目玉がひとつ増えた伝奇な夢を見ていたような気がする。
 
 
目の数が減ったのだからその目覚めは、あまりよくはない。
 
 
「うーん・・・」
 
 
もう一度寝て覚醒したりとかしてみようかとも思ったけれど。鼻が。目よりも鼻が。
その目論見を止めさせた。匂いであった。みそ汁の匂い。嗅覚から腹部に連動させるそれは本堂にころがる一匹のタオル生物であった碇シンジを人間に引き戻した。
 
 
かなしくても、おなかがすいちゃう・・・・それが人間・・・・・聖なる魔物の透明な声を聞いた気がする。コマンド入力に失敗した昇竜拳のような感じで立ち上がる碇シンジ。
 
 
「・・・父さん、じゃないよね・・・・」
 
 
時間的には夕刻だが、まさか日をまたいで眠っていたわけでもないだろう。まあ、それも可能な身の上ではあるが、腹の空き具合かららしてもそう異常なことはしていないと。
思うのだが。このみそ汁の匂いは・・・・
 
 
「誰が作ってるの・・・・・・・?」
 
 
再幽閉を命じられたこの寺に入ってこれるのは、命じた当人である水上左眼とそれが許可した関係者のみであろう。しかし、いちいち料理など作ったりするものだろうか。
それは絶対に作らない、と言い切れるものではないが。作っちゃダメ!と怒る気もないが。
 
 
誰だか分からない相手が家に入り込んで料理をしているというのは、ホラーである。
寂しさ増幅どころではない。包丁を持った相手が汁をグツグツ煮ており、最後の具はおまえだよー!とか言いながら迫ってきたりしたら、スプラッタである。しかしまあ、この匂いからするにグツグツ煮立てたところに味噌をいれるよなことはしていないようであるからその点はすこし安心か。和食定食におまえは刺身だよー!とか言われ出したらダメだが。
 
 
ともあれ、確認はせねばなるまい。なんで閉じこめられる身分でそういうことに怯えなければならないのだろうか・・・・と、なるべく足音をたてぬように。向こうはまだこっちが寝ているのだと思ってくれていたらいいのだが・・・
 
 
このみそ汁の香りだち・・・・・・・・・・・・まあ、蘭暮アスカさんじゃないだろうな・・・・それだけはない。絶対にない。そうだったらなんか悔しいこの調理の冴え・・・現状の伝達ついでにヒメさんが意外な趣味的スキルを披露しているとか・・・順当に考えればそんなところだろう・・・
 
 
「なんだ、起きたざますか。それなら茶碗くらいはつぐざます」
 
 
ざますこと師匠、いやさ師匠ことざますの居闇カネタがエプロン姿でそこにいた。ちゃぶ台に夕飯の支度をしていた。ただでさえ悪夢であったからまさかそこで”裸”だったりはしない。もしそうであったら碇シンジの精神は完全に破壊されていただろう。普通にいつもの派手スーツでエプロンであった。その点はまあ、救われたが・・・・・しかし、それでも眼球に68ポイントのダメージを受けてしまった・・・・
 
 
「・・・・・・・え?なんで?」
 
 
世の中それほど甘くない。普通の生活の中にも十分、摩訶不思議アドベンチャーは潜んでいるのだ。油断する生活者の魂を掴みにくることがあるのだ。あるものさ。
 
 
「師匠が夕飯を作ったのに、弟子であるユーがなにもしないお客様状態とは何を考えているざます!!普通は逆ざます!罰として今度は・・・そうざますね、言葉のカシラに」
だいたい教育者、と言わず師匠、と名乗る人間には相手に対する説明がやたらに不十分な傾向がある。まずここは自分がなぜこの寺にいて料理を作っているのか話してからご飯をつげだの箸をそろえろだの言うべきなのだが。これが師匠というものだった。
 
 
「あ、いや、そうではなくて!そうではなくてがんすね!」
新たにギアスが増えるのもたまったものではない碇シンジは必死に否定する。僕は日本一不幸な少年だ、と嘆きながら。一応、罰回避のために言い訳をつくりあげる。これで縁が切れたかも、と期待していたところにいきなり目の前にいたから顔に出たのもあった。
 
