もくもくもく・・・・・の入道雲をバックにしての金曜日の放課後。



「イカン、もー始まっとんやないか。シンジ、惣流、いくで!」
「シンジ、ぞーきんなんか適当に放り込んどきゃいいでしょ!。行くわよ」
「え?あ、あともう少しだから・・・・・・ぱんっ、ぱんっ、と」


掃除をすませた惣流アスカと碇シンジと日直任務を完了した鈴原トウジが廊下を駆ける。行く先は音楽室。どこにでもあるありふれた音楽室だが、急ぐのには無論、理由がある。今日のこの時間、綾波レイと山岸マユミのピアノ連弾の初披露・・・音初めがあるのだ。


お互い(どちらかといえば綾波レイの方)の時間が合わなくて、あの正式結成から今日まで合わせたことはなかった。曲目の方は決まっているし、どちらも腕に覚えがあるらしいが、実際にやってみねば、どんな調子になるのか分からない。

昼休みや放課後は諸々の音楽部が練習に使用しているのだが、相田ケンスケが渡りをつけてちょっとだけ時間を分けて貰ったのだ。
もともとが碇シンジのおもいつきだけに、どのようになるのか予想がつきかねた。
碇シンジと綾波レイの二人をのぞいてメンバー全員が早いトコ、二人の音を聞いて安心したかったのだ。

そういうことで、初お披露目にはメンバー全員が揃うことが望ましかったのだが、今日はあいにく鈴原トウジが日直、惣流アスカが掃除当番にひっかかっていた。碇シンジは手伝わされたために遅れ組となった。

だから、綾波レイと山岸マユミ、この二人が生み出す最初の音を聞き損ねてしまった。



この世に初めの音。



そういうものに価値を見いだすかどうか。存外なことに、鈴原トウジや惣流アスカがそうであるのに対し、碇シンジがそうでないのである。哲学成分が足りないのだろう。
だから、二人が先先駆け走っていくのに、碇シンジは途中でのんびり歩き出した。
「そんなに急ぐこともないよね」



音をその場で間近で聞くか、遠くの幽かに耳をすますか、個人の自由というもの。
しかし、急げば急いだだけの価値はある。それもまた耳を研ぎ澄ます在りようだから。
聞きたいとおもわなければ、音は聞こえない。


音楽室の前には人が集まっていた。その意味は、中から流れてくる音にある。



音のほかには静かだった・・・。







ネルフ本部 第十三仮眠室 その片隅・・・・・

オペレータ青葉シゲルの目にはクマができていた。明らかな睡眠不足。だからここに来ているのだろうが、彼の眼は爛々と輝き、いっかな床に就こうとしない。
不眠症・・・・・ではない。いや、眠ろうとすれば眠れるのだが、それをおのが意志、おのが脳みそがそれをさせないのだから、そう言い変えてもいいかもしれない。
頭の中に歌と音が鳴り響いている・・・・・・それにあわせて指が高速で空を掻き裂く。鼻は鼻歌、ノドはハミング、舌でリズム打ち、それらがある程度の形に凝縮すると声に出し、なんかオッケーな感じであれば、それをノート・・・朱線や青い文字での大量の注釈が入れられている異様に「濃い」・・・・・に刻み込む。書き込む、というお手軽な感じではないのだ。まさしく、刻み込む。永劫の時が流れ、中性紙のノートが塵と消えても、ぶち込められた彼の魂念は消えまい・・・・。


そこにいるのは、オペレータではなく、一匹の音楽家であった。


彼が何をやっているかというと、一概には言い難いが「編曲」である。
葛城ミサトと地球防衛バンドの依頼を受けて、子供らの選んだ、しかも使用する楽器もバラバラでさらにいうなら音楽的ポリシーゼロの注文曲をなんとか形になるように直さねばならないのだ。なおかつ、ギターをはじめとする楽器類の演奏テクニックの伝授もせねばならない。もちろん、無償である。
無償である限り、命令でもなんでもない、たんなる「お願い」である。


確かに音楽は好きだが、子供のお遊びにつきあうほどヒマじゃないんでね。
ネルフのような特務機関で長髪を通すだけあって音楽へのこだわりは人一倍である。
ゆえに、中学生バンドの手助けをする気など毛頭なかった。彼も色々と忙しいのだ。
どちらかといえば、大人のお遊びにつきあいたい。シオリに、ヒミカに、カオリに・・・


だが、ここで思わぬ介入者が現れたのだった。
日向マコトである。
もともと、葛城ミサトに青葉シゲルの音楽歴のことをちくってくれたのは彼である。
さらに宴曲に断ろうとする青葉シゲルの口を「あるネタ」で封じたのも彼である。

葛城ミサトの手助けは出来るわ、金を返さない仕返しは出来るわで一石二鳥であった。

こうして、絶対音感を持つ青葉シゲルは地球防衛バンドのバックアップをやることになった。無償であるしマネージメントの必要はないから、役職「ジャーマネ」である。
名誉顧問は葛城ミサトがすでに就任していたし、さらに目立たぬわりに実務が多いという点でこういうほかない。当初、やる気があったとはお世辞にも言えないが、こうしてこの所、どうしてもかけ離れていた、どんなに拙くとも音楽制作現場に関わっていると、どうしても血が騒いでくる青葉シゲルであった。
ちなみに、「あるネタ」とは・・・・



ギャリイイィイイン・・・



ふいに電気ギターを掻き鳴らす。誰もいないからいいようなものの、相当な音量だ。
「ふう・・・・危ない所だった。こ、このフレーズだな・・・間違う所だった」
先ほどのコア・ノートに訂正を入れる。なぜか冷房は利いているのに汗が浮いていた。


ちなみに、「あるネタ」とは・・・・


ヒュギュイィイイィンン・・・



さらに電気ギターを鳴らす。誰もいないからいいようなものの、はっきりいって危ない。「ふう・・・・いや、ここはこれでいいのかもしれないな。・・・・直しておこう」
せっかく直したのに再び書き直す。編曲の道は厳しいのか。それとも寝不足か。


