」

碇シンジの問いかけは、硬く高い音をたてて跳ね返される。
少女の表情は相手を一歩ひかせるほどに硬く、真剣だった。
好戦的で活発ではあるけれど年相応の女の子の顔から急に硬い顔に変わったので碇シンジは驚いた。なんだか知らないが真面目な話らしい。
のんびり涼みでソーダ棒をなめている場合ではなくなった。





築山のそばの石縁台に二人並んで座っていた。
辺りには誰もおらず、少年と少女の二人だけ。
遠くからその後ろ姿だけ見て、もしかするとどこかの紳士のようにこの二人の仲を誤解する者もいたかも知れないが、前にまわってみれば決してそんなことはないと分かるはず。難しい顔でソーダ棒をなめている少女とおずおずとしながらも首をかしげるような表情の少年。どちらも無言で一切の会話はなかった。

うーん・・・・なんなんだろう・・・・・惣流さんの話って・・・・・。
そう思うのなら早々に口を開いて問いただせばいいものを、先ほど見せたあの、硬い表情が少年にそれをさせなかっった。と言う以上に碇シンジの気性がそうなのだが。
言い出しにくい話なんだろうか・・・・とただ気を揉んでいた。
これまで同道はしたものの、何しに行くのか未だに分からない知らないのである。
ネルフの関係者であることは確かだし、「なにか」あるのだろうとは思っていた。
下手に相手に口をひらかせて傷つけてしまうなどとは綾波レイのことでさんざん懲りている碇シンジであった。
ソーダ棒は取り上げられてしまったが、それについてはさほど気にしていない。


話がある、と言っておきながら未だにそこに入れない惣流アスカ。
なにから伝えればいいのか、分からないままに時間は流れていく。
別に愛の告白ってわけでもあるまいし、最初から初めて最後でやめればいい。
それは分かっているのだが、いざこうして二人きりになってみると、どうも巧い切り出しが出てこない。
自分のことから始めるべきか、それともミサトのことから始めるべきか。
はたまたエヴァのことから始めるべきか。
何か向こうから焦れて聞いてくれればそこから始められるのだが、一向にその様子もなく完全に受け身にまわって聞きに入っている。
なにも聞いてこない、というのがこれまた不気味でもあった。
普通(自分は)、ここまで間が空けばなんか聞いてくるもんでしょうに。
三つのことを同時に始められればいいのだが、言語はそれほど便利には出来ていない。
「はくしょん」

くしゃみをする碇シンジ。さすがに体の火照りもとれてきた。しかも浴衣だ。
それにいささか焦りを感じてくる惣流アスカ。
ここで風邪でもひかれた日にはかなわない。しかし、これで何も話さなければ自分は相当へんなやつだ。自分でもそう思う。
同時に、これでも苛ついた様子をみせないのだから碇シンジの方もかなりのものだ。
シンジのシンは辛抱のシン、と言っても過言ではない。



「・・・・アスカ」
が、さすがのおシンも辛抱きれたらしい。口を開いた。
もう、帰るよ。そう言うだろう、と惣流アスカは思った。自分ならとっくに帰っている。
「寒くない?」
ぽうっとそんなことを聞いてくる。確かに惣流アスカのために聞いたのだ。
「え」
「・・・・・なんだかよく分からないけど、言いにくい話だったら、今日でなくても・・・・また、惣流さんのいいときにでも・・・調子悪いみたいだし、風邪ひくんじゃないかな・・・・」
惣流アスカに関しては、ほんとによく分からない碇シンジだが、ただ、薬を手渡したことだけはよく知っている。立場というものを知らないだけに、風邪引かれてかなわない、とは思わないが、調子を崩して気の毒だなあ、とは思うのだった。
とつとつと言葉を選んでいるようだが、惣流さんなどと言ってしまうあたりが抜けている。「そ、そうね。・・・・アンタも湯冷めしそうだし。今日のところはこのへんでカンベンしてあげるわ」
意外な反応に、焦りは滑りに変化して惣流アスカをへんなやつの王道を進ませる。
しかし、惣流アスカの礼装のイメージがある碇シンジは幸いなことにそうは思わず、日本語の間違いかなあ、などと聞いていた。
二人は、裏手廊下に戻ってサンダルをぬいだ。


