ちゃぶ台の上に袋に入ったジャムパンがあった。
 
 
碇シンジが学校の帰りがけにパン屋によって買ってきたものである。パン屋の名は「ク・リトル・リトルマーメイド」。評判にひかれたわけでも漂う香ばしい匂いにつられたわけでもなく、さらにいうならその店はそのふたつとも有してはいなかった。商店街からも外れたもはや倉庫街に近い、買い物客をあまり相手にしていなさそうな立地とやけに黒色配分の多いエスニックというかデモニックな内装、飲食店舗に必須のハズの暖色がほとんどない、肌感覚的にも涼しいを通り越して底冷えのする雰囲気、女の子の店員さんの服装がゴスロリであるのは売りであるのかどうか、そして何よりやたらに海産物内蔵のパンの多さ・・・・・・というか、見慣れた種類のパンがほとんどない・・・・
 
 
開拓しすぎたな・・・・・・と店に足を踏み入れた瞬間、碇シンジも思ったのだが冷やかしとかお試しとかいうユーザーフレンドリーな単語が通用するとは明らかに魔性を秘めとる店員さんのエメラルドグリーンの目を見るととても思えず、買うしかなかった。まさか毒でもないだろう、「はい、なまこパン一丁あがりっ!こりこりした感触が最高!」奥の厨房からは元気な男の職人さんの声が聞こえる。まあ、造ってる人が熱心で真面目で普通の人なら、まあ大丈夫かな、と思ってみても。「だ、そうだ。買ってみるのも一興であろうよ」などとレジの前で頬杖ついているゴスロリ店員さんに言われるとその気も消失する。きなこパン、ではなく、なまこパン、で間違いない、らしい。
広いはワールド、いやさ世界は広い。この新感覚味覚を開拓するべきか、どうか・・・・・・
 
 
ヘタにハマってしまい、ここに毎日くることになってもたまわんな・・・・”たまらん”と”かなわない”をブレンドした単語を新開発するだけに今日のところは留めた碇シンジ。
そして、短かかったような長かったような今も続いているような主夫生活で鍛えられている買い物アイでここで買うべき品物を発見した。
 
 
棚のすみっこにある袋入りジャムパン。他のはこの店で焼いているのをそのまま棚に置いてあるので袋になど入っていないが、これだけ工場配送のように袋入り。実際見てみるとよその県の工場製品だった。それから普通に賞味期限内の品。味も普通そうだ。
トレーにトングで掴んでひとつ。チョイスはそれだけ。別に他の物も食べられないわけでもないのだろうが、資金もそれほど豊富というわけではない。これは食費の内ではなく。
 
 
「これください」
正確には(これだけください)だが、あえて人様の好みにケチをつけることもないしケンカを売ることもない。
 
「ああ、・・・買うのか、それを」
エメラルドグリーンの目が少し見開かれた。意外だったらしい。千円札でお釣りは九百円。
売買行為は無難に終了した。そのまま後にしてしまえばいいのに好奇心が口をついた。
 
「なんでそれだけここの焼きたてじゃないんですか?」
 
不平不満には聞こえないとられない響きで。損失補填によその売れ筋をあえて仕入れたわけでもなさそうだ。店はアレだがこれは普通のジャムパンなのだ。どこでも買えそうな。
こんな店でも買えてしまうほどの流通パワーを持ち合わせた普通ジャムパンだった。
おそらく、何の気なしに第三新東京市でも買えたことだろう。
 
聞いた後で不健康な毒舌でもかえってくるかと思いもしたが、えらくあっさりと
 
「手作りもいいが、たまにはよそのものを食べたくもなる。妾らの食べる仕入れ分の余ったものをそこにおいてあるだけのことだ。ちなみに、こちらの儲けはのせていないぞ」
正直な答えがかえってきた。それで絆されて常連になるには笑顔はちと剣呑であったが。
 
