「志賀先生、僕はいったいどうしたらいいんでしょうか」
 
 
碇シンジはため息をついた。まさか本当に小説の神様にお返事いただけるとは思ってもいないからそれはため息以外のなにものでもなかった。若者はウェルテルの昔から悩むものだと相場が決まっているものだが、こればかりはありがちの恋愛関連ではなかった。
 
 
今日は楽しい日曜日のはずでいい天気、知り合いの女子でも誘ってデートでもすれば悩みも吹き飛びそうなものであるが、そうもいかない。学校はもちろん家(と呼んでよいものかそれもちと考えもの)にもなんとなく居づらいので、こんな文学史跡にいるのであった。明らかに、楽しくない。先頃から志賀作品に触れてその偉大さに大いに感銘を受けていたりするなら別だが、14歳の中学生男子が興奮するようなものはここにはない。
 
 
考えることは女性のことである。主に、というか、ほとんど。
 
 
其れ見たことか、などと草場の陰の志賀先生は追求されたりしないであろうが、本当にそれでいて恋だのなんだのではなかった。もっと剣を呑むがごとく、ソードリンクな話であった。
 
 
水上左眼から依頼(命令)された福音丸についての偽証調査、つまりはでっちあげ工作に見せかけた父親の仕事の妨害。これを裏工作と呼んで良いのかたぶんだめだろうな。
うーむあの女誰かどうにかしてちょんまげ、とか大きな声で叫べたら気分がいいだろうな。
弱点らしい弱点もなく、なんせホームのど真ん中ときているのに、ラスボス宣言してないし。年相応の期待しかされない、というある意味自然な扱いは新鮮ではあったが。
 
 
それから、
 
 
蘭暮アスカ、に関することを調べてもいいのかどうか、火中の栗拾いでサルカニ復讐戦、焼けぼっくいに火がついた、なんてことになってはかなわないが、どう考えてもこんなところでうろうろしているはずのない人間がうろついているのは・・・・いろんな意味で放置できない。約束を反故にされたのかどうかも。他人なのだと言い張ればそれは無効になるのかもしれないが、ならばよけいにこんな所にいるはずもないのだし。一体全体。
ほっとけない、などともはや言えた義理ではないけれど。
 
 
それから、
 
 
綾波レイ。パイロットでたった一人残ることになって、あの都市をたった一人で守ることになった彼女。おそらく、岩をも貫く一念でやり遂げるだろう、やり遂げようとするだろう。その代償に自分の体が砕けても。ミサトさんもいなくなったとか言ってたしな・・・父さんもいない、リツコさんはどうだろう・・・止める人がいないんじゃないだろうか・・・副司令が・・・いや、綾波さんがそうと決めたら誰にも止められないよね。誰にも。
 
 
母さんならどうにか出来るかもしれないけど・・・・・それは
 
 
それこそは
 
 
「・・・無理ってものか」
 
 
嘆息する碇シンジ。空に吸われし十四のこころ。しばらくは文学少年のふりをして時間をつぶす。しかしながらいくら最近チキンな日々が続こうとも、以上の課題を抱えながら我が身のことだけを思い煩うわけにもいかず。
 
 
「仕事、しようかな」
 
 
当てにされているのが父親の足を引っ張ることであろうとも、とりあえず自分の足で稼がねば。綾波さんに笑われてしまう。そんなことは絶対にないだろうけど。怒るだろうけど。
綾波さんの辞書には怠ける、とかいう単語はなさそうだし。「移動が大変だけど」
コマンド式の探偵アドベンチャーゲームと違って目的地を選んで一瞬で移動、というわけにもいかない。次の目的地は閃光寺。ここに拉致されてきた晩に逃げ出した遊園地が併設してあるところである。
 
 
住民全員が忍者のように身が軽くて間宮林蔵のように足腰が達者なわけでもなかろうに、この坂道部分の生活というのはやはり大変だろうなあ、と思う。そしてハタと思い返す。
「・・・なるほど、駕籠やさんが営業してられるわけだ」
 