だれもしらないしられちゃいけないー、青葉シゲルがだれなのか
だれにもいえないはなしちゃいけないー、青葉シゲルがだれなのか



「そう・・・・人の世に愛と夢がある限り・・・世界を革命してでもオレはやらなければいけないんだ・・・・・」

ちなみに。







「正直言って、あそこまでやるとは思ってもみなかったよ!」
ここは屋上。相田ケンスケのこの言葉が皆の意見感想をまとめていた。
地球防衛バンドの面々があの音楽室から、ひとまずここに上がってきていた。
そのまま帰るには・・・・人間、歩きながらは驚けないし、感動したときはたいてい足がとまるものだ・・・・・・ちょっと、もったいない気分がしていたからだ。


綾波レイと山岸マユミのピアノ連弾。


ほんま、これが今日始めて組んだ同士の出す音かいな?と、鈴原トウジ調にいえばそうなる。長いこと同じ音楽教室に通っていた双子かと思いたくなるほどの絶妙のコンビネーション。溶け合い具合はいいんだけどね、綾波レイ君個人の音と山岸マユミ君個人の音が・・・・とかなんとかかんとか小難しいことをぬかす者はいなかった。
高速の指使いの高速連弾というわけでも、いかにも難しい曲を弾きこなしている、という感じでもない。音がケンカするでも、互いを無視するでもない。かといって明るく仲良くするでもない。その意味で、コンビネーションとはいえないかもしれない。


ある種の陶磁器が、二つ揃って置かれることで空間を静かに支配するほどの真価を発揮するように、四本のほの白い手が、鍵盤の世界に見事に配置されていた。


色のない、白の中に白が重なる、白の双演


いかにも「私達、協力してやってますっ!」という熱っぽい元気はない。
狙ったように色の異なる者が己を目立たせるために引き立て合うでもない。
同じ色の者が、淡々と、己も相手もその色のみをつくりつづける。
閃き輝く七色ではなく、ただ自分たちのもつ白一色のみを。

なぜそれで独奏にならずに鏡の残酷さも感じさせずに連弾で表せるのだろうか。
この二人の連弾を聴いていると、空気が白くあわんで澄んでくるような気がする。

どこがいい、と明瞭な言葉にならないのは、白い、花の香りをおもわせるから。
それに導かれて思い出す、それぞれの喜びの月夜、悲しみの白昼が心に開かれていく。

そのような演奏意図が決められていたわけでもあるまいに・・・・・。


なにせ今日が始めてだったのだ。
いつものように涼然としている綾波レイ。ほうっと魂が散歩にいっている山岸マユミ。
このふたりは。



「こりゃー、ワシらもウカウカしとれんなー。もっと気イいれて練習せんとな」
ワシ部分がかなり多めの鈴原トウジ。なにせギターはギター教室に通ったわけでもない独習である。まあ、独習だと一年やってもなかなか身につかない楽器演奏だが、バンドなどでやっていれば短期間でもそれなりに形になる。それなりの猛練習を余儀なくされるからだ。ならない場合は、虎の穴に放り込まれたり、地獄で特訓をしたり、とさまざまだ。

一番、厄介そうだったピアノ連弾が予想外に一番サクサク行きそうなことに喜びと多少の焦りも感じるメンバーたち。これで自分のパートでへたるわけにはいかなくなった。

そういうことなら、さっさと帰って練習すればいいものの、そうもいかないのが中学生というものだ。嬉しいことがとくになくともだべってしまうのに、こんなことがあったのに大人しく、各自解散ってわけにはいかないのだ。
夕日が沈みかけ、蝉の声が涼しげになってきたころまで屋上でだべっていた。



屋上から見る運動場では、そろそろクラブ活動と文化祭準備の割合が半分くらいになっていた。「へちまの観察」や「ミジンコ発生の棒グラフ」なんてのも無いこともないが、空き缶を大量に集めて造る浮世絵壁画をやる一年生クラスやかなりマジに演劇をやる三年生クラスの練習など、地球防衛バンドと同じくこの時期から用意をしている所も多い。
模擬店などは文化祭前日までの短距離競走のようなものゆえ、今は看板書きもない。



「そういえば・・・・ついでにアスカと委員長の方もやってみたら?」
碇シンジがこんなことを云いだした。二人の歌のことである。

「ついでにってのがひっかかるけど・・・・・ヒカリ、どうする?」
まんざらでもない顔をして洞木ヒカリの方に向く惣流アスカ。
「そうね・・・・・広い所での調子合わせをやっておこうか・・・・」
綾波レイと山岸マユミは意外にすんなり同調したわけだが、こちらの二人はどうなのだろうか。楽あれば苦あり、で、もしやこの二人は・・・・・・・


「1,2,の3で・・・・・・」息を調え、二人の目を合わす。
マイクもなしに、開けた場所では音が響くことはない。下手が歌うと、自分の声の貧弱さを思い知らされ、大いにやる気が失せる恐れがある。・・・・まずかったかもしれない。


惣流アスカとイインチョー、洞木ヒカリの実力は?



すうっ・・・・・・はああ・・・・・・・・・・・すう・・・・・・・

らー・・・・・・・・・・・・・・



長く。息が続くまで。小揺るぎもしない発声。小手先のごまかし無しに音程の狂い無く。いきなり歌い出すような愚をおかさないだけではない、手順の中に織り込まれる形の美、基本の中にある豊穣さをしっかりと掴んでのこと。マイク無しでも体育館程度なら十分にいけそうな声量であった。




「・・・・イインチョー、あれでも手加減しとったんか・・・・・?」
オペラ歌手は声でグラスを割れるそうだが、教室でもってこの声で怒鳴られた日には・・・・ワイは・・・・・・・ますます洞木ヒカリに逆らえなくなった鈴原トウジであった。