 
「なんで師匠がこちらにいらっしゃるのか、分からなくて、ですね。それに料理をしてくださるというのが師弟関係としては、かなり意表をつかれたものでがんすから・・・それで。起こしてくだされば、僕が作りましたのに、でがんす」
この語尾で敬意を払うというのは、かなり難しい。自然な親愛ならまだしも、社交的敬意、という意味では。
 
 
「ユーのあのなんか煤けた万年脇役テイストの怪優めいた住所固定職業不詳な父親がしばらく留守にするというのでスポンサーに言われてちょっと様子を見にきてやったざます。感謝するざます。あ、それからミーの舌はおフランスで鍛えられているざますから、子供のつくる料理なんざとても我慢できないざますからその点は気にしなくてもいいざます」
 
 
ずばっときて、ムカッと。
 
 
それはその通りなのだろうが・・・・あのざます語尾で言われると素直に納得しかねる。
そのチョビヒゲ顔からすると、別にこちらを怒らせるつもりはないらしい。ただ、この師匠。他意なくナチュラルにイヤミであるだけで。腹に一物あった方がまだ納得できるのだが・・・コーディネートされているわけではない、ナチュラルでは。
 
 
「とにかく、さっさと手伝うざま・・・・・ん?その前に顔を洗ってきたほうがいいざますね。涙のアトがついているざます。んー、中学生にもなって父親がいないくらいでそこまで泣き寝入りできるなんて、なんとも我が弟子は天使のごとくピュアでうらやましいざます」
しかも通常のイヤミも使えるらしい。正調の節回しで。思い切りざっくりいってくれた。
 
今、ここにはほかに誰もいないなあ、いないなあ、誰もみてるひといないなあ、などと考えながら碇シンジは言われたとおり洗面所で顔を洗ってきた。額のあたりを鏡でよく確かめてみるが、そこには開眼のあとなどない。機構的に目玉が休む瞼などにはなっていない。
 
 
「まあ、それはそうか・・・」
 
 
顔を洗ってみると、思考も切り替わる。ひとりぼっちで食事するよりも、多少人格的ビジュアル的心情的にアレ、というかアレでない部分をまだ自分は見いだしていないような気もするが、誰かと食卓を囲んだ方がいいのだろうか。少なくとも、寝ているこちらをたたき起こして「飯作れ」などとやらされたわけではない。以前の住み家ではそれと似たようなことをオブラート、いやさモチに包んだカンジで言われやらされていたよーな・・・・。確か、あの家には女性が二人もいらしたような記憶もあるのだが・・・・うーむ。
 
 
「・・・差し引きゼロかな、やっぱりそういうことは」
 
 
戻ってみるとちゃぶ台の上には、茶碗につがれたご飯、みそ汁、干物の焼いたの、魚の煮物、卵焼き、春巻き、焼きピーマン、ねばりオクラ、などなど・・・・・みそ汁の匂いで知れるようにおフランス料理のフルコースとかではない。自分が作ったとしても似たようなものになるだろう。勝手の知らぬよその台所で汚しもせずにちゃちゃと作ったならたいしたもの。当然のごとく、材料はあったものを使ったのだろう。持ち込みなどせずに。まあそれはいい。
 
 
「顔だけ洗って手を洗っていませんなんてベタなことはしてないざますね?それなら座ってミーに感謝していだたくざます」
すでにエプロンを外して自分専用らしいポケットワインまでスタンバイしている居闇カネタが大真面目な顔で言う。それギャグじゃないんですか?・・・ないんですね、などと余計なことは言わない碇シンジ。
 
「はあ、ありがとうございますでがんす・・・」
料理マンガのようにキラキラ輝いてたりしないが誰がつくろうときちんとした手順をふめば料理はおいしいはず。とりあえず合掌して多分に余計なお世話であるが、他人のつくってくれた料理に箸をのばす・・・・・
 
 
 
「・・・・・・・」
 
 
 
