ニフの庭
 
 
その大深度施設はそう呼ばれていた。そこで何が行われているのかを知る者は少ない。
歴とした本部施設でありながら、ただ広大な冷凍領域として知られているのみ。
凍結樹海、という怪奇な植物群がはばをきかす世界・・・・もとより動物が入り込んでどうこうできる場所ではない。北欧神話における氷と霧の国、ニフルヘイム、からとられた頭二字はだてではない。陽の光も届かないくせに樹木が育つはずがないのだが。
もとより、この地下空間そのものがネルフの、人間の造成したものではない。”発見”したのをいいことに勝手に利用しているだけのこと。封印されうつろうことをしらぬ冬、陸封された古代生物のように、その中に、気紛れななにかが趣味のようにして造って飽きて忘れたような氷室のようにしてあったそこは、発見当初から都市建設の間、深度が深度であったから巨大な冷凍庫、貯蔵庫、避暑地など、これといった有効利用もされることもなく冷たく寒いままにこれまた半分忘れ去られたように放置されていたのだが、使徒との戦が始まり、エヴァ初号機が降臨し、ある人物が第三新東京市にやってきたのを契機に、名を与えられた。命名したのはその人物。
 
 
碇ユイ率いる探検隊が踏破を企んだことがあったのだが、途中で挫折。
いけばいくほど寒くなる、これがほんとに日本かと疑いながら死にそうな目にあった。
踏破でなくて、調査でいい、と碇ゲンドウが鼻毛を凍らせながら止めなければ何度でもアタックしただろうが、断念することにした。他にやることがありすぎたせいもある。
人間では無論ダメなので、エヴァや埋者を使っても、どうしても途中で迷ってしまう。
このまま、死の国までつながっているのでは?そんな冗談に笑いも出来ずに歯の根が合わぬ。この時の人造人間を使っての強引なルート探査が、地上へつながる「回廊」を発見するのだが。大昔の人間の聖域であったのか、魔よけの丹(に)がえんえんと塗られている・・・その距離、その執念、ピラミッドの石積みにも匹敵する・・・・それは「二の回廊」と命名された。古代の香りもなんもない命名者のドンブリぶりがうかがえるそのまんまさである。
 
 
ひたすら寒く、果てがないほどに広い・・・・・この大深度施設におけるネルフ本部の人間の評価はそんなものである。行ってみようとも思えない。セキュリティレベルも高くはない。その必要もなく、勝手に入り込めば凍死間違いないからである。盗まれる機密も存在しない、地質学や気象学、植物学、それらを統括したガイア地球生物学、調査区域を考えればかなりリスキーではあるが、考古学など、学問的には貴重で価値ある領域なのであろうが、使徒戦で忙殺されるネルフスタッフたちにとっては、存在は知っていても、話にも、意識にもあがることはないような空間。最前線の使徒戦場にあって探検までしたいとは思わない。そんな体力もない。エヴァをはじめとする特重の機密に日々、囲まれていると、そのような秘密の園など、あってなきがごとし。そこを管理する主の、趣味の空間、程度にしか思われていなかった。一般スタッフの注目度において、諜報部員K氏のスイカ畑とえらく違わない。そのような、目でみられていたのだ。寒さを利用した種子保存庫シードバンクにでもしたのではないかという話であり、誰が好きこのんでわざわざそのような所へいくだろうか。皆、それほどヒマではない。
 
 
ただ、一度だけこの領域が発令所で大注目を集めたことがある。使徒戦がらみである。
 
 
大量の使徒来襲の折りに、冷凍気使徒・シャルギエルが降臨し、夏しか知らぬ都市を一気に隅々まで凍結させて冬にしてしまったことがあった。その冷凍波(フリーズブラスター)は息子のシンジではなく、碇ユイが駆る実験機モード(激強)のエヴァ初号機を一度はカチコチに凍らせたくらいの威力があった。いってみれば将軍クラス、かなり強い使徒であったのだが。そのシャルギエルを、二の回廊から、大深度地下のここまで吸い取ってしまったことがある。どういう理屈か原理か、発令所スタッフにはさっぱりこんなのだが、事実そうなった。時間がくれば溶けて消える、という楽観視をする人間は本部にはほとんどいない。そんなわけで、そこには使徒が、それもかなり強烈な力を持ち、コアがないからそれを砕かれたわけでもない、つまり殲滅されたわけでも、とりわけこれといったダメージを受けたわけでもない、状態のかなりいい、良好、というか元気な使徒が、そこにまだいるはずなのだ・・・・・、生きている、というのも語弊があろうが、ネルフ本部は使徒の生体標本を所有していることになる・・・・・なぜか、世界の横槍も入らず、情報、データの開示をなどと騒がれることもなく、本部スタッフに神経質に怯えられることもない・・・・その事実を、確かに、知りながら。その一件の起きる前と変わりなく。おそらくは、他の使徒たちと同時に撤退していたのだろう、と。二の回廊が再度開かれた報告もないのだが、管理者の方もそれについて特に語ることもなかった。
 