「ふうむ・・・・・・・・」
こうしてみると、ほんとに意外な面をみせてくれるよな。相田ケンスケは思う。
女の子が歌えといわれて、ふつう発声からやるか?それだけ気合いの質が違うのだろう。ただカラオケで歌うのとはやはり違う、覚悟のようなものがある。これまた、打ち合わせたわけでもないのに、こうしたことが通じ合っているというのは、普段から仲が良いという以上に、この地球防衛バンドにハマっていてくれているようで、嬉しかった。



「目が、きれいだね・・・・ふたりとも。カヲル君もそう思わない?」
「そうだね・・・」
相田ケンスケと似たようなことを感じながらも、表現がひどく単純な碇シンジ。

ざまーみなさい、シンジ。やっぱり人生、基本を疎かにしない人間が最後には勝つのよ!・・・・てなことを考えていたら、こうも綺麗で高めの声はでまい。何も考えていない。無私の状態。声が綺麗というなら、目で声をつくっているのだろう。

それは蒼く黒く輝きあう音の宝玉。



赤い瞳の綾波レイは暮れなずむ屋上の光と影に、広がる声を黙って聞いていた。

山岸マユミも、いかにもリズムの良さそうな二人の意外な堅実さに少々、驚いていた。


「発声はこんなもんかしらね・・・・・・・それじゃ、ヒカリ」
「本番、いきましょう。アスカ」


「いきます・・・・・」
「豊穣の雨(ハーヴェスト・レイン)」








「zabadak」というグループの歌である。
のびやかなその声 外国の田園風景を聞く者の脳裏にうかばせる 土の香りの女の愛情
ゆるやかに舞う娘たちの可憐さ 命をそだてゆく水の歌・・・・・

今度は逆に聞く者はみな、まなこを閉じていた。沸いてくる暖かなイメージをしっかりと味わうために。心にひろがる黄金の平原。その穏やかさに浸っていると・・・・・・




でけでけでけでけ・・・・・どどどんどごどどどご・・・・・・

鉄の黒雲がにわかに天空を閉ざした。


ヒュゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・


とてつもなくでかい音の塊が翼竜のように翼を広げて飛んできた。
実際それは風圧をも伴い、屋上にいる子供たちを遠慮なく叩きつけた。
雷鳴ではない。あれほど素早くはない。あれに比べればずいぶんと遅い。
威圧的に頭上を通り過ぎていくのが感知できるほどだ。幽霊宇宙戦艦とでもいいたくなる不気味な鳴動であった。




「ビルが・・・・消えていく・・・・・」
音の来襲方向を渚カヲルは確かに認識したらしい。それは第三新東京都心部兵装ビル群。ここから見える威容は、エヴァパイロット、チルドレンとして碇シンジ達の仕事場ともいえるのだが、その光景の変化を渚カヲルは見逃さなかった。



ビル群の中の一つ。それが・・・・消えていく。それが砂塵の塔であったとでもいうのか。
風に消えゆく砂の楼閣・・・・・・確固たる現実の摩天楼が吹き消されていく・・・・・
まるで聖書の中の一節、ジェリコの壁のように

破壊、でもない。消滅、でもない。それはゆるやかな崩壊。



それを目の当たりにした者は沈黙するしかない。彼方のスクリーンに映された幻影ではないのだろうか。非常事態警報は発令されておらず、エヴァのパイロットはここにいる。



なんの予兆もなく。滅びのオルゴールが今、開かれた。



碇シンジ達の携帯にネルフからの通信が入ったのは二十秒後だった。







ネルフ本部 作戦会議室



「はあ?音だけ使徒お?」
説明は十二分に理解出来たものの、それを受け入れることができない惣流アスカ。

「・・・・・・・・?」
説明も二分五厘ほどしか理解できなかった碇シンジは、ひたすら首をかしげている。


「そう、あれは使徒の超音波攻撃じゃなくって、大気中をうろつくというか回遊するというか、とにかく目には見えないけどそれが使徒本体・・・・らしいのよ」
赤木博士の方を見ながら、さすがに歯切れの悪い葛城ミサト。



モニターには、市街の様子が映し出されている。一見してなんの変哲もない夕日の街並みだが、注意してみると所々、いきなり窓ガラスが大量に割れたり、道路が透明なハンマーで殴られているようにクレーター状にへこんだりと、確かに異変が起きている。
これで、けばけばしいデザインの使徒が設置されていれば、そいつが暴れたのだ、と分かるし、いつものようにヤキを入れに早々にエヴァ四機は発進しているはずだ。

が、いつもと少々勝手が違うのは、文字通り「見れば分かる」ことだった。
偶然なのかどうなのか、四時四十四分丁度に突然現れた「それ」は挨拶代わりにビルを一つボロボロに消し去った。同時に「パターン青」の警報が本部に鳴り響く。


「それ」は年がら年中夏であることから超巨大に育ってしまった幽霊などではなく・・。

使徒であった。


天から来た人類の敵。殲滅されるまで好き勝手暴れ放題に暴れ、説得や和解の余地のない存在。赤木博士と霧島教授の推測によれば、構成元素に、炭素でも硅素でもなく、ひどく単純に大気中に存在する窒素だの水素だの酸素だのを選んだ、コアもなくATフィールドもない使徒。兵器としての視点からみれば遊撃用純粋攻撃システムということになるか。


「どこ」から「どこ」までが使徒なのか?
「どこ」から「どこ」までが第三新東京市の空気なのか?



