暑い
暑い
暑い
 
なぜか暑い。目が開いていて意識があればなぜ暑いかはすぐ分かる。頭は未だ何だか明瞭しない。温度感知は皮膚感覚の仕事であろうとも。そういうものである。何故か分からない、ということは目が閉じていて意識もないのであろう・・・・・・ああ、僕は寝ているのか・・・・こんなに暑いということはクーラーが切れたか、寝過ごしてもう日が昇ってしまったか・・・・年中夏の日本の暑さよ・・・
 
 
 
風を感じて涼しさを感じたのは、かなり汗をかいているためだろうか。
 
 
 
目覚めると、父の顔があった。
 
 
最初、眼鏡がないのでどこの痩せゴリラかと思ったが、自分の父親であった。
 
一生にそうそうない大仕事の大儀式の完成を見ることなく途中で拉致されたあげくに運良く逃亡しようとしたらあっさり発見、ギタ☆ズタにされて再捕獲された碇シンジ。
まさに一生の不覚であった。そのトドメとして目覚めて父親の顔。まさにトドメ。
碇シンジの気がもう少し弱ければ、そのまま蝋燭の火が「ふっ」と吹き消されたように死んでいたかもしれない。
 
 
トレードマークの眼鏡がなくしかもネルフの司令服ではなく和風の着流し、これで頭に白く三角の布でもつけていた日には完全にウエルカム永遠の世界である。ふつうはお花畑の向こうから「お前はまだくるなー」と呼びかけたりされるわけだが。
 
 
「起きたか」
 
 
その声とそのまなざし。しっかりと生きている者の声だ。そっけなく陰気だが確かに。
此岸に根ざした者の声。彼岸の果ての果てをこれでもか、と旅してきた少年には分かる。
眼鏡がないのでストレートにその目は意思を伝えてくるはずだが、さすがに目覚めた直後にその奥まで読み取ることは出来なかった。ただでさえ碇シンジなのだし。
 
 
「父さん?」
 
 
おまえはにせものかほんものか、という問いかけではない。なんであんたこんなところにいるんですか、なんで眼鏡かけてないんですか、なんで着物なんですか、ずっとそばにいてくれたわけでもないくせに目覚めた直後のタイミングで顔をみるのはなんでですかという尤もな問いかけを省略しているだけ。言われねばわからん奴には言ってもわからん方式のよくある父子の非論理的コミュニケーションである。和風といえば聞こえはいい。
 
 
ともあれ、起きあがろうとした。父の愛の厚みぶんだけのタオルケットをはねのけて
まだなんとなく力が入らない感じなので腹筋だけでなく、両手を使って。それがまずかったかもしれない。頭と体の感覚はそうしようと計画してコマンド入力したのだが、ある一定のところまで走ってそれはキャンセルされた。
 
左腕。肘のところでそれは終わってしまっている。頭に地図はあるはずなのだが、神経のルートはそこで進入禁止折り返しを余儀なくされて、結果、混乱。
「あれ?」
 
 
上半身を持ち上げる力が分散消失、結果素直に地球の重力に引かれて、墜ちた。
 
 
ごん!!
 
 
木床に後頭部がぶつかるたいそういい音。それを片手で受け支える反射神経も腕力もあるくせに父親の碇ゲンドウはその瞬間を黙って見守っていた。
 
 
「・・・痛いか」
 
 
後頭部落下がなんらかのスイッチであったかのようになんか全身に痛みが走って無言のまま涙目で転げ回る息子に4文字で声をかける父親。まるで「五文字以上で会話してはいけないルール」でもあるかのように。
 
 
「痛いよ!!なんだこれ・・・体全体が加圧トレーニングでもやりすぎたみたいに・・・いだだだだ(>_<)(>_<)(*^_^*)(*^_^*)(>_<)!!」
 
 
それに対してささやかな復讐のように父親には理解できないであろうヤングな顔文字を使用して泣き叫ぶことにかえておく息子。
 
 
「痛みは生の証だ」
 
 
さすがに、よかったな、とまでは言わず、しばし息子を転がしておく父親。そんな父子の様子をパンチパーマの巨大な影がふくよかなアルカイックスマイルで見下ろしている・・・・・・こう記すとどんな怪人だと思われるかも知れないが、いわゆる仏像、お釈迦様である。自然のままにあるがままに、というわけで文明の冷気に包まれて堕落などしない。
昼の熱気はそのままに。夕方の涼みを楽しもう。そろそろ時刻は昼飯時。
 
