なまえのない銀鉄にひとり乗り込んだ綾波レイ。運転手と機関士をのぞいて乗務員が降りてしまったため、客車内はがらんとしている。寒々しいほどに。
適正に車内温度は調整されているはずだが、防寒コートは脱がずにそのまま、置き忘れられた荷物のように座席の片隅に座っている赤い瞳。
車窓の外は闇と赤光をくりかえす奇妙な、怪物めいた山影を映す。がたたん、ごととん、と振動があるのはここがすでに銀鉄の路線ではない証。管理の手が及ばぬ処女路線。そこには”彼女“を守護するように巨人が闊歩している。圧倒的な、孤独感寂寥感という名の巨人。少しでも下手をうてばぺしゃんこに踏み潰される。旅に慣れ感性など擦り切れたような者でさえ押しつぶされそうな・・・未知の道。それを歩み自らの内部に取り込んできた。伝え名づけ支配する。人の営みの繰り返し。わずかながらの勇気を振り絞って先人がそれを切り開いてきたのは、その先に希望の灯が見えたからだろう。それは経験ではありえない。そこから製作される理屈の類でもないそこを基盤とする期待でもない。それなら、恐怖を麻痺する好奇心?この道行きもまた、そうなのか。
分からない。綾波レイの赤い瞳は何も映さない。力ある赤だけがある。
車窓に何が映ろうと、何も感じない。
あのときから。
夏への扉の前で座り込み、碇シンジを待ち伏せしていたら、彼が現れる前に渚カヲルとレリエルが自分の前にやってきた。完全に予想の外、虚を突かれた。
汝、仄暗い天より来たる・・・・・・
皮肉なことに、自分が碇シンジに伝えたとおりに登場してきた・・・わけだ。
この唐突さは天使というより悪魔のそれだろうと思う。その時の自分は体力能力ともに底を尽いた状態でほぼ無力。改めて考えてみるとその有様で彼をどうやって引きとめ送り返すつもりでいたのか・・・。
甘い
遅れたような甘さ・・・・冷凍蜜柑だと云われたのはこのことだったのか
今更気づく。
意思だけではどうにもならずに、その意志の強さすら。
挙句の果てには、最も警戒せねばならぬ相手への警戒を忘れていた。
甘さを取り越して愚かだといえる。
光のふたり。光る手が、触れようとする。
凍りつく。最後の最後、碇シンジに会うまで会うためになんとかこおらさぬように必死で抱きかかえていた白い花弁のような一鎖まで。
わすれないで
どんな無茶をしてもいいから、忘れないで、と。敗れるつもりはないけれど、勝敗は時の運、彼が自分を乗り越えていったら、その背に一言だけ声をかけようと思っていた。たった一言でいい。馬耳東風に聞き逃されてもその一言だけは言っておきたいと、思っていた。目的詞がないのはいわゆる波紋状に広がる少女漫画的効果を狙ったわけではない。それは彼次第。もし彼が忘れてはならないものを何一つもっていない、それと感じていないのなら、それはそれでいい。それでよかった。
そんなことも、できない。ここで彼もろとも天上に拉致されるなんて可能性は・・・・・考えていなかったわけではない。これはタイミングの博打のようなもので、自分はそれに完全に負けた。ゴールのテープが前進してきた反則だろうと不意打ちだろうとなんだろうと負けは負け。自分がひなゆきせを巻き込んでなまえのない銀鉄を追い越したのと同じ。因果応報、やられたことはやりかえされる。その速度が少し、切ないほどに速すぎたが。やられた・・・・と思うこともできないほどに、完全にやられた。もとより声も出せないが、今ここに近づいてくる碇シンジに「来てはだめ」とか注意を与えることもできない。そう叫べば叫んだでたぶん、あのどうしようもない人は、駆けつけてくるような気もするが・・・・・結局、しんこうべのお返しはできなかった。
どうしようもできない。
たとえ無力でもあなたたちには従わない、と天逆の意をもてにらみつけようにもすでにこの瞳すら自分以外のものになっている。蒼く、蒼く、海檻の蒼。
「その目は・・・・・そうか・・“ル氏”・・・・・彼らが」
光が、さしのべられる。輝く、原罪を背負う人間には浮かべることのできぬ笑顔。人の形をしてはいても、これはもう完全に人ではないもの。そこにいるだけであれだけ厳寒としていた冷気が頭をたれて引き下がっていく・・・それどころかポコポコ行進するように野花が咲き走って周囲を明るく塗り替える。
ここまでの悲壮な覚悟をリセットするかのように。どれをみても綺麗な花は。
