逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ・・・・・
 
 
ついにこの時がやってきてしまったからには、心の目を閉じてじっと時が過ぎるのを待つことに決めた碇シンジ。どんな目にあわされようとそれが学校の授業である以上、壱時間我慢すれば終わるのだ。そして時間割が進めばまた否応なくその時間が来るのだとしても。
 
 
中学生らしい思考でとりあえず、難局を耐えることにする碇シンジ。
いつもの真言を心の中で唱えながら。
 
 
「師匠の時間」
 
 
などというおそろしい科目がこの学校にはある。総合学習などという生やさしい代物ではなく、通常の学校教師ではない、その技芸を伝承したい師匠の方から勝手に弟子を指名して無理矢理教え込む、というなんともスパルタンな授業であり、おそらく全国回ってもここ竜尾道にしかないであろう無敵にして不敵の学校授業。師匠と相性があえばそれはずいぶんと素敵授業になるのであろうが・・・・
 
 
碇シンジと、技芸名「吸刀術」・師匠・居闇カネタとの師弟間の相性は互いに最低最悪。
両者とも互いになんの望みをかけてもいないのがすでに絶望の底であった。
この強引な授業の唯一の救いは、元来、師匠側がどんなにいやがろうと有望な弟子を選んで希望をかけることができる、というものなのだが、この二人においてはそれすらない。
師匠役を指名したのは水上左眼であり、弟子役を指名したのも水上左眼であり、まるで馬の配合でも決定するかのように一方的であり否定権などなかった。
 
 
碇シンジの方は吸刀術になんの魅力も価値も認めていなかったし、師匠役である居闇カネタの方も弟子に才能を見いだしていなかった。互いに「ダメダメじゃん」と思っていた。
 
 
とはいえ世を広く見ればそれほど珍しい師弟関係でもないのかもしれない。他の組み合わせがいささか理想的すぎるだけで。かなりエッジが効きすぎているが。
 
 
しかし、これもまた修行。人生という名の「人生修行」・・・なんか間違っている感じもする言う人間によって深くもあほっぽくも聞こえる表現である。
そこで「」内の”人生修行”に何か他の単語を入れてみる。たとえば、
人生という名の「SL」・・・・なんか深い感じがする。名作マンガのサブタイのように。
人生という名の「蚊取り線香」・・・ちょっと微妙だが日本映画のようでもある。
人生という名の「カレーパン」・・・かなり微妙だがインド映画といえなくもない。
 
 
だが・・・
 
 
「さあ、これを頭にかぶるざます」
 
 
修行の第一回目としてやらされた課題。
 
 
真っ赤な洗面器
 
 
人生という名の「真っ赤な洗面器」・・・・・・・・・・・・・・・・・だめだ。
 
 
ほんとにイヤな時は逃げてもいいのよ・・・・脳の奥の優しい誰かの声が谺する。
優しい目をした誰かに会いたい・・・・・今、猛烈に。そして今は校門前にふたり。
 
 
なぜか紐がついており、それを顎で結ぶようになっている。そうなると、これは「真っ赤なヘルメットだ!!」と言い張って誤魔化すことができず、完全にどこから見ても「真っ赤な洗面器を頭にかぶっている奴」ということになる。
 
 
人生という名の「精神的ダメージ」・・・・・・・・・・・・・・・・いやすぎる。
 
これまでなにやらかんやらとやりたくもないことをやってはきたが、これは世界が違いすぎる。世界と書いて「ジャンル」と読む。そういった類の。これはコントの修行でも根性をつけるためのものでもないだろう・・・・いや、それくらいであればまだいい。最近の悪い予感はよく当たる。
 
 
「そして、校門を出てふらふら歩いた先に最初に出会った不良学生の攻撃を、その頭にかぶった洗面器で受け止めるざます。受け止めてこう、お尻の骨から威力を抜く練習ざます」
 
 
「無理でがんす!!お、お師匠さまっ」
これはただの仕返しではあるまいか。目の底の輝きは絶対に、こっちが寝ぼけてぶっ飛ばしてしまったことを根にもっている。人体急所の頭部でわざわざ攻撃を受けろなどと、人間サンドバックになるよりひどい。しかもなぜ洗面器。そんなもので受け止められる攻撃など脳天かかし落としくらいなものではないか。弟子にあらざる口答えの碇シンジ。
だいたい修行なんてものは無茶なものが多いが、これはあまりにひどい。
 
 
「もしできたら、その”がんす”語尾をやめてもいいざます」
 
 
当然のことながらその弟子の反抗を予想していたのか、条件を出してくる居闇カネタ。文字通り、現状の碇シンジが「のどから手がでるほど欲しい」交換条件を。交換条件と書いてエサと読む。
 