 
ニフの庭は、静かに、そして穏やかに、存在する。
 
 
いくらこれといった使用方法がないとはいえ、本部大深度地下、これだけの領域を、「なぜ」わざわざ「外部」から人を招いて任せることにしたのか・・・・。それほどまでにして、しなければならない、その人物にしか出来ない、なにかがあるのか。使徒分析部・部長職、”教授”霧島ハムテル・・・・・渚カヲルが、エフェソスの使用方法と引き替えにしてもその地の見学を望み、元は学者である冬月副司令でさえ、管理者の許可無しではその扉を開かない・・・・総司令碇ゲンドウは近づくことさえしない・・・・・
都市全域を凍結する超絶レベルの使徒を捕獲しておきながら、平然と平穏を続ける・・・
学問の庭・・・・そこは、結界ではないか・・・・・まるで意識しなかったけれど
 
 
考えてみれば、おかしなことだらけ・・・・・・
 
 
綾波レイは、自分がどうして”ここ”に向かってきたのか・・・・理解しはじめている。
ここにこなければ、ならないのだ。
 
肉体も精神も疲弊しきり・・・・零鳳と同じで折れてしまったのだ・・・・
 
そんな状態になって、ようやく、呪縛が解けた。弱り切り細くなった自分を縛っておけなくなったのだ。ここまで来る途中に、頭に巻かれていた紐が解け落ちた気がする・・・・・思い浮かぶのは、穏やかなあの教授の顔だけ・・・・秘儀秘密をそもそも秘密と感じさせなければ・・・それは最高の知恵の番人のありかただ・・・、賢人ともまた違う、まるで魔法使いのような・・・・
 
 
渚カヲル、彼はそこで何を見たのか・・・・あれほどの能力を持ったフィフスが探しきれずに、案内を求めて、ようやく目にしたであろう、「なにか」・・・・・・
 
 
それが何か・・・・・自分は、たぶん知ってはいるのだろう。分からない、見抜けなかっただけで。ニフの庭に、零号機で降り立ったことがある。「あるもの」を持って。碇司令の命令で、いつものの運搬作業のひとつだと気にもとめなかったが。心当たりがあるとしたら、それだけ。だが、それは発令所の皆が、機密の閲覧を許されるレベルであるならネルフの関係者、その他の組織の業界関係者も。見ている。目にしている。
渚カヲルも当然・・・・・”その場”にいたのだから。謎でもなんでもない。
わざわざ取り引きしてまで、目にしたいものであるとは・・・・・一度見て、忘れられるような代物ではないのだ。それになんの意味があったのか・・・
 
 
碇シンジは渚カヲルに会いにいく。・・・・・必ず実現させるだろう。頭に来るが。
この両者はイコールとして考えた方がいい。同じ場所に立つ・・・間違いない。
自分の知らない間でこそこそと画策して、とっくのとうに旅立って・・・・・
 
 
・・・・わたしに黙って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・碇君
 
 
死に損ないであるはずの綾波レイの顔に、うすく朱がさす。頬ではなく、額に。
しかし、それも、一瞬のこと。酷使につづく酷使で身体は限界をとうにこえている。
今ので逆に、くらっときて、ぶっ倒れそうになった。ここでこけたら最後、二度と歩けないのは悟りきっている。起きあがる力などないのだから。
精神力も使い切り、今の綾波レイの身体を動かしているのは、怨念とか妄執の類である。
自分の生き霊で自分の身体を二人羽織で動かしている、というのに近い。雪白般若の演舞にて、切符を買わずに銀鉄に乗せてもらえるような有様である。
 