 
ここは大林寺の本堂。大林は「おおばやし」と読み、裏手で額にお灸をすえた若い坊さんがアチョーの修行をしていたりはしない。住職はおらず、碇ゲンドウの独り住まいであった。
 
 
 
「その元気ならばもう心配はいらないな」
 
その独り住まいに息子を連れてきた張本人がやってきた。碇シンジもローリングを停止し碇ゲンドウもそちらを振り向く。片目に眼帯、スーツ姿の水上左眼であった。男装ではあるが声で性別は分かる。ほんとうに先ほどまでは心配していたが、たった今この時、心配するのやめた、といったような。その言いぐさの分かりやすさ。単刀直入という4文字熟語が口をきけばまさにこんな声になるのだろうな、と思わせる。
 
 
「左腕以外のダメージはわたしがやったことだ。おそらく混乱していたのだろうな、それとも金銭めあてだったのか知らないが、君が閃光寺の小坊主を襲おうとしたからわたしが水上の抜刀術をもって止めた。小坊主にはケガはなかったし話もつけておいたから襲撃の理由が金銭以外なら気に病むことはない」
 
 
しかも、わしのおかげマイスターみたいな顔してこんなことを言ってきた。一方的に拉致されたあげくに監禁されかけて逃げ出したら腕ずくで連れ戻してきた相手がなんでこんなに恩着せがましいのか・・・・・いくら碇シンジでも怒り出すところであるが、
 
 
「い、いや・・・つい混乱してて・・・・・お金めあてじゃなかったんです」
 
そこらへんがマイスターの力量というか、碇シンジの方がチキン王であるのか答えはこれ。
ベルトから提げられた黒瑠璃に輝く細長いものはおそらく「刀」。おそらく彼女は24時間戦えるサムライであり、逆らうにもそれなりの用意が必要であることを無言で知らせる。
 
 
まだ事情が呑み込めないというのもある。この街においては赤子状態、離乳食でもまだ固いところにいきなり猛毒の大物を喰らったあとでもある。
 
 
「でも、あの小坊主さんは因島ゼーロとか名乗ってましたけど・・・・福音丸様とかいうのは・・・・こっちが襲われたんで、あれは正当防衛というか・・・・」
反撃の言い訳にもキレがない。しかし。
 
 
”福音丸”
 
 
その名が出た途端に片目の女の顔色が変わる。碇ゲンドウも内心、思うところがあっただろうが表には出さない。その変化を敏感にとらえ、というか単にビビったともいえるが
 
 
「いえ、なんでもありません。”お札”を持ってなかった、僕の方にも非はありますし。郷に入っては郷に従え・・・ですよね?」
ちろ、と父親のゲンドウの方を見る。なんかフォローしてよ、という救援サインであるが
 
 
「・・・・・・」ガン無視の父。語りたいことは多いが、口にすべき時ではない。現状況はおそろしく流動的であり、ごうごうと激しく音をたてているのが聞こえる。父子ふたりして渦中にいる。うかつな言動はまさにゲンドウではない。普通の父親ならば「何をどー考えたって悪いのはお前だろう!。息子は何も悪くない!うちの子に限って!!息子イノセント!!」と食ってかかるところだろう。
食ってかかったあげくに逆にまとめて食い殺されるのも知らず。竜の如く。この危険な女に。
それに比べれば息子の恨みなど安いものである。
 
が、あまりちょこざいな言動に出られても困るので、左眼に気付かれぬ極小の信号を送り返す。
 
 
こ・の・女・か・あ・さ・ん・系・ちゅー・い・しろ
 
こ・の・ひ・と・か・あ・さ・ん・系・りょー・かい
 
 
「・・・・・・・うっ・・・ごほごほ・・・・・急に持病のエヴァンゲリストシンクロシバラクシテナカッタ症候群のひとつLCL中毒で肺がっ・・・・ごほごほ・・・・」
 
 
いきなり仮病。あれだけ元気に転げ回っていたくせにここで病弱を装う碇シンジ。
しかし、その演技力のためか、その陰った表情はどうにも母性本能を刺激せずにはいられないものがあり、
 