このような「存在の普遍性」からいうと、これはかなり神様に近い使徒だった。
部下の不甲斐なさにとうとう痺れを切らせて、格上の上司がきたのかもしれない。
そのため、冬月副司令も簡単には命名することは出来なかった。


「我はアルファなり オメガなり 最初(いやさき)なり 最後(いやはて)なり

始めなり 終わりなり・・・・・・」

渚カヲルが呟いた。綾波レイだけがそのことを聞いていた。




モニターでは分からないが、市街では「音」が溢れかえっている。音源も無しに空気それ自体に意志があり、好きな音を鳴らしている。風が歌っている。温かい空気、冷たい空気乾いた空気、濡れた空気、硬い空気、柔らかい空気、静かな空気、激しい空気、・・・・

長年、とても長い間、空気は音の伝達役であった。それが、役の呪縛を解かれ、己が声を存分に放っている。空気は空虚ではなかった。彼ら自身にも語るべき事は山ほどあった。
様々な声を、音を刻まれ、忘れることはない。リズムという外部記録デバイスを得た今、彼らは無限にその歌を、会話を続けるだろう。自らの。
リズム、調子、波、高さ、低さ、強さ、弱さ、音色・・・・・・様々な形質を手に入れて自分たちの領域を泳ぎ始めるとするなら、第三新東京市の空域は、すでに大気ならず。
こう呼んだ方が真実に近かろう。


音の海・・・・・・・と。


音海は無限の多様性をもっているかに「聞こえた」。
ビルを滅ぼした超音波、街路樹や放置車を切り裂いていく真空波など、物騒な「音」のみならず、詩人や音楽家が探し求めた幻の音色もあっただろうし、子供が喜ぶような楽しげな音もどこかで聞こえていたはずだ。端的にいうと、クラーケンやモビィディックもいれば、熱帯魚や鰯もいるということだ。食物連鎖が始まっているのかどうかまでは、人間如きの耳では分かろうはずもなかったが。
「音」偏にあれこれ好き勝手に漢字をくっつけてみてもどこかにそれに対応する音が存在する・・・・・散文的にこの異常事態を表現すればそういうことになる。


いくら使徒がかんでいるとはいえたかだか、「音」にこのような真似が出来るのかどうか。

日常レベルの音の強さは、普通の会話で一平方メートルあたりわずか百万分の一ワット程度で、音圧に換算すると五百万分の一気圧というわずかな値である。
大きな声の人間の代表格である歌劇のテノール歌手でもおよそ110デシベル。根性と訓練を重ねてもライオンの吼え声と同じ。これがクジラほどになるとまた、パワーも相当なものになったりする。水中でのことであるが、近くでクジラが鳴くと船全体がビリビリと震えるという。通常媒質内の音波はほとんどその性質を変えることなく伝播する。いわゆる線形理論である。しかし、音波の伝搬を記述する波動方程式は、本質的には非線形であるのが本来の姿である。・・・・科学的に要するに、これだけでかくなると、人間の計算予想を遙かに超える、ということである。

とはいえ、夕食も食えずにシェルターに緊急避難した市民達はそれどころではあるまいし、ネルフ本部ではいうまでもなし。

「無料BGMに喜ぶにゃ、演奏がハードすぎるわね。長いこと聞きたかないわ」
地震・・・・いや、空気が勝手に揺れているんだから「空震」とでも呼ぶべきかしらね。特殊災害ってことで、こんな時こそ戦自の皆様方に役立ってもらいたいもんだけど。
葛城ミサトも内心で頭を抱える。こんなのに一体、どうしろっていうのよ?
潰すなり倒すなりしないと、人類滅亡まで続く天災「使徒」の恐ろしいところである。
背中をまるめても通り過ぎていってはくれない。一方的にタコ殴りにされるだけである。


かといって・・・・・・どうしたものやら・・・・・・・


「霧島教授、何か方策はないものでしょうか」
一応、聞いてみる。市街に現れでたこいつがこの前のあれの続きだとしたら・・・・・・細かく詳しくデータを採取していた霧島教授ならば何か手だてを考えてくれるのでは?

ふう。私に聞かれなくて良かったわ。ほんのちょっと内心のスミで考えた赤木博士。
はっきりいって、科学の領域じゃないわ・・・・・・どうするの?ふたりとも・・・

皆の注目が霧島教授に集まる。そういえば、これだ!という仕事は未だしていないような気もする。しかし、ここで何か快刀乱麻な回答を出してくれるのではあるまいか。
未知の事態に出くわすと、賢い人間に頼りたくなるのは人間の本性である。

さて、霧島教授の頭脳の冴えは?

「いろいろやってみるしかないでしょう」




とりあえず・・・・・敵の具合を探るために、四号機とそれをガードするための初号機が市街にあがることになった。


しかし、さすがの渚カヲルと四号機の神眼も、相手が音では勝手が違う。
管理用エヴァとして耳センサー類の機能も他三体を上回ってもいるのだが、いかんせん、機能が精密に上等すぎて、このようなワイルダーな状況には向かないのだった。


さらに、音の海に現れた潜水者に興味を持ったのか、「音」が四方から集まってくる。
少々の超音波などではエヴァの装甲は破れはしないが、パイロットの神経がたまったものではない。攻撃性の敵意をこめた「音」にはATフィールドが反応してくれないこともないのだが、それとて完全ではない。フィールドの方でも戸惑うのだろう。パイロット自身が事態をよく把握できていないのが如実に現れている。

「頭の中がちくちくします」と碇シンジの報告。
シンクロ率も、壁に油を塗ったようにずるずると下降していく。

「やはり・・・・コアの存在も認められず。動力の必要がないからかもしれませんが」
残念ながら、と渚カヲルの報告。
これ以上は意味無しと判断し、二体を回収する葛城ミサト。






夜もとっぷりと暮れて。
作戦部長室
「なんかいい手はないかしらねえ・・・・・・・・」
騒音を消す技術、というものもあるし、ちょっち把握しにくいが、使徒の本体が音の塊だというなら、兵装ビルの中に真空でもこしらえて、そこに押し込めて潰し去る・・・・・この手の方法ならば、葛城ミサトはいくらでも考えつく。予算の枠さえなければ。

「敵が第三新東京市全域に広がってるってんだからねえ・・・・・つかまえなければ勝負にもなりゃしないわよ・・・・・」
要するにイメージがわかないのだ。一点に凝り固まった、殺傷すべき「敵!!」というイメージがない。あやふやなのだ。どうエヴァを用いればよいものやら・・・・。
空気にエヴァの、初号機のパワーでも叩き込んでも虚しいだけだ。効きはしない。
憎むだけで使徒が死んでくれるなら、いくらでも憎んでやるってのに・・・・・。
雌狼の表情で、歯ぎしりする葛城ミサト。

習い覚えた知識の中で、多少近いものといえば・・・・毒ガス兵器か。
あれとも違うか。厄介なことに拡散はしないのだ。音のパターンは次々と新しいのが生まれてくる。それどころか、だんだんと音量を上げていっているのだ。
音のない状態は「無音」「沈黙」として、完全な球や三角形と同じく実際にはあり得るのかどうか分からないが、ともかく下限は理論的には存在する。しかし、上限はあるのだろうか・・・・音というものはどこまで大きくなれる?