それから、さすがに部屋に戻ろうとした途中の階段。
ふと、碇シンジがこんなことを言い出した。


「そういえば、明日は惣流さんはどうするの?別行動になるね」

「アスカって呼べって言ってる・・・・・って、今なんて言った?!」
先ゆく惣流アスカは振り返りざま、相手の言葉の最後にすぐさま反応した。
その鋭さにまたまた驚く碇シンジ。ひどく当然のことを言っただけなのに・・・・。
「え・・・・・別行動になるって・・・・」
「なんでそうなるのよ!」
ただ単に直属の上司の命令がアバウトなだけだったのだが、とりあえず問いつめる相手は目の前にいる。だが、碇シンジにしても、
「いや・・・だって惣流さんが来ても意味がないし・・・・・」
こればかりは譲れぬ程に迷惑であった。正直なところだが、言いようがまずかった。
「意味がないってえのは、どういうことよっ!」
電光石火の早業で碇シンジの胸ぐらをつかむ惣流アスカ。怒鳴り声を叩きつける。
「離してよ・・・・・」
「その前に意味がないってえのはどういうことか、説明しなさいよ!」


言葉というのは厄介なものだ。ささいな取り違えにすぎぬのに・・・・・。
さほど碇シンジのことを知らない惣流アスカは自分の裁量で言葉を、その裏にあるものを判断した。判断材料などほとんどないというのに。感情のみで。


イミガナイ

碇シンジの方も惣流アスカのことをもう少し知っていればこのような言葉は使わなかったに違いない。ことがことなだけに先ほどの注意を払わなかった。
だが、同時にことがことなだけに、少年はいつもの少年ではなかった。
「意味がないから意味がないって言ったんだ!これでいいだろ」
意外なほどの乱暴で少女の手を振り払ってしまう。
他のことなら黙りもしようが、せっかくここまで来て、自分の目的にわけの分からないケチをつけてくる少女を許せなかった。

もっと端的に言うならば・・・・・・・邪魔されたくなかった。


もう少し柔らかい、分かりやすい言葉で語るなら、このようなことにはならなかっただろうが、いちど口から出た言葉は取り消せない。
お互いを知らずに言葉をかわすというのはかくも危険を孕んでいる。
だから細心の注意が必要なのだが、慣れてしまうとそのようなことは忘れてしまう。


加持ソウジの恐れていたことはまさしくこのことだった。
いくら碇シンジが柔らかすぎる人当たりをもっていようが、人間であるかぎりどこまでも柔らかいなどというのはありえない。柔らかければ柔らかいほどにその内に鋭く硬い棘のようなものを秘めている。しかも、そういう秘められた棘は、普段隠された憂さを払うが如く使われる時は遠慮なく相手の急所深く突き刺して抜けることがない。
分かりやすく言えば、喧嘩慣れしていないせいで相手がくたばるまでやってしまう、ということだ。









「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」








無言のまま睨み合う二人。だが、惣流アスカの方が圧されていた。
感情が噴きこぼれるようにして手を出してしまったが、本来、そんなことを言われても無視すべきことなのだ。そう、確かにアンタに意味はあってもアタシにとっては意味はない。言うとおりだわ。そんなことは分かっていたことだ。怒る方がどうかしている。

それ以上に、碇シンジの眼がある。

碇司令とおんなじ眼だ。それは思い起こさせるというレベルではない。そのものだ。
人を人とも思わない、無機の王の眼差し。


惣流アスカは耐えきれず、階段を駆け登っていった。


完全にふいをつかれた形になった加持ソウジ。
そろそろ様子でも見に行ってみるか、と部屋を出たところ、その前を顔を伏せたまま駆け抜けて自分の部屋に飛び込む惣流アスカ。
乱暴にドアを閉める音がひどく鼓膜に痛かった。
そのあとに、幽鬼の如くのろのろと階段を上がってくる碇シンジ。

何があったのか聞く気にもなれない。二人とも尋常な様子ではない。
頭の中でレゴブロックが崩れる音が聞こえた。
声のかけようもなく、碇シンジの部屋のドアも閉じられる。

「まいったな、これは・・・・・・」
やはり不安定なものはいつしか崩れるものなのか。
無精ひげをなでるだけでは足りず。頭もボリボリとかいてしまう。
「こいつは失敗したか・・・・・・」
さしもの彼も、朝を迎えるのが億劫になってきた。
最低最悪のコンディションでいくことになりそうだ。








ネルフ本部 第二実験場

四号機連動実験中

「起動自体に問題はなし・・・・・・」
エヴァンゲリオン起動システム、別名09システムが問題なく動いていること自体、目出度いほどのことなのだが、責任者の赤木博士の声は浮かない。
「調子はどう?渚君」
パイロットに尋ねがらも、その視線は四号機の色違いの第三眼にある。
それは義眼。
人間には二つしか目玉はついていないが、この四号機には元来三つの目玉がある。
それは兵器としてではない、戦闘用ではないエヴァたる証にして源・・・・・。
それを奪い取られたまま立ちつくす白い巨人。
それに乗るフィフス・チルドレン、渚カヲル。

