水がおいしい
 
 
もう一口、のんだ。
 
 
おいしい
 
 
ここが砂漠で、ようやく辿り着いたオアシスで水を・・・という状況ではない。
 
 
たんに、水自体がおいしいのだ。名水、というやつだろうか。
 
 
ここは病室。他の患者がいないところからすると、個室なのだろう。実はここは大部屋で、自分以外の患者は気配を消すことにものすごく長けており、音はもちろん匂いすらさせない、という可能性もないわけではない。そんな、忍者病室なのかもしれない。ならば、ここに入れられた自分も忍者、ということになるが、そんな記憶はない。
 
 
とん、とん、水の容器をサイドボードに戻した。
 
 
ベッドから降りるか、どうか少し迷って、やめておく。
 
足の感覚は、右だけが茨でも生えたかのように異様に鋭く、左は煙に巻かれたような。
バランスが、とれていない。
 
 
そう、バランスを簡単にとるための、”感覚器”が、足りていないせいだった。
 
 
もうそろそろ、結果が出る時間。・・・・15時だ。鳩が三回鳴く。
 
 
もう一口、水がのみたくなったが、やめておく。どうにも、雲を踏むような。
 
踏み外せば、転落。深い谷底へ・・・・・というのは、未練に過ぎるか。
 
自分で選んだことだ。アヌビス、暗い谷底を選んだのだから、何を恐れる必要がある。
 
 
 
それでも、水を飲もうか、と思ったところで、鳩の時計が三回鳴いた。15時だ。
 
 
 
病室のドアが開いた。
 
 
 
「さて、うまくいったかね」
 
 
陶器や料理の焼き具合でも確認するような、余計な水分の一切無い、声。
 
陶器作りや料理と違って、失敗したから何度でも、というわけにはこちらはいきそうにないのだけれど、文句をつける筋合いもない。こちらには試すどころか、その発想すらなかったのだから。ぐいぐいと、暗い夜道を照らしていくような気概はこちらの具合も問わぬ。
 
 
「マルコム」
何人か同行してきたのだろう、指示のように名を呼べば、早くもなく遅くもない、適正としかいいようのない速度で、これが熟練、というものか、目を覆っていた包帯が解かれていく。
 
 
 
 
 
 
光の届かぬ暗闇の代わりに、ひらけるのは、赤。
 
 
おぼろげに、影、輪郭のようにして、見える人や周囲の姿。やはりここは個室であり、
 
 
人は三名。自分の前にいるのは、かなり体格のいい人物だ。これが、マルコム。
 
 
「赤いかい?」
 
マルコムではない、うまくいったかね、と先ほど一番に言った、水気のない声が。
こちらの状態を正確に把握しているらしい。見えるか、ではなく、そう問うてきた。
 
 
「はい。赤い・・・・です」
 
見えぬわけではないが・・・・・異形の視界というべきか。赤と黒。小説でもあるまいに。
 
 
「これが限界だ。今のままではね。調整や努力の問題じゃあない」
 
リハビリをしようが、この状態が続く、ということを告げられた。それでも、前の状態よりはずっといい。ここが忍者の大部屋なのでは、などと余計なことを考えずともいいのだ。
 
 
「はい。皆様にはお世話に・・・・・」
 
「ただ」
 
礼の言葉を遮られた。「方法がないわけじゃない。というか、今が無理してるんだけどね」
 
「?」
 
「綾波でない者に、赤い目玉を移植したから、そりゃそうなる。当然のことさ」
 
「!?」
 
 
「なまなかの義眼なんぞ入れてもまったく太刀打ちできやしない。ほとんど呪いだね。で
、特に強い奴をいれたからね、・・・・・・・あんた、綾波になる気はないかい?」
 
 
ずいっと、声の主が近づいてきた。赤の中にも強く輝く、二つの赤を感じる。
頭から呑まれるような、圧迫。あまりにも話が理解を飛び越えて・・・・綾波に、なれ?
 
 
「ナダ様」
男の声が諌めるように。その名を呼んだ。それだけで通じるのだろう。二つの強く赤光が距離をとった。
 
「あまりにも先走りすぎると、後継者に怒られるぞ」
別の男の声も、やれやれといった調子で。年配の女性らしい声の主は、というか主の声は、強い力を持っているようだが、こうして制御してもらえる陣容ももっている。その点では、まともな組織、というわけだ。後継者も心配ないようだ。
 
 
「回りくどいのは好みじゃないんだよ。身内でなければ改造なんざ出来ない。いくら孫娘が頼んでも、出来るところまで治療して終わりだよ。ああ、どんな返事しても足の方は必ず直してやるから心配いらない。さ、どうする」
 
 
「綾波、になれば、あなた方の配下になるのか」
予想にない流れ、とはいわない。
 
「身内といっただろ。目上の言うことは聞いてもらうけどね」
 
「・・・・どのようなことでも?」
等価交換は、世の習い。そうであるなら、まだましか。
 
「いろいろあるだろうけど、使いでのある若い奴なんか特にコキ使わしてもらいたいけどね・・・・ま、大きなところでは、身内で争うなってことだけさ」
 
 
主の声は即答だったが、最後だけ、わずかに苦く、迷うようで。
綾波ナダ。綾波党党首にして綾波レイの祖母。彼女の真実の匂いを感じた。
己には出来ぬ、出来なかったことを、他の流れに求める。もしくは、新しい若水に。
 
 
治療が終わって、自分の足で立てるようになれば、身の振り方を考えねばならぬ。
 
 
「獣飼い」には、戻れまい。
 
 
そもそも再びエヴァを起動できるかどうかも分からず、業界の流れも変わるはず。
 
 
犬飼イヌガミ、という名も。
 
 
流してしまう時がきたか。
 
 
身内で争うな、ということは、逆にいえば、よそにはケンカを売りまくれ、ということか。
 
 
それとも、身内を守ってくれ、ということか。
 
 
 
さて。水は方円に従うというが・・・