「どうざます?久々にまともな料理を食べる気分は。男親子の二人暮らしなんてどうせろくなものを食べてないに決まってるざます。ろくなものを食べないやつはろくな奴じゃないざます。これはおフランスでも日本でも変わらない高貴な真実ざます。そういうわけで人間、オデンばかり食べてたりすると短気でチビで口が悪くてろくな人間にならないざます、つまり、おそまつな人間になるざます。やはりユーもミーの弟子になったからには人間的にそういうことを・・・」
 
 
楽しいとは言い難い話題を大きな出っ歯でこちらの反応おかまいなしにしゃべり続ける居闇カネタ師匠。なんというか、本人は楽しいのだろうが・・・碇シンジの方は
 
 
呆然としていた
 
 
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・おいしい・・・・・」
 
 
信じられない。
 
 
目の前のこのイヤミでちょび髭でスーツのセンスが怪しくて靴下もかなり伸びていて出っ歯でしゃべることと言えば人の悪口(べつにデカいパンツをはこうと兄弟が六人いようと小旗をもって歩こうといいじゃないかと思うのだが、許せないらしい)ばかりだというのに
 
 
料理はうまい。
 
 
技量や材料がどうとかいうことではない。材料はもともとの買い置きの流用(無断借用ともいう。赤の他人であれば完全に犯罪)であるし、時間的にそれほど手間をかけたようにも見えない。ご飯やみそ汁はまだ、こちらに見えないだけでもてなしの心やら玄人の工夫というものが隠れているのかもしれないが。ただピーマンを焼いて刻んで醤油をかけただけの小鉢までもが信じられないほどにうまいのだ。
簡単に見えるものの方が奥が深いとはいうが・・・・・話に納得は全然出来ないが・・・・確かに言うだけのことはある。おそまつ呼ばわりするだけのことはある。この料理の出来具合については、素直に「師匠」と呼べそうなのだが・・・・・
 
 
「というわけでオデンばかり食べてたりデカいパンツをはいていたり旗をもって歩いていたり兄弟が六人いたり目玉が横につながっていて何かというとすぐに鉄砲を乱射するおまわりなどはダメなわけざます!!ああいった連中は24時間シェーの刑にすべきざます!」
 
 
目の前で続いているエンドレスネバーエンディングエターナル悪口。まあ、それは鉄砲をすぐに乱射する警官というのは確かにダメだろうけれど。それにしてもこの美味さは・・・・。どうやったら24時間シェーの刑、とか言ってるオジサンが作れるのだろう。
二万回唱えると悟れるという真言があるらしいけれど、それと同じような・・・昔、24時間シェーの刑を受けたこの師匠も調理方面の一部分だけ悟りを開いたとか・・・・
 
 
うーむ、どの料理も美味い。こんな楽しいとはまったく言いかねる状況下で食べながらも美味い。逆に言えば、なんの錯覚も幻想もなく純粋評価しているともいえる。なのに。
うーむ・・・・
 
 
「シェーは地球を救うざます!シェーは地球を救うざます!そのあたりをユーは分かっているざますか」
悪口がやんだと思ったら誇大妄想の開始・・・自分で用意したワインで酔うなよ・・・・と思う弟子碇シンジ。これを最後の晩餐にしたい・・したくてたまりません。
 
 
碇シンジがこの師匠についてこの「隠し味」についての謎を解き、それを自分のものにする日はとうとうこないのであるが、二人の関係にとってはその方がよかったかもしれない。
どこか一つ認められる点があれば、それで気持ちは救われるのだから。
 
とはいえ
 
 
「この始末をどうしようか・・・・・」
ひととおりの妄想を吐きだしてしまうと師匠である居闇カネタは赤い顔で寝込んでしまい、かなり邪魔な場所ふさぎの置物状態。いまどき鼻チョウチンはないだろと思う。
起きるまで寝かせておくべきか、それとも・・・・食事の後片付けをしてちゃぶ台をたたんで結論を出そうとした時
 