 
ともあれ、パン屋をあとにして大林寺に戻ってきた。成長期のはずの14才の割には途中でジャムパンを食べながら、ということもせず、「ただいまー」と玄関で靴を脱ぎ自分の部屋にいくまえに居間によりちゃぶ台を出してそこに袋に入ったジャムパンを置いた。
シャワーなんぞ浴びはしないが、制服から私服に着替えて、冷たい麦茶でもいれて、それから食べようと思っていたのだ。超特急で食べようと意気込んでいたわけでもないし、なんならもう水上左眼がくることもないだろうから夕食と一緒に食べても良かった。食べ物は大事なものだが、本日の碇シンジはすべての注意力をそこに傾けるほどでもなかった。
 
 
「・・・出てくる」
 
と、父親の碇ゲンドウが少なすぎる言葉とともに玄関から出て行ったこともなんとなく耳に残っている程度であった。「父さん、お帰りって言ってくれないんだね・・」とナイーブなセリフも当然なく。着替えながら「ふーい」などと適当に生返事を返していた。
その姿も直接は見ていない。「これが、父さんの声を聞いた最後でした・・・」とかいう天からのナレーションもない。おそらく夕飯の頃には戻って来るであろう。冷蔵庫に何もなければ適当に何か買って帰ってくるかもしれないし、こないかもしれない。
 
 
こんな時、男親子の思考というのは異様にシンクロする。
 
 
父さんが買ってきてくれるだろう、と思って息子が何も買わずに待っていると、
父親も、息子の方がどうにかしているであろう、などと考えててぶらで戻ってくる。
 
 
父さんのことだから、何も買ってこないだろうなー、と思って適当に息子が料理をでっちあげていると、父親はそんな時に限ってたまには、と大きな袋をさげて帰ってきたりする。
しかもその日に食べねばならぬようなナマモノ刺身系。なぜかそこで父親は保存の利くものを買ってきたりしないものだ・・・。
 
 
逆なら丁度よいのだが、それが男親子というものである。
 
 
さて。
 
 
そんな碇シンジが自分の部屋から居間に戻ってみると・・・・・・ジャムパンがない。
ちゃぶ台の上に確かに置いていたはずのジャムパンがない。
 
 
「消えた・・・・?」
 
 
一応、ちゃぶ台の下などを探してみる。周囲を捜索してみるが、ない。見つからない。
食べられるのがイヤで自ら足なり羽を生やすなりして進化逃亡していったとか・・・
そうだとするとなんとなく同族意識を感じないわけでもないが・・・・・
 
 
「けど、そんなはずは・・・・」
 
 
今、この家にいるのは自分ひとり。さきほどまでは父親がいたが、今は自分一人。
その自分に身に覚えがないことが起きてしまった。食べた覚えのないジャムパンが消えてしまっている。テレビを見ながらポテトチップを食べながら意識のないまま食べ終わる、ということはままあることだ。「あらら。なんでなくなってんの?袋をあけたのは覚えてんだけど・・・ミステリーねえ」ミサトさんが不思議がっていたことを思い出す。
それにしたって、自分が食べようとしていたという自覚は残っているわけで。
それすら自分の中にない、というのは・・・・・・
 
 
「うーん・・・・・・」
 
 
自分の左腕を見てみる碇シンジ。別にパンくずがついていたりはしない。匂いを嗅いでみるがとくにイチゴジャムの痕跡などは感じない。血糖値の上昇まじりの微妙な満腹感もとくにない。
 
 
「となると・・・・・・」
 
 
泥棒か。空き巣狙いの。基本的に海賊の根城であるところの魔海都市などと呼ばれるだけあって自分の港、陸の上での治安はいいとか聞いていたけれど、こんなものであろうか。
確かに、父さんなどは全く持っていないかその逆にかなりの額を貯め込んでいるかの両極端に見られがち。自分でお金をもっていれば泥棒などする必要もなくそれで食べ物が買えるわけで。もし侵入行動中にお腹が減っていれば、そこに都合良く食べ物があれば手を出すかもしれないし、胃袋の中に仕舞い込んでしまうのも考えられる。
 
 
「逃げといた方がいいかな・・・・・・」
 
 
すぐさま寺内を巡回して異常がないか確認、もし侵入者がいれば即座に撃退!などという
景気のいいことを考えないのは今の自分を知っているからか・・・・・
耳を澄ますが、別に誰かが金目の物を物色しているような音は聞こえない。
 
