「竜」号機か・・・
 
 
碇ゲンドウは沈思黙考している。着物では似合わないのでそのポーズは元の職場、ネルフ本部にいた時とは異なり、眼鏡を外して肩肘をついた少し芥川龍之介入った格好になっている。ここは寂神房。息子である碇シンジと寺での同居を余儀なくさせられてからも、ここを適度に利用していた。籠もるのにはちょうど良く、方角的にもこうした精神労働をするのにあつらえ向きに建てられている。ちなみに、原稿書きの途中、というわけでもない。
 
 
契約の数字を与えられたエヴァシリーズではなく、明らかに一度その階梯に至る道で脱落した、なりそこね・・・・あえて数値化するなら、負・マイナスの存在であった埋められ者、闇の底に廃棄され人の形をとることはおろか、産声をあげることも許されなかった墓場の泥太郎・・・・祝福の有無はともかく、優劣で言えば確実に十段階は劣っているはずの小物が・・・トカゲが竜に化けたほどの驚異・・・竜などこの世にいるはずがない点も含め・・・・どのような魔術を用いたのか、あの水上左眼を名乗る娘はやってのけた。
 
 
現代兵器の延長線でしかない制式型のエヴァなど相手になるまい。
 
しかもその生誕から己を認知せぬ者どもの楔を受け付けない。文字通り、翼をつけた虎を野に放つ、どころではない。竜は、人間の手には負えぬからこそ竜、という古諺どおりに。
その竜が金銭の価値を知る故になんとか交流可能、というところだ。
正確には、自分の箱庭を維持することにしか興味がない、のだろうが・・・
 
 
これが、人の執念、というものか・・・
 
 
人類がこれまで貯めに貯めあげてきた暗闇の時間が一斉に味方についたかのような、人の新しい未来などというものを描かせてなるものか、戯言をせせら笑うかのような膨大さで無尽にあの肉袋に詰め込んで。
 
 
だが情念だけでどうかなるほどこの業界は甘くはない。情念だけでどうにかなるなら葛城ミサトはとうの昔に使徒全滅を果たしているだろう。ひどく味気のない喩えをするなら、燃料だけが豊富でもタイヤがなければ車は走らない・・ということだ。
 
 
いくつかの条件が重なり、関門を突破したゆえに、魔術は発動した。
 
 
味方であるうちは良かったが、それがあからさまにこちらの邪魔をする敵にまわるというのなら・・・これも万物流転の世の習い戦国魔神方式というやつかもしれないが・・・強いだけに厄介だ。目的が実力に比してあまりにもミニマムであるゆえに、ありあまる力を絞り込んで使用できる、というのは何よりの強みであろう。大義ではなく小義ですらなく。
 
ただ己の心のままに。どこぞの魔道と魂を売り払うような契約をしたのではあるまいかと。
 
才能という翼をもつ者でさえ太陽に近づけば、溶けて地に落とされる。いわんや凡人は。地上からそれを直視すれば目は焼け爛れ、あとは黒洞残るのみ。
 
 
良くも悪くも、良くも悪くも、ユイの思考は当人以外の余人についていけるものではない。
 
 
それは己も例外ではない。もしそこに追随できるとしたら・・・その血肉を割け息吹きを与えた、我が子しかあるまい・・・とはいえ、その息子も今や母親の単純コピーとは言い難い存在になってきたのだが・・・まあ、それはいい。碇ゲンドウはあえてそちらの方面にいきかける思考を停止した。
 
 
トカゲが竜になりたい、と思うのは自由である。そのために己の体を練り潰すような努力を続けるのも自由であり、己が元来何であったのか忘れ去ってしまうのも自由だろう。
 
 
だがその想念が現実のものに結実するには、やはり神的なものか魔的なものか、いずれ他からの媒介を必要とする。そもそも竜の存在を知らねば想念の生まれようもなく。変化という地殻変動めいた激烈な刺激を内部から自然生成する、というのは考えにくく、それほどの才幹ならばユイが見落としたとは考えにくい。そこに至る道を知らねば、努力をするにしてもまるで見当違いのことを延々と続けてしまう・・・ということもありえる。地球のように丸ければいつしか辿り着くだろうが、変化することはそうとは限らない。人間が、深い神性を秘めるとされる魂が、何も知らず小猿のように生まれてくるのは、死にゆくまで歩かねばならぬその平面の道がやりきれないからかもしれない。
 