 
「碇シンジ、まだここにいるか」
 
 
聞き覚えのある威圧感に満ちた声が。いなかったら面倒が片付いてラッキーかもしれないな、という希望が混じっていたのでご希望通りに居留守を使うべきか迷ったが、
 
「既に不在の場合でも、確認は必要でしょう。左眼師直々の依頼とあれば、子供の使いではなし、手ぶらでは帰られませんよ」
これも聞き慣れた声とそれが化学反応して起きるであろう事象を考えると、さっさと出迎えた方がよさそうだった。雰囲気が悪化したところでズイズイあがりこまれるよりは。
生名シヌカと弓削カガミノジョウ、こんな所まで何しに来たのか・・・・ってヒメさんこと水上左眼が頼んだのだと説明ゼリフのような彼の台詞で知れますね。
 
 
「はーい、いま行きますよ」
ちょっと家事で手が離せなかったのですわ的な主婦ボイスで告げておいて、とてとてと来客を出迎える碇シンジ。我ながらすごい演技力だなあ、とは思う。それにしても・・・
まだいるか、とはすごい言われようだ。その一言で何しに来たのか知れるのがすごい。
 
 
玄関に出向いてみると、そこにいるのは学校での凸凹包囲メンバー。生名シヌカ、弓削カガミノジョウ、大三ダイサン、向ミチュ、フルメンバーそろっている。自分はそこには入らないから別に戦隊ものとかになぞらえる必要は、まったくないようである。当然のことながらそれぞれ私服姿であり、あまり当然と思いたくないのは各自荷物を、それも一晩くらいは出来そうなお泊まりセットらしきものを持っていることだった。こんな推理はハズレであってほしいが。大三ダイサンの腰回りに括り付けてある枕や鍋がその推理を強烈にプッシュしていた。
 
 
「えーと、皆さんこんばんは。今日はちょっと体調が悪くて早退して明日からの学校も当分行けそうにないんですけど・・・なんのご用ですか?プリントとか持ってきてくださったとか・・・・」
 
んなわけあるか、とハクリキのありすぎる目で生名シヌカに睨まれておとぼけは終熄させる碇シンジ。さもありなん、それはそうですよね・・・純真に楽しそうな向ミチュの目さえなければ思いきりため息がつけるものの。
 
「水上城から聞いてるのかどうか知らないが、あんたがまだここにいるなら、今晩あたしらはここに泊めさせてもらう。そういう頼み事が来たんでね、まあ今晩は早く寝て夜中に起きたりもせずぐっすり明日の朝までピクリとも動かず熟眠してくれればいい」
 
ていうかしろ、と向ミチュがいなければ遠慮なくそう言い放ったに間違いない生名シヌカの目。要するに、自分たちはお前を見張りに来たぞ、とこういうわけだ。よほどの人手不足なのか子供の相手は子供で十分だと思っているのか。水上左眼の意図はよく分からない。
もし自分が逃げていたりすれば、生名シヌカたちは無駄足になっていたのだろうか。
 
 
「ま、とにかくあがらせてもらうよ」
殺伐とした任務の割には気負った様子もなく学校でないのでグラサンとマスクもなく、いつも通りに目つきが鋭い生名シヌカを先頭に「おじゃまします、碇せんぱい。今晩はお世話になります」何が楽しいのかかなりはしゃぎ気味で自分たちの凸凹をそろえる演技も忘れている向ミチュがつづき「・・・ここから、入れないから・・よそから」その巨大プラス大荷物を抱えていてはほんとに玄関から入れない大三ダイサンと弓削カガミノジョウが「・・僕は門の方から少し仕掛けをしておきますので」何の仕掛けか許可くらいとっても罰はあたらないと注意を与える前に向こうにまわっていった。
 
 
一方的な通告の後に、二手に分散。碇シンジとしては呼び止めようもなく、まさかここまでやるとは思いも寄らなかった水上左眼を恨むしかない。それとも、警戒しながらも牢屋にぶちこむような極端行動に出ないことを感謝すべきか。
 
 
「本堂にでも荷物を置いて、それから部屋割りといくかね。まあ、その前に茶の一杯も呼ばれてもバチはあたらないだろうねえ、なあ碇シンジ。子供がいるから酒はまずいぞ?」
 
それは要求されているのかどうか、とにかく意地悪をされているのは分かる。とはいえ、したくもなるか、いきなり自分なんかの見張りをやれ、というのでは。自分が全力で逃げようとしたりすれば、この人たちはどう動くのか、動けと命じられているのか。
それを考えると、茶をいれることなどたやすい。
 