もしくは、ここが「自分の家」だという感覚がないせいか。
 
 
「今まで全然来なかったけど・・・・・・まさか、勘違いした観光客の人とか・・・・・お寺の好きな人っているし・・・マニアの人の熱意ってすごいし・・・鉄道好きのテツならぬお寺好きの”テラ”とか”オテラー”とか・・・”テラへ・・”・・ついどこでも入っていっちゃう年配の人で、おまけに超能力もあってつい居間まで入ってきてついちゃぶ台の上にあったジャムパンを食べて、もう帰っちゃったとか」
 
 
推理と妄想とは違うものなのだが、もしこれがホラーであるならもうすでに後ろに立つ怪人に鉈でガッツリ頭をカチ割られているであろう悠長さであった。しかも居間から移動しない安楽椅子ぶり。別にどうしてもジャムパンが食べたかったわけではないのでお預けくらったビーストめいた怒りがあるわけではない。
 
 
「あ・・・・」
 
 
この大林寺に一方的自由にやってこれるのは唯一人・・・自分が確定して言えるのは・・・・蘭暮アスカ、という例外が先日あったけれどあれは父親が招いたものかもしれないし・・・・ともあれ、この寺に好きなときにやって来て好きなように振る舞うのは一人。
 
 
「ヒメさん・・・・・かな?」
 
 
半分仕事の豪華絢爛な食事には飽きているらしく、ざっかけない食事をここで求める水上左眼であるなら、自分が帰るまえに上がり込んでいたあげくに自分と入れ替わりに居間に入って目に入ったジャムパンを食したとしてもおかしくはない。
 
「別にあの人も腹ぺこキャラってわけでもないんだけど・・・・むしろ飽食のネオ胃薬キャラっていうか、御前さまならぬ午前様キャラっていうか・・・・ああ、そのまんまか・・・なら、お茶漬けキャラとか・・・うーん、それだと怪奇少女マンガ家みたいだな」
が、そうなると水上左眼がまだ寺の中にいることになる。変温動物みたいに水風呂にでも入っているのか。本人がいないと言うことも思うことも好き放題であった。
 
 
「けど違うだろうな・・・・・」
 
 
その気配がない。ここまで来て気配を消すなり隠す理由があの人には全くない。言いたいことがあれば言い用件をすませばさっさと帰るはずであるし。夕飯まだだし。
 
 
「蘭暮、アスカ・・・・・・・」
 
 
その可能性は。自分たちと似たような立ち位置にいる彼女で「あるなら」。
けれど、その仮定もまた怪しい。そして、それは望むべくもない。
ジャムパン一つでよくそこまで懊悩できたものであるが、その内部にあるイチゴジャムの保存優先のどろりんとした赤さが、アンタバカの頭尾「ア」と「カ」、暗号的に連想させたか。
 
 
 
この時点の碇シンジには「とある心理的プロテクト」がかかっており、”まずは考慮するべき可能性”に全く頭がいっていなかった。これでは名探偵どころか、その助手の小林少年にもなれそうにない。いいとこ少年探偵団団員のミツヒコ君くらいだろうか。
 
 
 
「けどまあ、やっぱりヒメさんだろうな・・・・あんなこと言ってたけど今日もいたんだ。お芝居みたいに入れ替わりに居間に入ってきたんだけど、ジャムパンについ手を出してかぶりついたところに・・・・父さん口封じのお茶菓子がわりに勧めたのかもしれないなあ・・・そこに急な呼び出しがあって、パンをくわえたまま帰っていったから何の声もしなかった・・・・父さんと一緒に出ていったのかもしれないし・・・・・・・おお、スラスラ謎が解けていく・・・そうだよ、ちょっと不可能に見えても完璧に不可能なことを除外していけば、残る可能性が真実なんだ!いやー・・・夕飯前だっていうのに頭脳労働しちゃったなあ・・・・さ、気分良くなったところで買い物いこうかな」
 