 
必要経費は請求してもいい、と言われていたから駕籠やを頼んでもかまわない理屈になる。時は金なり。一刻も早く謎を解き、この閉塞状況から打破できる都合の良い情報をゲットせねばならない身でもある。いくら若さまっさかりの十四の体でも坂道連続はきついし。だらしないやつめ、と笑ったりする人は現地にきてこの坂道具合を見てみればいい。
よくこんな坂道みっちりに家を建てたなと思うから。坂道というより逆落としと呼びたいような角度の道もあるし。平家に攻め入る源義経じゃあるまいし。やってられない。
その軟弱さを綾波レイなどが許すかどうか、もはや考えない碇シンジである。
 
 
呼ぶ方法は口笛である。町歩きの中でそれなりに地元情報を収集はしてあるし。何よりタクシー乗り場などがないかわりにまれに来る観光客のためか移動手段についての張り紙がしてある。口笛がだめな人は歌でもいいらしい。曲名は「おさるのかごや」か「バナナボート」か「木綿のハンカチーフ」か「夢の途中」のどれかで対応する会社がくるらしい。おさるのかごや、が、この前学校に運ばれたあの会社であろうことは想像に難くない。
 
 
唇をすぼめて一音を出そうとしたところで
 
 
「げっ。おまえは・・・」
 
 
 
 
 
 
他に周りに人がいない以上、お前呼ばわりされたのは自分こと碇シンジに相違なく。その声のトーンは自分を知っている者のそれだった。なんでおまえがこんなところに、と言外のニュアンスとこんな休みの日にあいたくなかった、と露骨なビター感が。それにしても若い女の子が「げっ」はないでしょう。まあ、アスカもミサトさんも言ってたけど。せめてかわいく「げろんぱ♪」とか。いや、よけいに落ち込むかな。
 
 
「・・・・・?」
 
しかし、その人には見覚えがない。年の頃は十代だけれど自分より上に見える。背も高い。
カンバスやら絵の具箱やらスケッチ道具一式もってきてるところを見ると、しかもベレー帽なんかをかぶっているところをみると、確実にここに絵を描きにきたのだろう。
しかも、けっこう本格的に。学校の宿題で嫌々適当、というにはそのナリからして。
この街に絵描きの知り合いなどいない。似顔絵描きが客になるかもしれない相手に「げ」はないだろうし。人間の特徴は目に良くでる。目の色をじっと見てみる碇シンジ。
・・・・しかし、覚えがない。キリッと引き締まって凛々しい感じで、その眼力の強さは忘れそうもないのだが。
 
 
こっちの探る目つきで己の失策に気づいたのか「ああ、そうか・・・分からないのか・・・・ふう、助かった」などと独り言をいう調子に記憶を刺激される。知った姿とあまりに違うから見抜くのに時間がかかった。
 
 
「お絵かきですか、生名さん」
 
 
それなりに丁寧に、あまり馴れ馴れしくならない程度に、親しみをこめたはずなのだが
 
 
「誰ですの、その方。存じ上げませんわ、ほほほ」
 
 
演技いれて誤魔化しにかかったからちとカチンとくる碇シンジ。しかも大根だし。大根なのが気にくわなかったのかもしれない。もうちょっと上手に僕をだましてよ!などと願わずにいられない。いつものグラサンにマスクの時代遅れのスケバン姿の方がよほど堂にいっている。ただ、それゆえに。「絵を描く」などという行為に彼女がちと羞恥を覚えているなどということは、割合に全力ガチンコで生きている女性と接する機会の方がこれまで多かった碇シンジには察しにくいことであった。あの姿で登校して教室にいられるんだからたいていのことはオッケーだろうと思うのだが、それは違う。
 
 
「お絵かきですか、生名さん」
 
 
完全完璧に、演技というのはこういうものですよと手本でも見せつけるかのように、先ほどと同じ調子テンションでリピートしてみせる碇シンジに、心のどこかが折られたのか生名シヌカはあっさり白状した。
 
「・・・・・ああそうだよ、絵を描きに来たんだ。このあたしが・・・ずいぶんと似合わない趣味だろう、笑え」
 
こんな文学史跡で絵を描くなんて高尚でけっこうなことだと思うだけだが
 
「僕の方が笑えると思いますよ。ここでやってることを考えれば」
 
直接慰めに類するようなことをいえば「なめた」だの「なめてない」だのいう話になりそうなので適度に正直な言葉をかえす碇シンジ。休日に趣味を楽しんで何が悪いことがあろうか。学校でツッパリとされている女の子が密かに音楽や絵画の天分に恵まれてそれをつよく好んでいても、それはそれは大変けっこうな橙道なことだと思うだけの話。
 
