ここで待っていれば、誰かがやってくるはずだった。
 
 
光馬天使駅。とうとう銀鉄の到達を許したその地、渚カヲルとレリエルが隠れ住んでいたらしい、使徒でもなく人でもない者のための場所に、綾波レイは立っていた。
 
 
コーマ・エンジェル。天使が瞳を閉じる場所。繰り返される平穏の日々。争乱からめこぼされた協定の地。なにごともおきるはずのないところ。パライソでもなくオアシスでもなくユートピアでもない。到着直前の車窓から見た赤い瞳が記憶する全景は、雲海を貫く断崖の、聖玻璃製のドームに覆われた孤島。天よりもなお高い空には月を補完する地球照。
 
 
銀鉄が到着したから死ぬのか、死んだから到着できたのか。ヤニはそんなことには興味なさげにつまらなそうにパイプをふかしている。ススキノも列車の屋根の上、聞く者の胸に染みいるような銀ハープを吹いているだけで。到達の喜び、達成感などはないようだ。
 
 
パイプの煙も、銀ハープの音色も、綾波レイの心を動かすことはない。
赤い瞳は列車を降りて、ヤニたちが義務で立ち上げた銀鉄の駅名看板の横で立ったまま。
 
 
薄紫の遠景を見ている。ときおり、強い風が吹いて空色の髪を揺らした。舞い飛んでくる琥珀と翡翠のかけらがほおをくすぐる。魂癒す雲海の潮の匂いに酔いそうになる。
夜明けが近い、が、まだ時間は夜の領域にある。
天上切符の効力が切れるまでに。見届けなければならない。なにが、あるのか。
それとも、あったのか、を。
 
 
歩をすすめる。
 
 
行き先は岬にたつ天主堂。そこに、彼らはそろっている。求める光はそこにしかない。
 
灯台のように回転する光が、この夜明け島を順々に照らし出していく。
 
ずいぶんと辺鄙なところだった。ナガサキの西海、隠れキリシタンが住んだという島をモチーフにしたような小さな島。あの二人のやることであるから光に満ちた豪奢な、どこかの王城のようなところかと思っていたが、ずいぶんと渋い。何を思ってこんなふうに自分たちの楽園を設計してみたのか意図はつかめない。自分の居城の月孔城を模すのならまだわかる。レリエルの趣味であろうか・・・仮面ライダー、特撮ヒーローが撮影に使いそうな原野なら見渡す限りだが。ただ、望遠してみるに野生馬野生猿のかわりに渚カヲルの飼っていたらしい奇妙奇怪な生き物たちが放されており、自由きままにしているのが分かる。大樹のような試験管があちこちに屹立してその中にも図鑑入りをはたしていないだろう泳ぐものたちがいる。絶滅種の群れを牧童のように率いたグラッグやオットーという話だけ聞いたロボットと道中いきちがう。自分の来訪を主たちに聞いていたのか、かっくりとお辞儀をして、天主堂への道を指し示す。どこへ向かうのか、放されていた生き物たちを呼び戻し群れをまとめているようだが、・・・まるで箱船の出航準備のよう・・・自分には関係ない。
 
 
一定の速度で。歩を進める。その距離がすべて。これを、歩き終えればすべてが動きだす。
 
 
選択を、見届けよう。彼の、現在の選択を。未来にも過去にもとらわれることのない、閃きのあのひとの。因果切り裂く雷のように自由であるはずの、答えを。
そして、至る。このさきはなく、このうえもなし。道の終わり。
 
 
 
天主堂には、エヴァ参号機が、それも、正中線で真っ二つに裂かれた、黒い半身だけの参号機が器用なバランスを保って、天主堂を叩きつぶそうとして、機動停止している。
 
 
赤い瞳は揺るがない。動くべき感情がないから。
 
 
夏への扉での蒼から赤への呪い解の折り、扉の隙間から伸びた黒影の手は渚カヲルの首に
とどく直前で、橙の光の盾に阻まれた。肉眼でみえる絶対領域。阻まれなければその首を潰し飛ばしていただろう。それを予測していたように、凶手の訪する未来を、おそらく彼には見えていたのだろう、怨念のこもった必殺の一撃をやすやすと退けた。
 
 
扉、自らの背で閉じていた扉から、その隙間から伸びたその黒い影・・・・・・
それは指先。巨大な指先。形状としては人のものだけれどその大きさは
 
 
「エヴァ参号機・・・・・・・・」
 
 
質量と速度に見合った衝撃波はなかった。まだ扉を越せなかったのだろう。死神の爪のような一撃が時を止めたように赤に戻りつつある瞳の目の前にあった。この扉、夏への扉が、扉を開けた先が、参号機がいる地上に、第三新東京市につながっていたなどと・・・・
そのことに気づかなかった己の甘さ、愚かさを思い知らされる。碇シンジを足止めすることばかりでそこまで考えが至らなかった。銀鉄の道筋は、天上切符の表と裏は・・・身と魂は表裏一体・・・・・・そういうことだ。
 