「もっと、光を・・・・・なんて言いたいところですか」
表情は相変わらず、薄く笑みを浮かべたままなのだが、どこか声に陰がある。
赤木博士にはそれが分かった。
だが、計測室にいる者たちは、安定して高いシンクロ率を示し、しかも例の必殺技がある渚カヲルに感嘆していた。なにせ09システムだ。動かなくとも文句はいえないような代物を易々動かしてみせるこの少年にある種の信仰を感じ始めてさえいた。
それは同時に強い不安の裏返しでもある。

このところ、暗い話が多い。
JAに負けるわ、JAが使徒を倒すわ、セカンド・チルドレン惣流アスカは弐号機とシンクロ出来なくなるわ、葛城一尉はクビがやばそうだわ、初号機は未だ戻らないわ、・・・・・・・・・・・そして何より。
初号機の左腕。


あれを思い出すだけで一気に気分が暗闇の底に落ち込むという者は多い。
薄情な言い分だが、優秀なネルフのスタッフは気づいているからそう思うのだ。
その闇の中で赤と白の輝きを見せる渚カヲルはいわば希望の星のようなものだった。
本人が望まないにしても・・・・。


「・・・・・・・・」
無言のまま綾波レイが四号機を見ていた。
片目が足りないのは少女の零号機も同じ。

「お疲れさま、あがって頂戴」
実験終了。渚カヲルはいつも通りだ。赤木博士がこの期に及んで言うことはさしてない。
ある意味、渚カヲルの方がエヴァ四号機については詳しいのだ。
もしなにか言うにしてもそれは家に帰ってからだった。
スタッフの精神状態のこともあるが、なにより自分が言い出せない。
明晰で鋭すぎる自分の言葉。それは高速で走る自動車に似ている。誰もいない直線ならば速度を落とさぬままに走っていってしまうが、カーブがあれば速度も落ちる。
そのカーブのような相方が不在の今、事実を述べるべきではない。志気に関わる。
ここは実験場ではあるが、別に学問の真実を追い求める場所ではない。
使徒に勝つために全てがある。空間も、時間も。
そう言う意味で、ここは人類の砦、つまりは陣中なのだ。
陣中にはやはりそれなりの人間がいる。
豪傑。
楽天家にして勝利を招き、人のふいごをたてて、種族の重いひき臼を静かに回す者。
そんなのは赤木リツコは知らないが、りんりんと笑う葛城ミサトは知っている。

要するに、どうもいないと調子が狂うな、ということである。
やばいことを言うにしても状況というものがあるわね・・・・ということで赤木博士は、渚カヲルから聞いた四号機のやばいことを語ることをしなかった。






迎えの車がやってきた。表情を出すことは仕事柄禁止されているのだろうが、もしだせるとなれば幽霊を見るような顔をしただろうか。
それに関してとくにおかしみを感じることもなく、葛城ミサトは後部席に乗り込む。
バタン
後部ドアが閉じられると、案内の黒服の男が恭しく一礼した。
車が出る。

窓の外見る厳しい顔。どうせ外は夜闇、何も見えはしない。
迎えの護衛者たちにも人間としての最低限度の好奇心というものはある。
言ってみれば死の淵から生還したようなもので、自分たちが再び呼ばれるとは思っていなかったのだ。
この、ネルフ本部作戦部長カツラギ ミサトに。
まるで疲れた様子も見せず、これからさらなる争いの場に向かうかのような張りつめた表情。日本人はいつも薄ら笑いを浮かべているというが彼女を見る限りとんでもない。
それらの連中ひっくるめても、おつりがくるほどの厳しさがある。
一仕事終えたというのにまるでそんな様子は感じられない。

実際、葛城ミサトの心境はそれどころではなかった。
どうも狐で造られた詐欺の大がかりな組織に包まれ騙されたような、そんな感じ。
惣流アスカの召還取り消しを手に入れたものの、安心できない。
29女が正気かと思うが、サインの入った書類も本物かどうか心配になってきた。
あれは魔法でつくられた霧の城かなんかだったんじゃないだろうか。
・・・・・現代科学の粋をこらして造られたエヴァンゲリオンを指揮する人間の考えることではないだろうが、そんな気がしてくる。
こいつらもほんとにドイツ支部の人間なんでしょうね・・・・