 
「すでにそこまですすんでいたか・・・・・」
髭の父親が不憫さをあえて押し殺したような深刻さで呟けば、「なんでこんなのにひっかかるのだろうか。カバじゃないの」というほどの緊急仮病ぶりであったが信じるほかない。
まさか、いかにも怪しい左腕の件をほっといてこんなバカな嘘をつく者もいないだろう、との常識的推察もある。
 
 
「どうすればいいのです」
 
「耐えさせるのもひとつの治療だ。ほうっておけ・・・・・話があるのだろう」
「ごほごほごほごほこほこほこほこほこほこほこほこほこほこほこほこおほほのほ」
 
 
「この様子ではまともに話を聞いてはもらえない。他にも落ち着かせる手だてがあるのでしょう。それは?」
「中毒だからな、LCLを微量、与えてやればいい。だがその必要は・・・」
 
 
「すぐに戻ります」
 
あるぞ、とも、ないぞ、とも碇ゲンドウがペロリ〜ンと言葉の次の用意していないことも知らず、水上左眼はその場から消えた。
 
 
「自分で取りに行ったの?あのひと」
あっさり咳き込むのをやめて碇シンジ(ステータス・健康 HPは三分の一)。このままずっと咳き込んで寝込んであとは父親に振ってしまおう知らんぷり、の予定だったので相手の高速ぶりに少々あっけにとられた。
 
「よく、分かったな」
見れば分かることをいちいち頷いたりせず、息子の目のつけどころについて問う父親。少なくとも感心しているように、ましてや誉めとるようには聞こえない。内容をかなり省略高速化処理をしている。腹の底が通じている者なら有効で便利だが、葛城ミサトやらそんなこと知らん部下などそれでかなり往生してきた。ちなみに、省略部分は、”自己紹介もしとらん一方的なあの女が業界関係者(類種・使徒殲滅)だとどうして、”である。
エヴァやLCLのことなど知らぬ相手だとバカにされたのかと逆上させる恐れだってあったわけだ。
こんななんとでもとれるセリフを正確に見抜けるのはよほどのカミソリ頭脳であるか
 
 
「匂いがちがうから」
 
 
人並みはずれた、もしくは化け物じみた感覚があるかのどちらかで、碇シンジはどちらであるか。「エヴァの匂いがする・・・・ネルフのものとは少し違うけど・・・どちらかといえば・・」
感覚のおもむくままに主人公が真実を喝破しようとする前に
 
 
「戻りました」
 
 
水上左眼がもう戻ってきた。白い水筒にはいっているのがそうなのだろう。早すぎる。この寺にはLCLが常時保存されているのかと思ったがそうではないだろう。いくらなんでもそんな寺があってたまるか。映画のセットじゃあるまいし!ちょっとここは言ってやらないといけないよ!なぜか使命感が胸にメラメラと燃え上がる碇シンジ
 
 
「やはり口から?それとも鼻から?」
 
 
すぐに消火された。「いいいぇ!!自分でやりますので、お気遣いなく!」それどころではなかった。もうちょっと遅かったら一瞬でフタがあけらえた水筒の中身が注ぎ込まれていたところだ。水筒を受け取り、嗅いでなめるような真似だけする。食べ終わったポテトチップの袋の匂いを嗅ぐ小学生チックな行動を目撃されたような屈辱感があった・・・
自分でついた嘘ではあるけれど・・・・・・おそらく、このひとは正義の人なのだろう
 
 
「元気が戻ったようでなによりだ・・・・・・それでは、話に入らせてもらおうか」
 
 
つと、正座になる。場の空気を一気に引き締める威力のある座りようであった。荒くれどもを従え恐れさせる山賊や海賊の親玉でもこうはいくまい。腰にある細長いものの先が親子どちらでも狙えるように向けられて、黒船の大砲的に非常に威圧感があった。
 
 
「その前に、あのー・・・・・・お名前をお教え願えませんでしょうか」
もちろん、これは礼儀でありもしくは政治であり、けっして卑屈になっているとかいうわけではない。水上左眼もそれを受けて嘲笑することはない。むしろ・・・
 