 
このタイミングの一撃、虎視眈々と扉の向こうで、扉が開くのを待っていたとしか思えないこの攻撃は、なぜ。なぜ、エヴァ参号機が、このタイミングで。
 
 
扉が、完全に開いていく。渚カヲルもレリエルもそれを、黙って見ている。
呪い解きに手が離せないのではない、案の定、”追っ手”がやってきたのを喜んでいた。
 
 
「あれ、冠を半分引き裂かれて・・・半分でも最強といえるのかな・・・こっちは本物の最強を招待してあるのに・・・ゼルエル・シンジ君を」
「ようこそ、バルディエル・・・・・・暗闇の道の終わりへ。さあ、いこう」
 
ふわ、と綾波レイをお姫様だっこをして、飛ぶ渚カヲルとレリエル。逃走ではない、招き誘っていた。光が闇を呑むように。
 
 
追っ手が。扉を這い出て、こちら側へやってくる。幻の星、夏への扉へ。
黒い機体。エヴァ参号機、それだけでも衝撃であったが、赤い瞳を再び蒼く凍らそうとでもするように、その姿は・・・・・右半身のみ。左半身が、なかった。切断面は見えなかったが、きれいに正中線で両断されており、機構位置的にエントリープラグも・・・・
 
 
声が漏れる。
 
 
「いや・・・・・」
首を振り、何を否定したのか、自分でも分からない。バルディエル、と、自分の四号機をメタトロンなどと改称した渚カヲルが参号機を呼んだのは耳に届いている。参号機専属操縦者、黒羅羅・明暗専用にカスタム化されチューンされているエヴァ参号機が、真っ二つのままに動いて、やみくろ、のようにこちらへ這い出てこようとする。明暗が、自分と同じように、使徒の欠片を身に宿し、なおかつ人として、自らの意志を保持する、使徒と人の狭間にある者であることも、告白を受けた。黒い旋風、白い涼風、行動速度が人並みはずれて、乱暴で世話焼きで偉そうで人に猫なんか押しつけて人に刀剣をつきつけていっしょに風呂にはいって喧嘩両成敗とか言って人に拳骨いれて、つい愚痴をいったら怒って碇君に残酷なことをしようとしたり、・・・・魔弾で撃ってしまったり・・・・人を病室から連れ出してみたり・・・・そこまで考えて思考が凍りつく。ニフにいた時の何倍もの寒気に襲われる。最初に言われたではないか・・・・自分たちの心を読んでくれるな、と。
 
 
フォース・チルドレン、黒羅羅明暗が、実はセカンド・チルドレンであることも。知識として知っていた。四重人格ではなく、二重人格。四類ではなく、二類。
今まで顕現してきたのは、明、暗、朱夕酔提督、この参人格。では、残りは・・・
 
 
「最後の一つは、禁青。文字通り、表に出ることを禁じられた青。東洋のラングレー、といえば分かりやすいかな。病性において桁がちがうけれど。聖杯をめぐる西欧十字円議との主導権争いの果て赤い血を赤いと認識できなくなった青救世主・・・・・・さあ、終わったよ。世界の表情が変わったかもしれない・・・・どうかな」
 
 
解呪修復完了
 
 
その話はもしかすると皮肉であったのかもしれないが、もうそれをそうと認識する情緒、基礎となる感情が削除欠落してしまった綾波レイには分からない。
 
 
世界が今まで自分にどんな顔をしていたのか、など、思い出せるはずもない。
 
半身だけになった参号機を見ても、なにも心に浮かぶことがない。先ほど、自分は何を否定しようとしたのだろう・・・。あれは、使徒なのだ。零号機があれば殲滅することになる・・・・敵。そして、今こうして抱かれているこの光人たちも、味方、ではない。
 
 
「ああ、レイちゃんはなにもしなくていいわ。バルディエルはわたしたちが滅ぼすから。・・・・・もう、半分自滅してるけどね。本人、分かってないみたいだし引導を渡すわ」
レリエルが言う。先ほどから口にしていないことを返答するのは思考が読まれているのだろう。
 