 
「・・・・まさか、自分で自分の髪を切ってたとかいうんじゃないだろーな・・・」
言いつつ、顔は笑っていない生名シヌカ。笑い話ではないのだろうか。
 
「なんですかその出典は・・・・・・」
偏見に凝り固まっているのかと思ったら意外なことを言い出すな、と感心する碇シンジ。
当たらずとも遠からずかもしれないが。
 
「お前、ここに何しにきたんだ・・・」グラサンに隠されることないその視線。ちくちくする。うーむ、なんか有名なたとえだったのだろうか。地元民しか知らないたとえはやめてほしいな・・・・もしかしたら日本国民あまねく知っている話かもしれないけど。
 
ともあれ、ここで長話をしているわけにもいくまい。
 
「では、僕いきますから。いい絵を描いてください」
 
「ああ」気のない返答とともに少々乱雑に画材を下ろしたのは照れているのか。
 
 
「・・・邪魔したわけじゃ、ないのか?」
それから妙なことを聞いてくる生名シヌカ。
 
 
「?」よく分からなかった碇シンジ。
 
 
「こっちに遠慮して移動するつもりなら・・・」
群れを嫌う不良の視点からすると先にいたこちらに占有権がうまれる、という話かもしれない。ああ、そういうことか、納得して言葉をかえす。「いえ、もう用事は終わりました。これからもう一つの用事を片付けにいくんです」
 
 
「ふーん、そうかい。・・・・一応、半ば義務で聞いておくけど・・・・どこぞにケンカを売りにいくとか、そーゆー話じゃないだろうね?」
画材道具を組み立てながら、ではなく、組み立てる前にそういうことを聞くあたり、やはりこの人は年上なのだろう。同じクラスであったとしても・・・・まあ、学校の人もひどいことをするよね。自分の存在を風船につり下げてからそんなことを考える碇シンジ。
休日は自分のためにのんびり過ごしてもらいたいもの。ここで介入の隙など見せられるはずもない。ケンカです、などといえばついてくるに決まっている。
 
 
「いえ、ちょっとした買い物です」
男の買い物に女の子が好きこのんでつきあうことはない。それからあまり余計なことは言わないこと。うそをつかないこと。用事を済ませた帰りに、ちょっとした買い物をすればそれはうそにはならない。
 
 
「嘘だろう」
 
しかし一秒で見破られた。完璧だと思っていた無害擬態があっさり看破されたことに納得がいかず目玉がバタフライする碇シンジ。
 
 
「・・・なんだほんとに嘘なのか」
下ろした画材を持ち上げる生名シヌカ。「あんで男ってやつは、すぐに嘘つくわりにはあきらめが早いのかねえ・・・」
 
「な、なんで分かったんですか・・・いや、買い物もあとで行こうと思ってたんですけど」
恐ろしい眼力だった。しかし、自分の擬態のどこかに致命的欠陥があったのだろう、それを聞いて改良せねばこれからの明日はない、かもしれない。かなり真剣に悩んだ碇シンジであったが
 
 
「分かるかよ、お前のことなんざ。ただ、怪しい野郎の言うことには毎回必ずそう返してるだけのことなんだよ」
 
種明かしは簡単なものだった。人間関係を考慮せねば確かにそれくらい効果的な方法もないだろう。それにしても学生の発想にしてはえらく殺伐としている。
 
「で、どこにケンカ売りにいくんだって?相手によっちゃ集合かけないとね」
野獣の魂が宿ったような凄みのある笑顔をうかべる生名シヌカ。誰を威圧しているのか、といえば自分だろう。これ以上、嘘をつくな、という脅しにちがいない。ペナルティは顔に落書き、なんてかわいいものではすまされまい。
 
 
「調べ物ですよ。ヒメさ・・・じゃない、水上左眼さんからの頼まれごとで地域の安全についての現地調査を」
 
「お前が?安全?・・・・全然って感じがするけど、ま、水上城の言うことなら・・・・・ああ、面倒なこと聞いちまったな・・・あー、その調査って時間がかかるのか?」
じろり、ともともと鋭いのをさらに鋭くして視線を突き込まれた。気のせいか痛い。
 