 
ここまできて知っておくべきは、渚カヲルの軌跡。ただのフィフスではなくなった、使徒への転換点がどこであるのか。彼は道を誤った、と単純に非難できないのがつらいが。
 
 
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない・・・・マタイ書 第22章 14節
 
 
自分は招かれたけれど、選ばれなかった。この状況からするに、そういうことなのだろう。
彼らは選ばれた・・・・・選考基準は不明だが、レリエルの趣味かも知れない。
その誘いにホイホイのって、ホイのホイのホイでどこか遠くへ行ってしまった碇シンジ・
 
・・・・・・再び、くらっ。崩壊寸前綾波レイ。
 
なんだって、碇君は、いつも、こちらが、”二度と許さない”と思うようなことをやるのだろうか・・・・関わること自体がそもそも間違っているのだろうか、それとも、二度と許さない、などとしながら関わろうとする、こちらがばかなのだろうか。一度ならいいとでも思っているのだろうか・・・・・いやます怨念。
理性では分かっているのだ。碇シンジに少しでも脳みそがあれば、絶対に自分に相談などせぬであろう、と。自分の望むことを望むようにやっているだけなのだ、と。
立場が違うのだ。所詮、同じ場所に立つことなどできない。ましてや、その隣など。
 
 
まとわりついてくる冷気をおしのけながら、歩を進める。
 
 
ニフの庭の入り口まで来た。
 
 
大深度の果て、といってもあくまで人間用の通用口。分析部の人間が使用するルートであるし、道順の知識と電子錠とガードシステムを沈黙させる能力さえあれば、ここまでは簡単に来られる。霜がおりうすく氷が張っているこの白い扉を開けてトンネルを抜ければ。
 
 
・・・・・渚カヲルでさえ迷ったという広大な凍結樹海を抜けられるかどうか・・・・
目的とするべき場所はある。異なるルートであるが零号機で踏み込んだ記憶はある。
”あれ”を運び込んだ場所にいけばいい・・・・。大事なことが分かるだろう。
その予感のままに・・・・・・赤い瞳を扉横のリーダーに走らす。瞳孔走査。
 
 
ゴンゴンゴンゴンゴン・・・・・重たい音ともに扉がゆっくり開く。
 
 
通路とは桁違いの冷気が吹き込んでくるかと残りの力でわずかに構えていたのだが、不思議なことに、そこから吹いてくるのは穏やかで、暖かな風だった。アイルランドで言う豊穣の風クリエーダーのような。一瞬、広大なヒマワリ畑に立ったような錯覚さえおぼえる。
 
 
「おや」
穏やかで暖かな風が口をきいた。聞き覚えのある。ここで聞こえるのは当然のことなのだが。現在状況を考えると、それでいて、ひどくアンバランスな感じがして。防寒コートなど着ていながらそれが決して無粋にも野暮にもならぬ、スタイリッシュにみえてしまう知的な紳士がそこに。
使徒分析部の長、”教授”こと霧島ハムテル。
 
 
なぜ、ここにいる?自分のことは棚にあげておいて、疑念に赤い瞳を大きくする綾波レイ。
確かに今は使徒戦ではないが、それと同レベルの、もしくはそれ以上の異常時なのだ。
研究仕事とはいえ、自分の庭にのんきにひきこもっている場合じゃないだろう・・・・。
 
 
かといって、それを逆に問われれば返す言葉もなく
 
 
エヴァ零号機のパイロットだから・・・・・
 
ということでは相手を説得しきれまい。残念なことに。
 
通報されて送り返されてしまうだろう・・・・・悪いが、ここは眠ってもらうしか。申し訳ない、と心の中で拝んでおいて、凍結樹海の抜け方を瞬間教授させてもらうことにしよう・・・・・・一瞬で、そこまで判断して巨人の名をもつガキ大将的理念を発揮して綾波レイは実力行使に出ようとした。が・・・・
 
 
 
 
「”杖”を受け取りにきたのですか。そうですか、やはり、あなたが・・・」
 
 
 
その一言で、ここまでの冷気に耐えてきた身体が一気に凍りついた。
 
 
「つ、”杖”・・・・・?)声は正常な結晶になる前に割れ四散する。目の前の相手が何を言っているのか分からない。あの時、自分が零号機で運び込んだものは・・・・・
 
 
 
「杭」だ。
 
 
 