「絶対音量」なんてものがあるのかしらね・・・・・・・そこまで行き着く前に。

なんとかしなきゃね・・・・・。でもなあ・・・・・・・・・頭をひねる葛城ミサト。
時間はない。時間はない、のだが・・・・・・・うーむ・・・・。

いたずらに時間だけがすぎてゆく。






入り口の呼び出し音が鳴った。う・・・・・まだ案が浮かんでいないと言うのに・・・・。
漫画家のよくやるカンヅメ状態になっても浮かばないものは浮かばないのである。

「日向君?・・・・・・あ」
日向マコトが原稿・・・・いや、作戦立案書を受け取りに来たのかと思ったが・・・・・そこに立っていたのは

「難儀しとるようですのう」
作戦顧問、野散須カンタローだった。階段で転げたとかでしばらく休んで・・・もともと非常勤扱いなのだが・・・いたのに。松葉杖でやってきた割りにはいつもの通りだ。

「あ・・・・作戦顧問ですか・・・・・・・どうぞ」
ナンギしてるようですわよ。と、内心で思いつつも仕事である。
「珍しく、しょぼたれた顔しとりますな」

しょぼ・・・・・!!このジジイ・・・・・・葛城ミサトの顔色が変わる。
リツコにさえ、あのリツコにされここまで言われたことは・・・・・・・・・・・・・・・・あったかもしんない。

「あのヤカマシ族を追い払う手だてを考えつきませんかの」
「く・・・・・・・」
カミナリ族やタケノコ族じゃあるまいし。しかし、その通りである。どう考えても殲滅させる手段を思いつかない。イナゴの大群だと思おうとしたが駄目である。イナゴの佃煮は食えても音の佃煮など聞いたことがない。
それを脳みそ絞って考えるのが葛城ミサトの仕事である。考えつきません、では済まされないのである。考えつかない以上、誰に何と言われようと返す言葉がない。


「眼には眼を。歯には歯を。音には音を」

「音には・・・・・・音・・・・・・・」

「儂の思いつくことはこんなもんですがの。まあー、他山の石までに」
部屋には入らずに、くるりと背をむけ行ってしまう。松葉杖なのにやたらに速い。

「音には・・・・・・・・音」
ころころ・・・と転がった石ころが、大落石雪崩を引き起こすことがある。
初めから用意されていた石と選び抜かれたルート。それを作動させるだけの小さい震動。

葛城ミサトの頭の中で今、それが起こっていた。ガラガラと岩石が荒げて転がり落ちていく。連鎖反応は、冷えた溶岩のように凝り固まった歪な岩山を砕き崩壊させていく。
その中に封じ込められていた、性悪の孫悟空が歓喜の雷に撃たれたように首を振り振り雑食性のキバを剥き雲を駆って暴れまくる様が脳裏に浮かぶ。
答えは問題が起こった時点ですでに己の内に現れているはずなのだ。本当にそれを必要としながらも・・・時折、常識や見栄がそれの発現を邪魔したりする。


「ふふふふふふふふふふふふふふふふ・・・・・・・・・・・・・・・」

甦った古の猿の魔法歌が頭の中で勇ましく、天に咆哮、地に叫喚しまくっている。

「ふふふふふふふふふふふふふふふふ・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・と、そうなると、零地点に集合して押し出していくか・・・・・それとも四方
十字に囲み潰していくか・・・・・それが問題だわね・・・・それから・・・・・」



「あ、でもなー・・・・・・」







赤木研究室

「できるわよ」

葛城ミサトの要請に赤木博士はずいぶんあっさりOKしてくれた。怪しいほどに。

「ほんとに!?・・・・・・・いや、ちょっと待って。リツコ、これは冗談でもなんでもない、作戦部長の立場を賭けての発言なの。それを踏まえた上でOKくれてるの?」

「技術部を甘くみないでほしいわね。四日・・・・くらいはかかるかしら。一体につき一日として。まあ、材料の心配がないからそういえるのだけど」

「とにかく、技術的に出来るわけなのね?どうしても駄目なら・・・・」

「いかなる状況にも対応できる汎用兵器・・・・・・それがエヴァ、でしょ」
とにもかくにもミサトは対応策を考えてきた。あとはこちらの仕事だ。
「それにしても・・・・よく考えたわね。エヴァ四体による弦楽四重奏なんて・・・。
まるきり効果なかったら、どうするつもりなの?葛城一尉」

音には音、というひどく単純な魂胆だが・・・・。考えてみれば・・・・私たちは今、聖書に出てくるジェリコの壁を崩した角笛と鬨と戦っているようなもの。奇跡と戦うにはどうすればいいのかは誰も知らないというのに。


ジェリコの壁、というのは旧約聖書の紀元前十三世紀ころの、大いなる旧世紀のおはなし。 カナンの地にあるヨルダン川西の町ジェリコは城壁に守られていた。イスラエル人は領土拡張のために攻め滅ぼしにいったわけなのだが、この時、聖なる箱におわす契約の神様にひとつ知恵をさずかる。「軍勢を率い聖なる箱を先頭に、角笛を鳴らしてジェリコの城壁のまわりを毎日一周しなさい。ひとことも喋ってはいけない。これを六日間続け、七日目に七周して、そのあと一斉に鬨の声をあげなさい」というものだった。果たして堅牢を誇った城壁は崩れ去ってしまう。暗黒舞踏のサマー合宿にも似た怪しの行動だが、神様がついているとこのような破壊力があるのである。ジェリコの町は焼き尽くされて滅ぶ。