「ハウスマイスターなどギルにはおらん」

あの一言で惑いが始まった。それを断ち切る答えなど当然なく。
だが、ハウスマイスターと名乗る、ヘドバ伊藤とかいう怪しの人物と自分は確かに話していた。アスカの部屋まで案内させた。あの、断離のための時計塔に。
それから「記念」までもらっている。懐に現としてある。幻ではない。

なら、嘘か。

マイスター・カウフマンが嘘をつく必要があるとは思えない。あの状況で。
葛城ミサトは酔ってきた。
ドイツ幻想現実酔い。
薄暗い支部長室の赤い瞳、人知れずある山の中の学校、ドワーフ岩のような人物、魔女のような「古風炊飯器」、時計塔のセカンド・チルドレン、藁束かかしのような会議室の者
・・・・・・・・・・・

そういえば、子供の姿を見ていない。声も聞こえない。
ここはギルガメッシュ機関。エヴァンゲリオンのパイロットを養成育成する教育施設。
なのに、子供の姿を見ていない。声も聞こえない。
惑いはそのせいかもしれない。


その時、目の片隅にある光景がかすめた。
「止めて」
瞬時に走り去るはずのそれをとらえられたのは、目の良さというより、厳しい顔で深く気にとめていたからだろう。
その言葉にすぐさま反応できた護衛の者たちも見事。これはほんとにネルフ・ドイツ支部の人間だ。そうでなければ無視していたかこれほど早くは反応できまい。
「なんですか」
彼らはカツラギミサトが軍人であることを知っている。危険に関して敏感な。
「あ・・・いえ、個人的なことです」
葛城ミサトにもうまく説明できない。後部ドアを開けて、外に出た。
護衛たちもそれに従い壁になるようにしようとしたが、かるく、制せられた。

もう雨は止んでいる。
葛城ミサトの視線の先には、オレンジの明かりに浮かび上がる広場があった。
そこに一列に居並ぶ子供たち。

おそらくはなんらかの訓練か。それとも祈りでもささげているか。 なにをやっているか、とかどういう表情をしているか、とかはさすがにそこからでは分からない。それに葛城ミサトはさして興味もない。見る気になればオペラグラスくらいはある。作戦家の必需品であるし。だが、見ない。
ならば何故止めたか。理由はある。

錯覚なのは分かっていた。しかし、一瞬そう見えたのだ。列に並ぶ子供たちが・・・・・。

合わせ鏡のように果てなく続く、百人のアスカに


しばらく、それを見ていた。
護衛の者も、わずかに、仕事の枠からしみでる最低限の量の、怪訝の表情をしていた。

「そうか・・・・」
背を向けているため、どんな表情でいるのかは分からないがその声を聞いた。
ただ、先ほどの厳しい顔でいったのではないことは分かる。
振り向く葛城ミサト。
「そのためにか・・・・」
なにやら一人で納得している。護衛たちも、仕事でさえなかったらぜひとも聞いてみたいようなカオをしている。先の厳しい顔とは同じ高さにての好一対。そんな顔をしている。他人から見ればなんのことだがさっぱり分からないセリフに変わり様だが、それはあくまで葛城ミサトの心の中にあるものだから、わからなくても仕方がない。
大体これは論理で導いたものではなかった。ゆえに推理のしようもない。
護衛たちには手も足も出ない領域であった。

だが、本人の心の中、つまり葛城式カンピューターは今現在苦しんでいる厄介な問題に対しての最終定理をこれで導き出した。
「埋められたのね・・・・・・そこから」 なにやらぶっそうなことを呟く。

バタン
後部ドアが閉じる。そして車は走り出すのだが、葛城ミサトの目は閉じられた。
早い話が居眠りし始めた。そして、車がギルの勢力圏を抜け、ネルフ・ドイツ支部に着くまで薄目を開けることさえなかった。

そして、葛城ミサト、帰国。








「アタシ、帰る・・」
次の朝のことである。朝食を摂るよりも早くあの礼服を着た惣流アスカが鞄をもって加持ソウジの部屋の前にたっていた。
寝ていないのだろうがそれ以上に目が赤い。まわりが腫れている。
赤い花が萎れたようだ。声にも力がない。かすれており、顔もあげようとしなかった。
後ろに隠した手にはおそらく、似合わない白い手袋がはめられている。
加持ソウジほどに口と頭が回る男でもこの姿を見て、一瞬言葉が出なかった。