エヴァ初号機を貫き北の地にて岸壁に磔にしていた、杭だ。
材質は木材でしかないものが、あの巨体を貫き重量を支えていた・・・・・
彼の乗った機体は貫かれたまま第三新東京市に戻り、そのまま使徒を撃破した・・・
あの雷降臨で燃えもせずに・・・・確かに科学者が研究したくなる素材であろう。
その材質の特性が解明されたという話もきかない。運搬作業はしたが興味はなかった。
渚カヲルが興味をひくのも無理はない、そして、あれを行ったのはレリエルだ・・・ラインが繋がるのではないか、とそう思った。けれど・・・
 
 
「杭」ではなく・・・・「杖」と。確かに、目の前の相手は、そう言った。
 
 
「ずいぶんと計画のスケジュールが早まったものですが・・・・」
 
 
初号機の杭、ではないのか。杖・・・・とは、なにか、他にここにあるのか。
頭がくらくらする。強い混乱と、焦燥。こんな所にきたのはまるで見当違いの
 
 
「地上はすでに赤い海底・・・・・ですか・・・・・・おや?」
 
 
「どうも、違ったようですね。いや、混乱させてしまって申し訳ありません」
綾波レイの反応から、己の先走りが分かったようで、それでも大して慌てるふうでもなく、霧島ハムテルは少女の心を乱してしまったことを謝罪した。
 
 
自分に伝えられない機密・・・・・・碇司令は・・・・・なにを考えていたの・・・・
 
 
ここで何が行われていたのか。人知れず、注目されることがあってもすぐに静かになり、氷河湖のごとく穏やかなままで・・・・
 
 
「知らないのなら、それでよいのです。聞き流して置いて下さい・・・・それで、ここへはどんなご用ですか」
この状況下でこのタイミングでそんなことを言われても肯けるはずがないのだが、この人に言われると、なんとなく聞き流してしまおうか、という気になってしまう。
 
 
「え・・・・・・あ。あ・・・)
やはり声は意義が結晶化する前に崩れ砕けてしまう。
尤もな質問であり、問答無用で通報連絡されたり、不覚悟を怒られたりするよりはるかに有り難いが、正直に答えられるものでもない。あえて言うなら「こちらにはカンで、なんとなくやってきたんですが、後付の理由としては、今さらなんですけど、なんとも怪しいあの杭の様子が気にかかって見にきたのです・・・と、こんなところですが」あたりになるが、もはやそんな体力はない綾波レイである。立っていることすら出来なくなり、膝からへたりこんでしまう・・・・・「おっと」それをやわらかく受け止める霧島教授。
 
「なんにせよ、その格好ではすこし寒すぎますね・・・・お話の続きは研究室で・・・」
こんな風に霧島教授のようなおじさまにやさしく声をかけられた日には、綾波レイも完全にまかせきって倒れ込むほかない。碇シンジを想って頭に朱をのぼらすのとは正反対の安心感が倍加させる眠気にあっさり支配されてしまう。
 
 

 
 
ぺて ぺて ぺて ぺて ぺて ぺて
 
 
頬、額、顔のあちこちにひんやりとして、それでいて柔らかい感触に目が覚めた。
意識が覚醒ラインから頭を出したか出さないか、というところでの急速浮上。
まずい!!赤い瞳が焦燥の火をともす。
自分が眠っていた、という恐怖、間に合わなかったという悔恨が一気に襲いかかる。
 
 
最悪の目覚め。眠りにおちてこのまま死んでしまおうかと思ったことはあったが、目覚めてここまで強い感情が励起されたのははじめてのこと。庭の前まで来て、そこで眠りこけるとは・・・・なんたる不様。周囲を、世界を認識するのがおそろしい。碇シンジをあっさり味方につけた使徒軍団がとっくのとうに人類を殲滅させて、地下にあった自分だけが生き延びてしまったのではないか・・・・どれだけ時間が経過したか・・・・自分の存在が過去のものになってしまうことがこわい。
 