 
「・・・・まだ、何も?」
片目が碇ゲンドウを見る。面倒な周辺事情の説明はすでに終わっているものかと思っていたのに、という意を込めて。さらに、あの左腕の件についても事情聴取が終わっているものかと。
 
 
「目覚めたばかりでお前がやって来た。その時間もなかった・・・または、お前がやって来たゆえに目が覚めたのだろう」
 
 
「・・・・なるほど、鎧の都で戦い抜いてきただけのことはある、と。さすが」
何を一人で納得しているのか、碇シンジにしてみれば気味の悪いような笑みを浮かべて名刺ケースを取り出すと
 
「申し遅れたが、わたしはこういうものだ」
名刺を渡してきた。
 
 
”竜尾道首長・水上特殊金属加工海賊会社社長・竜尾道漁業組合副組合長・竜尾道六十六海賊銀行副頭取・竜尾道海賊警察副署長・竜尾道賭博遊興協会副会長・竜尾道観光協会理事・竜尾道文化事業団副団長・竜尾道左学園永久名誉生徒会長・・・・・・”
 
名刺になんかびっちり役職がかいてあるが、肝心要の名前がない。「あ、あの・・」
 
 
「親指でスクロールしてくれれば続きが出る仕組みになっている」
 
「あー、なるほど。これは面白い」言われたとおりにやってみる碇シンジ。
ほんとは面白くなどない。だが顔には出さないのがポイント。役職の中に冗談のように混じっている”海賊”の文字と、やたらに多い”副”の文字。女子高生の遊び名刺のわりには漢字が多すぎる。メジャーなのかマイナーなのかよく分からない。この街を牛耳っている地域のボスにしてはずいぶんと不自由そうな立場である。自分の父親のネルフ総司令、おわり、まる、の方がかなり良さそうだ。
 
 
水上左眼
 
 
それが、このしがらみ雁字搦めであるらしい「・・・サブミッションの女神、というか、関節技のヴィーナスというか・・・・なんて読むんですか?」この男装のシャンの名前。
 
 
読みを聞かれて父親の方を一瞥。”漢字が不自由なんですか”教育面の不備を目で問う。
”氏を漢字で名をカタカナとしたのは私の管轄ではない”鉄面皮で跳ね返す父ゲンドウ。
 
 
「水上は、みずかみ・・・左眼、は・・・サガン、とも、ヒダリメ、とも好きなように呼ぶといい」
まさか本名でもあるまいし、この多すぎる役職同様、本質を隠すための偽名なのだろう。政名というか。だが、あまりにもそのまんますぎやせんか、と思う碇シンジ。
あの眼帯・・・その下に隠されている目。目玉。それに対して初対面の自分がそんなストレートに抉るようなことを言うのは・・・・というわけで
 
 
「じゃあ、ヒメさんで」
 
 
「な・・・・・・・・」
 
 
思いも寄らぬ愛称の製造に、さすがにあっけにとられた水上左眼。ふつう、そこは「水上さん」だろう。呼び捨てでも別にかまわない。実は、姉の右眼が「ウメ」呼ばわりされても自分にはそれがなかったから、たいそういい気分であったのだ。許さないものは断じて許さないこの娘に面と向かって「ヒメ」呼ばわりする人間はこの街にはこれまで存在しなかった。なにせどこから見てもたおやかな被保護のイメージなど微塵も存在しないいかなる時も武装することを忘れない100%の剣士である。守る方であり保護される方ではない。
 
 
たかが、呼び名ひとつのことではあるが「・・・・ななな・・・・・・」
 
 
顔色がかわってゆく。王様の耳はロバの耳どころか、独裁国家で将軍様はブタのヘソ、と叫ぶに等しい自滅度。
 
 
碇ゲンドウにはこの葛藤の内容が分かる。が、息子の対応はそう間違っていない。ただ危険度はそれに準じていても、左眼はユイと違っておおらかさ、というものに欠ける。あれと器の面で比較するのは酷であるが・・・・・・まあ、ちょいとしたピンチだ。
 