「え?どのくらいかかるのか・・・現地をぱぱっと見て怪しいところがなければ帰りますけど。期限は別にないので」
なんの調査なんだ、と聞かれると面倒かも、と考えていた碇シンジに消える魔球のような一言が
 
 
「・・・そうか。それじゃ悪いが、碇シンジ、あたしはお前を尾行させてもらう」
 
テンプルに炸裂する。カチン、どころではなく、しばらくガチン!!と息が止まった。
あたたた・・・若さと渋さの間で揺れるナイス30のごとく内心で悶える碇シンジ。
 
 
「はあ!?なんで?しかもそれを僕に言ってしまっていいんですか?そういうのは黙って知られないようにやらないと」
 
「そんな陰湿な真似ができるか。別に不倫の現場をおさえようってんじゃないんだ。お前は好きなように調査してなるべくてきぱきと片付けてくれればいい。ほら、とっとと行け」
しかも犬でも追い散らすように払われた。確かに黙って追跡されるよりは気分がいいが、それで相殺ゼロになるほどでもない。体育会式年下への扱われ方はまあ、新鮮だが・・・楽しいものではない。
 
 
楽しくないから、口笛を吹く。
 
 
それほどへそ曲がりでもクールを気取っているつもりもないが、これから尾行するぞ、と言われて大人しく、はあそうですかしてください、と認めてしまうのがしゃくに障るほどには碇シンジも子供であった。その方法はちとおっさんじみているが。
 
 
吹き終わらないうちに、駕籠やが来た。速度優先であるので、前に利用したことのある申緒駕籠交通にした。心の中で指名したのが伝わったのか、駕籠アスリートとして進化しきったとかいう兄弟がまたやってきた。「ご用命ありがとうございます」「ウホ!」
 
 
「閃光寺まで。急いでください!」
 
 
すぐに乗り込むとダッシュさせる。生名シヌカにも聞こえるような声で目的地を知らせるのはもちろんフェイクである。
「フン・・・」駕籠やの利用にも驚く様子もなく不敵に笑っているのが気にかかったが。まさか水上左眼のような真似ができる者がそうホイホイいてたまるか、金メダル王国かまたは忍者の里かここはさにあらず、と自らを納得させる碇シンジであった。
 
 
駕籠は確かに速い。この坂道だらけの街では車よりもバイクよりも確かに速い。
途中、水道工事で迂回、暑いのと攪乱のために八百屋に立ち寄り冷凍バナナを購入したりしたが、満足の速さであった。自分の足でこのアップダウンの距離を行こうとしたらそれはそれは大変であっただろう。この素敵な地元交通システムに感謝感激の碇シンジであった。ただ、完全に肉体力仕事であるので、美的感覚的にはちょっと満足度が減じるのはやもうえまい。綺麗どころが玲瓏な歌声とともにゴンドラを漕ぐようにはいくまい。
 
 
閃光寺には寄りもしない。併設の遊園地も同様に。そこであの夜会った因島ゼーロとかいう小坊主に話を聞いても良かったが、こちらが何も知らぬ状態だと何も話してくれないだろう。
 
 
目的地は、あの夜、”札”を持たぬ自分を捕らえに来た、という、福音丸の「腕」が発射された地点。計測も何もせぬあくまで予想、だいたいのカンでしかないが。エヴァのようなものが動けば、どうしても痕跡が残る。はず。今まで調べていないのは、まあ警戒心が足りぬといわれてもしょうがないとこかもしれないが、いずれ説明があるだろうとのんびり構えすぎていたためだ。管理もされていない野良エヴァがあるなんて思いもよらないしなあ・・・
上空からこの地全てを見守るはずの竜号機とそれを駆る水上左眼がそれを見落とす、となると・・・
 
 
まあ、現地にいってみれば分かるであろうし、分からぬかもしれないが、行ってみないことにははじまらない。父親の碇ゲンドウはこの福音丸に関しては口だけで片手間ほどにも動いていない。あまり問題視もしていない・・・・ようにも見えるが、単に手が足りないのでそこまで構っていられぬ、というだけかもしれない。
 
 
父さんも、本調子じゃないのかもね・・・・・・
 
人は24時間全ての季節で全知全力が出せるわけではない。何かを抱え何かを欠いて。
副司令が隣にいないから、なんとなく様にならないしなあ・・・っていうか50%減?
 