 
ぺて ぺて ぺて・・・・・・・・・
 
 
浦島の恐怖に震えている自分の顔を、さわってくる子供たち・・・・・さきほどの感触はこれか・・・・ぺて ぺて ぺて・・・・・さわりまくるし・・・なんだこの子たちは
年の頃は、5,6歳。少女と言うよりは幼女、アイヌの民族衣装のようなものを着て。
6人・・・・そっくり同じ顔をしている・・・・6つ子なのだろうか・・・・
青い髪と蒼い瞳、肌は雪のように白い・・・・・そして、冷たい掌。
ここは・・・見慣れない型式の簡易仮眠室のようだが。自分の身はベッドの上にある。
空調は効いているので寒くはない。病室に逆戻りした・・・・わけでもなさそうだが。
 
 
「ああ、凍傷には気をつけてくださいね 君たち」
霧島教授の声が後ろから。首だけ振りむくと、事務机がありそこで優雅に紅茶を飲んでいた。幼女監禁・・・・・というイメージとはその姿はあまりにもかけ離れている。マナという愛娘もいることであるし。しかし・・・・こんなところに子供がいていいわけはない。
まさか特別に雇った技手(ハーバリウムスペシャリスト)でもあるまい・・・・囲い娘?
 
 
「目が覚めたようですね。では、お話があるので、君たちはお庭で遊んできてください。すみませんが、編み物の勉強はお休みさせてください。これから忙しくなりそうなので」
霧島教授がそういうと、アイヌ風の六つ子は素直に従って、仮眠室から出ていった。
子供の割にはやけに静かだと思ったら、口をきかないからだと気づく。
 
 
「ゆっくり寝かせてあげたかったのですが・・・そちらの方がよかったですか?」
椅子から立ち上がり、ベッドの横に立つ霧島教授。
ぶんぶん、と強く頭をふる綾波レイ。それどころではないのだから。あんな奇妙なやり方でも起こしてもらったほうがいい。
問いたいことはいろいろあるが、まずは寝こけてしまった時間の確認だ。一年も一月も経ってしまったようなことはないようだが、この部屋の中には時計は見あたらない。
 
 
「眠っていた、というよりは気を失っていた、というほうが正しいでしょうね。かなり、衰弱している。なぜ歩けるのか不思議なくらいです。まるで呪いをかけられた姫君のようですよ・・・・私が医師ならば絶対安静を命じるところです」
 
「・・・・・・!」振り出しに戻りそうだが、やはり教授にも気を失ってもらうしかないのか。恩知らずもいいところだが、そんなことは誰より自分がよく分かっているのだから。
 
「けれど、そんな状態で君はここまでやってきた。・・・・・なにか、やるべき事が、確かめるべきことが、あるのでしょう?それが終わらねば、眠ってなどいられない」
 
 
肯く。・・・・そう、そのとおり。ここでやり通さなくては心が死んでしまう・・・なんて大げさなことを言う資格もない。なんとしてもやり通すならあの時、零鳳初凰を振り抜いて鉾を切断してしまえばよかったのだ。その代償として、第二支部を再び失おうと。
あの時、瞬間の判断として、碇シンジより、第二支部にいるであろう大量の人員を選んだ。
本音で本心であり、真剣はそれに応えて、折れた。
片方を選んだのなら、片方は捨てるほかない。道は高速で分裂する。降りなかった駅のように。乗り続けた列車のように。片方を望んでおきながら、その後でまたもう一度、とろうなどという虫のいい話は。そこで感じる心の痛みなど、まさしく幻。
 
 
もし、この凍る庭で、杭か杖か、よく分からないが、渚カヲルがここで見て、何かを感じたであろうものに、軌跡を感じて、彼が至った、使徒になる、などという結論に同調、納得してしまったらどうなるか。その結論は、正しかった、などということを自分が理解してしまえば、今後、エヴァには乗れなくなる。碇君にもなにかの予感、予兆はあるはずだ。
最も優秀なチルドレン、指揮管理用エヴァのパイロットであり、手本になる存在であったフィフス。彼のレベル、彼の視界、彼の位置に至ることになれば、出る結論はそうなるのか。彼が特異でイレギュラーなのか。そうであれば、単に人類への裏切り者、という話で済む。だけれど、そうではないのなら。自分たちより一足、二足進んでいたはずの彼。
チルドレンとして、正当なルートで進化していくと、「そこ」へ辿り着くというなら。
その地へ至れば、それまで持っていた己の意志など消し飛び、全く新しく高機能なものに書き換えられる・・・・仏教で云う解脱や悟り、というやつだが。彼は道を外れたのか。
それとも、ただ単に、自分たちの誰よりも早く、ゴールのテープを切っただけなのか。
 