逆に思考を読み返そうと試みるが、できなかった。にんげんのそれとはかけ離れている。
自分と同じ姿をしながら、使徒であることもやめてしまった、彼女は一体、なんなのか。
便宜上、レリエル、と呼んではいるが。別に人間の味方に転んだ、わけでもない。
その代わりに渚カヲルが使徒になっているのだから。レリエルは渚カヲルの味方であろうし、そうなると・・・・巡ることになる。
 
 
「そろそろ、シンジ君を迎えに行った方がいいんじゃない?レイちゃんはまかせて」
「そうかい。じゃあ、そうさせてもらおうかな・・・それじゃ、綾波レイ」
 
天使に抱かれた感触を知る人間は、歴史上でも数えるほどしかおるまい。自分はその中のひとり。けれど、感慨はない。身を意志によらず任されて、タブリスからレリエルへ。
 
そこで二手に分かれた。運命が、自分たち、チルドレンと呼ばれた自分たちの道が、今、分かたれた、とはっきり思った。感情も未来視もなくそれを理解したのは、これが決定的な事実であるからだろう。運ばれる途中、レリエルが口を開いた。これで最後これで最後、とまるで一生のお願い、のように、言い続けてきた彼女だが、さすがに次はない。
 
「・・・レイちゃんのやりそうなことは分かってる。まだ、天上切符は使えるから」
 
「シンジ君がここまできて、そしてまた、レイちゃんもきてくれれば・・・・・使命を完遂したレリエルの議定心臓、わたしは消えるんだよね」
 
いつも腹立つほどに元気であったのがずいぶんと弱気というか寂しげな口調であったが、もはや以前の差異しか感じるものはない。反応するものは胸の内にはない。
 
 
「ああ・・・・・そうだね、そうだったね。わからないんだよね、もう」
 
 
言った時に、渚カヲルが向かった方角、おそらくは碇シンジとの再会点で強い発光が。
強い、強い光。この赤い瞳を持ってしてもまともに見たら失明していたかもしれぬほどの
すぐにおさまったが。もう、この星に二人の気配は感じられなかった。
 
 
レリエルはひなゆきせのところまで運んでくれた。そして、最後にこんなことを尋ねる。
 
 
「ねえ、なんでカヲル君は使徒になることを決めたんだと思う?」
 
 
ほんとに、ほんとに、それが知りたいのだ、という顔をして。自分はこんな顔をすることは生涯ないだろう、と思った。できることなら、答えてあげたかった。けれど
 
 
「知らない」としか答えようがない。さぞ落胆するものだと思ったら・・・・・
 
 
「そう・・・・そう、なんだ」レリエルはその答えのなにがうれしかったのか、満面の笑みをうかべてみせた。「わからないって言われたら、どうしようかと思ったけど・・・・そうか」一人で満足している。どこが違うのか、それこそ分からない。
 
 
「ありがとう、レイちゃん」
 
 
その感謝の言葉は理解の範疇外。・・・・・どちらが人外なのかわからない、とため息すらつけない。赤い瞳は研ぎ澄まされて人の血脈の頂、真紅の霊峰のごとく峻厳としている。
 
 
「怨(オーン)・・・・・・・・・・・・・・・・」
扉があったところから、参号機の咆吼が。それに続く破壊音。這い出きった黒い半機身が、これで用は済んだ、とばかりそれとも窮屈を味わった腹いせか、黒腕を放り回して扉を半壊させたのだ。扉は捩れ変形し、まともに開けることも閉じることもならぬ代物になってしまった。夏でもなく冬でもなく。そこから漏れ出る季節は秋気。みるみる星が紅葉していく。「あーあ・・・・もう無茶苦茶だよ。でも、黒羅羅・明暗、君たちは見事だよ。天晴れだよ。ほんとに好きだったんだねえ・・・・・人間のこと。それとも、それほどまでに人間が人間を憎んでいるのか」
 
 
感情を失ったぶんだけ、推論の速度と深度がハネ上がっている。
レリエルに数回の質問を足すだけで、だいたいの事情を手に入れることができた。
 
 
エヴァ参号機は使徒に汚染されていた。正しくは、参号機専属操縦者、フォース・チルドレン黒羅羅・明暗が、だ。さらに詳しく言うなら、明と暗、フォース、四重人格のうちのふたり、この人格が使徒なのだ。このことをギル、マイスター・カウフマンは承知していたはず。ゆえに、あの奇妙な申し送り、セカンドと呼ばずフォースと呼ばせた。・・・現段階ではその意図はまだ明らかにならないが。参号機が黒と白の二色に変色するのも、エヴァの免疫、抵抗だったのかもしれない。使徒バルディエル、議定心臓をおさめる特定の体をもたず、ただその時代時代で最強の個体を自らの戦車にして使命を果たす。同じ使徒からも忌避される異端の使徒。最強の幻想冠をえさに人の道を束ねて操る遊戯の魔性。
その方法論が目的になってしまっている狂える使徒。バルディエルが当初、どのような使命を得て地上に降臨してたのか、何者も知らない。それを確認できる議定心臓が見つからないからだ。過去、それを問うた使徒はレリエルをのぞいて無惨に破壊された。
弱点、または存在意義といっていいコア、議定心臓をやられぬ限り、使徒は何度でも復活する。それをどこかに秘匿してしまっているバルディエルは不死身といえる。
 