 
自信だけは怪盗ルパンなみの碇シンジであった。ルパンは謎を解いた後で夕食の心配などしないだろうが。
 
 
生活費の入っている茶筒から紙幣を取り出すと、買い物袋もって出かける準備。寺という構造上、戸締まりなどしてもほとんど意味がない開放ぶりなので鍵もかけない。
つい先日までこの寺から出るな、となどと言われていた身で戸締まりを考えるのもカバらしいことであった。そんな玄関で靴をはき
 
 
「いってきます」
 
 
誰に言ったわけでもない。言った方がベターである、という判断が働いたわけでもなく、ただの慣れ性、葛城アジトでの躾の名残といったほうがよい。その響きはてめえの胸に、すとんと落着する。そして、商店街への道を一歩づつ歩もうとした、矢先
 
 
「待って、もらおう」
 
 
声がした。水上左眼が立ち塞がっていた。少し息に乱れがあるようだが走ってきたのか。
碇シンジは違和感も感じなかったが、スーツ姿のあちこちに妙な皺が残っていた。
 
「あら、ヒメさん」
これはかなりの一大事なのかもしれないが、そんな予感もなく、ごきげんよろしい小学生のような挨拶をする碇シンジ。
 
「ジャムパンのことならいいですよ。そんなに慌てなくとも」
 
謎は解けたのだし、ジャムパンがそれほど食べたかったわけでもないのですべて許すおおらかな気持ちになっていた。
 
「ジャムパン?なんのことだ?」
 
それなのに、ちょっとこの現地の最高権力者であることをいいことに明らかな犯罪をとぼけにかかっていたので、碇シンジのジャスティスが燃え上がった。別に、たまたま買ったジャムパンがどうしても食べたかったわけではない。たとえ看守と囚人の関係であったとしても、食べ物を奪っていいはずがない。食い物の恨みはおそろしい。これは碇の血なのか。
 
 
がー、っと
 
 
言ってやった。言ってしまった。言ってヤッターマン初号の碇シンジであった。
 
 
言われた方の水上左眼は事情が呑み込めず、やはり寺から出すべきではなかったか、とか向ミチュの力が悪い方に巡ってきてしまったか、とか、自分が処理すべき問題にからめてその発言を考慮してみたが、どうもそうではないらしいことに気付いた。もめ事の処理は慣れていることもある。碇シンジは見落としていることがある。ちょっと考えれば誰にでも分かることであるが。三秒で分かることであるが。分からない方がおかしいことであるが・・・ちょっとムカついてきたが、我慢する。相手は子供なのだ。腹をすかせた子供なのだ。おそらく、よほどジャムパンが食べたかったのだろう。よく考えたら彼らに自炊させているが、たまには豪華な食事に連れて行っても罰はあたらないではあるまいか。
 
 
 
「・・・こうは考えられないか、シンジ殿」
 
 
一段落落ち着いたところで話を切り替える。本当は厭な予感プラス急用があってきたのだが、当人が目の前で無事ならば構うまい。なんとか、間に合った。駄々を諫めることくらいなんということもない。叙述トリックでもなんでもなく地の文的にいっても水上左眼はジャムパン消失については無罪であった。全く完全に。先ほどまで激務に疲れてつい事務室で居眠りしていたら夢見は最悪、なぜか冬月コウゾウ氏(当時は何を思っていたのかドクター・バナナなんぞという偽名を使っていた)がナレーションを務める竜尾道の苦労と苦痛の多すぎる昔話だった、というわけで今日、大林寺に来たのはこれが最初で犯行時刻に現場にいなかったのだから。久々にウインタームーン妨害念波を浴びた感じで疲労は回復どころかさらに強まった。なぜか、あの方は自分に向けては他者に応対するような柔和で知的な仮面の下の青筋の浮いた顔を見せるようなところがある。苦手であった。
 
さらに、居眠りから覚めたのは因島ゼーロからの呼び出しがあったせいで、これも自分が命じていた仕事であるから不機嫌になれない。のでよけいにストレスが重なる。
そこに碇シンジにジャムパンがどうの意味不明なことをわめかれては堪忍袋の尾が切れてもおかしくなかったが、耐える水上左眼。理性の力で。思考のパワーで。真実を明かす。
 