 
地雷を踏まない鉄板の碇シンジにして読み間違えた。エヴァとの神経接続のしすぎでやはりどうかなっているのかもしれない。圧倒的な戦力を備えた相手にそういう口をきけるのは。生物として間違っている。「あの・・・ヒラメちゃんと聞こえ間違えたのでなければ・・・・・いいんですけど・・・・・・・・・・ヒメさん、で。じゃりん子チエちゃんの友達じゃなくて・・・・・あ、ヒラメちゃんもいい子なんですけど」さらにダメダメな言い訳を追加する。
 
 
「ななな・・・・・・・・・・・・・・・・」
 
 
竜号機には火炎を吐く機能があり、それを神経接続で発動させているのならば、操縦者には火炎袋があるはずであり。ムクムクとそれが膨れあがっているような顔色の変化。
名刺の役職群は二、三を除いてパワーバランスを整えるためのお飾り名誉職であるが、伊達ではない。この竜尾道において姉の右眼をのぞいてこんなフランクなめ太的発言はひさしく味わっていない。
 
 
「そろそろ昼時も終わる。話を・・・」
 
さすがに介入してやらんとまずいだろう、と、自分はあくまで公平冷徹な第三者機関であるのだ的表情で碇ゲンドウが言いかけたところで左眼が立ち上がる。抜刀術ならばこれでもう終わっている。目にも見えぬ剣閃きが首が飛ばす。はずだが、それはなく
 
 
「・・・・風呂を借ります・・・・・」
 
俯きながらまた本堂から出て行った。先とはことなりのろのろと。頭を冷やすつもりなのだろう・・・・なかなか戻ってこなかったが、まあ、首チョンパされることに比べれば少々待つのもどうということはない。
 
 
「まずかったのかな・・・」
「ああ・・・・・そうだな」
その後ろ姿が見えなくなったあとで父子はそれだけ言った。父は、叱らなかった。
 
 

 
 
「で、なんであなたたち父子は食事をしているんですか!」
 
おそらくは水風呂から戻ってきて冷静さを取り戻したはずの水上左眼が怒った。
 
 
本堂に戻ってみればふたりはおらず、声を上げて探せば、居間で食事をしている。炊飯器のご飯に缶詰を開けただけの男の食卓というやつで、飯を食べている。自分もまだ食べていないというのに。
 
 
「待ってたんですけど・・・・・長いから・・・お腹も減ったし」
「・・・風呂で溺れる心配もないだろう」
怒られたのにふてぶてしく言い返す父子。眼光の鋭さがさきほどとは全く違う。
 
とくに碇シンジのそれは水上左眼を一瞬怯ませるほど。「う・・・」失った平常心を取り戻すのに確かに時間がかかりすぎたことは認めるしかない。「ほんとにお姫様なんだ・・・」ぼそっと、しかしながら聞こえる音量でツブ貝をほじくりながらつぶやく碇シンジがこにくらしい。「まあ、女というのはそういうものだ」コンビーフを削りながら諦めたように言う碇ゲンドウはさらに。おおにくたらしい。
 
 
絶対領域があった。碇家男の食卓風景、という名の。越えられそうにない境界線が。
どのように対応したものか、一瞬迷う水上左眼。こんなもん、ひっくり返してやろうか
 
 
「父さん、マヨネーズある?」
「ない。醤油がある。これを使え」
 
「父さん、これ賞味期限とか大丈夫なの」
「危険なものもある。・・・避けろ」
 
「なんか聞いたことのないメーカーだし外国のが多いし」
「数字は共通だ。アラビア人に感謝しろ・・・」
 
「日本のは日本ので・・・なにこれ、”芸者さんの襟首のかほり”缶詰って?しかも登山用って」
「辛く厳しい時に使うのだ。・・・・今は、その時ではない。仕舞っておけ」
 
「種類も珍しいけど・・通販で買ったの?」
「そうだ」
 
 
立ちつくす自分を完全に無視して続けられる父子の会話。躊躇なく開かれ食べられる缶詰。酒がないのがおかしいような光景。待ったくもって付け入る隙がない。「パチンコ屋を泣かして秘蔵の品を奪ってきたくせに」と明らかなツッコミポイントもあったが、それでも壁は厚かった。
 
