見事な逃げっぷりであった。
 
 
もし後年、碇シンジがどこぞの国の総統閣下にでもおさまってクーデターもなく穏当にその座から退いてスイスあたりの山荘でのんびり回顧録でも書くようになり、そのタイトルが「我が逃走」だったとしても、その劇的な少年期における山場の見せシーンに十分なるであろう逃げっぷりであった。まあ、その他のタイトルであったりしたら隠匿なり忘却されるところであろうが。
 
 
だが、その行動の技術ないし速度、スキルの異常な見事さはともかくとして
謎や危険に立ち向かわずそこから逃げるという行為の「男としてどうであろうか」的疑問の発露もとにかく
 
 
その逃走にはあまり「意味」はなかった。
これだけ鮮やかに逃げ延びたものの、なかったのだ。
 
 
いくら逃げようと白い仮面の貼り付いた(左腕)は当然のことながら自分とともに移動して常に共にあり、銀鉄旅路の果ての果て、行き着き先の光馬天使駅。そこからの光馬天主堂、黙示録の獣じみた体勢で待ち受けるフォースチルドレン。転がるふたつの首。それから・・・・それから・・・・・それから・・・・「昔昔昔」・・・・・目覚めた座敷に内から食い破られたトランクに散乱する鉱石片方だけ消えかける蛍光灯畳の感触海の匂い
 
 
知らぬ異郷
 
 
入りては従わねばならぬルールとて知らぬよーな異郷である。日本語さえ通じればいいという問題ではなく。どうも何かが違う。潮の香りまじりの空気が海に帰りたい生物の根源的郷愁を誘っているとかということではなく。人里離れた山のように。人の理など情の流れなど一切考慮しない、押し寄せるような凝縮された気が。背景がのっぺりと人の行動に従う都会と異なり各の存在を確かに主張する・・・・モノには魂が宿る・・・・お題目ではなく実感としてそれが肌でわかる。自分たちがこういったカタチをしたいからこうしている・・・・逃走途中の電信柱や石の階段や看板、自販機や街路灯、10円をいれれば背にのせて空を飛んで(いる気分にして)くれる白いお化けの遊具ですらも・・・・のうのうとそう言ってのけているようで、どうにも空気が濃い。お寺はけっこうあるのだが霊気、というのもまた違う。清い空気にしかすまない仙女などでは血を吐いてしまいそうな。
 
 
王権に浴さぬ
 
 
土地柄、といえばいいのか。碇シンジのカンはあたっている。「田舎だなー」と一言で片付けてしまわないあたり、単なるシチーボーイとはひとあじ違う。耳もすませていないので、カントリーロードを歌い出してもしまわない。そんな余裕もないが。
ちなみに24時間営業のコンビニなどはなく、深夜の人通りはない。車も通らない。
治安はどうなっているのであろうか。第三新東京市と比べても仕方なかろうがそれとも
白目も黒目になっている吸血鬼にでも支配されているんじゃなかろうかこの街は。
マンガは日向マコトに借りてけっこう読んでいるが、そうなると日本全国の田舎はすでに吸血鬼の手におちた魔境ということになるのでそれだけで判断したりしない。
そんな余裕もないが。
 
 
どこに逃げているのか
 
自分でもよく分かっていない。どう逃げればいいのか分からないのだから無理からぬ。
それでいて冷静さを失っているわけでもないのは、つっきる途中の文学こみち公園のゴミ箱から綺麗な紙袋とビニール手提げ袋を拾ってきてそれでもって左腕をくるみ隠していることでわかる。
それから隠れ場所の王道、公衆トイレに入り込んで「そうだ、連絡をしなきゃ連絡。ここは助けを求めるところだ」と思い出し「圏外になってたり謎の電波妨害されたりするのがパターンかもしれないけど、ここは意表をついて!」携帯電話を取り出す碇シンジ。
が。
 
 
「・・・・・なんだこりゃ」
 
取り出されたのは奇態な代物。縦中央から左半分がいつものネルフ特製携帯電話。これはいい。しかし。右半分がなぜかトランシーバーになっている。こんな人造人間キカイダー的レトロデザインに変えた覚えはない。さすがにムカっときてハカイダーにしてやろうかと思ったが踏みとどまる。なにかこれは今の現状の謎を解く鍵になるかもしれない・・・・そう考えたからだ。それなりに我慢をきかせて理性的ではあったが、原因は他にあり以前この携帯をいじったバルディエル誘導体が半裂きにしてやられたからその影響であった。もはやただの見た目が面白いだけの通信機能のないただのオモチャであった。
 
 
「・・・・こんなにつっつかなくても。突きすぎだよ・・・・」
 
切なくつぶやく碇シンジ。そんなにも切ない顔をしてもどうにかしてくれる人もおらず、状況は変わらない。さっきのところに戻ろうかな、などと考え始める。逃げながら。
 
 
自分はなぜここにいるのか
なぜ逃げなくてはいけないのか
自分が居るべき場所はどこか
 
 
それらの疑問を解いてからそうせねば、これまで使ったカロリーが無駄になる。
逃げても逃げても疲れは感じず、体はほんとうに軽かったが、それは不思議なほどに。
それでも、
 