 
そんなことを考える自分は・・・・・思想犯なのだろう。本部内でこんなことを口に出せばどうなることか。使徒を倒す身でありながら、対敵存在としてでなく、使徒寄りの身体。
意志や魂は、純正の敵意を保つべきなのだろうが・・・・・パイロットとして。
 
 
 
 
「このニフの庭に、君の運んできた”杭”はもう、ありません」
 
 
「!!」
綾波レイの息が止まる。
驚くべき事を告げる霧島教授。穏やかな、いつもと全然変わりない顔で。
 
 
「それでもよろしければ、人の魂を凍らせる凍結樹海を散策されますか。何を探すのか、君もよく分かっていないようですし。それでも、求めますか、心を納得させる、なにかを」
 
 

 
 
領域が広大であるだけに、移動手段は開発されていた。すみませんが、歩いて行くしかありません、と云われたらかなり困ったので、それは助かった。入り口扉わきにある詰め所兼研究室からトンネルを抜けると、すぐに雪原。そこからちょいといくと凍結樹海が広がっているのだという。ここから樹海など見えないのだが・・・・距離感覚が当然、市街のそれとは違うのだろう。が・・・雪原の果てまでいくとなると、ただでさえ弱った足では無理。トンネル口は、移動手段たちのステーションのようになっている。
 
 
「・・・・・・」
なかなかの壮観だった。やはり足の確保がこういった場所では生死を左右するのか。さまざまな工夫をされたさまざまなタイプの移動手段がゴロゴロしていた。
いろいろと改造を加えられたらしい、一応ネルフのロゴの入ったスノーモービルなどは基本であるからいいとして、
遺伝子操作したわけでもない、ここに昔からいて、襲いかかってきたのを捕らえて調教したのだという、熊ほどもある巨大な三頭犬による「犬ぞり」。
前面に樹木伐採用の刃物をとりつけた・・・・ネルフロゴはないが砲身もちゃんとある「戦車」。
ノーマルの無改造であるのが、逆になんかこわい「ウィンドサーフィン」。
ゼロヨンに使うようなでかいエンジンをくっつけた「ボブスレー」
 
 
それから・・・・「雪だるまの人力車」。これはオブジェかとおもったら、これも立派な実用的乗り物であり、なおかつ、一番小回りが利いて速いのだという。ただ、扱いが難しいらしい。動力はなんなのか、それは雪だるまが引いて走るのだから雪だるまなのだが、雪だるまの動力がなんなのか、外からはうかがい知れない。車に、雪玉がたくさん入ったバケツがあり、それを座席から雪だるまの後頭部めがけて投げつけると、怒った雪だるまが犯人を捜すべく前進する・・・・・そういう仕組みになっている、というのだが。
説明になってない気もするが、綾波レイもこれ以上つっこむ気力もない。説明役に好きにしゃべらせておくだけだ。
 
「左右の操縦は、投げる雪玉の球種でコントロールします。右に曲がりたければ、こう、右から角度をつけて、投げつけます。たまに後ろを振り向くことがありますので、決して目を合わさないようにしてください」
 
合ったらどうなるんですか?、とは聞けなかったし、聞かなかった綾波レイである。
 
・・・これに乗らしてもらうことになったのは、三頭犬の犬ぞりは、その体躯のくせに犬がこちらに怯えて使い物にならないこと、スノーモービルは操縦にかなり体力がいること、クレバスなど地形に習熟していないと危ないこと、から不可。霧島教授のお薦めは「戦車」であったが、安全確実であるが、かなり遅いらしい。泊まりがけの大仕事で使用する装備であるし、戦争するわけでないから電撃な速度はいらないのだろう。さすがに仕事の主力で使用するものを借りるわけにもいかないし。
 
 
・・・・・引き返す、という選択肢はない。発車してしまった列車のように綾波レイは前だけを見ている。あんまりいい傾向ではないのだが、もはや立ち止まって考える力もない。
 
 
なんでそこまでしないといけないのか・・・・・・・
碇シンジが渚カヲルの誘いにのって、使徒になり、その軍団に加わる、というのなら。
それでいいではないか。人類の裏切り者二名を待ち構えて討つだけのこと。敵うかどうかは別の話だ・・・・。それがチルドレンであり、エヴァのパイロットというもののはず。
自分だけがそれを知っているための義務感か・・・・こちとら巫女ではないのだ・・・。
 