 
「父さん、缶切りある?これ、プルトップじゃないやつだ」
「ああ・・・」
碇ゲンドウが紙袋から息子のリクエストに応えるより早く
 
「必要ない・・・」
剣閃円弧。碇シンジが持っていた缶詰の金蓋は切り開かれた。
 
「ふ・・・・つまらんものを切ってしまった・・・・・・とにかく、食事が済むまで待ちましょう。なるべくお早く・・・では、わたしは本堂で」
ここで腹をくうくう鳴らすようなかわいげは水上左眼にはない。
 
 
「あ、これホワイトアスパラガスだった。僕、嫌いなんだよね。父さんにあげます」
「・・いらん。昔、これでひどい目にあったことがある」
「缶詰だから一度あけると、悪くなるし・・・・・ここは開けた人に責任とってもらうということで」
「妥当なところだな・・・」
 
 
「なんだと?」
片目で殺気をこめて睨みつけてやる水上左眼であったが・・・「ほら、これもつけますし。究極の乾パン!お願いしますよ、もったいないし」「フッ・・・まだ甘い。ここは至高の乾パンの出番だ」「あ、こうしましょうよ。このジャム缶詰のジャムをご飯にのせて・・父さんが食べてくれるっていうの!ねえ、見たいでしょう?」「やはり酒か・・・フフフ」・結託した碇父子にかなうはずがなく、「仕方ない・・・」仕方なく、食卓についた。自慢じゃないが地元にいるときは皆が自分に食べさせたがるので、新鮮ないいものばかり食べている。缶詰なんぞ・・・・
 
 
44分後・・・・・
 
 
三人がかりでゲンドウコレクションの缶詰を全てと炊飯器のご飯を全部片付けて、満腹感と自己嫌悪に挟まれる水上左眼。炭水化物をお代わりしてしまった・・・ここしばらく宴会と接待が続くというのに・・・どうにもこの二人、扱いに困る。特に碇シンジ。こやつは・・・ほんとうに硬化テクタイトに封印された「もの」と同一なのか・・・・・
 
 
 
どうも自分は・・・・・・
 
 
謀られているのではないか・・・・・・・・
 
 
食後の茶を飲みながら、器用に後片付けをしていく片腕の少年を見る。その背に声をかけた。疑念にかられてしてしまった、しなければよかった問いかけだ。後になって思い知る。
スイッチを押してしまった。見る必要もなかったフィルムのかかった映写機のスイッチを。
 
 
「その左腕は、どうしたんだ?わたしの資料では君には両腕があったはずだ。しかも、その肘にある白い面・・・・尋常ならぬ力を秘めた・・・その炸裂を感じてわたしは君を見つけることができた」
 
 
「”よく分かってるゼル”」
明らかにこの場にいる三人の誰とも違う声。発生源は碇シンジの左肘。白い、面より。
 
 
「何だ、貴様・・・・怪奇小説でいう人面疽とかいうやつか」腰を沈め抜刀の体勢に入る水上左眼。竜に乗っておいていまさらこわいものなどない。吸血鬼だろうとオオカミ男だろうとフランケンシュタインだろうと人面疽だろうと斬ってしまえる自信がある。
「出番を間違えているんじゃないか・・・・」ちろ、と碇ゲンドウの様子を確認するが、何を考えているのか分からない。予定通りなのか、これが。それとも・・・・・
 
 
「”ゼルはこいつの守護天使ゼル。こいつがこれ以上”化けない”ように・・・力でとどめておくのが使命ゼル”」
 
 
「使徒を使ったか・・・・・なるほど・・・」着流しの髭が悪魔の笑みを浮かべた。
「そこまで視えていたか・・・・あの少年。登場も退場も早すぎだ・・・・」
どのようなナリをしていても、碇ゲンドウ、使徒殲滅業界の第一人者に違いなし。
 
 
「使徒・・・・・・しかし、この言い様は・・・・」
彼らの属する業界では人類の天敵とされる謎の自律兵器。こっちではあまり知ったことではない。水上左眼の視線は背を向けたままの碇シンジへ。こちらには見えない少年の表情が。今、どんな表情を彼はうかべている?まあいい。水上左眼は恐れない。毒を喰らえば皿までだ、と問いを重ねる。丁度いい。聞きたかったことをこいつに聞いてやろう。
 
 
雪崩を起こしたような、という表現もなまぬるいほどに一夜にして激動の東の鎧都、第三新東京市、そして特務機関ネルフ。諜報防御態勢が崩れ、かつてないほどに内部情報が氾濫したが、必要なものはただ一つ、その極秘中の極秘である中枢情報。
 