 
「ジャムパンを食べたのは、ゲンドウ殿だと」
 
 
心理的プロテクトさえなければ、三秒で分かることである。
 
 
「その時点で寺の中にいたのはゲンドウ殿とシンジ殿の二人で、シンジ殿が無意識に食べてしまいそれを覚えていないという可能性を除外すれば、ゲンドウ殿しかいないだろう。ここにいらっしゃるなら呼んで聞いてみればいいのだが、外出中のようだな・・・それより」
問題が発生したのだ、と水上左眼が言いかける前に
 
 
「そんなはずはないよ!!!」
 
碇シンジが吼えた。
 
 
「あの父さんがジャムパンを食べたなんてそんな不可能トリック!!世界最高の推理小説家でも考えつかないよ!!」
 
 
そして、論理性のかけらもない奇怪なことをほざく。
 
 
「ゲンドウ殿が自分が食べたのだろう・・・たまには、人間、そういうことも、ある」
自分がそうである水上左眼は一応言い返す。説得は不可能だろうな、と思いながら。
 
「もしくは、寺のどこかに隠したか。保管のために冷蔵庫とかにな。・・・人を疑う前によく探したのか?シンジ殿・・・・それより」
メンテ中の竜号機は置いて自分の城から急いで駆けてきて先回り出来たようだが、こんなことでいらん時間を潰している場合ではない。信じられないことだが・・・・・
 
 
”札”を持たない者が突如ゼーロの検知にひっかかり、この寺に向かっているという。
速度自体はさほどのものではない、人の歩行のそれだが、方角的に間違いなく。
”坂”を上がってきている。確実に、迷うことなく正確に角を曲がりながら。
 
 
札を持たずにこの竜尾道に外から逗留を許されているのは、この碇の親子のみ。
正確には閉じこめているわけだが。
札がなければ、この地に足を踏み入れることさえできない。いかなる手段を使おうが。
逆に言えば、それがなければ、戻れない。
 
 
許されざる、三人目。
 
 
ゼーロの検知にまず間違いはない。そうであればこそ懐かしい悪夢から叩き起こされた。
その出現は街の中で竜尾道外縁からではない。外からの侵入では、ない。内部にすでに入り込まれたあとでの発覚。なんらかの術が作動していたのが今になって切れたのか。
 
「”札”をもたない、というより・・・・”札”の力を無効化、もしくは覆い隠している・・・・そのような感じです。”札”の故障・・・いや劣化、というべきでしょうか、そのようなことは考えられませんか」ゼーロの問いには即座に「ない」と答えた。それならば自分に”分からぬはずはない”のだ。
 
 
何者か分からぬが、それがこちらにやってくる。目的は間違いなく、碇シンジ。碇ゲンドウという可能性もあるが、この場にいないなら自分の才覚で難を避けてもらうほかない。
 
 
「・・・・・もしかすると、泥棒が入っていたのかも・・・・」
あくまで父親がジャムパン食べた説を受け入れない碇シンジ。危急でやってきた水上左眼に聞き捨てならぬことを言い出す。
 
「泥棒など入るはずがない。この地に犯罪者がいないとはいわないが、ここは特別だ」
どちらかといえばここが牢屋なのだから、とはさすがに言わなかった。
 
 
「いやー、だってこの前、クラスメートの女の子が簡単にここまで来てたし。あ、言っておきますけど、その子は泥棒とかじゃないですよ?ジャムパンなんか嫌いですよたぶん」
それなのに、さらに不穏なことを言い返す碇シンジ。
 
 
「・・・・なんだと?そんな報告は受けていないぞ・・・・・・誰が、来た?」
隻眼に鬼火が灯る。もはやジャムパンどころではなかった。カンであるが、”そいつ”だ。
 
 
「え?あー・・・まだクラスに馴染んでないんで、名前までは・・・・顔は、まあ、可愛かったような・・・美人だったような・・・・」
 
「ふむ・・・同じ、転入生だろう?」
それだけ聞いて目の動きを見れば水上左眼には見当がつく。外の人間に長期逗留の札を与える際には相応の身元を調査するが、それを乗り越えてきたワケか・・・・まあいい。
 