 
「う・・・・」そのエサを目の前にぶらさげられて苦悩する碇シンジ。
 
 
この名前通りの師匠が名前通りのことをやっているのは分かっている。どうせユーにはできっこないざます、と。確かに出来たら異常だ。能力的にも、何より精神的に。強いを通り越して何か別のものになってしまっている。人間の強さはそんなところにはない!!とRPGの主人公のようなことを叫びたいくらいであった。失うものもかなり多いだろう。
 
 
「・・・・・・・・・やります」
 
 
「聞こえないざます。というか、”がんす”がついてないざます」
語尾の指定ということは最後までしっかり聞こえているということだ。ここに銃が、しかも機関銃とかあればなあ・・・・と、ちょっと思った碇シンジ。さぞ快感だろうに・・。
 
 
「やるでがんす・・・・・」
真っ赤な洗面器を受け取り、頭部に装着する碇シンジ。いろいろなものを失ったとしても、今すぐに切り捨てたいものもある。たとえばこの語尾であり、この師匠との縁であり。
 
「相手を挑発して殴りかからせる役目は任せるざます。一切の疑問や疑念を排除してカンカンの沸騰寸前までピュアーに怒らせてあげるざます。手加減無用ざます」
 
そして碇シンジが決意を秘めた瞳で拳を固め、校門から一歩を踏み出そうとしたところで
 
 
「・・・・二年楓組の碇シンジくん、二年楓組の碇シンジくん、授業を中断し、至急生徒会長室まで来てください、繰り返します・・・」
 
 
校内放送が困難に立ち向かおうとしていたその足を止めさせた。
 
 

 
 
「父ちゃんが逃げた?」
 
 
職員室ではなく、水上左眼専用の生徒会長室ということでまたぞろ厄介ごとを押しつけられるのだとは思ったが、伝えられた話は意外なものだった。意外すぎてちょっと間違えた。
 
 
「・・父さんが逃げた?」
 
 
父親の碇ゲンドウが、竜尾道を「抜けた」、というのだ。今、先ほど。
 
 
「シンジ殿にも知らされていなかったようだな・・・・・その・・・」
水上左眼は少し言い淀んだ。
 
「頭の洗面器を・・・・・見るに。・・・・・室内でもある、外してもかまわないが?」
 
これ幸いと急いで駆けてきたのでかえってそのフィット感を忘れてしまっていた。あわてて剥ぎ取る碇シンジ。これから真剣な話をしてもよいものか、その姿を直視しながらでは少し難しいだろう水上左眼もそれで切り替えることが出来た。この思わぬ逃走劇に、わずかに浮き足だち心中乱れたものが、落ち着けた。城からの伝達によると、碇ゲンドウは「明日には帰る」などと言っていたらしいが、当然、信じられるものではない。
碇シンジが手に入った以上、必要度でいえば父親には逃げられたところでさほど痛いものではない。その身柄を有効活用するつもりもなかった。が、どこに行ったのか掴めないというのは・・・よもや第三新東京市には戻るまいが・・・・・おそらく、古巣の京都か
 
 
「戻られるまで、シンジ殿には寺で待っていて欲しい・・・・」
 
 
なにはともあれ、再幽閉。こっちを見る今日の鐔眼帯は知叔の桜花図。その日の気分によって変えるという鐔眼帯の方が裸の片眼より多くのことを教える・・・というのは銘も含めてもろに父親の受け売りであり。つまりはなかなか正直に本心を見せない、ということだが。ふりだしにもどる、というやつだ。別に自分で歩いてきたわけではないので全く構わないが。その声を聞くに、どうも逃亡者など役に立たねば放っておくか、放って害があるようなら始末するのが本来のところ、自分の父親の存在は、かろうじてこの冷徹な実務者にその二択を選ばせないところにある。らしい。
いろいろ引き回してすまないな、などと言わない。言うくらいであれば最初からやるまい。
形としては「置き去りにされた」子供に船板のようなフォローを言わぬことも。
 
 
「なんで父さんが僕を置いて・・・」など、子供のようなことは言わず、大人しく碇シンジは鞄に荷物をまとめて大林寺に戻った。早退になるが水上左眼の命じたことで誰も文句のつけようがない。
「実はいつでも逃げられた・・・って切り札使っちゃったら、あとが大変だろうけど」
父親が戻ってくるのかどうかは正直、よく分からない。外からどうにかできる手段を見つけたらそうするだけのことであろうし。
「まだまだ若い者には負けん・・・・・とか言いながらチョイ悪っぽく逃げるのは父さんのイメージじゃないけどなあ・・・」
悪さでいけば、チョイどころではないこともある。これが「走れメロス」なら僕は磔にされて処刑されるところだし。モー悪だ。モーニング悪。、ではなく。モーレツ悪太郎だ。
 