 
福音丸・・・その呼び名・・・時代がかった日本語訳、のようでもあるし、敬称がついているあたり、ただの兵器にしては扱いが・・・・乗り手に対するものだろうか
 
 
よそ者を狩る防衛機構として使用しているという面ではまさしくエヴァなのだろうが、人間相手としてはあまりにも鶏相手の牛刀すぎやしないだろうか。札で入里を完璧に管理してなおそれを突破してくる相手にのみ使用するとしたら見事な二段構え態勢と賞賛するところだろうか・・・となると、ヒメさんとは利益が一致しているし何も隠す必要も知らんぷりをすることもない・・・・「どうにも、ヤな感じだよ」
 
 
 
 
 
 
いくら速くともさすがに駕籠では無理なので、途中、渡し船で海路、竜尾道水道を渡る。
「食いねえ食いねえ」とこれまた片眼の船頭さんがなぜか寿司をすすめてくる。
途中で海上保安庁の上に「竜尾道警察署」と適当に上書きした所属だけは分かる黒白の快速艇に追い抜かれた。旅めく風情を楽しむ余裕などなく、海を越える人の行き来より単に船の通行を優先させてあるあたりは駅前の交差点とえらく変わらない。
船首に奇妙にでかい刃物を取り付けた漁船だか海賊船だかよく分からない船が忙しく行き交っており、ずいぶんな空気の変わりように手元の印籠を確認する碇シンジであった。
 
 
 
 
 
どくん
 
 
その時、強烈な視線を感じた。どんな濃い人間からも感じたことのないレベルの圧力。その圧力で左腕の義手が外れた。外した、という意識はない。外さなければならない、と体内の何かが認識したのかもしれない。駕籠やの兄弟がぎょっとした目で見るがごまかす余裕もない。どこからの視線なのか・・・・それを感知するため全身の神経を集中展開する。
 
 
いたわりでも友愛でもなく、ひたすらネガティブな敵意と悪意。自分に怯えがないのなら。
そう判定するしかない。全身に禍々しい文様の刺青でも強制印刷されたかのような・・・呪いを壺一杯に浴びるとこういう風になるのかと思う気色の悪さ。何よりおぞましいのはそれでいて直接、己の目の前に現れることは決してないだろう、陰性。理解の絶対拒否。
 
 
使徒にもこのような目で見られたことはない。不透明で濁り腐った・・・それ自体はさほど不自然なことではないが、桁が違う。気根することを拒否し無に削げ消えていくための、逆さまに循環する毒。大毒。これほどの巨大な量の毒を、放出できるほどに抱えて存在できるものがあるのか・・・・・歪みを、感じる。
 
 
これが福音丸の目玉なのか・・・・
 
 
こちらが探しに来たのを認識して睨みを効かしにきたのか。ロケットパンチをはじき返されたのがそれほどお気に召さなかったか。だとしたらずいぶんと肝の小さい地元ゴッドだ。
日中からあんな真似はしてこないだろうな、と計算するこちらも人のことは言えないが。
 
 
 
 
 
ふつ・・・・
 
 
「それにしても・・・」
冷や汗ひとつたらしながら、左腕を元に戻す碇シンジ。視線の源など分からないが、圧力は消え失せている。”見る”のをやめたのだろう。興味を失ったわけではなく、あくまで自分の存在を隠匿するために。手がかりをつかむ余裕すら与えない。そんな後味の悪い短さだった。
「パターン・グレー、とか言うのかな。こういう場合は」
 
 
どこに隠れ住もうとこの竜尾道にいるのなら、それを直轄支配する者が知らぬはずがない。
 
表には出ないが、人間なんぞ束になっても鼻息ひとつで吹き飛ばすレベルの魑魅魍魎が。
 
これを感じ取れぬならば節穴もいいところだ。が、”そうではないとしたら”。
 
水上左眼は自分たち親子、または自分に悪意があるということだ。それも自分で自分の墓穴を掘らす類の選りすぐりの。
 
・・・・切迫した事情があるだけで、話せば分かる相手であればいいな、と思っていたのだけれど。
 
 
 