すぐさま界外追放にしてやる・・・その後で、相応の報復を与えてやろう・・・。自らの巣を荒らされた竜のような目になる水上左眼。その者の事情など興味すらないといった。
 
 
そこから、表情というものが、消える。すうっと、人の顔の色というものが、失せた。
 
 
代わりにあるのが、強固な意志で鎧われた底光りする鱗。人が触れることを許さぬ硬質。
 
 
ジャムパンがなくなった程度のことをこまかく説明してみせた人間と同一とは思えない。
その激しいギャップに萌えるどころではない碇シンジは慌てた。さすがにいらんことを言い過ぎたことに気付いたのだ。僕のバカバカ!!と悔いてみてもいまさら遅い。
これで蘭暮アスカさんの領地外退去は間違いない。うわー、である。うわー、であった。
 
 
その時、水上左眼の携帯電話が鳴った。「私だ・・・・札の反応が、・・・戻った?通常の逗留者のそれに・・・間違いないのか・・・・お前が言うならば、ないのだろうな、今は・・・・ゲンドウ殿と一緒にいる・・・・?・・・そうか、分かった。ご苦労だった」
内容を隠す気もない声が静かに通話スイッチを切る。碇シンジに分かることは、水上左眼の顔が人のものに戻ったくらいのことだった。未だにこの街は暗黒のそれだった。
 
 
「シンジ殿」
 
 
水上左眼に呼ばれて「はい!」と手先を伸ばしてぴったり直立不動の姿勢になる碇シンジ。
未だに父親ジャムパン食べた説には賛同していないが、左眼が食べた説は取り下げるほかないだろう。自分や他の人間が食われてはかなわない。ジャムパンくらいなんてことない。
お供えだと思えばいいんだ。食べたくて買ったんじゃないし。しつこい気もするがそうだ。
 
 
「今日の夕食は出前にするのはどうだ?いつもよばれてばかりであるしな。支払いは私がもつから特上の寿司などどうかな」
 
 
しかし、水上左眼は意外なことを言い出した。疑われたのに寿司を奢ってやろうなどと。
本心はまったく読めない。ただ自分を足止めしたいだけなら別にそう言えば良いだけのこと。出前寿司を注文する必要はないだろう。「・・・ああ、わさびは抜きの方がいいか?」
しかももう携帯電話で注文しているし。「あ、大丈夫です。父さんも大丈夫だと思います」
答えつつも分からない。もしかして、かなり嬉しい情報を渡してしまったのではあるまいか。「そうか。・・・では、配達時間はあまり急がなくて良い、ああ、それくらいで。それで坂の下で待っていて戻ってくる髭の着流しの男に渡してくれ」出前といいつつここまで来させないのが不思議なところだ。あまり考えてなかったが、寺周辺によほどえげつないセキュリティを仕掛けてあったのだろうか。
 
 
「では、中で待たせてもらおう・・・・いささか、行儀が悪いが、本堂で横にならせてもらう・・ぞ・・・ふぁ・・」
あくびをしながら行ってしまう水上左眼の背を見ながら
 
 
「父さん、いつ頃帰ってくるんだろう・・・」
 
もし今日に限って帰りが遅かったりしたらお寿司屋さんはずっと待つことになるだろうし。本堂に水上左眼が消えたのを見送って碇シンジは坂を降りていった。居間で茶でも沸かしていればよいものを。寿司目当てではない。奇妙な予感があったのかもしれない。
 
 
危険が一旦、収まったかのようにみえる。その時こそ。つけいる隙。ゆりかえしがある。
強大な竜がなにも感じないものでも小さな人には大危険なことがらもある。あの人の感覚は見本にはならない。同じだと思っていたらどえらいことになりそうだ、と。自分に近いものがそばに、来ている。水上左眼に言わせると「今更おそい」ということになるが。
それから、感じているものの種別は異なる。
 
 
 
ぞくぞく
ぞくぞく
どうぞく
ぞくぞく
 
 
 