 
「だめですよ、シヌカさん。おさけなんて。いんしゅしてなにかしたらだめなんですよ・・・・・・あれ、本堂はどっちになりますか?」
「ああ、こっちだよ。あ、荷物も持つよ」
「あ、ありがとうございます!碇せんぱい。あは、肩かるい〜」
「今頃気づきやがった。あと十秒遅かったら一発張ってやろうかと思ってたんだが・・・・・ま、こっちのも頼む。課題がまだ残っていてね道具も持ってきたんだ」
茶坊主から荷物運びにと変転の激しい碇シンジ。つい先頃は決戦兵器のパイロットだったような。
「う!・・・・何が入ってるんですこのトランク。重いんですけど、かなり」
「黙って運びな。あまり揺らさず・・・・・けど、重いってほどか、それ?」
「そう言われていると・・・・取っ手の造りのせいかな・・・あ、握りを変えて、これくらいなら・・」
「ひっかかりやがった。重いんだよそれは」
「いじめないでください・・・・」
「いや、単にお前がバカなだけだから」
「どうせバカですよ・・・・僕なんか」
どこに行っても、と言いかける前に、すっと生名シヌカが移動して耳元に口を近づけた。
続くのは迫力を圧縮した小声。
 
 
「今夜、何かするとしても、この向が寝てからにしてくれ・・・・・いいな」
 
 
ドスがききすぎていて、あやうく小便ちびるところであった。イエスともノーともいえず、とりあえずコクコクと頷く碇シンジ。逃げるつもりであれば本堂で昼寝などしていないし居闇の師匠と夕飯など食べていない。その点で生名シヌカたちは完全に無駄足なのだが。
 
 
今夜、何もなければ
 
 
自分に対して、何も、影響を及ぼすことがなければ。
 
 
これ以上、この寺に誰も来なければ
 
 
平穏に夜は過ぎていき、明日の朝を迎えるだろう。
 
 
寺の主の不在時に。
 
 
 
「・・・こちらに何の御用ですか」
 
 
中庭で歩雷と走雷を配置し終えた弓削カガミノジョウが寺の門の一歩手前に女子学生が立っているのに気づいて問いかけた。ゴム手袋は外したままで近づいていく。顔は見知ったもの。一学年上のクラスメート、つまりは、碇シンジと同じく「転校生」、
 
 
蘭暮アスカがそこにいた。
 
 
彼女の参加、または来訪の連絡はない。そして、ここは好奇心や同情だけで寄れる場所でもない。それはつまり、ただ顔が小綺麗なだけではない、ということだ。
 
 
「面白そうなことをやっているわね・・・私も、加えてもらえないかしら?」
 
 
青い瞳はこちらを同級の者だと認識しているようではない。その輝きは孤立した単独勢力のものとして。敵対するなり護衛するなりしなければならないのならば、迷わずこちらを選ぶ。今回はその自由もないわけだが。弓削カガミノジョウは返答する。
 
「ただの精進合宿ですよ。地元の学生はたまに、こうしたことを親に命じられるのです」
 
婉曲の拒絶。誰にことわることもなく。寺の住人である碇シンジに確かめることもせず追い返しにかかる。配置していた歩雷と走雷をゆるゆると門前に集結させていく・・・
 
「・・・・それなら仕方がないか。私たちは外のよそ者ですものね」
 
蘭暮アスカは入門を禁じられてもあっさり退いた。
 
「待ち人がくるかもしれないと思ったけど・・・・今夜は、あなたたちだけ?」
 
「精進ですので。お答えしかねます、蘭暮サン」
碇シンジにとって蘭暮アスカがどういった意味をもった何者であろうと関係ない。私たち、といった複数形の意味もまた。生名シヌカとも対等に渡り合える狷介の表情を見せる弓削カガミノジョウ。古家秀才然とした彼のこの切り替えにはかなりの猛者でも気圧されるのだが、夕日色のリボンを結んだ少女は平然としている。
 