その中でもっとも光り輝く花が口をひらく。渚カヲルという光の花人が。
「その青い瞳をもとの赤い瞳に戻すことはできるけれど、感情を亡くすことになる。綾波レイ、君は能力と感情、どちらを選ぶ?」
奇妙なことを問いかける。もはや地上と現世と縁が切れた彼にとってそんなことはどうでもよいだろう。青い瞳が目障りだというのならこちらの許可など求めずにそうすればいいのだ。偽善、いやさ偽人的というか。それともどちらか選ばせることで遊んででもいるのか・・・
・・・そう疑った青い瞳が固化した。
光の人が悲しんでいる。嘆いている。渚カヲルは自分のために悲しんでいる。
「呪いの力が濃く強すぎて、解呪するために使う領域が足らないんだよ。レイちゃんは能力の種類は多いけど、そういった系の基礎的な訓練を積んできていないから容量がとても少ない・・・・圧縮して整理はされているけどこじんまりとしすぎてる。なんでこんなひどいことをするかな・・・人間。とりあえず、声くらいはすぐに治せるけど・・・」
レリエルも同様に悲しい顔をしている。
そして代償なしに声を取り戻してくれた。おまけにあれだけ底をついていた体力も。
だけれど、それは、それこそ偽善というものだ。強い怒りを覚える綾波レイ。
今はまだ感情が作動している。能力が封じられていても。自分の心を表す手段を保っている。それが失われる恐怖の裏返しなのかもしれないが。
「意味がないわ・・・・」
どちらか選ぶ意味など。どうせここでこの二人に天上に連れ去られるのならばそんなことに意味はない。地上に戻れないのならどんな形をしていようと誰がそれを見るというのか。能力を生かして使徒側の工作員にでもなれというのか。
能力を開封させて隙を突きこの二人と対決・・・・という選択肢はない。零号機がない以上、敵すべくもない。だからこうやって情けをかけているのだ。
「それなら、それでもいいんだよ。そのほうが幸いだろうと僕たちも思う。もうじき、シンジ君もやってくる。綾波レイ、君とはしばしのさよならになる。
天上切符はそのままにしておくから、好きな銀鉄で地上に戻るといい。シンジ君は僕たちの手で連れて行くから心配はいらない」
「!?」
どういうこと?レリエルの顔をみるが、レリエルは返答の代わりに舌をだした。
「こちらにもいろいろあってね・・・・・・それを断ち切るためにまだレリエルの議定心臓が必要なんだ。シンジ君のみならず君まで得てしまうとレリエルの心臓が停止してしまう。そうなると追っ手が僕たちを見失うからね・・・・」
渚カヲルが代わりに答える。まとう光が退けた冷気よりも体を震わせる。
人間の、言い草ではない。悪魔はこれほど計画的ではない。これは、彼は、
「レリエルの使命はスカウト・・・・使徒の敵手であるエヴァのパイロット、チルドレンを、それも三種類の特殊な子供を天に招くこと。五類、三類、一類フィフスとサードとファースト、それを成してしまえば、使命を果たしてしまえば、存在は完遂し彼女は消えてしまう・・・だから、まだ君を連れて行くわけにはいかない」
「スカウト・・・・天に招く・・・・・使徒に・・・・する・・つもり・・」
順当にして最悪の予想結果。最も最も恐れていたことが、今、現実になる。
それに比べればいまさらレリエルの使命なんかを聞いても驚くことじゃない。
レイちゃんひどいよと同じ顔にかいてあるが無視。それどころじゃない。
「そう。シンジ君・・・・・・・彼の承諾さえ得られれば、最強の使徒が誕生する。幻想なんかではない、本物のね」
「その名を冠する使徒は・・・・・・その名前はレイちゃん、知ってるよね」
このふたり・・・・・・・・・なんでこんなことを、こんな光り輝く楽しげな顔で云えるのか・・・・・
「にんげんじゃない」
・・・・・・わかりきったことが口から漏れる。
「碇君は・・・・・・・・・」
そんな話を受けるはずがない、と・・・・・・・・・言い切れない綾波レイ。
受ける気がないならそもそも、こんな所までくるはずがない。
こんな使徒人間の仲間入りなんて・・・・微妙に良さそうとか言い出しそうで。
「紫電雷鬼の鉾をもつ最強の使徒・・・・・・・・・・・その名は」
「ゼルエル」
「・・・・・・・・・・」