疲れて果てて、もう全てのことがどうでもよくなってきているのかもしれない。
感覚のない、無重力の中。・・・・・そのはずなのに、こんな寒い思いをしながらなんとか立っている。あの二人を追っている。なんのために?使徒になったことを納得し、それを赦せるなにかを探すほど自分は偉くない。放っておけばよい、と心の中で囁く。それを見つけて終わりにしたいわけではないくせに。
 
レリエルではない。レリエルは”ここにこい”、と言ったのだから。
 
手違いではない、故意だろう、あの碇君は、自分を誘わず、自分一人だけで行ってしまった・・・。
 
 
もはや頬や額が赤くなるようなことはなかった。心も体も十分に凍りついている。
この凍る白い世界の中で、対となる瞳の紅。爛々と。三頭首犬が怯えるはずである。
 
 
絶対零赦(ぜったい、ゆるさない)
 
 
人を赦すためにいるのが、聖人や聖母なら、
なにがなんでもとにかく絶対赦さないためにいるのは・・・・
アイヌ紋様の特製防寒着に身を包んだ紅瞳のそれは・・・・・
白い魔女以外のなにものでもなかった。それも、自らの生き筋をのせた予感を失った。
 
 
そのためには
 
そのためには
 
そのためには
 
 
こうなった女は、唐突に悟りを開く。その内容は「なにをいったいどうすれば男が一番弱り困り果てるか」であり、あらゆる理論、推理を超越したその閃きは男にとってすれば先手の先手の先であり、あわれ盤上の駒と成り果てる。運命の露と消え果てよ。
 
 
 
”杖”の所で待ってみる
 
 
 
一週間でも一月でも一年でもそこで待つ。十年でも夢のよう、百年でも夢のまた夢、千年ならば一瞬の光の矢のように過ぎることだろう。だって、そんなのはあまりにも楽しすぎるじゃあないか。なにせ、追わなくとも必ずそこに現れるのだから。そして、そうされることがなにより困るはず・・・・・。基本的に、綾波レイは人の困ることをして喜ぶような性格ではない。寄り縋る女の手というのは、古来より聖なる階梯を進もうとする者に対しての試練とされてきた。人間的にいえば、そういうことはしてはいかんのである。自らの手にはめられたガラスの手錠のような、絆、縁、それらを想うならばヤケになってそういうことはしてはいけんのである。だが、ここ数日の綾波レイは全般的に周囲から敵味方信用するしないを含めて、目隠しされて袋だたきにあっているような状況であるので、そろそろ反撃に移ったとしても、人の魂、尊厳、バランス的に間違っていないともいえる。
迫害されてのちの反撃は綾波のお家芸でもある。
 
 
ほとんど魔性になりかけている綾波レイであるが・・・・・
雪だるま車夫がひーほー喜んで自らの車に乗せている。
 
 
最も現在近くにいる大人、しかも教授の称号をもった、娘までいるいい大人、であるところの霧島ハムテル氏はそれを止めようとも諫めようともしない。半死人の割に頑なななエヴァのパイロットをろくに説得もせずに交通手段を貸し与えて送り出しさえしているのであるから、ネルフ本部的にいえばこれはもう犯罪である。銃殺かもしれぬ。
少女の強い意志にうたれた、という理由も無論あるが、二番目。
 
 
「・・・・冷凍蜜柑のようですね」
 
 
「え)
 
碇シンジばりの唐突な単語セリフに振り返る綾波レイ。ほら、これだけで魔性は薄れています。要するに、彼女は甘えているのです。冷たいのか甘いのかよくわからないような、あまりにも独特の甘さですが・・・・
おそらく、生まれて初めて発揮する甘さを抑えることは私にはできませんね。
 
 
「なんでもありませんよ。気をつけていってらっしゃい・・」
この後、この一件がばれたらどういう言い訳をするつもりなのであろうか、にこやかに送り出す霧島ハムテル。「雪喰丸(シュネーフレサァ)、その子を頼みますよ」雪だるま車夫にも声かけて。
 
 
綾波レイも一礼かえして、雪玉を雪ダルマ車夫にぶつけると、人力車は猛然と雪原を突っ走っていった・・・・スノーモービルより全然速い、おおよそ非科学的な速度で。