 
船が向こうに着いた。碇シンジのこれまでの人生で最も短く最も不吉な船旅であった。
 
 
渡船場ではチャイダーを飲みながら人が待っていた。
 
 
「遅かったなー。ま、学生のふぃーるどわーく、なんてそんなもんだろうけどなー」
どういうわけか、生名シヌカであった。まさか泳いで渡ったわけでもあるまい。そりゃちょっと寄り道もしたが、追い抜かれた覚えもない。ショートカットしようにも行き先が分からなければ。ちなみに、チャイダーとは、茶とサイダーの名物ブレンドである。
 
「もうちょっと遅けりゃもうここでスケッチはじめてたかもしれないね、ま、ギリセーフ」
 
 
「な、なんで・・・・・」
もちろんこんな偽装スケバン(学年降下)の先回りトリックなどどうでもいいことではある。それが分からなくても人生生きていける。なんか地元民特有の手があるんだろう、とスルーしても誰にも咎められないだろう。しかし。この先、この地でいろいろと厄介な謎を解いていかねばダメそうな今日この頃であり、ここで負けていてはピカラット貯金が減るばかりであり、このどうでもよさそうな謎くらいはちょっと解いておかねば・・・心の平安閣的にも。
 
 
「ま、いろいろとあるのさ。あんたがいきなり駕籠やを使ったみたいにね。さー、さっさと行きな。こっちは向こうと違って荒っぽいからね。トウシロが変なところをウロウロしてるとそのまま船に乗せられて外洋、なんてことになるかもしれないよ・・・・・って、
なんでいきなり座禅組んでるのさ・・・」
自慢してバラす、ようなこともなさそうな生名シヌカが、死にかけの犬ころを助けるか見捨てるか悩みどころの塩辛い顔をする。
 
「いえ、ここで謎を解かないと僕は負けるので」
 
「別にいいだろそれくらい。お前が単にノロマだったんだよ。そら、謎は解けた」
 
「あ、分かった。分かりましたよ。生名さんはさっきの海賊漁船に乗ってたんですね」
 
「あーそうだよ。別に海賊じゃないけど漁船に乗してもらったんだ。よく分かったなー、
じゃ行くか」
 
「・・・・・・それだけだと僕の目的地が分かった理由が分からない・・・嘘だ違うんだ」
 
「いや座禅とけよ!って、ヨガのポーズもやめろよ!!周りのもんが見てるだろーが!とにかくやめとけその半魚人体操!!」
 
「分からない・・・けど逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ・・・」
 
半魚人から人魚に変わる碇シンジの舞動。芝居的にはたいしたものだが推理的には
 
「いや逃げたいのはこっちだ!あー、くそ分かったよ教えてやるよ!駕籠やに聞いたんだよ。会社の方に連絡とって行き先を聞いた、それで先回りが出来た。いいんだろそれで!なんだこいつナゾトキにこだわるなら、それくらい疑えよ・・・・小学生以下だ」
だだをこねとるのとえらく変わらない。
 
「・・・そんなこと、中学生に出来るはずがない。高校生でもできるはずがない・・・嘘だ違うんだ・・・」
バブル吹く小蟹のごとくブクブクと小声で反論する碇シンジ。「マッポの手先のスケバン刑事じゃあるまいし・・・」
 
 
「げっ」
しかしその泡の小声に生名シヌカは意外な反応を示した。子供の頃からかぶっていた鉄仮面をすっぱり断ち切られたかのような、純粋の驚き。「水上城から聞いてたのか・・・」
 
「何をです?」けろりと再生する碇シンジ。その表情の瑞々しさは生名シヌカならずともちょっと食いちぎってやろうかと思うほど。
 
 
そして、五分後。
 
 
渡船場近くの石灯籠の常夜灯の陰に連れ込まれて、マジにほっぺたを噛まれた碇シンジ。
 
「今度それを口にしたら、食いちぎるからそう思え・・・・・・・・・」
「はい・・・・・」
なんでこんな目に・・・・半べその碇シンジ。こんな怖い目にあったのは久しぶりだ。
 