 
「あなたも雷光か・・・・でもね、ここだと大樹の前で小枝を振り回してるようなもので」
 
「小枝は貫きますよ・・・早贄を飾るように」
その指摘が的を射ているゆえに、思考と同じ速度でスタンガンより物騒な弓削の左手が走った。圧の調整はしているが、触れば気絶は間違いない。が、それより前に
 
 
「かわいい」
唇を奪われた。恥だと思ったが、いかんせんそこで体の時間が止まる。
 
「電気の味、がするかな」
その隙に蘭暮アスカにあっさり距離をとられて
 
 
「それじゃあね、骨焼きの皆殺しとかにならずに生きていたらまた明日の朝に会いましょう。体が空いていたら、今夜の結果を見届けにくるから」
恐ろしい予告までされる。報告連絡相談は会社のルールであるが、弓削カガミノジョウは他の者には黙ることにした。べつに未だ学生の身であるからではなく。
 
 
「・・・虚言の味がしますね」
生名シヌカのような疑惑ストレート、ある意味正直者にいわせると「負け惜しみ以外のなにものでもないだろーが」ということになるだろうが、あの手の者の言うことを素直に信じる方がどうかしているというものだ、と弓削カガミノジョウは考えるためである。「今から追いかけてとっ捕まえてどういうつもりか聞き出してやるよ」などということになっても厄介である。ここは命令者の水上左眼に報告した方がいいか、それとも当の本人・碇シンジに預けてしまうか・・・しばし思案した。小枝呼ばわりは明らかに挑発であろうから、好きこのんでそれに乗る輩はいない。そして自分はそんな我輩キャラクターでもない。
 
 
にもかかわらず
 
 
「先ほど、同じクラスの蘭暮さんが門のところに来ていました」
 
 
と戻りしに碇シンジにその訪問のことだけを教えたのは、その反応を確かめたいゆえに。
今から何が起こるのか。その判断材料を手に入れるため。ただこのよそ者が逃げ出すだけではすまないのか。
 
 
「へえ、蘭暮さんが・・・・・でも、たぶん、父さんに用事があったんだろうから」
動揺した様子も見せず、自分に会わせなかったことに異を唱えるわけでもなく、自然体。
あれだけの(中身はともかく)美少女にこの年頃の男がなんの夢も下心も鼻の下に表さないというのは、見かけによらずよほどに遊んでいるのか、それともかなり近しい間柄か。
 
 
「おそらく、もう一度、真夜中にでも会いにこられると思いますが」
骨焼きの皆殺し、という物騒なフレーズはともかく、簡単にあきらめるとは思えない。
とはいえ、その目的が不明。二人、手に手をとって、竜尾道から脱出、という様子でもなかった。盗みの下見、というでもなく、あの目つきは・・・・・
 
 
 
「夜中はないと思うよ。だって、福音丸さまにつかまっちゃうじゃないの。
・・・いきはよいよい、かえりはこわい、てね。日が落ちる前におうちに帰りましょう、てね。そう言ってくれたんでしょ?カガミノジョウ君」
 
 
 
「・・・」
返答しようとして、一瞬、こちらの目をのぞきこむ碇シンジのその瞳の色に呑まれた。朝にも昼にも夕刻にも見ることはない、それは、夜の雲の色。突如切り替わる別人のような巨大な気配が影の都市のごとくこちらを制圧していく・・・「はい」と単純に肯定の応答をしてしまっていいのか、悩んでしまう。そう答えるしか、ないというのに。
 
それは、あんたことだ、と余計なことを言ってしまいそうで。
 
化け物というのは、たいていの場合、真の名を告げられるなり名前をつけられると、弱体化する。しかしながら、それとは正逆の、認識すればするほど、されるほどに強大化していく化け物がいるとしたら・・・「・・そ・」
 