「造ってくれさえすれば、効果があるように運用させるのがわたしの仕事です。
リツコ博士にはご迷惑がかからないように、粉骨砕身でがんばらせてもらうから」

「シンジ君の初号機がチェロ、アスカの弐号機が第二弦ヴァイオリン、渚君の四号機が第一弦ヴァイオリン、そしてレイの零号機が・・・・ヴィオラ」
零号機、綾波レイを最後に伝えたのは葛城ミサトの考えを見抜いたから。
勝つために、使えるものは準備をしておく。それが使わぬにこしたことがないものでも。
使用の代価が高いからといって、高い効果が得られるとは限らない。それでも。
もしや、それが厭でこれを思いつくのが遅くなったのかもしれない・・・・。

「・・・・・今回はレイに・・・・・頼ることが多くなるかもしれない」

「碇司令はあまりいい顔しないでしょうね。仕方がないけど・・・・・。
時間もないからすぐに制作にとりかかるわ。それまでに効果ある運用法を考えておくことね」

「ええ」







待機室

「だーかーらー!見えないってのはこの場合、透明ってイミじゃないのよ!SFアニメじゃないんだからそこから離れなさいよ、アンタは」
「じゃ、どこに本体があるの?」
「え?あーうー・・・・・・・それは・・・・・それがわかってりゃ出撃してるわよ!!」

使徒を殲滅する使命を帯びた四人の子供たちが自分たちの出番を待っていた。
こうして、使徒が市街で暴れ回っているというのにここで待機しているというのは・・・・特に惣流アスカには耐えられたものではなかったが、かといって戦法も戦術も定まらず出撃命令も無しに出ていったとて、返り討ちにあうのが関の山である。

未だに事態と下された説明がよく分かっていない碇シンジに、なんとか理解させる試みがその苛つきを多少は弛めていたか。別の面でイラついていたかもしれないが。


「今回の使徒が空気みたいなものだとしたら、どうやったら倒せるんだろ?」
「うっ・・・・・そ、それを考えるのはミサトの仕事だし・・・・・何とか考えるんじゃないの」
惣流アスカらとて実物を研究したわけでもないから、本質的に理解しているわけでもないのだが、目に見える事象から道理を引き出して、それを無理に理解しているだけなのだ。そうしなければ、不安だからだ。


「物理的殲滅は無理だろうね。おそらく、行動パターンを分析して移動ルートの判断形式を引き出してそこから第三新東京市から引き離す作戦に出ると思うよ」
そんな流体計算はマギでさえ、呻きを禁じ得ないほどのレベルだろうね・・・・日数もどの程度かかるやら・・・・巧い計算則が見つからなければ半月以上、かな。
音の回遊現象や真空現象の連続移動から、どこか音のマスター、指令を出している存在があるはずだ、と推測しそのような作戦を予想している渚カヲル。どう考えても自然の現象ではないのだから、それに反するための「意志」が不可欠だと・・・・・やはり人体に比例させて考えを進めている。人間の知らないことはこの世界に膨大だとは承知しながらも・・・・・・考えてしまう。


「・・・・そういうことではない、と思うわ・・・・」
珍しく、綾波レイにしては強い調子で・・・・黙想のリトリートより崇高のサブライムへ。


「どういうこと?」
三人ともこれを聞く前に、第二作戦会議室への召集がかかった。
なにやら方策があがってきたらしい。使徒を倒せる、または追い出す方策が。



急いで向かった先で、子供たちは「事実は小説より奇なり」の本当の意味を知ることになる。または「無理が通れば道理が引っ込む」ともいうが。


エヴァ四体による弦楽四重奏・・・・・・・で、使徒を四方から押し潰す。


一瞬、場を和ますジョークかと思ったが、顔は真剣だ。和んでいられる状況でもないが。
エヴァ用の楽器も製造されているという。全部仕上がるのは四日後。
四日間は市街も戦闘態勢に移行してひたすら耐える。幸い、ネルフ本部やシェルターの特殊外盤を損傷させるほどの力はまだ無いようだ。ひっかかれるようなもので、肌皮膚にはさんざか傷がつくことになるが・・・・ここは武装要塞都市だ。

エヴァ零号機、初号機、弐号機、四号機が、第三新東京市の東西南北に配置される。
一カ所に四機かたまって演奏、というわけではないので、「四・十・奏」とでもいおうか。
これは、市街中心ネルフ本部直上の零地点に集中した場合の使徒に囲まれる戦術的不利を避けたためにこうなった。

「楽器が出来上がり次第、すぐにいくからそれまで各自で練習しておいて」

エヴァで楽器の演奏など出来るのかどうか・・・・・いや。
それで使徒に勝てるのかどうか、という当然な疑問が残るわけだが、当初の衝撃が大きすぎて反問もできなかった。いや、出来たのだろうが返ってくる答えが恐ろしかったのかもしれない。これで「神のみぞ知る」などといわれた日には・・・・・・・。


それで、綾波レイを残して解散となった。
綾波レイがヴィオラを弾けるのかどうか、碇シンジもしらなかった。


葛城ミサトが綾波レイに命令したことは・・・・・・・





技術開発部第四兵器工廠

「巨大エゾ松レスピーギ・・・巨大楓ケテルビー・・・・・・これなら・・・・」
安全ヘルメットを被った赤木博士が巨大樹木を見上げている。枝は切り落とされているがそれでも威圧的にでかい。これならばエヴァ用になる。

エゾ松を表板にし、楓で側板と裏板をつくる。さすがにこれに見合う馬の毛などはないので合成ものでどうにかするほかはない。

「いい木です。腕の振るいがいがありますよ。一世一代の作をつくってみせます・・・」設計図を拡げているのは天沼セイジ技官である。もちろん、世界中のどんな楽器職人もこんなでかい楽器を造ったことはない。これほどでかいと楽器と呼んでいいものか、疑問の残るところだが。