 
”エヴァ初号機はどこにいった?” である。
 
 
なんと、ネルフはそれを知らない。確実に知らない、ということだけが分かった。
実際に本部施設に機体が戻っていないのだからそうなのだろう。左腕部分だけが何故か残されたという情報も届いているが・・・・まだ確認中だった。左腕・・・妙な共振を感じるが、偶然の一致だろう。まさか、そんなことがあるはずがない。条件が狂う。
エヴァ初号機と碇シンジは「セット」であり、片方だけ、とくに碇シンジだけあっても仕方がない。その二つを揃えるためにこうして行動してきたのだ。揃うまで契約は果たされない。必ず、果たすしかない陸よりも海よりも重たい契約が。
そこにくだらぬ茶利をいれようというのなら・・・・何者だろうと斬るしかない。
道を分かつ問い、それを問いかける前に
 
 
「・・・・そうだったのか・・・・」ぽつり、と”彼”は呟いた。
 
 
「なに・・・・」この場で最も警戒すべき危険物は何か・・・・その判断が的確にできぬ剣士は長生きしない・・・答えは、いきなり口をきいた怪奇白面に決まっている。刃はそこに向けておくべきだが・・・・手元が勝手に軸をずらす。
 
 
「逃走防止の遠隔爆弾とか・・・・・じゃなかったんだ。と、なると・・・その目がないなら・・・・ああ、そうか・・・待てよ・・・そうか、そうだったっけ・・・・参号機をバラバラに砕いたあと・・・・あれから・・・ヨッドメロンを・・・」
 
 
そうか
そうか
そうだった
そうだっけ
 
 
少年はしばらく歌うように
 
 
碇シンジ
 
 
こちらに顔を向けないその背が・・・・・どんな表情で独り合点しているのか。
今更ながら。こいつをここに、世に切断された隠里たる竜尾道なぞに連れてきて良かったのか。選択の余地はなかったが・・・ひどく、後悔するハメになる。そんな、予感が。
いつのまにか、水上左眼の頬を冷えた汗がつたう。なんなのか、この「不揃い感」は。
狂人のまねなのか素なのか、ただこちらに背を向け歌うように思い出しているだけのこと、己の軌跡を。なんでもないことのはずなのに、とても無惨なものを見せられているような。
 
 
「初号機に触れられないから、こういうことになってるのか・・・・・・すごいな、カヲル君も」
 
 
それから、片腕の少年はこちらに、振り向く、向こうとした。刹那。
 
 
ずびし!
 
 
それを、碇ゲンドウの手刀が妨げた。
呑まれかけた左眼が反射的に抜刀するのを防いだのか、それとも。
 
 
「まだ疲労が残っているようだな・・・長旅が祟ったか」
 
そんなことを言って一発で気絶した息子を背負う。「”あまりこいつを刺激するなゼル。聖霊と紫暁天の名において警告するゼル”」誰に向けたものなのか、左の白面はそれきり無言。
問う気力も失せていたが。
 
 
「話は、東の状況が固定してからにしたほうがいいだろうな・・・もしくは初号機の位置が特定できるまで。・・・・まあ、現状では私もシンジもただの個人にすぎぬがな」
寝所に運ぶのだろう、父子が行ってしまうのを止めることも出来ず、黙って見送るしか。
印象としては、爆発寸前の時限爆弾のコードをなんとか正しく切断成功、といった。
・・・・ひどく疲れた一幕。ただの子供ではない、左腕など、あれこそが安全装置のようなものかもしれない・・・・「鬼の子供」・・・・もしくは。かたちのないかみのこども。
しかし、ユイ様が鬼だと言っているわけではない。鬼な子供、というか・・・・・
 
 
 
「どうやら、とんでもないところに追い込まれたような・・・・・・」
ここは己の街であり領地であるはずなのに、ひどく遠く異なる・・・鬼ヶ島ゆきの船に放り込まれたかのような感覚に、水上左眼は知らず、呟いた。
 
 
それを振り払うが如く、五分後、大林寺の直上に逆さに浮上駐機させてあった竜号機が飛び立った。風がもう一度、本堂を吹き抜けた。