 
「・・・・・・ちょっと、落ち着いて考えてみよう」
 
どう見てもマスコットキャラにはなりえない面構えの左腕白面に語りかける気にもなれず「僕は魔法少女じゃないし」己ひとりの沈思黙考を選ぶ碇シンジ。我ながらウィズダムキャラクターだなあ、と誰にもつっこまれないのをいいことにパワーキャラの極みであるくせに自讃する。「それにはまず追っ手のかかりそうもない意表を突いた裏をかく落ち着いた空間を確保する必要があるな・・・・・・」さすがに公衆トイレの中で今後のことを考えたりするのは切なすぎた。しかもそこで発見などされた日には。もう浮かび上がれないであろう。いろんな意味で。
 
 
そこで、すいすいすいと。
そんな都合の良い空間のありかを嗅ぎつける碇シンジ。
 
 
閃光寺遊園地・観覧車
のゴンドラ内。
 
 
なんでこんな場所を選んだかというと、しんこうべに侵入した時の同行者のひとり、六分儀ユトに聞いた経験談による。夜中の遊園地の入り込み方から気付かれぬ潜み方から始まりそこで逢い引きの相手と何をどうしたか、というところになると綾波チンが騒ぎ出してよく分からなくなったが、どうせ今回は逢い引きの相手などいないから関係ない。そこから先が肝心なのに・・・と臍を噛むようなことにはなりそうもないからとっても安心。
遊園地といっても田舎に一店しかないレンタルビデオ屋の品揃えのごとく、なんともやる気のないしょぼさであり、珍獣猛獣は居ない動物園もかねているそのダブルのしょぼさがなんともいえず安心感を醸し出していた。通常の利用客はどうか分からないが、今の碇シンジにとっては。最新鋭の遊戯施設ともなればそれなりの警戒システムをつけてあるのであろうし。おまけに、まともに使えるのが右腕一本ときてはユトの話のように簡単にいくまい。切符売り場や簡易食堂が「無銭遊戯は死の遊戯」などと墨でくろぐろとかいてある賽銭箱がおいてあるだけになっているのは多少驚いたが。良心市、とはちょっと違うか。
 
 
それはともかく。
 
 
 
「ここなら見つかる心配もなく落ち着いて考えられるな」
 
 
一息ついたところで
 
 
こんこん
 
 
「あ・・・ら」
 
ゴンドラの扉がノックされる。
 
懐中電灯を点けてのぞきこむ、なぜか小坊主。丸い頭がたぶん青々。
右目がまるまる白目になっており、左目がまるまる黒目になっている。いらぬ寄り道をせずまっすぐ定石のように移動してこられたゆえに動きを封じられた。この夜中、きちんとまっすぐここにやってきたというのは逆に見えているのかいないのか。とにかく、度胸はある。背丈からすると小学生くらいであろうに。
 
 
「あ・・・ごめんなさい。勝手に入り込んで。ちょっと持病があって風の当たらないところに座らせてもらいたくて。あ、賽銭箱とかはいじってませんよ?」
 
明らかに年下であるが仏に仕える小坊主ルックのせいかその目のせいかそれともどう弁解しても怪しすぎる自分の立場のせいか、相手に尋常ならぬ貫禄を感じて敬語になる碇シンジ。ここで開き直ったり逆ギレしたりしないのはいいところである。救われてもよい。
ただし仏の慈悲あらば。
 
 
「”お札”をもっていないのですか」
 
 
小坊主はまずそんなことを尋ねてきたが、「へ?」碇シンジはまともに返答できない。
もっとほかのことを時刻のこととかこちらの素性とかこの片腕のこととかを想定問答していたせいもある。お札と聞いてチケットのことを連想するには小坊主の目は怖すぎた。
もっと徹底的なことを。「もっていません」などと答えたりした日にはとんでもないことになることを。絶対的なルールのことを。問うている。その声の底に沈ませている。
 
返答作成のための時間は短い。最悪の返答を避けるためにそれを予想するべきか、それともこの場を一気に切り抜けられる最速の答えをでっちあげるべきか。即、決断。
 
 
「あ・・実は」
決断すると、我ながら感心するほどスペシャルナイスな言い訳が閃いてこの小坊主に返答しようとしたところで
「ちーん。制限時間切れです。残念でした」無慈悲なタイムアップ。しかも鬼のように早かった。碇ゲンドウでさえもうちょっと余裕をくれたであろう。
 
まるで救いになっていないが、ちーん、という鐘の声まねが異常にうまかった。
 
「早いよ!今の早いよ!」碇シンジの抗議も無視。あんな見事な言い訳はもう今世紀中には作り出せないであろう。それほどの一品であったのに。それをあっさり殺されては!
 
 
「そうすると、”福音丸”様がもうすぐこちらに来られますので、大人しく追従されて渡海なさってください。くれぐれも暴れて抵抗なさったりしないように。福音丸様が捕らえやすいように、もう少しひらけた場所に・・・そうですね、あのポニー牧場の真ん中とか」
 
 
仏に仕える身のくせに蜘蛛の糸をちょん切ってまわる役所の人間のような処理速度であった。このスピードマスターの小坊主が、因島(いんのしま)ゼーロ。
 
 
記念すべき竜尾道住人との初の会話が謎の美少女などではなく、この小坊主であったことがこの先の碇シンジの運命を指し示している・・・かどうかは、ゴッドもご存じではない。