兎にも角にも楽器造りは微妙なものである。
ヴァイオリンなどは生き物とさえいえる。部品のほとんどは様々な種類の自然木によってつくられ天然の膠によって接着され、組み立てられている。内部で表板と裏板を音響的に
つなぐ役割を果たしている「魂柱」と呼ばれる直径6,7ミリくらいの細い柱や表板の上で四本の弦を支えている薄い「駒」は本体に接着すらなされていない。そして、その位置がコンマ何ミリかずれただけでヴァイオリンは持ち前の音を出さなくなってしまう。
ときには「ウルフトーン」と呼ばれるような音にならない振動音が発生してしまう。

エヴァ用だからといってそのままでかく造って音が鳴るものやら・・・・・・。
実のところ技官を初めとする工廠のスタッフの苦労は想像を絶する。

「それにしても・・・・赤木博士。こんな木をどこから?輸入したにしてはタイミングが良すぎますが・・いや・・・世界中のどこにももう、こんな立派なものは・・・・」
どこから搬入されたのか・・・・・書類には空欄になっている。
「まあ、木を隠すなら森の中、というところかしらね」
こういうのを二重韜晦という。これ以上は踏み込まないのが賢明というものだ。


設計図には早々と命名がなされている。これは楽器の内側に刻印されるもので碇シンジたちが気づくことはない。

正式名称は「プログ・キャノン」という。型式は壱式から四式まで。

ここでいうキャノンは「比肩する楽器が見あたらないほど朗々たる音を出すもの」の意で
あり、内部から砲丸が飛び出すわけではない。
鬼才ニコロ・パガニーニが「死後百年間、誰も弾いてはならぬ」と遺言した名器の名を頂くのはせめてもの願いであろうか。

そして、各々に与えられた名前とは・・・・・


零号機 ヴィオラ=リィ・アマーティ 初号機 チェロ=無量塔ガルネリ

弐号機ヴァイオリン=アントニオ金八 四号機 ヴァイオリン=デル・ジェス・クロンツ

もちろん、このような名前の人間はこの工廠にはいない。いわばハッタリをかますためであった。おまじないに近い。使徒が名工の名前に恐れ入ってくれるとも思えないが、造る方の気休めであったかもしれない。

「楽器は我々一人ひとりが心の中にもっている音、我々の肉体、我々自身から生まれる道具である。楽器は、時とともに我々の音を吸収し、それを何年もの間保存する」

:アッカルド
演奏する者にとって楽器のもつ意味はかぎりなく大きい。弾き手は自分の手にする楽器の能力以上の演奏は難しい、ともいう。それが名器ともなると、弾き手が音色をイメージする前に、楽器が様々な音色を奏でるともいう。

・・・・要するに、考え得るどんなものでも詰め込んで、子供たちの力に・・・守る力になってもらいたかったのだ。また、完成するまでは自分たちの力に。


「まあ、さすがにエヴァ用のピアノを造れと言われたら無理でしょうけどね」

「もしもピアノがひけたなら・・・・か」

想いのすべてを歌にして使徒に伝えることはなにかあるだろうか。ぞっとしないが。






通路をゆくパイロット三人。

「綾波さんってヴィオラも演奏できるのかな?」
「さあ?出来るんじゃないのお・・・・」
地球防衛バンドのことだけでも頭と心が一杯であるというのに、この上さらに弦楽四重奏までやらねばならないとは・・・・・神風アイドルにでもなった気分の惣流アスカ。
エヴァのパイロットとしての任務がある以上、その他のことは全て心の内より除外されてしかるべきなのだが・・・・・どうもうまくいかない。後ろ髪を・・・ひかれて物憂い。


「・・・・・・・・」
もしかしたら、ネルフ本部に来たことを今更ながら後悔しているかもしれない渚カヲル。常識と非常識の間を揺れる真理のギロチオン時計が少年の項を刻んでいる。

「でも、使徒に対抗するのにヴァイオリン、というのはそれなりに面白いかもしれない」 渚カヲル。この少年に限って自棄になることはあるまいが、そんなことを言い出した。
ヨーロッパ近世から近代にかけてのこと。ヴァイオリンやハーディガーディが辻音楽師に よって演奏されていた頃。民衆から愛好されているこれらは旧勢力の主軸だった教会から 「悪魔の楽器」と呼ばれ蔑まれていた。・・・・この少年の諧謔だ。

「それにしても・・・・弦楽四重奏が今回の使徒の弱点だなんて、ミサトさん、よく分かったね」
とにもかくにも、それを実行さえすれば勝てるのだろう、と思いこんでいる碇シンジ。
頭の中には、化学の実験のように薬液の入った試験管の中に試液を垂らすとみるみる色が変わってゆく光景がある。または、ドミノ倒しの様にちょっとしたきっかけで全てがパタパタと崩壊していくような仕掛けのイメージ。それがある。
詳しい科学的な理屈は分からないものの、市街で好き勝手に暴れている使徒に劇薬の如くに効くのだろうな、と考えていた。たぶん、弦楽器の音に弱いんだろう。
それとも嫌いなのかもなー・・・・ピーマンや大根や納豆が嫌いな人みたいに。
さすがにお化けが日の光に弱いように、とは考えなかった。相手は使徒だ。


とりあえず、チルドレンは練習に移った。学校は休みだ。



綾波レイは少しの間、戻ってこなかった。







霧島研究室

「音のパラドックスを指摘したのはゼノンだったかな」
穀物が一粒床に落ちると、ある独特な音がする。けれども、その穀物がつまった袋を床に落とした時の音は、穀物一粒一粒の音をすべて合わせたものではない。それは全く違った響きで、何の関連もない音のように思われる・・・・・というものだ。

もうひとつある。 二つの物体がぶつかりあっても、音は一つしかでない。ボールが壁に当たる。ペンを床に落とす。机を軽く足で蹴る。いずれの場合にも音は一つである。「一足す一は一」の例といってよいだろうが、数学的にはありえないことだ。全く非論理的であり、同時に完璧に自然である。