 
「おい碇シンジ、こっちに置いてあるこの職業不詳住所不定っぽい地方巡業もままならないヘボ漫談師みたいなオヤジは邪魔だからどかしていいのか」
 
 
何を言っても朱が走る二人静の魔性の刻はあっさり破られた。
 
「シヌカさん、このひと、たしか碇せんぱい、あ、碇くんのおししょうさまですよ。学校で見かけました」「あー、そういえばオイラもみたなあ。なんか洗面器をあいつの頭にのせてたぞー」「ああ、言われてみれば・・・こんなヒドすぎのスーツ着た人間はちょっと二人といねえよな・・・しかしなんでここにいるんだ?とにかく、これを視界にいれたまま茶を飲めというのは厳しいぞ?かなり」
 
 
「あ、すぐにどかせますからー」魔神めいた影の気配はあっさりと消え、そこには一人の軽快なパシリが。道化を演じているわけではない、そりゃもう純粋骨の髄から強そうな女性に従うことに喜びを感じているとしか思えない速度で行ってしまう。さきまで獲物のようであった自分のことなどあっさりスルー。なんだあの”よくぞいってくれました”みたいな満面の嬉色は。
 
 
「・・・よく分からない人だ・・・・」
取り残された弓削カガミノジョウは、今夜これから何が起こるのか、全く読めない現場に己らを使わした命令者を恨んだ。いかにも危険物然としていてくれればまだやりようがあるのだが・・・。誰を、何を、警戒すればいいのか。誰から、何から。
彼は闇を染める。
 
 
 
「碇シンジはそういう奴、よ」
坂を下りたところで蘭暮アスカが呟いた。
 
寺に来たのは碇ゲンドウの不在を確認するためで、本当にあの父親は竜尾道を抜けたようだ。ずいぶんと唐突でタイミング的になんの意味があるのか分からないが、ともあれ。
 
 
碇シンジは一人になった。
 
なにかと、やりやすくなった。
 
 
ラングレーはこの前触れのない離脱に大いに不信感を募らしている。契約に縛られ直接的に本人にアクセスできない彼女にしてみれば、その間に立つ存在の碇ゲンドウはさぞ貴重なものだったのだろうが・・・・父親など、そうしたものだ。その程度の弱い影。
 
好きこのんで檻に戻ってくることもあるまいから、急ぐこともない。この街の支配者が碇シンジのそばに人員を配置していた、ということも蘭暮アスカ、ドラに安心を与えた。
碇シンジ自体が発動せぬかぎり、決定的な事象は今夜、起こらない。そう、判断した。
拙速することはない。下手に動いてこれ以上目をつけられるのもまずい。
 
 
歩いて戻る街の空気に警戒と緊張がある。非常線が張られているわけでも人の姿が極端に少なくなっているわけでもなく市街の様子はいつも通りだが、それでも。
街の流れに馴染まないよそ者であろうと、敏感に気配を読む能力に長けてなかろうと。
よほどのバカでも分かる。この機を好機と思いこむ愚か者どもに知らせるように・・・・
 
 
 
天には逆さに鎮座した竜号機が市街を睥睨しているからだ。
 
 
 
こいつは本当にエヴァなのか、同じ・・・・ラングレーとともに内心で唸る。
地方軍閥的下品な使用法だと切って捨ててしまいところだが・・・その力感は圧倒的。
変異体というのは、どこかに無理が、歪な隙がありそうなものだが、それがない。
豪として。剛として。空恐ろしいほどの油断のなさで全身鎧われている。
自分たちのものより遙かに完成されているが・・・・枝分かれしてかけ離れている。
多機能性においても及ばない。進化の可能性を飽くことなく暴飲暴食し己の身に取り込んできた化身。宙に固定して浮くなど、その一点をとってももはや別物。飛行可能というだけでも卑怯すぎるというのに。あんだあれは。出来ればそれを咎め吠えたいところだった。
竜の仮面をかぶったことで、兵器の無貌性を失った。それは、もはや
兵器というより・・・・兵器としてもはや使用不能になってしまっているシンボルだ。
世界が広い、ならばまだいい。が、こんな窄まった世界に潜み住んでいるような奴が。
 