坂をおりながら肌が粟立つ。夕日にのびる影がぺりぺりと引き離れていくような感覚。
長らく旅していた一つ目人間の国からようやく出国できたような、雑音のせぬ波長領域をようやく探し当てたような。安堵につながる同調感覚。針先よりも狭い帯域。それがすぐに終わってしまう転落の予感。口にすれば電波になるが、目にすれば
 
 
薔薇のように
 
 
坂のおわりに誰か立って、下りてくるこちらを見上げていた。姿は見慣れた少女のもの。
 
惣流アスカ。
惣流アスカラングレー。
 
ここにいるはずがないのに、なぜか、こんなところに再びきている彼女。
交わることのない路線図に、輝点がある。輝きの色は・・・・・
 
 
誰一人いなくなったあとの空ノ蒼
 
 
こんな色は知らない。
 
 
が、惹きつけられる。自分の目の色が夜雲のそれになっているのを碇シンジは知らない。
 
 
「”あなたなのね”」
 
 
と少女の唇が動く。初めて会う者に対するように。この地に来てこれで弐回目。
罰だというなら受けもするが、こんな目の色をした君は知らない。
 
 
「”おかあさんは、どこに?”」
 
 
そんなことも聞かれる覚えはない。ゆらり、とその姿が陽炎のようにゆがむ。
 
 
「”でも、あなたでも、いいのかもしれない。便利だけど、代わりがないなら”」
 
 
よく分からないことを言っている。どのようなことを言っても届きそうにないことだけは分かる。生まれようとしている赤ん坊のように、こちらのいうことなど聞かないだろう。関心事はたったひとつしかなく。強烈にそのことだけを。求めている。何者なのか、と名称づけることもできない。
 
 
 
怪物と呼ぶには、その顔は。
 
 
 
「シンジ殿!」
 
 
背中にえぐっと活を入れられた。呼ばれてから入れられたのか、入れてから呼ばれたのかは確かではない。声の主が水上左眼であることはすぐに分かった。そして、惣流アスカは自分をシンジ殿などとは呼ばない。いいところシンジ様だ。それはともかく活の入れようがさすがなのか、すぐに意識は明瞭、周囲の状況が見て取れた。自分は坂の途中で尻餅ついてへたりこんでいる。すぐ後ろには水上左眼。そして、見下ろす坂のおわりに蒼い瞳の少女の姿はなく、寿司屋の出前の人とすし桶を受け取っている父親の姿があるだけだった。
 
 
「何があった?誰か、来ていたのか?」
本堂で横になって寿司と父親の到着を待っているはずの水上左眼がなんでここまで来ているのかどうか、考える前に
 
 
「いや、誰も。おなかが減って坂を転んだだけです」などと嘘をついていた。
 
キロ。冷たく睨まれたが変更はなし。「水木しげる先生的にいうと、ひだる神にとりつかれたってやつでしょうか・・・急に体中から力がぬけていって・・・」虚言癖があるわけではないので言っている内に自分でそれを信じてしまうことはない。確かに、いた。
 
 
「なるほど・・・」
納得などしていないが、碇ゲンドウの姿を見てそちらに聞いた方が早そうだと判断した水上左眼。今は、札の消失反応が二度あるとは思わなかった自らの油断を責めた。そして今夜中にその者を狩りだしてやるつもりでいた。この怪物小僧を魂消させるとは相当な怪物だ。年季のいった舶来モノか。自分一人で守るには所帯が大きくなりすぎたかもしれない。
 
「ならば、すぐに寿司を食べるとしよう。力が抜けたなら、私が背負うかシンジ殿?」
 
 
「い、いえ、そこまでは大丈夫です!さきほどの活のおかげで」
言うなりシャン、と立ち上がる碇シンジ。異常には気付いているのだろうが顔色が変わらない父親の碇ゲンドウ。出前がなんで来ているのか疑問にも思っていないようにすし桶を。
 
「シンジ」
息子を呼んで、それを持たせる。自分はどこぞで買ってきたらしいパン屋の袋を提げて。
 
 
無言で坂をのぼっていく。