霧島教授はあくまで科学者で、哲学者ではないのだが、アリストテレスの「問題集(プログレマータ)」にこのような問いが載せられているのを知っている。 「ひとりがある音を出し、同時に幾人かがそれと同じ音を出しても、その全体の音がその人数分だけ遠くに届かないのはなぜか」
科学的に答えるならば、そう難しいことではないが、それが真実であるかどうか・・・。 今、起きている現象は科学の手に負えるのかどうか。古来より、不思議な反響や残響のする場所はよく聖なる場所とされた。第三新東京市もそうなるか・・・・・。



「音楽は音が発生している時と、音の無い時の組み合わせから始まり、時間と空間を司る」

霧島教授の独白である。
市街から採取された音の分析結果より、そろそろ推論を導き出そうとしていた。
推論さえ十分なデータが出揃ってから、考える。それが霧島教授の思考作法だった。

とはいえ、あまりに範囲が広大すぎあまり良いデータが集まったとはいいかねた。

まるで成果がないわけではない・・・・・と、これは霧島研究室にとって、つまりは学問的に、のことだ。直接、使徒をどうこうするとはかけ離れた、「命名」のことだ。

無限音楽都市と化してしまった第三新東京市だが、その中で特に危険な、大規模な破壊活動を行いうるレベルの音を三つに絞り、それに各々名前をつけたのだった。
ビルをも砂塵に吹き散らしてしまう超音波が「ロプロス」
超強力な真空波、俗にいうかまいたちの怪獣版が「かすみぎり」
効果こそ遅いものの一度締めつければ確実な歪振重量波が「ケニアの蛇」

この三つが音の海の主だといえるだろう。まともにぶつかればエヴァとてやばい。マギに出現位置の計算をさせるのもこの三つに絞られた。あとは実物の洪水にさらされるよりは害のない・・・現在のところは・・・・レベルだ。耐えられないこともない。



さて、思考をすすめよう。


当初、赤木研究室を初めとする本部のあちこちが不可視の攻撃によって破壊されたのは・・・「渦輪現象」かとみていた。簡単に言うと空気の塊が飛んでいくことだ。
空気をそのまま攻撃の手段にしてしまう・・・・・これほど安上がりな武器はあるまい。 どこかに・・・これは本部内とは限らない、遠隔操作でそのような現象を引き起こせる能力を持っているのかも知れない、と考えられるためだ・・・・本体が、いると。

透明な化け物が本部内をうろつく・・というのは想像はしやすいが、残された状況からは
考えにくかった。物理的痕跡のみならず、気配としての足跡のようなものも感じられない。
もし、植物が専門の自分が感じ取れないとしても、行動学を修めフィールドワークの達者な助手たちがそれを見逃すはずもない。

が、本部停電の時点では空気はあくまで手段であり、「本体」だとは考えもしなかった。
空気を打ち出す不可視の本体の存在を予想していたのだが・・・・使徒というものは。

初めからそれを喝破していたのは、結局、マギだけだったということになる。
パターン「透明」の意味も今になってみれば頷ける。

「だとするなら・・・・本部内に出現しておきながら、市街に再び現れるというのは一体・・・・」
使徒の目的が侵攻、ネルフ本部の制圧だとすればおかしな話だ。最大の強敵、エヴァンゲリオンを倒すことも無人の状態であれば容易かったはずだ。何が目的なのか。
それとも、そのように行動する必然性があるのか。あるいは・・・・・神の気紛れか。

その方向で思考を進めていき、収集した音群に耳を傾けてみると・・・・・

「ふむ・・・・聞こえる部分はよいとして・・・」
聞こえない部分にひっかかるものを感じる霧島教授。

「ネルフ本部・・・・・」
これを使徒の制圧目的として考えず、単に地理的条件の一つを考えるとする。
そして、「音」から・・・・サウンドスケープを考えてみると・・・・

まず、地下にあることから全体的に静かである。それにくわえて気密性が高い。
本部内でいうならば、機能優先の人造物であることから、構造が単純で通りがよい。
騒々しい地上に比べてみれば、ずいぶんと平穏な・・・・音の卵でも生むならば外敵のいなさそうなここに・・・・・・・・「さて」

「いやいや、今回の使徒はべつに自分で音を造っているわけではない。あくまで外部のそれを真似しているにすぎない。なにせ、本体・オリジナルがないのだから・・・・・・・」

いいかけた霧島教授の脳裏に天啓の如く、一つの単語が閃いた。



「模倣(ミーメーシス)・・・・・・・・」



「音量は増大している点を考慮にいれるならば、無音の状態からわずかに。極小の音から
模倣は始められたはず・・・・・・・・・」

「他の音の邪魔のない完全な防音設備があり、しかも極小の音から始められる・・・」
人間の耳には聞こえないレベルの極小の音を用いた分析機材等々・・・・ここには山ほどある。しかもその性質上、気密性、防音性は最高だ。
それから、だんだんと大きな音の模倣を積み重ねていったのだとしたら・・・・・・・・

今までは市街へあがるまでの何重に及ぶ特殊装甲板の間をその身を響かせながら闇の中、
着々と進行していたということか。本当の姿を現すまでの。
聖書の中にある無敵の城塞のごとく。そびえたつ・・・・・音で造られた衛星軌道の塔。
皮肉なことだが、赤木博士と考えることがまるきり逆になってしまった。

ネルフ本部、そして第三新東京市を土台にし・・・・・・押し潰すつもりなのか。

植物が専門である霧島教授であるが、種から育つ大樹を想像することは出来なかった。
植物は模倣をしないからだ。

とにかく、これは誰にも止められないのか。人類の最後の切り札、エヴァンゲリオンにも。
なにせ相手の体がないのだ。倒しようがない。文字通り、空を切る。

葛城一尉も大変なことだ。同じ立場にあるものとして、霧島教授は同情した。



「しかし・・・・ニフのものをあのようにして使うとは・・・・意外だった」

ヴァイオリン作戦がうまくいくのかどうか、霧島教授には分からなかったが、その不屈の知性に敬意を表した。そして、また思考作業に深沈していった。あのような不自然な存在がいつまでも謳歌していられるほど、この世界は不完全に出来ているわけではない、と、教授は信じている。



最後の歌を・・・・・