 
竜になったトカゲは、竜になったのは自分の絶え間ない努力のおかげだ、と語る。
運でなれるくらいなら、最初から母親の胎内に戻り、最初からやり直すだけ、と。
その言葉は億度の炎。道理を遠ざけ誰にも疑うことなど許さないが
 
 
そんなはずがない。
 
 
碇ゲンドウの目が、眼鏡を外しても、冷徹な光を放つ。光年の時間を経ても減衰されない幻想を終わらせる知性の光。世間の雑踏の中にあると、ちとイラつく輝きではあるが。
幸いここは寂神房、他に誰もいない。
 
 
トカゲを竜に変えた魔法使い、
もしくはその願いを代償をもって遂行した契約者がいる
 
 
トカゲでも竜になれる、と吹き込んだ何者かが。道化師のようにか、預言者のようにか、それは知らぬが。それがどれだけの苦痛を味わい重荷が続くのか前もって説明したのかどうかも分からぬが。はたまた、役者を選ぶ監督のようにか、演技をつける演出家のようにか。
 
目玉の影に潜んで、姿を現さぬ、何者かが。その潜み具合は徹底している。
 
碇ゲンドウ、碇シンジ、とこの二つが手元にそろってなお、左眼のみを前に出し、姿を現さない。懐に入り込み探し続けたが、尻尾もつかませない。完璧な秘匿ぶり。これが横溝作品などだったりすると、右眼か左眼か、もしくは二人の共謀でとうの昔に殺されて土蔵の中でミイラになってたりするのだが。そういうこともない。ただ、潜んでいる。
”異常に用心深い”のか、それとも単に時間の感覚がなくなっているのか・・・・
 
 
自分が直々に相手をせねばならぬのは、その者だけだ。
あとは、なんとでもなる。自分以外の者に任せても構わない。
 
 
左眼は自分たちはこちらを支援する存在だ、ということを言い、事実その通りに動いてはきた。が、その当人をまた支援する存在がいる。所詮、事の始まりは小娘二人なのだ。そこから事を起こし展開していこうとすれば、相応に知恵の働く人間が不可欠となってくる。
 
だが、その程度の知恵者ならばその気になって探せばすぐに見つかる。軍師などが全てを兼ねる古代と違い、知識の転用も容易い時代だ。そして、経験と。
 
竜尾道観光協会、などという本質的に「ありえない」看板を出している団体がそうだ。
 
戦闘力はイレギュラーとはいえエヴァに匹敵するものが二体と十分すぎるほどあり、地理的特性、防御力もほぼ無敵に近い。金銭もその正確な額を知れば日本国政府の垂涎と課税したくともできぬ悔し涙でもう一つ霞ヶ浦ができるほどボロ儲けている。
 
だが、それだけの力と金を持ってしても、この地底世界なみにありえない街が生きているには必要とする政治力には足りない。
 
妖怪が人の目を誤魔化して隠れ住んでいるわけではないのだ。法うんぬんをこの業界で言うのも愚かであるが、やりすぎなほどにやりすぎている。一国の首相レベルでは全く足りぬ、圧倒的桁外れの白面九尾の如きの政治力。それが足りなければ、周囲との戦争状態に入るわけだが、そのようなこともなく、あっさりと平穏のままに、この利権の塊、竜が守る黄金の果実の国は、「無視」されることになった。見逃し、といったほうが正しいか。こういった芸当が出来る個人、組織は限られる。このケースではこちらは動いていない。この金銀小判の桃幻郷鬼ヶ島がいつまで続くのか、存在の真偽自体あやふやであるというアドバンテージを考慮してもその力は絶大。しかし、絶大な政治力をもつものは、そもそもこんな不安定な箱庭など必要としていない。
 
小娘の出す交換条件など見向きもせぬはずで。何をトチ狂ってこの暴挙に荷担したのか・・・これが年来の謎であったのだが、これはここしばらくの現地調査で判明した。
 
 
こちらとの関係を読み、寄生する足枷、もしくは都合のいい爆弾にでも仕立てるつもりでいたのかと思いきや、事実と意図はさらに底を浚う。”福音丸”などと・・・・・己で開拓したわけでもない空間を利用するのはお互いだとして・・・・
 