とはいえ、
そんな声を聞かれたら、もちろんブチ殺されるであろうから、間違っても心の声に留めておく。とりあえず、今夜はここのヌシに任せておくほかない。この竜をかわして彼に介入できる者がいるとは思えない。竜を退治して姫を救出?あまりにファンタジー。
それとも、竜の気がかわり、姫、いやさ王子をぱくりと一呑みにしてしまうか。
呑まれた後にも興味があるが・・・・その腹を食い破り、現れるのは・・・
 
 
「赤いウサギだったかな・・・・・・・・ふわ・・・・・眠くなってきた・・・」
あくびをする蘭暮アスカ。あくび娘、とはまだ人は言わない。ラングレーにここで切り替わってももうできることもないだろう。
 
「頭に来るけど、その通り・・・・」
 
アスカを呼び戻すこともせねばならない身の上ときては、時間があまりに足らない。
これから碇シンジのとこに行って頭の一発もスパンと張ってやりたいところであるが。まさかここで碇ゲンドウが逃げるとは・・・予想もしていなかった。危難に陥れば陥るほど力が漲る性分であるが、イライラがなくなるわけでは全くない。ストレスはあるのだ。あー・・・・そこの郵便ポスト燃やしたら多少はすっきりするかも・・・思いかけてやめとく。念炎ならば完全犯罪だが、あの竜の目があるところではその限りではない。
 
「ああー・・・・・」他人には決してうかがい知れぬ憂鬱を抱えながら、とりあえず帰途につくラングレー。とりあえず腹ごしらえであった。腹が減っては戦はできぬ。
 
 
さきほどまで尋常でない目つきでガンくれていたわりにはあまり力のない少女の後ろ姿を見送りながら竜号機の中の水上左眼も同じ事を考えていた。
竜の中にあると、非常にやばい感じなのであるが、つまり「腹が減ったな」と。
 
碇ゲンドウがいきなり逃げたおかげで忙しかった。その目的も経路も分からない、ときては対応策はピンポイントどころか全方向弾幕状態となる。まずは碇ゲンドウとの入れ替わりの竜尾道侵入をとにかく防がねばならず、経路を使用後閉じておいてくれればいいがそんなことは期待できない、観光協会の全スタッフを総動員して入郷処理を一時封鎖、境界線領域に腕利きを配置し、市街も徹底しての針ネズミ探し。司令塔に竜号機が要るのは無論のことでそれを使用予定の仕事は全てキャンセル、または後回し、その調整で城は悲鳴をあげ、刀剣の鍛錬も気が乱れてとてもやれたものではなく、貴重な試金をみすみす無駄にしてしまった。竜尾道を回す人間は皆、一人の例外をのぞいて、落ち着いて火をおとせぬ沸騰状態で、その頭目たる水上左眼が何か口にする時間もあるはずがなかった。
この状態を今夜一晩保持しなければならない。現在の隠里の安定状態をみるとこれ以上の外敵侵入はさほど心配せずともよいが、要マークの人物が一人。自ら竜号機の目でもって見張っておかねばならぬ人物がいる。言うまでもなく、父親においてけぼりにされた碇シンジである。父親が動いて息子が動かぬ道理もない・・・・・。実際
 
 
当初の予定ではすでに、その名をこの地で聞くことはなかったはずなのだが
 
 
とっくに始末がついているはずなのだが、今も彼はぴんぴんして寺にいる。元気かどうかまでは知らないが、同級の者を送り込んでおいたから寂しくはないだろう。
 
 
今夜、それが起きるのか、どうか。見届けるために。飢餓と吐露を我慢する、という奇妙な忍耐を強いられている。立場的には、さらわれてきた碇シンジにしてみれば、食べてしまいたいならそうすればいいけれど、あなたにそんなこと言われる覚えはありませんよ、というところだろうが・・・・・強者はあなただと、言うだろう。
それは、まあ、そうなのだが・・・・・精神の均衡を保つ必要は、ある。ゆえに
眼下の世界はあまりに脆く。砂でできた映画館のように。吼えて崩してしまわぬように。
 
 
「・・・・・・・・・貴方は敢えての方だから」
夜の市街に渾身の厭味を、放った。