男の勲章どころではない、男の不発弾だ。まさかほんとにいるとは思ってなかった。
日向さんに借りたマンガの中だけのものかと思っていたのに・・・・
 
「うちの祖父さんが警察署長で、家族ほとんどが警察官なんだ・・・・こういう特殊な土地柄だから特殊な対応を迫られることもある・・・そういうことだ。ついでに言っとくが、碇シンジ、今日お前についていくのはもめ事を起こされると家が迷惑で面倒だからだ・・・なんせ人手が足りないんだ」
頼みもせんのに警察手帳まで見せてくれた。だめ押しのつもりなのだろう。帰りも乗るつもりだった駕籠やさんも勝手に帰してるし。かなり特殊な駐在みたいなものか。基本的に無法地帯であるのは間違いないのだろう。元武装要塞都市の住人としては特に異議はない。
 
「・・・そんな、もめ事なんて起こしませんよ・・・・そんなパワーは今、消失しま・・」
 
「ちょっと黙ってな・・・」
人の話をあまり聞いてくれないのは確かにそれらしい。一方的に小筆を取り出して噛み跡に塗る赤いのは消毒液だろうか。
 
「それから、このことを水上城に聞かれたら、てきとうに誤魔化せ。くれぐれも口裂け女にやられました、とか無理すぎる作り話はするなよ」
「いや、こう跡まで残ると説得はなかなか・・・・まあ、分かりましたけど」
絆創膏でも貼っておこう。もちろん、父さんにも黙っておこう。誰にも秘密だ。
 
 
「で?ここからどこに行くつもりだったんだ、碇シンジ。こっちは造船やら金属加工やら冷凍工場やら・・・ある意味ここの心臓部だけどな、それだけによそ者の見学は歓迎されないぞ。見て楽しいものでもないだろうしな、いや理工系なら興味深いかもしれないな・・・けれど」
ここからがっちり同行するつもりでいるらしい生名シヌカがチャイダーの瓶をゴミ箱に捨てて尋ねた。なんなのこの使命感、と思いつつも頼りがいがある護衛が無料でついてきたことにはちょっと嬉しい碇シンジであった。さっきから漁師か海賊か傭兵かよく分からない”かぶいた”服装のクマドリなんかした男たちが値定めするような目でこちらを見ているし。やはり印籠があっても前衛を固める助さん格さんがいなければ使う余裕がないのではあるまいか。その助さん格さんも内心は「ご隠居、あんまりウロウロするなよ」と思っていたのではなかろうか。こちらのかげろうお銀ではほとんどない、助さん格さん系の生名シヌカさんも自分に対して同じようなことを考えているのは当然。自分が同行するのに妙なところに勝手に入り込むなよ、と言外に、というかその迫力ある眼力に込めて言っているわけだった。調査の手助けというよりは監視。
 
さらに正直にぶっちゃけるなら「今日はもー帰れよ。そうなればあたしは関係なくなるし」ということになろうが、それを言わないのがこの人らしいのか。
「・・・・それから、お前、”つけられてる”ぞ。いっとくが、あたし以外に、だ。それも素人じゃない。ただの見張りにしちゃ距離があきすぎてるしな・・・なんだかよくわからん。水上城の神通力が通じる相手ばかりとは限らない、あんま調子にのってふらついてるとろくな目にあわないぞ・・・・たく。校外でなにしでかそうと知ったこっちゃないんだがなー」
 
 
そういう人間をドボンと暗い穴に連れ込んでしまうのはやはり、許されないだろう。
無自覚にして覚悟のない者を引き込むのは。死神の鎌のごとく帰れと、呼びかけるべきだ。
 
 
 
「生名さんは”福音丸”って聞いたことがありますか?」
 
 
聞いてからラムネを飲み干す。口止め料のつもりかさっき買ってもらったラムネを。
 
 
青い空に灼かれながら飲むラムネが消えてしまうのに、さほどの時間は要さない。
 
 
「・・・・お前は誰から聞いたんだ、碇シンジ」
 
 
返答に返答でかえされても、肝心なことが分かればいい。生名シヌカは知っている。
そして、それを知っているのはこの土地で選ばれた数人だけ、というわけではないようだ。
子供からお年寄りまで、はどうか分からないが、相当数が知っている・・・禁忌の名。
下手なことを言って回るとごっそりと敵が増える。
 