 
碇ゲンドウの目が、ゆっくりと、反転する。冷酷な理性から、その正逆の位置にいきかけて・・・・途中で停止する。虚ノ零ノ。運動はそこで巻き直されて、再度、反転する。
完全に支配下においたはいいが、そのため無役になった時計の背反。
 
 
 
「・・・・・叩き潰す・・・・しかあるまい」
 
しかしそれでも、言葉は漏れた。それが、単に計算の続きであったのか、はたまた。碇ゲンドウにしか、分からない。碇ゲンドウ専門家たる冬月コウゾウ副司令もおらず、言葉を解説する者もいない。
 
 
「シンジが」
 
 
厳格に付け加える謎の名前の意味もまた。
よもや友人の告白についていった女子高生ではあるまいし。謎すぎた。その倒置。
 
 
「あいつに任せよう・・・・・」
 
 
いくら特務機関総司令の職を解かれて現在無職のパチプロよりの博打打ち風無頼者としても、これだけ決めておいて、それは無責任すぎた。
 
が、あいにく誰も聞く者も咎める者もいない。ここは懺悔のための告解室ではないのだった。常人の十倍二十倍ではきかぬ黒知恵をもとに独り言言い放題なのであった。どれだけてめえの息子を信用しているのだ、とお釈迦様もつっこみたかったであろうが、いかんせんここは寂神房。距離があった。
息子を守ってどうこう、という発想は仏のアルカナハートをもってしても見えにくい。
つまりは、「あるかな?」いや「ないかな〜」ということであり。
 
結局は土地を離れても、やっていることはネルフ時代とあまり変わらない。
作戦や悪巧みや根回しは得意なくせに、息子には芸なく「吶喊」させる。
 
いずれにせよ、息子には謎解きやら経験を要する頭脳労働は絶対的に無理であるから、役割分担としてそれは正しい。シンジに手を出さない、のではなく、出せない、のだとしたら。この時間的余裕を無駄にするわけにはいかない。
 
怪夢を吹き込み左眼をけしかけた「魔法契約者」をなんとか焙りだしてやる必要があるのだが・・・・様々な手段を行使したが効果はなく、生半可な方法では通じない。シンジには食いつくと思ったがここまで反応なし。しばらく考える碇ゲンドウ。イチジクの紋を背負っていなくとも沈思黙考、その速度は綾波レイでさえ読むには読むが同調しては追いつけないほど。悩むのではなくあくまで解答を出す思考作業であるから、有効な答えが出る。
なるべくならば、このようなことは、また、ここまでは、「したくなかったのだが」の反則領域まで範囲を広げた思考は、その名の通りの外道にして解法の答えを出した。
 
しかし、それは禁忌であった。あらゆる意味で。しかも、失敗すればダメージが巨大すぎる。しかし、やらねばならない。有効性においてこれが最も強いのだから。
 
 
これこそ最強の焙り。
 
 
あの娘がこの地を訪れたのも天の配剤やもしれぬ。と、信じてもおらんことをあえて思いて気を強める。碇ゲンドウにしてそこまでせねばならぬほど、それは危険な方法であった。ここに滞在して普段の生活でさんざんバクチしているので、こんなことでやりたくないのである。幸運の女神の前髪もそろそろ深海魚系女芸人のようになっており、分が悪い。
 
 
 
「ウム・・・・・」
ポーズを解いて、寂神房を出る。出来ればそうしたかったし、今は誰も見ていなかったが溜息をつくことはない。それから、本堂に戻り、じーこじーこと電話をかける。相手はサッカー選手などではむろんなく。
 
「左眼を頼む・・・そうか、学校か・・・・では、伝言を頼もう・・・・これから所用で出かける、と。おそらく一泊になる。明日中には帰る、とそのように伝えてくれ」
電話口の相手の反応はおかまいなしに、用件だけ告げて電話を切る碇ゲンドウ。
 
それから、旅支度にかかる。息子にメモのたぐいを残していこうか、と一瞬考えたが、やめた。単に面倒くさいのか、それとも父親らしく、やめたのか、は謎であるが。ともかく。
 
 
碇ゲンドウは己の意思で竜尾道を出た。