ながらく、使徒でさえもその秘匿方法が分からなかった。
 
しかし、最近そのからくりに気づいた使徒がいた。「最高に頭良くて、賢くて、利口で、なんでもお見通しで」レリエルはそう言った。・・・誰のことかすぐに見当がつく。
 
いったん、議定心臓を自分で粉々にしてしまい、これはと目をつけた強者の体にのみこませる。人の世に自分のコアを流してしまうのである。
漁業協会の人が鮭の稚魚でも放流するように。
 
概念だけになったバルディエルは、人の世を眺めて強者たちが勝手に動き出し歩き出し集合するのを待てばいい。最強の名を求めて、寄り合わせた糸のような道を黙っていても歩き出す。最強は流浪する。常に証明せねばならないから。高みを望むこととは違い、競い争う相手を必要とする。最強は、ひとつところにとどまれない。ゆえに、道。
道には終わりはない。適当なところで、散逸したコアが再集合したところでバルディエルが立ちはだかり、コアを奪い、ついでにその最強に近く育った個体も乗っ取る。
逃げることをしない最強志望を手玉にとるのはバルディエルにとってたやすいこと。
どちらにせよ、逃げる道などないのだが。
 
こんなことを時代時代にバルディエルは繰り返してきた。どういう目的があるのか。
 
ただその過程を楽しんでいるようにしか。やはりこの時代にも同じことをやる。
 
人を操るのはひどく簡単。最強を求める者に、力であるバルディエルのコアはひどく簡単に融合する。大昔から繰り返されてきたそのプロセスはいつしか目端の利く人間にある種の儀式として取り込まれることもあった。宗教儀式。祭礼。このステップを踏むことで、最強など求めぬ、さほどその気もない、自意識すらまだ芽生えていない幼少の者までバルディエルコア、略してバルコアを取り込む場合があった。こうなると目的は組織への忠誠などということになり、その場に停滞し放浪しない移動しない歩かない。バルディエル自身も予想していない新展開。それでは道を逸れる可能性もあるが、どうせ他の彷徨える最強志望に破れるだろう、と高をくくって目を離していた。やはり道をゆき他の最強志望を喰らってきたものの方が強かった。例外はやはり脆弱であり王道とはなりえなかった。
 
 
そのはずだったが・・・・・・・
 
 
杯上帝会なる宗教組織において、聖餅と称してバルコアを与えられた痩せこけた幼児が、かつてないほどに高レベルの精強がそろったこの時代の最強になるとは。
競争相手をことごとく、喰らいつくして。自らの力の謎を解き明かしての挑戦者。
しかも、人並みはずれた力と体を己に与えた存在に激しい憎悪と敵意を燃やしている。
バルディエルは興味を覚える。
 
 
その奇妙な人間には、いつの間にか、”フォースチルドレン”なる名がつけられていた。
 
 
 
誘い込んだのか誘い込まれたのか、追いついたのか追いつかれたのか。
 
 
「じゃあね、レイちゃん。できれば、また光馬で」
レリエルは光の球になって飛んでいった。自分の帰るべき場所へ。
 
 
「怨(オーン)!!!」それを目にしたのか、
再び咆吼して、右手をありえない長さまで伸ばし続けて、殺意に塗れた黒い指先は光馬に届いたのだろう。そのまま参号機は、バルディエルは亡者のように上昇していった。
 
 
未来に向かって、皆が急いでいる。自分など置き去りにして。手など出せない、なんの影響も及ぼせないと知っていても。その場に立とう、と強く思った。思考はそれを無駄なことだと結論したが、手はいまだ天上切符を握りしめ、銀鉄ひなゆきせにもう一度、無理を頼んだ。
 
 
そして、旅の終わり。ここまでこの身に容れて命を運んできた。赤い瞳が写しに来た。最終地点。天の果て地の終わり。自分たちの道が、はっきりと分かたれた場所にたどり着いた。
 
 
光馬天主堂。
 
 
その扉を、開く。感情がなくなっても、手が、震えた。