「・・・これに悪意を感じるかい?綾波レイ。でもね、彼もまた地上を離れたほうがいい存在だ。いずれ、わかる。彼がどういう縛りの中で生きているか。救いあげられるなら救い上げたい。彼が消える前に。好機は今しかない。綾波レイ、それからレリエル、君たちには悪いけれど、今回はシンジ君を優先させてもらうよ」
「ごめんね、レイちゃん。せっかく来てくれたのに」
もとはレリエルが余計な挑発をしなければきつい思いをしてここまでくることもなかったのだ。それにしても渚カヲルに好んで主導権握らして夫唱婦随なところなど・・・・もはや完全に使徒やめている。なんだその笑顔で拝み手は。
「駅舎まで送るよ。君もその青い瞳でシンジ君に会いたくないだろう?」
渚カヲルが片手をあげると綾波レイのまわりに光の輪が七つ、かごめかごめでもやるように取り囲む。「面影を濁った蒼で穢すようなことはしたくないよね」
完全に口も封じる。それをいわれると何もいえなくなる。いいたいこといってやりたいことは山ほどある。そして、カンが働く。なんとはなしに彼らが碇シンジと自分の邂逅を望まず、避けるようにしていること。自分と碇シンジが、ここで、この場で出会えば、また「何か」が起こる。確定している未来の変化。それを警戒しているようでもあること。向こうもこっちを知ってるのなら、こっちも向こうを知っている。光はなにも隠せない。
「・・・そう。じゃあ、瞳をもどして。できるんでしょう」
「できるけれど、ほんとうにいいのかい?」
「いい。感情はなくてもエヴァは動かせる」
「動かすだけならばね・・・・・本当の力は走らない。・・・・それでも戦えるのかい」
「彼らもファーストチルドレンは必要としている。私の戦うのは使徒。守るのは人。感情では揺らがない事実が、動かす」
「なぜ、君はそこまでやるのかな・・・・・こんな会話が時間稼ぎになると思っているわけじゃないだろう、綾波レイ。それに、疲弊しきった君をここまで運んできたのは・・・・その原動力は」
「感情じゃないわ。そんなのじゃないもの」
「試してみればわかることだけれど・・・・・能力を失ってもしんこうべは君を迎え入れてくれると思うけど。青い瞳のまま、普通に生きる選択肢もあるよ」
「でも、守ることはできない。これはあなたから持ちかけた話。それを求めていたはず・・・・なぜ、そんなことをいうの」
「君の最後の居場所が見えるからだよ。君は心という人の過去が見える。僕には未来という人の望みが見える。あの赤色を惜しむあまりについ聞いてしまったけれど・・・・・・・ほんとうにいいのかい」
自分は確かに選んだ。自分の意思で自分の口で告げた。
そこに碇シンジが間に合う、なんて都合のよいことは起きなかった。
しかし
代わりに、起きたことは・・・・・・・・・・
答えるために立ち上がると、寄りかかることで閉ざしていた扉がほんの少し、もとからそうだったように、ほんの少しだけ開くことになった。
ぎいい・・
そのことになんの意味もないのだと思っていた。扉の向こうになにかあるのかなどと考えたこともなかった。なにがいるのか、などと。自分の背後ろにあるのは・・・光の人を前にしてうまれるのは・・・・影。地を這う黒い影だ。
「・・・・・・・・ナ」ぼそぼそと影がなにか囁いた。気がした。そのときは。
「トウト・・・・タ」「・・・・ケタ」「・・・ケタ」「・・・・ツケタ」
ほんとうに、ここまできたのは自分の、自分だけの意思だっただろうか。
なんの疑いもなくここまできてしまったのは、何かに後押しされていなかっただろうか。催眠誘導、自分の得意領域だが、その能力も半ば以上封じられていた。もし、誰かの、何かの意思に従わされてやったことならば・・・・
「じゃあ、瞳をあわせて。やり方はいつぞやのエフェソスの伝授と同じだよ」
光と闇にまどわされて、どこにもいきつくことのない迷い道を歩かされていたとしたら・・・・・そこにあるようにみえてもひとのあしは星にゆきつかぬ。
自分の蒼い瞳が、渚カヲルの赤い瞳の中にある。呪いを解くのは王子様のキスだとおとぎ話ではそうなっている。これは接近の度合いで言えばそれ以上。
「さすがにクムランの・・・なかなかてこずりそうだ・・・・。シンジ君が来るまでに終わらせないといけないんだけど・・・・・」
感情を喪った今、それははっきりとわかる。
彼らは追っ手の存在を語った。待ち人である碇シンジのことではない。