 
夕食つくるにもまだ時間はあるし、というかいきなりヒマな時間が大量に湧いてきたので本堂でひっくり返る碇シンジ。こまごまとした雑事を忘れ大宇宙と一体になるべくひろびろと手足を向けてなおかつ仏座と逆に頭を向ける。つまり、ブッダ的オーラで癒されるとか以上に涼しさがよかったわけである。喝。
 
 
「あ」
何かを思い立つ碇シンジ。体勢は寝たまま。
 
「学校の皆に、お世話になりました、とか言っておけばよかったかな・・・・」
実際、一部の生徒にはかなり負担というか迷惑をかけていたのだが。
 
「・・・まあいいか・・・蘭暮さんがいるし・・・印象うすかっただろうし」
転校というか停校?記念に鉛筆とか配られても皆困るだけだろう。
 
 
トウジやケンスケ、洞木さんや山岸さん・・・マナ・どうしてるかな・・・・
 
 
ふと、そんなことを思い返してみる碇シンジ。
 
 
ぼろ・・
 
 
ふいうちのように涙がこぼれる。あくまでふいうちであるからそれはすぐに脳の中の「大人げ」に吸湿される。現実と未来を知れば、それはまた別の所に吸われることになるのだが。今の碇シンジの知るところではなかった。
 
 
「・・・待てよ?学校いかなくていい・・・ってことは、師匠の時間もなし!?」
今の碇シンジはやはり今、目の前の危機に感応がちであった。
 
「やった!!やった、やった、ヤッターマーン・・・・って、いやアレだけはヒメさんが別枠で探してきた感じだしな・・・・もしかして、学校ないのをいいことにこの寺で朝から晩まで個人レッスンとか・・・・・・・・・・・げろげろ(舌)」
 
ガマ魔神の呪いもしくは暗黒の理力に目覚めそうになる碇シンジ。身につけて多少でも強くなれるならなんとか、少年の夏熱らしくがんばらないでもないが・・・・あの技だけはそんな役には立たない。あのOF(おフランス)的センスが知らず、こちらに移ってしまったりしたら・・・まさに鬱である。いや、しゃれでもなんでもなく。落ち込みそうになるので別の、もっと美しそうなことを考えることにする・・・・
 
 
思い出に変わる友たち。これ以上、記憶の中で苦味が加わることのなき甘味。実際、友人たちがどんな目に会っているのかを知ればそんな青春映画のようなことはやっていられないのだが、あいにく今日は家族の象徴、頑固皇帝の父親もいないときているので存分にメモリーに浸っていれた碇シンジである。青春時代のトゲに突き刺されながら。さながらリンゴ飴かチョコバナナといったところであるが。
 
 
くー。
 
 
いつの間にか寝てしまう碇シンジ。青春的にはもう少し鬱々悶々と考えながら時間を経過させ迷いの振幅を強くさせるのだが、ばっさりとやめてしまっていた。この先にまた体力を大使いすることが待ち受けているのを体験的に察知したせいか、それとも根本的に冷血なのか・・・・・
 
 
むく。
 
 
三分後に起きあがり、タオルケットを持ち出して腹部に乗せて再び昼寝に戻った。
 
少しだけ、ある少女、”少女A”のことを考えたのだ。そうしたとたん、底冷えがきた。
「・・・もう、だめなのね・・・いっしょに、死んで」的な幻聴も聞こえた気がする。
通常の感覚を使い物にならなくさせる吹雪の音も。仏のおわす空間でそんなのありかと言いたくもなるが、よく考えたらそれも因果応報。当然のことかもしれない。
 
 
もしかしたら、ここで眠ったら魂抜かれてしまうのかもしれない・・・・そんな気がする。
ここには自分一人しかおらず、そうなったところで気づく人間もいない。
 
 
そのくせ、ぶるぶる震えることもせず、タオルケット一枚で冷気に身を任せている。
起きたまま熱い麦茶を飲むでもなく、改めて寝直すあたり、「それでもいいや」と思ったのか「やれるものなら」と思ったのか・・・・
 
 
父さんは街から出られたけど、僕は出られないかもしれないな・・・・
 
 
碇シンジは思考を遮断した。ひとまず、考えることをやめたタオル生物になる。