 
「誰でもいいじゃないですか。皆、知っていることです。・・でしょう?」
 
 
「その、皆、の中に水上城は入っているのか?」
予想通り、地元民そして生名シヌカにとって楽しい話題ではなかったようだ。瞳が、昏い。
感情をコントロールして表に出さないようにしているようだが、それでも際に内圧に負けてブツブツ噴き溢れているのは・・・苛立ち。強い切望にも近い。水上左眼個人に対する。
 
 
「いえ。実は福音丸というものについて聞いたのは、僕の父からなんです。左眼さんからの用件はそれとはまた別件で。ちょうどいい機会ですから聞いてみようかと興味本位です」
 
 
「・・・・興味本位ならやめておけ。いや、やめてくれ・・・。城の客人のお前なら、ななつのうちに入らないんだろうが・・・」
珍しく、生名シヌカの方から視線を逸らした。よく見ると、顔色が悪い。これからその福音丸が飛ばしてきたロケットパンチの発射地点を探してみるんですよ、とはとても言えたものではない。
 
「よそ者は知らなくていいことがある・・・・・というわけで帰るぞ」
 
顔色悪いくせに襟首つかまれて帰りの渡し船に引きずり込まれた。興味本位でこいつは動くなと思われたあげくにそのよそ者が知らなくていいことを、ほんとにないのだと証明しろと言われている立場からすると「あーあ・・・」脱力するしかない碇シンジである。
 
なんともやる気を保ちにくい。エヴァに乗って使徒と戦う、というようなテーマが明確でないからである。というよりその敵の姿が明瞭に浮かび上がってこないし、向こうもその気が全くなさそうだ、ということが問題だった。手を出してこないのは、向こうの想定外のことが起きたから。まだこちらのターンだが、これが準備万端整えた敵のターンになったらどうするか。
 
 
「ここはまな板・・・僕は鯉・・・」
 
 
状況的にはそういうことだった。早いところなんとかせねばならないのだが。エヴァ初号機のないサードチルドレンはただの碇シンジであり、強引に生名シヌカにパト駕籠で大林寺まで送りつけられても抵抗もできない。「明日まで事件を起こすなよ」と去り際に勝手なことを言われても「じゃあ明日になったらいいんですか」と言い返すこともできない。
 
 
「お金もないし、力もないし・・・・・・あるのは知恵だけか・・・あと勇気少し」
本堂で天然パンチパーマの巨人像と一緒に座禅でも組んでみることにする碇シンジ。
知恵も勇気もどうだったかなあ、という気がしないでもないが、気にしない気にしない。
 
「現場百遍ともいうしな・・・・やっぱり夜中になってもういっぺんあの遊園地に行ってみるか・・・」
悟りのパワーか、三秒で思いつく。どこか懐かしい面影を残す”おのみちこみち”な街並みのこちら側と違って海路水道を渡った向こう側は工業化されまくりの世界を敵に回しても沈みそうもない無敵大胆装甲艦のよう。竜号機も待機時は向こう側に置いてあるらしいし。第三新東京市のように地下に巨大空間があるならエヴァのような巨人がドカドカ動くのもアリであろうが、いくら夜中だろうとあんな働くおじさんのど真ん中でド派手にロケットパンチ飛ばして人さらいなんぞやれるものだろうか・・・・それを知らぬふうにしろというのは無理すぎるだろう。
 
 
公然の秘密ゆえに、禁忌であるのか・・・。
 
 
どちらにせよ、・・・あえていうが、たかが人さらいのために、エヴァを使うとは・・・
正確には、人を回収するために、だ。いったん入れば札無しに出られないこの地で。
 
ある意味、ここの住人全て、もうすでにさらわれているようなものであろうし。
 
そちらの方がよほどの謎だ。あまりにも割に合わなすぎやしないだろうか。
人間相手のエヴァ使用。どうにも不思議すぎる。その一点では左眼の意見を信用できる。
福音丸、そんなものいるかと。ただ・・・・「鬼手仏心」・・・・・・
 
もし、その標的が、よそ者以外に拡大されることがあるとしたら・・・それは
ずいぶんな恐怖と嫌悪をもたらすだろうことは、想像に難くない。邪視ならぬ邪手。
 
 
そうなると、体力を温存するためちと寝ておく必要があると思い、これも仏の睡眠誘導か、三秒で眠りにつく碇シンジ。