扉のむこうから伸びた、どろり、とした影の手が渚カヲルの首を
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「そろそろ到着する」
いつのまにかヤニが通路に立っていた。
車窓の外は青い森。ところどころ廃棄されたのか破壊されたのか森に同化したような銀鉄の車体がのっぺらぼうの顔をうらめしげにのぞかせている。
「降りる準備をしてくれ」
それだけ告げて運転席に戻ろうとするヤニ。その後姿を見れば碇シンジや惣流アスカは冷たい硬さに驚いただろう。
「待って」
呼び止める綾波レイ。
「なんだ」
その場で立ち止まり、顔だけ向けるヤニ。鋭い猫目が綾波レイを突き刺す。
「“道”がついたのね」
赤い瞳はその鋭さになんの反応もない。ただ淡々と。問いたいことだけを。
その単語に込められた意味を運転手は正確に見抜き、答える。
ある意味、ひどくやりやすい乗客ではあるのだ。試験運行にふさわしい、天上切符をもった人形。無駄はなく意図は正確。必要最小限にして躊躇もない。
ゆえにヤニも情け気遣い容赦ないところで返答する。
「ああ。すまないが、この列車は試験運行ではあるが銀鉄だ。駅で乗せた片道切符しか持たない者を優先させる。そいつの切符にどんな駅名が記されているかはわからないがな。道、路線さえついてしまえばあとはよほどの老朽線でない限りどの銀鉄でもここまで来られる。迎えを希望するならひなゆきせにでも連絡をいれておくが期限が切れるまでその天上切符は・・・・・話は理解できているか」
あえて無駄な確認を途中でいれたのは、やはりこの赤い瞳がなんの情動も見せないからだ。機械の無言ともまた異なる。怪物も恐れる・・・幽者。その儚さは天上切符をもたずして銀鉄に乗る資格十分。このまま到着前にゆらゆらと雲散霧消してしまうのではないかと、ふと、そんなことを思ったせいだ。
赤い瞳の少女は
「この銀鉄・・・この死者の魂を運ぶ列車がその地に停まるということは誰かがそこで死ぬということ。それは例外のない銀鉄のルール。この列車が、車体を新造してでも到達せねばならない理由・・・・」
運転手の思うところを正確に読みきり正確に返答した。
そのあたりよくわかっていない惣流アスカに対して皆で隠し通したわけだが。
「そうだ。それを知らぬ者が乗車してしまった今回の件は例外中の例外だ・・・・まあ、そんなことは二度とないだろうがな」
猫目はなにか思い出したのかわずかに瞳を緩ませたが、それは刹那のこと。
いまさら無駄な確認だった。運転手の自分が運転席を離れて客席まで来ているのだ。路線を車輪がきっちり噛んでしまえばあとは最新式、自動でやってしまう。一番の問題だった今まで銀鉄の進入を防いできた目的地を覆うあれほど強力な光の奔流洪水のごとくだった結界がズタズタにされていた。その光もない。
銀鉄路線中最高難度と恐れられた未踏地がこうもあっさり道を受けるとは。
気負いが外されて不満というわけではない。
ただ、最後の最後まで・・・・、と思うだけだ。予定や予想は粉砕されて。
内からやったのか、外からやられたのか、・・・・・おそらく
「光馬天使駅・・・新しく生まれたばかりで何者も死ぬことが未だなかった、使徒でもない人でもないあのひとたちの園、光馬・・・・そこへ至る銀鉄の道がついた。それは
もう誰か・・・」
ただその点のみを確認しただけなのだろう。綾波レイはもう視線を車窓に戻した。最後の一言も誰に聞かせるでもない。なんの感情もこもらぬそれは、誰にも届くことはない。使徒であろうと人であろうとそれらが転じた光人であろうと。迎えに来た銀鉄に乗るのだ。もしくは銀鉄が到達したから死なねばならぬのか。不死であることを許されないのか。感情がなくなった分だけ、明瞭に、むくむくと邪魔な厚い雲が切り払われたように碇シンジを理解できる。なぜ、彼がこんなことをしたのか。こんなことをする意味が。それが誤っているかもと恐れることももうない。結局、碇シンジには追いつけなかった。だから、これが最後だ。
彼がどうするのか、どうなったのか、地上の者たちに伝えねばなるまい。
ゼルエルなどという、宇宙恐竜みたいな名前に改名するのかどうか。
もしくは
「自分のその目で見届けるがいい。そのために列車は走っている」
ヤニも冷たく言い残して客車から消える。